土佐藩が、大政奉還を徳川慶喜に建白し、1867(慶応3)年10月14日、それを承けた慶喜が大政奉還を申し出、その場で薩摩藩の小松帯刀と土佐藩の後藤象二郎が「英断」に賛同する。討幕をめざす薩摩藩が慶喜に賛同するのは、一見奇異だが、大政返上という幕府の譲歩を、しぶとく利用したのである。慶喜の真意は、大名連合政府をつくり、徳川宗家が抜きん出た筆頭となり、国政の実権をあらためて確保する構想だったと推測される。

 このころ、慶喜の求めにより、幕臣西周(にしあまね)が幕府の国家構想を建議した。行政府と議政院の二権を立て、行政府に「全国、外国、国益、度支(たくし。会計)、寺社」の五事務府が、また、議政院に、大名の上院と藩士の下院が置かれる。

      ( 中略 )

 一方、ロッシュと事ごとに張りあっていたイギリス公使パークスその人が、大政奉還を「リベラルな運動」であり、慶喜も「時代の要請にふさわしい人物」と高く評価した報告を本国へ送っていた。慶喜は、欧米外交団の支持をさらに固めていた。

 西周の幕府国家構想では、朝廷の公家や山城国(京都府南部)から「外出」できず、外出しても「平人」と均しくあつかわれるなど、朝廷の特権が大幅に制限されていた。維新政府の権威主義的な天皇制国家より、リベラルな国家をめざしていたのである。

(井上勝生『幕末・維新 シリーズ日本近現代史①』2006年、岩波新書、P.152~153) 

52.江戸幕府の滅亡

 


●将軍継嗣問題と安政の大獄●


 
① 南紀派(なんきは)と一橋派(ひとつばしは)


 ハリスが通商条約の締結を幕府に迫っていた頃、13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ。1824~1858)は病弱の上跡継ぎがなく、1857(安政4)年から公然と将軍継嗣問題が起こりました。

 将軍候補者は徳川慶福(とくがわよしとみ。1846~1866)と徳川慶喜(とくがわよしのぶ。1837~1913)の二人でした。

 紀伊藩主徳川慶福は家定の従兄弟にあたり、1857年当時は12歳でした。慶福を推したのは譜代大名のグループでした。これを「南紀派」といいます。

 平和な時代なら、将軍との血統が近い慶福が、当然将軍に選ばれたことでしょう。しかし、ペリー来航後「未曽有の国難」がうち続く中で、政治能力のほとんどない少年将軍を擁立することには反対がありました。

 一橋家の徳川慶喜を将軍に推す松平慶永(まつだいらよしなが。越前藩主。1828~1890)・島津斉彬(しまづなりあきら。薩摩藩主。1809~1858)ら雄藩連合とも称すべきグループです。これを「一橋派」といいます。

 1853(嘉永6)年に急死した前将軍家慶も期待したとされる徳川慶喜は当時21歳。諸大名の間には、その英明さが知られていました。ただし、慶喜は一橋家出身とはいうものの、御三家のひとつ水戸藩から一橋家に養子入りした人物で、その実父は尊王攘夷論者の徳川斉昭(とくがわなりあき。1800~1860 )。慶喜が将軍に擁立されれば、幕政に対する斉昭や諸大名たちの影響も懸念されます。南紀派と一橋派は鋭く対立しました。

 こうした中、南紀派の井伊直弼(いいなおすけ。1815~1860)が大老に就任しました。井伊直弼は、無勅許のまま日米修好通商条約調印を断行するとともに、徳川慶福を将軍継嗣に決定しました。14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)です。


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② 安政の大獄(1858~1860)



 井伊直弼の独断的な行動は、孝明天皇の激しい怒りや、一橋派の諸大名・尊王論や攘夷論を唱える志士たちからの強い非難を招きました。

 こうした動きに対して、井伊は強硬な態度で臨み、反対派の公家・大名らを力でおさえこみました。おもな処罰者には次のような人びとがいます。


  徳川斉昭(前水戸藩主)       →永蟄居(えいちっきょ。無期限の自宅謹慎)
  徳川慶篤(とくがわよしあつ。水戸藩主)    →差控(さしひかえ)
  徳川慶喜(一橋家当主)・松平慶永(越前藩主)→隠居・慎(つつしみ。謹慎)
  安島帯刀(あじまたてわき。水戸藩家老)   →切腹
  鵜飼吉左衛門(うかいきちざえもん。水戸藩士)→死罪
  鵜飼幸吉(うかいこうきち。水戸藩士)      →獄門(ごくもん)
  橋本左内(越前藩士)・吉田松陰(長州藩士)・
  頼三樹三郎(らいみきさぶろう。頼山陽の子)ら→刑死
  梅田雲浜(うめだうんぴん。小浜藩士)    →獄死


