7.飛鳥文化

「(厩戸王は)橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと。用明天皇)の第二子(みこ)なり。母の皇后を穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ))と曰す。 ( 中略 ) 

生(あ)れましながら能く言(ものい)ふ、聖智(ひじりさとり)有(ま)します。壮(をとこさかり)に及びて、一たびに十人の訴を聞きて勿失能辨(あやまちたまはず)。兼ねて未然(ゆくさき)のことを知りたまふ。且つ内教(ほとけののり)を高麗の僧恵慈(えじ)に習ひ、外典(とつふみ)を博士覚煤iかくか)に学び、並びに悉(ことごと)に達(さと)りたまひぬ。」

(『日本書紀』1932年、岩波文庫、P.116)

●文化の特色●



 6世紀末から7世紀中ごろのわが国の文化を飛鳥文化(あすかぶんか)といいます。飛鳥文化には次のような特色が見られます。


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@ 飛鳥を中心とした局所的文化


 奈良県の飛鳥地方を中心とした狭い地域に限定された文化でした。


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A 南北朝文化の影響


 当時の中国の王朝は隋ですが、飛鳥文化は、それ以前の南北朝文化の影響を受けています。また、高句麗や新羅など、朝鮮半島の文化の影響も見られます。それは、遣隋使以前に倭国にやってきた渡来人の活躍が大きかったことを示しています。


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B 文化の世界的広がり


 飛鳥文化には国際的性格が見られます。法隆寺の柱に見られる中央部のふくらみをエンタシスといい、ギリシアの建築法が伝わったものです。同じようなものに、忍冬唐草文様(にんどうからくさもんよう)があります。忍冬はスイカズラという植物です。


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C 初の仏教文化


 仏教は貴族を中心に受容されました。当時の仏教に求められたのは、この世の苦から逃れるための哲学的思索ではなく、病の治癒や父母の孝養など現世利益を期待した呪術としての役割と、古墳に代わる権力の象徴としての役割でした。

 各豪族は競って氏寺(うじでら)を建立しました。蘇我馬子の発願による飛鳥寺(あすかでら。法興寺)、厩戸王(うまやとおう。のち「聖徳太子」と呼ばれる)の発願によるという四天王寺斑鳩寺(いかるがでら。法隆寺)、秦河勝(はたのかわかつ)の発願による広隆寺(こうりゅうじ)などがあります。

 素朴な神祇信仰しか知らなかった人びとにとって、黄金色に輝く異国の仏は、いかにも御利益がありそうに見えたことでしょう。当時は、大王でさえ板葺きの宮殿に住んでいた時代(乙巳(いっし)の変で蘇我入鹿が暗殺された宮殿は、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)でした)です。それまで見たこともない瓦葺きでカラフルな巨大な寺院に、キラキラした異国の仏が鎮座しているのです。居並ぶ僧たちによって読まれる経典も、異国情緒をかもし出すのに十分だったでしょう。おそらく、中国語のお経を、リズムをつけて歌うように唱えた(これを声明(しょうみょう)といいます)でしょうから、視覚的にも、聴覚的にも未知の体験だったことでしょう。

 豪族たちが仏教の表面的な華やかさに飛びついたのに対し、厩戸王は仏教の教義について深い理解を持っていたといわれます。自ら『三経義疏(さんぎょうのぎしょ)』を著して、仏教の教義を推古天皇に講義したとも伝えられています。

 三経というのは法華経(ほけきょう)・維摩経(ゆいまきょう)・勝鬘経(しょうまんきょう)の三つの経典のことで、義疏は注釈書のことです。これらは大乗仏教で尊重されるべき経典でした。維摩経・勝鬘経は維摩居士(ゆいまこじ)や勝鬘夫人といった在家(社会人)信者に仏教の教えを述べたものです。

 しかし、仏教の受容をめぐっては、豪族間で対立がありました。

  物部氏は、大連(おおむらじ)の姓(かばね)をもつ伝統的な勢力です。磐井(いわい)の乱を鎮圧したことに示されるように、軍事を職掌とする一族です。日本古来の神祇信仰を守っていこうという立場をとり、外来宗教である仏教の受容に関しては否定的でした。

 一方、蘇我氏は大臣(おおおみ)の姓をもつ新興勢力です。斎蔵(いみくら。神庫)・内蔵(うちつくら。大王の財産)・大蔵(おおくら。政権の財産)の三蔵(みつくら)を管理する経済官僚で、現在でいうなら財務大臣に相当しましょう。当時、文字を書いたり計算ができる人材は、渡来人以外、多くはいませんでした。渡来人と結んで朝廷の財政権を握った蘇我氏は、渡来人が信仰する仏教の受容を積極的に推進しました。

