●日本の大陸政策● |
●日清戦争● |
◆日清戦争は草鞋(わらじ)で戦った 1890(明治23)年3月28日から4月5日にかけて、愛知県知多半島付近において陸海軍連合大演習が実施されました。ところが、兵士たちの多くは、ふだん靴など履いたことがありません。すぐに靴擦(くつず)れをおこしてしまい、思うように行動することができませんでした。「足が痛くて戦闘に参加できなかった」ではお話にもなりません。本番の日清戦争では、この問題にどう対処したのでしょうか。 これには、国立公文書館アジア歴史資料センターのホームページ「描かれた日清戦争~錦絵・年画と公文書 ~」(https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/topics/index.html)が参考になります。「トピック1.日本兵の履物」という項立てに載っている錦絵を見ると、何と、陸軍の歩兵たちは足袋(たび)に草鞋(わらじ)、海軍の水兵 たちは足袋や裸足(はだし)で戦っているではありませんか。 洋装の軍服に対し、足元が足袋・草鞋というのは、あまりにもちぐはぐな印象を受けます。しかし、兵士たちが着用していた足袋・草鞋等は、軍用品として支給されたものでした。つまり、大日本帝国陸海軍は、日清戦争を戦い抜くために、窮屈な軍靴(ぐんか)よりも、当時の日本人がはき慣れた草鞋・足袋等の方がすぐれていると判断したのでした。 |
●下関条約● |
◆「富士は日本一の山」か? 台湾が日本領となったことで、富士山(3,776m)は標高の点で「日本一の山」の座を追われてしまいました。 大日本帝国の最高峰は、1895年から1945(昭和20)年まで新高山(にいたかやま)でした。新高山は台湾名を玉山(ユイシャン)といい、五峰からなる高山。主峰の標高は3,997mありました。 以後新高山は「日本一」のシンボルとして、ニイタカドロップなど、さまざまな商標に使用されました。 ですから当時は、「日本一高い山は何?」とたずねられて、「富士山」と答える子どもは落ちこぼれだったのです。 |
●三国干渉● |
◆「五十年戦争」の提言 日清・日露戦争を「五十年戦争」の中に位置づけて理解しようとする見方が、原田敬一氏によって提唱されています。日本は、日清戦争からアジア・太平洋戦争までの約50年間、アジアにおいて戦争を続け、植民地の拡大や大陸の利権の確保を国家目標としてきました。 日清戦争についていえば、下関条約締結をもって戦争終結と見なす従来の狭いとらえ方では、この戦争の本質を見誤りかねません。なぜなら、戦争を指導する大本営が解散したのは、下関条約締結(1895年)より1年も経った1896年4月のことだったからです。 そこで、原田氏は日清戦争を広義にとらえ、次の4つの複合戦争と考えています。 ①七月二十三日戦争(対朝鮮。王宮を武力占領して大院君政権をたて開戦の口実を作ろうとしました) ②狭義の日清戦争(対清) ③農民戦争殲滅作戦(対朝鮮民衆) ④台湾征服戦争(対台湾民衆) 以上のように考えなければ、その後の日本のアジアへの関わり方の特色となる「侮蔑と暴力」が理解できない、というのです。 【参考】 ・岩波新書編集部編『日本の近現代史をどう見るか・シリーズ日本近現代史⑩』2010年、岩波新書 |