地租改正


 
① 財政の近代化


 日本が近代国家として出発するには、産業を育成・振興して(殖産興業)国力を練り、欧米列強に対抗しうる強力な軍隊を創出する必要がありました(富国強兵)。しかし、こうした近代化諸政策を実行するには、安定した財源の確保が急務でした。

 1873(明治6)年、地租改正(ちそかいせい)が断行されました。地租改正とは、土地所有者(地券所有者)に地租(ちそ。土地に対して課す収益税)の金納を義務づけた税制改革です。

 江戸時代は石高制でしたから、租税は基本的には米納が原則でした。そのため、豊凶によって、その年々の税収額が左右されてしまうという欠点がありました。そこで地租改正では、納税基準を法定の地価(ちか。課税標準となる土地の価格)と定め、地価の3パーセントを地租として金納させることに変更したのです。この改革によって、政府は全国一律の租税徴収権を掌握し、農作物の豊凶に左右されない安定した財源を確保することになりました。

 明治初期(1868~1875)の国家財政は、通常収入が2億8千万円でした。その内訳を見ると、年貢・地租収入が2億3千万円で全体の82パーセントを占めており、明治政府の財源がいかに地租に依存していたかがわかります。


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② 地租改正の影響


 地租の3パーセントという数字は、「旧来の歳入を減少させない額」として算出された数字でした。したがって、農民の負担は江戸時代とまったく変わらなかったのです。また、地価も現実の地価ではなく、土地収益から一方的に算出した法定地価でした。

 農村では高率の地租のため中小農民が没落し、大規模な地租改正反対一揆を誘発しました。三重(三重騒動)や茨城(真壁騒動)などで大規模な一揆が起こると、政府は地租を2.5パーセントに減額して、一揆の収拾をはからざるを得ませんでした。当時、


   竹槍
(たけやり)でどんと突き出す二分五厘(にぶごりん)


といわれました。

 一方、地主は没落農民の土地を集積し、寄生地主として肥大化していきました。

 また、地租改正は、地主・小作関係にはまったく手を触れなかったため、小作人は従来通り収穫の約半分という高率の小作料を、地主に物納し続けることになりました。こうした地主・小作間の封建的関係の解消は、第二次世界大戦後の農地改革まで待たなければならなかったのです。


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殖産興業政策の展開



① 上からの近代化


 農民の犠牲の上に確保された地租は、増発される不換紙幣・公債等とともに、殖産興業政策の財源にまわされました。

 しかし、民間企業は零細経営が多く、資本の蓄積も不十分でした。そこで政府は「上からの資本主義化」をはかります。資本主義下におけるこのような国家権力への依存は、後進資本主義国で見られる共通の特徴で、明治日本もその例に漏れません。

 明治政府は産業振興の拠点として、工部省(1870~1885)・内務省(1873~1947)二つの役所を設置しました。

 工部省は「百工勧奨(ひゃっこうかんしょう)」を目的に創設された役所で、軍事工業部門を重点に置き、広範な官営事業の経営と技術の導入・改良にあたりました。初代工部卿(こうぶきょう)には伊藤博文が就任しました。

 内務省は勧業寮(かんぎょうりょう)を中心に、多くの事業部門を統合・管理しました。勧業・勧農をはじめ、警察、郵便、土木、衛生など、その事業内容は多岐にわたります。初代内務卿(ないむきょう)に就任した大久保利通によって、製糸・紡績・貿易等を中心に、殖産興業に力が注がれました。


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② 官営模範工場(かんえいもはんこうじょう)の設立


 「上からの資本主義化」を進めた政府は、自ら工場を建設して範を示しました。これを官営模範工場といいます。のち、工場払下概則(こうじょうはらいさげがいそく。1880年)の制定を機に、政府の方針は民間育成事業に転換しました。また、1881(明治14)年に農商務省が開庁すると、工部・内務両省の農・商・工業部門の諸事業を一括して担当することになりました。


