61.日清戦争
「朝鮮は、ずっとむかしから中国の従属国であった。( 中略 )

 中国の苦境につけこんだ日本は、ふたたび朝鮮問題をもちだして、中国に朝鮮を共同の保護のもとにおくことに同意させた。気の毒な朝鮮は、二つの国の従属国になってしまったのだ。これは関係者のだれにとっても、まったく満足できない状態であることはあきらかだった。やがて紛争が起るにきまっていた。( 中略 )

 1894~5年の中日戦争(日清戦争)は、日本にとっては朝飯前の仕事であった。その陸海軍は新式であったのにたいして、中国のそれは旧式で、老朽していた。日本は連戦連勝して、中国にたいして、日本を西洋列強と同等の地位におくところの条約(下関条約)の締結を強要した。朝鮮の独立は宣言されたが、これは日本の支配をごまかすためのヴェールにすぎなかった。中国はまた、旅順港をふくむ遼東半島、台湾、および若干の他の諸島との割譲を迫られた。

 ちいさな日本にたいする、この中国の惨敗は、世界をおどろかせた。西洋列強が、極東におけるこの強国の抬頭(たいとう)をよろこんだはずはない。中日戦争の最中から、列国は日本が、中国本土のいかなる港湾を併合することにも同意しないと警告していた。」

(J.ネルー著、大山聰訳『父が子に語る世界歴史3』1966年、みすず書房、P.210)


●日本の大陸政策●



① 主権線と利益線


 山県有朋(やまがたありとも)首相は、1890(明治23)年12月6日の施政方針演説で、「主権線」と「利益線」という特異な言葉を使いました。この二つの概念は山県個人の独創ではなく、山県がウィーン大学のシュタインから教授された「権勢疆域(けんせいきょういき)」「利益疆域(りえききょういき)」を、わかりやすい言葉に置き換えたものです(原田敬一『日清・日露戦争・シリーズ日本近代史③』2007年、岩波新書、P.52)。

 具体的には、「主権線」は国境のこと。「利益線」は、「主権線」を守るために密接な関係がある区域のことで、この場合には朝鮮半島を指します。

 山県は、「主権線」だけでなく「利益線」も保護する必要があり、「利益線」を守るためには莫大な軍事費が必要だ、と主張したのです。


《 山県演説の意義 》


 山県の演説の意義は、外征も可能とする軍備拡張路線を明確に示した点にあります。

 後述するように、「利益線」は、日清戦争で北は朝鮮半島、南は台湾(下関条約で日本の植民地となりました)の二つとなりました。日清戦争以降、国内の指導者の間では、北進論と南進論が主張されることとなりました。そして、アジア・太平洋戦争に敗北するまで、大日本帝国は南北両方面に植民地と勢力圏を拡大するため、とめどもなく軍事力を拡大していくのです。


《 利益線の行き先としての朝鮮問題 》


 さて、日朝修好条規(1876)は日本が朝鮮に押しつけた不平等条約でしたが、その中で朝鮮が「自主独立の国」であることをうたいました。清国と朝鮮との宗主国・属国関係を断ち切れれば、日本は清国の圧力を気にせず、朝鮮進出の一歩を築くことができます。

 しかし、朝鮮を属国と扱う清国の宗主権を否定したわけですから、この朝鮮問題が日清対立の火種となりました。


《 福沢諭吉の『脱亜論(だつあろん)』 》


 1885(明治18)年3月16日、『時事新報(じじしんぽう)』紙上に福沢諭吉の『脱亜論』という社説が発表されました。福沢は、欧米列強のアジア侵略を近代化によって阻止するべきである、と説きました。

 しかし、なかなか近代化が進まない朝鮮・中国に業を煮やした福沢は、朝鮮・中国を文明化が進まない「悪友」と断じました。そして、朝鮮・中国と連携する道を捨て、日本は欧米列強側に立つべし、と主張したのです。この考え方を「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」といいます。


