田沼氏(田沼意次)の盛(さかん)なりしときは諸家の贈遺(ぞうい。意次への贈り物)様々に心を尽(つく)したることどもなりき。
中秋の月宴に島台・軽台(しまだい・かるだい。饗応・婚礼等の祝儀用の飾り台)を始め、負劣(まけおと)らじと趣向したる中に、或家(あるいえ)の進物(しんもつ。贈り物)は小(しょう)なる青竹籃(あおたけかご)に活溌(かっぱつ)にして大鱚(おおきす)七、八計(ばかり)、些少(さしょう)の野蔬(やそ。野菜)をあしらひ、青柚(あおゆず)一つ、家彫(いえぼり。彫金の名匠後藤氏の彫物)萩薄(はぎすすき)の柄(え)の小刀(しょうとう)にてその柚を貫(つらぬ)きたり。−家彫は後藤氏の彫る所、世の名品、其価(そのあたい)数十金に当る− 又(また)某家(ぼうけ。ある家)のは、いと大(だい)なる竹篭(たけかご)にしび(マグロの成魚。またキハダの別称)二尾(にび)なり。此(こ)の二(ふたつ)は類無しとて、興(きょう)になりたりと云(いう)。
又田氏(でんし。田沼意次)、中暑(ちゅうしょ。暑気当り)にて臥(ふ)したるとき、候問の使价(そうもんのしかい。見舞いの使者)、「此節(このせつ)は何を翫(もてあそ)び給(たま)ふや」と訊(と)ふ。「菖盆(しょうぼん。菖蒲の盆栽)を枕辺(まくらべ)に置(おき)て見られ候(そうろう)」と用人(ようにん)答へしより、二、三日の間、諸家各色の石菖(せきしょう。サトイモ科の多年草。葉は細長く、花穂に黄色の細花を多数つける)を大小と無く持込(もちこみ)、大なる坐敷(ざしき)二計(ふたつばかり)は、透間(すきま)も無く並べたてゝ取扱(とりあつかい)にもあぐみしと云。
その頃の風儀、此(かく)の如(ごと)くぞありける。
(松浦静山(まつらせいざん)『甲子夜話(かっしやわ)』)
●経済優先の政治● |
●たび重なる人災と天災● |
◆生死を分けた15段 浅間山北麓12kmの地点に位置する上野国鎌原村(こうすけのくにかんばらむら。現、群馬県吾妻(あがつま)郡嬬恋(つまごい)村)は、浅間山の噴火で起こった土石流によって埋没してしまいました。同村は村高332石でしたが、このうち324石と、家屋93軒のすべてが土石流におおい尽くされてしまったのです。村民597名のうち生存者は131名。助かったのは噴火当日、奉公などで他出していた人びとと、小高い場所に逃げのびた人びとに限られました。 1979(昭和54)年から旧鎌原村の発掘調査が始まり、小高い丘にたつ観音堂へのぼる石段の途中から、老若2体の女性遺骨が発見されました。老母を背負った娘、または嫁のものと思われます。逃げる途中で力尽きたか、土石流に巻き込まれてしまったのでしょう。観音堂まで、あと15段ほどの場所でした。 【参考】 ・井上光貞他編『日本歴史大系3・近世』1988年、山川出版社、P.807〜809 |
◆田沼の悪評はどこまでが事実か 冒頭に掲げた『甲子夜話(かっしやわ)』は、肥前平戸藩主松浦静山(まつらせいざん)が藩主引退後書き綴った随筆。従来、田沼の賄賂政治を記録した、非常に信憑性の高い史料だと考えられてきました。 しかし、著者の静山は、意次の政敵で寛政改革を遂行したふたりの主要人物本多忠籌(ほんだただかず。本多忠籌の妻は静山の妹)・松平信明(松平信明の妹は静山の妻)と姻戚関係にあり、また彼の実見談なるものも、実は30数年前のことを思い出して書いたものなのです。史料としては著しく信憑性(しんぴょうせい)に欠けると言わざるを得ません。 しかも、現在伝わるさまざまな意次の悪評は、ほとんどが意次失脚後のものだといいます。 大石慎三郎氏によれば、軽輩出身者で幕政に参与し、進歩的な政治姿勢をとった政治家は一様に評判が悪いといいます。なぜなら、家格意識の強い身分制社会においては、成り上がり者に対する風当りが強かったからのです(意次の父親は、8代将軍吉宗が紀州藩主だった頃の足軽)。また、先例を墨守し、新規を嫌う家柄のいい譜代層は、田沼の諸政策に強く反発しました。 意次の悪評は、政敵によって作為され宣伝された面が強く、史料に書かれた内容をそのまますべて、事実として鵜呑みにすることはできないでしょう。 |