土佐藩が、大政奉還を徳川慶喜に建白し、1867(慶応3)年10月14日、それを承けた慶喜が大政奉還を申し出、その場で薩摩藩の小松帯刀と土佐藩の後藤象二郎が「英断」に賛同する。討幕をめざす薩摩藩が慶喜に賛同するのは、一見奇異だが、大政返上という幕府の譲歩を、しぶとく利用したのである。慶喜の真意は、大名連合政府をつくり、徳川宗家が抜きん出た筆頭となり、国政の実権をあらためて確保する構想だったと推測される。
このころ、慶喜の求めにより、幕臣西周(にしあまね)が幕府の国家構想を建議した。行政府と議政院の二権を立て、行政府に「全国、外国、国益、度支(たくし。会計)、寺社」の五事務府が、また、議政院に、大名の上院と藩士の下院が置かれる。
( 中略 )
一方、ロッシュと事ごとに張りあっていたイギリス公使パークスその人が、大政奉還を「リベラルな運動」であり、慶喜も「時代の要請にふさわしい人物」と高く評価した報告を本国へ送っていた。慶喜は、欧米外交団の支持をさらに固めていた。
西周の幕府国家構想では、朝廷の公家や山城国(京都府南部)から「外出」できず、外出しても「平人」と均しくあつかわれるなど、朝廷の特権が大幅に制限されていた。維新政府の権威主義的な天皇制国家より、リベラルな国家をめざしていたのである。
(井上勝生『幕末・維新 シリーズ日本近現代史①』2006年、岩波新書、P.152~153)
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◆靴を奪え 1863(文久3)年、薩英戦争が起こりました。この時、薩摩藩ではイギリス軍艦への斬り込み決死隊を編成し、彼らに次のような訓辞を与えたというのです。 「イギリス人と戦っていよいよ駄目だと知ったら、やつらから靴を奪え」 なぜ、靴を奪うのでしょうか。 草履や下駄を履いていた日本人は、ヨーロッパ人が靴を履くのを見て、不思議に思いました。なぜ、彼らは、わざわざかかとをつけた靴を履くのだろうか、と。 そこで次のように考えたのです。「外国人の足にはかかとがないのだ。それなら、靴を奪ってしまえば、外国人たちは歩けなくなるはずだ」と。 開明的な君主島津斉彬(なりあきら)を生んだ薩摩藩にして、一般の武士たちの外国認識はこの程度だったのです。結局、薩英戦争は薩摩藩の敗北に終わりました。 【参考】 ・鯉渕謙錠『史談往く人来る人』1987年、文春文庫、P.129による |
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