47.寛政の改革 −打ちこわしが生んだ政権−

 物情騒然たる天明7年(1787)が明け、新春がめぐってきたが、連年の凶荒に人気いっこうに振わず、江戸市中でも門松をたてる家が例年より少ないように見られた。定信は正月2日、冷たい北風に駕籠を打たせて、かねてから信仰する霊岸島(れいがんじま)吉祥院(きっしょういん)に参詣し、本尊の歓喜天に心血を注いだ願文をささげた。それは当年の米価が下落し、金穀の流通よろしきをえて世上が平穏に帰するように、自分の一命はもとより妻子の生命をかけて心願する、もしその心願がかなわなければ、この場で自分を殺してほしいという悲壮な内容のものである。 ( 中略 )

 その思いつめた気持は、前年6月19日の初登城の姿にもはっきり現われている。質素な木綿と麻の礼服をつけ、胡麻味噌をそえた弁当を携帯し、わざと駕籠を徐行させて駕籠訴をうけやすいようにしたといわれるが、定信にそのような政治姿勢をとらせたものは、いうまでもなく天明期のきわめて緊迫した社会情勢であり、直接には天明7年の江戸打ちこわしに集約される民衆の激烈な蜂起であった。定信は告白している。先年上州の民家が騒動したとき(明和元年の伝馬騒動をさす)でさえ、将軍の御威光うすく御恥辱とおもわれたのに、こんどのおひざもとの江戸の大騒動は、政治の手ぬかりとはいいながら、「上を見透しぬいたる事前代未聞、世の衰ひ此上有べからず。誠に戦国よりも危き時節と予は覚へたり」(『天明大政録』)。

 (北島正元『日本の歴史18 幕藩制の苦悶』1974年、中公文庫、P.57〜58)


●定信の登場●



 1787(天明7)年5月、江戸や大坂をはじめ全国30余か所の都市で、打ちこわしが起こりました。この天明の打ちこわしの衝撃の結果、幕府内では田沼派が失脚し、政権交代がおこりました。

 15歳の11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり。1773〜1841)の補佐役として、老中首座となり幕政の実権を握ったのが、30歳の松平定信(まつだいらさだのぶ。1758〜1829)でした。

 「今度の騒動(注:天明の打ちこわし)なくば御政事改まるまじ」(杉田玄白『後見草(のちみぐさ)』)といわれたように、松平定信政権は、幕府足下の江戸でおこった打ちこわしをきっかけに生まれた政権でした。

 定信は吉宗の孫(定信の父は御三卿の田安宗武(たやすむねたけ)です。そうした血筋のよさに加え、養子先の奥州白河藩(しらかわはん)の「領内から一人の餓死者も出さなかった」という政治手腕を買われての抜擢でした。

 定信が推進した寛政の改革は、田沼政治を「賄賂政治」「悪政」と断罪し、意次らが商業資本と結びついて始めた営利政策の大部分を取りやめました。定信の改革は、祖父の吉宗が行った享保の改革を理想として幕藩体制を再建することに主眼がありました。

 就任当初、人びとは定信を「文武両道左衛門世直殿(ぶんぶりょうどうざえもんよなおしどの)」と呼んでその登場を歓迎し、


  田や沼やよごれた御代
(みよ)あらためて、清く澄める白河(注:定信は白河藩出身)の水


と田沼政治の払拭と清潔な政治を期待しました。

 定信は「改革を成功させるためには身命を賭(と)す」との悲壮な覚悟で、山積する難問題に当たっていきました。

 次に改革の諸政策をひとつひとつ見ていきましょう。


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@ 農村復興策



《 旧里帰農令(きゅうりきのうれい) 》


 農村復興を急務と考えた定信は、農村人口の確保を目指しました。そのために、百姓の大きな負担となっていた助郷役などを軽減するとともに、1790(寛政2)年、旧里帰農令(きゅうりきのうれい)を発令しました。

 旧里帰農令は、都市に流れてきた百姓の帰村を奨励したものです。貧困な百姓には旅費や農具代などの資金を与えて、帰村を奨励しました。実際には希望者が少なく、うまくいきませんでした。


