8.律令国家の形成

「(病床の天智)天皇は、大海人が予測したごとく、皇子の後事を託したいといった。大海人は、ただちに病を理由にその提議をしりぞけ、同時に大政を皇后に附託し、大友皇子を後嗣に立てるように献言した。天皇の意中を看破しての適切な発言であった。

 大海人はその席上で、実兄にたいして、すぐに出家して、天皇のために功徳を修(おこ)ないたいという希望をのべた。その申し出がうけいれられた。天皇のもとを辞去した大海人は、内裏の仏殿の南においてひげを剃りおとし、宮廷の人々にきっぱりと出家の意志を明らかにした。またかれはその邸にそなえていた兵器類を官司にさしだした。 ( 中 略 ) 

 宮廷の人々のなかには、大海人の吉野入りを『虎に翼を著けて放てるなり』という風に論評するものがあった。その虎は、近江朝の檻を脱してみずからの命をすくっただけではなく、このとき以後の行動の自由をとりもどしたのである。」

(北山茂夫『大化の改新』1961年、岩波新書、P.213〜215)

●東アジアの動乱と国内の混迷



@ 海外情勢の緊迫化


 7世紀の内外情勢は非常に緊迫していました。

 外を見ると、618年に隋が滅び、(とう)が成立しました。唐はこののち、太宗(たいそう。李世民(りせいみん))による最初の繁栄期「貞観(じょうがん)の治(ち)」(627〜649) を迎えます。律令によって運営される強力な中央集権国家の成立は、朝鮮半島はじめ、わが国にも多大な影響を及ぼしました。

 唐は朝鮮半島北部にあった高句麗に、執拗に征討軍を送りました(645、647、648、658、661、666〜668)。さしもの強国高句麗も、668年に滅亡させられてしまいます。代わって朝鮮半島に勢力を拡大したのは新羅でした。いちはやく中央集権体制をととのえて国家体制を確立した新羅によって、676年、朝鮮半島が統一されます。


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A 国内情勢の混迷


  一方、国内に目を転じると、628年に推古天皇が亡くなり、蘇我蝦夷(そがのえみし。?〜645)と血縁の近い舒明天皇(じょめいてんのう。位629〜641)が即位します。舒明天皇が亡くなると、642年にその皇后である皇極天皇(こうぎょくてんのう。位642〜645)が即位します。推古天皇に続く2人目の女帝です。

 女帝の即位は、次の天皇即位までの中継ぎとしての性格が強いものでした。蘇我氏の血縁で、次の天皇候補者は2人いました。古人大兄王(ふるひとのおおえのおう。?〜645)と山背大兄王(やましろのおおえのおう。?〜643)です。古人大兄王は父が舒明天皇で、母は蘇我馬子の娘でした。ただし、山背大兄王は厩戸王(うまやとおう。聖徳太子)の子だったので、蘇我氏としては煙ったい存在だったのかもしれません。蘇我氏の血縁者だった厩戸王は馬子と共治しつつも、天皇家の権威を高める方針をとったといいますから。ついに643年、蘇我入鹿(そがのいるか。?〜645)は山背大兄王を斑鳩宮(いかるがのみや)に襲って、上宮王家(じょうぐうおうけ)一族を滅亡させるという挙に出ました。

 蘇我氏の邸宅は、天皇の居所飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)を見下ろす甘樫岡(あまかしのおか)の上にありました。『日本書紀』の記述がどこまで本当かわかりませんが、蘇我氏は権力を集中して、自らを天皇になぞらえるほどの振る舞いをしていました。蝦夷は自分の屋敷を上宮門(うえのみかど)、子を王子(みこ)、墓を大陵(おおみささぎ)と呼んだといいます。

 当時、海外情勢が緊迫の度を深めているにもかかわらず、蘇我氏の専横による国内のこうした混迷は非常に危険な状況でした。こうした時期に、留学生・留学僧の帰国が相次ぎます。632年に(みん)、640年に高向玄理(たかむこのくろまろ)・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)が帰国します。彼らは、唐の律令制度をはじめとする新しい知識や情報をわが国にもたらします。唐を手本にして官僚的中央集権国家を建設しよういう気運が高まり、中大兄皇子(なかのおおえのみこ。626〜671。父は舒明天皇、母は皇極天皇)や中臣鎌足(なかとみのかまたり。614〜669)らを中心に、反蘇我派グループが形成されていきます。


