44.享保の改革 -「米将軍」の時代-

 吉宗はいつもその身辺に中国の経書・史書などからはじまって、『農業全書』、『和漢事始』、『名数書』、さらに貝原益軒の『慎思録』、熊沢蕃山の『集義和書』などをうずたかく積み上げており、暇があると自分でも読み、近習の人々にもすすめて悦(よろこ)んでいた。また大岡忠相の推薦で登用した青木昆陽らに命じて、古書・古文書をあつめさせるとともに、長崎をとおして入ってくる漢籍の書目にはかならず目をとおし、政治むきのもの、地志類などをどんどん買いこんだ。つまり吉宗は、詩歌・文学といった情操的なもの以外のものならば、あらゆる本をあつめ、読んでいたのだが、彼がとくに好んだのは法律の本であった。彼はみずから勉強するとともに、荻生惣七郎、深見久大夫、成島道筑らに命じてその勉強をさせた。

 また地図がたいへん好きで、紅葉山(もみじやま)の文庫におさめてある地図類や城図をとりよせてはあかずに眺め、江戸近郊にでるときは、かならず江戸地図をもってでて、行動の参考にした。また建部賢弘に命じて「日本総絵図」をつくらせるなどしている。

 天文・暦術にもたいへん興味をもって、和漢はもちろん、オランダの書物などをとりよせて研究した。とくに雨量調査に興味をもち、江戸城の庭に桶をすえておいて雨水のたまりぐあいを測り、それを毎日座右にそなえた日録に記録していった。寛保2年(1742)、江戸時代最大といわれる大洪水が関東から甲信地方をおそうが、吉宗は日録の記録からそれを予知し、救済対策をまえからたてておいたので、洪水と同時に御助船(おたすけぶね)をだして窮民を救い、また小屋を建てて供食をし、8月下旬水がひくとともに川普請にとりかかり、翌年5月にはそれを終えている。この雨量測定はのちに駿府・長崎でもおこなわせた。

 要するに吉宗は、普通の将軍・大名・公家などの教養とされていた観念的・抽象的・遊芸的な学問には興味を示さなかったが、実用的・実証的な政治に役立つ学問には異常な関心をもっていたということになる。そしてこの性格が享保の改革に、さらに享保以降の日本の歴史にも大きな影響をあたえたといえよう。

(大石慎三郞『大岡越前守忠相』1974年、岩波新書、P.37~38)


●吉宗の登場と人材登用●



 1716(享保元)年に7代将軍家継が病没すると、御三家の一つ紀伊藩から徳川吉宗(とくがわよしむね。1684~1751。在職1716~1745)が8代将軍に迎えられました。家康の曾孫という血統のよさに門閥譜代層の期待が集まりました。それまで、側用人の間部詮房(まなべあきふさ)や侍講の新井白石(あらいはくせき)といった家柄の低い人物が、将軍の信任によって政治の中枢にいたのを、家柄のよい譜代層は心よく思っていなかったのです。

 吉宗は幕府草創期の政治体制を理想とし、「諸事権現様(ごんげんさま。家康)御掟(ごじょう)の通り」という復古的理念を政治目標に掲げました。彼は側用人を廃して将軍独裁体制をしき、譜代・旗本を登用して、財政再建に主眼を置いた改革を展開しました。

 吉宗による一連の改革を、享保の改革(きょうほうのかいかく。1716~1745)といいます。



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① 人材の登用


 吉宗が登用した人材には、次のような人びとがいます。

 古文辞学派の祖荻生徂徠(おぎゅうそらい。1666~1728)は吉宗の諮問に答えて『政談』を著し、武士土着論による改革を提言しました。

 室鳩巣(むろきゅうそう。1658~1734)は、吉宗の侍講となった儒学者です。吉宗の命により、明代の六諭(りくゆ。六つの道徳)のあらましを解説した『六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)』を和文で著しました。民衆教化のため、江戸の手習い師匠らに頒布されました。

 大岡忠相(おおおかただすけ。1677~1751)は、山田奉行から吉宗によって江戸町奉行に抜擢され、のちに寺社奉行にまで出世しました。忠相は地方巧者(じかたこうしゃ。農政にすぐれた能力をもつ人物)を見いだす力にすぐれ、田中丘隅(たなかきゅうぐ)・休蔵(きゅうぞう)父子、青木昆陽(あおきこんよう)らの人材を発掘しました。

