49.天保の改革 −内憂外患への対応−

 天保十二年(1841)五月十五日、天保改革は将軍の上意をもって幕をあけた。将軍家慶は諸老中を居間に召集して、享保・寛政の改革の精神にのっとって幕政の改革を断行するように訓示したが、これは改革をあくまで将軍の発意にもとづく形にして成果をあげようとする忠邦の演出であり、寛政改革における定信のまねである。

 忠邦は別に家慶に呈出した上書のなかで、文政期このかた都市の奢侈はきわまった感があり、病気でいえば慢性化した難病のようなものである、このさい劇薬をもちいて根本的な治療を加えないと命取りになる、その荒療治によって世態は一変し、今後三、四十年はもつであろう、たとえそれによって城下が一時衰微し,商人の離散することがあってもやむをえないという不退転の決意を表明している。
                    ( 中略 )

 二年余の短期間にこれだけ多くの町触がだされた例はこれまでにないし、しかもその徹底をはかって酷吏が跳梁をきわめたのも、未曾有のことであった。

此天保の御改革ほどめざましきはなし。むかし享保、寛政の御改革を、いみじき事にきゝわたりしかど、此度のごとくにはあらじとぞ思ふ。かの丑の春雲がくれ(家斉の死をさす)ありしより、やがて世の中眉に火をつけるがごとく、俄(にわか)に事あらたまりて、士農工商おしからめて、おのゝくばかりなり」(『寝ぬ夜のすさび』)というのが、当時の士民の偽らない感想であった。

(北島正元『日本の歴史18・幕藩制の苦悶』1974年、中央公論社(中公文庫)、P.440〜441、448)


●「劇薬」としての改革●



 1841(天保12)年、大御所家斉が没すると、老中首座水野忠邦(みずのただくに。1794〜1851)による天保の改革(1841〜1843)が断行されます。

 忠邦は、改革を実行する自らの手足として、保守派グループと進歩派グループという相反する官僚勢力をその支配に取り込みました。性格を異にするグループは、改革では不協和音を奏でることになります。

 ちなみに保守派(三羽烏)は鳥井耀蔵(とりいようぞう。南町奉行。鳥居は甲斐守だったので名前の「耀」蔵と受領名の「甲斐」守から「妖怪」と呼ばれました)、渋川六蔵(しぶかわろくぞう。天文方役人)、後藤三右衛門(ごとうさんえもん。銀座年寄)ら、進歩派(幕府三兄弟)は川路聖謨(かわじとしあきら。小普請奉行)、江川英竜(えがわひでたつ。伊豆韮山(にらやま)代官)、羽倉外記(はくらげき。勘定吟味役)らの人びとでした。

 百姓一揆・打ちこわしの頻発、イギリス・ロシア等列強の接近という内憂外患が深刻化する中、幕政はすでに行き詰まっていました。忠邦はこうした状況を、年来の悪病に苦しむ病人にたとえます。そして、不治の病には劇薬を投与しなければとても効験など望めない、という非常の覚悟をもって改革に臨んだのです。

 天保の改革は、享保・寛政の両改革を政治理想としてはいるものの、それらとは比較にならぬほど急激・峻厳な改革でした。大御所時代の自由な消費生活に馴れ親しんだ人々は、改革のあまりのすさまじさに恐れたじろぎ、


  「士農工商おしからめておのゝくばかり」
(片山賢『寐(ね)ぬ夜の須佐美(すさび)』)


であったとされます。

 結局はその「劇薬」のすさまじさゆえに、天保の改革は短期間で失敗に終わってしまいました。

 次に、改革の諸政策をひとつひとつ見ていきましょう。



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●綱紀の粛正●



@ きびしい倹約令


 忠邦は、幕府役人に徹底した冗費(じょうひ)削減を命じたばかりか、矢継ぎ早にさまざまな倹約令を出して、きびしい質素・倹約を士民に強制しました。

 少しでも贅沢(ぜいたく)・奢侈(しゃし)と見なされると、厳しい取締りの対象になりました。たとえば、女髪結い(おんなかみゆい)、娘義太夫(むすめぎだゆう。義太夫節を若い女性がうたうもの)、富くじ、混浴等は贅沢ないし風俗を乱すものとして禁止。また金・銀具の装飾品、絹地の衣服、値段が張る初物(はつもの)などの贅沢品は売買禁止。

