(ペリー艦隊が再来した1854年)三月一日には町奉行から老中へ見物禁制の触を出す再度の上申がなされ、同日付けで町触が出された。

 去る二月十二日の触に言及した後、艦隊が近海に停泊するようになって、「当地より追々見物船を差出し、異船に近寄ることもあり、また陸地からの見物人も多いと聞く。不埒の至りだ」と述べ、「町役人共より厳しく制止するようにせよ」と結んでいる。

       ( 中略 )

 自らの目で黒船をみたい、噂を確認したい。名目は、武士の場合には「偵察」である。民衆の場合は、太平の世に突然あらわれた、一生に一度あるかないかの機会を逃してはならないという思いであろう。禁令があっても、違反して処罰されるものではない。船を出す側に制限を加えはしたが、手間賃をいくらか余計にはずめば、船頭も嫌な顔はしない。この迫力とスリル、芝居見物の比ではない。

 艦隊の方でも、周辺に集まる日本側の船や乗員の様子を見物していた。

      ( 中略 )

「(注:ペリー艦隊を見物にきた日本人の見物船の)比較的大きな船には三十人もの人が乗り組んでいる。船頭たちは背の高い筋肉隆々とした男達で、その赤銅色の肉体には腰のまわりに一片の布をつけているだけで、あとは裸であった。夜になると赤や青のだぶだぶとした袖のついた、ゆったりとした上衣を着た。…

(加藤祐三『黒船異変』1988年、岩波新書、P.114~116)

51.開  国


●「鎖国」政策の動揺●


 
① 列強の接近


 欧米で市民革命・産業革命が起こると、列強のアジア接近が顕著になりました。

 日本近海に外国船が頻繁に出没するようになり、幕府は異国船打払令(いこくせんうちはらいれい。1825)で対応しようとしますが、時同じくしてアヘン戦争(1840~1842)が勃発し、清国敗北の報が伝わります。聞けば、イギリスの圧倒的な軍事力のもと、清国は不平等な南京条約(1842)を押しつけられて香港を奪われ、上海・広州など5港の開港を余儀なくされたとのこと。強硬な外交姿勢がかえって国を危機に陥れると判断した幕府は、天保の薪水給与令(てんぽうのしんすいきゅうよれい。1842)を発令しました。

 1844(弘化元)年、開国を勧告するオランダ国王ウィレム2世の親書がわが国にもたらされますが、幕府はオランダ国王の勧告を拒絶します。

 米墨(べいぼく。アメリカ=メキシコ)戦争で、アメリカはカリフォルニアをメキシコから獲得しました。1848(嘉永元)年、カリフォルニアで金鉱が発見されるとゴールド=ラッシュがおこり、西部開拓が一挙に進みました。こうして太平洋側に進出したアメリカは、中国貿易と北太平洋の捕鯨のための寄港地確保の必要性に迫られ、日本にやってくるのです。


 ◆アメリカの主力産業だった「捕鯨」

 鯨を原料にしたものにコルセット(鯨のヒゲから)や香水(竜涎香(りゅうぜんこう))などがあります。しかし、石油が採掘される以前、捕鯨の目的はもっぱら鯨油の採取にありました。機械類の潤滑油、時計油、街灯等はすべて鯨油が使われていたのです。

 18~19世紀前半にかけての欧米各国は、脂肪層が厚いマッコウクジラやセミクジラを狙って捕鯨船を繰り出しました。その有力な漁場の一つが北太平洋でした。アメリカ東海岸を出港した300トンクラスの捕鯨船は、11~12月にかけて南米を回り、北大西洋に向かいました。最盛期にはアメリカだけで、年7,000頭以上の鯨を捕獲したといいます。鯨は脂肪層を切り取ると、残りは海に投棄してしまいました。 

 ペリー艦隊の日本来航目的の一つは、中国貿易のために日本をおさえることでしたが、捕鯨船のための補給基地を確保することも重要な任務でした。当時の蒸気船では、アメリカ西海岸・中国間の太平洋を、石炭・水・食料の補給なしに横断することは不可能だったからです。