 こうして処罰された人びとは100名以上にのぼりました。これを安政の大獄といいます。


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③ 桜田門外の変(1860)


 厳しい弾圧に憤激した水戸脱藩志士17名と薩摩藩脱藩志士1名が、1860(万延元)年、登城する井伊直弼の行列を桜田門外に襲撃し、井伊を暗殺しました。これを桜田門外の変といいます。

 白昼、幕府最高権力者が暗殺されたことは、幕府の権威を失墜させることになりました。次は当時の落首と川柳。


 アメリカを入りしむくひのうらみゆへ 雪のあた
(あだ)の表門前
 
(大老暗殺の原因を、日米修好通商条約の無勅許調印にあるとした落首。暗殺決行日の3月3日は降雪があった

 倹約で枕いらずの御病人
(ごびょうにん) 
 
(直弼の首は志士に奪われ、行方不明。しかし、幕府・井伊家では直弼の死を秘し「大老負傷」と発表。
  首(頭)がないのだから枕の必要がない、の意)


 遺言は尻
(しり)でなさるや御大病(ごたいびょう)
  
首(頭)がないのだから遺言は尻でしたのだろうか、と皮肉った)


(注)「倹約で…」と「遺言は…」は、徳富蘇峰『近世日本国民史・桜田事変』1984年、講談社学術文庫、P.447による。


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●公武合体と尊攘運動●



 公武合体(こうぶがったい)と薩摩藩の動き


 直弼の死後、幕府の中心となった老中安藤信正(あんどうのぶまさ)は、朝廷(公)と幕府(武)の融和をはかる公武合体政策をとることにより、藩幕府勢力を抑えようとしました。そこで、孝明天皇の異母妹和宮(かずのみや)と14代将軍徳川家茂の婚儀を整えました(和宮降嫁(かずのみやこうか))。

 しかし、この政略結婚は尊王攘夷論者からの激しい非難を招き、1862(文久2)年、安藤信正は水戸脱藩浪士らに江戸城坂下門外にて襲われて負傷し、老中を退きました。これを坂下門外の変といいます。当時の落首。


 段々
(だんだん)とお鉢(はち)が廻(まわ)り舞台にて また桜田の二度の狂言
 (老中が水戸脱藩浪士に江戸城門外で襲われたという状況は、桜田門外の変を想起させるの意)


 こうした中、外様大名の薩摩藩は、公武合体の立場をとっていました。それは薩摩藩が、公武双方に深いつながりをもっていたからです。11代将軍家斉の夫人は島津重豪(しまづしげひで。1745~1833)の娘で、近衛家の養女となって家斉に嫁しました。また、13代将軍家定夫人(天璋院(てんしょういん)、 篤姫(あつひめ)。1836~1883)も島津家出身の娘で、近衛家の養女になるという手続きを経て家定に嫁したのでした。

 当時の薩摩藩主の父島津久光は、独自の公武合体策を実現すべく、寺田屋事件(1862)で藩内の尊攘激派を弾圧して藩論を公武合体に統一しました。そして、勅使大原重徳(おおはらしげとみ)を奉じて江戸に下り、幕政改革を要求しました。幕府が薩摩藩の意向を入れて行った幕政改革を、文久の改革といいます。そのおもな内容は、次のようなものです。


 (1)安政の大獄の処罰者の赦免
(しゃめん。罪を許す)
 (2)徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永
(前越前藩主)を政事総裁職、
    松平容保
(まつだいらかたもり。会津藩主)を京都守護職に任命
 (3)参勤交代を3年1勤に緩和
 (4)西洋式軍制の採用
(歩兵・騎兵・砲兵の三兵編成)
 

 こうして薩摩藩は、公武合体派の中心になりました。しかしその帰路、生麦事件(なまむぎじけん。1862)をおこしてしまうのです。

 神奈川近郊の生麦村(現、神奈川県横浜市鶴見区)で、イギリス人4名が久光の行列と遭遇しました。この時、イギリス人が下馬しなかった非礼をとがめて薩摩藩士がイギリス商人リチャードソンを斬殺、残り3名を負傷させてしまったのです。