 両者の対立は587年に、物部守屋(もののべのもりや。?〜587)の滅亡、蘇我馬子(そがのうまこ。?〜626)の勝利という形で決着をみました。この時、若い厩戸王は四天王(仏法の守護神)に「仏敵物部氏」の滅亡を祈願し、蘇我氏と一緒に戦いに臨みました。祈願成就の礼として建立したのが、四天王寺だといわれます。 

 なお、テラツツキ(キツツキのこと)という鳥が、今でも寺院をつついて柱や板壁に穴をあけているのは、排仏派の守屋の生まれ変わりだからだという俗信があります。


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●建 築●



 従来の掘立柱(ほったてばしら)建築に代わり、礎石建(そせきだ)ち・瓦葺(かわらぶ)きなどの新技法が大陸から伝わり、寺院建築に用いられました。この時代の代表的な建築は、607年に創建された法隆寺(斑鳩寺(いかるがでら))です。法隆寺は、厩戸王の発願によって造られたとされる、世界最古の木造建造物です。世界遺産にも指定されました。

 西院伽藍(がらん)の中門から北を臨むと、左手(西側)に五重塔、右手(東側)に本尊の仏像を安置した金堂(「金」色の仏像を安置した御「堂」なので「金堂」といいます。後世になると、ご「本」尊の仏像が安置されている御「堂」という意味で「本堂」と呼ぶようになりました)が見えます。この配置を、法隆寺式伽藍配置と言います。一番奥の大講堂と一番手前の中門は歩廊(回廊)によってつながっており、五重塔と金堂をぐるりと取り囲んでいます。

 そもそも、寺院では仏舎利(ぶっしゃり。釈迦の遺骨)を納めた塔が礼拝の対象でした。法隆寺より古い飛鳥寺(塔を中心に3金堂をもつ飛鳥寺式伽藍配置)や四天王寺(塔と金堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置)では、伽藍の中心に塔が配置されていました。それが、法隆寺では塔と金堂が併置される形になっています。これは、信仰の対象が、塔(仏舎利)から少しずつ金堂(仏像)に移っていく過渡期の姿を表しています。

 さて、法隆寺建築の細部には、卍崩しの勾欄(まんじくずしのこうらん)、人字形割束(ひとじがたわりづか)、雲斗(くもと)、雲形肘木(くもがたひじき)などが見られます。これらは、中国南北朝時代の影響を受けたものです。 


◆法隆寺再建・非再建論争(ほうりゅうじさいこん・ひさいこんろんそう)

 『日本書紀』には、670年に法隆寺が焼失したとの記事があります。これに対し、現在の法隆寺は金堂の様式の古さから、創建当初のままだとする「非再建説」が唱えられました。ところが、1939(昭和14)年、現在の法隆寺(西院伽藍)の中心から南東約200mの地点を発掘したところ、金堂跡と塔跡が出土しました。これを若草伽藍(わかくさがらん)といいます。この若草伽藍の発見により、現在の法隆寺は焼失後に建てられたとする「再建説」が有力となりました。

 2001(平成13)年、五重塔の心柱が年輪測定法によって594年伐採のものと判明すると、論争が再燃しました。しかし、その後金堂・中門の部材も測定したところ、金堂の部材は667年・668年伐採、中門の部材は699年伐採とする測定結果が出ました。

 さらに、2004(平成16)年には、若草伽藍の西側で、7世紀初めの彩色された壁画片約60点が出土しました。全体の絵柄は不明でしたが、破片は1,000℃以上の高温にさらされていることがわかり、創建法隆寺の焼失を裏づける有力な証拠となったのです(『朝日新聞』2004年12月2日付け朝刊)。 


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●彫 刻●



 飛鳥時代の仏像彫刻は、金銅像(銅で造った像の上に金でメッキしたもの)と木像です。木像のほとんどはクスノキ材で造られています。クスノキは防虫剤をつくる際の原料になる木です。防虫剤の「樟脳」の「樟」はクスノキという漢字です。飛鳥仏のように、肉付きの悪い直線的な像を彫る際に、適した木だと言われます。

 この時代の仏像は、口元がかすかに笑っているように見えます。ギリシア彫刻を連想させるその笑いを、「アルカイック=スマイル(古拙(こせつ)の笑い)」と言います。

 中国の南北朝文化や朝鮮半島文化の影響を受け、様式的には北魏様式と南朝様式に二大別されます。


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@ 北魏様式(鞍作鳥一派)


