「文明開化」という言葉



  明治政府は近代国家建設のため、欧米の文物・諸制度の輸入に努めました。こうして生じた明治初期の一連の社会・文化上の転換を文明開化(ぶんめいかいか)といいます。

 文明開化は英語のシビリゼーション(civilization)の日本語訳です。しかし、わが国にはこれに相当する言葉がありませんでした。そこで、徳や教養のあることを意味する「文明」と、世運の進歩をはかる「開化」を、合成して造語したのが「文明開化」でした。福沢諭吉(1834~1901)が『西洋事情』外篇等の中で使用したことから一般に広まったとされています。

 欧米文明の来襲と急激な近代化は、わが国に少なからぬ混乱をもたらしました。

 文明開化=洋風化と見なす短絡的発想をもった人びとは、欧米文化の皮相的な部分のみ模倣しては、軽薄な欧米崇拝に終始しました。旧来の因習が打破される一方で、有形・無形の貴重な文化財がうち捨てられたり、海外に売られたりするなど、日本各地で浅慮軽薄な伝統破壊が繰り広げられていきました。こうした風潮に対する反発から、のちに国家主義や国粋主義等が台頭することにもなります。

 しかし、こうしたさまざまな混乱を経ながらも、欧米文明は日本の国民生活へ徐々に浸透していったのでした。

直線上に配置


啓蒙思想の時代



 日本には欧米からさまざまな思想が紹介されました。そうした思想の中でも、イギリス系の功利主義思想(こうりしゅぎしそう)とフランス系の自由主義思想が、当時の日本の各方面に及ぼした影響には大きなものがありました。


① イギリス系功利主義


 功利主義とは「快楽を幸福と見なし、功利を善とする」思想をいいます。その代表的な思想家がベンサム(1742~1832。イギリスの哲学者・経済学者)でした。彼は、人生の目的は幸福であり、しかも幸福は量的に測定が可能だと考えました。そこで、社会の発展は「最大多数の最大幸福(The greatest happiness of the greatest number)」を実現することにあると説いたのです。

 「最大多数の最大幸福」の社会を実現するためには、多数の人びとの意見が政治(議会)に反映されなければなりません。彼の理論は、当時選挙権をもたなかったイギリス産業資本家たちに支持されました。ベンサム自身、イギリスの第1回選挙法改正(産業資本家が選挙権を獲得しました。1832)の実現に尽力しました(ただし、ベンサムは法案成立直前に死去)。

 ベンサムの功利主義を発展させたのが、ジョン=スチュアート=ミル(1806~1873)です。彼は「幸福は量ばかりでなく、質的な面も考慮すべきである」と考えました。社会改良主義を主張し、人格の尊厳と個性・自由の重要性を強調しました。そして、イギリスの第2回選挙法改正(都市労働者が参政権を獲得しました。1867)の実現に努力しました。


《 中村正直(なかむらまさなお)の『西国立志編』・『自由之理』 》


 ベンサムやミルの功利主義を日本に紹介したのが、中村正直(なかむらまさなお。中村敬宇とも。1832~1891)です。

 幕臣だった中村は、江戸幕府が派遣した留学生の取締役として、1866(慶応2)年にイギリスへ渡航した経験をもちます。しかし、1年半ほど滞英したのち、1868(慶応4)年に帰国すると、幕府はすでに瓦解していました。帰国後は、東京女子師範学校(現、お茶の水女子大学)ついで東京大学の教授となりました。

 中村の帰国に際し、イギリスでの友人フリーランドが、餞別として1冊の本を彼に贈りました。それは、サミュエル=スマイルズ(イギリスの医者・作家。1812~1904)の”Self Help(自助論)”でした。書名は、序文にある格言”Heaven helps those who help themselves.(天は自ら助くる者を助く)” に由来します。船中でこれを読んだ中村は、その内容にいたく感激。そこには、古今数百人に及ぶ人々が、刻苦努力の末に成功を勝ち取るという、自立自助の個人主義道徳が説かれていました。「本書は日本青年必読の修養書である」。そう確信した中村は、すぐさま同書の和訳を志し、『西国立志編(さいごくりっしへん)』と名づけて刊行。その発行部数は100万部に及んだといいます。明治の青年たちを激励し続けた本書の影響力の大きさは、福沢諭吉の『学問のすゝめ』に並ぶと評されます。

