権利幸福きらいな人に  
自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい
オツペケペ オツペケペツポ ペツポーポー

          ( 中略 )

洋語を習ふて開化ぶり  
麺(パン)食ふばかりが改良(かいりょ)でねへ
自由の権利を拡張(こうちょう)し  
国威をはるのが急務だよ
知識と知識の競(くら)べ合ゐ  
キヨロキヨロいたしちや居られなゐ
窮理と発明のさきがけで  
異国におとらずやツつけろ
神国名義だ日本ポー


(川上音二郎「オツペケペー節」-倉田喜弘編『近代はやり唄集』2016年、岩波文庫、P.58・61-)

57.自由民権運動


●士族の反乱●



① 明治六年の政変(1873)


 新政府の樹立に際しては、士族・豪農・豪商ら大勢の人びとが協力しました。しかし、彼らのすべてが新政府の論功行賞にはあずかれたわけではありませんでした。特に新政府に対して不満をもったのは、士族たちでした。

 士族たちは、新政府による諸改革によって、旧幕府時代の特権(苗字帯刀、俸禄の支給など)を次々と剥奪されていきました。そのため、「武士の誇り」を傷つけられたり、生活に困窮したり、また自分たちの主張が新政府に反映されないことに失望したりするなどして、不平不満を募らせていました。

 1873(明治6)年の征韓論争は、こうした不平士族たちに支持されたものでした。

 日本が新政権の樹立を朝鮮に通告し、友好を求めたのに、鎖国方針を採る朝鮮は日本の申し出を無下に拒絶した。その上、「皇帝」は中国皇帝以外認められないなどと、外交文書の「天皇」や「勅」の表記にまで文句をつけてきた。朝鮮は無礼だ。こんな無礼な態度をとる朝鮮は懲らしめる必要がある、というのです。

 新政府の征韓派参議らは、不平士族たちに同情を寄せる一方、彼らの不満が国内で暴発して反乱に直結することを恐れて、ガス抜きの必要性を感じていました。朝鮮の武力開国を主張する征韓論者は、対朝鮮戦争をガス抜きには手頃な小戦争と考えたのでしょう。

 しかし、岩倉使節団が帰国すると、岩倉具視・大久保利通らは、留守政府の西郷・板垣らが唱える征韓論に反対しました。欧米先進諸国の繁栄の有様を目の当たりにした大久保らは、わが国の後進性を痛感させられました。そして、「この時期に対外戦争などもってのほかである。国内の政治・産業等の諸制度の整備がまずは優先だ」とする内治優先論を唱えたのでした。こうして、内治優先派と征韓派との間で激論が交わされました。

 征韓論争は、征韓派の敗北に終わりました。西郷・板垣をはじめとする征韓派参議はこれを不服とし、一斉に明治政府を辞職して野(や)に下りました。これを「明治六年の政変」といいます。

 翌1874(明治7)年から、こうした不平士族たちが中心となって、政府批判の運動が始まりました。


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② 士族の反乱


 保守的な士族の中には、明治政府による急激な改革の中で、旧来の特権を失っていくことに対する不満から、反政府暴動に身を投じる者たちがいました。

 1874(明治7)年には征韓派で前参議の江藤新平が、郷里佐賀の不平士族に迎えられて、明治政府に対し反乱をおこしました。これを佐賀の乱といいます。

 1876(明治9)年には熊本で敬神党の乱(けいしんとうのらん。神風連(じんぷうれん)の乱とも)、これに呼応して福岡で秋月の乱、山口県萩で萩の乱などが相次いでおこりましたが、いずれも明治政府によって鎮圧されました。

 1877(明治10)年には、西郷隆盛を首領とした最大規模の士族反乱がおこりました。九州各地でこれに呼応した反乱がおこりましたが、政府によってそのすべてが鎮圧されました。これを西南戦争といいます。

