45.変わる農村

「児輩(こども)の手鞠(てまり)つく歌に

「もしもこの子が女子(注)なれば、薦(こも)に包(つつみ)て縄をかけ、前の小川へつっぽんぽん、下から雑魚(ざっこ)がつつくやら、上から烏がつつくやら ( 後略 )」

(橘義天(たちばなぎてん)『捨子教誡の謡(うた)』 −山住正己・中江和恵編注『子育ての書3』1976年、平凡社東洋文庫、P.200−)

(注)農村で口減らしのため間引きの対象とされたのは、労働力として男子より劣る女子や、次・三男たちだったとされる。


「適(たまたま)人間界に生れ来る我子を我手に掛(かけ)て殺すと云(いう)は、其胸中(そのきょうちゅう)云(いわ)ん様(さま)なし。禽獣(きんじゅう。鳥や獣)だに我子の慈愛を知らざるはなし、況(いわん)や人に於(おい)てをや。古今の諸儒口に仁慈を説(とい)て心に得ず。官職有司口に仁政を言(いい)て心に得ず。農民餓死して良田畠を亡処(もうしょ)となせしは、誰が過失とならん、皆国君の罪科(つみとが)に帰すべし。

(本多利明『経世秘策』−塚谷晃弘校注『日本思想大系44』1970年、岩波書店、P.28−)


●荒廃する農村●



@ 破壊される百姓たちの生活


 支配層である武士が窮乏し、富裕化して商人層が台頭する一方、幕藩体制の根幹である農村では荒廃が進み、本百姓体制が次第に崩れていきました。

 領主層は経済的窮乏を、貢租増徴によって乗り切ろうとしたため、剰余分まで搾取されて余裕がなくなった百姓たちの生活は、うち続く自然災害やそれによって引き起こされた飢饉などによって、たやすく破壊されてしまうことになりました。

 多くの人々が飢えに倒れ、また口べらしのための人為的人口調節(間引き・堕胎)や離村などによって、農村人口は停滞または減少しました。

 
◆國男少年が受けた衝撃

 兵庫県出身で後年日本民俗学を創始する柳田國男(やなぎたくにお。1875〜1962)は、少年期の一時期、茨城県の布川(ふかわ。現、利根町)に住んだことがありました。國男少年が「8人兄弟だ」というと地元の人たちはみな目を丸くし、「そんなに産んでどうするんだ?」と言ったというのです。布川の家庭はどこも、判で押したように男の子一人、女の子一人の二人っ子でした。

 ある時、國男少年はその理由を偶然、悟ることになります。それが次の場面です。


 私は十三歳で茨城県布川
(ふかわ。現、利根町)の長兄の許(もと)に身を寄せた。 (中 略) あの地方はひどい飢饉に襲はれた所である。食糧が欠乏した場合の調整は死以外になく、 (中 略) これはいま行はれてゐるやうな人工妊娠中絶の方式ではなく、もつと露骨な方式が採られて来たわけである。 (中 略) 約二年間を過ごした利根川べりの生活を想起する時、私の印象に最も強く残つてゐるのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものか堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあつたことである。その図柄(ずがら)が、産褥(さんじょく)の女が鉢巻(はちまき)を締めて生まれたばかりの嬰児(えいじ)を抑(おさ)へつけてゐるといふ悲惨なものであつた。障子にその女の影絵が映り、それには角(つの)が生えてゐる。その傍(そば)に地蔵様が立つて泣いてゐるといふその意味を、私は子供心に理解し、寒いやうな心になつたことを今も憶(おぼ)えている。 (柳田國男『故郷七十年』-定本柳田國男集別巻三、1971年、筑摩書房、P.20〜21-)


 國男少年に衝撃を与えた「彩色された絵馬」は、間引きを戒めるために描かれたものでした。絵馬は現在も、布川の徳満寺に伝わっています。


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A 没落する本百姓


 さらに高利貸資本の農村進出が、本百姓の没落に拍車をかけました。

 田畑永代売買禁令は事実上空文化し、質入れという形で土地の所有権が移動していきました。本百姓は、土地を集積した地主と、土地を失った小作人の両極に分解していきました。

 なかでも大規模経営の地主たちを、豪農(ごうのう)とよびます。豪農たちは、当初、土地の耕作・経営に自ら関わっていました。これを地主手作(じぬしてづくり)といいます。しかし、次第に自分自身は土地耕作にたずさわらず、小作人たちに土地を貸しつけて収穫の半分を小作料として徴収するようになっていきました。こうした地主を、寄生地主(きせいじぬし)といいます。

 一方、小作人とならなかった小百姓者たちは、生活の糧を得るために都市に流れて年季奉公人(ねんきぼうこうにん)や日用取(ひようと)りなどの労働者になりました。都市部での生活は、彼らをますます貨幣経済に巻き込んでしまうことになりました。