 中村はまた、J.S.ミルの”On Liberty(自由論)”を『自由之理(じゆうのことわり)』の書名で翻訳しています。『自由之理』は、功利主義を基調に、個性と自由の重要性を強調しその効用を説いた本です。本書を馬上で読んだ河野広中(こうのひろなか。1849~1923)は、「忠孝道徳を除くすべての既存概念が木っ端微塵になるほどの衝撃を受けた」と告白しています。のちに河野は自由民権運動に身を投じ、福島県県令三島通庸(みしまみちつね)と激しく対立することになります(福島事件)。『自由之理』は、明治人に旧来の思想の大転換を迫る、当時としては衝撃の1冊だったのです。


《 福沢諭吉の『学問のすゝめ』 》


 『学問のすゝめ』は、福沢諭吉が書いた明治を代表する啓蒙書の一つ。1872(明治5)年~76(明治9)年にかけて17編まで刊行され、海賊版まで出るほどの大ベストセラーとなりました。

 本書は、人間平等・独立自尊の精神を尊ぶことを説き、学ぶことの意義を強調しました。そして、「個人の精神的・経済的独立が国家の独立につながる」と説いたのです。


 天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、 
( 中 略 )  実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来(いでく)るものなり。(福沢諭吉『学問のすゝめ』1979年(第38刷)、岩波文庫、P.11)


 本書が、政府の「学制序文(学事奨励に関する被仰出書)」の平等主義(国民皆学)・実学主義・立身出世主義に多大な影響を与えたことは、よく知られています。「天は人に上に人を造らず」という一句を、現在でも多くの人が諳(そら)んじることができるのは、その影響力の大きさを示す一証拠となるでしょう。

 また、1873(明治6)年、アメリカ帰りの外交官森有礼(もりありのり。のち文部大臣)の提案によって、西洋の学会にならい、明六社(めいろくしゃ)が設立されました。明六社には福沢諭吉・西村茂樹(にしむらしげき)・加藤弘之(かとうひろゆき)・西周(にしあまね)・中村正直・津田真道・神田孝平(かんだたかひら)らの学者が集まり、新しい思想・知識などの啓蒙活動に努め、政府の「文明開化」政策を側面から支援しました。明六社が発行した啓蒙雑誌が『明六雑誌(めいろくざっし)』です。


《 その他 》


 以上の他に、『日本道徳論』を著して儒教思想にもとづく国民道徳を説いた西村茂樹(にしむらしげき)、日本に哲学を移植し、また軍人勅諭を起草したことでも知られる西周(にしあまね)、ヨーロッパの法律を論じた『泰西国法論(たいせいこくほうろん)』の著者津田真道(つだまみち)らの人びとが活躍しました。

 また、加藤弘之(かとうひろゆき)は『国体新論(こくたいしんろん)』を著して天賦人権説を説きました。天賦人権説というのは「自由や平等といった基本的人権は誰もが天から与えられて(生まれながらにして)等しくもっている権利である」とする考え方です。しかし加藤は、のちにダーウィンの進化論の影響を受けて『人権新説(じんけんしんせつ)』を書き、「天賦人権説は妄想」として否定する立場に転じました。


直線上に配置


② フランス系自由主義


 フランスの代表的な啓蒙思想家はルソー(1712~1778)です。彼は急進的な自由主義の思想家で、『人間不平等起源論』において不平等の原因を私有財産制度に求め、絶対王政下にあった当時のフランス社会を強く批判しました。また、『社会契約論』の中では自然状態を理想化し、人民主権論や直接民主制を主張しました。

