46.田沼時代 −経済優先の政治−

 田沼氏(田沼意次)の盛(さかん)なりしときは諸家の贈遺(ぞうい。意次への贈り物)様々に心を尽(つく)したることどもなりき。

 中秋の月宴に島台・軽台(しまだい・かるだい。饗応・婚礼等の祝儀用の飾り台)を始め、負劣(まけおと)らじと趣向したる中に、或家(あるいえ)の進物(しんもつ。贈り物)は小(しょう)なる青竹籃(あおたけかご)に活溌(かっぱつ)にして大鱚(おおきす)七、八計(ばかり)、些少(さしょう)の野蔬(やそ。野菜)をあしらひ、青柚(あおゆず)一つ、家彫(いえぼり。彫金の名匠後藤氏の彫物)萩薄(はぎすすき)の柄(え)の小刀(しょうとう)にてその柚を貫(つらぬ)きたり。−家彫は後藤氏の彫る所、世の名品、其価(そのあたい)数十金に当る− 又(また)某家(ぼうけ。ある家)のは、いと大(だい)なる竹篭(たけかご)にしび(マグロの成魚。またキハダの別称)二尾(にび)なり。此(こ)の二(ふたつ)は類無しとて、興(きょう)になりたりと云(いう)。

 又田氏(でんし。田沼意次)、中暑(ちゅうしょ。暑気当り)にて臥(ふ)したるとき、候問の使价(そうもんのしかい。見舞いの使者)、「此節(このせつ)は何を翫(もてあそ)び給(たま)ふや」と訊(と)ふ。「菖盆(しょうぼん。菖蒲の盆栽)を枕辺(まくらべ)に置(おき)て見られ候(そうろう)」と用人(ようにん)答へしより、二、三日の間、諸家各色の石菖(せきしょう。サトイモ科の多年草。葉は細長く、花穂に黄色の細花を多数つける)を大小と無く持込(もちこみ)、大なる坐敷(ざしき)二計(ふたつばかり)は、透間(すきま)も無く並べたてゝ取扱(とりあつかい)にもあぐみしと云。

 その頃の風儀、此(かく)の如(ごと)くぞありける。 

(松浦静山(まつらせいざん)『甲子夜話(かっしやわ)』)


●経済優先の政治●



 享保改革では緊縮財政を行う一方、4公6民から5公5民への年貢税率引き上げ・定免法の採用等、徴税強化がはかられました。

 しかし、農村に犠牲を強いることによって経済危機を乗り越えるという従前の手法は、すでに限界に達していました。これ以上の締め付けは、本百姓体制を破壊することにもなりかねません。吉宗が、町人請負新田の開発者を公募したり、株仲間公認による運上(うんじょう。営業税)・冥加(みょうが。献金)の税収増を期待したりするなどして、商業資本の利用を視野に入れたのも、農村以外の分野に新たな財源を求めなければならないという事情があったからでした。

 宝暦・天明期(1751〜1789)は、幕藩体制が解体期に入った時期とされています。こうした時期に政権を担当したのが、田沼意次(たぬまおきつぐ。1719〜1788)でした。意次は9代将軍の徳川家重(とくがわいえしげ。1711〜1761)の小姓(こしょう。主君に近侍した雑用係)でしたが、10代将軍徳川家治(とくがわいえはる。1737〜1786)の側用人(そばようにん)となり、1772(安永2)年には老中になって政権を担当しました。

 意次が政権を担当した時代を「田沼時代」といいます。


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@ 商業資本の利用



 田沼意次は、経済優先の政治に傾斜していきました。新たな財源を商業・金融・貿易等の分野に求め、商業資本の徹底的な利用をはかっていきました。

 たとえば、銅座・鉄座・真鍮座(しんちゅうざ)・朝鮮人参座(ちょうせんにんじんざ)など、幕府直営の座や会所を次々に設置し、利益を独占しました。このうち銅座は、銅の専売制によって独占的な売買利益を獲得するばかりでなく、輸出用銅(後述)の安定的確保をはかるという意味合いもありました。