 士族の反乱をまとめると、次の表のようになります。


 時 期  反乱名  中心人物      内  容 
 1874年 佐賀の乱  江藤新平
(えとうしんぺい。1834~1874)
征韓を主張して約12,000名が蜂起。佐賀県庁など襲撃したが鎮圧された。
 1876年 敬神党の乱  太田黒伴雄
(おおたぐろともお。1835~1876)
廃刀令に反対して熊本の不平士族ら約170名が蜂起。熊本鎮台を襲うが鎮圧された。
 1876年 秋月の乱  宮崎車之助
(みやざきしゃのすけ。1839~1876)
敬神党の乱に呼応。征韓・国権拡張を主張した福岡県旧秋月藩士約200数十名が挙兵したが鎮圧された。
 1876年 萩の乱  前原一誠
(まえばらいっせい。1834~1876)
敬神党の乱・秋月の乱に呼応。山口県萩の不平士族約500名が挙兵したが鎮圧された。
 1877年
1月~9月
西南戦争  西郷隆盛
(さいごうたかもり。1827~1877)
鹿児島県の私学校(西郷が鹿児島に開いた学校)生を中心とした不平士族約13,000名が挙兵。兵力は一時数万名に達した。熊本城を攻撃するが落とせず、田原坂の戦い以後敗戦が続き、鎮圧される。


 西南戦争の敗北は、士族反乱の終わりを告げるものでした。政府徴兵軍の実力が国内に示され、武力反攻に終止符が打たれたのです。

 これ以降、武力に代わって、言論による政治攻撃が主流となりました。藩閥政府を「有司専制政治」と批判し、議会開設等の民主主義的政策を政府に要求する言論活動が展開されていきました。これを自由民権運動と呼びます。

 自由民権運動は、運動の担い手を士族から豪農、農民へと拡大しながら、活発な運動を展開させていきました。


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自由民権運動の展開



① 士族中心の民権運動
(1874~1877年頃)


 征韓論に敗れて下野した板垣退助・後藤象二郎ら
(注)はわが国初の政社愛国公党を設立するとともに、1874(明治7)年、民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)を左院(さいん。立法諮問機関)へ提出しました。


(注)建白書には8名の連署がありました。前参議板垣退助・後藤象二郎・副島種臣(そえじまたねおみ)・江藤新平と、由利公正(ゆりきみまさ。前東京府知事)・岡本健三郎(前大蔵大丞)・小室信夫(こむろしのぶ。前左院議官)・古沢滋(ふるさわしげる)の8名です。彼らが建白書を左院に提出したのは、左院が立法諮問機関である上、後藤が左院議長、江藤が左院副議長、小室が左院議官をつとめたという経歴をもっていたためと考えられています。


 民撰議院というのは、今日でいう国会(衆議院)のことです。板垣らは、明治政府を「有司専制」(官僚たちによる独裁政治)と批判し、公議を尽くすには民撰議院をつくる以外にない、とその設立を要求しました。政府はこれを拒絶しますが、建白書の全文がイギリス人ブラックが発行する新聞『日新真事誌(にっしんしんじし)』に掲載されて大きな反響を呼び、全国的な自由民権運動の口火となりました。

 ただし、板垣らは、民撰議院の議員選出の権利(選挙権)を、広く一般国民に与える普通選挙を想定していたわけではありませんでした。『自由党史』には次のようにあります。


「今其
(そ)れ斯(この)議院(注:民撰議院のこと)を立(たつ)るも、亦(また)(にわ)かに人民其(その)名代人(みょうだいにん)を択(えら)ぶの権利を一般にせんと云(い)ふには非(あら)ず。士族及び豪家の農商等をして独り姑(しば)らく此の権利を保有し得せしめん而已(のみ)。是(こ)の士族農商等は則(すなわ)ち前日彼(か)の首唱の義士、維新の功臣を出(いだ)せし者なり。」(遠山茂樹・佐藤誠朗校訂『自由党史・上』1957年、岩波文庫、P.107)


 つまり、板垣らは「選挙権は士族・豪農商等に限定すべきだ」とする「上流の民権説」を主張していたに過ぎませんでした。彼らは、かつて「首唱の義士」「維新の功臣」を輩出した人びとであるにもかかわず、新時代になっても何の報いも受けていませんでした。だから、彼らの意見を政治に反映させるために「早急に民撰議院を設立し、彼らに選挙を与えよ」と主張したのです。

 板垣らが目指していたのは、「士族・豪農商等」による民撰議院議員選出の制限選挙でした。それにもかかわらず、建白書の内容は一般民衆の共感を呼び、板垣退助は自由民権運動のシンボル的存在に祭り上げられていきました。