 田中丘隅(たなかきゅうぐ。1662~1729)は東海道川崎宿の名主・問屋役をつとめながら、有名な地方書(じかたしょ)『民間省要(みんかんせいよう)』を著しました。その見識を見込まれて幕府に登用され、武蔵国多摩郡・埼玉のうち3万石の支配をまかされました。その死後は、子の休蔵(きゅうぞう)があとをつぎ、大岡忠相支配のもとで業績をあげています。また丘隅の娘婿蓑笠之助(みのかさのすけ)も大岡忠相に認められ、南関東の農政や酒匂川(さかわがわ)の治水工事で大きな業績をあげました。

 青木昆陽(あおきこんよう。1698~1769)は江戸の牢人で、大岡忠相組与力の地所を借りて住んでいました。救荒作物(きゅうこうさくもつ。飢饉対策のための作物)であるサツマイモ(甘藷(かんしょ))作りの名人だったので、1732(享保17)年の西国大飢饉をきっかけに、忠相が幕府に推挙しました。小石川養生所内に空き地を拝領してサツマイモ栽培を行い、種芋(たねいも)を各地に配布してサツマイモの普及につとめ、「甘藷先生(かんしょせんせい)」と呼ばれました。著書に、『蕃薯考(ばんしょこう)』などがあります。

 西川如見(にしかわじょけん。1648~1724)は元長崎通詞(ながさきつうじ)で、長崎で見聞した海外事情を記述した『華夷通商考(かいつうしょうこう。)』や『百姓囊(ひゃくしょうぶくろ)』『町人囊(ちょうにんぶくろ)』などの著作があります。天文暦術に関する著述も多く、吉宗が天文暦術の学を好んだところから、江戸に招いてその学問に関する意見を聞きました。如見の次子正休(まさやす)は幕府に出仕して天文方となりました。


◆サツマイモの伝来

 江戸時代、青木昆陽らの尽力によって栽培が広まったサツマイモ。薩摩(現在の鹿児島県)から伝わったことに由来する命名です。しかし、薩摩ではリュウキュウイモ、さらに琉球(現在の沖縄県)ではカライモと呼ばれました。カライモは唐(から)の国、すなわち中国からの伝来を意味します。中国では蕃薯(ばんしょ)と呼ばれました。蕃は外国、薯はイモのことです。この場合の蕃はスペインやポルトガルを指します。南米を征服したスペイン人やポルトガル人は、南米原産の農作物をヨーロッパに持ち帰り、さらにアジアにもたらしたのです。

 こうした南米原産の農作物には、サツマイモ以外にもトウモロコシ・ジャガイモ・トウガラシなどがあります。


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② 足高(たしだか)の制 - 出費を抑えて人材登用 -

 
 吉宗の人材登用策として重要なのが「足高の制」です。

 幕府の職制では原則的に、役職が個人の才能や努力ではなく、家格と一致していました。たとえば、ある人が江戸町奉行になれるかどうかは、本人がその役職に相当する3,000石級の旗本の家に生まれているかどうかにかかっていたのです。そうなると、より高い役職に就くためには、より高い家格の家に生まれていることが前提条件になります。

 しかし、上級の役職になればなるほど家格の高い家は少なくなります。つまり、上級の役職ほど少ない家の中から人材を選ばざるを得ず、それだけ人材選択の幅がせばまるということになります。

 ちなみに、大石慎三郞氏が旗本5,232家のうち、5,000石以上・3,000石以上・1,000石以上ごとに何家あるかを集計した結果が次です。なお( )は全体に占める%を示しています(大石慎三郞『大岡越前守忠相』1974年、岩波新書、P.40~41による)。


                        【就任できる役職】
  5,000石以上 110家( 2.10%)  御側衆
(おそばしゅう)、御留守居衆(おるすいしゅう)
                      大御番衆
(おおごばんしゅう)など
  3,000石以上 247家( 4.72%)  大目付、町奉行、勘定奉行など

  1,000石以上 824家(15.74%)  御留守居番
、御目付、御使番(おつかいばん)
                      御書院番組頭
(ごしょいんばんくみがしら)など