《 飢饉対策 》


 飢饉対策として大名に囲米(かこいまい)を命じました。囲米は大名1万石につき、籾米(もみまい)で50石を5年間にわたって領内に備蓄させ、さらに各地に社倉(住民が分相応に金穀を拠出し合って備蓄)・義倉(富裕者が慈善拠出した金穀を備蓄)・常平倉(じょうへいそう。領主が金穀を備蓄)と称する穀物の備蓄倉庫を建てさせました。

 一方、江戸では、町人(地主・家主)が負担する町入用(ちょうにゅうよう)の節約分の7割を蓄える七分積金(しちぶつみきん)を命じました。1785〜1789年の平均で1年間の町入用は15万5,140両で、その節約分は3万7,000両でした。節約分の7分(7割)ですから、1年間に2万5,900両を積み立てることにしたのです。残りの3分(3割)については2分を町人に還元し、1分を予備金としてとっておくことにしました。

 貯蓄した資金は、飢饉の際の低利融資、貧民救済等に当てました。その窓口として、江戸町会所(えどまちかいしょ)が設けられました。



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A 社会政策


 離村して江戸に流れ込んだ浮浪者や無宿人が増大し、江戸の治安が悪化して、大きな社会問題になっていました。そこで、先手弓頭(せんてゆみがしら)・火付盗賊改加役(ひつけとうぞくあらためかやく)の長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)の建議により、江戸石川島(隅田川河口に築いた島)に人足寄場(にんそくよせば)を設けることにしました。

 1万6,030坪という広大な敷地に、犯罪を犯してない無宿人で引受人がなく、農村へ人返しできない者(実際には、収容者の大半は軽犯罪者でした)を収容して治安の維持を図るとともに、大工・左官・髪結いなどの職業指導を行って、社会復帰を図りました。


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B 棄捐令(きえんれい)


 
貨幣経済の進展の中で困窮していく旗本・御家人を救済するため、1789(寛政元)年、棄捐令(きえんれい)を出しました。

 その内容は借金利息の引き下げと、6年以前の債務の破棄(1784年以前の札差からの借金返済を免除)を宣したものです。このために札差の被った損害は118万7,808両余に及んだといいます。

 しかし、この救済策の効果も一時的で、札差の旗本・御家人に対する金融拒否という逆効果を生みました。そこで幕府は札差救済をかねて、札差への低利貸付を実行しました。



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●風俗・思想の統制●



@ 出版業界への締めつけ


 定信は幕政を批判したり風俗を乱すと考えた小説を禁止したため、娯楽を奪われた庶民の不満を招きました。

 処罰されたのは、洒落本(しゃれぼん)作家山東京伝(さんとうきょうでん。1761〜1816)、黄表紙(きびょうし)作家の恋川春町(こいかわはるまち。1744〜1789)、出版元の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう。1750〜1797)らでした。

 洒落本というのは、吉原などの遊里(ゆうり)を題材とした短編小説です。京伝の洒落本3部作『錦之裏(にしきのうら)』『仕懸文庫(しかけぶんこ)』『娼妓絹ぶるい(しょうぎきぬぶるい。「ふるい」の漢字は竹かんむりに麗)』が風俗を乱すとして、手鎖(てじょう)50日の刑に処しました。以後、京伝は読本作家に転じます。

 また、黄表紙は表紙が萌黄色(もえぎいろ)の短編小説で、風刺の効いた滑稽な絵本のことです。春町は『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』を書いて、寛政改革を揶揄(やゆ)しました。幕府の譴責を受けた直後、春町は急死してしまいました。


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A 寛政異学の禁


 
田沼時代の自由な風潮により、文化活動が活発になりました。儒学の分野においては古学派や折衷(せっちゅう)学派など、さまざまな学派が分立しました。しかし、幕府が封建教学として採用した朱子学はあまり振るいませんでした。

 定信は、風俗悪化の原因を朱子学(正学)の衰微によるものと考え、林家における正学講究を督励し、官吏登用試験は朱子学で行うことを決めました。そこで、聖堂学問所では朱子学講究を徹底するよう、林大学頭(当時は林信敬(はやしのぶたか))あて通達したのです。

