「明治42年(1909)10月26日、伊藤博文はハルビン駅に到着し、待ち受けていたロシアの大蔵大臣ココツェフと車中で会談した。ついで露国守備隊を閲兵し、各国領事と握手をかわして、さらに日本人歓迎者のほうに向かおうとして数歩、歩を進めたとき、参列者の後方から躍り出たものがあり、短銃を伊藤に擬して数弾を連発した。倒れようとする伊藤を周囲のものが支え、車内にいれて横臥させた。意識ははっきりしていて、加害者が朝鮮人である旨を伝えると、ただ一言「馬鹿な奴じゃ」といった。駆けつけた医師が応急手当をしたが、顔色はしだいに蒼白となり、30分ののち息をひきとった。ときに69歳であった。」
●韓国併合への道● |
@ 第1次日韓協約(1904)
日本は、日露戦争の勝利によってつかんだ大陸進出拠点の確保に努めました。
日露戦争中の1904(明治37)年に結んだ第1次日韓協約では、日本が推薦する財政・外交顧問を韓国(大韓帝国)政府に置き、重要な案件は事前に日本政府と協議することを認めさせました。
A アメリカ・イギリスと協議
日本は韓国を保護国(条約によって、外交関係の処理を他国に委ねて保護される地位にある国家)とすることをアメリカ・イギリス両国に認めさせるため、1905(明治38)年、アメリカと非公式に桂・タフト協定を結び、イギリスとは第2次日英同盟協約を改定しました。
《 桂・タフト協定(1905) 》
桂太郎首相とタフト(1857〜1930)アメリカ大統領特使が交換した秘密覚書です。タフトはこのとき陸軍長官で、のちにアメリカ27代大統領に就任する人物です。協定の内容は、アメリカは日本の韓国に対する保護・監督権を、日本はアメリカのフィリピン統治を相互に承認する、としたものです。
《 第2次日英同盟協約(1905) 》
イギリスが日本の韓国保護権を承認し、日本は同盟の適用範囲をインドにまで拡大することを認めました。ポーツマス条約締結前に改訂されたため、ロシアを牽制(けんせい)対象としていましたが、1907(明治40)年の日露協商・英露協商の成立にともない、実際の牽制対象はドイツになりました。
B ロシアとの関係
ポーツマス条約(1905)で日本は、ロシアに韓国の指導権を認めさせました。日露戦争後、ロシアは西アジア・バルカン方面に転進したため、利害の衝突がなくなった日本とはむしろ協調するようになりました。日露協約を4次(1907、1910、1912、1916)にわたって結び、両国の良好な関係は、ロシア革命(1917)でロマノフ朝ロシアが倒壊するまで継続しました。
第1次(1907、明治40):
日本は南満州・韓国、ロシアは北満州・外蒙古を勢力とする
(アメリカの満州進出への警戒のため)
第2次(1910、明治43):
満州の現状維持(アメリカの鉄道中立化案阻止のため)
第3次(1912、明治45):
内蒙古のうち東を日本、西をロシアの勢力範囲とする
(辛亥革命に伴う外蒙古の独立要求等の事態に対応するため)
●日本の満州経営● |
@ 南満州鉄道株式会社
1906(明治39)年、旅順に関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端の租借地)を統治する関東キ督府(かんとうととくふ)がおかれ、日本の満州進出が本格化しました。
そして、大連には、半官半民(出資金1億円ずつ)の国策会社、南満州鉄道株式会社(通称「満鉄」)が設立されました。満鉄は、長春・旅順間の旧東清鉄道に加えて、撫順(フーシュン)炭坑・鞍山(アンシャン)製鉄所などの諸事業も経営しました。
鉄道は、いわば満州経営の動脈です。鉄道があれば満州の特産品(特に大豆・石炭)を大連(ロシアによって街並みが建設された自由貿易港)まで運び、そこから各国へ輸出することができます。また、諸国から輸入する工業製品(特に日本の綿製品)を、満州各地に運び入れることにより、広大な市場開拓をはかることもできます。日本は、鉄道を保有することによって、満州経営の足がかりを得たのです。
A アメリカとの関係
日本の南満州権益の独占に対し、満州市場に大きな関心をもつアメリカが「門戸開放」をとなえて反対しました。
1905(明治38)年には、アメリカの鉄道王ハリマンが、長春・旅順間の鉄道とその付属物件の日米共同経営を日本に提案しましたが、日本は拒否しました。
ついで1909(明治42)年、アメリカの国務長官ノックスが、満鉄の中立化を列国に提案しました。アメリカは他国を誘って日本に圧力をかけることにより、満州経営に割り込もうとしたのです。日本はロシアと協調してノックス案も拒否しました。
こうした南満州権益をめぐる対立が原因で、日米関係は急速に悪化しました。そのため、1906(明治39)年にはサンフランシスコで日本人学童の入学拒否事件がおこりました。また、1913(大正2)年にはカリフォルニア州で日本人の土地所有を禁止するなど、日本人移民の排斥運動が激化しました。
清国内でも、南満州権益の返還を求める声が強くなりました。そこで日本は、第2次日英同盟協約(1905)および4次にわたる日露協約(1907〜1916)による日英・日露協調を背景に、南満州の権益を国際社会に承認させました。
B 辛亥革命(しんがいかくめい)おこる(1911)
1911(明治44)年10月10日、中国では清朝の専制と異民族支配(清朝は、少数の女真族が多数の漢民族を支配してきた異民族支配の国家)に反対して、長江中流の武昌(ぶしょう)で武力蜂起がおこりました(これを武昌起義(ぶしょうきぎ)といいます。蜂起した10月10日は、のちに双十節(そうじゅうせつ)とよばれます)。
翌年には清朝最後の皇帝、宣統帝(せんとうてい。溥儀(ふぎ))が退位し、孫文(そんぶん。1866〜1925)を臨時大総統とする中華民国(ちゅうかみんこく)が成立しました。孫文は、1905年に日本で中国革命同盟会を結成し、民族主義・民権主義・民生主義(土地所有を平均化すること)の「三民主義」をとなえて、中国民衆を率いた革命指導者です。
清朝が倒れ中華民国が成立したこの一連の動きを、辛亥革命といいます。
その後孫文は、軍閥の袁世凱(えんせいがい)から圧力を受けて、大総統の地位を袁に譲りました。袁は一旦権力を握ったものの、帝政をおこなおうと試みて失敗し、失意のうちに亡くなりました。これ以降の中国国内は、列国から支援を受けた地方軍閥政権が各地に割拠して勢力を争い、抗争を繰り返すという不安定な政治情勢になりました。
日本の軍部等は、中国のこうした状況につけこんで、南満州権益の拡大を図ろうと、中国への軍事干渉を主張しました。しかし、日本政府は、国内の財政状況や列強の意向等を考慮して、しばらく静観する立場をとりました。