この鑑三の予言はあたっていた。それまでより幾十倍、幾百倍もの大きな「東洋平和のための戦争」が起り、戦地の人々を苦しめ、みずからも悲惨な体験をしたことは、まだ我々日本人の記憶に新しい。
●北清事変(ほくしんじへん)● |
19世紀末、欧米列強の帝国主義政策はますます強まりつつありました。そうした中、『眠れる獅子』と恐れられていた清国が、日清戦争の敗北で弱体ぶりを露呈すると,列強は競って中国本土への進出をはかったのです。列強は「租借地」という名目で、中国沿岸地域の分割を清国政府に要求し、鉄道の敷設権や鉱山の開発権などを次々と獲得していきました。こうして、列強による中国本土の「恥ずべき奪い合い」(ネルーの言葉)が本格化していったのです。
中国国内では、政府の弱体ぶりに対しては国内改革を求める声があがり、列強の侵略行為に対しては外国人排斥を求める運動がおこりました。
@ 義和団(ぎわだん)とは
外国人排斥運動の中心となった義和団は、白蓮教(びゃくれんきょう。もともとは弥勒菩薩(みろくぼさつ)を信仰する)系の宗教的な秘密結社の一つです。しかし、まとまった教義があったわけではありません。各地の首領たちが思い思いに、『西遊記』でお馴染みの孫悟空(そんごくう)や猪八戒(ちょはっかい)、『三国志演義』に登場する豪傑張飛(ちょうひ)など、雑多な英雄たちを神としてまつり、義和拳(ぎわけん)と称する拳法を演武することによって人集めをしたのです。そうして形成された各地の拳法集団の集合体が義和団でした。
A 義和団事件(1899〜1900)
義和団による外国人排斥運動は、山東省からはじまりました。同省は、ドイツが膠州湾(こうしゅうわん。山東省西南部の湾)を租借してから、ドイツの勢力範囲となっていました。
外国勢力を象徴するものの一つがキリスト教でした。山東省ではキリスト教を邪教とみなし、その撲滅をはかる仇教運動(きゅうきょううんどう)が急激に広がりました。仇教とは「邪教(キリスト教)を懲らしめる」という意味です。義和団は仇教運動の主体として、教会に放火したり、宣教師やキリスト教徒を殺害したりするなどの暴行を繰り返しました。
これに、外国資本主義によって生業を奪われた労働者や、貨幣経済の浸透によって貧困の度を強めた農民など、不平不満をもつ多くの民衆が加わり、義和団の運動は急速に拡大していきました。そして、中国北方の諸省や満州(中国東北部をしめる東北三省を指す旧称)にも波及していったのです。
義和団は「扶清滅洋(ふしんめつよう。清朝をたすけて、西洋を滅ぼせ)」をスローガンに北京・天津に向かって進撃し、北京の公使館地区や天津の租界(そかい)を包囲してしまいました。
列強の中国進出に反対して、義和団の運動を中心におこった民衆反乱を、義和団事件といいます。
B 北清事変(1900)
こうした事態に対し、日本・アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・ロシア・イタリア・オーストリアの列強8カ国は、暴動鎮圧のために、清国北部に共同出兵することを決めました。義和団に同調した清国政府は連合軍に宣戦布告をしましたが、連合軍は7月中旬に天津を、8月中旬には北京をそれぞれ占領して事態は収束しました。
1900(明治33)年の義和団事件に対し、列国連合軍が出兵して鎮圧したこの戦争を、北清事変(ほくしんじへん)と呼んでいます。
《 北京議定書(辛丑条約(しんちゅうじょうやく))の調印(1901)》
翌1901(明治34)年、前記8カ国にオランダ・スペイン・ベルギーを加えた計11カ国と清国政府は、北京議定書(辛丑条約)を結びました。列国が清国政府に認めさせた内容は、次の通りです。
(1)賠償金4億5,000万両(テール)の支払い
(2)列国軍隊の駐留
なお、賠償金は中国国民1人につき1両として計算されました。この額は当時の清国歳入の5倍に達する巨額なものでした。
●悪化する日露関係● |
南下政策をとるロシアは、北清事変をきっかけに満州に大軍を派遣しました。事変解決後も治安維持を名目に占領を続け、満州から撤兵しませんでした。そのため、満州と地続きの朝鮮半島への進出をはかる日本との間に緊張が高まりました。
@ 朝鮮半島では親露派が台頭
日本が進出をもくろむ朝鮮半島では、日清戦争の結果、清国勢力が後退しました。代わって、朝鮮国内では親日派と親露派が対立して政争がつづいていました。