 民撰議院設立建白書を提出した同じ年、板垣は片岡健吉らとともに高知県に立志社をおこしました。さらに翌1875(明治8)年には立志社を中心に、全国的な政治組織愛国社(あいこくしゃ)を大阪に設立したのです。


《 政府の懐柔策 》


 こうした自由民権運動の高揚に対し、1875(明治8)年、政府高官の大久保利通は板垣退助・木戸孝允(木戸は台湾出兵に反対して下野していました)と妥協を試みました。これを大阪会議といいます。

 妥協の結果、板垣・木戸はいったん政府に復帰することになりました。

 政府は漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじりっけんせいたいじゅりつのみことのり)を出して徐々に立憲政体(憲法をつくり、憲法のルールに則った政治体制)に移行することを宣言し、三権分立の実をあげるために元老院(立法)・大審院(司法)を設置し、地方の意見を政治に反映するために地方官会議の召集を約し、民権派への歩み寄りを示しました。


《 政府の弾圧策 》


 しかしその一方、次々と弾圧立法を制定して、民権運動の押さえ込みにかかりました。民権派が新聞・雑誌を使って盛んに政府攻撃をくり返すのに対し、政府は1875(明治8)年、讒謗律(ざんぼうりつ。文書・肖像を用いて人をそしる者を処罰)・新聞紙条例(新聞・雑誌での政府批判を取締り)を制定して、民権派の反政府言論活動をきびしく弾圧したのです。


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② 民権運動が豪農へ拡大(1878~1881年頃)


 1877(明治10)年、民権の伸張を主張する立志社は、立志社建白で「国会開設・地租軽減・条約改正」の三大綱領を提起しました。ついで翌年には、立志社が中心となって解散状態になっていた愛国社を、大阪で再興しました。

 1880(明治13)年、第4回愛国社大会が開かれました。この大会では、各地の民権結社も合流して、国会期成同盟が結成されました。

 国会期成同盟は、国会の早期開設を目指して2府22県から8万7千名にのぼる署名を集め、国会開設請願書を太政官に提出しようとしました。しかし、国会開設時期尚早論を唱える政府はその受理を拒否し、集会条例を制定して民権派に弾圧を加えました。

 集会条例は結社・集会の届け出制を定め、軍人・教員・生徒の政治活動を禁止した法令です。会場監視の警官に、集会解散の権限を与えました。弁士の演説が政府批判に及びそうになろうものなら、警官の「解散!」のかけ声のもと、ただちに演説会が中断させられてしまいました。

 この頃、自由民権運動の中心は豪農層へと広がっていきました。当時の国家の税源は、そのほとんどを地租に頼っていました。豪農たちは「地租によって国家が運営される以上、納税者である自分たちに政治参加の権利がある」と主張したのです。

 こうした地方の動きに対し、政府は1878(明治11)年、郡区町村編制法(ぐんくちょうそんへんせいほう。地方行政区画の大区・小区制をやめ、郡・区・町・村とした)・府県会規則(ふけんかいきそく)・地方税規則(ちほうぜいきそく。府県の財源を確保するための税法を取り決めたもの)のいわゆる三新法を制定しました。

 このうち府県会規則は、各地に民会として設置されていた府県会を全国的制度として法制化したものです。府県会議員の選挙権は地租5円以上納付の満20歳以上の男子、被選挙権は地租10円以上納付の満25歳以上の男子でした。つまり、豪農たちに地方議会議員の選挙権・被選挙権を与えて、彼らに歩み寄る姿勢を示したのです。

 自由民権運動の当時のスローガンに必ず「地租の軽減」が含まれるのは、運動の支持者の多くが地租負担者である豪農たちであり、彼らはのちの制限選挙下において衆議院議員選挙権を行使することになるからです。

 こうした豪農民権の高揚を背景に、地方では200社以上もの政社(せいしゃ)が活動していたといわれます。

 また、地方の人びとの間では憲法の勉強会が開かれ、多くの私擬憲法(しぎけんぽう。民間で作成された憲法草案)が作成されました。そのなかでも、植木枝盛が起草した『東洋大日本国国憲按(とうようだいにっぽんこくこっけんあん)』は、国民に革命権・抵抗権を認めている点で特筆されるものです。