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② 朝鮮支配をめぐる日清の対立


 朝鮮の実質的支配を目指す日本は、朝鮮に対する宗主権を主張する清と対立の溝を深めていきました。


《 壬午事変(じんごじへん。1882) 》


 日本が朝鮮を開国させてから、朝鮮国内では日本と結んで朝鮮の近代化を進めようというグループが台頭してきました。国王高宗の外戚閔氏(びんし)一族です。これに反対したのが国王の父大院君(たいいんくん。大院君は国王の父としての尊称)でした。

 1882(明治15)年、大院君を支持する軍隊が反乱をおこし、これに呼応した民衆が日本公使館を襲撃しました。この事件を、壬午事変(または壬午軍乱)といいます。

 日清両国が出兵し、反乱は鎮圧されました。仁川(じんせん)の済物浦(さいもっぽ)で日朝間に済物浦条約が結ばれ、日本側に賠償金が支払われ、日本は公使館の駐兵権を獲得しました。

 しかしこの事件以降、閔氏政権は、日本から離れて清国に接近するようになりました。


《 甲申事変(こうしんじへん。1884) 》


 清に接近した閔氏政権を事大党(じだいとう)とよびます。事大とは「大(=清国)に事(つか)える」という意味で、弱者が強者につかえることをいいます。これに対し、日本と手を結んで朝鮮の近代化を進めようとした金玉均(きん・ぎょくきん)・朴泳孝(ぼく・えいこう)らの親日改革グループを独立党といいます。

 独立党は1884(明治17)年、清仏戦争(しんふつせんそう)での清国敗北を、政権奪取の好機ととらえました。独立党は日本公使館の支援を受け、クーデタを断行しましたが、清国軍の来援によって失敗しました。金玉均らは日本に亡命し、朝鮮内の親日派は一掃されました。この事件を甲申事変といいます。

 事件後、日朝間に漢城条約(かんじょうじょうやく。1885)が結ばれ、朝鮮が日本に謝罪し賠償金が支払われました。


《 天津条約(てんしんじょうやく。1885) 》


 壬午軍乱・甲申事変により、朝鮮支配権をめぐる日清開戦の危機が迫りました。この危機を回避したのが、1885(明治18)年に締結された天津条約(てんしんじょうやく)です。

 天津条約は、日清両国軍の朝鮮撤兵を取り決めた条約です。また今後、日清が朝鮮半島に出兵することがある場合には、相互に事前通告することを定めました。

 天津条約締結後、朝鮮に対する影響力の拡大をめざす日本政府は、対清戦争に向けて軍備の増強を進めました。


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●日清戦争●



① 甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)おこる

 
 農民たちが心の支えにした民衆宗教を、「東学(とうがく)」といいました。西学(キリスト教)に対する造語です。東学は没落両班(ヤンパン)であった崔済愚(チェジュウ。さいせいぐ)が、儒教・仏教・民間宗教等を取り入れて創唱した宗教です。その特色は、人の平等性を強調した点にありました。

 1894(明治27)年1月、全琫準(チョンボンジュン。ぜんほうじゅん)を指導者として、悪政と外国の侵略に反対する武装蜂起が始まりました。3月、布告文を発して民衆の参加を呼びかけると、大勢の農民が合流して農民戦争の様相をみせはじめました。これを甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)とよびます。

 甲午農民戦争は、かつて「東学党の乱」とよばれました。しかし、戦争に参加した東学信奉者より悪政に反対する農民の数の方がはるかに多く、また「東学党の乱」「東学の乱」などと称すると、事件の本質が「宗教集団の暴動」と誤解されかねません。よって、こうした誤解を招く呼称は、現在使用されなくなっています。

 さて、清国は朝鮮政府からの要請をうけ、反乱制圧のために出兵しました。清国が天津条約にしたがって出兵を日本に通知すると、日本も清国に対抗して出兵しました。これを見て農民軍は急いで朝鮮政府と和解しましたが、日清両国が朝鮮の内政改革をめぐって対立を深めると、両者間に緊張した空気が流れました。


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② 条約改正が戦争突入のはずみに 


 1891(明治24)年にシベリア鉄道の建設に着手したロシアは極東に進出し、さらに中国東北地方を目指しました。東北地方には遼東半島(りょうとうはんとう)があり、そこにはロシアが獲得を熱望した不凍港(ふとうこう。旅順・大連)があるからです。

