41.交通網の整備

 陸上を通って物を運ぶことは、非常に効率の悪いことである。というのは、当時は道路の道幅が非常に狭い上に、大量な物資輸送手段としての車などないわけで、せいぜい人間が背負うか、そうでなければ馬に載せるという程度であった。

 これでは著しく効率が悪いので、都市をつくる段階から、江戸時代は「人は陸を、物は水を」という交通哲学があって、それに沿って社会がつくられていた。したがって、どの城下町、都市も、水上交通に適するように港湾の設備に力を入れて開発され、また水上交通によって日本を取り巻くように交通路が開かれていた。江戸と大坂をつなぐ航路、大坂から瀬戸内海を通り、下関を回って日本海を通り、北海道の松前、江差に行く航路、江戸から北に向かって行く航路というように多様な航路を作った。

 江戸時代の水上交通は、海流と風を主たる動力として動くものであるから、これの利かないようなところでは、海上交通は著しく困難であった。特に江戸湾から出て北に行く場合には、黒潮が外房すれすれに通って、銚子の沖で太平洋に行ってしまうので、海上交通路として利用できないのが普通であった。また、同じ太平洋の側でも、熊野の先端は非常に通ることの難しい海上交通の難所として存在した。

 大坂から江戸に物を送る場合には、大坂や紀州の沿岸から、熊野灘を通り、太平洋の黒潮に乗って伊豆の下田で一休みして、再び今度は黒潮に乗らずに内側の海流を使って江戸湾に入り込む航路をとっていた。江戸時代に下田という港が、非常に辺鄙なところにあるにもかかわらず大きな意味合いを持ったのはそのためである。

(林玲子+大石慎三郎『流通列島の誕生 新書・江戸時代D』1995年、講談社現代新書、P.17〜18)


●陸上交通の整備●



@ 五街道と脇街道


 国内の主要幹線道路を五街道と総称します。すべて江戸日本橋を起点とし、道中奉行が管轄しました。

 五街道は、東海道(とうかいどう)、中山道(なかせんどう)、甲州道中(こうしゅうどうちゅう)、奥州道中(おうしゅうどうちゅう)、日光道中(にっこうどうちゅう)の五つです。東海道は海沿いにあるので「海道」の文字を使い、その他は「海道」と音が同じで誤解を生じるとの理由で「街道」の文字を使いません。ゆえに、甲州道中、奥州道中、日光道中と「道中」の文字を使います。中山道は「古来の東山道の中筋にあたる道」というので、「中仙道」ではなく「中山道」と書くことになっています。

 東海道は、江戸を出発して終点の京都にいたるまで、途中の品川〜大津に全部で53の宿駅(53宿)があります。これを東海道53次(ごじゅうさんつぎ)とよびます。次は継で、人馬継立(じんばつぎだて)の意です。同様に中山道は板橋〜草津の67宿、甲州道中は内藤新宿〜上諏訪の44宿、日光道中は千住〜鉢石の21宿、奥州道中(宇都宮までは日光道中と同じ)は白沢〜白川の10宿がありました。

 なお、大坂が「天下の台所」として発展すると、東海道の大津宿から分かれて、伏見(ふしみ)・淀(よど)・枚方(ひらかた)・守口(もりぐち)の四宿をへて大坂に至る街道が整備されました。

 主要幹線道路が、血管でいうなら大動脈・大静脈に相当するなら、その他の血管や毛細血管に相当するのが脇街道(わきかいどう。脇往還(わきおうかん))です。たとえば、水戸街道、日光御成(にっこうおなり)街道などがそれです。



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A 一里塚(いちりづか)


 街道のほぼ4kmごとに一里塚という里程標がおかれました。旅人が移動する距離の目安にするためとか、駕籠(かご)かきや駄賃稼ぎの業者らが距離を不正に申告して客から法外な料金をとれないようにするためだとか、いわれています。