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●大化改新(たいかのかいしん)●



@ 乙巳の変(
いっしのへん。645)

 
645年の6月12日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)において、中大兄皇子や中臣鎌足らによって蘇我入鹿が暗殺されました。用意周到に計画されたクーデタ計画でした。父親の蝦夷は翌13日、自宅に放火して自殺してしまいます。こうして、蘇我本宗家は滅亡しました。この政変を、乙巳の変といいます。この時、厩戸王と蘇我馬子によって作られた『天皇記(てんのうき、すめらみことのふみ)』・『国記(こっき、くにつふみ)』が焼失してしまったといいます。


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A 大化改新

 
翌14日には早くも新政府が発足し、皇極天皇は同母弟の軽皇子(かるのみこ)に譲位しました。孝徳天皇(こうとくてんのう。位645〜654)です。皇太子には中大兄皇子、政策立案にあたる内臣(うちつおみ)には中臣鎌足、ブレーンの国博士(くにのはかせ。648まで設置)には僧旻と高向玄理、政策の実行にあたる左大臣には阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、同じく右大臣には蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)がそれぞれ就任しました。阿倍内麻呂は畿内の豪族を代表し、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我宗本家滅亡後の蘇我氏の代表でした。

 中大兄皇子はこのあと長らく皇太子の地位にとどまります。それは、乙巳の変が天皇になる野望のためでなかったことのアピールであるとともに、自由な立場で政治を行うためであったと理解されています。

 この年、元号を初めて制定して「大化」としました。12月には内陸にあった飛鳥板蓋宮から、海に近い難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に遷都しました。新政府の、政治課題が外交にあったことは明らかです。

 孝徳天皇時代の一連の諸改革を大化改新(たいかのかいしん)といいます。


 ◆複姓(ふくせい)

 大化改新政府の主要メンバーである阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)と蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)。どこで氏名(うじな)と名前を区切るのでしょう。

 
まずは、阿倍内麻呂。有力な豪族はいくつかの枝氏(えだうじ)に分かれており、阿倍氏のなかで有力だったのが阿倍内氏(あべのうちうじ)。したがって「阿倍・内(あべのうちの)、麻呂(まろ)」と名前を区切ります。蝦夷征討で有名な阿倍比羅夫(あべのひらふ)は、阿倍内氏とは違う阿倍引田氏(あべのひきたうじ)の出身なので、阿倍引田比羅夫ともよばれます。「阿倍・引田(あべのひきたの)、比羅夫(ひらふ)」です。こうした阿倍内氏、阿倍引田氏のような言い方を複姓(ふくせい)といいます。

 氏によっては、職掌や父方・母方の姓等までついてくる場合があります。たとえば、蘇我倉山田石川麻呂。蘇我倉氏(そがのくらうじ)は蘇我氏の一族で、財政(倉)を所管したので、このようによばれました。

 名前の方はどうでしょうか。蘇我倉山田石川麻呂は河内の石川地方に勢力を張り、のちに大和の桜井・飛鳥間の山田にも進出しました。だから「山田・石川麻呂(やまだのいしかわまろ)」なのです。

【参考】
・倉本一宏『蘇我氏−古代豪族の興亡』2015年、中公新書など 
  


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B 改新の詔(646)


  改新政府は、大化2年(646)年の元旦、4カ条にわたる政治方針を提示しました。柱になっているのは、唐の律令制度の導入でした。

 第1条は、公地公民制の実施です。すべての土地・人民は天皇の持ち物であるとして、私有地(田荘や屯倉)・私有民(子代や部曲)を廃止を宣言しました。

 しかし、公地公民制にもとづくこうした天皇による一元的支配の確立には豪族の抵抗が強かったのでしょう。公地公民の原則に反する制度の導入が、同時にうたわれています。大夫以上の上級役人には食封(じきふ。一定数の封戸を指定し、そこからの収入のあらましを与える制度)を支給する、というのがそれです。なお、下級役人には布帛(ふはく)を支給することにしました。

 第2条は、中央集権的な地方行政制度の整備です。京師(けいし。都)、畿内(きない。当時の首都圏)、国・郡、関所、交通制度(関所・駅伝制)などをつくることを決めました。

