此節(このせつ)は米価愈(いよいよ)高直(こうじき。高値)に相成(あいなり)、大坂の奉行(ぶぎょう)并(ならびに)諸役人共(しょやくにんども)、万物一体(ばんぶついったい)の仁(じん)を忘れ、得手勝手(えてかって)の政道を致(いた)し、江戸へハ廻来(かいまい。米の廻送)の世話致し、天子(てんし。天皇)御在所の京都へハ廻米の世話いたさゞる而已(のみ)ならず、五升・壱升(斗カ)位(くらい)の米を買(かい)に下(くだ)り候者共を召捕(めしとり)抔(など)致し、( 中略 ) 

 於是(ここにおいて)蟄居(ちっきょ。家に閉じこもっていること)の我等(われら)、最早(もはや)堪忍難成(かんにんなりがたく)、湯武(とうぶ。夏を倒した殷の湯王や殷を倒した周の武王のこと)の勢ひ、孔孟(こうもう。孔子や孟子)の徳はなけれども、無拠(よんどころなく)天下の為と存じ、血族(けつぞく)の禍(わざわ)ひを侵(おか)し(罪が一族に及ぶこともかえりみず)、此度(このたび)有志の者と申合(もうしあわせ)、下民(げみん)を悩(なやま)し苦しめ候諸役人共を誅戮(ちゅうりく。罪ある者を殺すこと)致し、引続(ひきつづ)き奢(おごり)に長(ちょう)じ居(おり)候、大坂市中金持の町人共を誅戮可致(いたすべく)候間、右の者共、穴蔵(あなぐら)に貯置(たくわえおき)候金銀銭並(ならびに)諸蔵屋敷内(しょくらやしきない)へ隠置(かくしおき)候俵米(たわらまい)、夫々(それぞれ)分散配当致し遣(つかわ)し候間、摂河泉播(摂津・河内・和泉・播磨)の内、田畑所持不致(いたさざる)者、縦令(たとえ)所持致候共、父母妻子家内の養方(やしないかた)難出来(できがたき)候程(そうろうほど)の難渋者(なんじゅうしゃ。生活が苦しい者)へは、右金米(みぎのきんまい)為取遣(とらせつかわし)候間、何日にても、大坂市中に騒動起(おこ)り候と聞得(きこえ)候はゞ、里数(りすう)を厭(いとわ)ず、一刻も早く、大坂へ向け馳(はせ)参(まい)り候面々へ、右米金分遣(わけつかわし)可申候 ( 後略 )

(大塩平八郎檄文(げきぶん))

48.内憂外患の時代へ


●深まる国内危機●



@ 大御所時代(1793〜1841)


 11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり。1773〜1841)は、1837(天保8)年に将軍職を子の家慶(いえよし。1793〜1853)に譲って大御所(おおごしょ)となりました。しかし、その後も実権を握り続けたままでした。文化・文政期から天保期にかけて、徳川家斉が政権を担った約50年間を「大御所時代(おおごしょじだい。1793〜1841)」と称します。

 この時期は、自由な消費活動のもと、庶民文化が発達した時期でした。その一方で、内憂外患の危機意識が深まり、社会不安が増大した時期でもありました。
 
 国内においては、家斉治世の前半期は、松平信明(まつだいらのぶあきら。1760〜1817)ら「寛政の遺臣」とよばれた人びとが寛政改革を継承した政治を行いましたが、彼らが引退した後半期になると、次第に幕政に緩みが目立つようになりました。

 家斉治世の後半期に、幕政を主導したのは老中の水野忠成(みずのただあきら。1762〜1834)でした。水野の登場は


   水の出て もとの田沼となりにける


と庶民に評されました。水野の登場に、田沼時代の賄賂政治の再来を庶民は予感したのでした。

 この時代は財政難で、幕府の赤字は毎年50万両に達したといわれます。財政難克服策の一つとして、1枚で100文に相当する天保通宝(てんぽうつうほう)を鋳造しましたが、悪貨の流通はますますの物価騰貴をもたらしました。

 また、百姓一揆・打ちこわしが頻発し、関東地方では博徒らが横行するなど治安が悪化していました。そこで幕府は、関東地方の警察機能を強化するために1805(文化2)年、関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)を設置しました。

 さらに1827(文政10)年、近隣の数か村ずつで寄場組合(よせばくみあい)というグループを結成させ、共同で治安維持・風俗取締り等にあたらせ、農村の秩序維持をはかりました。この寄場組合は、明治期になって大区・小区制に改変されていきます。
 

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A 大塩平八郎の乱(1837)


