「憲法発布(土下座)」(『暗愚小伝』「家」より)   高村光太郎

 誰かの背なかにおぶさつてゐた。
 上野の山は人で埋(う)まり、
 その頭の上から私は見た。
 人払いをしたまんなかの雪道に
 騎兵が二列に進んでくるのを。
 誰かは私をおぶさつたまま、
 人波をこじあけて一番前へ無理に出た。
 私は下におろされた。
 みんな土下座をするのである。
 騎馬巡査の馬の蹄(ひづめ)が、
 あたまの前で雪を蹴つた。
 箱馬車(はこばしゃ)がいくつか通り、
 少しおいて、
 錦(にしき)の御旗(みはた)を立てた騎兵が見え、
 そのあとの馬車に
 人の姿が二人見えた。
 私のあたまはその時、
 誰かの手につよく押へつけられた。
 雪にぬれた砂利のにほひがした。
  -眼がつぶれるぞ-


(前夜の大雪もやみ、1889年2月11日の朝空はからりと晴れていた。宮城では憲法発布の儀式が粛々と挙行され、午後には観兵式が行われた。上記の詩は、憲法発布翌日に行われた天皇・皇后の上野行幸啓の情景を描いている。当時小学校2年生(数え7歳)だった高村光太郎(1883~1956)は、母に連れられて上野に行列を見に行った。この時、光太郎の頭を押さえつけて土下座させた「誰か」は、「神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝国憲法第3条)の存在(天皇・皇后)を直視するな、と戒めたのだ(北川太一編『高村光太郎詩集』1969年、旺文社文庫、P.274~276による)。)

58.大日本帝国憲法の成立


●憲法制定をめぐる動き●



① 二つの憲法制定構想


 政府が国会の開設を公約すると、民権派は憲法私案(私擬憲法(しぎけんぽう))の作成に着手しました。彼らは、来るべき憲法制定会議において憲法を制定するという、国約憲法の構想を打ち出しました。

 一方、政府は天皇制国家を確立するため、憲法制定会議を開かずに、政府内部で憲法を制定してしまおうと、欽定憲法(きんていけんぽう。天皇の定めた憲法)の構想で動き出していました。


直線上に配置


② さまざまな私擬憲法


 私擬憲法とは、憲法私案のことです。現在までに存在が確認される私擬憲法のほとんどが、民権派の手に成ったものと考えられています。君主権を制限し人民の権利を強く主張したものが多いのですが、作成者なり政党なりのそれぞれの立場によって主張する内容にはかなりの幅がありました。

 たとえば、慶應義塾系の交詢社(こうじゅんしゃ)が作成した『私擬憲法案』(全79条)は、君民同治・イギリス流の議院内閣制・国会の二院制などを唱える穏健的なものでした。

 一方、植木枝盛(うえきえもり)が作成した『東洋大日本国国憲按(とうようだいにほんこくこっけんあん。日本国国憲案)』(全220条)は、連邦制国家や主権在民を主張し、人民の政府への抵抗権・革命権を認めるなど、当時としてはかなり急進的な内容のものでした。

 こうした私擬憲法のなかには、東京五日市(いつかいち。現、東京都あきるの市)の進歩的グループが定期的な討論・学習会を重ね、千葉卓三郎(ちばたくさぶろう。)を中心にまとめた『五日市憲法(日本帝国憲法)』(全204条)のような異色のものもありました。人権尊重の立場が明確な点に特長があります。


直線上に配置


③ 政府の憲法作成方針

 憲法作成の基本方針として、岩倉具視(いわくらともみ。1825~1883)は欽定憲法・漸進主義(ぜんしんしゅぎ。おだやかな改良)という考えを示しました(『大綱領』)。

 1882(明治15)年、伊藤博文(いとうひろぶみ。1841~1909)はヨーロッパに向けて出発しました。

 伊藤の渡欧は、憲法調査のみが目的ではありませんでした。伊藤に与えられた調査項目は、先進国の憲法調査にとどまらず、君主と内閣の関係、内閣と議会の関係、貴族制度、選挙法、地方制度など、広範囲にわたっていました。つまり、伊藤の目的は、岩倉の路線(欽定憲法・漸進主義をとる)に沿いつつ、これから建設する立憲制国家の青写真づくりのための材料集めにあったわけです。