 第3条は、戸籍・計帳の作成、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)の実施です。

 第4条は、新税制の創設です。


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C 改新の詔の信憑性


 ところで、改新の詔は実際は出されなかったのではないか、と考える研究者もいます。それは、改新の詔を載せる『日本書紀』の記述に、大宝令(701年制定)を参照して潤色された部分があるからです。

 たとえば、地方制度の「国・郡・里」ですが、当時は「郡」という表記はなく、「」を使用していたことが藤原京跡から出土した木簡から判明しています。大宝令以降に使用される「郡」が、それ以前の改新の詔には書かれているのはおかしい、というわけです。また、班田収授法が改新の詔で制定されたかどうかも疑問でしょう。

 こうした疑問をかかえつつ、『日本書紀』が載せる改新の詔は原文そのままでないにしろ、実際に出されたと理解されています。


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●律令国家への道●



@ 中大兄皇子による敵対勢力の排除



 
こうして発足した改新政府は、しかし安定を欠いていました。

 中大兄皇子は、有力な皇位継承者の一人で、乙巳の変後出家して吉野に隠退していた古人大兄王を、謀反を企てたとして殺害します(645年)。

 ついで、改新政府を支えた阿倍内麻呂と蘇我倉山田石川麻呂の2人の重臣が亡くなりました。石川麻呂の場合は、中大兄皇子に謀反を疑われた上での自殺でした(649年)。しかし、石川麻呂に謀反の企ては濡れ衣であって、後に無実だったことがわかります。石川麻呂の発願によって造られたのが山田寺(やまだでら)です。

 ほどなく、孝徳天皇と中大兄皇子の間で対立が生まれました。政治の実権が中大兄皇子に握られていたことが不仲の原因だったのかも知れません。中大兄皇子が飛鳥へ都を戻すことを主張したところ、天皇が許しませんでした。しかし653年、中大兄皇子は母親(皇極)や弟(大海人皇子。おおあまのみこ)らを引き連れて飛鳥へ帰ってしまいます。官僚たちの多くも中大兄皇子にしたがったばかりか、間人(はしひと)皇后(中大兄皇子の同母妹)までもが夫を見捨てて難波の地を去ってしまいました。置き去りにされた孝徳天皇は、翌654年、失意のうちに難波で亡くなります。

 658年には、有間皇子(ありまのみこ。640〜658)が謀反の罪で絞刑(こうけい。縛り首による死刑)に処せられました。有間皇子は孝徳天皇の子で、中大兄皇子のライバルとして目をつけられることを恐れ、気が変になった振りをしていたといいます。しかし、有間皇子に蘇我赤兄(そがのあかえ。?〜?。石川麻呂の弟)という男が接近します。赤兄は、斉明天皇(さいめいてんのう。位654〜661。皇極天皇が再度天皇の地位についたもの。これを重祚(ちょうそ)といいます)と中大兄皇子の失政を言い立てます。これを聞いて赤兄に心を許した有間皇子は、謀反の計画を打ち明けました。しかし、皇子は突然捕らえられます。中大兄皇子の尋問に対し、有間皇子は「天と赤兄だけが知っている。私は何も知らない」とこたえました。有間皇子を排除するために蘇我赤兄が単独で策謀したのか、中大兄皇子が赤兄に指示したのか、その真相はわかりません。『万葉集』には行宮(あんぐう。天皇の仮の宮。当時、斉明天皇は紀伊牟婁(むろ)の温泉に行幸していました)へ護送される途上で詠んだ有間皇子の和歌が二首収められています。


 ◆有間皇子の歌

   
有間皇子自ら傷(かな)しみて松が枝(え)を結べる歌二首

  磐代
(いはしろ)の浜松が枝を引き結び真幸(まさき)くあらば亦(また)かへり見む
  家
(いへ)にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕(くさまくら)旅にしあれば
  椎
(しい)の葉に盛る


 斎藤茂吉による和歌の解説を、参考までに載せておきます。

「この歌は行宮へ送られる途中磐代(今の紀伊日高郡南部町岩代)海岸を通過せられた時の歌である。皇子は(658年11月)11日に行宮から護送され、藤白坂で絞(こう)に処せられた。御年19。 ( 中 略 ) 