《 富岡製糸場(とみおかせいしじょう) 》  


 官営模範工場の代表例としてあげられるのが、富岡製糸場(とみおかせいしじょう。群馬県)です。輸出産業の主翼を担う製糸業を発展させるため、製糸技能者の養成を目指しました。レンガ造りのモダンな洋式工場で、器械はフランスから導入し、技師としてフランスからポール=ブリュナ(1840~1908)を雇い入れました。

 ところが、製糸場で働く工女(こうじょ。女性労働者)を募集したものの、なかなか集まりませんでした。外国人忌避に由来する恐怖心から、流言飛語が飛び交っていたからです。そのため、政府は「外国人は女の生血を吸う」などの妄言(もうげん)に対して、諭告書を出しています(1872年)。


 この
(富岡)製糸場において女職人(おんなしょくにん)四百人余御雇入(おやといい)れ相成(あいな)り、製糸の法を学ばせらるべきに、右女は外国人に生血を取らるるなどと妄言(もうげん)を唱(とな)ひ、人を威(おど)し候者(そうろうもの)もこれ有(あ)る由(よし)、以(もっ)ての外(ほか)の事に候。右女職人は製糸術伝習(でんしゅう)の上は御国内製糸の教師に成されたき御趣意(ごしゅい)に候 ( 後略 )


 1872(明治5)年10月4日、富岡製糸場は操業を開始しました。当初こそ工女集めに苦労しましたが、翌1873(明治6)年には工女総数は556名に達しました。工女の出身はさまざまでしたが、最も多かったのは士族でした。彼女たちが生産し輸出された生糸は、「トミオカシルク」のブランド名で世界に知られていきました。

 当時、富岡でうたわれた俗謡からは、富岡工女のプライドがうかがわれます。


  髪は束髪
(そくはつ) 花ようじ 紫はかまを着揃(きそろ)えて 
 縮緬襷
(ちりめんだすき)をかけ揃(そろ)え  糸繰(いとく)る姿のほどのよさ


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② 内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)  


 諸外国の万国博覧会を参考に、内務省(のち農商務省)が主催して始まった内国勧業博覧会は、外国の新技術の紹介や国内産業の奨励を目的に、1877(明治10)年から1903(明治36)年までの間、東京で3回、京都・大阪で各1回ずつ開催されました。

 第1回内国勧業博覧会は、1877(明治10)年、上野公園で開催。8万4,000点の展示品が出品され、6区画(鉱業及び冶金、製造物、美術、機械、農業、園芸)に分けて展示されました。3か月間の会期中の入場者数は45万人にのぼったということです。

 この時、臥雲辰致(がうんときむね。1842~1900)が発明した臥雲式綿紡績機械(いわゆる「ガラ紡」)が鳳紋章(ほうもんしょう。最優秀賞)を授章しています。


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③ 北海道の開拓 


 北海道(1869年に蝦夷地を北海道と改称
(注))の開拓も、政府の進める殖産興業政策の一つでした。

 北海道開拓をになった役所が開拓使(かいたくし)です(1869年東京に設置。1871年札幌に移設)。北海道の開拓にはアメリカ式の大農場制度が採用されました。明治政府は開拓使顧問としてアメリカ人農政家ケプロン(1804~1885)を招いて、その任に当たらせました。

(注)
北海道の名付け親は、探検家であり、当時開拓判官の職にあった松浦武四郎(まつうらたけしろう。1818~1888)です。明治政府内で、蝦夷地の呼称をどうするか論議された際、松浦は「日高見道(ひたかみどう)、北加伊道(ほっかいどう)、海北道、海島道、東北道、千島道」の6案を提出しました。この中から「北のアイヌの地」を意味する北加伊道が採用され、字を改めて「北海道」としたのです。


《 屯田兵(とんでんへい) 


 1874(明治7)年には、北海道の開拓・国境警備・公安などにあたらせるため、屯田兵をおきました(1904年廃止)。士族授産の意味合いもあり、屯田兵は奥羽諸藩の士族から募集されました。こうして、道内各所に屯田兵村(とんでんへいそん)がつくられました。


