42.経済の発展


●経済の発展●



@ 貨幣経済の発展と台頭する商人たち


 幕藩体制の確立にともない、三都(さんと。江戸・大坂・京)をはじめとする都市に人口が集中しました。そして、これらの都市を中心に、貨幣経済が急速に進展していきました。

 なかでも諸藩の蔵屋敷(くらやしき)が集中する大坂は「天下の台所」と呼ばれ、大勢の商人達がひしめき合い活発に商業活動を行う経済都市として、めざましい発展を遂げていきました。蔵屋敷には、蔵物(くらもの)とよばれる年貢米や特産品が回送され、蔵物管理を扱う蔵元(くらもと)・商品売買を担う掛屋(かけや)を通じて売りさばかれました。民間から集荷された商品は納屋物(なやもの)、海外から輸入された商品は舶来物(はくらいもの)とよばれ、蔵物とともに江戸をはじめとする全国市場へ出荷されていきました。

 問屋商人たちは仲間と称する同業者組合をつくり、営業権の独占をはかりました。江戸・大坂間の物資流通の独占をめざして結成された仲間の連合体が、大坂の二十四組問屋(にじゅうしくみといや)と江戸の十組問屋(とくみといや)です。

 幕府は最初、営業権独占をはかる排他的な組織を認めませんでした。しかし18世紀以降、運上(うんじょう。営業税)・冥加(みょうが。献金)の納入を条件に、仲間を公認するようになりました。こうして認められた営業独占権を(かぶ)と称し、株を所持する特権的な同業者組合は株仲間(かぶなかま)とよばれました。

 仲買(なかがい)も問屋仲間とおなじく仲間をつくって、小売商人らへの卸(おろし)売りを独占するようになりました。小売商人の多くは振売(ふりうり)・棒手振(ぼてふり)とよばれ、店舗をもたない零細な商人たちでした。


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A 窮乏する武士たち



 商人たちが台頭する一方、武士たちが次第に窮乏していくという現象が各地で見られるようになりました。商品流通機構は商人たちが握っており、武士たちは生産手段を持たない単なる消費者集団に過ぎなかったからです。

 都市で生活する武士たちは、農民から徴収した年貢米を商人たちに引き渡し、現金化して貨幣を手に入れる必要がありました。たとえば、蔵米取りの旗本や御家人は、浅草にある幕府の御蔵(おくら)から俸禄米を支給されるのですが、札差(ふださし)という商人に手数料を払って俸禄米の受取り・売却を依頼し、現金化してもらっていました。

 しかし、米の生産量は豊凶に左右されます。凶作になれば年貢収入が減ってしまいますし、豊作になっても米価が下落してしまえば、武士達の現金収入は減ってしまうことになります。

 こうして貨幣経済にまきこまれた武士たちは、年貢米や国産品の販売、生活用品の購入などにおいても商人に利益を奪われ、生活水準の向上や物価の上昇、参勤交代や御手伝普請(おてつだいぶしん)などによる出費増等も加わって、次第に窮乏していきました。

 いわゆる「士農工商」の身分区分は儒学者たちによる観念上の産物でしたが、「貴穀賤金(きこくせんきん。穀物はとうとく、金銭はいやしいという考え方。したがって、穀物を栽培する農民はとうとく、金銭を扱う商人はいやしいと見なす)」思想のもと、商人たちは四民の最下層に位置づけられていました。

 しかし、現実社会での事情はまったく異なるものでした。商人たちは経済面で、武士階層を完全に圧倒していったのです。その経済的実力の大きさは「大坂の豪商がひとたび怒れば天下の諸侯がふるえあがる」と言われるほどでした。


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●初期豪商と元禄豪商●



@ 初期豪商 
−権力者と結んだ特権商人たち−


 近世のめざましい経済発展の中で、巨万な富を蓄えたのは、16世紀末から17世紀初頭に登場した初期豪商たちでした。織豊政権期の今井宗久(いまいそうきゅう。1520〜1593。堺)、島井宗室(しまいそうしつ。1539〜1615。博多)・神谷宗湛(かみやそうたん。1551〜1635。博多)ら、江戸時代初期の角倉了以(すみのくらりょうい。1554〜1614。京都)・茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう。三代目清次。1584〜1622。京都)、末吉孫左衛門(すえよしまござえもん。1570〜1617。平野)、末次平蔵(すえつぐへいぞう。?〜1630。長崎)らがそれです。