 こうした状況下、終始日本の条約改正要求に反対してきたイギリスが、突如、治外法権の撤廃と関税率の引き上げを認めてもよいと言い出してきました。アジアに多くの植民地をもつイギリスにとってロシアの南下は脅威であり、その動きを牽制するため、条約改正という好餌(こうじ)で日本の利用をはかったのです。(「60.条約改正」の項を参照)。

 青木周蔵は


 「英人は、日清を朝鮮の北端もしくは全部に置き、身自らは労せずして露国の南侵を防ぐに意あり」


と推察しましたが、イギリスが利用できる駒は日本の方でした。

 日本にとっても朝鮮半島を防衛する上で、ロシアの南下は脅威でした。イギリスと日本の利害は一致しました。

 こうして1894年7月16日、日英通商航海条約が調印され、治外法権が撤廃されました(税権回復は1911年)。日本は、イギリスの好意的支持を得たことを背景に、日清戦争に突入するのです。


 ◆日清戦争は草鞋(わらじ)で戦った

 1890(明治23)年3月28日から4月5日にかけて、愛知県知多半島付近において陸海軍連合大演習が実施されました。ところが、兵士たちの多くは、ふだん靴など履いたことがありません。すぐに靴擦(くつず)れをおこしてしまい、思うように行動することができませんでした。「足が痛くて戦闘に参加できなかった」ではお話にもなりません。本番の日清戦争では、この問題にどう対処したのでしょうか。

 これには、国立公文書館アジア歴史資料センターのホームページ「描かれた日清戦争~錦絵・年画と公文書 ~」(https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/topics/index.html)が参考になります。「トピック1.日本兵の履物」という項立てに載っている錦絵を見ると、何と、陸軍の歩兵たちは足袋(たび)に草鞋(わらじ)、海軍の水兵 たちは足袋や裸足(はだし)で戦っているではありませんか。

 洋装の軍服に対し、足元が足袋・草鞋というのは、あまりにもちぐはぐな印象を受けます。しかし、兵士たちが着用していた足袋・草鞋等は、軍用品として支給されたものでした。つまり、大日本帝国陸海軍は、日清戦争を戦い抜くために、窮屈な軍靴(ぐんか)よりも、当時の日本人がはき慣れた草鞋・足袋等の方がすぐれていると判断したのでした。


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③ 戦争の経過


 日英通商航海条約の調印3日後の7月19日、清国に最後通牒(さいごつうちょう)を送りました。

 日清戦争は日本側の先制攻撃によってはじまりました。7月25日の豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)の奇襲を経て、日本は8月1日、清国に宣戦布告しました。

 用意周到に計画・準備を整えていた日本軍は、各地の戦闘で次々と勝利をおさめていきました。陸軍は9月16日、朝鮮内の軍事拠点平壌(へいじょう)を占領し、海軍も翌17日、黄海海戦(こうかいかいせん)で李鴻章の北洋艦隊に勝利し、黄海の制海権を確保しました。
 
 平壌の戦い・黄海海戦の勝利で、戦争の勝敗はすでに決していました。日本軍の戦争目的は朝鮮への支配強化にあったわけですから、清国軍を朝鮮半島から駆逐したこの段階で、当初の戦争目的は達成されたはずでした。

 ところが10月下旬、第1軍は朝鮮・清国間の国境である鴨緑江(おうりょくこう)を渡河して中国に侵入し、第2軍は遼東半島に上陸して翌11月には旅順・大連を占領したのです。


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④ 戦争目的が変化


 日本軍の中国本土への侵入は、戦争目的が朝鮮支配権の争奪から、清国分割へと変化したことを意味します。

 翌1995(明治28)年2月22日、日本軍が北洋艦隊の根拠地である威海衛(いかいえい)を攻略して遼東半島を完全に制圧すると、清国は講和を決意するに至るのです。

 そもそも、日本政府が掲げた戦争目的は「朝鮮の独立」にあったはずでした。目的が達成された段階で戦争を続ける意味はなかったはずです。

 後述しますが、講和条約で日本は莫大な賠償金と中国領土の割譲を清国に要求しました。賠償金は戦争に費やした実費で十分なはずですし、そもそも中国に領土割譲を求めること自体、筋が通りません。日本は遼東半島ばかりか、占領もしていない台湾やその周辺の澎湖諸島(ほうこしょとう)の割譲まで清国に要求しました。