 こうしたフランス系の思想を日本に紹介したのが、中江兆民(なかえちょうみん。1847~1901)や植木枝盛(うえきえもり。1857~1892)らでした。


《 中江兆民『民約訳解(みんやくやっかい)』 》


 中江兆民は、ルソーが著した『社会契約論(しゃかいけいやくろん)』の一部を漢文で訳出し、『民約訳解』と名づけました。漢文すなわち中国語は、当時のアジアにおいては共通語でした。兆民はわが国ばかりでなく、東洋の人びとにも自由の思想を広めようと企図したのです。その志の高さゆえに、兆民は「東洋のルソー」とよばれます。


《 植木枝盛『民権自由論』 》


 植木枝盛は、人民主権説や天賦人権説を、庶民にもわかる平易な言葉にかみ砕いて紹介しました。


 一寸
(ちょっと)御免(ごめん)を蒙(こうむ)りまして日本の御百姓様日本の御商売人様日本の御細工人職人様そのほか士族様 ( 中 略 ) 御一統様(ごいっとうさま)に申し上げまする。さてあなた方は皆々御同様に一つの大きなる宝をお持ちでござる。この大きなる宝とは何んでござるか。( 中 略 ) それがすなわち自由の権と申すものじゃ。(植木枝盛『民権自由論』-家永三郎編『植木枝盛選集』1981年(第4刷)、岩波文庫、P.17-)


 中江・植木らの大きな功績は、自由民権運動の理論的根拠を示した点にあります。それゆえ、彼らを生んだ土佐の地が、そののち自由民権運動の一大拠点となっていったのです。


《 その他 》


 上記以外に、のちに大阪事件(1885)に関わる大井憲太郎(おおいけんたろう)や、『天賦人権論』を著した馬場辰猪(ばばたつい)などがいます。


直線上に配置


●近代教育の出発●



 新しい国づくりに必要なもの。それは何をおいても有為な人材です。そこで明治政府は、「人づくり」のために、学校教育に力を注ぎました。1871(明治4)年には、教育行政を管轄する役所として、文部省を設置しました。



① 学制
(1872年)


 
1872(明治5)年、明治政府はフランスを範とした学制(箕作麟祥(みつくりりんしょう)ら起草、文部卿(もんぶきょう)大木喬任(おおきたかとう)による)を頒布(はんぷ)しました。学区制を採用し、最初8大学区制を予定していましたが、実際には7大学区、246中学区、44,264小学区となりました。

 この時公表した教育方針が「学事奨励ニ関スル被仰出書(おおせいだされしょ)」(学制序文)です。その内容は、立身出世・実学主義・国民皆学・初等教育重視の考えに立脚するもので、わが国の近代教育はここから出発しました。


 自今以後、一般の人民
(華士族農工商及婦女子)必ス邑(むら)ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス。人ノ父兄タル者宜(よろ)シク此意ヲ体認シ、其愛育ノ情ヲ厚クシ、其子弟ヲシテ必ス学ニ従事セシメサルヘカラサルモノナリ。(「被仰出書」)


 
しかし、当時の国民の多くは貧しい農民だったため、月額50銭という高額な授業料負担や働き手の子どもが何年間も学校に奪われる(修業年限4年・4年の8年)ことなどに人びとは強く反発しました。

 また、初等教育の重要性を理解しない保護者も大勢いました。そのため「旧習になずむ一般の村の人たちは、まだまだ教育の必要を理解せず、子供に家の手伝いばかりさせていて、学校へやりたがらない親が多かった」(神崎清編『吉岡弥生伝』1941年、東京聯合婦人会)のです。

 その結果、日本各地で学制反対一揆が起こりました。



直線上に配置


② 教育令
(1879年)