 この林家への通達は、諸藩や一般の異学(朱子学以外の儒学各派)学習を禁止したものではありませんでした。しかし、彼らも幕府にならって朱子学への転換をはかったので、禁止同様の効果を上げました。その結果、学問・思想統制の役割を果たすことになったのです。これを寛政異学の禁といいます。

 林家の聖堂学問所はのち幕府管理下に移され、官立の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に改組されました。    

                             

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B 林子平の処罰とラクスマンの来航


  

《 林子平(はやししへい)の処罰 》


 1778(安永7)年に北海道の厚岸(あつけし)にロシア船が来航し、松前藩に通商を求めるなど、日本近海に外国船が出没するようになりました。

 こうした中、林子平が『海国兵談(かいこくへいだん)』(1791)を著して海防の必要性を説き、次のように主張しました。


 當時
(とうじ)長崎に厳重に石火矢(いしびや)の備(そなえ)有て、却(かえっ)て安房(あわ)、相模(さがみ)の海港に其備なし。此事(このこと)(はなはだ)不審(いぶかし)。細カに思へば江戸の日本橋より唐(から)、阿蘭陀(おらんだ)(まで)(さかい)なしの水路也。然ルに此(ここ)に不備(そなえず)して長崎にのミ備ルは何ぞや。(林子平述、村岡典嗣校訂『海国兵談』1939年、岩波文庫、P.18)


 日本は周囲が海に囲まれた海国である。思うに、江戸の日本橋から中国・オランダまで境なしに水路(海)でつながっている。日本のどの海岸へも外国からは来航可能なのに、幕府が長崎に限定して対外防備をしているはどういうことか。外国の侵略を防備するためには、今後水戦と大砲が重要である、と主張しました

 『海国兵談』はわずか38部しか出版されませんでした。しかし「根拠のない風聞・推察によって異国からの襲来を奇怪異説等取り混ぜて著述し、無用に世人を惑わした」との理由で、著書は発禁処分となり板木も没収、子平自身も禁錮(きんこ)に処せられました。

 幽閉された子平は、その心境を


  親もなし 妻なし子なし板木
(はんぎ)なく 金もなければ死にたくもなし


と自嘲して六無斎(ろくむさい)と号し、1793(寛政5)年に没しました。


《 ラクスマンの来航 》


 しかし1792(寛政4)年、ロシア船が突然根室に来航して、幕府を驚かすことになりました。

 使節の名はアダム・キリロヴィッチ・ラクスマン。ラクスマンは、ロシア女王エカチェリーナ2世の親書を携えていました。漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう。1751〜1828)らを日本へ送還し、日本との通商を打診するのが彼の任務でした。

 幕府は漂流民を引き取り、長崎入港の信牌(しんぱい。許可証)をラクスマンに与えたものの、通商は拒否しました。この時は、ロシア船はそれ以上の交渉をせず、そのまま退去しました。

 幕府は江戸湾防備をはじめ、諸藩に海防を命ずる必要に迫られたのでした。



◆大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)
 
 1782(天明2)年、伊勢国(いせのくに、現三重県)白子(しろこ。現鈴鹿市)を出港した神昌丸(しんしょうまる)は、船頭の大黒屋光太夫ら17名を乗せ、米などを積んで江戸へ向かいました。ところが、駿河沖で大しけにあい、太平洋を約7ヶ月間も漂流しました。その後、当時ロシア領だったアレウト(アリューシャン)列島の一つアムチトカ島に漂着。先住民やロシア人と遭遇し、あり合わせの材料で船を造り、4年後に島を脱出。その後カムチャツカ、オホーツクに渡り、シベリアを西に向かってイルクーツクにたどり着きました。イルクーツクではキリル・グスタヴォヴィチ・ラクスマンらの好意でペテルブルクに向かい、彼らの尽力により女帝エカチェリーナ2世に謁見する機会を得ました。その時の様子を、光太夫からの聞き書き『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』は、次のように記しています。


