●明治政府の外交課題● |
●欧米との外交● |
●アジアとの外交● |
●国境の画定● |
1871(明治4)年11月12日、岩倉具視を全権大使、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文(工部大輔)、山口尚芳(外務少輔)の4人を全権副使とし、各省の次官級を理事官とする48名の使節団と6名の男女留学生を加えた大使節団が、サンフランシスコをめざして横浜を出帆した。7月14日に廃藩置県という日本近代史上最大の変革を断行してから、わずか4カ月後のことである。
「革命」の直後に新政府の中心人物の約半分が1年余にわたって欧米視察に出掛けてしまうというのは、大胆を通り越して無謀にすら思える。彼らは何のためにこの一見無謀に見える行動に出たのであろうか。成り行き次第では帰国後の政府は全く変わっていて、彼らが再び政権に復帰できない可能性も十分に考えられた。1868年1月(慶応3年12月)の王政復古から廃藩置県までの3年以上にわたって、大変革の先頭に立ってきた大久保利通や木戸孝允は、それでも1年余にわたる欧米視察を選択したのである。
(坂野潤治『日本近代史』2012年、筑摩書房(ちくま新書)、P.112)