 一首の意は、自分はかかる身の上で岩代まで来たが、いま浜の松の枝を結んで幸を祈って行く。幸に無事であることが出来たら、二たびこの結び松をかえりみよう、というのである。松枝を結ぶのは、草木を結んで幸福をねがう信仰があった。 ( 中 略 )
 
(二首目は)家(御殿)におれば、笥(銀器)に盛る飯をば、こうして旅を来ると椎の葉に盛る、というのである。笥をば銀の飯笥とすると、椎の小枝とは非常な差別である。 ( 中 略 ) (「椎の葉」は)椎の小枝を折ってそれに飯を盛ったと解していいだろう。」(斎藤茂吉『万葉秀歌』1938年(1968年改版)、岩波新書、P.85〜89)


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A 白村江
(はくそんこう。はくすきのえ)の戦い


 660年に唐・新羅の連合軍によって百済が滅亡しました。百済と友好関係にあったわが国は、百済の遺臣鬼室福信(きしつふくしん。?〜663)から人質の王子豊璋(ほうしょう)の送還と救援要請を受けます。

 百済再興を支援することによって朝鮮半島におけるわが国の地位を確保し、また国内政治の動揺を鎮める目的もあったのでしょう、直ちに朝鮮出兵が決定されました。
 しかし、661年に筑紫朝倉宮(あさくらのみや)に下向したところ、斉明天皇が崩御してしまいます。中大兄皇子は皇太子のまま政務を行いました。即位式を挙げずに執政することを称制(しょうせい)といいます。中大兄皇子の称制は、661年から668年まで続きます。

 さて、662年、豊璋に百済王位を継承させると、翌663年8月、白村江(現在の錦江下流)において唐・新羅の連合軍と戦いました。しかし、わが国の水軍は劣勢で、この戦いで大敗を喫します。余豊璋は高句麗へ逃亡してしまいました。この白村江の敗戦により、わが国は朝鮮半島を完全に放棄せざるを得なくなり、新羅・唐の来襲に備えることになりました。

 壱岐・対馬・筑紫には防人(さきもり)を置いて、沿岸防備を固めました。 また、都への緊急連絡のため、各地に烽火(とぶひ)を設置しました。烽火というのは、のろしによって敵襲を知らせるものです。また、見晴らしのよい西日本各地の山頂には、逃げ城的用途をもった朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)を築造しました。朝鮮の山城築造の影響を受けたもので、土塁や石垣で築かれました。大野城・基肄(きい)城(筑紫)、金田城(対馬)、屋島城(讃岐)、高安(たかやす)城(大和)などや、各地の神籠石(こうごいし)の名で呼ばれる施設がそれです。

 中でも、最大の防衛施設は、大宰府北方に築かれた水城(みずき)でした。「城」は土塁のような防御施設のことで、幅75mの広い壇の上に幅15m、高さ7m程の堤を約1kmの長さにわたって築きました。「水」は土塁の前面に掘り下げた幅60m、深さ4mの巨大な堀のことです(石松好雄・桑原滋郎『大宰府と多賀城』1985年、岩波書店)。大宰府側の小さな堀にくらべて、防御正面の博多湾側の堀の巨大さには目を奪われます。新羅・唐の侵攻を、中大兄皇子らがいかに恐れていたかがわかります。15世紀半ば、当地を訪れた連歌師の宗祇(そうぎ)は、水城の遺構を眺めて「いはばよこたはれる山のごとし」と評したといいます。

 しかし、新羅と唐が攻めてくることはありませんでした。

 668年、新羅と唐に攻められて、高句麗が滅びました。翌669年、わが国は唐との関係を修復すべく、河内鯨(かわちのくじら)を「平高句麗慶賀使(へいこうくりけいがし。高句麗滅亡を慶賀する使節)」として唐へ派遣しています。そして、678年には唐の干渉を退けた新羅によって朝鮮半島が統一されます。


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B 近江朝廷の政策


 667年、中大兄皇子は、都を飛鳥からさらに内陸の近江大津宮(おうみおおつのみや)に遷しました。これは、外交よりも内政に重点を置く政策への転換、言い換えれば、律令国家の建設事業が本格化したことを意味します。なお、琵琶湖畔に都を選定した理由の一つには、外敵の来襲時に湖上交通を利用して北陸へ緊急避難する、という保険的な意味合いもあったと考えられます。

