それまでは、経済効率を無視して、ただ生活の必要から自家消費用としてつくられていた作物も、それにもっとも適した土地に集中的につくられるようになる。このようにしてその土地にもっとも適合した作物を集中的につくり、それを全国に売りだすという特産物農業がはじまる。こうした新しい産業は4代将軍家綱の治政、慶安・寛文ころにはじまり、5代将軍綱吉が将軍になったころ一般化し、元禄・享保頃に定着する。現在、俗に名物・名産といわれるもののなかには、この時期に端を発するものが少なくない。

 このころ展開した特産物農業のなかで、もっとも規模の大きかったのは、国民衣料としての木綿、燈火用の菜種・蝋、国民的嗜好品としての煙草などの栽培であった。長いあいだわが国庶民の衣料としては麻が用いられてきた。 ( 中略 ) 商業としての農業がすすむにしたがい綿作に適した近畿・中国筋は綿の特産地として栄え、またたくまに麻を庶民衣料の座から追いはらってしまった。

 また長いあいだ、庶民は日没とともに夕食を終えて寝るという、夜の時間のない生活をつづけてきたが、商業としての農業がすすみ、生活に余裕ができるようになると、しだいに燈火を生活に取りいれて、夜を生活の時間に加えるようになった。これに決定的な役割を果たしたのが、菜種・生蝋などの燈火原料が特産物として各地で大量に栽培されるようになったことである。今日嗜好品の王座を占めている煙草も、木綿と同様戦国時代に広がりはじめたものである。

(大石慎三郎『元禄時代』1970年、岩波新書、P.49~50)

40.諸産業の発達


●農業の発達●



① 新田開発


 検地帳にもともと記載された「本田(ほんでん)」に対し、新たに開かれた土地を「新田(しんでん)」といいました。近世前期は「大開発時代」とよんでもよいほど、新田開発による爆発的な耕地面積の拡大があった時期でした。
 
 慶長年間(1596~1615)の耕地面積は、163万5,000町歩ありました。それが、享保年間(1716~1736)には297万町歩に増加しています。ほぼ100年間で約1.8倍に拡大したことになります。

 こうした新田開発により、文禄年間(1592)には1,846万石だった全国石高は、ほぼ100年後の元禄年間(1688~1704)には2,577万石に増大しました。生産量は約1.4倍に達したのです。

 一方、享保年間の時期までに、未開拓地はほぼ開発され尽くされてしまいました。そのため、享保以降の耕地面積はほぼ横ばい状態になりました。明治7(1874)年の耕地面積が305万町歩でしたから、享保以降100年以上たっているのに、耕地面積はわずか8万町歩しか増えていません。


《 新田開発を可能とした要因 》


 新田開発を可能にした要因には、城塁構築・鉱山開発等が相次いだことによる土木工事技術の発達、貢租収入を増加させるための為政者による勧農政策、生活を少しでも楽にしようと剰余獲得ために努力した農民の勤勉などがありました。

 なお、この時期は気候の寒冷期に当たり、寒冷化した分海水面が下がったので、干拓が容易になったという指摘もあります。


《 新田開発の種類と開発対象地 》


 大規模な新田開発は、開発者が幕府などの許可を得、工事を行いました。工事完了後は、工事資金を回収するために、一定期間、貢租が免除されました。これを「鍬下年季(くわしたねんき)」といいます。

 開発責任者が誰であるかによって、代官見立新田(だいかんみたてしんでん。幕領の代官が適地を見立てて開発を主導)、藩営新田、村請新田(むらうけしんでん。一村~数村が新田開発を申請して開発)、町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん。資金力のある商人が開発を請け負った新田)などに分類されます。

 このうち、町人請負新田が重要です。新田開発が商人の利潤追求の対象にされたのです。関西の鴻池新田(こうのいけしんでん。1704~1708。河内)は、その名前が示すとおり、豪商の鴻池家が開発した町人請負新田です。

 新田開発の対象地は、原野・水深の浅い湖沼・遠浅の海岸・旧河道(河川の付け替え工事や川の蛇行によって、取り残された河川跡)などでした。関東地方では5,120町歩にも及ぶ広大な椿海(つばきのうみ。1669~1673。下総)の干拓による新田開発、北陸地方では紫雲寺潟(しうんじがた。1725~1734。越後)の新田開発が有名です。



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② 農具の改良


 江戸時代前期には、著しい農業生産性の向上が見られました。その要因に、農具の改良、商品作物の発達、さまざまな肥料の利用、害虫駆除法や農業技術の普及などがありました。

 まずは農具の改良ですが、代表的なものに備中鍬(びっちゅうぐわ)、千歯扱(せんばこき)、唐箕(とうみ)、千石簁(せんごくどおし)、竜骨車(りゅうこっしゃ)、踏車(ふみぐるま)などがあります。