 伊藤は、ベルリン大学のグナイスト(1816~1895)・モッセ(1846~1925)、ウィーン大学のシュタイン(1815~1890)らに師事して、君主権の強大なプロイセン(ドイツ)憲法の講義を受け、ヨーロッパの諸制度を研究して、翌1883(明治16)年帰国しました。

 この時岩倉は、すでに亡くなっていました。


直線上に配置


④ 諸制度の整備


《 制度取調局
(せいどとりしらべきょく)の設置 》
 

 憲法発布に向けて、さまざまな諸制度が整備されていきました。

 内閣制度をはじめとする諸制度を調査・研究するために1884(明治17)年、宮中に設置されたのが制度取調局です。制度取調局は1885(明治18)年、内閣制度の創設にともなって法制局に吸収されました。

 制度取調局を宮中に設置したのは、「欽定憲法」を制定することが既定方針だったことを示しています。取調局の長官には伊藤博文が就任し、制度改革の主導権を握りました。伊藤が最初に着手したのは、皇室制度の改革でした。


《 皇室財産の設定 》


 議会開設をひかえ、議会で政府の予算案が否決された場合、軍備や官僚制等の維持が困難になることが予想されます。また皇室経費も予算審議の対象になりかねません。

 前者の危惧に対しては、大日本帝国憲法のなかに、政府予算案が議会で否決された場合は、前年度予算をそのまま執行できるというという条文(前年度予算執行権)を書き込ませることになります。

 後者の危惧については、「憲法の地位を保ち、天子の地位が国会に左右されないように、十分な財産を準備すべきである」として、皇室財産設定の必要性が説かれました(岩倉具視「皇室財産に関する意見書」1882年)。

 こうして入会地をはじめとする所有者不分明の山林原野が、皇室御料林に次々と組み入れられていきました。その面積はおよそ350万町歩にも及びました。ついで、日本銀行や横浜正金銀行・日本郵船等の優良株券を加え、佐渡金山・生野銀山も皇室の所有物となりました。

 この結果、皇室は日本一の資産家になりました。第二次世界大戦後、占領軍が発表した皇室財産の総額は実に37億1562万円(現金・有価証券の額約3億3600万円に御料地を加えた総額)に達していました(五味文彦外『ちょっとまじめな日本史Q&A・下 近世・近代』2006年、山川出版社、P.143)。

 議会開設に向けて皇室財産が急速に拡充された時期は、ちょうど松方財政の時期にあたっていました。政府の強力なデフレ政策によって世の中はひどい不景気にさらされ、民衆が生活困難にあえいでいた時期でもあったことは、記憶しておいてよいことです。


《 華族制度 》


 1884(明治17)年、華族令(かぞくれい)を公布しました。旧公卿・旧大名らの華族に加え、明治維新の功労者たちに爵位(しゃくい)を与えて特権身分をつくりました。爵位は、公爵(こうしゃく)・侯爵(こうしゃく)・伯爵(はくしゃく)・子爵(ししゃく)・男爵(だんしゃく)の五つを設けました。

 その意図は、将来の帝国議会に貴族院をつくり、貴族院議員を選出する母体とするためでした。貴族院をつくることによって、民選された議員からなる衆議院を掣肘(せいちゅう)しようとしたのです。

 30歳以上の公爵・侯爵は、全員が貴族院議員になりました。残りの3爵位については、各爵位内で互選された候補者が、天皇に勅任されて貴族院議員になりました。このほかに皇族議員や多額納税者議員などが貴族院議員を構成しました。


《 内閣制度 》


 1885(明治18)年、天皇親政と身分制を建前にした太政官制を廃止しました。代わって、国家の最高行政機関として、内閣制度を創設しました。国会開設に備え、行政府の強化を図ったのです。

 最初の内閣は、統括者として内閣総理大臣(首相)1名を置き、大蔵大臣・外務大臣・逓信大臣など各省長官を兼ねる9名の国務大臣から成っていました。

 初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任しました。伊藤ら10名の大臣たちの出身地を見ると、旧長州藩出身者が4名、旧薩摩藩出身者が4名で、その他2名という内訳でした。すなわち閣僚は、薩摩・長州出身の藩閥によって独占されていたのです(藩閥政府)。