 彼らは、御用商人・糸割符商人・朱印船貿易家などのような特権商人たちでした。時の権力者の政策遂行を経済面から支援・協力することによって、権力者から特権を得て公共事業を独占したり、朱印状を獲得して南海貿易に乗り出したりして莫大な富を蓄積したのです。

 また全国流通網の形成が未発達な時代には、稀少な特産品を他地方に転売したり、同種の商品でも地域間価格差が大きいことを利用したりするなどして巨利を得ることができました。たとえば1595(文禄5)年、ある豪商は津軽で米2,400石を金10枚(金1枚は小判8両に相当)で買い付けました。それを自前の船で京都に運び込み、売りさばくと金80枚になったというのです。実に8倍の値段でした(佐藤信他編『詳説日本史研究 改訂版』2008年、山川出版社、P.275)。

 しかし、初期豪商の時代は長くは続きませんでした。いわゆる「鎖国」が行われて日本人の海外渡航が禁止されたり、全国流通網が整備されて市場が安定し、商品の地域間・季節間価格差が解消されてくると、巨利を得る機会が激減してしまったのです。初期豪商の多くは没落して、急速にその姿を消していきました。


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A 元禄豪商 −投機型の商人たちと、堅実型の商人たち−


 17世紀後半から18世紀初頭にかけて、新たに登場したのが元禄豪商です。これには二つのタイプがありました。

 その一つが、材木で財をなした紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)・奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん)などのような投機型の豪商たちでした。しかし、彼らの多くは、危険をともなう経営に失敗したり、過度なぜいたくを幕府に咎められたりして没落してしまいました。

 もう一つのタイプが、三井(呉服・両替)、鴻池(こうのいけ。酒造・廻船・両替)、住友(銅山経営)など、代々にわたる着実な経営努力により発展した豪商たちでした。彼らは後に、独占資本家として日本近代史の中で重要な役割を果たしていくことになります。

 このうち三井について、三井越後屋呉服店の経営方式がどのような点で画期的だったのか、次に見ていくことにしましょう。


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B 三井越後屋の経営


  天和2(1682)年の江戸大火を機に、越後屋(えちごや)呉服店は本町から駿河町(するがちょう)に移転しました。新店舗を構えた三井高利(たかとし。八郎右衛門。1622〜1694)は、江戸市中に次のような木版の引札(ひきふだ。広告ちらしのこと)を配り、「現金安売(げんきんやすうり)、無掛値(かけねなし)」の新商法を打ち出しました。


 駿河町越後屋八郎右衛門、申し上げ候
(そうろう)。今度(このたび)(わたくし)工夫(くふう)を以(もっ)て呉服物何に依(よ)らず、格別下直(げじき。安い値段)ニ売出し申し候間(あいだ)、私店江(え)御出(おいで)御買(おかい)下さるべく候。何方様(いづかたさま)江も持たせ遣(つかわ)し候儀(ぎ)ハ仕(つかまつ)らず候。尤(もっとも)手前割合勘定(てまえわりあいかんじょう。当店で厳密に計算した値段)を以て売出し候上(うえ)は、壱銭(いっせん)にても空直(そらね。相場よりずっと高くつけてある値段)申し上げず候間、御直ぎ利(おねぎり。値下げ交渉)(あそば)され候而(そうらいて)も負(まけ。値引き)ハ御座無(ござな)く候。勿論(もちろん)代物(だいぶつ。代金)は即座(そくざ)ニ御払(おはらい)下さるべく候。一銭にても延金(のべきん。代金の後日決済)ニハ仕らず候。  以上

    呉服物現金安売、無掛直
(かけねなし) 駿河町弐(に)丁目
                                   越後屋八郎右衛門



《 従来の販売方法は、お得意様相手の訪問販売で代金はつけ払い》


 当時の販売方法は、お得意様に見本を持っていき注文をとる「見世物商い」や商品を顧客の家で見てもらってその場で売る「屋敷売り」という販売方法でした。支払い方法は、後から代金をもらう約束で先に品物を相手方に渡しておく、というつけ払い(後日決済)が一般的でした。それには、6月・12月に代金を回収する「節季(せっき)払い」か、年末に一度で回収する「極月(ごくげつ。12月)払い」というやり方がありました。