 また、多様な業種の株仲間(かぶなかま)を積極的に公認して商人たちに一定の利潤を保証し、その見返りに運上(うんじょう。営業税)・冥加(みょうが。献金)を上納させました。商業利潤からその一部を運上・冥加という形で徴収する間接税方式を導入したのです。さらには、あらゆる新興産業に運上を課しました。



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A 長崎貿易の奨励


 意次は、長崎貿易を積極的に推進しました。

 新井白石をはじめとする従来の幕政担当者たちは、長崎貿易を制限しようとしました。自由で活発な貿易は、中国産生糸をはじめとする輸入品への支払いに、大量の金・銀を消費してしまうからです。

 当時はまた、貨幣経済が進展して、社会は大量の貨幣を必要としていました。しかし、国内鉱山はすでに枯渇状態にあり、貨幣原料の金・銀が不足して、社会の貨幣需要にこたえられないという有様でした。金・銀の海外流出は、こうした状況をさらに悪化させるゆゆしい事態だったのです。

 しかし、意次は、むしろ長崎貿易の制限を緩和して、貿易の積極的推進をはかろうとしました。

 ただし、支払い用には金・銀に代わって当時生産量が増えていた銅と、干しアワビ・いりこ・ふかのひれといった海産物を詰めた俵物(たわらもの)を当てました。銅
(注)は銅銭の材料として、また俵物は高級中国料理(清朝の宮廷料理)の材料として、清国では双方の品々に大きな需要があったのです。

 俵物は海産物ですからいくらでも再生産が可能でした。そこで幕府は、俵物の生産を全国的に奨励することにしました。

 田沼は、俵物を輸出することによって、金・銀を逆輸入する、という逆転の発想をしました。国内産ではまかなえなくなった貨幣の原料を、輸入という方法によって補おうとしたのです。


(注)オランダも日本から大量に銅を買い込みました。その理由は、ヨーロッパに持ち帰って大砲を造るためでした。当時、諸外国は軍事力を増強して植民地拡大に狂奔しており、銅は重要な軍事物資として世界中から買い集められていたのです。アダム・スミスは1776(安永5)年、「日本からの銅がヨーロッパに到着すると、ヨーロッパの銅の値段が下がる」と『国富論』の中で書いています(大石慎三カ「平和の時代」-市村佑一・大石慎三カ『鎖国=ゆるやかな情報革命(新書江戸時代C)』1995年、講談社現代新書、P.12〜14-)。それほど大量の日本産銅が、ヨーロッパに持ち込まれていたのです。


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B 貨幣の統合 


 
秤量貨幣(しょうりょうかへい)である銀貨は、いちいち重量を調べて使用しなければなりません。こうした使用方法の煩わしさを解消するために、銀貨を計数貨幣化して、金貨との一本化をはかろうとしました。1772(安永元)年から16年間にわたり、大量に発行された南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)がそれです。

 南鐐は「良質の銀」の意で、南鐐二朱銀の純度は97.8%もありました。この銀貨は、金貨二朱と等価交換できる計数貨幣として鋳造されました。そこで、この銀貨の表には


  以南鐐八片、換小判一両
(南鐐二朱銀8片をもって小判1両に引き換える)


と明示されています。

 しかし、使用方法に不便があるからこそ、金貨・銀貨の交換で手数料をとる両替商という商売が成り立っていたわけです。当然、両替商からの反発がありました。意次は、2年間に南鐐二朱銀40万枚、金高にして5万両分を無利子・無担保で両替商に貸出すことによって彼らの反対を封じ、南鐐二朱銀の浸透をはかっていったのでした(高埜利彦『天下泰平の時代・シリーズ日本近世史B』2015年、岩波新書、P.194)。

 ちなみに、1772(安永元)年の初鋳から松平定信によって鋳造が停止された1788(天明8)年までの16年間、その鋳造高は593万3,000両余にも達しました(井上光貞他編『日本歴史大系3・近世』 1988年、山川出版社、P.821)。これは南鐐二朱銀で4,746万4,000枚余に相当します。



