●「文明開化」という言葉● |
●啓蒙思想の時代● |
●近代教育の出発● |
●宗教界の動向● |
◆僧侶の受難(廃仏毀釈の頃) 東京芝の青松寺の住職だった北野元峰禅師が、廃仏毀釈の頃の思い出を次のように語っています。 僧侶が伊勢神宮に参拝に行くと、「坊主はまかりならぬ」ということで、僧衣を脱がせられて、ちょんまげのついたかつらをかぶせられる。そのかつらも、子どもの手習い草子でつくった急ごしらえのかつらで、泣くに泣かれぬ虐待だった。熱田神宮の鳥居の前には「僧侶不浄の輩入るを許さず」の立て札がたち、僧侶は不浄物扱いだった。檀家が神徒に早がわりしたため、寺の収入は激減して、ひどい貧乏をした。米も満足に買えず、ひき割り麦を7割まぜた黒い麦飯を食べていた。おかずは味噌汁のみ。ダイコンとニンジンの煮しめがつけば上等のごちそうだった。(東京日日新聞社会部編『戊辰物語』1983年、岩波文庫、P.145~147から) 江戸一流の仏師高村東雲のもとから独立したばかりの高村光雲(1852~1934)も、廃仏毀釈の被害を受けた一人。仏師としての注文がまったくなくなり、生活に窮したのです。仏像はあちらこちらで放り出され、二束三文でも買い手がつかない有様。果ては、川に流したり、土に埋めたり、たたき割って薪にされたりという悲惨な状況でした(『戊辰物語』、P.167参照)。 |
●変わる国民生活● |
(島根県の)松江から3里ばかり離れた所に大谷村という所がある。その小学校で教員が要(い)るというので、世話する人があって、私は間もなく、そこの代用教員になった。私の16歳のときである。食事つきで月給1円50銭であった。
小学校といっても、初めは百姓家の座敷のような所で教えておったが、後には牛小舎(うしごや)の2階が小学校になった。下には牛がいてもうもうとなく。上では生徒ががやがや騒ぐ。この牛小舎の持主が校長で、村一番の豪家で、村では親方親方といわれていた。年は60ぐらいであった。私はその家に泊っていたが、食費は村の人がその人に支払う。それで60と16の老弱二人の教員だけで、この小さな小学校を教えていた。
私は時間外は暇だから、田圃や小川でめだかを捕ったりして遊んでいる。牛を牽(ひ)いた村の人たちが通ると、「先生さん」と言ってお辞儀をする。その先生さんは尻をまくって、めだかを追いまわしているのである。校長先生の方は、学校が終ると、畑を耕したり、肥料を担いだりしていたが、これが私のことを「旦那さん」という。田舎の人は、貧富を問わず、松江から来た人を、旦那旦那と呼んでいた。だからこのめだかすくいの少年も「旦那」だったのである。
(若槻禮次郎『明治・大正・昭和政界秘史-古風庵回顧録-』1983年、 講談社学術文庫、P.36~37。古風庵は若槻禮次郎(1866~1949)の伊豆伊東市にあった別荘)