 ◆内閣制度の由来

 内閣(Cabinet)という言葉は、イギリス国王が大臣(minister)たちに政治上の諮問をする際、大臣たちが集まった小部屋(密室。cabinet)に由来します。国王にかわって閣議を主宰した大臣たちの代表が「第一の大臣(prime minister。プライムミニスター)」、すなわち内閣総理大臣(首相)です。

 18世紀初め、イギリスではハノーヴァー朝(現在のウィンザー朝)が成立します。この王朝の初代国王ジョージ1世(1660~1727)は高齢だった上、英語を解さないドイツ人だったためイギリスの問題に関心がありませんでした。そのため閣議に臨席せず、議会で多数党を占めていたホイッグ党の党首ウォルポール(初代首相。1676~1745)に政務を一任しました。ここから、国王が政治に口出しをしないイギリス政治の伝統、いわゆる「国王は君臨すれども統治せず」という立憲君主制がうち立てられたのです。

 ただし、イギリスの立憲君主制は、君主抜きの議院内閣制とでもいうべきものでした。国王ジョージ2世がウォルポールを信任し、その政権継続を望んだにもかかわらず、ウォルポールは議会内の支持者が少数となるやさっさと首相を辞任してしまいました。こうして議会内の多数党が内閣を組織し、国王にではなく議会に対して政治上の責任を負うという仕組み(責任内閣制)が生まれました。

 これに対し、日本が手本にしたプロイセン憲法では、行政権は君主が握ったままでした。議会内の政党の多少にかかわりなく、君主は首相以下の閣僚を任命しました。そのため、内閣は議会にではなく、君主に対して政治上の責任を負ったのです。 


《 宮中と府中の別 》


 宮廷事務を管轄する宮内省(くないしょう)は内閣から分離されました。これを「宮中(宮廷)と府中(行政府)の別」といいます。行政上の責任は内閣がとることを明確にしました。責任が天皇に及ばないようにしたのです。

 なお、宮内大臣(宮内省の長官)と紛らわしい呼称に内大臣(ないだいじん。内府ともいう。内大臣府の長官)があります。内大臣は天皇の側近として「常侍輔弼の任(じょうじほひつのにん。天皇のそばに常にいて補佐する役割)」にあり、御璽(ぎょじ。天皇の印)・国印(こくいん。国の官印)の保管などを職務としました。内大臣も「宮中と府中の別」の建前から政治には関与しません。


《 地方自治制度 》


 モッセ(独)の進言により、プロイセンの中央集権体制を取り入れた市制・町村制(1888)、府県制・郡制(1890)を公布しました。

 人口2万5000人以上の町を市とし、郡と対等に扱うこととしました。市長は有給で、内務大臣が任命しました。これに対し、町村長は名誉職で、資産家を中心に任命されました。市・町村ともに、内務大臣や府県知事らの監督権が強く、自治権は弱いものでした。

 一方の府県制ですが、府県知事は官選で、府県会議員は制限選挙で選出されました。郡は、府県と町村の間に位置した地方行政単位ですが、独自の課税権をもたず、その行政は府県知事や内務大臣の監督をうけました。

 いずれも中央の監督権が強く、現在の「地方自治の本旨」(地方自治の目的。住民自治と団体自治のこと)からはほど遠いものでした。


直線上に配置


大日本帝国憲法の発布



① 憲法発布
(1889)


 伊藤は、井上毅(いのうえこわし。1843~1895)・金子堅太郎(かねこけんたろう。1853~1942)・伊東巳代治(いとうみよじ。1857~1934)らの側近グループと、神奈川県夏島にあった自分の別荘において、秘密裏に憲法草案を作成しました。

 草案は、枢密院(すうみついん)で天皇臨席のもとで審議されました。

 枢密院は、憲法草案審議のために1888年に設置された組織です。議長・副議長各1名、枢密顧問官12名(のち増員)から成り、初代議長には伊藤博文が就任しました。憲法発布後は、緊急勅令発布や戒厳令宣言など重要事項の決定について、天皇の諮問に答えました。枢密院が重要事項を判断することによって、天皇に政治責任が及ぶのを回避しようとしたのです。