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③ 明治十四年の政変(1881)


 1878(明治11)年に明治政府の最高実力者だった大久保利通が暗殺されました(紀尾井坂(きおいざか)の変)。政府は強力な指導者を失い、自由民権運動の高揚を前にして内紛が生じました。国会の早期開設を主張する大隈重信と、国会時期尚早論・漸進主義をとる岩倉具視・伊藤博文らが激しく対立したのです。

 たまたま1881(明治14)年、開拓使官有物払下げ事件が起こり、政府攻撃の世論が高まりました。開拓使の官有物を、黒田清隆(薩摩藩出身)が同郷の五代友厚(関西貿易社)に不当に安い値段で払下げようとしていると新聞が報じ、問題化したのでした。1,490万円の費用を投じた官有物を、38万7千円で、しかも無利息30年賦で払い下げるということに対し、世論が沸騰しました(注)

 結局、官有物の払下げは中止となりましたが、イギリス流の政党内閣制や国会の早期開設(大隈は明治15年末に選挙を実施し、明治16年初めには「国議院(国会)」を開設するよう主張していました)を主張して伊藤ら諸参議と対立していた大隈重信は世論との提携を疑われ、政府から追放されました。これを明治十四年の政変といいます。

 政府は国会開設の勅諭(こっかいかいせつのちょくゆ)を出し、1890(明治23)年の国会開設を公約することによって政府攻撃の世論を鎮静化することに成功しました。

 明治十四年の政変を機に、伊藤らを中心とする薩長閥政権は、君主権の強いプロイセン流の立憲君主制樹立に向けての体制整備を徐々に進めていきました。

 一方、民権派も、来たるべき国会開設に向けて、憲法や民権思想の勉強会を開催したり、政党の結成に取り組んだりするなど、活動を活発化させていきました。


(注)
東京横浜毎日新聞の社説(1881年7月26日付け)が報じたものでしたが、黒田と五代に結託の事実はなく、報道は誤解でした。その後長く「五代は官有物払下げ事件に関係した」と濡れ衣を着せられてきました。歴史教科書の記述がようやく書き換えられたのは2023年の春からです(朝日新聞2023年4月12日付朝刊―五代友厚 濡れ衣だった「汚点」―)


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④ 政党の結成


 政府によって1890(明治23)年の国会開設が公約されると、自由党、立憲改進党、立憲帝政党などの政党が結成されました。

 自由党は、フランス流の急進的な性格をもつ政党です。国民主権、普通選挙の実施、衆議院のみの一院制、地租の軽減、条約改正などを主張しました。板垣退助を中心に、中島信行(なかじまのぶゆき)、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、馬場辰猪(ばばたつい)らといった人びとが集まりました。自由党は特に農村の士族、豪農層の支持を集めました。

 立憲改進党は、イギリス流の穏健的な漸進主義(ぜんしんしゅぎ)を標榜(ひょうぼう)した政党です。君臣同治、二院制、財産による制限選挙、地方自治、貿易振興などを主張しました。大隈重信を中心に、河野敏鎌(こうのとがま)、前島密(まえじまひそか)、尾崎行雄(おざきゆきお)らといった人びとが集まりました。自由党がおもに農村を支持基盤としたのに対し、立憲改進党は都市を支持基盤にしました。特にブルジョアジーや知識人らから支持され、また三菱と密接な関係をもちました。

 立憲帝政党は、政府側に軸足をおく保守的な政党です。天皇主権、欽定憲法制定、二院制、制限選挙などを主張しました。福地源一郎(ふくちげんいちろう)らが中心となって活動し、士族・神官・僧侶・国学者・漢学者・地方官吏といった旧勢力の人びとの支持を集めました。しかし、立憲帝政党は、民権派に対抗できるほどの勢力になれず、ほどなく解党してしまいました。


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●松方財政(1881~1891)●



① 国家財政の危機


 
 近代化政策の経費や西南戦争の軍費等を調達するため、明治政府は不換紙幣を乱発しました。また、1876(明治9)年の条例改正で兌換義務を取り除かれた国立銀行が続々と設立されて、大量に不換紙幣を発行しました。一方、輸入超過によって支払い用の金・銀が大量に海外へ流出していました。

