(ペリー艦隊が再来した1854年)三月一日には町奉行から老中へ見物禁制の触を出す再度の上申がなされ、同日付けで町触が出された。
去る二月十二日の触に言及した後、艦隊が近海に停泊するようになって、「当地より追々見物船を差出し、異船に近寄ることもあり、また陸地からの見物人も多いと聞く。不埒の至りだ」と述べ、「町役人共より厳しく制止するようにせよ」と結んでいる。
( 中略 )
自らの目で黒船をみたい、噂を確認したい。名目は、武士の場合には「偵察」である。民衆の場合は、太平の世に突然あらわれた、一生に一度あるかないかの機会を逃してはならないという思いであろう。禁令があっても、違反して処罰されるものではない。船を出す側に制限を加えはしたが、手間賃をいくらか余計にはずめば、船頭も嫌な顔はしない。この迫力とスリル、芝居見物の比ではない。
艦隊の方でも、周辺に集まる日本側の船や乗員の様子を見物していた。
( 中略 )
「(注:ペリー艦隊を見物にきた日本人の見物船の)比較的大きな船には三十人もの人が乗り組んでいる。船頭たちは背の高い筋肉隆々とした男達で、その赤銅色の肉体には腰のまわりに一片の布をつけているだけで、あとは裸であった。夜になると赤や青のだぶだぶとした袖のついた、ゆったりとした上衣を着た。…」
(加藤祐三『黒船異変』1988年、岩波新書、P.114~116)
●「鎖国」政策の動揺● |
◆アメリカの主力産業だった「捕鯨」 鯨を原料にしたものにコルセット(鯨のヒゲから)や香水(竜涎香(りゅうぜんこう))などがあります。しかし、石油が採掘される以前、捕鯨の目的はもっぱら鯨油の採取にありました。機械類の潤滑油、時計油、街灯等はすべて鯨油が使われていたのです。 18~19世紀前半にかけての欧米各国は、脂肪層が厚いマッコウクジラやセミクジラを狙って捕鯨船を繰り出しました。その有力な漁場の一つが北太平洋でした。アメリカ東海岸を出港した300トンクラスの捕鯨船は、11~12月にかけて南米を回り、北大西洋に向かいました。最盛期にはアメリカだけで、年7,000頭以上の鯨を捕獲したといいます。鯨は脂肪層を切り取ると、残りは海に投棄してしまいました。 ペリー艦隊の日本来航目的の一つは、中国貿易のために日本をおさえることでしたが、捕鯨船のための補給基地を確保することも重要な任務でした。当時の蒸気船では、アメリカ西海岸・中国間の太平洋を、石炭・水・食料の補給なしに横断することは不可能だったからです。 【参考】 ・宮崎正勝編著『世界史を動かした「モノ」事典』2002年、日本実業出版社、P.178~179 |
◆教科書から消えた落首 泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず 上記の落首は、ペリー来航による世上の混乱ぶりを伝えた有名な史料とされ、昔の高校日本史教科書なら必ずといっていいほど載っていました。しかし近年、この史料を載せる教科書はほとんどありません。なぜでしょうか。 それは、「泰平の…」の落首がペリー来航時ではなく、後世になってから作られたとする説が提唱されたことが、一つの大きな理由です。 明海大学教授岩下哲典(いわしたてつのり)氏によれば、上記落首を確認できる確実な史料は『武江年表(ぶこうねんぴょう)』のみで、「泰平の…」に関する記事は明治時代になってから書かれたものだというのです。江戸時代に「泰平の…」に類似する落首はありますが、同じものはありません。「泰平の…」の落首はそうした江戸時代の落首を参考に、江戸幕府の慌て振りを明治時代の人びとが嘲笑して作ったものだろう、というのが岩下氏の説です(岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』2006年、洋泉社)。「泰平の…」の落首が江戸時代当時の史料ではなく、後世の創作であるのなら、教科書に載せる意味はなくなってしまいます。 