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●百姓一揆と打ちこわし●



 こうした危機的状況は、百姓一揆や打ちこわしの頻発を招きました。

 18世紀後半に『秘本玉くしげ』を著した本居宣長(もとおりのりなが)は、年々増加する百姓一揆の原因を「上の非」に求め、その対策として「本(もと)を直す」ことを主張しました。しかし、事態の悪化は、もはや領主の仁政のみで解決できるような生やさしいものではなくなっていたのです。

 近世に発生した百姓一揆は、現在判明している分だけで3,000件以上にものぼるといわれています。その内容は実にさまざまですが、百姓一揆の形態や一揆をおこした主体、その要求内容などをみると、時代が下るにつれて、


 代表越訴型
(だいひょうおっそがた)一揆 → 惣百姓(そうびゃくしょう)一揆 → 世直し一揆


と、おおまかな変化の傾向を知ることができます。

 また、百姓一揆・打ちこわしの多発する時期と、飢饉・幕政改革の時期とがちょうど重なり、両者の間に密接な関係があることもわかります。

 次に、代表越訴型一揆、惣百姓一揆、世直し一揆のそれぞれを説明しましょう。


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@ 代表越訴型一揆 −百姓を救うために犠牲になる「義民」−


 江戸時代の初期(17世紀後半)に見られたとされる百姓一揆です。代官の非法などに対して、村役人層が中心になって家老や老中などその上役に直訴(これを越訴(おっそ)といいます)しました。

 少人数の村役人が代表して越訴したのは、処罰による犠牲者を最小限にとどめるためです。そのため、村民を救うために犠牲となった個人の名前は「義民」として長く人びとの記憶に刻み込まれました。そうした義民の典型例として、佐倉惣五郎(さくらそうごろう。?〜1653?)や磔茂左衛門(はりつけもざえもん。?〜 1682?)の名があげられます。

 ただし、義民伝承は必ずしも史実を反映しているわけではありません。実際に、そうした一揆が存在したかどうかさえ疑わしいのです。


《 佐倉惣五郎の一揆 》


 たとえば、佐倉惣五郎の場合は「下総国堀田氏支配下の佐倉領公津(こうづ)村に惣五郎という農民がいて、承応2(1653)年8月に刑死し、子ども4人が同時に殺された」ということ以上のことはわかっていないのです。

 ところが、惣五郎の事跡そのものが不明であるにもかかわらず、長い年月を経るうちに、さまざまな物語要素が付加されて、佐倉惣五郎を主人公とする一揆伝承は針小棒大にふくれあがっていきました。

 現在の物語構成に最も大きな影響力を持ったのは、『地蔵堂通夜物語(じぞうどうつやものがたり)』という義民伝承であるといわれています。幕末、惣五郎没後200回忌を機に、この義民伝承を潤色して「東山桜荘子(ひがしやまさくらのそうじ)」等の芝居がつくられました。こうした芝居の公演等を通じて、佐倉惣五郎の物語が全国津々浦々に広まっていったというのです。

 その結果、「領主堀田氏の苛政から村民を救うため、惣五郎が上野寛永寺参詣の将軍に駕籠訴を試み処刑された」とする史実からは遠く懸け離れた義民伝承が、人びとに周知されるようになったのです(横山十四男『百姓一揆と義民伝承』1977年、教育社歴史新書による)。


《 磔茂左衛門の一揆 》


 また、磔茂左衛門についても、史実は確認されていません。

 伝承によれば、茂左衛門は上野国(こうづけのくに。現群馬県)月夜野村(つきよのむら)の百姓であるとされています。同村では、伊賀枡(いがます)とよばれる不正枡による年貢米徴収や過度な人足徴発など、沼田藩主真田信利(さなだのぶとし)の悪政によって百姓たちが困窮していました。そこで茂左衛門は、百姓たちを救うために江戸出府を企て、将軍に直訴。その結果、藩主は改易となり、茂左衛門自身は磔に処せられたというのです。


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A 惣百姓一揆 −村をあげての大規模な一揆−

  

 江戸時代中期(17世紀末〜18世紀)になると、新税反対・年貢減免等を要求する大規模な一揆が頻発するようになりました。村役人層から一般百姓まで結集したので、惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)といいます。藩全体に及ぶ場合には、特に全藩一揆(ぜんぱんいっき)と称します。

 代表的な惣百姓一揆に、嘉助騒動(かすけそうどう、1686)、元文一揆(げんぶんいっき、1738)、久留米一揆(くるめいっき、1754)、明和の伝馬騒動(めいわのてんまそうどう、1764)などがあります。

 この頃にはまた、本百姓が分解して新たな地主層と水呑層が成立していきました。すると、これら小前(平百姓)と旧来の村役人層(小前に対し、村役人・大高持らは大前(おおまえ)と呼ばれました)との間で、村政をめぐっての紛争が頻発するようになりました。これを村方騒動(むらかたそうどう。村方出入り、小前騒動とも)といいます。小前は、村役人層の年貢・諸役負担をめぐる不正を糾弾し、村役人層が有する諸特権の剥奪等を領主層に求めました。告発を受けた領主側では、内済(ないさい。示談)による問題解決を奨励しましたが、村方騒動によって村役人が罷免されることもありました。


