「憲法発布(土下座)」(『暗愚小伝』「家」より) 高村光太郎
誰かの背なかにおぶさつてゐた。
上野の山は人で埋(う)まり、
その頭の上から私は見た。
人払いをしたまんなかの雪道に
騎兵が二列に進んでくるのを。
誰かは私をおぶさつたまま、
人波をこじあけて一番前へ無理に出た。
私は下におろされた。
みんな土下座をするのである。
騎馬巡査の馬の蹄(ひづめ)が、
あたまの前で雪を蹴つた。
箱馬車(はこばしゃ)がいくつか通り、
少しおいて、
錦(にしき)の御旗(みはた)を立てた騎兵が見え、
そのあとの馬車に
人の姿が二人見えた。
私のあたまはその時、
誰かの手につよく押へつけられた。
雪にぬれた砂利のにほひがした。
-眼がつぶれるぞ-
(前夜の大雪もやみ、1889年2月11日の朝空はからりと晴れていた。宮城では憲法発布の儀式が粛々と挙行され、午後には観兵式が行われた。上記の詩は、憲法発布翌日に行われた天皇・皇后の上野行幸啓の情景を描いている。当時小学校2年生(数え7歳)だった高村光太郎(1883~1956)は、母に連れられて上野に行列を見に行った。この時、光太郎の頭を押さえつけて土下座させた「誰か」は、「神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝国憲法第3条)の存在(天皇・皇后)を直視するな、と戒めたのだ(北川太一編『高村光太郎詩集』1969年、旺文社文庫、P.274~276による)。)
●憲法制定をめぐる動き● |
◆内閣制度の由来 内閣(Cabinet)という言葉は、イギリス国王が大臣(minister)たちに政治上の諮問をする際、大臣たちが集まった小部屋(密室。cabinet)に由来します。国王にかわって閣議を主宰した大臣たちの代表が「第一の大臣(prime minister。プライムミニスター)」、すなわち内閣総理大臣(首相)です。 18世紀初め、イギリスではハノーヴァー朝(現在のウィンザー朝)が成立します。この王朝の初代国王ジョージ1世(1660~1727)は高齢だった上、英語を解さないドイツ人だったためイギリスの問題に関心がありませんでした。そのため閣議に臨席せず、議会で多数党を占めていたホイッグ党の党首ウォルポール(初代首相。1676~1745)に政務を一任しました。ここから、国王が政治に口出しをしないイギリス政治の伝統、いわゆる「国王は君臨すれども統治せず」という立憲君主制がうち立てられたのです。 ただし、イギリスの立憲君主制は、君主抜きの議院内閣制とでもいうべきものでした。国王ジョージ2世がウォルポールを信任し、その政権継続を望んだにもかかわらず、ウォルポールは議会内の支持者が少数となるやさっさと首相を辞任してしまいました。こうして議会内の多数党が内閣を組織し、国王にではなく議会に対して政治上の責任を負うという仕組み(責任内閣制)が生まれました。 これに対し、日本が手本にしたプロイセン憲法では、行政権は君主が握ったままでした。議会内の政党の多少にかかわりなく、君主は首相以下の閣僚を任命しました。そのため、内閣は議会にではなく、君主に対して政治上の責任を負ったのです。 |
●大日本帝国憲法の発布● |
●大日本帝国憲法の特色● |