 
大塩平八郎(おおしおへいはちろう。号は中斎。1793〜1837)はもと大坂東町奉行所の与力で、引退後、私塾洗心洞(せんしんどう)で陽明学を講じていました。

 折しも天保の大飢饉が起こり、人びとの窮状を見た大塩は、奉行所に救済献策をしますが無視されます。また大坂でも米が不足していましたが、江戸幕府から上方米の江戸廻送を要請されて東町奉行跡部良弼(あとべよしただ。老中水野忠邦の実弟)はそれに同意してしまいました。それに加えて、米価騰貴を見込んだ豪商による米の売り惜しみが起こり、役人はわずかな米を買い求めに来た庶民を捕縛するという有様。

 こうした為政者の無為無策、豪商の私利私欲に憤激した大塩は、洗心洞の蔵書を売却して窮民に1朱ずつ施与するとともに、同志を糾合(きゅうごう)して乱を起こしました。

 計画では西町奉行堀利堅(ほりとしかた)の市中巡見を機に蜂起し、豪商等を襲い、大坂城を占領する手はずになっていました。しかし、1837(天保8)年2月、密告のため準備不足のまま蜂起し、乱はわずか半日で鎮圧されました。大坂の町の5分の1を焼亡させ、一般庶民の中からも多くの犠牲者を出すことになりました。大塩らは逃亡して知人宅に潜伏していましたが、1か月後、捕吏の知るところとなり自殺しました。

 しかし、大塩が旧幕臣で能吏として知られ、また著名な陽明学者であったことから、幕府や世間に大きな衝撃を与えました。

 大塩の乱に触発されて、同年生田万(いくたよろず)の乱が起こしました。国学者の生田万らが「天命を奉じて国賊(こくぞく)を誅(ちゅう)す」「忠臣を集めて窮民(きゅうみん)を救う」を旗印に掲げ、越後柏崎(かしわざき)で代官所を襲撃しましたが失敗に終わりました。

 生田万の乱をはじめとして、備後尾道(おのみち)・三原、摂津能勢(のせ)など各地で「大塩門人」を称する百姓一揆・打ちこわしが続発しました。



◆その後の大塩平八郎
 
 天保8(1837)年3月26日、大塩平八郎父子が自殺しました。その1年半後の天保9年8月21日、評定所において次のような判決がありました。


 公儀を恐れざる仕方、重々不届き至極ニ付き、塩詰めの死骸引き廻しの上、大坂に於いて、磔
(はりつけ)申し付け候者なり


 同年9月18日、大塩父子をはじめ19名が摂津国西成郡今宮村で磔に処せられました。1人を除き、残りはすべて1年余を経た骸骨でした。しかし、これらに対しても刑罰の定め通り左右から鎗(やり)数十本ほど突き、とどめをさした上、2夜3日晒(さら)し置いたということです。

【参考】
・穂積陳重『続法窓夜話』1980年、岩波文庫、P.76〜77による


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●強まる対外危機●



@ 列強のアジア接近


 幕藩体制が次第に行き詰まっていった頃、ヨーロッパ列強はアジアへの接近を試みていました。日本近海に外国船が頻繁に出没するようになると、わが国の人びとの間に次第に外患意識が高まって行きました。

 イギリスはインドに力をのばすとともに、ここを足場に清国への進出を窺いました。イギリスと対抗するフランスは、その針路をインドシナ方面へ向けました。

 一方、不凍港(ふとうこう)を求めて「南へ、海へ」という伝統的南下政策をとるロシアは、千島・樺太近海に頻繁に出没するようになり、18世紀後半には清国を目指すようになりました。

 また、独立を勝ち取ったアメリカは、西部開拓を進めました。その動きは19世紀半ばのゴールドラッシュによって一挙に加速し、太平洋側にまで突き抜けることになりました。そして、アメリカもまた、北太平洋での捕鯨と東洋貿易のため、アジアへ乗り出していくことになるのです。


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A ロシアの東進南下と蝦夷地紛争


《 田沼時代
(18世紀後半) 》


 蝦夷地周辺海域でのロシア船の出没は、工藤平助(くどうへいすけ。1734〜1800)に『赤蝦夷風説考』(1783)を書かせました。本書の意見に触発された田沼意次は、対露貿易・蝦夷地での鉱山開発等の可能性を探るため、2回にわたって最上徳内(もがみとくない)らを北方探検に派遣。