 1723(享保8)年、幕府は足高の制を制定しました。足高の制は、家格にかかわらず人材登用の道を広げるための制度です。在職中だけ禄高の不足分を加増することによって、家格が低く小禄であっても優秀な人材を採用できるようになりました。

 たとえば、禄高1,800石の旗本を江戸町奉行(役高3,000石)に採用するなら、役高と禄高の差1,200石が在職中に支給されるという仕組みです。

 従来は、役職が上がると俸禄が加増され、その役職を離れた後も加増されたままの俸禄が継続しました。そのため、幕府の財政支出が増大するのをはばかって、小禄の人材の登用が躊躇されていました。それが、足高の制によって、幕府財政の支出増大を抑制したまま人材登用が図れるようになったのです。


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●財政の再建●



① 財政再建のためのさまざまな準備



 享保の改革の中心政策は、幕府の財政再建でした。吉宗が本格的な改革に乗り出すのは1722(享保7)年からですが、民政・財政を担当する勘定所の整備と強化をはかるなど、改革を行う前にはさまざまな準備が必要でした。


《 相対済し令(あいたいすましれい。1719) 》
           -財政再建に専念できるよう、役人の仕事量を減らす-



 改革を行う前に多くの公事(訴訟)を取り扱って繁忙をきわめた幕府役人の仕事を軽減する必要がありました。具体的に、1718(享保3)年の江戸町奉行所の訴訟処理能力を見てみると、次のようになっています。


   総件数      35,790件(100.0%)
      内訳 金公事(かねくじ。金銭貸借訴訟) 33,037件( 92.3%)
           一般公事(金公事以外の訴訟)   2,753件( 7.7%)

   年内処理件数 11,651件( 32.6%)



 訴訟の9割以上を金公事が占め、しかもその件数が過多で処理し切れていないのです。これでは、幕府役人を改革に振り向ける余裕などありません。

 そこで、1719(享保4)年、幕府は相対済し令(あいたいすましれい)を出しました。「今後金公事は受理しない、当事者間の相対で済ますように」としたのです(大石慎三郞『増補版 享保改革の経済政策』1975年、御茶の水書房、P.102~120参照)。


◆奇抜な借金取り立て

 
1719(享保4)年に発令された相対済し令の目的を「負債を抱えた旗本・御家人を救済するために」とする説があります。しかし、幕府は本法令と合わせて出した触書の中で、旗本・御家人の借金踏み倒しを禁止しています。また、そうした違法行為は債権者との信頼関係を損ね、その後の旗本・御家人の金融の道を閉ざしてしまうことにもなりかねません。よってこの説は妥当性を欠きます。

 それでも、相対済し令が出されたことをよいことに、借金返済をしぶる旗本・御家人がいたことも事実です。

 一方、金を貸した町人の方も黙ってはいません。知恵をしぼり、さまざまな対抗手段に打って出ました。たとえば、わざと妻子にぼろを着せ、顔を煤(すす)でよごし、できるだけ哀れな様子を演出しました。そして、借金返済をしぶる武士の名前を書いた小旗をもたせ、江戸城の門外に待ち伏せさせたのです。めざす武士を見つけると彼女たちは「借金返せ」とわめきながら馬や駕籠にとりつきました。なかには家までついて行って、門や玄関に座り込んで騒ぐ者さえいたといいます。これには武士たちも大弱りだったということです。

【参考】
・大石慎三郞「"相対済し令"の成立と展開-その1-」
      -學習院大學經濟論集 7巻2号、1971年、P.115以降を参照のこと。
       (http://hdl.handle.net/10959/758、2017年3月10日閲覧)-
・大石慎三郞『大岡越前守忠相』1974年、岩波新書、P.173~174


《 倹約令 》 
- 支出を抑える -


 
財政再建のためには、まずは支出の削減が図られました。元禄以来財政窮乏の一因となった寺社修復費を1年間1,000両に限定(綱吉政権下では寺社修復に約70万両支出したと推計されています)するなど出費の上限を決め、幕府勝手向きの出費削減を厳命する倹約令を出しました。

 1722(享保7)年5月28日に出された倹約令では、幕臣への俸禄米支給が遅滞している原因を「近年、自然災害による損耗が続き、幕府御蔵への年貢米納入が滞っているため」と説明し、「今後も俸禄米の減額が予想されるので倹約するように」と旗本たちに命じています。

