此節(このせつ)は米価愈(いよいよ)高直(こうじき。高値)に相成(あいなり)、大坂の奉行(ぶぎょう)并(ならびに)諸役人共(しょやくにんども)、万物一体(ばんぶついったい)の仁(じん)を忘れ、得手勝手(えてかって)の政道を致(いた)し、江戸へハ廻来(かいまい。米の廻送)の世話致し、天子(てんし。天皇)御在所の京都へハ廻米の世話いたさゞる而已(のみ)ならず、五升・壱升(斗カ)位(くらい)の米を買(かい)に下(くだ)り候者共を召捕(めしとり)抔(など)致し、( 中略 )
於是(ここにおいて)蟄居(ちっきょ。家に閉じこもっていること)の我等(われら)、最早(もはや)堪忍難成(かんにんなりがたく)、湯武(とうぶ。夏を倒した殷の湯王や殷を倒した周の武王のこと)の勢ひ、孔孟(こうもう。孔子や孟子)の徳はなけれども、無拠(よんどころなく)天下の為と存じ、血族(けつぞく)の禍(わざわ)ひを侵(おか)し(罪が一族に及ぶこともかえりみず)、此度(このたび)有志の者と申合(もうしあわせ)、下民(げみん)を悩(なやま)し苦しめ候諸役人共を誅戮(ちゅうりく。罪ある者を殺すこと)致し、引続(ひきつづ)き奢(おごり)に長(ちょう)じ居(おり)候、大坂市中金持の町人共を誅戮可致(いたすべく)候間、右の者共、穴蔵(あなぐら)に貯置(たくわえおき)候金銀銭並(ならびに)諸蔵屋敷内(しょくらやしきない)へ隠置(かくしおき)候俵米(たわらまい)、夫々(それぞれ)分散配当致し遣(つかわ)し候間、摂河泉播(摂津・河内・和泉・播磨)の内、田畑所持不致(いたさざる)者、縦令(たとえ)所持致候共、父母妻子家内の養方(やしないかた)難出来(できがたき)候程(そうろうほど)の難渋者(なんじゅうしゃ。生活が苦しい者)へは、右金米(みぎのきんまい)為取遣(とらせつかわし)候間、何日にても、大坂市中に騒動起(おこ)り候と聞得(きこえ)候はゞ、里数(りすう)を厭(いとわ)ず、一刻も早く、大坂へ向け馳(はせ)参(まい)り候面々へ、右米金分遣(わけつかわし)可申候 ( 後略 )
(大塩平八郎檄文(げきぶん))
●深まる国内危機● |
◆その後の大塩平八郎 天保8(1837)年3月26日、大塩平八郎父子が自殺しました。その1年半後の天保9年8月21日、評定所において次のような判決がありました。 公儀を恐れざる仕方、重々不届き至極ニ付き、塩詰めの死骸引き廻しの上、大坂に於いて、磔(はりつけ)申し付け候者なり 同年9月18日、大塩父子をはじめ19名が摂津国西成郡今宮村で磔に処せられました。1人を除き、残りはすべて1年余を経た骸骨でした。しかし、これらに対しても刑罰の定め通り左右から鎗(やり)数十本ほど突き、とどめをさした上、2夜3日晒(さら)し置いたということです。 【参考】 ・穂積陳重『続法窓夜話』1980年、岩波文庫、P.76〜77による |
●強まる対外危機● |