《 備中鍬(びっちゅうぐわ) 》


 備中鍬は、鉄製の刃先が3~4本に分かれた鍬です。これは田畑の荒起こしや深耕に適していました。中世の平鍬(ひらぐわ。平らな鉄刃を木台にはめこんだ鍬)とは異なり、堅くしまった土を細かく砕き、しかも深く耕すことができるようになって、土中に十分な空気・水・肥料などをとどめることができるようになりました。また、大根や蕪(かぶ)などの根菜類が、深く根を成長させることができるようになりました。


《 千歯扱(せんばこき) 》


 千歯扱は、長さ50cmほどの横木に、何十本もの細い歯を並べて取り付け、それに穂を引っかけて脱穀する道具です。元禄年間頃(1688~1704)に登場したといわれます。最初は竹製の歯の麦用だけでしたが、享保頃から鉄製の歯をつけた稲用も登場し、全国に普及しました。

 従来の脱穀作業は、扱箸(こきばし)という二本の木や竹の棒を紐でつないだ道具で行っていました。これを片手に持ち、その間に穂をはさんで、しごくようにして籾と穂を分離したのです。脱穀は短期間に集中して労働力が必要となる作業だったため、女性(その多くは寡婦だったといわれます)が臨時に雇われることが多かったのですが、多人数で行っても扱箸による脱穀は膨大な作業時間を費やしました。

 しかし、千歯扱では、束ねた稲穂を鉄の歯にかけてグイッと手前に引けば、大量の穀粒を落とすことができました。千歯扱の登場によって、それまでやっかいだった脱穀作業の効率は、従来の約3倍になったといいます(堀尾尚志氏による。『世界大百科事典』平凡社、「千歯扱き」の項)。その結果、扱箸による脱穀作業は廃れてしまい、秋に臨時雇用の機会が減って後家の実入りが少なくなったという冗談から、千歯扱は「後家倒(ごけだお)し」の異名をとりました。


《 唐箕(とうみ) 》


 唐箕は、その名前の通り、中国で発明された道具です。もみすりをしたあと、玄米といっしょに混じっている籾殻(もみがら)・藁(わら)くずなどを取り除く選別具です。穀粒は水分を嫌うため、鉱物のように水で洗ってゴミを洗い流すという方法がとれません。そこで、もっぱら風選という手段がとられました。上部の取り込み口から穀物を流し入れ、内部に取り付けた送風機の羽根を手動で回して風を送り、籾殻や塵芥(じんかい)・しいな(実が十分に入っていない籾のこと)などを吹きとばしました。


《 千石簁(せんごくどおし) 》


 千石簁は、穀粒の大小を利用した選別具です。簁(とおし)という漢字は「ふるい」の意です。ふるいで作った滑り台に玄米を流すと、くず米や細かなゴミなどは網目の下に落ちるという仕組みです。また、精白された白米と糠を選別するのにも使われました。


《 竜骨車(りゅうこっしゃ)・踏車(ふみぐるま) 》


 竜骨車踏車は、田畑や用水路への揚水に使われました。竜骨車は構造が複雑な分こわれやすく、作るにも修理するにも技術が必要でした。次第に、簡単な構造ながら効率のよい踏車にとって代わられました。



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③ 商品作物の発達 


 改良された農具類は、農作業の効率を格段に向上させてくれるものでしたが、農民には自作できなかったため、鍛冶屋などから購入する必要がありました。購入するためには、貨幣が必要です。貨幣を手に入れるためには、商品作物を栽培してこれを売る必要がありました。

 代表的な商品作物を「四木三草(しぼくさんそう)」といいます。

 「四木」とは桑(くわ。蚕の飼料)、楮(こうぞ。和紙の原料。紙素(かみそ)の転といわれます)、漆(うるし。蝋(ろう)や塗料として使用)、茶をいい、「三草」は麻(あさ。衣料の原料)、藍(あい。染料。藍玉(あいだま)にして出荷)、紅花(べにばな。口紅・染料などの原料。紅餅(べにもち)にして出荷)をいいます。

 このほかにも、衣料原料としての木綿、燈火用の菜種・蝋(ろう)、嗜好品としての煙草などの栽培が普及していきました。


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④ 金肥(きんぴ)の利用


 商品作物栽培には、干鰯(ほしか)・〆粕(しめかす)・油粕(あぶらかす)などの速効性の肥料が必要でした。これらは「金肥」といわれる購入肥料でした。入手するためにはやはり貨幣を必要としたため、自給自足の農村に貨幣経済が浸透していく原因の一つになりました。


《 干鰯(ほしか) 》


 
干鰯は九十九里浜(上総)、鹿島(常陸)、宇和島(伊予)など、鰯漁(いわしりょう)が盛んな土地で作られました。

 干鰯は俵に詰めて、水を入れた肥壺(こえつぼ)に数日間浸して使用しました。放置しておくと、水が褐色に濁って悪臭を放つようになります。この水を薄めて水肥(すいひ。液体肥料)としたのです。関西地方で、おもに木綿栽培で使用されました。


