56.明治初期の外交政策


●明治政府の外交課題●



 明治政府には、三つの大きな外交課題がありました。

 第一は、わが国が幕末に諸外国から押しつけられた不平等条約(わが国に関税自主権がなく、諸外国の治外法権を認めた屈辱的なものでした)を改正し、日本を取り巻く国際環境を整備すること。

 第二は、日本経済の未発達を補うため、アジアへの政治的・軍事的進出をはかること。そのためには、中国・朝鮮との国交をまずは樹立すること。

 第三は、国境の画定です。

 そのため明治政府は、欧米列強に対しては屈従的・媚態的(びたいてき)な外交姿勢をとる一方、アジアに対しては高圧的な国権外交を展開しました。


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欧米との外交



① 岩倉使節団
(1871~1873)


 幕末期に欧米と結んだ不平等条約によって、わが国は多大な不利益を被ることになりました。そこで、治外法権(領事裁判権)を撤廃して法権を回復することと、協定関税制度を廃して関税自主権を回復することが、明治政府の外交課題になりました。

 日米修好通商条約第13条によると、1872(明治5)年7月1日以降に条約改定の協議ができることになっていました。そこで明治政府は、使節団を結成することにしました。これがいわゆる「岩倉使節団」でした。

 使節団の目的は三つありました。第一は、条約締結国の元首に国書を奉呈して友好を深めること。第二は、条約改正の準備が整っていないので、改正交渉の延期を通知し、改正条件を各国と相談すること。第三は、欧米諸国の制度・文物を調査・研究すること。

 岩倉具視(いわくらともみ。右大臣)全権大使のもと、副使に伊藤博文(いとうひろぶみ。工部大輔)・大久保利通(おおくぼとしみち。大蔵卿)・木戸孝允(きどたかよし。参議)・山口尚芳(やまぐちまさか(なおよし)。外務少輔)ら政府のそうそうたるメンバーが加わりました。総勢46名に随従者18名、留学生43名まで含めると、計107名を越す大規模な使節団になりました。わが国初の女子留学生5名(津田梅子ら)が参加したのも、この時です。そのほかにも、島地黙雷(仏教の革新運動を起こす浄土真宗の僧侶)・福地源一郎(立憲帝政党を結党)ら、のちの各界指導者となる人々が多数随行していました。

 こうして、1871(明治4)年11月、使節団は外輪蒸気船アメリカ号に乗船し、「海に火輪(かりん)を転じ」(三条実美の言葉)て横浜港を出発したのでした。

 最初の訪問国アメリカでは、行く先々で大歓迎をうけました。この大歓迎を条約改正の好機と考え、使節団は条約交渉を始めることにしました。しかし、持参した全権委任状には、条約改正の交渉権が明示されていませんでした。不備に気づいた大久保と伊藤が、新たな全権委任状を取りにあわてて帰国しましたが、彼らが再度渡米すると、条約改正交渉はすでに打ち切られていました。交渉が困難な上、単独調印が不利なことに使節団が気づいたからでした。


《 欧米視察の成果 》


 対米交渉が不調だったため、これ以降は目的を文物・制度の調査・研究に絞ることにし、使節団はヨーロッパに渡りました。そして、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・イタリア・オーストリア・スイスの11カ国を歴訪して、1873(明治6)年9月に帰国しました。1年10カ月という長期にわたる歴訪でした。

 口さがない江戸っ子たちは、


  条約は結び損
(そこな)い金は捨て、国へ帰ってなんと岩倉
   (使節団は条約改正には失敗するし無駄金使いもいいところ。帰国して岩倉は何と言い訳するのやら)


と悪態をつきました。

 しかし、枢密顧問官(すうみつこもんかん。1906年就任)の金子堅太郎(かねこけんたろう)は、岩倉使節団の意義を後年、次のように述懐しています。


 頑固なこの大官連の世界漫遊が、その後どれだけ日本の文明を促進したことか。小因大果という言葉があるが、実に明治文明の基礎はこの洋行によって作られたように私は思っている
(東京日日新聞社会部編『戊辰物語』1983年、岩波文庫、P.106)


 大久保はイギリス視察から殖産興業のプランを練り、伊藤はドイツ視察から中央集権的な国家像を描くなど、明治国家建設の青写真がつくられていったのです。この時の欧米歴訪の貴重な経験は、『特命全権大使米欧回覧実記』(久米邦武編修)という報告書になって残されています。


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② 寺島宗則の改正交渉(1876~1878)


 外務卿寺島宗則(てらしまむねのり。1832~1893)の条約改正案は、関税自主権の回復に主眼を置いていました。

 税権が回復できなければ、本来日本に入ってくるはずの税収は失われたままです。1876(明治9)年には三重や茨城などで大規模な地租改正反対一揆が起こり、政府は地租を3%から2.5%に減額せざるを得ませんでした。地租軽減の結果、減少した歳入を補うために、税権回復は急務とされていました。

