50.雄藩のおこり

 今若(も)し領主より金を出して、国内の物産を買ひ取り、民の従来私(わたくし)に売るよりも利多きやうにせば、民必ず之を便利と思ひて喜ぶべし。貨物を悉(ことごと)く買取りて、近傍(きんぼう)の国と交易すべき物をば、交易もすべし。大方は江戸・大坂の両所に送りて、府庫(ふこ。諸大名が大坂・江戸においた蔵屋敷)に納め置き、国民の中にて、良賈(りょうこ。有能な商人)一人を選びて、江戸・大坂に居住せしめ、之(これ)を蔵主(くらぬし。倉庫の所有者)として、他の商賈(しょうこ。商人)より「いれ」(「ノ」の下「去」)標(いれふだ)を取りて貴(たか)き価(あたい)にて売るべし。

             ( 中略 )

 凡(およ)そ今の諸侯は、金なくては国用足らず、職責もなりがたければ、唯(ただ)如何(いか)にもして金を豊饒(ほうじょう)にする計(はかりごと)を行ふべし。金を豊饒にする術(すべ)は、市賈(しこ。商人のこと)の利より近きはなし。


(藩が国産品を買い上げる際、個人的取引きよりも高値をつけて領民から買ってやれば、領民は藩による買上げの方が得だと喜ぶにちがいない。そうやって国産品をすべて買い取り、藩専売制を実施すべきだ。近隣と交易すべき物があれば交易にまわし、大方の物資は江戸・大坂の蔵屋敷に送るべきだ。江戸・大坂には有能な商人を在住させて売却を委託し、入札希望者の中から最高値をつけた商人に売るようにする。( 中略 )今の諸大名は、貨幣の蓄積がなければ国家財政が不足して、職責も全うできない。何としてでも貨幣を増やす方策を実行すべきである。その手段は、商業の活用が一番だ。)

(太宰春台『経済録拾遺』-滝本誠一編『改訂日本経済叢書・第6巻』1923年、大鎧閣、P.295-。読みやすいように漢字を現行のものに改め適宜句読点を付し、また注を付した)


 


●幕藩体制の危機●


 
@ 農村の荒廃


 幕藩体制は自給自足の農村社会を基盤とし、本百姓から年貢米を取り立てて成り立つ仕組みでした。しかし、天保期頃になると本格的に行き詰まりをみせるようになってしまいました。

 自給自足だった農村にも商品貨幣経済が深く浸透していく中、特に北関東を中心に農村荒廃が著しく進んだのです。農村の荒廃は、人口減少とそれにともなう田畑の荒廃という形になってあらわれました。



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A 経済の近代化


 「幕藩体制の基盤である農村が荒廃していく」という危機的状況に幕藩領主たちが直面していた19世紀には、さまざまな分野で社会構造・経済構造の変化が見られるようになりました。


《 マニュファクチュアの出現と進展 》


 商品生産が盛んな地域では、問屋が資金・原料等を生産者に前貸しし、生産された商品を問屋が各戸をまわって回収していくという、問屋制家内工業(といやせいかないこうぎょう)が発展していました。

 そうした問屋商人の中から、広い作業場をつくってそこに大勢の奉公人(賃金労働者)を集め、分業と協業によって、大規模に手工業生産を行う者が現れるようになりました。

 こうした経営方式を、マニュファクチュア(工場制手工業)といいます。マニュファクチュアは資本主義的生産の初期段階にあらわれる生産様式とされます。ですから、マニュファクチュアの出現は、経済の近代化が始まったというメルクマール(指標)になります。

 自給自足の農村を基盤とする幕藩制社会では、本百姓身分がほとんどを占めます。米納を基礎とする税体系のもとでは、本百姓たちは農作業に専念するため、基本的に耕作地から離れることができません。しかし、農閑期ならそうした制約はなくなり、彼らを奉公人として集めることができます。そのため、摂津の伊丹(いたみ)や(なだ)など、雑菌の繁殖を嫌うため冬期に酒の仕込みを行う酒造業地域では、マニュファクチュアが早くから発展していました。

 酒造業ばかりでなく、時代が下ると様々な分野・地域でマニュファクチュア経営が見られるようになりました。

 たとえば、京都西陣絹織物業、尾張の綿織物業、そして北関東の地方都市桐生・足利などの絹織物業では、数十台の高機(たかばた)と数十人の奉公人を抱える織屋(おりや)が登場してくるようになりました。