【参考】
・宮崎正勝編著『世界史を動かした「モノ」事典』2002年、日本実業出版社、P.178~179


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② ペリーの来航


 1846(弘化3)年、東インド艦隊司令長官ビッドル(1783~1848)がわが国に来航して開国を要求しますが、「鎖国」を祖法として幕府はその要求を拒絶しましました。この時ビッドルは、要求のごり押しをすることなく、そのまま退去します。しかし、1852年にはオランダ商館長が、アメリカ艦隊の翌年来航を予告します。

 オランダの予告通り、1853(嘉永6)年、東インド艦隊司令長官ペリー(1794~1858)が、黒塗りの木造軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航しました。これらの軍艦は、防水・腐食防止のためにピッチ(石油などから作られた黒い樹脂。古くから木造船や樽などの防水に用いられました)で船体を黒く塗っていたため、「黒船(くろふね)」とよばれました。4隻のうち蒸気船(サスケハナ号、ミシシッピ号)は2隻だけで、残り(プリマス号、サラトガ号)は帆船でした。

 ペリーは、艦隊の軍事力を背景に幕府に開国を要求し、アメリカ大統領フィルモア(第13代大統領。1800~1874)の国書を提出しました。老中の阿部正弘(あべまさひろ。1819~1857)はとりあえず国書を受理し、回答を翌年に先延ばしします。これに同意したペリーは、いったん艦隊を引き揚げました。

 1854(安政元)年、日本側の回答を聞くため、ペリーが軍艦7隻を率いて神奈川沖に再来します。老中阿部正弘は、アメリカとの間に日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を締結する決断します。

 この頃、アメリカの来航と前後して、ロシアからもロシア極東艦隊司令長官プチャーチン(1804~1883)が長崎に来航し、開国と国境の画定を要求しました。


 ◆教科書から消えた落首

 泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず

 上記の落首は、ペリー来航による世上の混乱ぶりを伝えた有名な史料とされ、昔の高校日本史教科書なら必ずといっていいほど載っていました。しかし近年、この史料を載せる教科書はほとんどありません。なぜでしょうか。

 それは、「泰平の…」の落首がペリー来航時ではなく、後世になってから作られたとする説が提唱されたことが、一つの大きな理由です。

 明海大学教授岩下哲典(いわしたてつのり)氏によれば、上記落首を確認できる確実な史料は『武江年表(ぶこうねんぴょう)』のみで、「泰平の…」に関する記事は明治時代になってから書かれたものだというのです。江戸時代に「泰平の…」に類似する落首はありますが、同じものはありません。「泰平の…」の落首はそうした江戸時代の落首を参考に、江戸幕府の慌て振りを明治時代の人びとが嘲笑して作ったものだろう、というのが岩下氏の説です(岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』2006年、洋泉社)。「泰平の…」の落首が江戸時代当時の史料ではなく、後世の創作であるのなら、教科書に載せる意味はなくなってしまいます。

 ところが2010(平成22)年、元専修大学講師斎藤純氏によって、岩下氏の説が覆されることになりました。日本橋の書店主山城佐兵衛が常陸国土浦(現、茨城県土浦市)の国学者色川三中(いろかわみなか。1801~1855)に宛てた書簡(1853年6月30日付け。東京都世田谷区の静嘉堂文庫蔵)の中に、

 「太平之ねむけをさます上喜撰 たった四はいで夜るもねられす

とあったのを、斎藤氏が発見したのです。「ねむけ」と「眠り」のわずかな差異はあるものの、「泰平の…」の落首がまさしく黒船来航騒ぎ(ペリー来航は1853年6月3日)のまっただ中で詠まれた当時の生々しい史料ということが証明されたのです。是非とも、日本史教科書なり、日本史史料集なりに、「泰平の…」の落首の復活を願ってやみません。