◆島原以来の大騒動(明和の伝馬騒動)

 宝暦10(1764)年、江戸幕府は伝馬助郷役不足の解消と翌年の日光東照宮百五十回忌の交通量増大を理由に、中山道の助郷の範囲を街道から10里四方にまで広げることにしました。そして、その負担を石高100石につき人足6人・馬3匹、もしくは6両2分の金納と定めたのです。しかし、この地域の百姓たちは、同年2月の朝鮮使節来日の際、石高100石につき金3両1分2朱という従来の10倍近い国役金(くにやくきん)を徴収されたばかりでした。間髪置かぬ重い負担に対し、百姓たちの怒りが爆発しました。

 同年(改元して明和元年)12月、一揆の火の手が武蔵国から上がりました。そして、またたく間に上野(こうづけ。群馬)・下野(しもつけ。栃木)・信濃(しなの。長野)へと広がっていったのです。

 江戸強訴へと進撃し始めた百姓一揆は、約20万人にも膨(ふく)れ上がりました。「島原以来の大騒動」に驚愕した幕府は、関東郡代伊奈忠宥(いなただおき。1729〜1772)にその鎮圧を命じました。しかし結局、増助郷(ましすけごう)を「一万日延期」する、という形でしか事態を収拾することができなかったのです。

 それでも怒りのおさまらない一揆参加者たちは、年末から翌明和2(1765)年にかけて、増助郷を出願した商人たちの家をさんざんに打ちこわして鬱憤(うっぷん)を晴らしました。

 一揆が鎮静すると、幕府は関係者の大弾圧に乗り出しました。ところが、逮捕者が多すぎて江戸の伝馬町にあった牢屋敷に収容しきれません。その結果、多数の獄死者を出すことになりました。しかし、百姓たちの結束はかたく、首謀者1名が獄門(ごくもん)になったのみで、残りの者たちは追放・手鎖(てじょう)等の軽い処分で済んでしまいました。

 幕府が百姓たちの要求の前に屈服したのは、開幕以来、前代未聞のできごとでした。


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B 世直し一揆 −新たな世を待望する一揆−

  

 18世紀末から見られた一揆形態ですが、一般化するのは幕末・維新期です。

 土地を失って没落した貧農や小作人らが主体となり、小作地・質地の返還や豪商・豪農らの特権排除、村役人の選挙などを要求して蜂起しました。

 従来の百姓一揆の多くは、領主に対する訴願という形態をとっていましたが、世直し一揆は、豪農・豪商らの家屋や店舗を打ちこわす、という直接行動をとりました。一揆の目的を「世直し(この世を改め、新たな世を待望する)」と主張したところから、世直し一揆の名があります。

 幕末・維新期に世直し一揆が多発するのは、開港によって経済が混乱し、長州征討をはじめとする幕末の政争によって収奪が強化され、農民層が窮迫していたという事情があったからです。当時、領主権力は弱体化していたため、多発する世直し一揆に対抗することができませんでした。

 代表的な世直し一揆に、三河加茂一揆(みかわかもいっき、1836)、郡内騒動(ぐんないそうどう、1836)、渋染一揆(しぶぞめいっき、1856)などがあります。



◆変わる百姓一揆像

 実証的な研究の進展で、私たちの「百姓一揆」像は大きな変更を迫られています。

 そもそも、「百姓一揆」という言葉は後世の人びとによる命名で、江戸時代に「百姓一揆」という言葉はなかったのです。保坂智(ほさかさとる)氏によれば、天草・島原一揆を最後に、「一揆」という文言は使われなくなるそうです。

 それなら、「百姓一揆」に相当する言葉は、当時何と呼ばれていたのでしょうか。

 実は、百姓一揆の定義は、日本史研究者によってまちまちでした。そこで、まずは百姓一揆の定義を確定しておく必要があります。現在では、「幕藩領主が使用した徒党・強訴・逃散を百姓一揆と呼ぶべきだ」とする保坂氏の提起が定説になっています。徒党は百姓が大勢で申し合わせる行為、強訴は徒党の上訴願する行為、逃散は申し合わせた上村を立ち退く行為をいい、これらは幕藩領主によって違法行為として禁止されました。

 かつて青木虹二(あおきこうじ)氏の研究に依拠して「江戸時代には3,000件以上の百姓一揆がおきた」と説明されてきましたが、この中には合法的な訴訟も含まれていました。これらを除いて、改めて須田努(すだつとむ)氏が数え直してみたところ「江戸時代の百姓一揆(徒党・強訴・逃散)は1,430件」だったそうです。従来の件数が、半分以下になってしまいました。

 このほかにも、代表越訴型百姓一揆は史料上確認することができない、百姓一揆に竹槍蓆旗(たけやりむしろばた)は携行されなかった、そもそも近世の百姓一揆の本質は非暴力的なものだった等、百姓一揆のイメージは大きく変わっているのです。

【参考】
・若尾政希『百姓一揆』2018年、岩波新書の「第2章 百姓一揆像の転換」参照。



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