 しかし、ロシアとの貿易開始が長崎貿易に悪影響を及ぼしかねないという懸念から、当面のロシア貿易を断念しました。


《 寛政期(18世紀後半) 》


 江戸周辺の対外防備の手薄を指摘した『海国兵談』(1786)の著者林子平(はやししへい。1738〜1793)を処罰した半年後、ロシア使節ラクスマンが日本人漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう。 1751〜1828)らをともない、根室に来航しました(1792)。エカチェリーナ2世の親書を携え通商を要求しましたが、幕府は親書の受け取りを拒否しました。

 ロシア船の来航は為政者に、長崎以外の地も海防に備えなければならない、という必要性を痛感させました。そこで幕府は、18世紀末から調査・探検隊を北方へ派遣するようになります。

 1798(寛政10)年には近藤重蔵(こんどうじゅうぞう。1771〜1829)らが千島方面に派遣されました。近藤らは、択捉(エトロフ)島に「大日本恵登呂府(だいにっぽんえとろふ)」の標注をたて、択捉島が日本領であることを示しました。

 1799(寛政11)年、幕府は東蝦夷を直轄地としました。翌1800(寛政12)年から、伊能忠敬(いのうただたか。1745〜1818)が蝦夷地測量を開始しています。


《 文化年間(19世紀初め)


 1804(文化元)年、ロシアのレザノフ(1764〜1807)が、ラクスマンが持ち帰った信牌(しんぱい。長崎入港の許可証)を持参して長崎に来航しました。しかし、幕府はレザノフの通商要求を拒否しました。幕府の冷淡な態度に憤慨したレザノフは「日本に通商を認めさせるには、軍事的圧力が必要」と示唆したことから、ロシア軍艦が択捉(エトロフ)島や樺太を攻撃する事件がおこり、ロシアとの関係は緊張しました。

 1807(文化4)年、幕府は松前・蝦夷地を直轄にして、松前奉行を置きました。そして、間宮林蔵(まみやりんぞう。1755〜1844)らに樺太・沿海州方面の探検を命じました。間宮らは1809(文化6)年、間宮海峡を発見し、樺太が半島ではなく島であることを確認しました。

 1811(文化8)年、幕府は国後島を測量していたロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローウニン(1776〜1831)を捕らえ、拘束しました。報復として1812(文化9)年、副艦長リコルドが淡路商人高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ。1769〜1827)を捕らえ、抑留しました。この高田屋嘉兵衛が仲介して、1813(文化10)年、ゴローウニンと嘉兵衛の交換がなり、日露関係は事なきを得ました。

 新知(シムシル)島はロシア領、得撫(ウルップ)島は中立、択捉(エトロフ)島は日本領と取り決めました。樺太の帰属については取り決めをしませんでした。

 1821(文化4)年、幕府は直轄にしていた蝦夷地を、松前藩に返還しました。


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B 英米の接近と異国船打払令


《 フェートン号事件
(1808) 》


 1808(文化5)年には、イギリス船フェートン号が、突然長崎に侵入してくるという事件が起こりました。

 当時、ヨーロッパではナポレオン戦争(1797〜1815)によって、オランダはフランスに併合されていました。そこで、フランスの敵国イギリスが、オランダ船捕獲のために来襲したのです。

 その後フェートン号は、薪水等を積み込んで国外へ退去しましたが、長崎奉行松平康英(まつだいらやすひで(やすふさ)。1768〜1808)は責任をとって自害してしまいました。また長崎警護の役割をになっていた佐賀藩主は職務怠慢を責められ、幕府から処罰されました。


《 異国船打払令の発令(1825) 》


 その後もイギリス船は、頻繁に日本近海に姿を現しました。浦賀には1817(文化14)年、1818(文政元)年、1822(文化5)年と、たびたび来航を繰り返しています。

 さらに1824(文政7)年、薩摩の宝島と常陸の大津浜(現、茨城県北茨城市)で、イギリス捕鯨船員が相次いで上陸するという事件が起こりました。大津浜では乗船員が食料を求めて漁民と交易を繰り返し、宝島では牛などを略奪するという事件が起こりました。

 こうしたイギリス船とのトラブルをきっかけに、翌1825(文政8)年、幕府は異国船打払令(別名「無二念打払令(むにねんうちはらいれい)」)を発令することになるのです。打払令の文中に「一体いきりすに限らず…」と、イギリスが名指しされているは、そのためです。間違えてオランダ船を打ち払って構わないから、外国船を見かけたらことごとく打ち払ってしまえ、という強硬な内容でした。


《 モリソン号事件(1837) 》


 1837(天保8)年、日本近海にあらわれたアメリカ商船モリソン号が、異国船打払令にしたがって砲撃され、打ち払われてしまいました(モリソン号事件)。のちに、モリソン号の来航目的が、通商交渉と漂流民の送還にあったことがわかります。目的を問わずに一方的に外国船を打ち払うという幕府の理不尽な対応に対し、洋学者から批判の声が上がりました。しかし、幕府はこれを弾圧してしまいました(蛮社の獄)。