1895(明治28)年、親露派を一掃し、大院君を中心とする親日派内閣をつくらせるため、駐朝公使三浦梧楼(みうらごろう。1846〜1926)は、とんでもない事件をおこしました。三浦に指揮された日本兵や壮士たちが朝鮮王宮に乱入し、国王高宗の妃で親露派の閔妃(びんひ、ミンビ。1851〜1895)を殺害し、証拠隠滅のためにその死体に石油をかけ焼却するという蛮行に及んだのです(閔妃殺害事件、乙未の変(いつびのへん))。
事件に驚愕した日本政府は、三浦ら関係者を召還・逮捕しました(ただし、のちに証拠不十分として免訴か無罪になりました)。
この事件により、朝鮮の人びとの対日感情は極度に悪化し、朝鮮各地で反日運動が起こりました。
翌1896(明治29)年、国王は密かにロシア公使館に移り、ロシア公使館内に朝鮮政府を置きました(露館播遷(ろかんはんせん))。親露派政権が誕生してロシアの影響力が急速に強まる一方、日本の勢力は後退せざるをえませんでした。
1897(明治30)年、朝鮮は国号を大韓帝国(だいかんていこく)と改めました。韓国も皇帝を称することにより、中国の皇帝や日本の天皇と同等の地位にあることを主張し、日本に対抗する姿勢を示したのです。
A 日露協商派と日英同盟派の対立
こうした情勢の中で、日本政府の内部では、伊藤博文・井上馨ら日露協商派と山県有朋・桂太郎ら日英同盟派の二つに意見が分かれました。
日露協商派は大国ロシアとの妥協をやむなしとし、満州をロシアの勢力範囲、朝鮮半島を日本の勢力範囲として相互に認め合うことによって、両者の衝突を避けようと考えました(満韓交換論)。
一方、日英同盟派は、アジアにおける権益をロシアの進出によって侵されることを警戒するイギリスと手をむすび、ロシアの勢力拡張に対抗すべきと考えました。
B 日英同盟協約の締結(1902)
結局、日露協商派を抑えた第1次桂太郎内閣は、1902(明治35)年、日英同盟協約をむすぶとともに、日露開戦を想定して軍備拡張をおしすすめました。
日英同盟協約のおもな内容は次の通りです。
(1)イギリスの中国における権益、日本の中国・朝鮮における権益をそれぞれ
保護するために共同行動をとる。
(2)日英いずれかが第三国と交戦したときは、他の締約国は厳正中立を守る。
(3)日英どちらか一方が二国以上と交戦したときには、他の締約国は参戦義務
を負う。
世界に冠たる大英帝国との同盟を、多くの日本人は欣喜雀躍して迎え入れました。そうした狂騒ぶりを、夏目漱石(なつめそうせき。1867〜1916)は、
「斯(かく)の如(ごと)き事に騒ぎ候(そうろう)は恰(あたか)も貧人が富家(ふけ)と縁組(えんぐみ)を取結(とりむす)びたる喜(うれ)しの余り鐘(かね)太鼓(たいこ)を叩(たた)きて村中かけ廻(まわ)る様なものにも候(そうら)はん」(1902年3月15日中根重一宛て書簡、『漱石全集』第22巻)
(こんなことに大騒ぎするのは、貧乏人が金持ちと縁組みして、嬉しさのあまり鐘や太鼓をたたいて
村中を駆け回るようなものではないか)
と皮肉りました。キリスト教徒の内村鑑三(うちむらかんぞう。1861〜1930)は、日本がイギリスという仲間を得て、さらに大きな略奪行為に走ろうとしていると、日英同盟を批判しました。
●国内世論の動き● |
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや ( 以下略 ) (『明星』1904年9月)
この詩を読んだ詩人で評論家の大町桂月(おおまちけいげつ。1869〜1925)は、晶子を非国民と非難しました。これに対し晶子は、夫鉄幹(てっかん)宛ての手紙形式をとった「ひらきぶみ」(『明星』1904年11月)の中で、次のように反駁(はんばく)しました。
「少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候(そうろう)」
「当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏(おそれ)おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候(そうら)はずや」
「まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。( 中略 ) 私はまことの心をまことの声に出(い)だし候とより外(ほか)に、歌のよみかた心得ず候」
おなじく大塚楠緒子(おおつかくすおこ。1868〜1931)は、「まことの心」を表明しづらい当時の風潮を
かくて御国(みくに)と我夫(わがつま)と
いづれ重しととはれれば
たゞ答へずに泣かんのみ