 日本は「利益線」拡大のために、北は朝鮮半島から遼東半島への進出、南は台湾・澎湖諸島から中国福建省への進出を目論んだのです。この後、日本国内では、北進論と南進論が議論されることになります。

 9月の時点ですでに勝敗が決していたにもかかわらず、伊藤首相と陸奥外相は、旅順・大連を占領するまでは列強の講和調停には応じないとする強硬方針を決定していました
(注)。つまり、中国から遼東半島を奪取するまでは、戦争を終わらせる気がなかったのです。日本は遼東半島領有を「清国が朝鮮に内政干渉しない永久の担保とするため」と強弁しましたが、この強硬姿勢がのちに三国干渉を招くことになります(後述)。


(注)日本側は次のような講和条件(甲案)を準備していました。 (1)清国は朝鮮の独立をみとめ、かつ朝鮮の内政に干渉しない永久の担保として、旅順口および大連湾を日本に割与すること。(2)清国は日本に軍費を償還すること。(3)清国は欧州各国と締結した条約の基礎にたって日本と条約を締結すること。清国は以上平和に復するための条件をみたすまでのあいだ、日本政府に十分な担保をあたえること。 (以上、藤村道生『日清戦争』1973年、岩波新書、P.121による)


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⑤ 戦勝の要因


 製糸工女が


 「男軍人、女は工女。糸を引くのも国のため」
(工女節)


と歌ったように、明治政府の「殖産興業・富国強兵」政策の成果が、目に見える形で現れたのが日清戦争でした。女工たちが生産した生糸が輸出産業の中心となって国を富ませ、明治政府は外国から最新鋭の軍艦・大砲などの武器類を購入して、徴兵令で集めた男たちに戦わせたのです。

 清国軍撃破は「日本にとっては朝飯前の仕事」(ネルー『父が子に語る世界歴史』)でした。

 たとえば、日清戦争で勝敗を決したのは、日本艦隊の快速とそれに搭載していたアームストロング社製15センチ並びに12センチ速射砲という新兵器でした。とりわけ日本艦隊の快速は、圧倒的でした。

 日本軍艦吉野は、清国軍艦定遠・鎮遠の14.5ノット(1ノットは1時間に1海里(1852m)進む速度。したがって14.5ノットはおよそ時速27km)に対し当時世界最高の22ノット(およそ時速41km)を出し、以下19ノット(秋津洲(あきつしま)・千代田)・18ノット(高千穂(たかちほ)・浪速(なにわ))がこれに続きました。

 また日清戦争は、アームストロング社製速射砲の威力を列強に印象づける同社の「コマーシャル番組」ともいうべき場になりました。日本海軍が搭載した速射砲の圧倒的威力を見た列強は、競ってアームストロング社から新式の速射砲を購入したのですから。


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⑥ 兵士たちは何が原因で死んだのか


 日清戦争の日本側の犠牲者数は、日清間の戦闘に限定するなら、思いの外少なかったといえます。藤村道生氏によると、1894(明治27)年7月25日から講和直後の翌年5月30日までの日本軍の損害はわずか2,647名(うち戦死は736名)でした(藤村道生『日清戦争』1973年、岩波新書による)。これは、戦争全期間(1894年7月25日~1995年11月30日)の損害1万3,488名の約20%に過ぎません。
 
 損害の残り1万841名(すなわち損害の約80%)は、清国との戦闘行為が形式上終結していた1895(明治28)年5月31日から同年11月30日までのものだったのです。

 この期間の日本軍の犠牲者は1万841名。その損害の内訳を見ると戦死が396名、傷死が57名、変死152名で、残り1万236名は何と病死でした。つまり、日本軍の真の敵は清国兵ではなく、疫病だったのです。

 日本軍は衛生を軽視したため、莫大な人命を犠牲にしたのです。出征中、入院加療を受けた延べ17万名余のうち、戦闘による傷痍者(しょういしゃ)は4,519名に過ぎませんでした。ほとんどが脚気(かっけ)かマラリア・コレラ・赤痢などの伝染病でした。