 その結果、米価をはじめとする諸物価は高騰し、激しいインフレショーンが進行しました。米価の値上がりは農民には経済的余裕を、都市における消費者には生活難をもたらしました。

 当時の政府収入の約7割が地租でした。紙幣で納入される定額の地租収入は、インフレーションの進行にともなってその実質的価値を減少させました。その結果、国家財政は窮乏に瀕したのです。

 当時の大蔵卿は大隈重信でした。大隈が財政を担当した大隈財政(1873~1880)の時代に、工場払下げ概則(1880)による官営工場の民間への払下げ、増税などの対策が取られました。

 明治十四年の政変で大隈重信が失脚した後、大蔵卿(1885年からは内閣制度の創設により「大蔵大臣」)として財政を担当したのは松方正義(まつかたまさよし。1835~1924)でした。


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② 強力なデフレ政策


 松方財政の目標は、インフレーションを収束させて、財政の安定強化をはかることにありました。そこで強力なデフレ政策を断行しました。

 支出抑制のために緊縮財政をとり、増税によって市場に出まわる大量の不換紙幣を回収して次々と焼却処分しました。その一方、貿易代金を金銀で受け取って正貨の蓄積を進めました。

 こうして、紙幣と銀貨の交換比率がほぼ等価になった段階(1885年)で、銀兌換銀行券の発行が可能になったのでした。


《 緊縮財政 》 


 軍事費を除く多くの政府支出が削減されました。赤字になっている政府事業を地方に移管し、官営工場の民間払下げを進めました。


《 増 税 》


 増税の中心となったのは地方税と、酒や煙草などの嗜好品への課税でした。1880年度をそれぞれ100とした場合、増税の伸びを指数であらわしたものが次です(大江志乃夫氏による)。ぜいたく品への課税なら国民の抵抗が少ないだろう、と政府が考えるのは当時も今日も同じです。


   1880年度  1881年度  1882年度 1883年度
 国 税  100 111   123  122
府県税   100 134  143  134
町村税   100 114  120  119
 酒 税  100 193  296  244
 酒 税  100  94   96  736


 回収された不換紙幣は処分されていきました。そして、正貨(当時は銀)を蓄積していったのでした。1882(明治15)年に日本銀行を設立し、1883(明治16)年には国立銀行条例を改正して国立銀行から銀行券発行権をとりあげ、国立銀行を普通銀行に転換させました。そして、1885(明治18)年から銀兌換の日本銀行券を発行して、銀本位制をうち立てました。

 なお、政府紙幣と国立銀行券は回収され、日清戦争後には紙幣は日本銀行券のみとなりました。


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③ 松方財政の結果


 松方財政の結果紙幣整理が進み、財政の安定がもたらされました。

 その一方、ひどいデフレーションのため、不況の嵐が吹き荒れました。米・生糸(繭)をはじめとして物価が暴落し、生産者は生活苦・借金苦にあえぎました。

 1883年~1890年の間、税金滞納で土地の強制処分を受けた人びとは36万7千人。滞納金は11万4千円。そのため政府に没収され競売に付された土地は4万7千町歩、その地価は94万4千円にのぼったといいます(『日本近代史Ⅰ』岩波全書、P.97による)。

 自作農は多くは土地を失って没落し、小作農化(地主のもとで土地を借り、小作料を払う小作農となること)・プロレタリア化(都会に出て工場などの賃金労働者になること)する以外生きるすべを失いました。彼らの土地を集積して寄生地主はますます肥大化していきました。


 ◆松方財政の頃

 松方財政による不況の嵐が吹き荒れた時期には、活計困難を理由とした自殺者が激増しました(色川大吉『日本の歴史21・近代国家の出発』1974年、中公文庫、P.322)。柳田國男は、次のような「世間のひどく不景気だった頃」の話を書きとめています。

 西美濃(現、岐阜県)の山中に、50歳ほどの男が男女二人の子どもと暮らしていました。ひどい不景気のため、来る日も来る日も炭はまったく売れず、わずかな米さえ手に入らない有様。その日も手ぶらで戻ってきた男は、腹をすかせた子どもたちの顔を見るのがつらくて、炭焼き小屋の奥で昼寝をしてしまいました。男がふと目を覚ますと、そこには次のような光景がとびこんできました。


「眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末のことであったと謂
(い)う。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻(しきり)に何かして居るので、傍(そば)へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨いて居た。阿爺(おとう)、此(これ)でわしたちを殺して呉(く)れと謂ったそうである。そうして入口の材木を枕にして仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考も無く二人の首を打ち落としてしまった。」(柳田國男『山の人生』1925年-底本柳田國男集第4巻、筑摩書房、1968年-ただし旧字・旧かなを現代表記に改めた)


 その後男は、二人の子どものあとを追って死ぬことができず、「やがて捕えられて牢に入れられた」ということです。


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●民権運動の激化●



 
政府の対策(アメとムチ)


 自由民権運動の高揚に対し、政府は弾圧策と、民権派リーダーの入閣・洋行という懐柔策で、民権派の切り崩しをはかりました。この時、自由党の板垣・後藤の外遊資金の出所(井上馨の斡旋で三井が拠出)をめぐって改進党が攻撃すると、自由党は改進党と三菱の結託をあげつらい、泥仕合の様相を呈しました。

 松方財政の強力なデフレ政策によって経済不況が深刻化する中、運動の主体は豪農層から中・下層の農民へ移っていきました。これに、民党間の争いに終始するリーダーたちを見限った自由党下部の急進派が加わり、各地で過激的な諸事件を引き起こしました。


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② 激化の諸事件


 1880年代に起きた過激的な諸事件には、福島事件、高田事件、群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、大阪事件、静岡事件などがあります。これらの中には、自由民権運動との関連性がほとんどない事件もあります。しかし、こうした運動の急進化とそれに対する弾圧のくりかえしによって、民権運動は次第に衰退していったのでした。

 これらの諸事件のうち、福島事件、加波山事件、大阪事件をとりあげ、その概要をみておきましょう。


《 福島事件(1882) 》


 1882(明治15)年1月、福島県令に着任した三島通庸(みしまみちつね。1835~1888)には、「土木県令」の異名があります。1882年7月まで山形県令を兼任し、翌10月から栃木県令を兼任した三島は、会津三方道路(あいづさんぽうどうろ。会津から米沢(よねざわ。山形)・水原(すいばら。新潟)・今市(いまいち。栃木)を結ぶ産業道路)の開設工事に着手します。

 産業発展のためには東京と結ぶ輸送道路の整備は不可欠です。しかし、福島県にとっては、会津・米沢間の道路開設にさほどメリットはありません。しかし三島は会津6郡の住民を夫役を課し、夫役を負担できない者からは夫賃の徴収を強制したのです。

 福島県は自由民権運動が盛んな土地柄でした。福島県会は自由党が優勢を占めていました。しかし、三島は県令として着任するにあたり「自分の所轄管内には火付け強盗と自由党員は一匹も置かない」と豪語していました。最初から喧嘩腰だったのです。

 福島県会は、自由党幹部でもあった県会議長河野広中(こうのひろなか。1849~1923)を中心に、県令に反対する方針をうちだしました。三島は一度も議会に出席しませんでした。

 三島が道路工事を強行すると、自由党を中心に反対派農民が抵抗運動を展開しました。リーダーたちが逮捕されると数千の農民が喜多方(きたかた)町郊外の弾正ヶ原(だんじょうがはら)に集結して警官隊と衝突する騒動になりました。この機をとらえて多数の自由党員・農民らが検挙されました。河野らも逮捕されて架空の内乱陰謀罪で有罪となり、福島県の自由党は壊滅しました。


《 加波山事件(1884) 》


 福島事件に誘発され加波山事件がおこりました。福島・栃木・茨城各県の自由党員10数名が、三島通庸暗殺を企てて多数の爆弾を製造。「圧制政府転覆(てんぷく)」を叫んで加波山(茨城県)に立てこもり、警官隊と衝突したすえ逮捕されたという事件です。彼らは政治犯ではなく、殺人犯・強盗犯として死刑・無期徒刑(むきとけい)等の刑に処せられました。