女王の左右には侍女五、六十人花を飾りて囲繞
(いにょう。取り囲んでいる)す。( 中 略 )又此方(こなた)には執政以下の官人四百余員(よにん)両班(ふたかわ)に立わかれて、威儀堂々と排(なみ)居たれば心もおくれ進みかねたるに、( 中 略 ) 御まへににじりより、かねて教へられしごとく左の足を折敷(おりしき)、 右の膝をたて、手をかさねてさし出せば、女帝右の御手を伸(のべ)、指さきを光太夫が掌(たなごころ)の上にそとのせらるゝを三度舐(ねぶ)るごとくす。」(桂川甫周箸・亀井高孝校訂『北槎聞略-大黒屋光太夫ロシア漂流記-』1990年、岩波文庫、P.53)


 エカチェリーナ2世は光太夫らの漂流の経緯と帰国願いを聞いて、ロシア語で「オー・ジャールコ(何とまあ、かわいそうに)」という言葉を発したといいます。女帝は光太夫らに同情を示し、帰国の便をはかりました。そして1792(寛政4)年、キリルの息子アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン一行を乗せた帆船エカチェリーナ号がオホーツク港を出港し、日本に向かったのです。しかし、漂流民17名のうちすでに12名が死亡、2名がロシア正教に改宗してロシアにとどまり、帰国できたのは3名(うち1名は根室で死去)のみでした。

 光太夫らは江戸で取り調べを受けた後、江戸の小石川薬園内に与えられた屋敷で暮らしました。従来、彼らは軟禁状態のまま生涯を終えた、と考えられていました。しかし実際には結婚したり、多くの知識人たちと交流したり、伊勢に帰郷したりするなど、比較的自由な生活を送っていたようです。


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●改革の結果と諸藩の改革●



@ 改革の結果


 改革によって一時的に幕政は引き締まり、幕府の権威は回復しました。しかし、厳しい統制や倹約の強制は、庶民から強い反発を招きました。

 また、尊号一件(そんごういっけん)による朝幕関係の悪化や、成人した将軍家斉との対立などもあり、1793(寛政5)年、老中在職6年余で定信は退陣に追い込まれました。

 なお、定信は引退後、自叙伝『宇下人言(うげのひとこと)』を著しました。書名は、定信の名前を分解したものです。


《 尊号一件(そんごういっけん) 》


 1789(寛政元)年、光格天皇が父典仁(すけひと)親王に「太上天皇」の尊号を贈りたいとの要望を幕府に伝えました。「天皇に即位しなかった者に、天皇譲位後の尊号を贈ることは理屈に合わない」と定信が拒否したため、朝幕間に緊張が走りました。この事件を尊号一件(そんごういっけん)といいます。

 1792(寛政4)年、朝廷は再度、尊号宣下の許可を幕府に求めましたが、定信は要求を拒否しました。翌1793(寛政5)年には公家の武家伝奏(ぶけてんそう)を江戸に呼び出し、処罰しました。この結果、朝幕関係は悪化しました。


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A 諸藩の藩政改革


 幕府の寛政改革と前後して、財政危機と百姓一揆の高揚に直面していた諸藩でも、藩政改革が試みられました。改革に成功し、一定の成果をあげた藩主たちは、名君(めいくん)との評価を得ました。

 熊本藩主細川重賢(ほそかわしげかた。1720〜1785)は、緊縮財政・農村復興・年貢増徴・殖産興業・藩校時習館(じしゅうかん)の設立などの宝暦改革を断行して、藩政改革の手本となりました。

 米沢藩主上杉治憲(うえすぎはるのり。鷹山(ようざん)と号しました。1751〜1822)は、財政改革・殖産興業・新田開発など藩政全般にわたる改革を行いました。藩校興譲館(こうじょうかん)を開き、学問を奨励しました。なお治憲は、「成せば成る」の名言を残し、アメリカ大統領ケネディが最も尊敬する日本人としてその名前を挙げたことでも知られます。

 秋田藩主佐竹義和(さたけよしまさ。1775〜1815)は天明飢饉で打撃を受けた農村を復興し、藩財政再建のために、殖産興業・職制改革などを実施しました。藩校明徳館(めいとくかん)を開き、人材養成に力を注ぎました。



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