物情騒然たる天明7年(1787)が明け、新春がめぐってきたが、連年の凶荒に人気いっこうに振わず、江戸市中でも門松をたてる家が例年より少ないように見られた。定信は正月2日、冷たい北風に駕籠を打たせて、かねてから信仰する霊岸島(れいがんじま)吉祥院(きっしょういん)に参詣し、本尊の歓喜天に心血を注いだ願文をささげた。それは当年の米価が下落し、金穀の流通よろしきをえて世上が平穏に帰するように、自分の一命はもとより妻子の生命をかけて心願する、もしその心願がかなわなければ、この場で自分を殺してほしいという悲壮な内容のものである。 ( 中略 )
その思いつめた気持は、前年6月19日の初登城の姿にもはっきり現われている。質素な木綿と麻の礼服をつけ、胡麻味噌をそえた弁当を携帯し、わざと駕籠を徐行させて駕籠訴をうけやすいようにしたといわれるが、定信にそのような政治姿勢をとらせたものは、いうまでもなく天明期のきわめて緊迫した社会情勢であり、直接には天明7年の江戸打ちこわしに集約される民衆の激烈な蜂起であった。定信は告白している。先年上州の民家が騒動したとき(明和元年の伝馬騒動をさす)でさえ、将軍の御威光うすく御恥辱とおもわれたのに、こんどのおひざもとの江戸の大騒動は、政治の手ぬかりとはいいながら、「上を見透しぬいたる事前代未聞、世の衰ひ此上有べからず。誠に戦国よりも危き時節と予は覚へたり」(『天明大政録』)。
(北島正元『日本の歴史18 幕藩制の苦悶』1974年、中公文庫、P.57〜58)
●定信の登場● |
●風俗・思想の統制● |
◆大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう) 1782(天明2)年、伊勢国(いせのくに、現三重県)白子(しろこ。現鈴鹿市)を出港した神昌丸(しんしょうまる)は、船頭の大黒屋光太夫ら17名を乗せ、米などを積んで江戸へ向かいました。ところが、駿河沖で大しけにあい、太平洋を約7ヶ月間も漂流しました。その後、当時ロシア領だったアレウト(アリューシャン)列島の一つアムチトカ島に漂着。先住民やロシア人と遭遇し、あり合わせの材料で船を造り、4年後に島を脱出。その後カムチャツカ、オホーツクに渡り、シベリアを西に向かってイルクーツクにたどり着きました。イルクーツクではキリル・グスタヴォヴィチ・ラクスマンらの好意でペテルブルクに向かい、彼らの尽力により女帝エカチェリーナ2世に謁見する機会を得ました。その時の様子を、光太夫からの聞き書き『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』は、次のように記しています。 「女王の左右には侍女五、六十人花を飾りて囲繞(いにょう。取り囲んでいる)す。( 中 略 )又此方(こなた)には執政以下の官人四百余員(よにん)両班(ふたかわ)に立わかれて、威儀堂々と排(なみ)居たれば心もおくれ進みかねたるに、( 中 略 ) 御まへににじりより、かねて教へられしごとく左の足を折敷(おりしき)、 右の膝をたて、手をかさねてさし出せば、女帝右の御手を伸(のべ)、指さきを光太夫が掌(たなごころ)の上にそとのせらるゝを三度舐(ねぶ)るごとくす。」(桂川甫周箸・亀井高孝校訂『北槎聞略-大黒屋光太夫ロシア漂流記-』1990年、岩波文庫、P.53) エカチェリーナ2世は光太夫らの漂流の経緯と帰国願いを聞いて、ロシア語で「オー・ジャールコ(何とまあ、かわいそうに)」という言葉を発したといいます。女帝は光太夫らに同情を示し、帰国の便をはかりました。そして1792(寛政4)年、キリルの息子アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン一行を乗せた帆船エカチェリーナ号がオホーツク港を出港し、日本に向かったのです。しかし、漂流民17名のうちすでに12名が死亡、2名がロシア正教に改宗してロシアにとどまり、帰国できたのは3名(うち1名は根室で死去)のみでした。 光太夫らは江戸で取り調べを受けた後、江戸の小石川薬園内に与えられた屋敷で暮らしました。従来、彼らは軟禁状態のまま生涯を終えた、と考えられていました。しかし実際には結婚したり、多くの知識人たちと交流したり、伊勢に帰郷したりするなど、比較的自由な生活を送っていたようです。 |
●改革の結果と諸藩の改革● |