 この倹約令に対して、旗本・御家人らのぼやきを代弁した落首が次。



 旗本は今ぞ淋(さび)しさ優(まさ)りけり 御金(おかね)もとらで暮らすと思へば

 もろともに哀
(あわ)れと思へ質屋どの 御身(おんみ)より他(ほか)に知る人もなし


《 上米
(あげまい。1722~1730) 》 -一時的な収入を確保する-


 
幕府の財政再建政策が軌道に乗るまでには、ある程度の時間が必要でした。その間、暫定的な財源確保が必要でした。

 吉宗は、上述した倹約令を出した約1カ月後(1722(享保7)年7月3日)、諸大名に対して1万石につき100石の上米(あげまい。献米)を求め
(注)、これを旗本・御家人の俸禄米(ほうろくまい。切米(きりまい)・扶持米(ふちまい))に当てることにしました。その代償に、諸大名には参勤交代の江戸滞在期間の半減を約束したのです。また上米実施期間中は、御手伝普請(おてつだいぶしん。大名に課した土木工事)を中止しました)。


 御代々(おんだいだい)御沙汰(ごさた)もこれ無き事に候得共(そうらえども)、万石以上の面々(大名のこと)より八木(はちぼく、やぎ。米のこと)差し上げ候様に仰(おお)せ付けらるべしと思(おぼ)し召し、左候(さそうら)はねば御家人の内数百人、御扶持(おふち)を召し放さるべきより外はこれ無く候故(ゆえ)、御恥辱(ごちじょく)をも顧(かえり)みられず仰(おお)せ出(いだ)され候(そうろう)(『御触書寛保集成』)


 
「もし上米を実施しなければ、数百人の御家人を解雇しなければならない」と、幕府の窮状を率直に吐露したのです。「御恥辱を顧みられず」という言葉から、将軍の体面をかなぐり捨てた吉宗の苦しい胸のうちが読み取れます。

 そもそも、将軍・大名間の主従関係の根幹は、将軍の領知宛行(りょうちあてがい)という御恩に対して、大名の軍役・参勤交代・御手伝普請などの奉公によって成り立っていました。軍役がない泰平の世にあって、大名の参勤交代を半減させ、御手伝普請を中止するという幕府の措置は、いかに急場しのぎの増収策とはいえ、将軍・大名間の主従関係を揺るがすゆゆしき事態でした。

 上米の年間総額は18万7,000石にのぼりました。これは幕府の貢租収入の約1割、幕臣に支給する俸禄米の約5割に相当しました。上米は8年間(1723~1730)実施され、その総額は149万6,000石にのぼりました。

 1730(享保15)年4月、上米制の停止が命じられました。翌年から上米制は停止され、参勤交代制が旧に復しました。合わせて1732(享保17)年から御手伝普請も再開されました。


(注)上米を金納する場合、当時の張紙相場(はりがみそうば。幕府公定の米価で、貨幣換算時の公定時価)は米100俵に付き49両でした。次のような落首が詠まれました。

       上げ米(べい)といへ上米(あげまい)は気に入らず 金納ならば始終苦労ぞ

 「上げ米(べい)」は関東のべいべい言葉に掛けたしゃれ。「始終苦労」は49両を掛けています。



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② 財政再建のための諸政策


《 徴税の強化 》 
-税制改革により、年貢の増収をはかる-


 
幕府は、豊凶によって年貢収入が高下する従来の検見法(けみほう)から、数年間の平均税率を割り出して税率を固定する定免法(じょうめんほう)を採用しました。定免法の免というのは税率のことです。定免法の採用によって、幕府は安定した税収を確保できることになりました(注)

 
一方百姓は、豊作時には手元に多くの剰余が残ることになり、生活に余裕が生まれました。しかし、不作時でも納税率は変わりません。その場合には、従来よりかえって生活が苦しくなってしまいました。

 また年貢率を、従来の四公六民から五公五民に引き上げました。勘定奉行の神尾春央(かんおはるひで。1687~1753)は


  「胡麻
(ごま)の油と百姓は絞(しぼ)れば絞るほど出(いず)るものなり」(本多利明『西域物語』)