《 札幌農学校(さっぽろのうがっこう) 》

 1876(明治9)年には、アメリカ式大農場制度の移植をはかるために、札幌農学校を開校しました。アメリカ人教頭クラーク(1826~1886)の感化を受け、新渡戸稲造(にとべいなぞう。1862~1933)や内村鑑三(うちむらかんぞう。1861~1930)らがキリスト教の信仰集団(札幌バンド)を結びました。クラークが帰国に際して残した言葉、


   ”Boys,be ambitious(青年よ、大志を抱け)”


は有名です。


《 北海道旧土人保護法(ほっかいどうきゅうどじんほごほう) 


 北海道に先住するアイヌの人びとは、狩猟・漁労・採集の生活を送っていました。明治政府は、そうした生活様式を遅れた文明と見なし、厳しい同化政策をとりました。

 1899(明治32)年にはアイヌの救済・保護を名目に北海道旧土人保護法を出して、農業の強制やアイヌ独特の風俗・習慣の廃止等を要求しました。日本政府が北海道旧土人保護法を廃止して、アイヌ文化振興法を制定したのが1997(平成9)年。アイヌの伝統文化の破壊や差別という誤りに気づくまでに、約1世紀もの時間を要しました。


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④ 運輸・通信網の整備 


 明治政府は、政治・軍事利用に即して、運輸・通信網を創設・整備していきました。


《 海 運 》


 軍隊を海上移送する場合、どうしても国内に輸送手段を確保しておかなければなりません。

 政府のこの要請に応えたのが三菱(みつびし)でした。三菱は、台湾出兵(1874)や西南戦争(1877)などにおいて政府の軍事輸送を担当し、以後、政府と深く結びついて発展しました。このように、政府と結託して営業上の特権を受けて利益を得る商人を「政商(せいしょう)」とよびます。

 三菱の創始者は岩崎弥太郎(いわさきやたろう。1834~1885)です。

 三菱は、1870(明治3)年、岩崎が土佐藩の藩船を引き継いで設立した大坂商会(のちの九十九商会(つくもしょうかい))に始まります。ついで海運事業を中心に三川商会(みかわしょうかい)を設立し、1873(明治6)年に三菱商会と改称。1875(明治8)年には、わが国初の外国航路、横浜・上海間を開きました。同年、三菱汽船会社、ついで郵便汽船三菱会社と改称。1879(明治12)年には香港航路を開き、1885(明治18)年には共同運輸会社(三井を中心とした半官半民の運輸会社)と合併して日本郵船会社(にほんゆうせんがいしゃ)を設立するのです。


《 鉄 道 》



 わが国の鉄道創始に貢献したのは、お雇い外国人エドモンド=モレル(イギリス。1841~1871)でした。建設にあたってモレルは、線路に狭軌(きょうき。レール間隔が狭いもの)を採用し、国内産の枕木を使用するなどしました。わが国初の鉄道開通は1872(明治5)年、新橋・横浜間でした。しかし、モレルは前年に東京で客死し、その完成を見ることはありませんでした。

 当時、蒸気機関車は「陸蒸気(おかじょうき)」とよばれました。平均時速は32.8kmで、29kmの距離の移動するのに53分を要したといいます。開業時の運賃は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘でした。米1斗(15kg)が50銭で買えた時代でしたから、かなり高価な乗り物でした。

 1874(明治7)年には神戸・大阪間、1877(明治10)年には京都・大阪間が開通し、1889(明治22)年には東京・神戸間の東海道線が全通しました。これは翌1890(明治23)年に、国会開設を控えていたためです。


《 電 信 》


 現在、電柱を「電信柱」とも呼ぶのは、電柱がかつて電信のために敷設された名残りです。

 わが国に実用電信が敷設されたのは1869(明治2)年、東京・横浜間が最初でした。翌1870(明治3)年には大阪・横浜間にも敷設。1871(明治4)年には長崎・上海間に海底ケーブルが敷設され、1873(明治6)年には東京・長崎間、1875(明治8)年には東京・札幌間が開通しました。こうして日本の主要都市と世界各地が電信で結ばれることになりました。

