天保十二年(1841)五月十五日、天保改革は将軍の上意をもって幕をあけた。将軍家慶は諸老中を居間に召集して、享保・寛政の改革の精神にのっとって幕政の改革を断行するように訓示したが、これは改革をあくまで将軍の発意にもとづく形にして成果をあげようとする忠邦の演出であり、寛政改革における定信のまねである。
忠邦は別に家慶に呈出した上書のなかで、文政期このかた都市の奢侈はきわまった感があり、病気でいえば慢性化した難病のようなものである、このさい劇薬をもちいて根本的な治療を加えないと命取りになる、その荒療治によって世態は一変し、今後三、四十年はもつであろう、たとえそれによって城下が一時衰微し,商人の離散することがあってもやむをえないという不退転の決意を表明している。
( 中略 )
二年余の短期間にこれだけ多くの町触がだされた例はこれまでにないし、しかもその徹底をはかって酷吏が跳梁をきわめたのも、未曾有のことであった。
「此天保の御改革ほどめざましきはなし。むかし享保、寛政の御改革を、いみじき事にきゝわたりしかど、此度のごとくにはあらじとぞ思ふ。かの丑の春雲がくれ(家斉の死をさす)ありしより、やがて世の中眉に火をつけるがごとく、俄(にわか)に事あらたまりて、士農工商おしからめて、おのゝくばかりなり」(『寝ぬ夜のすさび』)というのが、当時の士民の偽らない感想であった。
(北島正元『日本の歴史18・幕藩制の苦悶』1974年、中央公論社(中公文庫)、P.440〜441、448)
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◆忠邦引退に関する落首 華美な衣服は着るな、初物は食べるな、高価な装飾品の所持は禁じる…と、矢継ぎ早に出される禁令に、庶民は息の詰まるような毎日を送っていました。 そこへ、越前守(忠邦)老中罷免の報です。今までの鬱憤を晴らそうと、数千に及ぶ群衆が、どっと忠邦の役宅に押し掛けました。そして、屋敷に向かって、さんざん石を投げ込みはじめたのです。これを制止しようとした辻番所(つじばんしょ)は人びとにうちこわされ、大騒ぎとなりました。 次の落首は忠邦引退を詠じたもの。世人の不満の大きさがわかりましょう。 越前の御難は九月十三日、牡丹餅(ぼたもち)ならで石々(いしいし)が降る (日蓮の佐渡流罪に際して、一人の老婆が日蓮に餅を差し出した。日蓮宗徒がこの「御難の餅」の故事を偲んだのが9月12日。忠邦の老中罷免は閏9月13日であった。石々は女性言葉で団子のこと。石礫(いしつぶて)と意趣(いしゅ)をかけている) 石は飛び番所は壊す世の中に、何とて越は腹を切らない (こんなに非難囂々(ひなんごうごう)なのに、なぜ責任を取って忠邦は切腹しないのだろう) これからは三度の飯もくひかねて、湯でものまれぬ水野越前 (「水の一膳」をかける) |