 最後に、「泰平の…」の落首について、解説をしておきましょう。「はい」は容器に入れた液体を数える単位で、船を数えるのにも用います。上喜撰4杯に蒸気船4隻を掛けたわけです。ただし、黒船4隻のうち蒸気船は2隻のみで、残りは帆船でした。表向きは「上等なお茶を4杯も飲んだのでカフェインのために脳が興奮して夜眠れない」の意味。これに「わずか4隻の蒸気船のために、不安が募って一睡もできない」の意を掛けているのです。「上喜撰」は極上茶の銘柄。「上」が極上を、「喜撰」が茶を意味します。もともと喜撰は六歌仙の一人、喜撰法師のこと。喜撰は生没年・その伝ともに不詳。その実作として確からしいのは『古今和歌集』の「我が庵(いお)は都の辰巳(たつみ。東南の方角)しかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」の一首のみ。のち百人一首に採用されたことで、「宇治は喜撰法師の隠棲地」として有名になりました。宇治山は現在、喜撰山と呼ばれているとのこと(京都府宇治市、標高416m)。 また宇治は茶の産地として有名。そこで、「喜撰→宇治(山)→茶」という連想が働いたのです。


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●開 国●



① 日米和親条約(神奈川条約)の締結(1854)


 
日米和親条約は全12条からなり、神奈川近くの横浜村で、ペリーと林大学頭韑(あきら)との間で調印されました。その内容は、


 (1)薪水・食料の給与
 (2)難破船の乗組員の救助
 (3)箱館・下田の開港
 (4)日米の和親



などを定めたもので、貿易を認めたものではありませんでした。2港を開港しても、貿易は行わないわけですから、和親条約の内容自体は、天保の薪水給与令から大きく逸脱するものではありません。

 しかし、この条約でアメリカが、日本に対し片務的(日本だけが一方的にその義務を負う)最恵国待遇(さいけいこくたいぐう。他の条約締約国との間に有利な条件があれば、アメリカにも同様のものを認めるというもの)を認めさせた不平等条項を含んでいたこと、アメリカ領事(コンシュル)の日本駐在を決めていたこと、に注意しておかなければなりません。

 日本は同様の条約を、イギリス・ロシア・オランダとも結びました。

 このうち、日露和親条約(日露通好条約。1854)で日露間の国境を画定しました。これによって、エトロフ島以南が日本領、ウルップ島以北がロシア領、樺太(サハリン)は国境を定めず両国雑居の地と定められました。


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② 幕府の対応


 
1853年のペリー来航後、未曽有の国難に老中阿部正弘は、先例を破って朝廷に報告し、諸大名・幕臣らにも対処法を諮問し、挙国一致体制をとろうとしました。独断専決するだけの権力が、当時の幕府にはすでになかったのです。しかし、こうした措置は、朝廷の権威を高め、諸大名の発言力を強めるもので、幕政を転換させるきっかけとなりました。

 幕府は、徳川斉昭(とくがわなりあき。前水戸藩主。1800~1860)・松平慶永(まつだいらよしなが。越前藩主。1828~1890)・島津斉彬(しまづなりあきら。薩摩藩主。1809~1858)・伊達宗城(だてむねなり。宇和島藩主)らに協力を求めました。

 また、江戸湾を防備する必要から、品川沖に大砲をすえつける砲台を5番、築造しました。これを台場(だいば。御台場(おだいば)とも)といいます。

 そのほか、寛永の武家諸法度以来の大船建造の禁を解禁して洋式軍艦建造を奨励したり、国防強化の観点から海軍伝習所(かいぐんでんしゅうじょ)の創設や洋学所(ようがくしょ)の設立などを行いました。

 こうした一連の幕政改革を、安政の改革といいます。


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●貿易がはじまった●



① ハリスの着任(1856) 


 日本と最初に和親条約を締結したアメリカは、日本の門戸をより広く押し開げるために、次には通商条約の締結を日本に迫りました。

 日米和親条約第11条を根拠に1856(安政3)年、初代駐日総領事としてタウンゼント=ハリス(1804~1878)が下田に着任しました。翌年、ハリスは13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ。1824~1858)に拝謁し、アメリカ大統領ピアースの国書を提出しました。そして、通商条約の締結を強く求めたのでした。