 
こうした国民の反発に遭遇して政府はいったん妥協に傾き、1879(明治12)年、教育令を発しました(文部大輔(もんぶたいゆ)田中不二麿(たなかふじまろ)による)。

 教育令は、アメリカの自由主義教育の影響を受けていました。学区制を廃止し、地域住民の学校管理や修学期間の短縮(修業年限16カ月)などを認めた、かなり緩やかな内容のものでした。しかし、「これではまずい」と政府は考えたのでしょう。翌年には早々と改正して、国家統制色の濃い改正教育令を発したのです(文部卿河野敏鎌(こうのとがま))。

 なお、1877(明治10)年には官立の東京大学が創設されました(1886年には東京帝国大学に)。また私立としては、1868(慶応4、明治元)年に福沢諭吉によって慶應義塾が、1875(明治8)年には新島襄(にいじまじょう)によって同志社英学校が、1882(明治15年)年には大隈重信によって東京専門学校(のちの早稲田大学)が創設されました。


直線上に配置


●宗教界の動向●



① 神道の国教化


 王政復古を出発点とした明治政府は神道国教化政策をとることにより、近代天皇制の思想的強化を試みました。

 そのためにまず1868(明治元)年、神仏分離令(しんぶつぶんりれい)を公布し、神仏習合の下にあった神仏の分離を命じ、神道への一本化をはかりました。1869(明治2)年には神道関係業務を管轄する役所として神祇官(じんぎかん)を再興し、祭政一致を表明しました。

 次いで、1870(明治3)年には大教宣布の詔を出し、翌1871(明治4)年には神社の社格制度をうちたてて皇室神を祭る伊勢神宮を頂点とする神社群を官幣社(かんぺいしゃ)・国幣社(こくへいしゃ)などに格付けしていきました。

 また、人皇初代神武天皇の即位日とされる2月11日を、肇国(ちょうこく.。国のはじまり)の記念日として「紀元節(きげんせつ)」に定め、祝日として国民に浸透させることによって、政府は天皇とそのゆかりの神道を権威づけしていきました。

 しかし、近代国家が祭政一致を標榜(ひょうぼう)するなど、神道国教化政策はあまりにも復古的に過ぎました。天皇の権威づけが一応の成果をみると、1872(明治5)年、神祇官は官から省へと格下げされ、1877(明治10)年には廃止されてしまいました。

 こうして、天皇制と関わる神道が国家の保護を受けた一方、旧江戸幕府と結んで支配の一翼を担ってきた仏教は大打撃を被りました。由緒ある寺院や大切に守り伝えられてきた仏具・仏画・仏像などが無価値なものとされて、破壊されたり焼却されたりしました。奈良興福寺の五重塔がわずか25円で売りに出されたのも、この頃のことでした
(注)

 こうした廃仏毀釈(はいぶつきしゃく。「仏を廃し、釈迦の教えを捨て去る」の意)の嵐は、全国的に吹き荒れました。


(注)『改訂版詳説日本史研究』(2008年、山川出版社、P.338)にはこのように記載されています。しかし、興福寺はそのホームページで「五重塔が売却されるという噂も広まったが、これはあくまで伝承の域を出ない」と、五重塔売却の事実を否定しています。 (http://www.kohfukuji.com/about/history/04.html。2017年6月29日参照)


 ◆僧侶の受難(廃仏毀釈の頃)

 東京芝の青松寺の住職だった北野元峰禅師が、廃仏毀釈の頃の思い出を次のように語っています。


 僧侶が伊勢神宮に参拝に行くと、「坊主はまかりならぬ」ということで、僧衣を脱がせられて、ちょんまげのついたかつらをかぶせられる。そのかつらも、子どもの手習い草子でつくった急ごしらえのかつらで、泣くに泣かれぬ虐待だった。熱田神宮の鳥居の前には「僧侶不浄の輩入るを許さず」の立て札がたち、僧侶は不浄物扱いだった。檀家が神徒に早がわりしたため、寺の収入は激減して、ひどい貧乏をした。米も満足に買えず、ひき割り麦を7割まぜた黒い麦飯を食べていた。おかずは味噌汁のみ。ダイコンとニンジンの煮しめがつけば上等のごちそうだった。
(東京日日新聞社会部編『戊辰物語』1983年、岩波文庫、P.145~147から)
 