 また、外国製品の来襲によって国内産業が圧迫されていました。国内産業を保護するためには外国製品に高い輸入関税をかけて、その流入を防がねばなりません。

 アメリカは寺島案に同意し、1878(明治11)年7月には、日米関税改定約書の取り交わしにまでたどりつきました。しかし、結局はイギリスとドイツの反対にあって失敗してしまったのでした。


《 アヘン密輸事件(1877~1878)の波紋 》  


 こうした時期に、アヘン密輸事件が起こりました。横浜在留のイギリス人ジョン=ハートリー(ジョン=ハルトレー)が、1877(明治10)年に生アヘン20ポンド(約9.2kg。1ポンドは453.59g)を密輸しようとして税関に摘発されたのです。税関は横浜英国領事裁判所にハートリーを訴えました。

 幕末に結ばれた通商条約の中には、貿易品にアヘンは厳禁と明確にうたわれていましたた(日英条約附属貿易章程第二則)。ところが、英国領事裁判所は「生アヘンは薬用であって条約に違反しない」と強弁して、ハートリーを無罪にしたのでした(なお、ハートリーは性懲りもなく、翌年にも吸煙アヘンを密輸しようとして摘発されています)。

 その頃、外国商人の密輸によって、日本国民の間にアヘンが広がりつつありました。日本の識者はアヘンの害毒を「コレラよりも恐ろしい」と評していたので、世論が沸騰しました。

 アヘン密輸事件は「税収の問題よりも、法権回復の方が先だ」という印象を人びとに植えつけました。こうして、条約改正交渉の重点目標が、税権回復から法権回復へと移っていくことになったのです。


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●アジアとの外交●



① 清国との関係
 


 1871(明治4)年、日本は清国との間に日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)を結びました。貿易・領事裁判権の相互承認をうたった初の対等条約でした。その内容は通商条約であるものの、「国家間のつきあいは利益に基づくのでなく友好による」とする東洋的な名分論から「通商条約」の語を避け、「修好条規」とされました。


《 琉球処分 》


 しかし、その後琉球の帰属問題で対立が表面化しました。日中両属という特殊な関係にあった琉球を、明治政府が日本に統合しようとしたことに対し、清国側が琉球に対する宗主権を主張して強く抗議したため事態が紛糾したのです。

 明治政府は1872(明治5)年に琉球藩設置を強行し、1879(明治12)年に本土から警官・軍隊を派遣して、その武力を背景に国王尚泰(しょうたい)に首里城退去を迫り、沖縄県を設置しました。強硬手段に訴えて琉球を自国領に編入したこの一連の動きを「琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)」といいます。

 日本の強引な行動に対して清国は強く抗議しました。アメリカ前大統領グラント(第18代大統領。1822~1885)の調停で一旦おさましたが、琉球(沖縄県)の帰属をめぐる日清間のしこりは、日清戦争まで残ることになりました。


《 台湾出兵 》


 1871(明治4)年、琉球漁民の船が台湾に漂着して、宮古島住民54人が現地人によって殺害されるという事件が起こりました。このため、政府は琉球帰属問題を背景に、清国と交渉をはじめました。1872(明治5)年、強引に琉球藩を設置したのも、琉球民が日本国臣民であることを内外に印象づける意図があったのです。

 しかし清国が、台湾東海岸を清国皇帝の王化が及ばない「化外(けがい)の地」としたため、1874(明治7)年、日本は問罪(もんざい)を名目に台湾出兵を強行しました。明治政府最初の海外派兵です。西郷従道(さいごうつぐみち)に率いられた兵員3,650余名は台湾上陸後各地に進攻し、約570名(戦死12名、病死561名)の犠牲を出しながらこれを平定しました。

 その後、駐清イギリス公使ウェードの斡旋により清国との和議が成立しました。清国は台湾出兵をしぶしぶ「保民の義挙」と認め、補償金として銀50万両(テール)、当時の日本円にして約67万円を支払いました。これにより、日本は台湾から撤兵しました。

 清国には琉球処分のわだかまりが残りました。琉球をめぐる日清間のしこりは、日清戦争の成敗(せいはい)が決するまで持ち越されることになりました。


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② 朝鮮との外交


 一方、朝鮮に関しては、いわゆる「征韓論」が起こりました。

 明治政府が成立すると、朝鮮と国交を開こうとしましたが、鎖国政策をとる朝鮮は再三これを拒絶しました。そのため、武力を背景とする強硬方針をとってでも朝鮮を開国すべきだ、とする征韓論が高まりました。

 こうした考え方が見られるようになったのは、幕末でした。「朝鮮がヤマト政権の支配下にあった」とする記紀の記述をよりどころに、国学者や後期水戸学の人びとが、江戸幕府が採ってきた対朝鮮友好外交政策に反対したのです。彼らは尊王攘夷の立場から、朝鮮侵略を是とする乱暴な意見を主張しました。こうした考え方が、明治政府の征韓派に影響を及ぼしていたのです。