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C その他の諸政策


 
田沼は幕府の利益を優先させる諸政策を、積極的に実行に移していきました。


《 蝦夷地の開発計画 》


 
仙台藩の医者工藤平助(くどうへいすけ。1734〜1800)が献上した『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう。赤蝦夷はロシア人の意)』を読み、蝦夷地(えぞち。現北海道)開発・ロシア人との交易を構想し、最上徳内(もがみとくない。1755〜1836)らを蝦夷地に派遣して情報収集を試みました。


《 印旛沼・手賀沼の干拓事業 》


 
また、江戸や大坂の町人資本を利用して、下総国利根川下流の印旛沼(いんばぬま)と、同じ利根川水系の手賀沼(てがぬま)の大規模な干拓工事を実施しました。新田開発による耕地面積の拡大・治水(洪水予防)という一石二鳥をねらった事業でした。

 しかし、利根川の大洪水と意次の失脚によって、完成することはありませんでした。


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●たび重なる人災と天災●



 田沼の経済優先の政治によって、「田沼時代」には商人たちの自由な活動が活発でした。これに刺激を受けて、宝暦・天明期には、学問・文化・芸術が多様な発展を遂げました。『解体新書』を訳述した前野良沢・杉田玄白や、国学を大成した本居宣長らが活躍したのが、この頃でした。

 しかし、商業資本の積極的な利用は、役人と特権商人の癒着を招き、「賄賂政治(わいろせいじ)との非難をうけることになりました。一方、物価は高騰し、庶民生活は苦しいものでした。そのため、幕府利益追求一辺倒の田沼の政策は、百姓・町人たちから激しい反発をうけました。
 
 こうしたなかで、人為的・自然的災害が頻発しました。



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@ 江戸の大火と浅間山の噴火


 明和9(1772)年には江戸三大火のひとつ目黒行人坂の大火(めぐろぎょうにんざかのたいか。明和の大火とも。目黒行人坂の大円寺から出火。原因は放火)が起こり、江戸の1/3が焼け野原になりました。

 天明3(1783)年には信濃の浅間山が大噴火をおこし、「よりて信濃・上野両国の人民流亡し、あまつさえ石にうたれ砂にうづもれ死する者二万余人、牛馬はその数を知らず」(『徳川実紀』)という甚大な被害を出しました。この時、火山灰は江戸にまで到達し、一寸(約3cm)くらい降り積もりました(荒川秀俊『飢饉』1979年、教育社、P.94〜95)。次は当時の落首。



   
浅間(あさま)しや富士より高き米相場 火の降る江戸に砂の降るとは

 
◆生死を分けた15段
 
 浅間山北麓12kmの地点に位置する上野国鎌原村(こうすけのくにかんばらむら。現、群馬県吾妻(あがつま)郡嬬恋(つまごい)村)は、浅間山の噴火で起こった土石流によって埋没してしまいました。同村は村高332石でしたが、このうち324石と、家屋93軒のすべてが土石流におおい尽くされてしまったのです。村民597名のうち生存者は131名。助かったのは噴火当日、奉公などで他出していた人びとと、小高い場所に逃げのびた人びとに限られました。

 1979(昭和54)年から旧鎌原村の発掘調査が始まり、小高い丘にたつ観音堂へのぼる石段の途中から、老若2体の女性遺骨が発見されました。老母を背負った娘、または嫁のものと思われます。逃げる途中で力尽きたか、土石流に巻き込まれてしまったのでしょう。観音堂まで、あと15段ほどの場所でした。

【参考】
・井上光貞他編『日本歴史大系3・近世』1988年、山川出版社、P.807〜809


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A 天明の大飢饉


 
さらに、天明の大飢饉(1782〜87年)が追い打ちをかけました。天候不順や浅間山噴火、関東の洪水などが重なって大凶作となり、江戸時代最大の全国的大飢饉になりました。疫病と飢えのために死亡した人びとは、全国で約92万人にものぼったとされます。とりわけ奥羽地方の被害が甚大で、津軽藩だけで20万人の餓死者を数えたといわれます。