 こうした生活の細部にわたる倹約の強制と風俗の取締りは貨幣経済を停滞させ、その悪影響はまたたくまに江戸市中に及びました。

 かつて賑わいを見せていた江戸の各市場では閑古鳥が鳴き、


   さびしさは鳥も肴
(さかな)も売れかねし 日本橋の秋の夕暮れ


と嘆く有様。商工業者たちが離散状態になるほどの深刻な不景気に見舞われました。


《 行きすぎた風俗取締り 》 


 忠邦の徹底した質素倹約の強制には、行きすぎや言いがかりと思える事例も目立ちます。

 たとえば、歌舞伎の芝居見物には1両ほどもかかり、上層町人など裕福な者しか見ることができませんでした。忠邦はこれを贅沢だとして、弾圧したのです。

 また、忠邦は、歌舞伎を風俗紊乱(ふうぞくびんらん)の元凶と決めつけ、中村座(堺町)・市村座(葺屋町)・森田座(木挽町)のいわゆる江戸三座を場末の地(浅草猿若町)に強制移転させました。歌舞伎役者が市中を歩く際は編笠(あみがさ)の着用を強要し、贅沢な暮らしぶりを理由に人気役者の市川海老蔵(5代目)を「江戸十里四方追放(江戸40km内に立ち入ることを禁止)」に処しました。

 忠邦はまた、寄席の撤廃まで命じました。落語・講談・手品などを演ずる寄席は、最盛期には江戸市中に211軒ありました。興行は昼席と夜席があり、夜席の木戸銭(入場料)はわずか50文ほど。歌舞伎見物などできない庶民のささやかな娯楽の一つでした。

 北町奉行遠山景元(とおやまかげもと。1793〜1855)の猛烈な反対もあり、忠邦は寄席の全廃はあきらめましたが、存続を認可された寄席はわずかに15軒。しかも民衆教化を理由に、演目は心学講話や神道講釈等に限定されてしまったのです(藤田覚『幕末から維新へ・シリーズ日本近世史D』2015年、岩波新書、P.84〜85)。

 夕涼みの花火も、火災の危険があるという理由で禁止、見世先(みせさき)の碁・将棋も、往来の邪魔になるという理由で禁止。

 こうして、庶民のささやかな楽しみがことごとく奪われていったのでした。


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A 出版の取締り


 幕府は全ての出版物を検閲して、幕府にとって都合の悪い書物を取り締まるとともに、高価な絵草紙(えぞうし)や役者を描いた錦絵(にしきえ)の販売を禁止しました。

 検閲態勢を強化した結果、人情本(にんじょうぼん)作者の為永春水(ためながしゅんすい。1790〜1843)、合巻(ごうかん)作者の柳亭種彦(りゅうていたねひこ。1783〜1842)らが筆禍をこうむりました。

 人情本は、婦女子をおもな読者対象とする会話主体の絵入り恋愛小説です。為永春水は、自身の代表作『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』の人気に乗じて、同趣向の作品を「為永連(ためながれん)」とよばれた弟子たちとともに粗製濫造し、次第に読者におもねって官能的な描写に走るようになりました。

 幕府は、これを「色情(しきじょう)の義を専(もっぱら)に綴(つづり)、好色本(こうしょくぼん)ニ紛敷(まぎらわしく)、婦女子等へは以之外(もってのほか)」(『市中取締類集』)と断じ、春水に手鎖(てぐさり)50日(50日間、手鎖によって両手の自由を奪う刑罰)を命じました。

 一方、柳亭種彦が書いた『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』は、紫式部の『源氏物語』の舞台を平安時代から室町時代に移した翻案(ほんあん)小説です。将軍足利義政の子、足利光氏(あしかがみつうじ)が恋愛遍歴をよそおいながら、将軍家の重宝を盗み出して将軍位を狙う山名宗全(やまなそうぜん)と対決していくという物語でした。

 豪華な装丁が倹約令に違反しており、また種彦が将軍お目見えを許された旗本(本名、高屋知久(たかやともひさ))だったこともあり、その内容が大御所家斉の派手な大奥生活を描写しているとの風評がたちました。

 ちなみに、家斉には本妻以外に40人に及ぶ側妾(そくしょう)がおり、早世者を含めて55人に及ぶ子女がいたということです。

 絶版に処せられたため、『偐紫田舎源氏』は未完に終わりました。組頭を通じて譴責を受けた種彦は筆を折り、そのショックのためか、まもなく病死してしまいました。



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●経済政策●



@ 物価引下げ令


 忠邦は、諸藩からの国産品が江戸に直送されることにより、商品統制がうまくいかなくなることを防ぐため、これを禁止しようとしましたが、西南諸藩の反対にあい失敗に終わりました。