とうそぶいたといいます。百姓の手元に残る剰余分は、著しく少なくなってしまいました。



(注)さらに定免法の補強策として、有毛検見法(ありげけみほう)を全国に実施しました。従来は、幕政初期に決定した低い石盛を基準として、年貢額を算定していました。しかしその後、農業生産力は上昇していましたから、田畑の上中下の等級や石盛等を無視して、実際の収穫量に応じて年貢額を決定することにしたのです。生産力の上昇分を新たに租税の賦課対象としたわけですから、年貢の増徴となります。その後、多くの諸藩・旗本領でも、有毛検見法を採用するようになりました。


《 新田開発 》
-耕地面積を拡大して、年貢の増収をはかる-


 
年貢増徴策には限界があります。そこで、幕府は新田開発に力を入れました。耕地面積が増えれば、それだけ年貢収入の増加が見込めるからです。

 幕府が開発した新田として、武蔵野新田(むさしのしんでん)があります。1736(元文3)年の検地によると、武蔵野新田は多摩郡40ヵ村、新座郡(にいざぐん)4ヵ村、入間郡(いるまぐん)19ヵ村、高麗郡(こまぐん)19ヵ村の合計82ヵ村にわたり、総石高1万2,600石余に及びました。用水の便が悪いため水田が少なく、やせた関東ローム層という農業には不向きな土地に展開した、全国的にも珍しい畑地新田でした。

 また幕府は、江戸日本橋に高札を掲げて町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)の開発を奨励しました。商人資本の利用を考えたのです。越後紫雲寺潟新田(しうんじがたしんでん)は、竹前小八郎・権兵衛兄弟によって開発された町人請負新田です。紫雲寺潟という海跡湖を干拓して反別約1,650町歩、石高1万6,800石余に及ぶ新田を開発し、42の新田村落が誕生しました。



《 殖産興業政策 》
-新たな産業を興して、増収をはかる-


 
吉宗は、実学(日常生活に役立つ実用の学問)を奨励して新たな産業の開発をすすめました。そのため、人材や新知識を各方面に求めました。1720(享保5)年、検閲が厳しかった漢訳洋書(かんやくようしょ。中国で漢文に訳した洋書のこと)の輸入制限を緩和して、キリスト教に関係がなければ、実学の書物をどしどし輸入することにしたのもその一環です。

 しかし、海外からの新知識の導入には言葉の壁があります。そこで、青木昆陽野呂元丈(のろげんじょう。1693~1761)にオランダ語の学習を命じて、蘭学興隆の基礎を築かせました。青木昆陽にはオランダ語の単語・発音・訳語などを記した初歩の文法書『阿蘭陀文字略考(おらんだもじりゃっこう)』(3巻)、野呂元丈にはわが国初となる西洋本草書『阿蘭陀本草和解(おらんだほんぞうわげ)』(2巻)の著作があります。

 一方、農家には甘藷(かんしょ。サツマイモのこと)・甘蔗(かんしゃ。サトウキビのこと)・櫨(はぜ。実は灯火用の蝋やびんつけ油の原料)・菜種(なたね)・胡麻(ごま)・朝鮮人参(ちょうせんにんじん。薬用)など、商品作物の栽培を奨励しました。これらは、年貢収入を増やすだけが目的ではありませんでした。

 甘藷の栽培は救荒作物としての意味合いから、青木昆陽を中心にその普及がはかられました。

 また、朝鮮人参(ウコギ家の多年草)は、古来万病の薬として珍重されてきましたが、たいへん高価なものでした。日本では栽培されていなかったため、対馬藩の朝鮮貿易を通じて大量に輸入されてきました。そこで、国内で栽培することによって高価な朝鮮人参の輸入量を減らし、富の流出を防ぐ意図もありました。

 なお、同様の趣旨から、高価な薬草の代替物を国内各地に探索する事業が行われました。江戸の小石川薬園(こいしかわやくえん)内に移植・栽培して、自給率を高めようとしたのです。この任にあたって、各地を採訪した人びとを薬採使(さいやくし)といいます。



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③ 財政再建策の成果


 
こうしたさまざまな財政再建策により、幕領は408万石(1716年)から463万石(1744年)に増大し、年貢収納率も34%(1716年)から38%(1744年)に上昇しました。1744年には180万石の年貢収納高を記録しました。平年は140万石が平均でしたから、180万石は幕政史上最大の収納高となりました。