 翌668年、中大兄皇子は即位して天智天皇(てんじてんのう。位668〜671)となります。

 同年、中臣鎌足を中心に、近江令(おうみりょう。22巻)が制定されました。わが国最初の令(行政法のこと)です。ただし、現存していません。その内容は不明ですが、671年に施行されたと伝えられています。

 670年には、わが国最初の全国的戸籍が作成されました。これを庚午年籍(こうごねんじゃく)といいます。貴族、公民、部曲、奴婢まで記載し、氏姓の根本台帳として永久保存が決められました(他の戸籍は30年保存)。ただし、現存していません。畿内・東海道・山陽道・南海道・西海道で実施されたのは確実と見られています。

 なお、天智天皇とともに律令国家建設に中心的役割を担ってきた中臣鎌足が、669年に死去します。天智天皇は鎌足に大織冠(たいしょくかん)と藤原(ふじわら)の姓を与え、その功績に報います。阿武山古墳(あぶさんこふん。大阪府)の被葬者が鎌足ではないかと考えられています。その後、鎌足は多武峰(とうのみね。奈良県の談山神社)に改葬されたといいます。


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C 天武・持統朝の政治


 天智天皇亡きあと、皇位継承の争いが起こりました。672年の壬申(じんしん)の乱です。

 天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)が吉野(奈良)で挙兵すると、これに美濃・尾張・大和の豪族が加担しました。そして、天智天皇の子大友皇子(おおとものみこ)ら近江朝廷を打倒したのです。乱は大海人皇子の勝利に終わるとともに、残存していた大豪族が没落して天皇の権威が高まる結果となりました。

 ついで、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)へ遷都し、翌673年に即位して天武天皇(てんむてんのう。位673〜686)となりました。天皇は、天皇の権威を高めるとともに、律令制を着々と整備していきました。

 天武天皇は大臣を置かず、高市(たけち)・草壁(くさかべ)・大津(おおつ)らの皇子や皇后によって政権の中枢をおさえました。こうした政治を皇親政治(こうしんせいじ)といいます。皇親政治は、律令体制が完成するまで続きました。

 天皇号が使用されるようになったのも、天武天皇の時代からだと言われます。従来使用してきた「大王」という称号は、数ある王の中で相対的に優位にある者を意味します。それに対し、「天皇」は絶対的な君主を意味します。飛鳥浄御原宮に近い飛鳥池(あすかいけ)遺跡から677年の年紀をもった木簡と一緒に、「天皇」と記載された木簡が出土しました。これが、現在のところ、最も古い「天皇」号の記載例です。また、宮廷歌人の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ。?〜?)らが「大君(おおきみ)は神にしませば」というフレーズを使って、天皇の神格化に寄与したのもこの頃です。


  大君
(おほきみ)は神にしませば天雲(あまぐも)の雷(いかづち)の上に廬(いほり)せるかも                                            柿本人麻呂
(持統天皇は現人神(あらひとがみ)にましますから、天に轟く雷の名を持っている山(雷岳(いかづちのおか)。奈良県高市郡明日香村雷)のうえに行宮を御造りになりたもうた、の意。斎藤茂吉による)


 また、天武天皇の飛鳥浄御原宮を賛美した次の歌も有名です。作者の大伴御行(おおとものみゆき。?〜701)は壬申の乱に際し、天武天皇方の軍を指揮した大将軍です。亡くなってから右大臣を贈られました。大伴旅人の伯父にあたります。


 大君は神にしませば赤駒
(あかこま)のはらばふ田井(たゐ)を京師(みやこ)となしつ
                                        大伴御行



  ◆日本の国号

 「日本」の国号は大宝律令(701年)で法的に定まりました。和訓で「ひのもと」「やまと」、音読みで「にっぽん」「にほん」と称しました。それまで中国からは「倭(わ)」という蔑称で呼ばれ、自らは「やまと(大倭・大和)」とか「おおやしまのくに(大八洲国)」などと称していました。 『旧唐書(くとうじょ)』によれば、648年の日本の使者が「倭国の名を嫌って日本と改めた」とあります。蔑称であることを嫌ったのでしょう。