 こうして、大日本帝国憲法(明治憲法)は1889(明治22)年2月11日、天皇の名で発布されました(施行は同年11月29日)。この日は、人皇初代の神武天皇即位日とされる紀元節(きげんせつ)。2月11日を憲法発布日に選定したのも、明治天皇から黒田清隆(くろだきよたか。1840~1900)首相に憲法を下賜する形式の儀式としたのも、すべて欽定憲法たることを公に示す演出でした。


直線上に配置


② 国民のうけとめ方


 憲法発布の日を控え、国民の間は祝賀ムード一色でした。

 祝賀用の提灯・国旗が飛ぶように売れ、祝典見物者が東京に集中したため、旅館の宿泊代が跳ね上がりました。また、祝典に合わせた晴れ着の注文で、呉服屋も大繁盛しました。三菱の岩崎弥之助(いわさきやのすけ。岩崎弥太郎の弟。1851~1908)は、邸宅門前に振舞用の酒樽を積み上げて、祝賀ムードを盛り上げました。

 こうした国民のお祭り騒ぎとは裏腹に、憲法発布当日まで、国民はその内容を全く知りませんでした。憲法が伊藤博文ら数人の手で秘密裏に起草され、国民の関知しない枢密院で審議されていたわけですから、それは当然のことでしょう。

 なかには「憲法発布」の意味すらまったく理解しておらず、「絹布(けんぷ)の法被(はっぴ)を下さるのだ」と勘違いしていた人もいたという笑い話まで残っているくらいです。

 大日本帝国憲法は国民の意向を全く無視し、民権派の私擬憲法の成果も斟酌(しんしゃく)しないでつくられた欽定憲法でした。それにもかかわらず、祝賀ムードに浮かれた多くの国民・ジャーナリストたちは、憲法発布を無批判に歓迎しました。

 東京医学校で医学を講じていたドイツ人医師ベルツ(1849~1913)は、こうした奇妙な光景に首をかしげ、次のように日記に書き記しています。


「日本憲法が発表された。もともと、国民に委ねられた自由なるものは、ほんのわずかである。しかしながら、不思議なことにも、以前は『奴隷化された』ドイツの国民以上の自由を与えようとしないといって憤慨したあの新聞が、すべて満足の意を表しているのだ」
(トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記(上)』1979年改訳、岩波文庫)


 中江兆民(なかえちょうみん。1847~1901)は、こうした国民の軽薄さを苦々しい思いで見ていました。兆民は「その内容も見ないうちに、憲法という名前自体に酔いしれている」、「愚にして狂なる」国民のお祭り騒ぎぶりを嘆いたのです。そして、入手した憲法を一読するや、その内容のあまりの保守性にただ苦笑するのみだったといいます。

 なお、『大阪朝日新聞』は憲法全文を東京から電報で送稿し、当日の午後には号外として速報しました。憲法全文は仮名書きにして1万730字、難解な表現には説明をつけたので、1音信10銭の時代に7300円を要しました。当局は事前に漏れたのかと驚き、調査をしたといいます(『日本文化の歴史 11』小学館、P.130~131)。


直線上に配置


●大日本帝国憲法の特色●



① 憲法の特色


 
 憲法は7章76条から成ります。


《 天皇の位置づけ 》


 天皇主権を定め、天皇は統治権(司法・行政・立法の国家三権)を総攬(そうらん。一手に握って掌握すること)する元首とされました。

 近代的な憲法であるにもかかわらず、その第3条に


  「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」


と天皇神格化の条文を明記しました。この条文によって、天皇は「神聖不可侵」の存在として法的に免責されることになりました。

 天皇は、強大な天皇大権をもちました。天皇大権には、文武官の任命、宣戦布告、講和の締結、条約の締結、議会の召集・解散、戒厳の宣言、非常大権(非常時、臣民の権利・義務の一部または全部を停止する権限)、統帥権(とうすいけん。陸海軍の最高指揮権)などがありました。帝国議会の閉会中には、内閣の輔弼により法律と同じ効果を持つ緊急勅令を出すことができました(ただし、次の帝国議会で承諾が必要)。