 左右対称を基調に造られています。奥行きが短縮されており、側面から見ると肉付きの悪い印象を受けますが、それは、正面からの礼拝・鑑賞を意識して造られているためです。真正面から見ることが前提であるため、たとえば法隆寺金堂釈迦三尊像の釈迦如来坐像の螺髪(らほつ。縮れた髪の毛)は前面にしか付けられていませんし、その両側に立つ脇侍像(きょうじぞう)も背面がなく何らの処理もされていません。

 衣文(えもん)はパターン化された文様のように見えます。杏仁形(きょうにんぎょう)の目(杏(あんず)の種の中にある核(仁)のような形のような目。アーモンドの形のようにまぶたの上下が同じような弧を描いている形です)、仰月形(ぎょうげつぎょう。三日月の弦が上側になっているような形)の唇などに特徴があります。

 こうした特徴をもつ北魏様式の仏像からは、男性的で厳しい印象を受けます。

 代表的な仏像としては、渡来系仏師の鞍作鳥(くらつくくりのとり)の作になる飛鳥寺釈迦如来像(別名「飛鳥大仏」。わが国最古の仏像ですが、当初のものは一部分しか残っていません。金銅像)や法隆寺金堂釈迦三尊像(厩戸王の死の翌年(623年)、その菩提を弔うためにつくられました。金銅像)、厩戸王の等身大の像といわれる法隆寺夢殿の救世観音像(くせかんのんぞう。木像、クスノキ)などがあります。


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A 南朝様式(非鞍作鳥派)


 全体的に丸みを帯び、自然な人体表現がされています。衣文の表現も自然に見えます。この様式の仏像からは、女性的で柔和な印象を受けます。法隆寺百済観音像(くだらかんのんぞう。木像、クスノキ)や、中宮寺・広隆寺の半跏思惟像(はんかしゆいぞう。ともに木像)が代表的です。

 半跏思惟像というのは、右足を左ふとももの上にのせ(半跏踏下坐(はんかふみさげざ)といいます)、やや右に頭をかしげて右手で頬杖(ほおづえ)をつき、思索に耽(ふけ)っている姿を表現した仏像です。中宮寺のもの(頭部が双髻(そうけい)。もとどりが、二つ並べたお団子のように見えます)はクスノキ材ですが、広隆寺のもの(頭部に宝冠(ほうかん)をいただき、「宝冠弥勒」と呼ばれます)はマツノキ材でつくられています。

 広隆寺半跏思惟像の作風が新羅の仏像(ソウル国立中央博物館蔵金銅弥勒菩薩像)に酷似しているということ、飛鳥時代の仏像はクスノキ材が一般的なのに広隆寺のものはマツノキ材だということ、広隆寺が渡来人の秦氏の氏寺であることなどから、広隆寺の半跏思惟像は朝鮮半島からの渡来仏の可能性が高いと考えられています。


◆指を折られた弥勒菩薩(みろくぼさつ)

 「指を折られた弥勒菩薩(広隆寺半跏思惟像のこと。寺伝では弥勒菩薩像)」と新聞・雑誌が大きく報道したのが1960(昭和35)年のこと。拝観に来ていた京大生が、周囲に人がいないのを幸いに、その美しいお顔に頬ずりしようとして、右手の薬指を折ってしまったというのです。何しろ、「東洋の思惟」を代表するとされた広隆寺の半跏思惟像です。しかも国宝(戦後指定第1号)。

 恐ろしくなった学生は、三つに折れた指を持ち帰り、途中の草むらに捨ててしまいました。しかし、事件後学生は自首し、その自供から捨てられた薬指も発見され、元通りに修復されました(修復の際、この像の表面には木屎漆(こくそうるし。漆に木粉を混ぜた塗料)が塗られていたことが判明するという副産物がありました)。

 この事件により、広隆寺半跏思惟像の名前とその美しさは、あまねく世間に知れ渡ったのでした。


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●絵 画・工 芸・その他●



@ 絵 画
(法隆寺玉虫厨子)


 絵画作品としては、法隆寺玉虫厨子(たまむしのずし)の須弥座絵(しゅみざえ)・宮殿扉絵(くうでんとびらえ)があります。製作技法については、漆絵説(うるしえせつ)、密陀絵説(みつだえせつ。密陀僧という一酸化鉛の絵の具で描いたという説)、漆絵・密陀絵併用説があります。

 宮殿部の正面扉には向かい合って立つ「武装神将像」、背面には「霊鷲山(りょうじゅせん)浄土図」、左右側面扉には2体ずつ立つ「菩薩像」がそれぞれ描かれています。

 須弥座部の正面には二人の僧侶と二天が仏舎利を供養している「舎利供養図」、背面には「須弥山(しゅみせん)世界図」がそれぞれ描かれています。須弥座部の両側面には、ともに、釈迦の前世の善行物語である本生譚(ほんじょうたん。ジャータカ)が描かれています。左側面のものを「捨身飼虎(しゃしんしこ)図」、右側面のものを「施身聞偈(せしんもんげ)図」といいます。この両図が、特に有名です。