 江戸一流の仏師高村東雲のもとから独立したばかりの高村光雲(1852~1934)も、廃仏毀釈の被害を受けた一人。仏師としての注文がまったくなくなり、生活に窮したのです。仏像はあちらこちらで放り出され、二束三文でも買い手がつかない有様。果ては、川に流したり、土に埋めたり、たたき割って薪にされたりという悲惨な状況でした(『戊辰物語』、P.167参照)。


直線上に配置


② 仏教界の再興


 廃仏毀釈で大打撃を受けた仏教界でしたが、島地黙雷(しまじもくらい。1838~1911)・井上円了(いのうええんりょう。1858~1919)・福田行誡(ふくだぎょうかい)といった人びとによって、仏教再興の動きが見られるようになりました。

 浄土真宗の僧侶だった島地黙雷らは、政府の神道国教化に反対して信仰の自由を説きました。

 仏教哲学者の井上円了は妖怪研究を行い、迷信の打破に努めました。西洋哲学の方法によって仏教を解釈・体系化しようと試み、哲学館(てつがくかん。現、東洋大学)を開館したことでも知られます。

 浄土宗の福田行誡は仏教復興運動に尽力し、僧侶肉食妻帯解禁令(1872)などに反対しました。


直線上に配置


③ キリスト教の扱い


 五榜の掲示(1868)によって、人びとに改めてキリスト教禁止を告知していたなか、潜伏キリシタンの弾圧事件が起こりました。浦上教徒弾圧事件(うらがみきょうとだんあつじけん。1868~1873)と称される事件です。

 列国の強い抗議を受けた明治政府は1873(明治6)年、キリスト教禁止を撤回します。以後、外国人による布教活動(プロテスタント中心)が盛んになり、キリスト教系の学校であるミッション=スクール(Mission School)が各地に設立されるようになりました。


直線上に配置


●変わる国民生活●



① 太陽暦と七曜制の導入


《 太陽暦の採用 》


 
1872(明治5)年11月9日、明治政府は改暦の布告を出しました。要点は、太陽暦を採用する、明治5年12月3日を明治6年1月1日とする、という2点でした。しかし、改暦はわずか3週間後。このあわただしさには理由がありました。

 先ず、開国後、外国との折衝する必要が急増しました。その際、外国と日本で異なる暦を使っていては、約束した日程を誤るおそれがあります。共通の暦を使うということは国際化のための第1歩ともいえます。

 また、人件費の圧縮という問題もありました。明治政府は戊辰戦争の戦費や近代化政策への出費がかさみ、資金の捻出に窮していました。翌年(1873年、明治6年)はたまたま旧暦の閏年(うるうどし)にあたり、13カ月分の官吏給与を支払わなければなりませんでした。しかし、すぐさま改暦すれば、明治5年の12月分と、明治6年の閏年を解消して浮いた1カ月分、計2カ月分の給与支払いをせずに済むのでした。

 こうして改暦が強行されました。12月がわずか2日で終わり、突然新年がやってきたのです。そのため新・旧両暦で、正月の祝いを2度おこなう人もいたといいます。

 しかし、新暦を採用しても旧暦はすたりませんでした。新暦と季節にはずれがあったため、農事や俳諧・短歌等の文芸において混乱が起こったからです。そのため、民間では旧暦使用の慣習が長らく続くことになりました。


《 七曜制の採用 》


 太政官通達第27号(1876年3月12日付け)により、1876(明治9)年4月から官公庁は日曜日を休日、土曜日を午後半日休日とすることになりました。


 第弐拾七号           院省使庁府県
   従前
(じゅうぜん)一六日(いちろくび)休暇ノ処(ところ)、来(きた)ル四月ヨリ日曜日ヲ以(もっ)
  休暇ト被定候條
(さだめられそうろうじょう)、此旨相達候事(このむねあいたっしそうろうこと)
   但
(ただし)土曜日ハ正午十二時ヨリ休暇タルヘキ事
  明治九年三月十二日   太政大臣三条実美
(さんじょうさねとみ)


