●経済の発展● |
●初期豪商と元禄豪商● |
◆三井のサービス戦略 越後屋呉服店では、営業中ににわか雨が降り出すと、土間に大量の唐傘(からかさ)を積み上げました。そして、名前・住所も聞かずに、客や通行人に無料で唐傘を貸し出したのです。現在なら、安価なビニル傘をコンビニなどで気軽に買うことができますが、当時の唐傘は高価でした。一般庶民に、なかなか手が出るようなものではなかったのです。それを越後屋は、江戸市民を信頼して貸し出したのです。 傘を開くと「越後屋」の文字と「番号」が書いてあります。そこで、唐傘を番傘(ばんがさ)というようになりました。夕立が降ろうものなら、江戸中が「越後屋」と書かれた番傘で埋め尽くされました。 江戸中を越後屋にして虹(にじ)がふき という川柳は、こうした情景を詠んだものです。これは大きな宣伝効果をあげました。 客が来ればお茶を出し、昼時には弁当を出すことさえありました。また、夕方になれば、提灯をつけて家まで客を送ったといいます。こうしたサービス戦略を駆使し、越後屋呉服店では、顧客との信頼関係を築いていったのでした。 (注)2013年、三井不動産ビルマネジメントは、東京都・日本橋室町エリアの8棟の三井のオフィスにそれぞれ100本ほどの傘を設置し、オフィスワーカーのための貸傘サービス「室町めぐり傘」をはじめた、という記事がインターネットに載っていました。写真を見ると、傘はもちろん番傘ではなく、青地に「WORKERS FIRST」「三井のオフィス」の白文字が書かれた洋傘でした。「江戸時代の貸傘サービスを再現」する試みだそうです。 |
「駿河町(するがちょう)、三井八郎右衛門といふは日本一の商人といふ。これが先祖は寛永の頃、勢州松坂より江戸へ奉公に出、少しの元出金を拵(こしら)へて在所へ帰り、相手を一人語らひて、木綿を一駄づつ隔番に江戸に持ち出して商(あきな)ひをせしといふ。それがだんだん増長して日本一の大豪福となり、大店(おおだな)三ヶ所ありて千余人の手代を遣(つか)ひ、一日に金二千両の商ひあれば祝(いわ)ひをするといふ。二千両の金は米五千俵の価(あたい)なり。五千俵の米は五千人の百姓が一ヶ年苦しみて納(おさ)むる所なり。五千人が一ヶ年苦しみて納むべきものを、畳の上に居(い)て楽々と一日に取る事なり。また地面より取上ぐる所が二万両に及ぶといふ。これ五万石の大名の所務(しょむ)なり」
(江戸駿河町の三井八郎右衛門は日本一の商人といわれる。三井の先祖は寛永年間の頃、伊勢松坂から江戸に奉公に出て、少々の元出金をつくると故郷へ帰り、一人を仲間に引き入れて、馬一頭に積める分量の木綿を交代で江戸に運び出しては商売をしていたという。それが次第に大規模になって今では日本一の大富豪である。大きな店舗が3か所あり、1,000人あまりの手代をつかい、1日に金2,000両の売上げがあれば祝いをするという。金2,000両というのは、米5,000俵の値段に相当する。米5,000俵というのは、5,000人の百姓が1年間苦労して年貢に納入するものである。5,000人が1年間苦労して納入するものを、畳の上にいて1日で楽々と取ってしまうのである。また地代だけでも20,000両に及ぶという。これは50,000石の大名の所帯に相当するものだ)
(武陽隠士(ぶよういんし)『世事見聞録』1994年、岩波文庫、P.252)