59.初期議会の動向


●最初の衆議院議員総選挙●



① 選挙権を持っていたのは100人に1人


 1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法とともに衆議院議員選挙法が公布されました。これにもとづいて、翌1890年7月1日、北海道・沖縄・小笠原を除く全国46府県で第1回総選挙が行われました。

 選挙人資格は、満25歳以上の帝国臣民男子のうち、満1年以上その府県内に居住する者で、直接国税(農村では地租、都市では所得税)15円以上を納入する者に限られました。さらに軍人や華族の当主等に選挙権はありませんでした。

 その結果、有権者数は約45万人。当時のわが国の内地人口が約3938万人だったので、約1.1%に相当します。つまり、ほぼ100人に1人の割合でした。

 最初の選挙の投票風景を、フランス人ビゴーが描いた貴重なスケッチが残っています(清水勲編『続ビゴー日本素描集』1992年、岩波文庫、P.153)。

 それを見ると、選挙権のない大勢の野次馬が見守るなか、羽織・袴で正装したちょんまげ姿の男が、小さな投票箱に投票する姿が描かれています。近代的な投票所という場所で、いまだちょんまげ姿というのも何とも不釣り合いですが、選挙権保有者が100人に1人の「特別な人たち」だったので、わざわざ正装して行ったのでしょう。投票者数が極端に少なかったので、投票箱も小さかったのです。

 当時は選挙立会人や警察官の前で、投票用紙に立候補者名とともに自分の氏名を記入し、押印までしました。投票の秘密が守られなかったため、買収や選挙干渉が行われました。無記名投票(秘密投票)が実現するのは、1900(明治33)年の選挙法改正からです。


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② 有権者の97%は地主


 有権者45万人のうち、所得税15円以上の納入者(しかも満3年以上の納入者に限られました)は約1万3000人で約3%でした。残り97%は地租15円以上の納入者、すなわち地主でした。つまり、第1回衆議院議員総選挙は、地主たちの選挙だったといえます。

 当時の地租は2.5%でしたから、地租15円の土地の地価は600円になります。


    15円/0.025=600円


 全国平均では、地価600円の土地は1.86町歩(約1.84ha)の面積に相当します。したがって選挙権を与えられたのは、最低2町歩前後以上の土地を所有した農村の小地主以上の人たちだったことになります。

 なお、当選した衆議院議員300名の職業別構成は次のようになっていました。当選者の約半数は「地主及び農業」でした。


    地主及び農業    144名
    官吏            60名
    弁護士           24名
    新聞・雑誌記者      20名 
    商業            12名
    工業            10名
    その他           30名

 
 ですから、地主の投票によって当選した衆議院議員たち(しかもその半数の職業は「地主及び農業」)は、地主たちの意を受けて「政費節減、民力休養
(行政費を節約して地租の軽減をおこなえをスローガンに掲げたのです。


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③ 大きかった「一票の格差」


 一方、衆議院議員に立候補できるのは30歳以上の男子で、直接国税15円以上の納入者に限られました。ただし、華族の当主・軍人・警察官・教師・神官・僧侶らには被選挙権がありませんでした。選挙人のような居住地制限がなかったので、複数の選挙区から重複立候補することもできました。

 総選挙で選出される衆議院議員の定数は300人。小選挙区制を採用し、1人区214、2人区43の合計257区が設定されました。

 議員定数が300人で有権者が45万人ですから、


    45万人/300人=1,500人


となり、議員1人あたりの有権者数は1,500人ぐらいとなります。ですから、実際には1,000票前後を獲得できれば当選できるはずでした。

 しかし、地主が選挙権を有する制限選挙だったため、「農村部に有権者が多く、都市部には少ない」という、有権者数の地域間偏りが起こりました。そのため都市部では「一票の重み」がことのほか大きく、たとえば京都1区では27票、東京3区では56票で当選したのに、滋賀県3区では3,000票以上の支持を得ながらも落選するという不公平な事態がおこりました。

 このように、わが国初の衆議院議員選挙は、性別・納税額による制限選挙であり、一票の格差が大きく、投票の秘密さえ守られない選挙でした。普通選挙・平等選挙・秘密選挙という近代選挙の諸原則がことごとく破られた選挙でしたが、投票率は93.4%という高率を記録しました。この記録は現在に至るまで、破られていません。最初の選挙という物珍しさや、記名投票だったこともその要因の一つでしょうが、わが国初の総選挙に、いかに国民の期待や関心が高かったかがわかります。