 ハリスとの交渉にあたった老中堀田正睦(ほったまさよし。1810~1866)は、条約調印の勅許を孝明天皇(こうめいてんのう。1831~1866)に求めました。しかし、孝明天皇をはじめ、朝廷内では攘夷の空気が強かったため、とうとう勅許は得られませんでした。


 ◆ハリス、将軍に拝謁する

 西暦1857年12月7日(和暦では安政4年10月21日)は、ハリスが13代将軍家定に謁見する日でした。ハリスは金モールの大礼服を着こみ、通訳のヒュースケンは略式の海軍服に佩剣(はいけん)、鳥の毛帽という姿で謁見に臨みました。溜(たま)りの間には、礼服を着た数百名の大名が、彫像のように押し黙って居並んでいました。つづく謁見の間へ通ると、奏者番(そうじゃばん)が大声で「メリケン使節どの!」と呼び上げました。

 ハリスは一礼して部屋の中央まで進み、将軍御座所の一段高い壇の前で佇立(ちょりつ)し、再び一礼しました。将軍は床几(しょうぎ)のようなものにすわっていました。しかし、御簾(みす)が下がっていた上、暗く離れていたので、直立していた2人にはほとんどその姿は見えませんでした。左右には諸大名たちが畳に額をすりつけて平伏しています。3度目の最後の一礼をして、ハリスは英語で挨拶の口上を述べました。

 ハリスの挨拶がすむと、「あわれ、頭が弱いため、今その場に平伏している大小名の傀儡(かいらい。ロボット)にすぎぬ」将軍は、頭をぐっと左肩の方へ引くと、3度床を足で踏み鳴らしたのち、何やら二言・三言、言葉を発しました。しかし翻訳された将軍の答辞は、その発した語数よりはるかに長いものでした。それは、次のような意味合いのものだったとされます。


「遙
(はる)かの遠き国から、使節に託して寄せられた書簡(アメリカ大統領の手紙)に接して、欣快(きんかい)である。同時に使節の口上にも、満足を覚ゆる。永遠の交誼(こうぎ)を望む」


 実は、挨拶の言葉は数日前から翻訳して相互にとりかわしていたため、どちらの言葉もその場では通訳されなかったのです。こうして将軍拝謁の儀式は無事に終了したのでした。

【参考】
・杉田英明編『東方の人・西方の人、東洋文庫不思議の国6』1989年、平凡社、P.136~138
・青木枝朗訳『ヒュースケン日本日記』1989年、岩波文庫、P.215~138


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② 日米修好通商条約の締結(1858)


 1856(安政3)年にアロー戦争(第二次アヘン戦争。1856~1860)が起こりました。イギリス船アロー号が広東港(現、広州)で清国官憲に臨検されたことに対し、イギリスが抗議したアロー号事件が発端でした。1857(安政4)年、フランス人宣教師殺害事件を口実に、フランスもイギリスとともに出兵し、広東を占領しました。英仏連合軍はさらに天津に侵入。1858(安政5)年に天津条約を締結しました。しかし戦争が再開され、連合軍は北京までも占領。1860(安政6)年には、開港場の追加やアヘン公認などを清国に認めさせる北京条約を締結しました。

 清国が天津条約を結ぶと、ハリスは駐在地の伊豆下田の玉泉寺から神奈川に赴き、幕府の外交担当官井上清直(いのうえきよなお。1809~1867)・岩瀬忠震(いわせただなり。1818~1861)と会見しました。

 ハリスはアロー戦争の経緯を語り、イギリス・フランスの脅威を説きました。そして、不平等条約を清国に強要したイギリスらが今にも日本に迫り、さらにひどい条約を日本に強要する恐れがあると吹き込みました。そして、それを防ぐ手段はただひとつ、機先を制して日米間で修好通商条約を締結しておくことだ、と提言したのです。すなわち、日米間で先に条約を結んでおけば、清国並みのひどい条約は避けられるというのです。