 しかし、つけ払いは資金の回転が悪い上、代金が回収不能となる恐れがありました。そのため、そうしたリスク分や利息等を商品に上乗せした掛値(かけね)販売だったため、商品の値段は実際以上に高く設定されているのが常でした。客の方でもそうした事情を承知していて、商品購入の際には、まずは値切り交渉をしてから買うのが普通だったのです。

 掛値という商い慣行は、商品の価値基準を曖昧にする上、顧客に商人に対する不信感を募らせる要因ともなりました。そもそも呉服類の良否は、素人には判断がつきかねるものです。商人たちの中にはそこにつけ込んで、法外な値段を客にふっかけ、暴利を貪る悪質な者たちもいました。「商人と屏風は直ぐでは立たぬ(商人が正直だと儲からないし、屏風も曲げないと立たない)」という悪口が言われたわけです。

 一方、商人側にとっても、掛値やつけ払いというやり方は、多くの時間・人件費等を浪費する煩わしいものでした。


《 三井の販売方法は、大衆相手の店頭安売りで代金は即金払い 》


 そこで高利は、店頭で即金払いによる正札販売(しょうふだはんばい。定価で売ること)を始め、だれでも安心して買い物ができるようにしたのです。掛値ではないので、値下げ交渉には一切応じない。その代わり、他店より2〜3割は安い。こうした薄利多売方式によって、顧客の信用を獲得していったのです。

 越後屋呉服店が、こうした店先販売・低価格・即金払いという薄利多売商法をとったのには理由がありました。

 越後屋が江戸に進出したころには、すでに多くの呉服店が軒を並べていました。遅れて進出してきた越後屋は、何とか顧客を獲得しなければなりませんでした。呉服という高級衣料を販売する相手として、残されていたのはあまり裕福ではない庶民層だったのです。それでも当時は、経済の発展によって一般町人・農民らが少額ながら購買力を持ち出していました。越後屋はこうした庶民層をターゲットに、商品を売り込もうとしたのでした。

 正札の値段はまけないが、その値段は他店より2割も3割も安い。反物(たんもの。従来は1反単位での反物販売しか行っていませんでした)なら高くて手が出なくても、端切(はぎ)れ売りをして、好みの布を必要な分だけ買えるようにしたのです。しかも、店頭で商品の実物を触って、風合いや品質を確かめてから買うことができました。

 高利は、あらゆる面で経営の合理化につとめました。

 越後屋では、織物を大量・安価に購入するために、生産地の荷主に資本を前貸して買次(かいつぎ)商人化しました。そして、織物を恒常的に大量購入する代わりに、荷主には手数料のみしか支払いませんでした。商品の集荷段階から合理化を進めたのです(高埜利彦『天下泰平の時代・シリーズ日本近世史B』2015年、岩波新書、P.132)。

 販売方法にも、随所に高利の合理的精神が見てとれます。

 越後屋では店員に分業制をとらせ、羽二重(はぶたえ。緯糸に細い経糸を二本ずつ通した織物。薄くて柔らかい光沢がある布)類担当、金襴(きんらん。金箔・金糸を織り込んだ布)類担当、紗綾(さや。平織り地に綾織りで文様を織り出した光沢のある布)類担当、紅(もみ。紅絹。緋紅色に染めた絹の布)類担当、麻袴(あさばかま。夏にはく絽(ろ)の絹織物の袴)類担当などというように、店員一人に一種類の品物販売を担当させ(一人一色の役目)、それぞれの商品の専門知識を高めて多様な客の要求に対応させました。

 しかも、「何によらず、ないといふ物なし」(『日本永代蔵』巻一)と言われるほど多種多様な商品を準備し、必要な時に速やかに取り出せるように、それらの商品は「いろは順」に分類してありました。

 越後屋の店内は広かったため、なかなか担当店員が見つかりません。そこで、天井から店員の名前を書いた紙をつり下げ、その下に店員をすわらせることにしました。

 また「裁場(たちば)」と書かれた紙の下では、客が必要とするなら布を切り売りするなど、少額販売にも応じました。多数の職人をかかえて急ぎの注文にも応じ、たちまちのうちに衣類に仕立て上げて客に渡すというサービス(即座仕立て)も行いました。