 列強勢力が日本近海に接近している時期に、異国船打払令という乱暴な法令は、外国との戦争を招きかねない危険なものでした。こうした危険な法令を発した背景には、幕府の国際情勢認識の甘さがありました。日本近海に出没する外国船は、捕鯨船ばかりだ。それらを砲撃しても、国家間の戦争に発展することはあるまい。地球の裏側にあるイギリスが、日本と戦争するために、軍艦をはるばる遠征させることなどあるはずがないのだから。これが幕府の対外認識でした。

 しかし、こうした認識の甘さは、アヘン戦争(1840〜42)によって簡単にくつがえされてしまったのです。


《 アヘン戦争(1840〜1842)とは 》


 清国から大量に茶を輸入していたイギリスは、貿易赤字に悩んでいました。ここでイギリスは、「インドで栽培させたアヘンを清国に売り込む」という、とんでもない赤字解消法を思いつきます。何しろアヘンには常習性があり、しかも中毒者を廃人にしてしまう恐ろしい薬物なのですから。

 イギリスが大量にアヘンを持ち込んだ結果、清国ではアヘン中毒者が激増しました。そして、支払い用の銀が、清国からイギリスへ大量に流出することになりました。

 清国は何度もアヘン禁止令を出しましたが、効果はありませんでした。そこで、当時の皇帝道光帝(どうこうてい)は、アヘン厳禁論者の林則徐(りんそくじょ。1785〜1850)を欽差大臣(きんさだいじん。清代に臨時に任命された特命大臣)に任命し、広州に派遣しました。林則徐はアヘンの没収・廃棄、中国人密貿易者の処罰、イギリス商館区の閉鎖という強硬策に打って出ました。

 かねてより公行(コホン。清国の特許商人による組合)による貿易独占を不満に思い、清国に自由貿易を要求していたイギリス政府は、林則徐の強硬策を懸案解決の好機ととらえました。

 ただちにイギリス政府は、清国への軍隊派遣を決定しました。グラッドストン(イギリスの政治家)が「その原因が不正義であり、イギリスの恥さらしとなるべき戦争」と嘆いたように、アヘン戦争は大義名分のない戦争でした。アヘンを取り締まった清国を懲らしめる、という「不正義」かつ「恥さらし」な理由によってイギリスは戦争をはじめ、清国を屈服させてしまったのです。

 そして、敗北した清国に対して、広州等5港の開港・自由貿易・香港割譲等を内容とする屈辱的な南京条約(1842)の締結を強要したのです。


《 アヘン戦争の衝撃 》


 アヘン戦争の報は、わが国に衝撃を与えました。幕府は戦争回避のため、異国船打払令を撤回して天保の薪水給与令(1842)を発令しました。薪水・食料を求める外国船には薪水等を給与せよ、と穏便な対外政策に転換したのです。

 その一方で、海防のための軍備を従来の軽微なものから厳重なものへと増強していきました。

 アヘン戦争におけるイギリス勝利の要因が、英清間の大砲の性能の差にあると考えた幕府は、西洋砲術の採用に踏み切りました。西洋砲術に長けた高島秋帆(たかしましゅうはん。1798〜1866)を登用し、幕臣に西洋砲術を伝習させました。1841(天保12)年には、武蔵国徳丸原(とくまるがはら。現、東京都板橋区)で、洋式銃隊の調練を実施しました。

 また、江戸を防衛するために、諸藩に相模・房総の警備や砲台の設置を命じました。


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C オランダの勧告


 西欧列強のアジア進出は、幕府の伝統的な対外政策の継続を許さないものになっていました。オランダ国王ウィレム2世は、アヘン戦争を教訓として清国の二の舞となることを避けるため、幕府の対外政策方針(いわゆる「鎖国」政策)を変更してはどうか、と勧告してきました。

 その内容は、蒸気船の発明が世界の海を狭くしたことを述べ、国家間の交流が盛んになっていく趨勢の中で、ひとり日本のみが従来の「鎖国」政策のもとにとどまることは戦乱を招く危険性があること、したがって速やかに諸外国との交流に門戸を開放すべき旨を忠告するものでした。しかし幕府は、従来の対外政策を改めることなく、オランダ国王の勧告を無視します。

 こうした状況のもとで、対中国貿易や太平洋での捕鯨などのために、食料や水などの供給地、蒸気船の燃料である石炭補給地の確保を目的に、アメリカが日本の前に登場してくるのです。



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