 脚気(ビタミンB1 の欠乏に起因)は当時、その原因がわかっていませんでした。ただ、麦飯を食べると罹病(りびょう)しないことが、経験的に知られていました。

 「麦飯を食べると脚気にならない」とする「麦飯予防説」に対し、陸軍省医務局のエリートたちはこれを迷信と決めつけました。そして、「明日の生死もわからない兵士たちには、白米を腹一杯食べさせてやりたい」とする「善意」から戦地に麦飯を送ることに反対し、ビタミンB1を含む糠(ぬか)をすっかり取り除いた白米を送ったのです。

 その結果、日清戦争の犠牲者は戦闘による戦死者数より、脚気で命を落とす兵士の方がはるかに多くなってしまったのです(藤村道生『日清戦争』前出、板倉聖宣(いたくらきよのぶ)「エリート教育の欠陥」-『週刊朝日百科日本の歴史・103』所収-などによる)。



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●下関条約●



① 下関条約の調印(1895)


 日清戦争が日本の勝利に終わると、1895(明治28)年3月、山口県赤間関市(あかまがせきし。赤間関市が下関市と改称するのは1902年のこと)において、日本側全権伊藤博文(首相)・陸奥宗光(外相)、清国側全権李鴻章(りこうしょう。北洋大臣・直隷総督)・李経方(りけいほう。清国参議官。李鴻章の養子)との間で、講和会議がはじまりました。

 李鴻章が日本人暴漢に狙撃されて交渉が一時中断するというアクシデントがおこりますが、幸い命には別状がなく、3月30日に休戦条約調印、4月17日には講和条約が調印され、講和会議は幕を閉じました

 なお、講和会議に利用された高級割烹(かっぽう)旅館春帆楼(しゅんぱんろう。伊藤博文が命名。ちなみに伊藤の号は春畝(しゅんぽ))では、現在も講和時の調度品を一室にそのまま保存しているということです。

 さて、下関条約の内容は次の通りです。


  (1)朝鮮の独立
  (2)中国領土(遼東半島、台湾と澎湖諸島)の割譲
  (3)長江流域の4都市(重慶・沙市・蘇州・杭州)の開港・開市
  (4)賠償金2億両(テール)の支払い


 日清戦争を起こした日本の戦争目的は、建前上(1)にありました。しかし、途中から戦争目的が朝鮮支配権の争奪から中国分割に変化しました(前述)。海外領土の獲得に重点が移ったのです。

 以下、(2)(3)(4)について説明します


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② 中国領土の割譲 
 


 遼東半島獲得は、朝鮮半島から北への「利益線」拡大を目指したものですが、三国干渉によって放棄します(後述)。

 一方、台湾・澎湖諸島の割譲要求は、「主権線」沖縄に接する南への「利益線」確保をねらったものですが、台湾は今回の戦争で戦場にすらなっていませんでしたから、日本の台湾割譲要求は理不尽なものと言わざるを得ません。

 しかし、当時の台湾は人口が少なかった上これといった産業もなかったので、清国はさほど台湾に執着しませんでした。

 台湾を獲得した日本は、台北(タイペイ)に台湾総督府(たいわんそうとくふ。初代台湾総督は樺山資紀(かばやますけのり))を置き、植民地支配を開始しました。

 しかし台湾の人びとは、台湾の日本支配に唯々諾々(いいだくだく)として従ったわけではありません。1895年5月、彼らは、アジア最初の共和国である台湾民主国をつくり、激しい抗日戦を開始しました。日本は武力によって台湾人の激しい抵抗を退け、ついに台北を占領。台湾民主国の要人たちは中国本土に逃れましたが、その後も台湾独立の武装蜂起は長く続きました。日本が台湾全島を制圧するまでには、下関条約締結から7年を経た1902年までかかったのです。


 「富士は日本一の山」か?

