43.江戸時代の貨幣制度

 17世紀のとくに前半に諸藩は、必ずしも幕府の許可を得ずに独自の金属通貨を発行した。これを領国貨幣という。金沢藩の金貨・銀貨や、小倉藩(こくらはん。細川家)の銭などがある。全国的には銀貨が多く、銭は寛永通宝発行の前のものが主であり、西日本に多い。1630年代の小倉藩主細川忠利(ただとし)の父・忠興(ただおき)は、領内の通貨を統制する権限は藩にある、という意識を持っていた。

 余談だが、細川忠利は銭を鋳造する際に、古びたように加工するよう命じた。新しい銭なのになぜそんなことをわざわざさせたかというと、古い銭こそ信用が高かったからである。どういうことかというと、新しくてピカピカしている→使われたことがない→ということは受け取られた実績がない→次に受け取ってもらえないかもしれない→だから受け取ると損するかもしれない。逆に使い古された銭は、これまで使われている→次も受け取ってもらえるだろう→だから受け取っても問題ない、という発想である。劣化しすぎた銭が撰銭されるのは仕方ないとして、きれいすぎてもダメだったようだ。

(高木久史『通貨の日本史』2016年、中公新書、P.94〜95)


●金 貨●



@ 金貨はなぜ板状か


 近世以前、高額商品の売買には、銭貨より価値の高い金や銀を使用していました。

 その際、金は貨幣ではなく、川底などから自然金として採集された砂金の形で使用されていました。しかし、砂金はバラバラになってしまいます。最初のうちは紙に包んだり、竹筒に入れたりして重量で取引きしていました。それも不便だったので、そのうち溶かして塊(かたまり)にするようになったのです。

 ところが金塊にすると、必要な分だけ切り分けることが難しいという問題がでてきました。ただ、これは小さな均一の重量に分けることができれば解決できます。そこで、江戸時代の金貨は、同じ重量に分けられたのです。金貨を数える際の1両・2両の「」という単位は、もともとは重さの単位(1両は約16.5g)でした。

 金塊にはもう一つ問題がありました。塊だとその中身まで均質なのかどうかがわかりません。もしかしたら表面だけが金メッキで、中身は紛い物(まがいもの)かも知れません。この問題を解消するためには、なるべく中身のない(=厚みがない)方がよいわけです。大判や小判などの金貨が板状に薄く叩き延されているのは、こうした問題の解消を狙ったものと考えられます。


◆試金石(しきんせき)

 物の価値や人物の力量などを判定する物事を「試金石」といいますが、これは金座で使われていた試金石が語源です。

 試金石は、黒い石に小判などをこすりつけて、そこにあらわれた条痕色(じょうこんしょく)を、試金棒(標準試料)の色と比較して、金の濃度を判定する道具です。金の地金や古い金貨、また製造途中の金貨の品位を調べるために用いられました。

 試金石の原料となる黒石には、もっぱら那智黒石(なちぐろいし)が用いられました。現在の三重県熊野市神川町から産出される粘板岩(ねんばんがん)の一種です。黒色で緻密(ちみつ)なので、金属をこすりつけた時、条痕色が判別しやすいのです。現在、那智黒石は硯(すずり)や碁石(ごいし)の黒石などに利用されています。 

【参考】
・齋藤努「江戸時代の金座と小判の製造工程」−NICHIGIN 2008年、14−(インターネットで閲覧可能)


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A おもに東日本で使用された計数貨幣


 金貨には大判(額面の10両は重さの単位。通常は小判8両、のちには7両2分で流通したといわれています)、小判(1両)、1分判(いちぶばん)などの種類があり、おもに東日本で流通しました。これを「東の金遣い(金建て)」とか「江戸の金遣い」といいます。佐渡金山・甲州金山など東日本に金山が多く分布していたこと、徳川氏が江戸幕府を開く以前に甲斐の金貨制度を継承していたこと、貿易との関わりが薄い地域だったので貿易通貨である銀貨への需要が少なかったこと、などがその理由です。

 単位は両・朱(しゅ)・分(ぶ)で、4分で1朱、4朱で1両と4進法で位上がりしました。両からは、10両、100両と10進法で計算しました。このような数えられる貨幣を、計数貨幣といいます。

 しかし、たとえば100両、200両という高額の支払いになると、いちいち小判の枚数を数えるのはたいへんですし、ばらばらにならないように扱いも難しくなります。そこで、たとえば「50両」というまとまった金額を紙で包んで封印し、金座や両替商がその金額を保証する、という方法をとりました。こうして封印された包みは、中身の現物を改めることなく、信用されて「50両」として通用しました。


◆耳をそろえる

 貴金属である金は、棒状・ブロック状・粉末状という形状に関係なく、金として取引されます。問題になるのは形状ではなく、品位と重量なのです。そうなると、悪知恵を働かせるやからは、小判の縁(へり)をヤスリや小刀でほんの少しずつ削り、そうやって集め貯めた金くずを売ってもうけようと企みました。そして、削られた小判の方は、素知らぬ顔をして使ってしまうのです。

