吉宗はいつもその身辺に中国の経書・史書などからはじまって、『農業全書』、『和漢事始』、『名数書』、さらに貝原益軒の『慎思録』、熊沢蕃山の『集義和書』などをうずたかく積み上げており、暇があると自分でも読み、近習の人々にもすすめて悦(よろこ)んでいた。また大岡忠相の推薦で登用した青木昆陽らに命じて、古書・古文書をあつめさせるとともに、長崎をとおして入ってくる漢籍の書目にはかならず目をとおし、政治むきのもの、地志類などをどんどん買いこんだ。つまり吉宗は、詩歌・文学といった情操的なもの以外のものならば、あらゆる本をあつめ、読んでいたのだが、彼がとくに好んだのは法律の本であった。彼はみずから勉強するとともに、荻生惣七郎、深見久大夫、成島道筑らに命じてその勉強をさせた。
また地図がたいへん好きで、紅葉山(もみじやま)の文庫におさめてある地図類や城図をとりよせてはあかずに眺め、江戸近郊にでるときは、かならず江戸地図をもってでて、行動の参考にした。また建部賢弘に命じて「日本総絵図」をつくらせるなどしている。
天文・暦術にもたいへん興味をもって、和漢はもちろん、オランダの書物などをとりよせて研究した。とくに雨量調査に興味をもち、江戸城の庭に桶をすえておいて雨水のたまりぐあいを測り、それを毎日座右にそなえた日録に記録していった。寛保2年(1742)、江戸時代最大といわれる大洪水が関東から甲信地方をおそうが、吉宗は日録の記録からそれを予知し、救済対策をまえからたてておいたので、洪水と同時に御助船(おたすけぶね)をだして窮民を救い、また小屋を建てて供食をし、8月下旬水がひくとともに川普請にとりかかり、翌年5月にはそれを終えている。この雨量測定はのちに駿府・長崎でもおこなわせた。
要するに吉宗は、普通の将軍・大名・公家などの教養とされていた観念的・抽象的・遊芸的な学問には興味を示さなかったが、実用的・実証的な政治に役立つ学問には異常な関心をもっていたということになる。そしてこの性格が享保の改革に、さらに享保以降の日本の歴史にも大きな影響をあたえたといえよう。
(大石慎三郞『大岡越前守忠相』1974年、岩波新書、P.37~38)
●吉宗の登場と人材登用● |
◆サツマイモの伝来 江戸時代、青木昆陽らの尽力によって栽培が広まったサツマイモ。薩摩(現在の鹿児島県)から伝わったことに由来する命名です。しかし、薩摩ではリュウキュウイモ、さらに琉球(現在の沖縄県)ではカライモと呼ばれました。カライモは唐(から)の国、すなわち中国からの伝来を意味します。中国では蕃薯(ばんしょ)と呼ばれました。蕃は外国、薯はイモのことです。この場合の蕃はスペインやポルトガルを指します。南米を征服したスペイン人やポルトガル人は、南米原産の農作物をヨーロッパに持ち帰り、さらにアジアにもたらしたのです。 こうした南米原産の農作物には、サツマイモ以外にもトウモロコシ・ジャガイモ・トウガラシなどがあります。 |
●財政の再建● |
◆奇抜な借金取り立て 1719(享保4)年に発令された相対済し令の目的を「負債を抱えた旗本・御家人を救済するために」とする説があります。しかし、幕府は本法令と合わせて出した触書の中で、旗本・御家人の借金踏み倒しを禁止しています。また、そうした違法行為は債権者との信頼関係を損ね、その後の旗本・御家人の金融の道を閉ざしてしまうことにもなりかねません。よってこの説は妥当性を欠きます。 それでも、相対済し令が出されたことをよいことに、借金返済をしぶる旗本・御家人がいたことも事実です。 一方、金を貸した町人の方も黙ってはいません。知恵をしぼり、さまざまな対抗手段に打って出ました。たとえば、わざと妻子にぼろを着せ、顔を煤(すす)でよごし、できるだけ哀れな様子を演出しました。そして、借金返済をしぶる武士の名前を書いた小旗をもたせ、江戸城の門外に待ち伏せさせたのです。めざす武士を見つけると彼女たちは「借金返せ」とわめきながら馬や駕籠にとりつきました。なかには家までついて行って、門や玄関に座り込んで騒ぐ者さえいたといいます。これには武士たちも大弱りだったということです。 【参考】 ・大石慎三郞「"相対済し令"の成立と展開-その1-」 -學習院大學經濟論集 7巻2号、1971年、P.115以降を参照のこと。 (http://hdl.handle.net/10959/758、2017年3月10日閲覧)- ・大石慎三郞『大岡越前守忠相』1974年、岩波新書、P.173~174 |
●司法制度の整備● |
●農村政策と都市政策● |
◆米将軍(こめしょうぐん) 吉宗が実施した年貢増徴策・新田開発の奨励等の諸政策により、幕府の米穀保有量は増大念しました。しかし、米穀保有量の増大が、直ちに幕府収入の増加となるわけではありません。米価が安値ならば、実質収入はあまり増えないからです。 当時は米の増産で米価が下落していましたが、諸物価は相変わらず高いままでした。これを「米価安(べいかやす)の諸色高(しょしきだか)」といいます。そのため、俸禄米支給額の決まっている旗本・御家人の生活はますます苦しくなりました。そこで吉宗は、江戸に流入する上方米を米商人に買い占めさせるなど、米価つり上げにさまざまな画策をしました。しかし、1732(享保17)年が大凶作(享保の飢饉)だったため、窮民救済のため商人に米を売らせ、幕府の米蔵も開かざるを得なくなります。ところが翌年は大豊作で米価が急落。またもや米価引き上げのため、奮闘せざるを得ませんでした。 吉宗が亡くなった後、その身辺を整理すると、数百枚の反古(ほご)紙片が見つかりました。その紙片の1枚1枚には、細かい数字で浅草の米相場がびっしりと書き込んであったということです。 常に米相場と格闘していた吉宗は、俗に「米将軍(米公方)」と呼ばれました。 |
●改革の結果● |