 大老井伊直弼(いいなおすけ。1815~1860)は、孝明天皇の許可が得られないまま、日米修好通商条約の調印に踏み切りました。

 ハリスの外交手腕に舌を巻いたイギリス公使ラザフォード=オールコック(1809~1897)は、いまいましげに次のように書き残しています。


「イギリスの行動が今回ほど決定的に非難されたことは、いまだかつてなかった。しかも今回は、新しい国(注:日本)においてであり、平和の使徒-アメリカ合衆国代表そのひと(ハリス)
の手によってであったのだ。

 
(ハリスは)戦争中(アロー戦争)の連合国(英仏両国)をこれほどたくみに利用し、日本人には(英仏を)おそるべきもののように思わせ、しかもこれを遂行するに当たっては大遠征の出費をかけないのに遠征したと同じだけの利益と(日本人の)信望を合衆国に与えるように仕組み、他方大英帝国には、好戦的でもあり、うるさい国でもあるといういまわしい評判だけがのこされた。

 このことは、まさに達人のわざであった。」
(オールコック著・山口光朔訳『大君の都・上』1962年、岩波文庫、P.321~322)


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③ 通商条約の内容と問題点


 この条約の主な内容は、次の5点です。


 (1)神奈川(実際は横浜に変更。横浜開港後、下田は閉鎖)・長崎・新潟(開港は1868年)
   ・兵庫(1867年の勅許後、実際は神戸を開港)の開港と、江戸・大坂の開市(かいし。
   商取引の許可)。
 (2)通商は自由貿易とすること。
 (3)開港場に外国人の居留地(きょうりゅうち。一定地域を限って外国人に居住・営業を
   許可した場所)を設けること。一般外国人の国内旅行は禁止。
 (4)日本滞在の外国人への領事裁判権(在日外国人の裁判はその本国の領事が行う
   という権利)を認めること(治外法権の容認)。
 (5)協定関税制度(関税は両国で相談した協定税率に従うこと)とすること(関税自主権
   の欠如
)。


 日米修好通商条約は、天皇の許しを得ないまま大老井伊直弼の独断によって調印した無勅許調印という手続き上の問題に加え、国際慣習に疎かった当時の日本人の無知につけこんだ不平等条約であったため、その後長く禍根を残すことになりました。

 関税自主権の欠如領事裁判権の容認という半植民地的なこの不平等条約の内容は、イギリス・フランス・オランダ・ロシアとの同様の条約にも継承されました。これらの条約を総称して「安政の五か国条約」といいます。

 1860(万延元)年、幕府は日米修好通商条約批准書(ひじゅんしょ)交換のため、外国奉行新見正興(しんみまさおき。1822~1869) を首席全権としてアメリカへ派遣しました。親見らはアメリカ艦ポーハタン号に乗って訪米し、ワシントンで条約を批准しました。この時、勝海舟(かつかいしゅう。1823~1899)らが幕府軍艦咸臨丸(かんりんまる)で随行しました。これは、日本人の自力操舵による初めての太平洋横断の成功でした。


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④ 貿易の開始とその特色


 当初開港された箱館・長崎・横浜3港のうち、横浜での貿易額が全体の8割を占めました。横浜が貿易の中心になったのは、輸出品の中心となった生糸(後述)の生産地が、群馬県をはじめとする北関東に集中していたからでした。

 アメリカは南北戦争勃発により、対アジア貿易に没頭できない事情もあり、開港後の最大の貿易相手国は「世界の工場」イギリスでした。当時の輸入品の上位品目が、イギリスで生産された毛織物・綿織物などの工業製品だったのはこのためです。このほかの輸入品は、幕末の騒然とした世相を反映して、武器や艦船などの軍需品でした。

 一方、日本からの輸出品は、生糸・茶(イギリス人は緑茶より紅茶を好んだため、緑茶はアメリカへ再輸出されました)・蚕卵紙(さんらんし。カイコガの卵を産み付けた紙。蚕種(こだね))・海産物などでした。