 また当時、国内では明治政府の改革でさまざまな特権を失い、「無用の長物」扱いされていた士族たちの不満が高まっていました。このままでは、いつ彼らの不満が爆発しても不思議ではありません。こうした国内の危機的状況を回避するためには、不平士族たちの不満をガス抜きする必要がありました。

 朝鮮進出に期待をかけ、それを望んでいる不平士族をなだめ、彼らの矛先を外に向けさせるために朝鮮問題が浮上したのです。

 しかし、条約改正の予備交渉のため欧米歴訪の旅から帰国した岩倉具視・大久保利通らは、内治優先を唱えて征韓論に反対しました。今はまだ、国内政治や制度等を確立する時期であって、対外戦争などもってのほかだというのです。

 激論の末に、内治優先論に不満をもつ西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・福岡孝弟ら征韓派参議たちは、明治政府を連袂辞職(れんべいじしょく)しました。これを「明治六年の政変」といいます。


《 江華島事件と日朝修好条規の締結 》


 ところが内治優先を主張していた明治政府の首脳たちは、その舌の根もかわかぬ1875(明治8)年、江華島事件(こうかとうじけん)を起こしました。

 日本の軍艦雲揚号(うんようごう)が江華島(こうかとう。カンファド)から塩河(ヨムハ)に侵入して江華島砲台を軍事的に挑発したため、朝鮮側から砲撃され交戦になったのです。雲揚号は艦砲で攻撃、陸戦隊を上陸させて朝鮮側の砲台を焼き払いました。

 この事件の収拾のため、翌1876(明治9)年、日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき江華条約)が締結されました。

 その内容は、朝鮮の自主独立を認め(すなわち清との宗属関係の否定)、釜山・仁川・元山の開港を規定して、朝鮮の鎖国体制を放棄させたものでした。

 また、日本の領事裁判権等を、朝鮮に一方的に認めさせました。欧米から押しつけられた不平等条約を、今度は日本が朝鮮に押しつけるという格好になったのです。


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●国境の画定●



① ロシアとの外交



 1875(明治8)年、ペテルブルクにおいて、ロシア公使榎本武揚とゴルチャコフとの間で樺太・千島交換条約が調印されました。
 
 内容は国境の画定です。樺太全島をロシア領、千島全島を日本領とし、日本人のオホーツク海方面での漁業権を認めさせました。

 日露和親条約(1854)で樺太は両国雑居と定められましたが、住民間の紛争が絶えず、またクリミア戦争(1853~6)に敗北したロシアが樺太領有方針をとったため、ロシアとの衝突を避けたのです。

 日本は樺太におけるすべての権利を放棄し、南樺太に居住するアイヌを強制的に北海道に移住させるという措置をとりました。


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② 小笠原諸島の領有


 小笠原諸島は 東京湾からはるか1,000kmほど南方にある諸島です。豊臣秀吉や徳川家康に仕えた武将小笠原貞頼(おがさわらさだより。?~?)が発見して、「小笠原島」と命名したと伝えられていますが、真偽のほどは不明です。

 その後、長らく放置されていたため、「ボニン島」とか「ブニン島」などとよばれました。「無人島」の意味です。

 江戸後期になると、外国船が近海に出没するようになりました。イギリス人による占拠、アメリカ人の移住などがあり、ペリー来航の際にはここに貯炭所が設けられました。こうした経緯があったため、江戸幕府と米英両国との間で、小笠原諸島領有をめぐっての争いがありました。

 しかし明治政府が小笠原諸島の領有宣言をしたところ、諸国の反対がありませんでした。そこで、1876(明治9)年に日本領となり、1880(明治13)年、東京府の管轄下にはいったのです。


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 1871(明治4)年11月12日、岩倉具視を全権大使、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文(工部大輔)、山口尚芳(外務少輔)の4人を全権副使とし、各省の次官級を理事官とする48名の使節団と6名の男女留学生を加えた大使節団が、サンフランシスコをめざして横浜を出帆した。7月14日に廃藩置県という日本近代史上最大の変革を断行してから、わずか4カ月後のことである。

 「革命」の直後に新政府の中心人物の約半分が1年余にわたって欧米視察に出掛けてしまうというのは、大胆を通り越して無謀にすら思える。彼らは何のためにこの一見無謀に見える行動に出たのであろうか。成り行き次第では帰国後の政府は全く変わっていて、彼らが再び政権に復帰できない可能性も十分に考えられた。1868年1月(慶応3年12月)の王政復古から廃藩置県までの3年以上にわたって、大変革の先頭に立ってきた大久保利通や木戸孝允は、それでも1年余にわたる欧米視察を選択したのである。

(坂野潤治『日本近代史』2012年、筑摩書房(ちくま新書)、P.112)