 台湾が日本領となったことで、富士山(3,776m)は標高の点で「日本一の山」の座を追われてしまいました。

 大日本帝国の最高峰は、1895年から1945(昭和20)年まで新高山(にいたかやま)でした。新高山は台湾名を玉山(ユイシャン)といい、五峰からなる高山。主峰の標高は3,997mありました。

 以後新高山は「日本一」のシンボルとして、ニイタカドロップなど、さまざまな商標に使用されました。

 ですから当時は、「日本一高い山は何?」とたずねられて、「富士山」と答える子どもは落ちこぼれだったのです。


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② 長江流域の4都市の開港・開市



 長江流域の重慶(じゅうけい)・沙市(さし)・蘇州(そしゅう)・杭州(こうしゅう)を開港させて、これら4都市における外国との貿易を清国に認めさせました。

 これについては、日本資本主義の発展が新たな原料供給地や製品販売先(市場)を欲していたという側面はあったものの、大きな狙いはイギリスの歓心を買うことにありました。中国における利益拡大のチャンスにイギリスはじめ列強も参加させることにより、日本の大陸政策に対するイギリスの干渉を防ごうとしたのです。


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③ 賠償金2億両(テール)の支払い


 日本は、清国から庫平銀(こへいぎん)で2億両(テール)という莫大な軍事賠償金を手にしました。

 庫平銀というのは庫平(こへい)という秤(はかり)ではかった銀のことで、1両(テール)は37.301gに相当します。当時、庫平銀1両は邦貨1円55銭に相当しました。ですから、2億両は、邦貨3億1千万円に相当することになります。日清戦争で日本側が支出した戦費が2億47万円でしたから、この戦争で1億円以上も儲けたことになります。

 また、三国干渉(後述)で遼東半島を清国へ還付することになった日本は、その代償として新たに3,000万両を手にすることになりました。ですから、日本は総額2億3,000万両を清国から受け取ったのです。2億3,000万両は当時の邦貨で3億5,600万円に相当します。

 さらに、この金額には運用利益金の850万円が加わりましたから、実際に日本が手にした金額は3億6,450万円にものぼりました。


《 賠償金の使いみち 》 


 賠償金特別会計約3億6,450万円の使途は、次の通りです。


   軍備拡張費  62.0%
   臨時軍事費  21.7%
   皇室費用    5.5%
   台湾経費    3.3%
   教育基金    2.7%
   災害準備金  2.7%
   その他     2.1%



 軍事費(軍事拡張費と臨時軍事費)だけで83.7%を占め、国民生活に関わる教育基金・災害準備金は5.4%しかありません。賠償金の使い途のほとんどが軍拡のためだったことがわかります。


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●三国干渉●



① 三国干渉


 下関条約締結6日後の1895(明治28)年4月23日、ロシア・フランス・ドイツの三国は、


 「日本の遼東半島領有は清国の首都
(北京)に脅威を与え、朝鮮独立を有名無実とし、極東永久の平和に障害を与える」


ものとして、遼東半島の放棄を日本に勧告してきました。

 ロシアは極東進出拠点の獲得をもくろんでドイツ・フランスを誘い、フランスは露仏同盟のよしみと中国進出の野心から、そしてドイツはロシアの関心をアジアに向けさせるため、それぞれロシアに同調したのです。

 実はこの時、イギリスもロシアから誘われましたが、イギリスは中国におけるイギリス権益防衛のためには、むしろ日本の遼東半島領有がロシアの南進を阻止すると考え、ロシアの申し出を断ったのです。

 戦争直後で国力が疲弊していた上、英米も中立的立場を取っていました。日本には、三国に対抗できる力があろうはずはありませんでした。日本はやむなく三国干渉の無条件受諾を決定しました。同年11月、代償金3,000万両を受領することで遼東還付条約に調印し、12月末までに日本軍は遼東半島から撤退しました。

 三国干渉は、ロシアに対する日本の国民感情を悪化させました。政府はこうした国民のロシアへの敵愾心(てきがいしん)をあおりたて、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」(復讐の志をたて艱難辛苦をする意味)のスローガンの下、日露戦争のための軍拡を進めていったのです。 


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② 日清戦争の意義
 

《 日本に及ぼした影響 》


 日清戦争の勝利は、日本の国際的地位の向上に一役買いました。この後、条約改正交渉がスムースに進んでいったのは、日清・日露戦争の勝利と、国力の充実が背景にあったからです。