 また、さまざまの物価引下げ令を出して諸物価・賃金・家賃などの強制的引き下げを命じたり、貨幣の交換比率を「金1両=銭6貫500文」とするように強制して銭相場を高く設定することにより、物価の下落をはかりました。

 一時的な効果はあったものの、根本的な解決にはなりませんでした。


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A 株仲間解散令(1841)


 さまざまな物価引き下げ策を繰り出すものの、なかなか功を奏しません。その原因を株仲間の独占にあると判断した忠邦は、1841(天保12)年、株仲間の解散を命じました。

 従来、株仲間を通じて行っていた商業統制を、幕府による直接統制に切り替えて、物価の安定を狙ったのです。しかし、この政策は失敗で、かえって商品流通の混乱を招く結果となりました。

 それからちょうど10年たった1851(嘉永4)年、幕府は問屋組合再興令を出して、株仲間の復活をはかりました。ただし、この時には新しい商人層の仲間参加を認め、冥加金納入の義務もありませんでした。


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B 印旛沼・手賀沼の干拓 −洪水予防・新田開発につづく第3の目的−


 忠邦は、印旛沼・手賀沼の干拓に着手します。工事の目的は3つありました。

 第1は、洪水の防止です。江戸の町を洪水から守るために、家康は利根川付け替え工事を行わせました。その結果、江戸の町の被害がなくなった一方、この地帯が洪水常襲地帯となっていたのです。

 第2は、干拓によって新田を開発することでした。新田開発によって、貢租収入の増加を見込んだのです。これら、二つの目的は、田沼時代にも意図されたものです。

 しかし、天保改革時には「外患に対応した新たな内陸水路の開発」という第3の目的が浮上します。

 それは、


   銚子→利根川→印旛沼→検見川
(けみがわ)→品川


という、江戸湾を利用しない内陸水上輸送路の開発です。

 アヘン戦争(1840〜42)は、日本も外国に侵略される危険性があることを示唆しました。こうした中、幕府は避戦の立場を取り、異国船打払令を撤回して天保薪水給与令(1842)を発し、対外政策を従来の強硬策から穏健策へと方針転換しました。

 しかし万が一にも戦争になり、外国艦船によって江戸湾を封鎖されでもしたら、江戸の人びとの生活はたちまちのうちに破綻してしまいます。東廻り航路による東北からの物資も、南海路による大坂からの物資も、いっさい江戸に入って来ないのですから。

 こうした危機に対処するため、幕府は、関東地方の地回り物(じまわりもの)を江戸へ輸送する内陸水路の開削を目指したのです。「江戸湾を経由しないで、江戸への物資補給路を確保する」という幕府の意図は、「堀割(ほりわり。運河)の広さを10間(じっけん。約18m)にし、高瀬舟(たかせぶね。荷物運搬用の川舟)二艘が行き違える広さを確保せよ」と命じていることからもうかがえます。

 しかし、この新たな内陸水路は完成しませんでした。8割方が完成した時点で台風による高波のために堀割が破壊され、また忠邦が失脚したために工事自体が中止になってしまったからです。


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C 人返しの法(1843)


 19世紀に入ると天保の飢饉・大塩の乱が連続して起き、関東周辺の村々から多くの困窮者が江戸へと流入しました。下層民の増大は江戸の治安を悪化させただけでなく、飢饉など何かきっかけでもあれば都市騒擾に直結する危うい状況をつくり出していました。

 一方、農村からの激しい人口流出は、田地の荒廃による生産力の低下、ひいては領主の年貢収入の減少をもたらしました。
 
 事態の急迫を憂慮した水野忠邦は、1838(天保9)年には諸国代官に、1841・42(天保12・13)年には町奉行に、江戸人口の減少策と農村人口増加策を諮問しました。そして1843(天保14)年、人返しの法を発するのです。
 
 その内容は、農村から江戸への新規移住の禁止、出稼ぎ人に領主の免許状取得を義務づけ、人別改めの強化、江戸に入り込んだ単身者の帰国、などでした。

 寛政改革時の旧里帰農令(1790)は強制力がなく、出願者がほとんどいなかったため効果があがりませんでした。今回の人返しの法には強制力があり、また全国の農村や上方の諸都市においても実施されたため、ある程度の効果をあげました。