 こうした顧客第一主義の経営方針や徹底した合理精神が、三井の繁栄につながったのです。井原西鶴は『日本永代蔵』(1688年刊)の中で、「大商人の手本なるべし」と三井を絶賛しました。江戸時代の川柳子(せんりゅうし)は、越後屋の繁昌ぶりを次のように詠んでいます。


 駿河丁
(するがちょう)たゝみの上の人通り
 (駿河町は越後屋のある町。駿河町すなわち越後屋は、畳の上にまるで道路のような人通りができる。たいへんな繁昌ぶりだ)


【参考】・三井広報室「三井を彩る人々」(http://www.mitsuipr.com/history/hitobito.html)、その他


◆三井のサービス戦略

 越後屋呉服店では、営業中ににわか雨が降り出すと、土間に大量の唐傘(からかさ)を積み上げました。そして、名前・住所も聞かずに、客や通行人に無料で唐傘を貸し出したのです。現在なら、安価なビニル傘をコンビニなどで気軽に買うことができますが、当時の唐傘は高価でした。一般庶民に、なかなか手が出るようなものではなかったのです。それを越後屋は、江戸市民を信頼して貸し出したのです。

 傘を開くと「越後屋」の文字と「番号」が書いてあります。そこで、唐傘を番傘(ばんがさ)というようになりました。夕立が降ろうものなら、江戸中が「越後屋」と書かれた番傘で埋め尽くされました。


  江戸中を越後屋にして虹
(にじ)がふき


という川柳は、こうした情景を詠んだものです。これは大きな宣伝効果をあげました。

 客が来ればお茶を出し、昼時には弁当を出すことさえありました。また、夕方になれば、提灯をつけて家まで客を送ったといいます。こうしたサービス戦略を駆使し、越後屋呉服店では、顧客との信頼関係を築いていったのでした。

(注)2013年、三井不動産ビルマネジメントは、東京都・日本橋室町エリアの8棟の三井のオフィスにそれぞれ100本ほどの傘を設置し、オフィスワーカーのための貸傘サービス「室町めぐり傘」をはじめた、という記事がインターネットに載っていました。写真を見ると、傘はもちろん番傘ではなく、青地に「WORKERS FIRST」「三井のオフィス」の白文字が書かれた洋傘でした。「江戸時代の貸傘サービスを再現」する試みだそうです。 


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「駿河町(するがちょう)、三井八郎右衛門といふは日本一の商人といふ。これが先祖は寛永の頃、勢州松坂より江戸へ奉公に出、少しの元出金を拵(こしら)へて在所へ帰り、相手を一人語らひて、木綿を一駄づつ隔番に江戸に持ち出して商(あきな)ひをせしといふ。それがだんだん増長して日本一の大豪福となり、大店(おおだな)三ヶ所ありて千余人の手代を遣(つか)ひ、一日に金二千両の商ひあれば祝(いわ)ひをするといふ。二千両の金は米五千俵の価(あたい)なり。五千俵の米は五千人の百姓が一ヶ年苦しみて納(おさ)むる所なり。五千人が一ヶ年苦しみて納むべきものを、畳の上に居(い)て楽々と一日に取る事なり。また地面より取上ぐる所が二万両に及ぶといふ。これ五万石の大名の所務(しょむ)なり」     
 
(江戸駿河町の三井八郎右衛門は日本一の商人といわれる。三井の先祖は寛永年間の頃、伊勢松坂から江戸に奉公に出て、少々の元出金をつくると故郷へ帰り、一人を仲間に引き入れて、馬一頭に積める分量の木綿を交代で江戸に運び出しては商売をしていたという。それが次第に大規模になって今では日本一の大富豪である。大きな店舗が3か所あり、1,000人あまりの手代をつかい、1日に金2,000両の売上げがあれば祝いをするという。金2,000両というのは、米5,000俵の値段に相当する。米5,000俵というのは、5,000人の百姓が1年間苦労して年貢に納入するものである。5,000人が1年間苦労して納入するものを、畳の上にいて1日で楽々と取ってしまうのである。また地代だけでも20,000両に及ぶという。これは50,000石の大名の所帯に相当するものだ)

 (武陽隠士(ぶよういんし)『世事見聞録』1994年、岩波文庫、P.252)