 生麦事件が原因となって、薩英戦争(1863)がおこりました。1863(文久3)年7月、嵐の中で2日間にわたる砲撃戦が行われました。イギリス艦隊7隻の力は圧倒的で、船上のアームストロング砲による砲撃の前に、鹿児島市街は焦土と化しました。

 薩英戦争の敗北により、薩摩藩は、攘夷の無謀さを思い知らされることになりました。そして、生麦事件の償金支払いと犯人処刑をイギリスに確約することになったのです。


 ◆靴を奪え

 1863(文久3)年、薩英戦争が起こりました。この時、薩摩藩ではイギリス軍艦への斬り込み決死隊を編成し、彼らに次のような訓辞を与えたというのです。


 「イギリス人と戦っていよいよ駄目だと知ったら、やつらから靴を奪え」
 

 なぜ、靴を奪うのでしょうか。

 草履や下駄を履いていた日本人は、ヨーロッパ人が靴を履くのを見て、不思議に思いました。なぜ、彼らは、わざわざかかとをつけた靴を履くのだろうか、と。

 そこで次のように考えたのです。「外国人の足にはかかとがないのだ。それなら、靴を奪ってしまえば、外国人たちは歩けなくなるはずだ」と。

 開明的な君主島津斉彬(なりあきら)を生んだ薩摩藩にして、一般の武士たちの外国認識はこの程度だったのです。結局、薩英戦争は薩摩藩の敗北に終わりました。


【参考】
・鯉渕謙錠『史談往く人来る人』1987年、文春文庫、P.129による


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② 攘夷運動の挫折(長州藩の動き)


 長州藩では下級藩士が主張する尊王攘夷論を藩論としていました。

 公武合体派の島津久光が去った京都では、長州藩が急進派の公家と結んで朝廷を動かし、1863(文久3)年3月に将軍家茂を上洛させ、攘夷の決行を幕府に迫りました。こうした急進派の強要によって、攘夷の意思のなかった幕府はやむなく、1863年5月10日を攘夷決行日と決定してしまいました。


《 長州藩外国船砲撃事件(1863) 》


 1863(文久3)年5月10日、長州藩は下関の海峡を通過するアメリカ・フランス・オランダの各船に対して砲撃を加えました。これを、長州藩外国船砲撃事件といいます。


《 八月十八日の政変(1863) 》


 長州藩は、孝明天皇の大和行幸(ぎょうこう)を画策しました。神武陵(天皇家の初代天皇をまつる)・春日社(藤原氏の氏神)で攘夷祈願をさせ、天皇自らが攘夷戦争の先頭に立っていると演出しようとしたのです。

 こうした攘夷派の過激な動きに対し、薩摩・会津両藩は朝廷内の公武合体派の公家たちと連携しました。そして1863(文久3)年8月18日にクーデタをおこし、長州藩の勢力と急進派の公家たちを京都から追放して、朝廷内の主導権を奪い返しました。このクーデタを八月十八日の政変といいます。

 三条実美(さんじょうさねとみ。1837~1891)ら7名の急進派公家たちは京都を脱出し、長州藩に逃れていきました(七卿落ち(しちきょうおち))。


《 攘夷派の挙兵 》


 この前後、京都の動きに呼応して、尊攘派が相次いで挙兵しました。 しかし、すべて失敗に終わりました。

 中山忠光(なかやまただみつ)・吉村虎太郎(よしむらとらたろう)らが大和五条の幕府代官所を襲った天誅組(てんちゅうぐみ)の変(1863)、天誅組の変に呼応して沢宣嘉(さわのぶよし)・平野国臣(ひらのくにおみ)らが但馬生野(たじまいくの)の代官所を襲った生野の変(1863)、武田耕雲斎(たけだこううんさい)・藤田小四郎(ふじたこしろう)ら水戸藩尊王攘夷派が筑波山に挙兵した天狗党の乱(1864~1865)などがそれです。


《 禁門の変(1864) 》


 1864(元治元)年、京都市中の警戒に当たっていた近藤勇ら新選組(しんせんぐみ)によって、尊攘派志士が殺傷されるという事件が起こりました。これを池田屋事件(いけだやじけん)といいます。勢力挽回の機会をうかがっていた長州藩は、この事件に憤慨し、長州藩兵を京都に攻め上らせました。