 帝国議会 》


 当時の国会は、帝国議会といいました。

 帝国議会は、天皇の協賛機関と位置づけられました。協賛とは「予算案や法律案に対し賛成を与えるだけの権限しかない」という意味です。ただし、帝国議会で否決されれば、内閣は予算や法律を執行できなかったため、議会の協賛は不可欠でした(ただし、予算案が議会で否決された場合には、内閣には前年度予算をそのまま執行できる前年度予算執行権がありました)。

 帝国議会は貴族院衆議院から成る二院制で、衆議院が予算先議権をもつ以外は両院は対等とされました。衆議院で成立した法律案などを否決するなど民党勢力を、貴族院でくい止めようとする意図がありました。


《 内 閣 》


 内閣は憲法外の組織であり、各大臣は天皇の輔弼(ほひつ)機関と定められました。「輔弼」の輔も弼も「助ける」という意味です。

 「統治権ヲ総攬」する天皇は特別な事情がない限り、閣議には臨席しませんでした。「天皇ヲ輔弼」する大臣たちは、天皇に代わって法律や勅令を起草し、それらは内閣総理大臣の署名によって法的効力を発揮しました。天皇を政治に直接関与させないようにして、天皇に政治責任が及ぶのを回避したのです。

 各大臣は、天皇の国務上の行為に対して助言(大臣助言制)し、天皇に対してのみ個別に責任をもちました。これを「国務大臣単独責任制」といいます。


  「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼
(ほひつ)シ其(そ)ノ責ニ任ス」(第55条)


 後年、先の見えない戦争にずるずると突き進みながら、極東国際軍事裁判で国の指導者たちがお互いに責任のなすりつけ合いをしました。その原因の一端は、国務大臣単独責任制という無責任体制にあります。

 内閣総理大臣やその他の国務大臣は天皇が任命しました。内閣総理大臣には現代のような大臣任免権などがなく、総理大臣は「同輩中の首席(大臣たちの単なる代表)」にすぎませんでした。そのため、内閣の堅固な意思統一が難しく、気にくわないことがあれば勝手に大臣を辞職してしまうことさえありました。

 たとえば、陸軍2個師団増設要求を第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣が拒否したことに反発した陸相上原勇作(うえはらゆうさく。1856~1933)が、帷幄上奏権(いあくじょうそうけん。天皇に直接意見を述べることができる特権)を使って単独辞職し、これによって内閣が倒壊するという事件(陸軍のストライキ)が起こっています。


《 裁判所 》


  「司法権ハ天皇ノ名ニ於
(おい)テ法律ニ依(よ)リ裁判所之(これ)ヲ行フ」(第57条)


と定められていました。そこで、裁判所の判決言渡用紙(はんけついいわたしようし)には「天皇ノ名ニ於(おい)テ」という文言と菊の紋章を印刷した朱色の罫紙を用いることになっていました
(注)

 「司法権の独立」はある程度認められており、現在の最高裁判所に相当する大審院(だいしんいん)、高等裁判所に相当する控訴院(こうそいん)、地方裁判所等がありました。

 現在と大きく異なるのは、皇室裁判所・軍法会議・行政裁判所など、特別裁判所が存在した点です。天皇・軍人・行政官がそれぞれ裁判官だったので、公平な判決は期待できませんでした。特に行政裁判所は、東京一カ所しかなく、しかも一審制でした。

 また、違憲法令審査権もありませんでした。


(注)明治23年11月15日司法省総第90号訓令で「天皇ノ名ニ於テ」印のある罫紙使用を令しましたが、明治24年2月26日司法省総第15号訓令によってこの用紙使用は廃止されることになりました。その理由ははっきりしませんが、実際の使用期間は2カ月程度だったようです(法務大臣官房司法法制部発行「歴史の壺」法務資料展示室だより第30号による。インターネット上で閲覧可)。


《 臣民
(しんみん)の義務・権利 》


 大日本帝国憲法の中に「国民」は存在しませんでした。「すべては天皇の臣下である」という意味で「臣民」と規定されました。

 臣民には兵役と納税の義務がありました。

 天皇の恩恵として「日本国臣民」には基本的人権(ただし自由権のみ)が一応は認められました。しかし、そこには「法律の定める範囲内」というただし書きがついていました。これは、「永久不可侵」であるはずの基本的人権を、法律によって制限・剥奪できることを意味します。これを「法律の留保」といいます。