 電信は当時、「針金通し(はりがねどおし)」などの俗称でよばれました。電信についての無知から、「電線を引く(敷設する)」を「伝染病を引っ張ってくる」と誤解して電線を切った者もいました。また「遠くに信号を送る」というのを生聞きして、遠方の親戚に荷物を送ろうと風呂敷包みを電線にぶら下げる者があとを絶ちませんでした。そのため、騎馬警官が電線を見張っていたということです。

 なお、アメリカで電話が発明された翌1877(明治10)年、すぐさま電話機を輸入しました。当初は官庁間で実験的に採用されましたが、1889(明治22)年に東京・熱海間、1890(明治23)年に東京・横浜間で業務が開始されました。


《 郵便制度 》


 わが国の郵便制度はイギリスから導入されました。切手貼付(きってちょうふ)・消印(けしいん)による郵便料金徴収の仕組みを創始したのが、イギリスでした。世界最初であるがゆえ、イギリス切手には国名が記載されていません。

 郵便制度の導入には、駅逓頭(えきていとう)前島密(まえじまひそか。1835~1919)の尽力がありました。現在、前島は1円切手の肖像に採用されています。最低料金切手の肖像画に郵便制度の功労者が採用されているのは、アメリカ合衆国の1ドル紙幣に「建国の父」ワシントンの肖像画を採用した理念に通ずるものがあります。

 最初の郵便は1871(明治4)年3月1日、東京・京都・大阪の三都市間で始まりました。東京から京都・大阪までの間に、郵便役所(1875年に郵便局と改称)は65カ所のみ。初日の全郵便役所の差し立て数は308通しかありませんでした。

 使用された切手は48文、100文、200文、500文の4種類。郵税(郵便料金)は距離別制で、同一市内なら48文、東京から小田原までが200文、大阪まででは1貫500文でした。1貫500文は銭に直すと15銭に相当します。当時は握り鮨1人前が5銭だったといいますから、かなり高価なもので、庶民が気軽に利用できるものではありませんでした(田辺猛「少女の涙から生まれた切手」-『スタンプマガジン』1996年4月号-による)。

 新制度に対する庶民の戸惑いもありました。郵便箱(郵便ポスト)を「垂れ便箱(たれべんばこ)」と読み間違えて、便所と勘違いした人もいたということです。

 なお、1877(明治10)年には、外国郵便の国際協力を取り決めた万国郵便連合条約を締結して、わが国も万国郵便連合に加入しました。


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⑤ 貨幣・金融制度


 戊辰戦争の戦費を調達するために、明治政府は太政官札(だいじょうかんさつ)・民部省札(みんぶしょうさつ)という不換紙幣を大量に発行しました。これに江戸時代以来の三貨が流通していたため、人びとは混乱しました。紙切れの紙幣と貴金属の貨幣、計数貨幣と秤量貨幣、貨幣によって単位が異なったり、その時々の金銀相場の違いによって交換比率が変動するなど、様々な基準が入り乱れていたからです。

 こうした混乱を解消するため、1871(明治4)年、伊藤博文の建議によって新貨条例(しんかじょうれい)が公布されました。要点は次の2点です。


 (1)金本位制を採用する(純金1500ミリグラムの1円金貨を本位貨幣としました)。
 (2)貨幣単位を(香港ドルを円と称していたから、など諸説あります)・(100分の1ドルの 
    centからとったとされています)・(りん。10分の1セントのmiliからとったとされています)
    とする10進法を採用する。


 しかし、アジア諸国が銀本位制だったため、貿易上の便宜を考えて、実際には銀貨も製造しました。そのため実際には、金銀複本位制(のちに銀本位制)でした。

 1872(明治5)年、アメリカのナショナル=バンクの制度にならい、政府は国立銀行条例(伊藤博文・渋沢栄一の建議)を公布しました。不換紙幣を整理し、殖産興業への資金を供給する兌換券の発行を目的に、銀行をつくることにしたのです。ただし、正貨兌換を義務づける兌換制度をとったため、国立銀行条例にもとづく銀行設立は4行しかありませんでした。

