59.初期議会の動向

この年(注、1890年)、兆民は、第1回衆議院総選挙に大阪の第4区から立候補し、見事に当選して議政壇上の人となった。
当選したとなると、さすがの兆民先生でも議会制度には多少の期待を抱いていたものか、予算の討議には、日々、竹の皮に握り飯をつつんだのを携えて、熱心に登院した。
第一議会の衆議院では、いわゆる民党が多数を占めた。そして民党の大部分は、それまでの自由民権運動の闘士であったから、事前にも予想された通り、かれらは新しい議会を舞台に、激しく政府にたいして戦いを挑んだ。
まず政府提出の予算案にたいしては、経費節減、民力休養のスローガンを掲げて反対し、予算の1割天引案を出し、地租の軽減を実行させ、地価修正によって地主の負担を軽くしようというのであった。
こうして予算案の1割におよぶ988万円(軍艦新造、鉄道布設、電話新設等)を削減して、まさに民党が押切るかと見えたとき、閣僚後藤象二郎(逓相)、陸奥宗光(農相)の魔手がはたらいて、立憲自由党の中の28名の土佐派議員が政府に買収されて寝返り、そのため600万円の削減ということで、民党と政府の妥協が成立し、予算案は無事通過して、政府側は辛勝した。 ( 中略 )
兆民はこの有様に憤激おくところを知らず、2月21日の「立憲自由新聞」紙上に「無血中の陳列場」という一文を掲げて、信を天下後世に失った自由党の裏切者をさんざんに罵倒した上、「アルコール中毒の為め、評決の数に加はり兼ね候に付き、辞職仕候」という辞表を衆議院議長中島信行のもとに提出してあっさり代議士を廃業してしまった。
(糸谷寿雄氏による-幸徳秋水『兆民先生・兆民先生行状記』1960年、岩波文庫、P.104~105の解説-)