 一里塚の上には塚が崩れるを防ぐために、多くの場合榎(えのき)が植栽されました。榎は文字通り、夏に葉を繁らせる木です。酷暑の中、長丁場(ながちょうば。宿場間の距離が長いこと)を歩く旅人に、一時の涼しい木陰を提供しました。松並木や杉並木・檜並木が多い街道で、ひときわ目立つように、これらとは異なる樹種の木を植えることにしたのでしょう。ただし、これには、次のような落語のような由来譚(ゆらいたん)があります。

 3代将軍の徳川家光が、一里塚に植える木を選定する際,「余(よ)の木を植えよ(街路樹の松や杉などとは違う木を植えよ)」(または「良い木を植えよ(一里塚に適した良い木を植えよ)」とも)と家臣に命令しました。しかし、命令を承った老齢の家臣が、「余の木(または「良い木」)」を「榎」と聞き間違えてしまったために、一里塚の上には榎が植樹されるようになった、というのです。


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B 宿 駅
(しゅくえき。宿場(しゅくば))


 各宿駅には問屋場(といやば)が設置されていました。馬の継立(つぎだて。宿場で新しい馬に乗り換えるリレー方式)・輸送業務など宿駅の事務を行いました。各宿駅には、人馬の設置数が決められていました。東海道では人足100人・馬100匹、中山道では50人・50匹、甲州・奥州・日光各道中では25人・25匹というようになっていました。

 幕府公用の旅客・運送業務等に、人馬を提供する負担を伝馬役(てんまやく)といいます。交通量の大幅な増大が予測される場合には、宿場の近くの村々から不足分の人馬を徴発しました。臨時に人馬を割り当てられた村々を、助郷(すけごう)といいます。

 宿駅には旅人のための休泊施設がありました。参勤交代の大名や幕府公用の役人、貴人の宿泊に使用された施設を本陣(ほんじん)、本陣の予備を脇本陣(わきほんじん)といいます。本陣とは軍営の意味ですが、室町幕府2代将軍の足利義詮(あしかがよしあきら)が上洛した際、旅宿を「本陣」と称したのが起源と言われています。

 庶民の宿泊施設は木賃宿(きちんやど)といいました。自炊のための薪代(木賃)を支払って宿泊できる安宿の意味です。巡礼・大道芸人・旅芸人らがおもに利用しました。

 同じ宿泊施設でも、食事・寝具がついた宿泊施設は旅籠屋(はたごや)といいました。旅籠(はたご)というのは、本来は馬の飼料を入れた籠(かご)のことです。宿場の馬を常備しておく機能から宿泊業がはじまったので、宿泊施設も旅籠屋とよばれるようになりました。交通量の増大にともなって旅籠屋の数が増えてくると、浪花講(なにわこう)・三都講(さんとこう)・東講(あずまこう)など、指定旅宿組合も結成されるようになりました
(注)


(注)たとえば、浪花講は江戸・大坂の商人が講元となって創設した講です。旅籠屋に「浪花講」の看板を掲げさせ、旅行者には組合員証の木札を配付しました。組合員が優良指定宿泊所に優先的に宿泊できる仕組みをつくったのです。


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C 関 所(せきしょ)


 江戸幕府・諸藩は、治安維持のために交通の要地に関所を設けました。幕府の設置した関所では、東海道の箱根・新居(あらい)・鈴鹿(すずか)、中山道の碓氷(うすい)・木曽福島(きそふくしま)、日光・奥州道中の栗橋(くりはし)、甲州道中の小仏(こぼとけ)などが重要です。

 関所では、反乱防止と江戸防衛のため、江戸への武器持ち込みと大名妻子の江戸逃亡に監視の目を光らせました。これを「入鉄砲(いりでっぽう)に出女(でおんな)といいます。

 江戸防衛という軍事的考慮から、河川には橋が架けられませんでした。架橋技術が未熟だったことも理由の一つだったでしょう。そのため、渡し場で小舟に乗って対岸に移動するか、川越人足(かわごえにんそく)に背負ってもらったり、輦台(れんだい)に乗ったり、または自分で歩いたりして川を渡りました。このように、歩いて渡らなければならない河川を、徒渉河川(としょうかせん)といいます。大井川(おおいがわ)、安倍川(あべがわ)、馬入川(ばにゅうがわ)などが有名です。

 雨が降って増水すると川留(かわどめ)になりました。旅人は川をわたることを禁止され、何日も旅籠屋で足留めされました。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われた大井川沿いの島田宿(江戸寄り)・金谷宿(京都寄り)は、こうした旅人たちで繁栄した宿場町です。


 ◆「入鉄砲に出女」は本当か?