 しかし、その効果は一時的なものにとどまりました。


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●改革の失敗●



@ 三方領知替えの失敗



 天保改革に先立つ1840年(天保11)、出羽庄内藩(酒井家)を越後長岡へ、越後長岡藩(牧野家)を武蔵川越へ、武蔵川越藩(松平家)を出羽庄内へと、三大名の玉突き転封が命じられました。これを「三方領知替え」といいます。

 江戸時代、三方領知替えは7回行われました。決して珍しいものではありませんが、従来の三方領知替えは、大名の処罰などやむを得ない事情によって行われました。

 しかし今回は、川越藩が徳川家斉の息子を養子に迎えたことを利用し、豊かな土地へ国替えして欲しいとする働きかけがあって命令されたのです。つまり幕府の命令は、大御所家斉の子女を養子に迎えた川越藩を露骨に優遇し、何の落ち度もない庄内藩を収入が劣る土地へ移動させるという、きわめて不公平なものだったのです。

 幕府の依怙贔屓(えこひいき)に反発した大名たちは、三方領知替えの理由を問いただす文書を幕府へ提出しました。また、庄内藩では三方領知替えに反対して、領民たちまでが百姓一揆をおこす始末。

 将軍家慶は、三方領地替えの強行は困難との判断を下しました。そこで、水野忠邦の反対を押し切って、その実施を撤回させたのです。

 幕府がいったん命じた転封を、大名や領民の反対にあって撤回した例はこれまでありませんでした。三方領知替えの撤回は、幕府権力の弱体を露呈する結果となりました。

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A 上知令(あげちれい。1843)の失敗


 上知令は江戸・大坂10里四方(一説に大坂は5里四方)の譜代や旗本の知行地を幕府に返還させ、幕領の集中化を意図した政策です。

 表向きには、幕府財政補強のために、租率の高い領地を幕領に組み入れるとの主旨を述べています。しかし、実際には将軍の転封(領地替え)権を大名・旗本に再認識させて幕府権力の強化をはかり、また外患に対応して江戸・大坂の防備を固めようとしたものでした。

 ところが、予想以上に譜代・旗本の反発が激しく、将軍家慶によって撤回されるに至りました。

 将軍の命令に最も忠実であるはずの譜代・旗本に対してさえ、転封権を行使する権力が幕府にはなくなっていたことが露呈されたのです。幕府権力の衰退は、もう隠しようがないものとなっていました。

 上知令の失敗は、忠邦失脚の原因となりました。本令が出されたのが天保14(1843)年の8月18日、撤回されたのが同年閏(うるう)9月7日、そして閏9月13日に忠邦は罷免されてしまったのです。


   水ひいて十里四方は元の土
(水野忠邦が失脚して上知令は撤回)

   十里四方を上知して旗本を苦しめ



 ◆忠邦引退に関する落首

 華美な衣服は着るな、初物は食べるな、高価な装飾品の所持は禁じる…と、矢継ぎ早に出される禁令に、庶民は息の詰まるような毎日を送っていました。

 そこへ、越前守(忠邦)老中罷免の報です。今までの鬱憤を晴らそうと、数千に及ぶ群衆が、どっと忠邦の役宅に押し掛けました。そして、屋敷に向かって、さんざん石を投げ込みはじめたのです。これを制止しようとした辻番所(つじばんしょ)は人びとにうちこわされ、大騒ぎとなりました。

 次の落首は忠邦引退を詠じたもの。世人の不満の大きさがわかりましょう。


 
越前の御難は九月十三日、牡丹餅(ぼたもち)ならで石々(いしいし)が降る
 
(日蓮の佐渡流罪に際して、一人の老婆が日蓮に餅を差し出した。日蓮宗徒がこの「御難の餅」の故事を偲んだのが9月12日。忠邦の老中罷免は閏9月13日であった。石々は女性言葉で団子のこと。石礫(いしつぶて)と意趣(いしゅ)をかけている)

 石は飛び番所は壊す世の中に、何とて越は腹を切らない
 
(こんなに非難囂々(ひなんごうごう)なのに、なぜ責任を取って忠邦は切腹しないのだろう)

 これからは三度の飯もくひかねて、湯でものまれぬ水野越前

  
(「水の一膳」をかける)



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