 小判を何枚か重ねてみると、こうした不正を見破ることができます。小判を重ねると、不正がある小判は削られた縁の部分が若干へこんでいるので、見分けることができるのです。そこで、小判がでこぼこなくきれいに重なった状態を、小判の左右両端を耳に見立てて「小判の耳がそろう」といいます。借金を一度に完済することを「耳をそろえて返す」というのは、ここからきています。


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B 金貨は金座で作られた


 元禄時代以前は、大勢の職人が一つの工房に集まって金貨製造に従事する、ということはありませんでした。小判師という職人たちが、各自の家で小判を鋳造する自家営業方式だったのです。これを「手前吹(てまえぶき)」といいます。鋳造された小判は金銀改役(きんぎんあらためやく)後藤庄三郎の家に集められて検査を受け、合格したものには極印(ごくいん)が打刻されました。

 しかし、こうした分散型の生産方式は管理上好ましいことではありません。そこで、元禄時代の貨幣改鋳を機に、江戸金座内での集中生産体制に改められたのです。

 金貨は、大判は大判座(後藤四郎兵衛家が管轄)、小判は小判座(後藤庄三郎家が管轄)で作られました。金座というのは小判座のことです。なお、江戸時代初期には、金座は江戸・京都・駿河・佐渡などにもありましたが、のち江戸に一本化されました。

 なお現在、日本銀行本店は金座の跡地に建っています。


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●銀 貨●



@ おもに西日本で使用された秤量貨幣
(しょうりょうかへい)


 銀貨には、なまこ形の丁銀(ちょうぎん。書道に使う固形の墨に形状が似ており、墨は1丁、2丁と数えるので丁銀と名づけられたといわれます)や小粒の豆板銀(まめいたぎん。小玉銀(こだまぎん)・小粒(こつぶ)ともいいます)などの種類があり、おもに西日本で流通しました。これを「西の銀遣い(銀建て)」とか「大坂の銀遣い」といいます。石見銀山・生野銀山など西日本に銀山が多く分布していたこと、16世紀以来慣行として銀貨を使っていたこと、貿易通貨として銀貨の需要があったこと、などがその理由です。

 銀貨の単位は(もんめ)で、1匁は約3.75gに相当します。1匁の10分の1を(ふん)、1分の10分の1を(りん)といい、1,000匁を1(かん)としました。銀貨は天秤(てんびん)で必要な重量をその都度はかって使用する貨幣でした。こうした貨幣を秤量貨幣(しょうりょうかへい。はかりで量って使用する貨幣の意)といいます。


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A 銀貨はどのように使ったか


 銀貨の重さはまちまちで、丁銀(ちょうぎん)で40匁(約150g)前後、豆板銀(まめいた)は大豆くらいものから数種ありました。

 丁銀で支払う場合、支払額に合わせた重さに調節するために、丁銀を必要分だけ裁断して使用しました。裁断されても品質が保証されていることを示すため、丁銀の表面には品質を保証する刻印がいたるところに打たれています。

 一方、豆板銀を作ったのは、小額支払いにあてるためもありますが、丁銀を計量する際に端数を豆板銀で調整し、丁銀を裁断せずに済むようにしたのです。豆板銀が普及し、幕府が丁銀の切断を禁止すると、丁銀を切って使用することはなくなりました。

 使用するたびにいちいち重さを量るのは煩わしいので、一定量目の銀貨を紙で包み、銀座や両替商が封印してその金額を保証したものが流通しました。丁銀に豆板銀を添えて43匁としたものを紙に包んで封印した、といいます。封を破って現物を確認することなく、銀座や両替商の信用によって流通したのは、封印した金貨の場合と同じです。

 また、銀貨も計数貨幣にして、金貨中心の貨幣制度に統合しようと試みられたこともありました。たとえば、田沼政権が1772(安永元)年に発行した「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」がそれです。この銀貨は定量の計数銀貨で、その裏面には「以南鐐八片換小判一両(南鐐八片を以(もっ)て小判一両に換う)」とあり、金貨と等価交換できることを表記しました。しかし、田沼意次の失脚により、貨幣制度の一本化は失敗に終わりました。


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B 銀貨は銀座で作られた


 銀貨は銀座(大黒常是(だいこくじょうぜ)家が管轄)で作られました。江戸初期には、銀座は伏見・駿府などにもありましたが、のち江戸に一本化されました。

 銀貨は秤量貨幣だったため、銀貨の重さを量る道具である天秤(てんびん)・分銅(ふんどう)の精度には、人びとの重大な関心が払われました。

 天秤は関東では守随(しゅずい)家、関西では神(じん)家調整のものを使うことになっており、その精度を確認するため「秤改(はかりあらた)め」が行われました。

 分銅は、大判座の後藤四郎兵衛(ごとうしろべえ)家が製作したものに限定されました。「秤改め」同様、分銅の精度を確かめる厳しい「分銅改め」が随時行われました。


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●銭 貨●



@ 日用に使われた小額貨幣



 銭貨には、銅銭や真鍮銭(しんちゅうせん)などがあり、日用の小額貨幣として広く流通しました。単位は(もん)で、1文銭1,000枚で1貫文と称しました。1文銭1枚の重さは約3.75gでしたから、1貫文では約3.75kgもの重さになりました。なお、現行の穴あき五円硬貨は3.75gで、1文銭とほぼ同じの量目(りょうめ)です。