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議会をめぐる動き



 政府は議会の開設に当たり、制限選挙にすること、投票は記名式とすること、帝国議会を二院制とし衆議院に貴族院を対抗させるようにするなど、民権派の議会進出防止策を幾重にも講じました。さらには、議会の動向にかかわらず政策を推進するという超然主義の立場をとることを表明し、議会開会に備えました。

 それにもかかわらず、第1回衆議院議員総選挙では民党(みんとう。民権派の流れをくむ党派)が吏党(りとう。政府系の党派)に勝利し、過半数の議席を確保しました。

 第一議会が開会されると民党側は「政費節減、民力休養」を唱え、政府の拡張型予算案に激しく反対しました。このため、政府は議員買収等の手段によって、かろうじて予算案を成立させる有様でした。

 第二議会でも予算案からの軍艦建造費削減が問題となりました。この時、海相が藩閥政府を擁護する演説を行ったものですから議会は紛糾、初めての衆議院解散となりました。この結果行われた第2回総選挙では内相の指揮による選挙干渉が行われましたが、それでも政府の敗北に終わりました。

 第三議会では、選挙干渉の政府責任が問われるとともに、軍艦建造費が否決されました。続く第四議会では、政府は詔勅によってかろうじて予算を成立させました。

 第五・第六議会では、争点は予算案から条約改正問題へと移行しました。政府・民党間で激しい対立が見られたものの、両者は次第に妥協の道を探り、接近していきました。

 以上、第一から第六までの議会を、初期議会といいます。次に、初期議会の動向を、もう少しくわしく見ていきましょう。



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① 第一議会
(1890 11/~1891 3/)…第1次山県有朋内閣
 

  政府は「超然主義」を唱え、議会無視の姿勢を示しました。山県有朋首相は「主権線(国境)」と「利益線(朝鮮周辺)」の防衛を主張して、拡張型軍事予算の成立を目指しました。

 しかし、衆議院で過半数を占める民党(171/300議席。内訳は自由党131、立憲改進党40)が、「政費節減・民力休養」をスローガンに掲げ、軍事費削減と減税を主張して政府と真っ向から対立しました。衆議院議員や有権者のほとんどが高額な地租納入者だったわけですから、これは当然のことでした。

 政府は、民党側の立憲自由党議員を買収することによって、一部修正した軍事予算をかろうじて成立させました。

 思わぬ裏切り者の出現で軍事予算の通過を阻止できなかったことに憤慨した中江兆民は、「衆議院は無血虫(むけつちゅう。冷酷で恥知らずな人を罵っていう悪口)の陳列場(ちんれつじょう)なり(衆議院議員の連中は恥知らずばかりだ、の意)」と罵り、衆議院議長に辞表を提出して議員を辞職してしまいました。


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② 第二議会
(1891 11/~1891 12/)…第1次松方正義内閣


 民党は軍艦建造費や製鉄所設立費の全額削除を主張しました。

 この時、樺山資紀(かばやますけのり。1837~1922)海相(薩摩)が藩閥政府を擁護する「蛮勇演説(ばんゆうえんぜつ)」を行ったため民党が強く反発し、軍艦費建造費ばかりか他の重要法案もことごとく否決してしまいました。

 松方首相は「製鋼所設立、軍艦製造、治水事業等はみな国防上・国家経済上欠くことのできない急務であるのに、議会は挙げてこれに反対する」という理由を述べ、衆議院を解散しました。政策上の対立によって衆議院を解散した以上、総選挙も政策によって民党と対決すべきでしたが、政府は選挙干渉というとんでもない手段に訴えました。

 この第2回臨時総選挙(1892 2/15)では、品川弥二郎(しながわやじろう。1843~1900)内相が指揮をとり、組織的な選挙干渉をおこないました。民党議員の再選を阻止するため全国の地方官に内訓を発し、警察官らが戸別訪問・演説会の妨害等の手段によって干渉しました。

 また、当時の投票方式は、投票用紙に自分の住所・氏名を書いて押印した上、候補者の名前を記して投票しました。誰が誰に投票したかがわかっていたため、選挙干渉や買収が公然と行われました。