《 軍 隊 》


 天皇は陸海軍を指揮する大元帥であり、陸海軍の統帥権は天皇に直属していました。現実には、陸軍の作戦・用兵は参謀本部(さんぼうほんぶ)が、海軍の作戦・用兵は軍令部(ぐんれいぶ)が立案実行しました。

 統帥権に関しては政府・議会は手出しができませんでした。これを「統帥権(とうすいけん)の独立」といいます。

 後年、浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣がロンドン海軍軍縮条約を結んだ時、条約に反対する軍部らは「政府が兵力量を決定するのは、統帥権の独立を侵すものだ」と非難しました(統帥権干犯問題(とうすいけんかんぱんもんだい))。この結果、浜口首相は右翼青年によって撃たれ、その傷がもとで他界。「統帥権の独立」は軍部独裁への道を開く一因になりました。


《 憲法改正 》


 憲法改正は、天皇発議によらなければできませんでした。両議院で総議員の3分の2以上が出席し、その3分の2以上の賛成で改正できることになっていました。


直線上に配置


② 憲法制定の意義


 大日本帝国憲法に対しては、外見的立憲主義、すなわち見せかけの立憲主義に過ぎない、という批判があります。しかし、議会政治・三権分立・基本的人権などが、日本国「臣民」に対して一応は保証されたことの意義には大きいなものがあります。

 アジアで最初の憲法は、オスマン帝国がつくったミドハト憲法でした。しかし、ほどなくスルタンによって憲法は停止されてしまいました。

 当時、アジアで近代的な憲法を制定していた国は、事実上日本だけだったのです。


直線上に配置


③ 諸法令の整備


 憲法制定にともなって、諸法令が整備されました。

1880(明治13)年には、憲法に先行して刑法と治罪法(ちざいほう。刑事訴訟法のこと)が公布されました。条約改正交渉で、治外法権の撤廃にとってこの二つの法律は必要不可欠だったからです。

 1889(明治22)年、憲法が発布された同じ年、皇室典範(こうしつてんぱん)がつくられました。皇室典範は憲法と並ぶ最高法とされ、一般人が皇室に関してとやかく言うのはもってのほかとされたため、公布されませんでした。皇室典範の改正にあたっては、天皇が皇室会議や枢密顧問官に諮詢(しじゅん)して勅定することになっていました。

 1890(明治23)年には民事訴訟法、刑事訴訟法(治罪法を改訂)、商法が公布されました。

 民法の公布にあたっては民法典論争が起こり、1896(明治29)年(1~3編)・1898(明治31)年(4~5編)に改正されました。

 ドイツの法学者ロエスレル(1834~1894)が起草した商法も、外国法模倣の傾向が強く現状にそぐわなかったため、1899(明治32)年に改正されました。


《 民法典論争 》 


 ボアソナードらが中心になって起草した民法は、1890年に公布、1893年に施行予定でしたが中止になりました。その原因は、1889(明治22)年から本格化した民法典論争にあります。

 ボアソナード民法がフランス民法の影響を強く受けて、男女両性の個人の権利を認めていた点が批判されました。その批判者の一人がドイツ系の法学者穂積八束(ほづみやつか。860~1912)でした。

 穂積は1891年に「民法出(い)デテ忠孝亡(ほろ)ブ」(『法学新報』)という論文を書き、ボアソナード民法を、日本の伝統的道徳や「家」制度を否定するものだ、とまで批判しました。

 梅謙次郎(うめけんじろう)ら民法擁護派もいましたが、結局ドイツ系の改正民法(1896年・1898年改正、1898年施行)をつくることで決着しました。

 改正民法によって、家父長中心の封建的な「家」制度が温存されました。強大な戸主権(こしゅけん)が制度化され、家族は婚姻に戸主の同意が必要なことはもちろん、その居所までも戸主によって指定されることになりました。戸主権と財産継承権をまとめて家督と称し、家督相続権は男子の跡継ぎに継承されました。

 改正民法では父権・夫権など男子の権限が強く、女性の権利は弱いものでした。


直線上に配置