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●農村荒廃への対応●



 農村荒廃という幕藩体制の危機に対しては、二宮尊徳・大原幽学らによって農村復興が試みられました。


@ 二宮尊徳の農村復興策


 
二宮尊徳(にのみやそんとく。1787〜1856)は、小田原藩領や下野(しもつけ)桜町領などで尊徳仕法(そんとくしほう)を展開しました。尊徳仕法は、領主に年貢徴収を軽減させた間に、百姓に質素・倹約・勤勉の生活を説き、荒廃した田畑を再開発するというものでした。


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A 大原幽学の農村復興策


 
大原幽学(おおはらゆうがく。1797〜1858)は、下総(しもうさ)香取郡(かとりぐん)長部村(ながべむら)で実践的な日常道徳(大原はこれを「性学」とよびました)と合理的な農業生産法を説いて、農村の復興をめざしました。しかし、村政改革のために村々をあちこち移動する大原の行動が幕府の嫌疑をうけ、拘束されてしまいました。その後、大原は自殺してしまいました。


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●諸藩の藩政改革●



 幕藩体制の危機に苦悶していたのは、ひとり幕府のみではありませんでした。諸藩においても財政難などの危機に直面し、さまざまな改革が試みられたのです。
 
 多くの藩で改革が失敗するなか、藩財政の立て直しに成功して一応の成果をあげた諸藩がありました。それは、藩権力が比較的強力だった西南地方の薩摩藩や長州藩などでした。彼らは、幕末・明治維新の混沌とした政局の中で、討幕派として幕府と対決し、また新政権の中心を担っていくという役割を果たします。こうした藩を雄藩(ゆうはん)とよびます。

 これらの諸藩では、中下級藩士から優秀な人材を登用し、財政難打開のためには強引とも思われる方法をとるなどして、莫大な藩の借金を整理しました。

 さらには、商品生産の活発化や工業の発展という時代の流れに対応して、自らすすんで商業・工業を藩営事業として取り込み、富裕化を目指しました。国産品の藩専売制を採用して利益をあげたり、藩営工場を設立したりするなどの諸政策がそれです。

 また、幕末の外患意識の高まりに対応して軍事力の増強を目指し、洋式武器を導入したり、反射炉を築造して大砲を製造したりするなどして、藩権力の強化をはかりました。

 次に、薩摩・長州・土佐・肥前の西南諸藩の藩政改革と、その他諸藩の改革を見ていきましょう。


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@ 薩摩藩(鹿児島藩)  


 薩摩藩では島津重豪(しまづしげひで。藩主斉興(なりおき)の祖父)の時代に、調所広郷(ずしょひろさと。1776〜1848)を登用して藩政改革を行いました。調所は茶坊主から側用人、家老へと抜擢された人物です。

 薩摩藩では一揆がありません。薩摩藩では他藩より武士人口が多く、農村には「外城(とじょう)の士」とよばれた郷士たちが多く住み、農村を強圧的に支配していたからです。

 薩摩藩には500万両に及ぶ借財がありました。薩摩藩の経常収入が13万両前後だったといいますから、いかに巨額の借金だったかがわかります。

 調所は債権者たちを集めると借金証書を取り上げて焼却し、「金がないので利子(利子だけで年間80万両に及んだといわれています)は払えない。しかし毎年2万両ずつなら返す」と乱暴な返済方法を宣言したのです。500万両を毎年2万両ずつ返済するとなると、250年間かかります。「旧薩摩藩が現在も2万両ずつ返済し続けている」という話は聞いたことがありません。これは事実上の借金踏み倒しです。それでも35年間は、律儀に2万両ずつ返済していました。

 しかし、廃藩置県(1872)後、明治政府によって債務の無効が宣言されたということです。

 薩摩藩の財政再建に寄与したのは黒砂糖密貿易でした。黒砂糖は薩摩藩の特産品で、奄美大島・徳之島・喜界島を主な産地とします。これを「三島砂糖」といいます。黒砂糖は薩摩藩の主要財源の一つとして、藩専売制が強化されました。

 また、幕府が蝦夷地から独占的に集荷していた俵物を、松前から長崎に向かう途中の船から買い上げ、琉球を通じて清国に売却して、藩財政の立て直しをはかりました。薩摩藩の貿易には、幕府から小規模に認められていた公許枠がありました。それを隠れ蓑として公許枠をこえる大規模な貿易を行ったり、禁制品を扱って莫大な利益を上げていました。