 国立銀行とはいうものの、国営銀行ではありません。「国法(国立銀行条例)によって設立された民間銀行」という意味です。

 1873(明治6)年には、最初の国立銀行、第一国立銀行が三井組(旧幕府の為替方)・小野組(金融業の井筒屋)の出資によって設立されました。第一国立銀行の建物は、清水喜助(しみずきすけ。2代)の設計・施工にかかる和洋折衷の建物で、第一国立銀行に譲渡される前は「三井組ハウス」とよばれました。1875(明治8)年には、渋沢栄一(しぶさわえいいち。1840~1931)が第一国立銀行の頭取(とうどり)に就任しました。

 国立銀行は設立順に、第一国立銀行、第二国立銀行、第三国立銀行…と、番号を付して命名されました。1876(明治9)年に正貨兌換の義務を取り除き、不換銀行券も発行可能としたため、銀行設立ブームがおきて急増。1879(明治12)年までに153行(最後は第百五十三国立銀行)が設立されました。

 1882(明治15)年には、大蔵卿松方正義 (まつかたまさよし。1835~1924)の建議により、わが国の中央銀行として、日本銀行が設立されました。日本銀行の設立にともない、翌1883(明治16)年には国立銀行条例が改正され、20年間で国立銀行は普通銀行に転換することになりました。

 日本銀行は、1885(明治18)年からは唯一の発券銀行として、銀兌換銀行券を発行しました。


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●「富国」から「強兵」へ●



① 薩長連合の成立
(1866)


 製糸工女は、


  男軍人、女は工女、糸をひくのも国のため
(工女節)


と歌いました。輸出産業の中心となった製糸部門が日本経済を支え、その国力を背景に、日本は近代兵器を装備した強力な軍隊を育成した、という民衆レベルでの実感です。そして、この軍隊が後の日清・日露戦争を戦い、勝利するのです。

 明治政府の目標は、まさしくこうした「富国強兵」の実現にありました。


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② 徴兵令


 近代兵制の出発点は、1873(明治6)年に布告された徴兵令にあります。そもそも徴兵制度は大村益次郎(おおむらますじろう。1824~1869)によって主張されたものでしたが、大村の後継者山県有朋(やまがたありとも。1838~1922)によって実現したものです。

 徴兵令によって、西洋の兵制と四民平等の理念(国民皆兵)に根ざした、政府直属の常備軍が創出されました。

 徴兵は満20歳に達した男性の中から選抜されるのが建前で、「国民皆兵」をうたっていました。しかし、官僚制と家制度を守るための免役規定が広範に認められており、実際の負担は、免役規定の恩恵にあずかれない農村の二男以下の層に集中しました。

 江戸時代には農民の負担は納税だけでした。それが、明治になって兵役までも負担しなければならなくなったのです。

 徴兵によって、農家は貴重な働き手を奪われることになりました。その上、不公平な免役規定のため、実際の徴兵は農村の二男以下に集中しましたから、農村内には徴兵制度に対する強い憤懣がくすぶることになりました。そのため、「血税騒動(けつぜいそうどう。1872年の徴兵告諭の中にある「血税」の語に由来。徴兵令反対一揆)」が頻発しました。

 1876(明治9)年の数字で見ると、20歳壮丁の総員29万6,000人に対して、免役者は24万2,000人いました。実に、総員の82%が徴兵から逃れているのです。「8割の者が免役」という異常な免役率の高さの実態から、当時の民衆の徴兵制度に対する抵抗のすさまじさを知ることができます。

 
   徴兵・懲役一字の違い 腰にサーベル
(兵隊が腰に帯びる剣のこと)鉄鎖(てつぐさり)
 
 (徴兵令も懲役刑も似たようなものだ。兵隊になって腰にサーベルを下げるか、囚人になって
    腰を鉄鎖でつながれるか、何年も自由を奪われることには変わりはない)



