権利幸福きらいな人に
自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい
オツペケペ オツペケペツポ ペツポーポー
( 中略 )
洋語を習ふて開化ぶり
麺(パン)食ふばかりが改良(かいりょ)でねへ
自由の権利を拡張(こうちょう)し
国威をはるのが急務だよ
知識と知識の競(くら)べ合ゐ
キヨロキヨロいたしちや居られなゐ
窮理と発明のさきがけで
異国におとらずやツつけろ
神国名義だ日本ポー
(川上音二郎「オツペケペー節」-倉田喜弘編『近代はやり唄集』2016年、岩波文庫、P.58・61-)
●士族の反乱● |
時 期 | 反乱名 | 中心人物 | 内 容 |
1874年 | 佐賀の乱 | 江藤新平 (えとうしんぺい。1834~1874) |
征韓を主張して約12,000名が蜂起。佐賀県庁など襲撃したが鎮圧された。 |
1876年 | 敬神党の乱 | 太田黒伴雄 (おおたぐろともお。1835~1876) |
廃刀令に反対して熊本の不平士族ら約170名が蜂起。熊本鎮台を襲うが鎮圧された。 |
1876年 | 秋月の乱 | 宮崎車之助 (みやざきしゃのすけ。1839~1876) |
敬神党の乱に呼応。征韓・国権拡張を主張した福岡県旧秋月藩士約200数十名が挙兵したが鎮圧された。 |
1876年 | 萩の乱 | 前原一誠 (まえばらいっせい。1834~1876) |
敬神党の乱・秋月の乱に呼応。山口県萩の不平士族約500名が挙兵したが鎮圧された。 |
1877年 1月~9月 |
西南戦争 | 西郷隆盛 (さいごうたかもり。1827~1877) |
鹿児島県の私学校(西郷が鹿児島に開いた学校)生を中心とした不平士族約13,000名が挙兵。兵力は一時数万名に達した。熊本城を攻撃するが落とせず、田原坂の戦い以後敗戦が続き、鎮圧される。 |
●自由民権運動の展開● |
●松方財政(1881~1891)● |
1880年度 | 1881年度 | 1882年度 | 1883年度 | |
国 税 | 100 | 111 | 123 | 122 |
府県税 | 100 | 134 | 143 | 134 |
町村税 | 100 | 114 | 120 | 119 |
酒 税 | 100 | 193 | 296 | 244 |
酒 税 | 100 | 94 | 96 | 736 |
◆松方財政の頃 松方財政による不況の嵐が吹き荒れた時期には、活計困難を理由とした自殺者が激増しました(色川大吉『日本の歴史21・近代国家の出発』1974年、中公文庫、P.322)。柳田國男は、次のような「世間のひどく不景気だった頃」の話を書きとめています。 西美濃(現、岐阜県)の山中に、50歳ほどの男が男女二人の子どもと暮らしていました。ひどい不景気のため、来る日も来る日も炭はまったく売れず、わずかな米さえ手に入らない有様。その日も手ぶらで戻ってきた男は、腹をすかせた子どもたちの顔を見るのがつらくて、炭焼き小屋の奥で昼寝をしてしまいました。男がふと目を覚ますと、そこには次のような光景がとびこんできました。 「眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末のことであったと謂(い)う。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻(しきり)に何かして居るので、傍(そば)へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨いて居た。阿爺(おとう)、此(これ)でわしたちを殺して呉(く)れと謂ったそうである。そうして入口の材木を枕にして仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考も無く二人の首を打ち落としてしまった。」(柳田國男『山の人生』1925年-底本柳田國男集第4巻、筑摩書房、1968年-ただし旧字・旧かなを現代表記に改めた) その後男は、二人の子どものあとを追って死ぬことができず、「やがて捕えられて牢に入れられた」ということです。 |
●民権運動の激化● |