 そのため、天明飢饉に関しては、悲惨なエピソードがさまざまに語り伝えられています。伝聞を記録したものなので、どの程度までが事実なのかわかりませんが、次に引用する『後見草(のちみぐさ)』(杉田玄白著)もその一つです。



 
出羽・陸奥の両国は常に豊饒(ほうじょう)の国なりしが、此年(このとし)はそれに引(ひき)かへて取(とり)わけての不熟(ふじゅく)にして、南部(現、岩手県盛岡地方)・津軽(現、青森県弘前地方)に至りては餘所(よそ)よりは甚(はなはだ)しく、……日々に千人、二千人流民共(るみんども)は餓死せし由(よし)。又出(い)で行く事のかなはずして残り留(とどま)る者共は、食ふべきものの限りは食ひたれど後々は尽果(つきは)てて、先に死たる屍(しかばね)を切取(きりと)ては食ひし由。或(あるい)は小児の首を切(きり)、頭面の皮を剥(はぎ)(さ)りて焼火(たきび)の中にて焙(あぶ)り焼(やき)、頭蓋(ずがい)のわれめに箆(へら)さし入(いれ)、脳味噌を引出し、草木の根・葉をまぜたきて喰ひし人も有(あ)りと也(なり)。    

                             

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B 田沼時代の終焉
(しゅうえん)

  

 蝦夷地開発・印旛沼の開発等、田沼の諸政策は難航し、しかも度重なる深刻な災害に直面して、ついに行き詰まってしまいました。天明の大飢饉に対する無策や、「賄賂政治」に対する非難が高まり、百姓一揆や打ちこわしが頻発しました。

 そうした混迷のうちに、天明4(1784)年、意次の子で若年寄の田沼意知(たぬまおきとも。1749〜1784)が、江戸城内で旗本の佐野政言(さのまさこと)によって刺殺されるという事件が起こりました。原因は私怨(しえん)といわれます。

 なお佐野は死後、「世直し大明神」として民衆からもてはやされました。田沼政治に対する民衆の反感の大きさがわかります。

 意知の刺殺事件を機に、意次は急速に勢力を失っていきました。ついで、田沼の後ろ盾だった将軍徳川家治が死去すると、意次自身も老中を罷免され失脚してしまったのでした(1786)。



◆田沼の悪評はどこまでが事実か
 
 冒頭に掲げた『甲子夜話(かっしやわ)』は、肥前平戸藩主松浦静山(まつらせいざん)が藩主引退後書き綴った随筆。従来、田沼の賄賂政治を記録した、非常に信憑性の高い史料だと考えられてきました。

 しかし、著者の静山は、意次の政敵で寛政改革を遂行したふたりの主要人物本多忠籌(ほんだただかず。本多忠籌の妻は静山の妹)・松平信明(松平信明の妹は静山の妻)と姻戚関係にあり、また彼の実見談なるものも、実は30数年前のことを思い出して書いたものなのです。史料としては著しく信憑性(しんぴょうせい)に欠けると言わざるを得ません。

 しかも、現在伝わるさまざまな意次の悪評は、ほとんどが意次失脚後のものだといいます。

 大石慎三郎氏によれば、軽輩出身者で幕政に参与し、進歩的な政治姿勢をとった政治家は一様に評判が悪いといいます。なぜなら、家格意識の強い身分制社会においては、成り上がり者に対する風当りが強かったからのです(意次の父親は、8代将軍吉宗が紀州藩主だった頃の足軽)。また、先例を墨守し、新規を嫌う家柄のいい譜代層は、田沼の諸政策に強く反発しました。

 意次の悪評は、政敵によって作為され宣伝された面が強く、史料に書かれた内容をそのまますべて、事実として鵜呑みにすることはできないでしょう。


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