53.明治維新

一、広く会議を興し、万機(ばんき)公論に決すべし。

一、上下(しょうか)心を一(いつ)にして、盛(さかん)に経綸(けいりん)を行(おこな)ふべし。

一、官武一途(かんぶいっと)庶民に至る迄(まで)、各(おのおの)其志(そのこころざし)を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめん事を要す。

一、旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基くべし。

一、智識を世界に求め、大(おおい)に皇基(くおき)を振起(しんき)すべし。


 我国(わがくに)未曾有(みぞう)の変革を為(なさ)んとし、朕(ちん)躬(み)を以(もっ)て衆に先(さきん)じ、天地神明に誓ひ、大(おおい)に斯(この)国是(こくぜ)を定め、万民保全の道を立(たて)んとす。衆亦(また)此(この)旨趣(ししゅ)に基き協心努力せよ。

 明治元年三月十四日

(『五箇條の御誓文』2009年第5版、明治神宮社務所発行)


●戊辰戦争(1868〜1869)●


 
@ 鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)


 旧幕府側をあくまで武力討伐によって滅ぼしたい薩摩藩は、牢人らをつかって江戸市中で放火するなど、挑発行為を繰り返しました。市内警備にあたっていた庄内藩はこれに憤り、三田にあった薩摩屋敷を焼き打ちしてしまいます。

 徳川慶喜に対して辞官納地を命じた新政府や、牢人らをつかって関東一帯の攪乱工作(かくらんこうさく)を進める薩摩藩に憤慨した旧幕府軍1万5,000名は、1868年1月2日、武力反攻を決意して大坂城を出ると、京都に向かいました。

 薩長軍はかねての思惑どおり、旧幕府軍に先に軍事行動を起こさせることによって、慶喜に同情的な公議政体派をおさえて、新政府の主導権を握ることに成功しました。旧幕府軍の行動は、新政府軍に徳川氏を武力討伐する大義名分を与えてしまったのです。

 旧幕府軍を京都南郊外の鳥羽口・伏見口に出迎えた新政府軍(薩長土芸兵)はわずかに4,000名。旧幕府軍の4分の1程度の兵力しかありませんでした。しかし、よく訓練され、最新式の銃火器(元込め式のスナイドル銃)を装備していました。

 翌3日から戦闘が始まりました。これを鳥羽・伏見の戦いといいます。

 しかし、全兵力を鳥羽・伏見両街道に集中するという戦術上のミスと、装備していた旧式銃火器の劣勢により、旧幕府軍は新政府軍に完敗。敗軍の将慶喜は軍艦開陽丸で海路江戸へと逃亡したため、見捨てられた兵たちは四散してしまいました。


直線上に配置


A 江戸無血開城


 新政府は慶喜を「朝敵」として追討するため、大総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)に錦旗(きんき。天皇の旗)を与え、東征軍をただちに進発させました。錦旗は東征軍の性格を「官軍」として正当づける根拠となり、その後の戦いを有利に進める影響力を持ちました。

 江戸城総攻撃を前に慶喜や降伏方針をとり、勝海舟(かつかいしゅう。幕府陸軍総裁)・西郷隆盛(東征軍参謀)会談により江戸城の無血開城が実現し、江戸市中は戦火の危機を免れました。この交渉により、慶喜は隠居して水戸の藩校弘道館内に謹慎。徳川宗家は田安亀之助(たやすかめのすけ。のち徳川家達(とくがわいえさと。1863〜1940)が相続することになりましたが、駿河府中藩(静岡)70万石の一大名に転落しました。

 一方、旧幕臣たち約3,000名は彰義隊(しょうぎたい)を名乗り、上野の東叡山(とうえいざん)寛永寺に集結して新政府軍に抵抗しました。東征軍を指揮する大村益次郎(おおむらますじろう。1825〜1869)は、イギリスから輸入した大砲アームストロング砲を用い、わずか1日(5月15日)で彰義隊を壊滅させました。これを上野戦争(うえのせんそう)といいます。



直線上に配置


A 東北戦争 


 仙台・米沢両藩の提唱により、東北25藩は反政府同盟である奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結びました。これに北陸6藩が加わり、会津・庄内両藩の救援を目指しました。