 わが国では、「一六日(いちろくび)」、すなわち毎月1と6のつく日(1日、6日、11日、16日、21日、26日)を休みとしていました。現在のような七曜(日・月・火・水・木・金・土曜日)を基準とした生活スタイルに移行したのは、太陽暦を導入したこと、日曜日を休日にしたことの2点にあるとされます。

 何にせよ、外国と同じく勤務日・休暇日を同一にしておいた方が、お互い日程の約束をとりつけるのには好都合でした。

 なお、土曜日の半日休日はかつて「半ドン」と呼ばれました。オランダ語で日曜日を意味するドンタク(zondag(ゾンターク)の訛り)に由来するとも、皇居で打たれた午砲(ごほう。正午の時報に空砲を打ち、その音からこれをドンといった)由来するとも言われます。


直線上に配置


② 生活の洋風化


 人びとの日常生活においても、洋風のスタイルが取り入れられていきました。

 丁髷(ちょんまげ)を切った散切り頭(ざんぎりあたま)のヘアースタイルで、洋服を着て靴を履いた姿が見られるようになりました。

 食事にも牛肉、パン、コーヒー、ビールなどが取り入れられました。

 都会の住居にはレンガ造りの洋風建築が見られるようになり、屋内の照明に石油ランプが用いられました。夕方になると、屋外ではガス燈に火がともされました。

 その他、交通手段としては、馬がレールの上の客車を引く鉄道馬車や、車夫が客を乗せて移動する人力車などが登場しました。

 特筆すべきは、本木昌造(もときしょうぞう。1824~1875)が鉛製活字(なまりせいかつじ)の量産に成功し、活字印刷が本格的に開始されたことです。

 自由民権運動の勃興によって、新聞・雑誌といった紙メディアによる情報提供・意見表明等が盛んになりました。しかし、旧来の木版印刷では版木の磨耗が激しく、大量印刷という時代の要請に応えられなくなったのです。

 1870(明治3)年に、わが国最初の日刊紙である横浜毎日新聞(よこはままいにちしんぶん)が刊行されたのを皮切りに、東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)・朝野新聞(ちょうやしんぶん)・読売新聞・郵便報知新聞・朝日新聞などが次々と創刊されました。


直線上に配置


55.文明開化

 (島根県の)松江から3里ばかり離れた所に大谷村という所がある。その小学校で教員が要(い)るというので、世話する人があって、私は間もなく、そこの代用教員になった。私の16歳のときである。食事つきで月給1円50銭であった。

 小学校といっても、初めは百姓家の座敷のような所で教えておったが、後には牛小舎(うしごや)の2階が小学校になった。下には牛がいてもうもうとなく。上では生徒ががやがや騒ぐ。この牛小舎の持主が校長で、村一番の豪家で、村では親方親方といわれていた。年は60ぐらいであった。私はその家に泊っていたが、食費は村の人がその人に支払う。それで60と16の老弱二人の教員だけで、この小さな小学校を教えていた。

 私は時間外は暇だから、田圃や小川でめだかを捕ったりして遊んでいる。牛を牽(ひ)いた村の人たちが通ると、「先生さん」と言ってお辞儀をする。その先生さんは尻をまくって、めだかを追いまわしているのである。校長先生の方は、学校が終ると、畑を耕したり、肥料を担いだりしていたが、これが私のことを「旦那さん」という。田舎の人は、貧富を問わず、松江から来た人を、旦那旦那と呼んでいた。だからこのめだかすくいの少年も「旦那」だったのである。

(若槻禮次郎『明治・大正・昭和政界秘史-古風庵回顧録-』1983年、 講談社学術文庫、P.36~37。古風庵は若槻禮次郎(1866~1949)の伊豆伊東市にあった別荘)