お百度まうであゝ咎(とが)ありや(「お百度詣(おひゃくどもうで)」、『太陽』1905年)
(日本と夫のどちらが大事かと問われたら、私は答えず泣くことしかできません。お百度詣で夫の無事を
祈る女心は罪なのでしょうか)
主戦論に傾く世論のもとでは、「誰も戦争(いくさ)ぎらひに候」という率直な声をあげることには勇気が必要だったのです。
こうした反戦論・非戦論を表明した人びとは少数派で、主戦論にくらべると世論への影響力は弱いものでした。
●日露戦争● |
@ 戦争のあらまし
満州への進出を狙うロシアに対し、満州を日本の利益範囲外とするかわりに、日本政府は韓国に対する日本の軍事的・政治的優位権をロシアに認めさせようと考えました。しかし、交渉は成立せず、1904(明治37)年2月4日、日本は御前会議でロシアとの国交断絶と開戦を決定しました。2月10日に宣戦布告し、日露戦争がはじまりました。
日本は総力をあげて戦いました。しかし当時、ロシアは国内で専制政治に対する反対運動が高まり、十分な力を発揮できませんでした。
日本陸軍は1905(明治38)年1月、「屍、山を作す(しかばねやまをなす)」(乃木希典(のぎまれすけ)の漢詩の一節)という多大な犠牲・損害をだしながらも激戦の末、ロシアの海軍基地、旅順(りょじゅん)を占領しました。
同年3月には「日露戦争最大の会戦」奉天(ほうてん)の戦いで、ロシア軍に辛勝しました。この戦闘に参加した日本軍25万に対し、ロシア軍は35万。両軍ともに10万をこえる死傷者を出したといわれています。なお、奉天の戦いに勝利した3月10日は、その後、陸軍記念日とされました。
また、同年5月には、途中二度も赤道を通過して、ヨーロッパからはるばる航海してきたロシアのバルチック艦隊を、日本の連合艦隊が日本海海戦で撃破しました。戦局は日本に有利に展開していました。
しかし、もはや日本には、財政的にも軍事的にも、戦争を継続する力はありませんでした。国力がほぼ底をついていたのです。
そこで日本政府は、日本海海戦勝利の直後、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルト(1858〜1919)に講和の斡旋を申し入れました。
A 戦争の費用 −日露戦争の戦費は借金によってまかなわれた−
巨額の戦費は、国内においては増税と内債募集により、国外においてはイギリス・アメリカなどでの外債募集により、まかなわれました。
日露戦争の軍事費は17億2,121万円で,当時の国家予算数年分に相当しました。そのうち13億1,354万円は内債6億2,395万円、外債6億8,960万円に依存しました。つまり、日露戦争の費用のほとんどは、借金でまかなわれたのです。そのため、巨額の内外債の元利払いの負担は、その後長く財政を圧迫することになりました。
また、政府は戦費調達のため、増税と新税徴収を決めた非常特別法を出しました。その対象は、地租・所得税・営業税や砂糖・醤油・酒・タバコなど大衆消費税全般におよびました。こうした非常特別税は1904年・1905年には1億3,633万円でしたが、賠償金が得られなかったため戦後も継続され、ほぼ解消されたのは1910(明治43)年ころでした。
国民は増税・新税に加えて、倹約・貯蓄奨励と国債購入を強制されました。物資の徴発と増税のために物価は跳ね上がり、兵馬の徴発によって農業労働者や役畜が減少したために農業生産は打撃をうけました。
B 戦争の犠牲 −日清戦争と日露戦争の比較−
下表は日清戦争と日露戦争を比較したものです。日清戦争にくらべ、日露戦争がいかに規模の大きな戦争であったか、いかに甚大な人的・物的犠牲を国民に強いた戦争であったかがわかるでしょう。
そのため、戦没者を追悼する忠魂碑の建設について、内務省が「一町村一基」とする建設自粛指示を出したにもかかわらず、人びとは多数の忠魂碑を建造しました。これらの慰霊碑は、戦争の悲惨な記憶を人々の心に末永く刻む役割を果たしました。
|
日清戦争 |
日露戦争 |
比較 |
臨時戦費 |
2億48万円 |
15億2,321万円 |
7.6倍 |
艦隊 |
59,088t |
258,000t |
4.4倍 |
動員兵力 |
240,616人 |
1,088,996人 |
4.5倍 |
戦死者 |
13,488人 |
118,000人 |
8.8倍 |
C ポーツマス講和会議(1905)