 しかし、東上した東征軍を阻止できず、同盟軍は会津に敗走。新政府軍は会津若松城への砲撃を開始しました。藩士の家族や白虎隊(びゃっこたい。少年兵)らの集団自決後、会津若松城の陥落によって、東北戦争は終止符が打たれました。



直線上に配置


C 箱館戦争


 
旧幕府海軍副総裁榎本武揚(えのもとたけあき。1836〜1908)は、幕府軍艦8隻を率いて品川沖を脱出し、蝦夷地に向かいました。旧幕臣のための蝦夷地確保が目的でした。箱館五稜郭(ごりょうかく)で新政権を樹立したものの、1869年5月、東征軍に敗れて投降しました。これを箱館戦争(はこだてせんそう)といいます。

 鳥羽・伏見の戦いから始まって箱館戦争に終わるこの1年半にわたる内戦を、戊辰戦争(ぼしんせんそう)といいます。


直線上に配置


D「御一新」と「維新」

 
江戸幕府が崩壊して新政府が成立したことを、当時、御一新(ごいっしん)とよびました。政治が一新した、という意味です。また、中国古典の一節「其(そ)の命(めい)維(こ)れ新(あら)たなり」(『詩経』)から維新(いしん)とも称しました。

 ただし、歴史用語として明治維新という場合には、ペリー来航から廃藩置県に至る激動の時代の総称として使用するのが普通です。


直線上に配置


●新政府の発足●



@ 五箇条の誓文 
−新政府の基本方針−


 戊辰戦争が進むなか、新政府は政治の刷新をすすめ、慶応4(1868)年3月14日に、五箇条の誓文を公表しました。この日が選ばれたのは、翌日の江戸城総攻撃(実際には勝海舟・西郷隆盛会談によって、無血開城となりました)を控えて、徳川慶喜追討の協力体制をつくるため、新政府の基本方針を明らかにしておく必要があったからです。

 五箇条の誓文の原案である「議事之体大意」(由利公正(ゆりきみまさ)起草)やそれを修正した「会盟」(福岡孝弟(ふくおかたかちか)改正)は、初め列侯会議の議事規則として起草されたものでした。そのため、旧大名らを召集する「列侯会議ヲ興シ…」(「会盟」)という文言が見えます。それを、国としての進むべき基本方針をしめす条文につくりかえ、「誓」(木戸孝允の修正にかかる決定版。五箇条の誓文)と書き直したのです。

 五箇条の誓文には、「公議世論の尊重」「開国和親」という明治政府の基本方針が示されています。すなわち、「公議世論の尊重」という近代民主主義理念のカムフラージュによって諸勢力を眩惑(げんわく)させつつ新政府の傘下に結集させ、近代化の範を欧米諸国に求めて(開国和親)、天皇を中心とした協力体制の下(天皇親政)、近代化路線を邁進(まいしん)しようというのです。

 五箇条の誓文は、天皇が群臣を率いて神々に宣誓する形式をとり、天皇親政を強調しました。それは、天皇政権独裁の表明でもあったのです。


直線上に配置


A 政体書
(官制)


 同年、五箇条の誓文の趣旨に基づき、官制とその運用が具体的に示されました。これを政体書(福岡孝弟・副島種臣(そえじまたねおみ)が起草)といいます。アメリカのブリッジメン著『聯邦志略(れんぽうしりゃく)』や福沢諭吉の『西洋事情』等を参考に起草されました。

 復古の建前から太政官が再興されました。そして、


  天下ノ権力、総
(すべ)テコレヲ太政官ニ帰ス(天下の権力のすべてを太政官に集中する)


と宣言しました。

 その眼目は天皇の下に官僚独裁体系を整備し、中央政府の権力を強化することにあったのです。ただし、政体書にいう太政官とは、統治機構である七官(議政官・行政官・神祇官・会計官・軍務官・外国官・刑法官)の総称でした。

 三権分立を特色とし、立法(議政官)・行政(行政官・神祇官・会計官・軍務官・外国官)・司法(刑法官)に分けられ、立法・行政・司法三官は互いに兼任できないことになっていました。

