●文化の特色● |
●建 築● |
◆法隆寺再建・非再建論争(ほうりゅうじさいこん・ひさいこんろんそう) 『日本書紀』には、670年に法隆寺が焼失したとの記事があります。これに対し、現在の法隆寺は金堂の様式の古さから、創建当初のままだとする「非再建説」が唱えられました。ところが、1939(昭和14)年、現在の法隆寺(西院伽藍)の中心から南東約200mの地点を発掘したところ、金堂跡と塔跡が出土しました。これを若草伽藍(わかくさがらん)といいます。この若草伽藍の発見により、現在の法隆寺は焼失後に建てられたとする「再建説」が有力となりました。 2001(平成13)年、五重塔の心柱が年輪測定法によって594年伐採のものと判明すると、論争が再燃しました。しかし、その後金堂・中門の部材も測定したところ、金堂の部材は667年・668年伐採、中門の部材は699年伐採とする測定結果が出ました。 さらに、2004(平成16)年には、若草伽藍の西側で、7世紀初めの彩色された壁画片約60点が出土しました。全体の絵柄は不明でしたが、破片は1,000℃以上の高温にさらされていることがわかり、創建法隆寺の焼失を裏づける有力な証拠となったのです(『朝日新聞』2004年12月2日付け朝刊)。 |
●彫 刻● |
◆指を折られた弥勒菩薩(みろくぼさつ) 「指を折られた弥勒菩薩(広隆寺半跏思惟像のこと。寺伝では弥勒菩薩像)」と新聞・雑誌が大きく報道したのが1960(昭和35)年のこと。拝観に来ていた京大生が、周囲に人がいないのを幸いに、その美しいお顔に頬ずりしようとして、右手の薬指を折ってしまったというのです。何しろ、「東洋の思惟」を代表するとされた広隆寺の半跏思惟像です。しかも国宝(戦後指定第1号)。 恐ろしくなった学生は、三つに折れた指を持ち帰り、途中の草むらに捨ててしまいました。しかし、事件後学生は自首し、その自供から捨てられた薬指も発見され、元通りに修復されました(修復の際、この像の表面には木屎漆(こくそうるし。漆に木粉を混ぜた塗料)が塗られていたことが判明するという副産物がありました)。 この事件により、広隆寺半跏思惟像の名前とその美しさは、あまねく世間に知れ渡ったのでした。 |
●絵 画・工 芸・その他● |