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●司法制度の整備●



① 『公事方御定書
(くじかたおさだめがき)』の制定
     
-判例に基づく合理的な司法判断を推進-


 吉宗は法制の整備にも力を入れました。中でも重要なのは『公事方御定書』の制定です。

 『公事方御定書』は老中松平乗邑(まつだいらのりさと)を主任とし、三奉行を中心に編纂されました。司法警察関係の上巻81か条、刑法・民法関係の下巻103か条からなり、これ以降の裁判・行政で用いる基本法典となりました。民衆生活に直接関わる下巻を、特に『御定書百箇条(おさだめがきひゃっかじょう)』と称しました。

 内容は一般庶民には知らされず、犯罪予防の見地から刑罰は見懲(みごり、みこらし。見せしめのこと)主義を、また軽犯罪者や未成年者の社会復帰を促すため改悛(かいしゅん)奨励主義をとりました。

 前者の例としては、獄門(ごくもん。晒(さら)し首)や火罪(かざい。火あぶり)、磔(はりつけ)などの見せしめの厳罰があげられます。

 後者の例としては、旧悪免除(いったん罪を犯しても、その後改悛して未発覚のまま12カ月を経過した者は刑罰に問わない)や幼年者への刑罰軽減(殺人・放火など大罪を犯した15歳未満の者は死刑でなく遠島にし、改悛の機会を与える)などの規定があげられます(石井良助『江戸の刑罰』1964年、中公新書、P.10~17参照)。

 また、主人殺しや尊属殺人の刑罰が他の刑罰に比較して重いなど、いたるところに封建的身分制度を維持するための配慮も見られます。
 

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② 『御触書寛保集成(おふれがきかんぽうしゅうせい)』の編纂
     
-先例・先規を集成-


 1744(延享元)年には、幕府創設以来(1615~1743)出された触書を、部門別に集成した『御触書寛保集成』が完成しました。同時に、以後の幕府の記録保存を命じました。

 触書の集成はこれ以降も幕府事業として継承され、『御触書宝暦集成』『御触書天明集成』『御触書天保集成』が編纂されました。


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●農村政策と都市政策●



① 農村政策 
百姓層の分解に対応するも成功せず-


 農村では本百姓が土地を失い、小作農に転落するという百姓層の分解が進行していました。田畑永代売買の禁令によって、田畑の売買は禁止されていたわけですから、本来ならこのような事態は起こるはずがありません。

 実際には、凶作などで年貢が納入できない等の理由で、百姓たちは田畑を抵当に借金をしていました。これは「質入れ」なので、田畑の売買には当たらないとされていました。しかし、期限までに借金が返せなければ、「質流れ」という形で田畑の所有権は貸し主の方に移ってしまいます。実質的には売買と同じです。百姓は土地を失い、本百姓から小作農に転落してしまいます。こうした百姓層の上下分解の進行をくい止めるため、幕府は1721(享保6)年に「田畑の質入れは認めても、質流れを認めない」とする流地禁止令(ながれちきんしれい)を出しました。

 しかし、百姓たちは流地禁止令を、「質入れした土地を、無償で取り返すことができる」徳政令と勘違いしました。百姓たちは、質入れ主に流地(質流れとなって質入れ主の所有となった田畑)の返還を迫り、質地騒動(しっちそうどう)と呼ばれる百姓一揆を各地で起こしました。出羽国村山郡長瀞村(ながとろむら)の質地騒動、越後国頸城郡(くびきぐん)一帯の質地騒動が、大規模な質地騒動として知られています。

 こうした混乱に対し幕府は、1723(享保8)年には流地禁止令を早々に撤回し、事態の収拾をはからざるを得ませんでした。


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② 都市政策 


《 目安箱の設置 》 
-民意を政治に反映-


 吉宗は、1721(享保6)年、江戸城竜ノ口評定所前に目安箱(めやすばこ)を設置して、民間の意見を政策に吸い上げようとしました。小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)や町火消(まちびけし)の設置は、目安箱への投書が動機となったものです。

 小石川養生所は、町医者小川笙船(おがわしょうせん)の建言によって、1722(享保7)年に小石川薬園内に設置された貧民対象の施療施設です。町奉行の支配のもと、医師20名がその任に着きました。病室は当初40人収容でしたが、のち170人に増やされました。