1905(明治38)年8月10日、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介により、アメリカ東海岸の軍港ポーツマスにおいて、約1カ月にわたる日露間の講和会議が始まりました。日本側全権委員は小村寿太郎外相と高平小五郎(たかひらこごろう。1854〜1926)駐米公使、ロシア側全権委員はウィッテ(1849〜1915)元蔵相とローゼン駐米大使(前駐日公使)でした。
小村は、講和の絶対条件として
(1)朝鮮半島における日本の優越
(2)遼東半島の租借権、及びハルビン・旅順間鉄道の日本への譲渡
をロシアに示し、事情が許せば
(3)軍費の賠償
(4)樺太(サハリン)の割譲
を要求するよう本国政府から訓令されていました。
(1)(2)についてはロシア側も受諾しましたが、(3)(4)については強硬に拒絶しました。皇帝ニコライ2世(1868〜1918)がウィッテに対し、賠償金支払い・領土割譲を断固拒絶するよう指示していたからです。大国ロシアには、まだまだ戦争を継続する余裕がありました。ただし、ロシア国内では革命運動が進展し、国民の間には厭戦ムードが高まっていました。
日本政府は、賠償金支払い・領土割譲の二つを放棄しても講和を成立させることが絶対急務と判断しました。日本軍はすでに多数の将校を欠損し、弾薬・食糧も底をつこうとしている状態でした。軍事上からも財政上からも、日本には戦争継続の余力は残っていなかったのです。
8月29日の最終会議では、ウィッテから賠償金支払いの一切拒否と、南樺太割譲に同意という回答が提出されました。次に小村から、賠償金支払い要求を撤回するという修正案が出され、会議は急転妥結しました。
こうして、講和条約は9月5日に調印されました。
《 ポーツマス条約の内容 》
ここで、ポーツマス条約によって、ロシアが日本に対して認めた権益の内容を確認しておきましょう。この条約により、日本は大陸進出の足場を得ることになりました。
(1)韓国に対する日本の指導・監督権
(2)清国からの旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道とその付属権利
(3)北緯50度以南の樺太(サハリン)と付属の諸島を譲渡
(4)沿海州とカムチャツカの漁業権
D 日比谷焼打ち事件(1905)
国力がすでに限界に達し、戦争遂行がもはや不可能だったにもかかわらず、日本政府は国民にその真相を知らせませんでした。ロシアが日本の国情を知ることによって戦争が泥沼化し、戦争終結の機会を失うのをおそれたのです。ともかく、講和をまとめることが急務でした。
しかし、国力の真相を知らされず、連戦連勝の報のみ聞かされ続けて重い負担や犠牲に耐えてきた国民は、賠償金もなく領土割譲も南樺太のみという「屈辱的」な講和条約に憤懣(ふんまん)を隠しきれませんでした。
条約調印日の9月5日には、東京の日比谷公園で講和反対の国民集会が開かれました。しかし、集会を解散させようとした警官と民衆が衝突、数万の民衆が暴徒化しました。彼らは内相官邸や講和を支持した国民新聞社、神田駿河台にあるニコライ堂(ロシア正教会)などを襲いました。焼き払われた警察署2、交番219、教会13、民家53、電車は15台に及びました(数字は隅谷三喜男『大日本帝国の試煉』1974年、中公文庫、P.317による)。
政府は緊急勅令によって戒厳令(かいげんれい。天皇大権のひとつ。非常事態に際して軍隊に治安権限を与えたもの)を布告し、軍隊の出動により暴徒を鎮圧しました。
全国各地でも講和反対集会が開かれ、神戸や横浜でも焼打ち事件が起こりました。
E 日露戦争の影響
最後に、日露戦争の影響をいくつか箇条書きであげておきましょう。
・日露戦争の勝利によって「白人不敗の神話」が打ち砕かれ、日本の国際的地位が向上しました。列強によって半植民地・植民地とされたアジアの地域では、日本の勝利に希望を見いだし、中国・インド・トルコなどにおいて民族運動・独立運動が活発化しました。
・列強は日本の台頭に警戒の目を向けました。すでに日清戦争に際し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1859〜1941)は、日本人ら黄色人種の脅威を強調していました。これを「黄禍論(こうかろん)」といいます。日露戦争後、ことあるごとに、この人種差別的言説がささやかれ、アメリカやオーストラリアなどでは黄色人種の移民排斥がおこりました。
・日本の大陸進出が積極化しました。しかし、満州権益を独占しようとしたため、そこに割り込もうとするアメリカとの関係が悪化しました。
・資本主義がいちだんと発達しました。軍備を拡張する必要上、鉄鋼業・造船業などの重工業部門が発達しました。