 長州藩兵は、これを迎え撃った薩摩・会津・桑名の藩兵と京都御所付近で戦い、敗走しました。これを禁門の変(または蛤御門(はまぐりごもん)の変)といいます。


《 第1次長州征討(1864) 》


 禁門の変で長州藩が御所に向かって発砲したことを咎めて、朝廷は長州藩追討の勅命を幕府に下しました。これをうけて幕府は、長州藩を制裁するため、第1次長州征討を布告しました。


《 四国艦隊下関砲撃事件(1864) 》


 イギリス公使オールコック(1809~1897)は、貿易の邪魔になる尊攘派に打撃を加えようと考えました。そして、前年(1863)の長州藩外国船砲撃事件に対する報復として、イギリス艦隊を主力とするフランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊を編成し、長州藩の下関砲台を砲撃しました。

 高杉晋作(たかすぎしんさく。1839~1867)が創設した奇兵隊(きへいたい。奇兵は藩の正規兵に対する語。身分制にとらわれない有志の隊)を中心とする長州藩兵は善戦しましたが、軍事力の差は歴然でした。戦闘は3日間で収束しました。

 四国連合艦隊は、軍艦17隻、砲288門、兵員約5,000名から成る大艦隊でした。最新鋭のアームストロング砲から発射された砲弾は、4km以上離れた長州藩の砲台に正確に着弾しました。ついで連合軍は陸戦隊を上陸させて、長州藩兵との激しい銃撃戦の末、下関砲台を占領しました。

 この時、連合軍が捕獲した長州藩の大砲のほとんどは、旧式の青銅製カノン砲でした(井上勝生『幕末・維新 シリーズ日本近現代史①』2006年、岩波新書、P.124~125)。

 攘夷が不可能なことは長州藩ならずとも、誰の目にも明らかでした。


《 長州藩の敗北 》


 幕府と列国の攻撃を受けて敗北した長州藩では、尊攘派に代わって保守派が実権を握りました。長州は、禁門の変の責任者として3人の家老を切腹させ、幕府に恭順の態度を示しました。このため、第1次長州征討の総攻撃は中止されました。


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③ 英仏の動き


 1865(慶応元)年、イギリスなど4カ国は兵庫沖に艦隊を送って、通商条約を勅許しない朝廷に軍事的圧力をかけ、ついに朝廷から勅許を勝ち取り、攘夷方針を撤回させることに成功しました。

 しかしこの時も、兵庫開港は認められませんでした。そこで、その代償として、翌1866(慶応2)年、改税約書(かいぜいやくしょ)を結びました。改税約書は、通商条約締結の際に定めた平均20%の関税率を、一律5%に引き下げるものです。

 この結果、輸出超過だった貿易は、一転して輸入超過となりました。また、関税収入が大幅に減額となり、幕府財政は大きな打撃を受けました。

 こうした中、イギリス公使のパークス(1828~1885)は、幕府が弱体化して国内統治力がなくなってきたことを見抜き、対日貿易の発展のためにも、安定した新たな政権の実現を期待するようになりました。攘夷の不可能を悟った薩摩藩でもイギリスに接近し、武器の輸入・留学生の派遣など藩政改革を進めていきました。

 一方、フランス公使のロッシュ (1809~1901)は徳川慶喜に幕政改革を建言し、軍事的・財政的援助をおこないました。イギリスに対抗して、幕府中心の統一政権確立を目指したのです。



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●倒幕運動の展開●



① 薩長連合の成立
(1866)


 第1次長州征討により、長州藩は幕府にいったん屈服したものの、高杉晋作らは奇兵隊をひきいて、保守派から藩の主導権を奪い返しました。そして、藩論を幕府への恭順から倒幕へとひっくり返したのです。そして、長州藩はイギリスに接近して、軍事力の強化に努めたのです。

 幕府は第1次長州征討の処分として長州藩に領地削減などを命じましたが、倒幕に藩論を転換させた長州藩は、これに応じませんでした。そこで、幕府は第2次長州征討を宣言しましたが、開国進取に転換していた薩摩藩は、ひそかに長州藩を支持する態度を取りました。

 1866年(慶応2)には、土佐藩の坂本龍馬(1835~1867)・中岡慎太郎(1838~1867)らの仲介で、薩摩藩の大久保利通(1830~1878)・西郷隆盛(1827~1877)と長州藩の桂小五郎(木戸孝允(きどたかよし)。1833~1877)は軍事同盟の密約を結び、反幕府の態度を固めました。これを薩長連合(薩長同盟)といいます。