 また、日清戦争は、資本主義の発達を促しました。そうした役割の一つをになったのが金本位制の確立でした。賠償金の一部を金貨で受け取った日本は、1897年に貨幣法(かへいほう)を制定し、念願だった金本位制を確立させました。同じ金本位制をとる欧米諸国の仲間入りをすることになり、国際的な商取引きがスムースに進むようになりました。

 日清戦争の前後には、繊維製品を中心とした軽工業部門で機械による大量生産方式が確立しました(第一次産業革命)。

 しかし、機械による大量生産は原料不足をもたらすとともに、国内需要を上回る供給過多をもたらしました。つまり、つくりすぎて商品が余り、膨大な在庫をかかえてしまったのです。その結果、1890年はひどい不景気になりました。これを資本主義恐慌といいます。

 そこで、原料供給地・製品販売先として、広大な中国市場が注目されたのです。長江流域の4都市の開港・開市は、こうした日本資本主義の要望にも応えたものでした。


《 中国に及ぼした影響 》


 日清戦争の敗北によって、「眠れる獅子」と恐れられた清国の弱体ぶりが暴露されました。これに乗じて列強による中国分割競争は激しさを増し、中国の半植民地化が進むことになりました。

 列強による中国分割の実態は、次のようなものでした。

 ロシアは三国干渉で日本から取り上げた遼東半島25年間租借権と東清鉄道(とうしんてつどう)の建設権を得ました。これによりシベリア鉄道は、東清鉄道を経由して遼東半島の旅順・大連までつなぐことが可能となりました。こうしてロシアは、念願の不凍港を手を入れたのです。また同時に、秘密裏に露清条約(ろしんじょうやく)を結んで、ロシア・清国のいずれかが日本に攻撃された場合、ロシアが清国内の港湾等を自由に使用できるようにしておきました。

 ドイツは宣教師殺害事件を口実に、膠州湾(こうしゅうわん。山東省南西部の湾)と青島(チンタオ)を占領し、99年間の租借を清国に認めさせました。

 イギリスは威海衛(いかいえい。山東半島北岸の港町)を25年間、九竜半島(きゅうりゅうはんとう)を99年間それぞれ租借することを認めさせました。

 フランスは、自身の植民地ベトナムに隣接する広州湾(こうしゅうわん)を占領し、99年間の租借を認めさせました。

 日本は、台湾対岸の福建省(ふっけんしょう)に列強が入り込まないよう、不割譲協定(1898)を清国と結びました。

 列強によるこうした露骨な権益争奪戦を、ネルーは


 「なんと目をおおわしめるような、恥ずべきうばいあいであることか?」
(ネルー『父が子に語る世界歴史3』前出、P.212)


と嘆じました。


 「五十年戦争」の提言

 日清・日露戦争を「五十年戦争」の中に位置づけて理解しようとする見方が、原田敬一氏によって提唱されています。日本は、日清戦争からアジア・太平洋戦争までの約50年間、アジアにおいて戦争を続け、植民地の拡大や大陸の利権の確保を国家目標としてきました。

 日清戦争についていえば、下関条約締結をもって戦争終結と見なす従来の狭いとらえ方では、この戦争の本質を見誤りかねません。なぜなら、戦争を指導する大本営が解散したのは、下関条約締結(1895年)より1年も経った1896年4月のことだったからです。

 そこで、原田氏は日清戦争を広義にとらえ、次の4つの複合戦争と考えています。


 
①七月二十三日戦争(対朝鮮。王宮を武力占領して大院君政権をたて開戦の口実を作ろうとしました)
 ②狭義の日清戦争
(対清)
 ③農民戦争殲滅作戦
(対朝鮮民衆)
 ④台湾征服戦争
(対台湾民衆)


 以上のように考えなければ、その後の日本のアジアへの関わり方の特色となる「侮蔑と暴力」が理解できない、というのです。

【参考】
・岩波新書編集部編『日本の近現代史をどう見るか・シリーズ日本近現代史⑩』2010年、岩波新書


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