 露骨な選挙干渉のために、各地で警察と壮士団(自由民権運動にともなって生まれた国士的気概をもった政治活動家)が衝突し、多くの死傷者を出しました。民党候補者は落選者が相次ぎ、衆議院での議席を大幅に減らしました。

 それでも民党が300議席中163議席を占め、吏党は議会で多数を制することができませんでした。
 

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③ 第三特別議会
(1892 5/~ 1892 6/)…第1次松方正義内閣


 民党は選挙干渉の非難決議案を可決し、品川弥二郎は責任をとって内相を辞職しました。民党は再び軍事予算の削減を主張し、政府は1週間の停会を命令しました。


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④ 第四議会
(1892 11/~1893 2/)…第2次伊藤博文内閣(元勲内閣)


 第2次伊藤博文内閣は、閣僚に井上馨・山県有朋・黒田清隆ら多数の藩閥政治家を擁していたので「元勲内閣(げんくんないかく)」、「元勲総出(そうで)の内閣」などとよばれました。

 民党は本議会でも軍事予算の削減を主張し、政府は15日間の停会を命じました。議会の混乱収拾のため、天皇が「和衷協同の詔勅(わちゅうきょうどうのしょうちょく。いわゆる「建艦詔勅」)」を出しました。議会に政府への協力を求め、軍艦建造に皇室経費と官吏給料の10分の1を削減して支出することを示しました。自由党が政府に協力姿勢をとり、予算案が修正・可決されました。



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⑤ 第五議会
(1893 11/~12/)…第2次伊藤博文内閣


 民党は、条約改正問題で政府を追及しました。

 改進党・国民協会ら対外硬派(たいがいこうは)とよばれるグループは、外国人の内地雑居に反対し、「現行条約を厳密に励行することによって、外国人に条約の不便性を感じさせ、条約改正を達成せよ」と主張しました。

 政府は衆議院を解散し、第3回総選挙(1894 3/1)が行われました。


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⑥ 第六特別議会
(1894 5/~6/)…第2次伊藤博文内閣  


 甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう。東学党の乱とも。1894 3/29)が勃発し朝鮮情勢が緊迫化するなか、民党は外交・財政問題などで内閣弾劾上奏案(ないかくだんがいじょうそうあん)を提出して可決しました。これに対抗して、政府は議会を解散しました。

 こうして、初期議会では政府と民党との激しい対立が続きました。しかし、ほどなく日清戦争(宣戦布告は1894年8月1日)がはじまると、両者は接近して妥協することになります。


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 この年(注、1890年)、兆民は、第1回衆議院総選挙に大阪の第4区から立候補し、見事に当選して議政壇上の人となった。
 当選したとなると、さすがの兆民先生でも議会制度には多少の期待を抱いていたものか、予算の討議には、日々、竹の皮に握り飯をつつんだのを携えて、熱心に登院した。

 第一議会の衆議院では、いわゆる民党が多数を占めた。そして民党の大部分は、それまでの自由民権運動の闘士であったから、事前にも予想された通り、かれらは新しい議会を舞台に、激しく政府にたいして戦いを挑んだ。
 まず政府提出の予算案にたいしては、経費節減、民力休養のスローガンを掲げて反対し、予算の1割天引案を出し、地租の軽減を実行させ、地価修正によって地主の負担を軽くしようというのであった。

 こうして予算案の1割におよぶ988万円(軍艦新造、鉄道布設、電話新設等)を削減して、まさに民党が押切るかと見えたとき、閣僚後藤象二郎(逓相)、陸奥宗光(農相)の魔手がはたらいて、立憲自由党の中の28名の土佐派議員が政府に買収されて寝返り、そのため600万円の削減ということで、民党と政府の妥協が成立し、予算案は無事通過して、政府側は辛勝した。 ( 中略 )

 兆民はこの有様に憤激おくところを知らず、2月21日の「立憲自由新聞」紙上に「無血中の陳列場」という一文を掲げて、信を天下後世に失った自由党の裏切者をさんざんに罵倒した上、「アルコール中毒の為め、評決の数に加はり兼ね候に付き、辞職仕候」という辞表を衆議院議長中島信行のもとに提出してあっさり代議士を廃業してしまった。

(糸谷寿雄氏による-幸徳秋水『兆民先生・兆民先生行状記』1960年、岩波文庫、P.104~105の解説-)