陸上を通って物を運ぶことは、非常に効率の悪いことである。というのは、当時は道路の道幅が非常に狭い上に、大量な物資輸送手段としての車などないわけで、せいぜい人間が背負うか、そうでなければ馬に載せるという程度であった。
これでは著しく効率が悪いので、都市をつくる段階から、江戸時代は「人は陸を、物は水を」という交通哲学があって、それに沿って社会がつくられていた。したがって、どの城下町、都市も、水上交通に適するように港湾の設備に力を入れて開発され、また水上交通によって日本を取り巻くように交通路が開かれていた。江戸と大坂をつなぐ航路、大坂から瀬戸内海を通り、下関を回って日本海を通り、北海道の松前、江差に行く航路、江戸から北に向かって行く航路というように多様な航路を作った。
江戸時代の水上交通は、海流と風を主たる動力として動くものであるから、これの利かないようなところでは、海上交通は著しく困難であった。特に江戸湾から出て北に行く場合には、黒潮が外房すれすれに通って、銚子の沖で太平洋に行ってしまうので、海上交通路として利用できないのが普通であった。また、同じ太平洋の側でも、熊野の先端は非常に通ることの難しい海上交通の難所として存在した。
大坂から江戸に物を送る場合には、大坂や紀州の沿岸から、熊野灘を通り、太平洋の黒潮に乗って伊豆の下田で一休みして、再び今度は黒潮に乗らずに内側の海流を使って江戸湾に入り込む航路をとっていた。江戸時代に下田という港が、非常に辺鄙なところにあるにもかかわらず大きな意味合いを持ったのはそのためである。
(林玲子+大石慎三郎『流通列島の誕生 新書・江戸時代D』1995年、講談社現代新書、P.17〜18)
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◆「入鉄砲に出女」は本当か? 「入鉄砲に出女」は、江戸時代の関所の取締り目的を、端的に示す言葉です。しかし、関所によっては、「入鉄砲に出女」をほとんど取り締まらなかったところもありました。 たとえば、加藤利之氏の『箱根関所物語』(1985年、神奈川新聞社かなしんブックス)によれば、「箱根の関所は入鉄砲の調べはしなかった」(同書P.82)というのです。また、鉄砲証文がなくても、鉄砲を通しました。その理由を、加藤氏は「東海道では西の新居関所で厳しく鉄砲改めをしたので、それから東は、譜代大名との幕府の代官しかおらず、幕府に謀反を起こす心配が、全くなかったからであろう」(同書P.84)と推測しています。 このように、箱根関所では入鉄砲の調べはしませんでした。しかし、出女の取り締まりは、やたらうるさかったそうです。たとえば、ある一般女性は髪を解かれ、その髪先が切ってあるかないかを調べられた際、「髪切(かみきり)に紛らわしい」との理由で15日間も関所を通ることができませんでした。また、女児の赤ん坊は、産着(うぶぎ)では箱根関所を通れませんでした。「小女(0〜15、6歳の少女)」は振袖(ふりそで)を着る決まりになっていたからです。 どちらも、人質になっている大名奥方の逃亡とはまるで関係がありません。本来の目的が見失われて、煩瑣(はんさ)な手続きばかりになってしまったのです。 |
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