 「入鉄砲に出女」は、江戸時代の関所の取締り目的を、端的に示す言葉です。しかし、関所によっては、「入鉄砲に出女」をほとんど取り締まらなかったところもありました。

 たとえば、加藤利之氏の『箱根関所物語』(1985年、神奈川新聞社かなしんブックス)によれば、「箱根の関所は入鉄砲の調べはしなかった」(同書P.82)というのです。また、鉄砲証文がなくても、鉄砲を通しました。その理由を、加藤氏は「東海道では西の新居関所で厳しく鉄砲改めをしたので、それから東は、譜代大名との幕府の代官しかおらず、幕府に謀反を起こす心配が、全くなかったからであろう」(同書P.84)と推測しています。

 このように、箱根関所では入鉄砲の調べはしませんでした。しかし、出女の取り締まりは、やたらうるさかったそうです。たとえば、ある一般女性は髪を解かれ、その髪先が切ってあるかないかを調べられた際、「髪切(かみきり)に紛らわしい」との理由で15日間も関所を通ることができませんでした。また、女児の赤ん坊は、産着(うぶぎ)では箱根関所を通れませんでした。「小女(0〜15、6歳の少女)」は振袖(ふりそで)を着る決まりになっていたからです。

 どちらも、人質になっている大名奥方の逃亡とはまるで関係がありません。本来の目的が見失われて、煩瑣(はんさ)な手続きばかりになってしまったのです。


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D 飛 脚(ひきゃく) 


 飛脚には、継飛脚(つぎびきゃく)・大名飛脚・町飛脚の三種類がありました。

 継飛脚は、幕府公用の書類を、各宿駅で人足をつ継ぎ替えながら2人1組で走った飛脚です。江戸・京都間を3日程度で連絡しました。

 大名飛脚は、江戸藩邸と大名の領国との連絡のために設けた大名用の飛脚です。

 町飛脚は、江戸・大坂・京都三都の商人が、幕府の許可を得て開設しました。飛脚問屋が設けられ、書状や荷物等の運送に利用されました。2日・12日・22日と月に3度、定期便を出したので「三度飛脚」とよばれました。また、東海道の往来に6日を要したので、「定六(じょうろく)」ともよばれました。江戸の町飛脚の場合、江戸府内をもっぱら営業範囲とし、状箱に鈴をつけたため「ちりんちりんの町飛脚」と呼ばれました。


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●水上交通の整備●



 近世の移動は「人は陸上、物は水上」が原則でした。物資輸送を陸上でなく、水上に頼った理由は、両者の輸送能力の差にありました。馬一頭はわずかに米2俵しか運べませんが、高瀬舟(たかせぶね。大型の川舟)なら米500俵を運ぶことができたのです。

 海上を大型船で運んだ荷物は、途中川舟に積みかえて、河川・運河等を使って都市まで運びました。ですから、物資流通の盛んな都市ほど、水上輸送用の水路網が縦横にめぐらされていたわけです。そのいい例が大坂です。大商業都市の大坂は、「八百八橋(はっぴゃくやばし)」と称されるほど橋が多い都市でした。橋が多いということは、それだけ内陸水路網が発達していたことを示しています。