《 秩父事件(1884) 》

 松方財政下で借金に苦しむ埼玉県の秩父地方の農民たちが借金党(しゃっきんとう)・困民党(こんみんとう)を結成し、郡役所に負債返済の延期を求めて嘆願をくり返しました。しかし、運動にゆきづまった彼らは代表を選出し、負債減免・借金破棄を求めて武装蜂起しました。多数の民衆を加えて高利貸・警察・郡役所等を襲撃し、その数は1万人にのぼったといわれます。政府は軍隊まで派遣して、彼ら鎮圧しました。死刑10名余を含む4,000名以上が有罪判決を受けました。

 秩父事件も、旧自由党員と直接的な関わりはなかったとされます。

《 大阪事件(1885) 


 旧自由党の大井憲太郎らが、朝鮮に渡って保守的政府を武力打倒し、朝鮮独立を企てましたが、事前に大阪や長崎で逮捕されたという事件です。武力挙兵によって、日本の内政改革を刺激する目的もあったといわれます。逮捕者の中には、女性民権家の景山英子(かげやまひでこ)の姿もありました。


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③ 事件の結果


 自由党急進派が中下層の農民たちと結び、勝手に各地で激化事件を引き起こしたことは、民権運動の指導者たちにショックを与えました。制御不能に陥った民権派は分裂しました。自由党は加波山事件後に解党し、立憲改進党も党首大隈らのリーダーたちが脱党して、自由民権運動は沈滞しました。


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④ 大同団結運動と保安条例(自由民権運動の終焉)


 しかし、国会開設の時期(1890年)が近づくにつれ、分裂した民権派の再結集がはかる動きが活発になっていきました。

 1887(明治20)年、旧自由党系の後藤象二郎らが大同団結運動を提唱します。大同団結とは「小異を捨てて大同を旨(むね)とする」という意味です。その意図するところは、来たるべき国会開設に備え、自由党・立憲改進党がこれまでの反目を忘れて団結しよう、という提唱です。開設予定の衆議院に民権派議員を送り込み、「民党」で過半数の議席を占めることを目指したのです。

 折しも、井上馨外相の条約改正交渉が失敗し、井上案に反対する片岡健吉らの三大事件建白運動(外交失策の挽回、地租軽減、言論・集会の自由を求める運動)が起こり、民権運動が再燃しました。全国から建白書をたずさえた人びとが、政府に激しい陳情運動をおこないました。

 政府は民権運動の高揚に対処するため、同年12月、保安条例を発布して弾圧をはかりました。

 保安条例は、内乱を陰謀・教唆(きょうさ。そそのかすこと)し、または治安を妨害するおそれありと判断した人物を、最高3年間、皇居から3里(約12km)以遠の地に追放できるという法令です。「3年間追放」という文言から、3年後(1890年)の国会開設のための準備を、民権派に邪魔されずに、自分たちのペースで進めたい、という政府の意図が透(す)けて見えます。

 保安条例によって、尾崎行雄(おざきゆきお)・星亨(ほしとおる)・中江兆民(なかえちょうみん)ら民権派570余名が東京から追放され、退去を拒否した片岡健吉ら十数名は軽禁錮(けいきんこ。監獄に拘置はするが定役には服さない刑罰)の刑に処せられました。こうして、三大事件建白運動は終息を余儀なくされました。

 次の史料は、保安条例違反によって逮捕された民権家が、伊藤博文首相に保安条例廃止を訴えた建言書の一節です。彼らの悲憤慷慨ぶりが伝わってきましょう。


国家の将(まさ)に滅亡せんとする、之(これ)を傍観坐視(ぼうかんざし)するに忍びず、寧(むし)ろ法律の罪人たるも退(しりぞい)て亡国の民たる能(あた)はず、 

                 
( 中略 )

 抑
(そもそ)も新聞条例(もとのまま。新聞紙条例)の如き、集会条例の如き、某等(それがしら)(な)ほ国家を誤る法律となせり。況(いわ)んや保安条例に於(おい)てをや。斯(か)くの如き政令を以て斯(かく)の如き暴法を発し、斯の如き逆政を為す。国家の土崩瓦解(どほうがかい)する日を期すべきなり。」 (遠山茂樹・佐藤誠朗校訂『自由党史・下』1958年、岩波文庫、P.340~341。旧字は新字に改め、適宜読み仮名を付した)


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