ところが2010(平成22)年、元専修大学講師斎藤純氏によって、岩下氏の説が覆されることになりました。日本橋の書店主山城佐兵衛が常陸国土浦(現、茨城県土浦市)の国学者色川三中(いろかわみなか。1801~1855)に宛てた書簡(1853年6月30日付け。東京都世田谷区の静嘉堂文庫蔵)の中に、 「太平之ねむけをさます上喜撰 たった四はいで夜るもねられす」 とあったのを、斎藤氏が発見したのです。「ねむけ」と「眠り」のわずかな差異はあるものの、「泰平の…」の落首がまさしく黒船来航騒ぎ(ペリー来航は1853年6月3日)のまっただ中で詠まれた当時の生々しい史料ということが証明されたのです。是非とも、日本史教科書なり、日本史史料集なりに、「泰平の…」の落首の復活を願ってやみません。 最後に、「泰平の…」の落首について、解説をしておきましょう。「はい」は容器に入れた液体を数える単位で、船を数えるのにも用います。上喜撰4杯に蒸気船4隻を掛けたわけです。ただし、黒船4隻のうち蒸気船は2隻のみで、残りは帆船でした。表向きは「上等なお茶を4杯も飲んだのでカフェインのために脳が興奮して夜眠れない」の意味。これに「わずか4隻の蒸気船のために、不安が募って一睡もできない」の意を掛けているのです。「上喜撰」は極上茶の銘柄。「上」が極上を、「喜撰」が茶を意味します。もともと喜撰は六歌仙の一人、喜撰法師のこと。喜撰は生没年・その伝ともに不詳。その実作として確からしいのは『古今和歌集』の「我が庵(いお)は都の辰巳(たつみ。東南の方角)しかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」の一首のみ。のち百人一首に採用されたことで、「宇治は喜撰法師の隠棲地」として有名になりました。宇治山は現在、喜撰山と呼ばれているとのこと(京都府宇治市、標高416m)。 また宇治は茶の産地として有名。そこで、「喜撰→宇治(山)→茶」という連想が働いたのです。 |
●開 国● |
●貿易がはじまった● |
◆ハリス、将軍に拝謁する 西暦1857年12月7日(和暦では安政4年10月21日)は、ハリスが13代将軍家定に謁見する日でした。ハリスは金モールの大礼服を着こみ、通訳のヒュースケンは略式の海軍服に佩剣(はいけん)、鳥の毛帽という姿で謁見に臨みました。溜(たま)りの間には、礼服を着た数百名の大名が、彫像のように押し黙って居並んでいました。つづく謁見の間へ通ると、奏者番(そうじゃばん)が大声で「メリケン使節どの!」と呼び上げました。 ハリスは一礼して部屋の中央まで進み、将軍御座所の一段高い壇の前で佇立(ちょりつ)し、再び一礼しました。将軍は床几(しょうぎ)のようなものにすわっていました。しかし、御簾(みす)が下がっていた上、暗く離れていたので、直立していた2人にはほとんどその姿は見えませんでした。左右には諸大名たちが畳に額をすりつけて平伏しています。3度目の最後の一礼をして、ハリスは英語で挨拶の口上を述べました。 ハリスの挨拶がすむと、「あわれ、頭が弱いため、今その場に平伏している大小名の傀儡(かいらい。ロボット)にすぎぬ」将軍は、頭をぐっと左肩の方へ引くと、3度床を足で踏み鳴らしたのち、何やら二言・三言、言葉を発しました。しかし翻訳された将軍の答辞は、その発した語数よりはるかに長いものでした。それは、次のような意味合いのものだったとされます。 「遙(はる)かの遠き国から、使節に託して寄せられた書簡(アメリカ大統領の手紙)に接して、欣快(きんかい)である。同時に使節の口上にも、満足を覚ゆる。永遠の交誼(こうぎ)を望む」 実は、挨拶の言葉は数日前から翻訳して相互にとりかわしていたため、どちらの言葉もその場では通訳されなかったのです。こうして将軍拝謁の儀式は無事に終了したのでした。 【参考】 ・杉田英明編『東方の人・西方の人、東洋文庫不思議の国6』1989年、平凡社、P.136~138 ・青木枝朗訳『ヒュースケン日本日記』1989年、岩波文庫、P.215~138 |