 これらのうち、輸出総額の8割を占めた最大の輸出品目は、生糸でした。当時ヨーロッパではカイコガの病気(微粒子病)が蔓延(まんえん)し、生糸生産が壊滅状態だったのです。明治時代になって、政府が群馬県に官営模範工場(富岡製糸場)を設立するのも、輸出産業の製糸部門に梃子入れするためでした。

 輸出入品の内容を見ると、原料・半加工製品を輸出して工業製品を輸入するという、当時の日本貿易の後進性がよくわかります。


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⑤ 貿易がもたらした影響 


 開港直後は日本の輸出超過でした。しかもただちに増産がきかない農産物・海産物等ばかりだったため、たちまち国内では日用品不足による物価騰貴がおこりました。

 また、安価な綿製品がイギリスから大量に流入したため、国内の綿産業は壊滅的な打撃を被ることになりました。

 その一方、主要輸出品の生糸は、生産するそばからいくらでも売れました。そのため、生産の拡大がはかられ、マニュファクチュア(工場制手工業)の発達が促されることとなりました。

 しかし、都市問屋に利益を奪われることを嫌った在郷商人たちは、農産物・海産物等の輸出商品を江戸問屋を通さず、横浜の外国人居留地へ直接持ち込みました。そのため、江戸ではこれらの日用品が品不足となり、問屋中心の流通機構が混乱する事態を招きました。

 こうした事態への対処を迫られた幕府は、都市問屋中心の流通機構を回復させるため、主要商品の江戸問屋への廻送を命じた五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい。1860)を発令しました。生糸・呉服・雑穀・水油(みずあぶら。菜種油のこと)・蝋(ろう)の五品は、必ず江戸の問屋に経由するよう命じたのです。しかし、在郷商人の抵抗と、当法令を条約で定めた自由貿易を妨害するものと主張する外国の抗議にあい、効果は上がりませんでした。

 また、外国と日本では金銀比価(きんぎんひか)に相違があったため、外国人は日本に銀貨を持ち込んで、10万両以上(流出金額については諸説あります)もの大量の金貨を海外に持ち去ってしまいました。

 日本では金1に対し銀5、外国では金1に対し銀15で交換していました。日本では銀の価値を、国際相場より3倍も高く見積もっていたのです。これは、金1を持っていた外国人が銀15と交換して日本に持ち込むと、金3となって戻ってくることを意味します。外国人たちは、貿易決済手段としてアジアで広く流通していたメキシコ・ドル銀貨(洋銀)を日本に持ち込むことで、リスクなしに、莫大な利益をあげていたのです。

 金の海外流出を防ぐため、幕府は金の含有量を大幅に減らした万延小判(まんえんこばん)をはじめとする、質の悪い貨幣を発行しました。金の流出はおさまったものの、貨幣の実質価値が下がったため国内の物価上昇に拍車がかかり、庶民生活はますます苦しくなりました。

 日用品不足・物価高騰・綿産業等への打撃・流通機構の混乱・金貨の海外流出等、こうしたとんでもない混乱はどうしてひき起こされたのでしょうか。

 そもそもの原因は、外国との貿易が始まったことにあります。その責任は、日本に開港を迫った外国人と、その圧力に屈して通商条約を結んだ幕府にあります。混乱の影響をまともに受け、生活苦に追い込まれた下級武士や一般の人びとは、そのように考えました。

 彼らは、外国人や幕府に対してますます反感を募らせていきました。その結果、百姓一揆や打ちこわしが頻発し、外国人を排斥する攘夷運動(じょういうんどう)が激化していきました。

 そして、外国人を襲撃する事件が相次いで起こりました。

 1860(万延元)年にはヒュースケン斬殺事件(ハリスの通訳だったオランダ人を薩摩浪士が斬殺)、1861(文久元)年には東禅寺事件(とうぜんじじけん。高輪(たかなわ)のイギリス仮公使館を襲撃)、1862(文久2)年には生麦事件(なまむぎじけん。島津久光の行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬殺。薩英戦争の原因となった事件)、イギリス公使館焼打ち事件(品川御殿山に建設中の公使館を長州藩士が焼打ちした事件)などがおこっています。


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