 「日本」の呼称が国号として定まったのは、国家建設を意欲的に進めた天武朝のころではないかと推測されています。しかし、「日本」という国号が対外的にも本格的に用いられるようになるのは、大宝律令が制定された翌702年の遣唐使からです。当然、この時の使節には「自分たちは倭人ではなく、日本人なんだ」という対外的に強い国家意識があったでしょう。そうであるなら、702年に遣唐使として彼の地に渡った山上憶良が故郷を偲んで詠んだ次の和歌は、よみ方を再考すべきかも知れません。「日本」を従来の「大倭・大和」と同じ訓の「やまと」とよまずに、「にっぽん」や「にほん」と音読みしたかも知れませんから。


     
山上臣憶良、大唐に在りし時、本郷を憶ひて作れる歌

   いざ子ども早く日本へ大伴
(おおとも)の御津(みつ)の浜松待ち恋ぬらむ

※原文は「去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武 」(『万葉集』巻一・63)


 さて、天武天皇は681年、律令の編纂に着手しました。飛鳥浄御原令(22巻)です。近江令同様、令のみで律はありませんでした。完成して施行されるのは689年(持統朝)のことです。

 684年には八色の姓(やくさのかばね)を制定し、豪族の身分秩序の再編成しました。上位から真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の8姓です。皇族に関係の深い者を上位にランクし、上位4姓が上級貴族を出す姓とされました。

 天武天皇はこれら以外にも 川島皇子(かわしまのおうじ)・刑部親王(おさかべしんのう)らに『帝紀』・『旧辞』の記録を命じ国史の編纂を開始したり、銭貨として富本銭(ふほんせん)を鋳造したり、藤原京の造営にも着手していました。しかし、諸事業の完成を見ないうちに686年、崩御してしまったのです。

 天武天皇の事業を引き継いだ皇后は、686年から689年までの皇后称制を経て、690年に即位しました。持統天皇(じとうてんのう。位690〜697)です。

 持統天皇は、飛鳥浄御原令の戸令(こりょう)に基づいて戸籍の編纂を命じました(689年)。690年に作成されたこの戸籍を庚寅年籍(こういんねんじゃく)といいます。この戸籍に基づき、班田使(はんでんし)が派遣されました(692年)。この時から、全国的な班田収授法が始まったと考えられています。

 694年には、 飛鳥浄御原宮から北方の藤原京(奈良県橿原市)へ遷都しました。藤原京は、わが国最初の中国風の都でした。天皇の代替わりごとの転々と遷都するのではなく、律令国家にふさわしい恒久的な都を建設しようする意図がうかがえます。こうして、天皇制と官僚制に基づく中央集権的な律令国家は、ようやく完成へと近づいたのです。


◆藤原京の都市プラン

 恒久的な都として建設されたはずの藤原京は、持統・文武・元明天皇3代16年間(694〜710)で早くもその役目を終えてしまい、平城京にとって代わられます。その理由はどこにあるのでしょう。一つ考えられるのは、律令国家の完成を誇示する都としては、藤原京には不備があると考えられたからではないでしょうか。

 藤原京は京域に大和三山をとり込み、その中央に宮城があります。宮城を都の中央に置く、こうした設計プランは、北魏の洛陽城や『周礼』の記述を参考にしたものではないかと考えられています。つまり藤原京は、律令国家唐の都城制をモデルにして造営されたものではないのです。

 669年の「平高句麗慶賀使」派遣後、702年までの約30年間、遣唐使は派遣されませんでした。藤原京は、遣唐使を派遣しなかった空白期に造営されたため、長安城とは大きく異なる都市プランになってしまったのでした。

 702年、久しぶりに派遣された遣唐使が、わが国に最新情報をもたらしました。その情報によって、長安城にモデルにした新たな設計図が引かれ、宮城を都城の北端におく平城京が造営されたのでしょう。また、平城京は朱雀大路によって左京・右京に分けられ、東西の市が設けられています。これは、701年に成立した大宝令に整合する都城でもあったわけです。

 藤原京の京域は、従来は東西2km、南北3km程度のものと考えられていましたが、数次にわたる発掘調査で思いの外広大な京域を有していたことがわかりました。1996年に東西5.3km、2004年に南北4.8kmあったことが判明しました。藤原京は、十条十坊にも及ぶ条坊をもつ巨大都市だったのです。


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