 しかし、実際の運用にあたっては三権の区別が明確でなく、行政官が議政官を兼ねるなど兼任も見られました。行政権がとりわけ強く、三権分立といいながらも形式のみだったのです。

 また官吏公選という開明的内容をうたっていたものの、実際は高級官吏による互選で、しかも実施は1回のみでした。


直線上に配置


B 五榜の掲示(ごぼうのけいじ)


 一方、民衆に対する新政府の姿勢は、五榜の掲示(ごぼうのけいじ)という形で具体化しました。

 五榜の掲示は、「定三札(さだめさんさつ)」と「覚二札(おぼえにさつ)」の5枚の高札からなります。

 万国公法(国際法)の遵守など開明的な施策はかりそめの「一時の掲示」(覚二札)に過ぎず、儒教道徳(君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信)の遵守、徒党・強訴・逃散の禁止、キリスト教の禁止こそ日本人民が恒久に守るべき「永世の法」(定三札)としたのです。

 高札による民衆周知という手段に象徴されるように、その内容も実質的には旧幕府時代の民衆統治政策と、ほとんど変わるところはありませんでした。


直線上に配置


C 人心の一新


 政府は1868年7月、江戸を東京と改称し、翌年3月に事実上の遷都を断行しました。1868年9月には、新元号を明治とすることを布告し、天皇一代に一つの元号を使用するという一世一元の制を定めました。遷都・改元により人心の一新をはかろうとしたのです。

 しかし、口さがない民衆は、


   
(政府の意を掛ける)からは明治だなどと言うけれど
       治まる明
(おさまるめい)と下(民衆の意を掛ける)からは読む


とこれを茶化しました。


直線上に配置


D 中央集権体制への道


 保守的な性格を内在させつつも、新政府は中央集権体制確立への道を歩み始めました。


《 版籍奉還 》


 1869(明治2)年、政府は版籍奉還(はんせきほうかん)を断行しました。版(版図)は土地、籍(戸籍)は人民のことです。藩という封建的な半独立政権を解体し、日本全土・全人民を天皇の所有と見なす国民国家を現出させることが目的でした。

 しかし、藩は中央政府の命令を執行する地方行政区とはなったものの、旧藩主を知藩事(ちはんじ。世襲職で封地実収地石高の10%を家禄として支給しました)に任命し、そのまま行政府長官として支配の継続を認めました。

 また、藩行政の実務官僚にも旧藩士が当てられ、各藩財政は従来通りの独立採算制(封地実収地石高の90%で運営することとしました)としたのです。

 何のことはない、殿様から知藩事へと支配者の肩書きがかわっただけで、江戸時代と同じ支配者が藩行政を継続していたのです。

 つまり、版籍奉還によって、旧幕藩体制下の封建的割拠体制は形式上消滅したとはいえ、実態は相変わらず旧時代の藩のままだったのです。これでは、明治政府が目指す強力な中央集権体制の建設にはほど遠いと言わざるを得ません。


《 廃藩置県 》


 そこで、薩長土3藩から御親兵(ごしんぺい)1万人を集め、その武力を背景に1871(明治4)年、廃藩置県(はいはんちけん)を断行します。旧藩主は知藩事の職を解かれ、東京居住を命じられました。

 代わって、政府が任命した府知事(ふちじ。東京府・大阪府・京都府)・県令(けんれい。県は302県→72県→43県と整理(1888))が、中央から派遣されました。

 こうして、封建的割拠による旧支配が一掃され、天皇政権中心の中央集権体制がうち立てられたのです。


《 官制改革 》


 廃藩置県と並行して官制改革が実施されました。

 王政復古の理念のもと、太政官と神祇官からなる二官六省の太政官制を定めました(1869)。1871年にはこれを改正し、正院(最高機関)・左院(立法)・右院(行政)から成る三院制としました。実質は正院による独裁でした。

 その人事を見ると、例外は一部あるものの、旧藩主や公卿が官職から除外され、要職に名を連ねているのは薩摩・長州・土佐・肥前の出身者ばかりでした。つまり、明治政府が目指した中央集権体制とは、いわゆる「藩閥政府(はんばつせいふ)による官僚専制体制だったのです。


直線上に配置