《 捨身飼虎図
(しゃしんしこず) 》


 
飢えた子連れの虎に遭遇した薩た王子(さったおうじ。「た」は「土+垂」。釈迦の前世)が、自分の身体を虎に与えて、これを救ったとする慈悲の行動を描いています。

 1枚の絵の中に、王子が衣服を脱ぐ場面、崖から身を投じる場面、虎に食われる場面が時間を追って描かれており、この描き方を異時同図法(いじどうずほう)といいます。


《 施身聞偈図
(せしんもんげず) 》


 
羅刹(らせつ。鬼)がとなえる「諸行無常(しょぎょうむじょう)、是生滅法(ぜしょうめっぽう)」の偈(げ。仏の徳をたたえる詩)の続きを聞くため、雪山童子(せつざんどうじ。釈迦の前世)が身を投じる図です。

 自らの命と引き替えることを約束に、偈の後半部「生滅滅已(しょうめつめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)」を聞いた童子はその偈を近くの木に刻み込み、身を投じます。羅刹はたちまち帝釈天(仏法の守護神)に身を変え、童子を救います。



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A 工 芸


《 法隆寺玉虫厨子
(ほうりゅうじたまむしのずし) 》


 
厨子(ずし)というのは、仏像などを納める箱形の仏具です。玉虫厨子にはもと阿弥陀三尊像が納められていましたが、盗難に遭い、現在は仮の金銅製観音像が納められています。装飾の透彫(すかしぼり)金具の下に玉虫の羽(翅鞘(ししょう))が貼られていました。これに使用された玉虫の羽はほとんどなくなっていますが、完成当初は少なく見積もっても9083枚(すなわち4542匹の玉虫を使用)あったと推定されています。これが玉虫厨子の名称の由来となりました。

 玉虫厨子は、宮殿(くうでん。厨子の古称)部・須弥座(しゅみざ)部・台脚部から成ります。入母屋造(いりもやづくり)・錣葺(しころぶき)の宮殿部は、飛鳥建築を偲(しの)ぶミニチュアの工芸品としても貴重です。



《 法隆寺獅子狩文様錦
(ほうりゅうじししかりもんようきん) 》


 1本の木を中心に、ペガサス(天馬)に乗った4人の騎士が左右対称に配され、4頭の獅子を射る様が図案化されています。周囲に描かれている連珠文(れんじゅもん)も、馬上で後方を振り向いて矢を射る退却射法(パルティアン=ショット。パルティアは国名。パルティアン=ショットには「捨て台詞(ぜりふ)」という意味もあります)も、西アジアの影響を受けています。ただし、製作は唐代です。


《 中宮寺天寿国繍帳
(ちゅうぐうじてんじゅこくしゅうちょう。別名「天寿国曼荼羅」)



 
厩戸王の死後、妃の一人橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、厩戸王を偲ぶため王が往生した天寿国の有様を描こうと思い立ち、推古天皇が采女(うねめ、女官)たちに刺繍させたものといわれます。1274(文永11)年、中宮寺の尼僧信如が、法隆寺の蔵の中でその断裂を発見して以来、中宮寺に伝わってきました。

 天寿国繍帳は、わが国最古の刺繍作品です。刺繍糸の保存状態が悪い上に、刺繍であるがゆえに生の絵画のような生き生きとした線は見られません。また、鎌倉時代の補修断裂が混じったまま貼り合わせてあるため、絵柄にも統一性がありません。しかし、端正で力強い六朝様式の技法を感じ取ることはできます。下絵を描いたのは東漢末賢(やまとあやのまけ)・高麗加西溢(こまのかせい)・漢奴加己利(あやのぬかこり)という工人たちです。「東漢」・「高麗」・「漢」という名前から推測されるように、いずれも渡来人系の人びとです。

 この繍帳には全部で400字の銘文が刺繍されていました。失われたその銘文は『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』によって全文を知ることができます。そこには、厩戸王が常々口にしていたという「世間虚仮、唯仏是真(世間は虚仮(こけ)なり。ただ仏のみ是れ真なり)」という言葉が記されています。「世の中は虚しいものだ。ただ仏の教えのみが真実だ」という意味です。



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B その他


 
602年に百済僧の観勒(かんろく)が暦法を、610年に高句麗僧の曇徴(どんちょう)が紙・彩色・墨の技法を、それぞれわが国に伝えたとされています。わが国を訪れた朝鮮半島の僧たちは、文化大使の役割も担っていたのです。


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