 町火消は、従来の定火消(じょうびけし)に加えて、町方の消防組織としてつくられました。い組、ろ組、は組、に組…というように分け、語呂が悪い「へ・ら・ひ」は「百・千・万」をあてて、いろは47組(のち「本」を加え48組)が組織されました。火消といっても消火活動はほとんど行わず、建物を打ち壊して延焼を防ぐというのが当時のやり方でした。当初は町方で火消人足を雇いましたが、破壊による消火だったため、次第に鳶人足(とびにんそく)に代わりました。


《 江戸の改造 》 -火災都市から防災都市への転換-


 「火災都市」とも称されるほど、江戸の町は頻繁に大火に襲われました。

 そこで明暦の大火(1657年)後、延焼を防ぐために、幕府は火除明地(ひよけあけち。江戸城用の空き地)や道幅を広くした広小路(ひろこうじ。市街地用の空き地)などの火除地(ひよけち)、緑地帯をあちこちに設けました。幕府から大名たちに下賜された中屋敷・下屋敷には、防火の意味合いもあり、その多くに庭園が設けられました。一方、町家に対しては、延焼しにくい瓦屋根や土蔵造(どぞうづくり)を奨励しました。

 またいち早く火事を発見するために、火の見櫓(ひのみやぐら)を各地に設けました。


《 物価の統制 》 -米価の調整に重点をおく-


 江戸時代は「米遣いの経済」といわれますが、新田開発等による耕地面積の増加や農業技術の進歩は、米の増産をもたらしました。米の増産は米価の低落につながります。

 米価の調整は、為政者にとっては重要課題でした。米価が下落すると、定額の俸禄米を支給されている旗本・御家人が米を換金する際に、その収入が減ってしまい生活苦に陥ってしまいますし、米価があまりにも高くなると庶民生活に支障をきたしてしまいます。当時は米価安だったため、吉宗は大坂の堂島米市場(どうじまこめいちば)を公認し、米価の上昇・安定に努めました。

 また、貨幣改鋳では、1736(元文元)年、質を落とした元文金銀(げんぶんきんぎん)を鋳造して、米価を上昇に誘導しました。堂島米市場や株仲間を公認したのも、物価安定のために商業統制をしやすしようとしたためです。


◆米将軍(こめしょうぐん)

 吉宗が実施した年貢増徴策・新田開発の奨励等の諸政策により、幕府の米穀保有量は増大念しました。しかし、米穀保有量の増大が、直ちに幕府収入の増加となるわけではありません。米価が安値ならば、実質収入はあまり増えないからです。

 当時は米の増産で米価が下落していましたが、諸物価は相変わらず高いままでした。これを「米価安(べいかやす)の諸色高(しょしきだか)」といいます。そのため、俸禄米支給額の決まっている旗本・御家人の生活はますます苦しくなりました。そこで吉宗は、江戸に流入する上方米を米商人に買い占めさせるなど、米価つり上げにさまざまな画策をしました。しかし、1732(享保17)年が大凶作(享保の飢饉)だったため、窮民救済のため商人に米を売らせ、幕府の米蔵も開かざるを得なくなります。ところが翌年は大豊作で米価が急落。またもや米価引き上げのため、奮闘せざるを得ませんでした。

 吉宗が亡くなった後、その身辺を整理すると、数百枚の反古(ほご)紙片が見つかりました。その紙片の1枚1枚には、細かい数字で浅草の米相場がびっしりと書き込んであったということです。

 常に米相場と格闘していた吉宗は、俗に「米将軍(米公方)」と呼ばれました。 


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●改革の結果●



 吉宗の各方面にわたる改革により幕府は威信を取り戻し、財政も好転しました。1735年~1744年の間、幕府財政は黒字となり、年貢収納高は幕府史上最高を記録しました。このゆえに、吉宗は「幕府中興の英主」と仰がれました。

 しかし、年貢収入が増大したということは、農民からの搾取がその分、強化されたことを意味します。その影響は、百姓一揆の頻発という形になってあらわれました。

 また、米価を上昇させるため米問屋に米買占めを行わせた時期、折悪しく享保の飢饉(1732年)がおきてしまい、都市では米問屋など商家を襲う打ちこわしが初めておきました。

 封建体制の動揺はとどまりませんでした。


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