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@ 海上交通


 
《 南海路(なんかいろ) 》


 大坂と江戸を結ぶ海上航路を南海路といいます。大坂に集荷された商品の多くを、大消費地の江戸へと送り出す航路です。大坂の荷積み問屋仲間を二十四組問屋(にじゅうしくみといや)、江戸の荷受け問屋仲間を十組問屋(とくみといや)といいました。そして、大坂・江戸間を結ぶ廻船(沿岸航路で物資を輸送する荷船のこと)が、菱垣廻船(ひがきかいせん)と樽廻船(たるかいせん)でした。

 17世紀前半にはじまった菱垣廻船(ひがきかいせん)は、船べりの積荷が海上に落ちないように、周囲に竹や檜の薄板でつくった菱形(ひしがた)の垣立(かきだて。垣のように立てた構造物)をめぐらしていました。菱垣廻船は大型船だったため積載量が多く、荷物の積み下ろしに時間がかかる上、船足も遅いものでした。荷積みに約10日、大坂から江戸までの輸送に10日〜20日ほどを要したといわれます。元禄年間に江戸の十組問屋と提携して、定期的に運行されました。

 17世紀後半、摂津で酒荷を中心とする廻船としておこった樽廻船(たるかいせん)は、18世紀前半には江戸十組問屋から分離した酒店組(さかだなぐみ)と提携して、南海路を定期的に就航するようになりました。樽廻船は小型で快速だったため別名を「小早(こばや)」といい、江戸・大坂間を10日もかからず航行できました。また、輸送品の中心が酒樽等だったため荷積みが2〜3日と早くすみ、費用も安価でした。樽廻船が酒樽以外の商品も船積みするようになると、菱垣廻船との間でしばしば紛争がおこるようになりました。そのため1770(明和7)年、両者間で積荷協定が結ばれましたが、樽廻船の優位はゆらぎませんでした。その後、菱垣廻船は次第に衰退していきました。


《 東廻り航路・西廻り航路の整備 》


 東北・北陸地方の諸藩は、領内から集めた蔵米を、二大消費地の江戸・大坂へ直送する航路の整備を望んでいました。

 たとえば、東北諸藩が江戸に蔵米を運ぶ場合、船は太平洋側を千島海流にのって南下しました。しかしその際、常陸沖で鹿島灘(かしまなだ)という難所を通過しなければなりませんでした。この海域は寒流(千島海流)と暖流(日本海流)がぶつかって霧が発生しやく、また北上する海流に船の行く手が阻(はば)まれてしまい、海難事故が多いところでした。そのため海上の大型船は、いったん常陸(ひたち)の那珂湊(なかみなと)か下総(しもふさ。しもうさ)の銚子(ちょうし)に入港しました。ここで荷物を川舟に積みかえ、涸沼川(ひぬまがわ)や霞ヶ浦(かすみがうら)・利根川等の水運を利用して江戸に向かったのです。水路のない区間では、荷物を馬に積みかえて陸上駄送(だそう)しなければなりませんでした。これらは労力・時間・費用等の面で大きな損失でした。

 この問題を解消したのが河村瑞賢(かわむらずいけん。 1618〜1699)でした。瑞賢は、太平洋側をまわって東北地方と江戸を結ぶ東廻り航路(東廻り海運)、日本海側をまわって東北地方と大坂を結ぶ西廻り航路(西廻り海運)を整備しました。瑞賢の東廻り航路では、銚子から房総半島を迂回(うかい)していったん伊豆下田か相模(さがみ)の三崎(みさき)まで南下し、そこから北上して江戸湾に入るという方法をとりました。これにより、海上から直接江戸に向かうことが可能になったのです。


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A 河川の整備


  江戸前期に角倉了以(すみのくらりょうい)によって富士川(ふじがわ)・保津川(ほづがわ)・天竜川(てんりゅうがわ)・高瀬川(たかせがわ)が、また河村瑞賢によって安治川(あじがわ。淀川河口)が整備されました。

 このうち京都の高瀬川は、淀川を経て京都・大坂間を結ぶ長さ10kmほどの運河です。平底で喫水(きっすい)が浅い高瀬舟(たかせぶね)とよばれる川舟が航行したので、この名があります。「高瀬」は「浅瀬」の意です。


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