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② 江戸幕府の滅亡(1867)


 薩長連合の密約が成立していたため、第2次長州征討の戦況は幕府軍に不利に展開しました。まもなく、大坂城中に出陣中の14代将軍家茂が急死したことを理由に、幕府軍は第2次長州征討を中止しました。この時家茂は21歳の若さでした。死因は脚気だったといわれます。

 また、同年末には、孝明天皇までもが37歳で急逝しました。出血性痘瘡による病死だったといわれます。孝明天皇は外国人嫌いで頑迷な攘夷主義者でしたが、過激な倒幕を好まず、公武合体の立場をとってきました。

 公武合体派の中心人物(家茂は和宮の夫であり、孝明天皇は和宮の兄)の相次ぐ急死は、幕府にとっては大きな痛手でした。一挙に倒幕派の動きが活発化しました。倒幕派にとっては邪魔な二人が、あまりにも都合よく亡くなったため、孝明天皇の死は急進派による毒殺ではないか、と当時から噂になっていたほどでした。

 新天皇になったのは、16歳の祐宮(さちのみや。後の明治天皇)でした。

 開国にともなう物価上昇や世相の混乱、政局をめぐる抗争は、社会不安を増大させました。そうした中、農村においても「世直し」が叫ばれて世直し一揆が頻発し、江戸や大坂・神戸でも打ちこわしがおこりました。

 1867(慶応3)年には、京坂中心にええじゃないか(御蔭参りの変形)の集団乱舞が流行しました。空から突然、伊勢神宮の御札などが降ってきたのが発端でした。世直しを待望する民衆運動によって、幕府の支配は一時混乱に陥りました。

 徳川家茂のあと15代将軍となった徳川慶喜は、フランスの援助のもと幕府の立て直しに努めました。しかし、薩長連合の盟約を結んでいた薩長両藩はついに、ついに武力倒幕を決意したのです。


《 大政奉還(1867) 》

 
 孝明天皇の死後、朝廷に返り咲いた岩倉具視ら急進派の公卿達は、討幕の密勅(とうばくのみっちょく)を下し、15代将軍徳川慶喜追討の大義名分をつくりあげました。

 こうした中、公武合体の立場をとっていたのが土佐藩でした。土佐藩前藩主山内豊信(やまうちとよしげ。山内容堂。1827~1872)は後藤象二郎(1838~1897)らの意見をいれ、慶喜に朝廷への政権奉還を建言しました。薩長ら討幕派の武力討幕の口実を雲散霧消させ、また今後成立するはずの新政府内における徳川氏の地位保全をはかろうとしたのです。

 後藤らは、公議政体論による新政権を構想しました。それは、朝廷を頭上にいただくものの、徳川氏を盟主とする諸藩の連合政権樹立を目指したものでした。

 討幕の密勅が薩長両藩が渡ったのが1867(慶応3)年10月14日。慶喜が倒幕派の機先を制して、大政奉還の上表を朝廷に提出したのも、同日。朝廷が大政奉還の上表を受理したので、幕府と一戦を交えようと気負い込んでいた倒幕派は、慶喜にするりと体をかわされてしまった格好になりました。

 こうして、約270年間続いた江戸幕府は滅亡しました。


《 王政復古の大号令(1867) 》


 大政奉還により、徳川氏は危機を脱し、旧幕府時代の地位と勢力を温存するかに見えました。しかし、これを新政権樹立上の障害と考えた反徳川グループは、あくまでもその勢力の一掃をはかろうとしました。そこで、12月9日、薩摩藩などの武力を背景にクーデタをおこし、王政復古の大号令を発したのです。

 王政復古の大号令は、「神武創業」の天皇親政への復帰と、仮に三職(総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ))をおくことを宣言したものですが、その人事の実態は討幕派の論功行賞でした。

 そして、同日、慶喜不在の小御所会議(こごしょかいぎ)において、岩倉ら急進派は、慶喜に辞官(内大臣の辞職)・納地(所領の返還)を命じる処分を決議したのです。

 慶喜は辞官・納地の猶予を求めた上で、衝突を避け、京都から大坂城に引き揚げました。しかし、薩摩藩の攪乱工作(かくらんこうさく)によって挑発を受けた旧幕府軍は、薩長への武力反攻を決意します。

 ここに日本歴史上最大の内戦、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の戦端が開かれるのです。


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