 一方、明治政府の矢継ぎ早の改革によって旧来の特権を喪失し、徴兵令の「国民皆兵」方針によって「無用の長物」とされた士族たちも政府に対する不満を募らせて、士族反乱をおこすことことになります。しかし、そうした士族反乱を鎮圧したのは、徴兵令によって創出した近代的軍隊によってでした。


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③ 軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)


 最後の士族反乱である西南戦争を鎮圧した翌年(1878年)、政府は陸軍の軍令(作戦用兵に関する天皇の最高命令)を管掌する参謀本部(さんぼうほんぶ)を設置しました。そして1882(明治15)年には、軍人勅諭を公布するのです。

 軍人勅諭は西周(にしあまね。1829~1897)が起草し、井上毅(いのうえこわし。1843~1895)らが加筆して成立しました。大元帥(だいげんすい。陸海軍の統帥者)である天皇に対して軍人たちの忠誠を求め、軍人の徳目として忠節・礼儀・武勇・信義・質素などをあげました。また、軍人の政治不関与も説きました。

 なお、東京府の治安維持にあたらせるため、内務省は1871(明治4)年に邏卒(らそつ。明治初年の警察官の称)3,000名を置きました。邏卒は三尺棒(さんじゃくぼう。長さ1m弱の警棒)を持ち、東京府内を巡視しました。

 1874(明治7)年、川路利良(かわじとしよし。1836~1879)の建議にもとづき東京警視庁が設置され、川路が大警視(長官)に就任しました。東京警視庁は内務省に直属し、警察事務のほか消防・監獄も管轄しました。


 ◆徴兵免役規定

 1873年1月10日に布告された徴兵令第3章常備兵免役概則などの、おもな免役規定は次のようなものでした。


   ① 身長155cm未満
   ② 病弱者
   ③ 官吏
   ④ 陸海軍の士官学校生徒
   ⑤ 官立学校生徒・留学生
   ⑥ 戸主
   ⑦ 嗣子
   ⑧ 養子
   ⑨ 代人料270円納入者


 体格不良者(①②)のほかは、官吏と学生(③④⑤)、戸主及びその相続者(⑥⑦⑧)、代人料270円納入者(⑨)などが免役されたわけです。これらの規定から、官僚制と「家」制度の維持に、明治政府の意図があったことがわかります。

 ⑨の代人料というのは、自分のかわりに兵役を務める者にかかる経費のことで、これをまかなうことで徴兵を免除されました。兵卒一人にかかる年間必要経費は約90円で、その内訳は次の通りです。


   給与      約18円25銭
   食費      約30~32円
   被服・消耗品等   約41円


 1年間に約90円かかるわけですから、3年間(徴兵服役期間)なら270円になるという計算です。

 1883(明治16)年の改正で免役規定は廃止され、単なる徴収猶予の形になりました。さらに、1889(明治22)年の大改正によって平時徴収猶予は廃止されました.


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54.殖産興業・富国強兵

 第1回内国勧業博覧会は、明治10年8月、東京上野公園で開かれました。博覧会という名称は、明治4年の京都博覧会を始め、各種物産会や名品陳列会等としてすでにありましたが、内国勧業博覧会はは従来の見世物イメージを払拭し、産業奨励を全面に打ち出した画期的なものでした。約3ヶ月にわたる会期中の入場者数は約45万人。海上には、本館、美術館、機械館等の陳列館が建設され、8万4千点余りの展示品が、鉱業及び冶金、製造物、美術、機械、農業、園芸の6区画に分けて展示されました。

 第2回内国勧業博覧会は、明治14年3月から約4カ月間、第1回と同じく上野公園で開かれました。入場者は第1回のおよそ2倍の約82万人。英国人建築家コンドルが設計した本館のほか6館の陳列間が建てられ、33万点程が出品されました。

(国立公文書館平成22年秋の特別展解説書『公文書にみる発明のチカラ・明治期の産業技術と発明家たち』P.1)