 江戸時代を通じて大量に鋳造されたのが、1枚で1文に相当する寛永通宝(かんえいつうほう)でした。寛永通宝には1枚で4文に通用する「四文銭(しもんせん)」がありましたが、そのほかにも1枚で10文や100文(天保通宝)に相当する銭も作られました。


《 九六銭(くろくせん)−96文で100文として通用した慣行− 》


 ばらばらの1文銭を100枚揃えても100文としてしか使えませんが、1文銭の穴に紐を通して一つのまとまりとした「銭緡(ぜにさし)」の形にすれば、96枚で100文として通用しました。これを九六銭(くろくせん)といいます。貨幣経済が浸透していたのにもかかわらず、貨幣の絶対量が少なかった時代、貨幣を節約した慣行(これを省陌(せいはく)といいます)の名残りだといわれます。
 

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A 銭貨は銭座で作られた


 銭貨は銭座(ぜにざ)でつくられました。銭座は江戸をはじめ、全国各地におかれました。

 ただし、銭座は金座・銀座のように常設ではありませんでした。必要に応じて請負業者を民間に募り、期間を決めて製造を委託したのです。また、諸藩が銭貨を製造する場合も、幕府の許可が必要でした。


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●三貨の交換と両替商●



@ 三貨の交換は変動相場制



 金銀銭の三貨(さんか)の間には、法定の交換比率が定められていました。だいたいにおいて、


        金1両=銀60匁=銭4貫文(4,000文)


となっていましたが、実際には市価によって日々変動しました。変動相場制だったのです。


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A 両替商の登場



 商売をする際に、江戸では金貨、大坂では銀貨がおもに使われました。江戸・大坂という地理的に離れた二大市場における基準通貨がそれぞれ異なり、また多種多様な貨幣が混在して流通するという状況でしたから、いろいろな不便・支障が出てきます。

 こうした状況を商売に結びつける業者が現れました。手数料をとって異種通貨を交換する両替商です
(注)

 両替商には、現在の銀行業務に行う本両替(ほんりょうがえ)と、金銀の銭交換や小額貨幣両替等の業務を行って手数料をとる銭両替(ぜにりょうがえ)がありました。重要なのは前者です。

(注)
異種通貨を交換する際、中心になったのは金貨と銀貨で、銭貨は小額の場合にだけ行われました。それゆえ、「両替」という言葉は、もともと金貨・銀貨を交換する際に使われた言葉です。銀貨と銭貨を交換する場合には、「両替」とは言わずに、銀貨を出して「銭を買う」、「銭を売って」銀貨を得る、という言い方をしました(大矢真一校注『塵劫記』1977年、岩波文庫、P.76、注(1)参照)。


《 本両替と大坂の「十人両替」》


 本両替は、金銀交換・預金・公金出納・貸付・為替等の業務を行いました。三都に店を構えた三井、大坂の鴻池(こうのいけ)・天王寺屋(てんのうじや)・平野屋(ひらのや)、江戸の三谷(みたに)・鹿島屋(かじまや)などが有名です。

 三都の中で、本両替が最も多かったのは、大坂でした。宝暦年間(1751〜1764)末には533人もいたといわれます(中川すがね「両替商の活躍」NICHIGIN NO.15、2008年、P.24による)。大坂町奉行はこの中から、特に信用ある本両替を10人選びました。これを「十人両替(じゅうにんりょうがえ)」といいます。十人両替は幕府公金の出納を司り、幕命によって傘下の本両替を統轄しました。

 なお、現在使用されている銀行を表現する地図記号は、天秤に使う分銅の形状に由来します。


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●藩 札●



 江戸時代、諸藩が発行して領内で流通させた紙幣を藩札(はんさつ)といいます。最初の藩札は、1661(寛文元)年に福井藩が発行した銀札だといわれています。

 諸藩には貨幣発行権はありませんでしたが、幕府の許可を得て発行することができました。藩札には金札・銀札・銭札のほか、米札・昆布札など商品名を冠した藩札もありました。特に西日本では、銀札の発行が目立ちました。これは、この地域が貨幣経済の先進地であり、また銀貨が小口取引に不便だったためと考えられています。財政の苦しい藩は赤字救済目的で藩札を乱発することが多く、その場合には藩札の価値が下落しました。

 1871(明治4)年の調査によると、藩札の発行は244藩と14県(代官所)・9旗本領にも及んでいました。同年、藩札の発行停止と回収が命じられました(五味文彦他『ちょっとまじめな日本史Q&A 下 近世・近代』2006年、山川出版社、P.86)。


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