 しかし、密貿易が幕府に密告され、1848年、調所はその責任を一身に背負って自害(一説に病死)してしまいました。

 島津斉彬(しまづなりあきら)の時代には、殖産興業に力を注ぎました。鹿児島に反射炉(はんしゃろ。溶鉱炉の一種)を築造し、造船所やガラス製造所などの洋式工場を建設して集成館と名づけました。

 島津忠義(しまづただよし)の時代には、わが国最初の洋式紡績工場を建設する一方で、イギリス商人グラバーから洋式武器を購入して軍事力の増強に努めました。


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A 長州藩(萩藩)


 長州藩では、1839年、下級武士出身(郡代官の子)の村田清風(むらたせいふう。1783〜1855)を登用して藩政改革を行いました。

 長州藩では連年の百姓一揆に悩みました。特に防長大一揆(1831)は、国産会所による専売に対して専売制廃止や年貢減免を求めた全藩一揆でした。長州藩は、一揆側の要求を入れて紙・蝋などの藩専売を緩和しました。そして民営認可とひきかえに運上金等を徴収することにし、税収増をはかることしにしました。

 長州藩には「八万貫目の大敵」とよばれた藩債がありました。銀で8万5千貫目余(約140万両)にものぼる借金を、村田は37年間かけて返済するという方法(37年賦皆済仕法)で整理しようとしました。

 また、下関が西廻り航路の要衝の港であったことから、ここにに越荷方(こしにかた)という倉庫兼金融を扱う役所を置きました。越荷は、他国廻船がもたらす物産、を意味します。越荷方では、廻船業者から越荷を買い取って委託販売したり、業者に資金を貸しつけたりして莫大な利益をあげました。

 その他、洋学の奨励、洋式軍備の採用と軍事演習等によって、軍事力の増強をはかりました。


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B 肥前藩(佐賀藩)


 肥前藩では藩主鍋島直正(なべしまなおまさ。1814〜1871)によって、藩政改革が実施されました。改革の中心は財政再建で、その主な対策は均田制陶器の専売制です。

 均田制は本百姓体制の再建をねらったもので、地主が所有する小作地を没収して小作人に分与し、本百姓を創設しました。

 肥前藩の特産品は「米より外にこれなく、次は陶器ばかりなり」(古賀穀堂『済急封事(さいきゅうふうじ)』)という状況だったため、特産品である有田焼の専売制を進めて藩財政を建て直しました。

 肥前藩は長崎警備役の特殊任務を幕府から命じられていたため、わが国最初の反射炉を築造して大砲製造所を設けるなど、軍事力の強化に努めました。

 幕末には、イギリスから輸入した最新鋭兵器のアームストロング砲を、自藩で鋳造したと言われています。ただし、アジア・太平洋戦争中の金属類回収令によって大砲が供出され、実物が残っていないため本物との比較ができず、伝承がどこまで本当なのか確証がありません。


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C 土佐藩(高知藩)


 土佐藩では山内豊熙(やまうちとよてる)の時代、馬淵嘉平(まぶちかへい)ら「おこぜ組」とよばれる改革派を登用して藩政改革が行われました。財政緊縮等によって財政再建が進められましたが、門閥層の反対で失敗しました。

 山内豊信(やまうちとよしげ)の時代、吉田東洋・板垣退助・福岡孝弟(ふくおかたかちか)らを登用し、大砲鋳造・砲台築造など、軍事力の強化をはかりました。


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D 水戸藩 


 水戸藩では徳川斉昭(とくがわなりあき。1800〜1860)の時代に、藤田東湖(ふじたとうこ)・会沢正志斎(あいざわせいしさい)らを登用して改革を行ないました。藩校弘道館を設立して人材を育成し、コンニャク・和紙など特産品の専売制で財政を再建し、反射炉を築いて大砲を鋳造しました。

 しかし、保守門閥層の反対で失敗に終わってしまいました。


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E その他 


 宇和島藩では藩主伊達宗城(だてむねなり。1818〜1892)が、越前藩(福井藩)では藩主松平慶永(まつだいらよしなが。1828〜1890)が、中下級藩士を要職の抜擢し、藩政改革に取り組みました。

 幕府も、代官江川英龍(えがわひでたつ)に命じて伊豆韮山(にらやま)に反射炉を築造させたほか、フランス人技師の指導の下、横須賀に製鉄所を建設しました。また、江戸に洋書翻訳機関である洋学所(1855。翌年、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)と改称)や洋式砲術の訓練などを行う講武所(こうぶしょ)、長崎に洋式船操縦の訓練を行う海軍伝習所(かいぐんでんしゅうじょ)などを設置し、外患に備えようとしました。


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