《 〆粕
(しめかす) 》


 〆粕は、鰯や鰊(にしん)などから油を搾(しぼ)った残り粕(鰯粕や鰊粕など)です。鰯や鰊などを大釜(おおがま)で煮て、簀(す)の中に入れて油水を搾り出します。その残り粕を天日干ししたものが〆粕です。

 搾った油水は、上にたまった油をすくい上げて、安価な灯火用油(魚油)として販売されました。燃やすと生臭い油煙がたちのぼり、照明としては粗悪でした。
 

《 油粕(あぶらかす) 》


 油粕は、菜種・綿実(綿花の種子)・荏胡麻(えごま)などの植物から油を絞った残り粕のことです。油を絞って残った油粕は、30cmほどの丸い塊の状態で売られていました。これを火であぶって砕けやすくし、唐臼(からうす。足で踏んでつく臼)でついて粉にしました。粉をそのまま土に混ぜたり、数日間水に浸しておいてから水肥として使用しました。現在でも家庭用園芸肥料として普及しています。

 なお、菜種を搾ると透明な油(灯火用)がとれます。透明なので、江戸時代は「水油(みずあぶら)」とよばれました。ナノハナを「油菜(あぶらな)」ともいうのは、その栽培目的が油を搾ることにあったからです。


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⑤ 害虫の駆除 - 鯨油(げいゆ)をまいて水田を守った -


 古くは虫害は悪霊の祟(たた)りと考えられ、「虫送り」が行われました。田植えのころに松明(たいまつ)を燃やし、鉦(かね)・太鼓(たいこ)をたたき、法螺貝(ほらがい)などを鳴らしながら田の畦(あぜ)を練り歩き、村境まで虫を送っていくという呪術的なものでした。悪霊に見立てられた藁人形はサネモリ(西日本、特に九州での呼び名)と呼ばれ、稲株に足を取られて討たれた平家の武者斎藤実盛の怨霊に擬されました。サは田植えに縁がある語で、「サの虫」が「サネモリ」に転訛(てんか)した、といわれています(『国史大辞典』第13巻、吉川弘文館、P.612)。

 しかし、害虫駆除に実際の効果があったのは、「虫送り」ではなく鯨油を用いる方法でした。

 油の走りをよくするため、鯨油と酢を混ぜて鍋(なべ)で煮ました。煮るのは、油と酢の分離を防ぐためです。これを田の水面にまくと、一面に油の被膜ができます。そこで、よくしなう竹竿で稲を押し倒し、ウンカなどの害虫を水面に払い落としました。落下した虫は、油が羽に付着して飛べなくなる上、油で呼吸器の気門(きもん)をふさがれて窒息死してしまうのです(大蔵永常『除蝗録(じょこうろく)』)。害虫を物理的に窒息死させるわけですから、現在の農薬とは異なり、使用を繰り返しても害虫の農薬に対する耐性が強くなる、ということがありません。

 鯨油は、近代になって安価な輸入石油にとって代わられます。そして、第二次世界大戦後にDDTなど強力な合成殺虫剤の導入によって、すっかり姿を消してしまいました。しかし、それまでは、鯨油・石油による注油駆除法が、わが国の稲作害虫防除に大きく貢献してきたのです(小西正泰氏による。金子浩昌他『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、P.170~171)。


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⑥ 農業技術の普及
- 宮崎安貞の『農業全書』 -


 農具や肥料・商品作物の普及に大きな役割を果たしたのが、農書とよばれる農業技術書でした。1697(元禄10)年に刊行された宮崎安貞(みやざきやすさだ。 1627~1697)の『農業全書』(10巻)は、五穀・菜類・果樹などに整理してそれらの栽培法や利害得失を論じ、より豊かな農業を農民に勧めたものです。著者の見聞と体験に基づく本格的な農業技術書として、広く普及しました。

 参考までに、『農業全書』の一節を次に載せておきます。


「惣(そう)じて農具をゑらび、それぞれの土地に随(したが)って宜(よろし)きを用(もち)ゆべし。凡(およそ)農器の刃はやきとにぶきとにより其(その)功をなす所(ところ)遅速(ちそく)(はなは)だ違ふ事なれども、おろかなる農人(のうじん)は大形(おおかた)(その)(かんがえ)なく、纔(わずか)の費(ついえ)をいとひて能(よ)き農具を用ゆることなし。さて、日々にいとなむ仕事の心よくてはか行くと骨折り苦労してもはかのゆかざると、一年を積もり一生の間をはからんには、まことに大なるちがひなるべし。」(宮崎安貞編録・土屋喬雄校訂『農業全書』1936年、岩波文庫、P.57)

(総じて農具は、それぞれの土地に適したよいものを選んで使うべきである。およそ農具の刃が鋭いか鈍いかで、作業効率の遅速はたいそう違ってくるものだが、愚かな者には大方そうした考えがなく、わずかの費用を出し惜しみしてよい農具を使うことがない。よい農具を使って毎日の仕事が気持ちよくはかどるのと、悪い農具を使い続けてひどく苦労しながらも作業があまり進まないのでは、そうした1年が積もり積もって一生分を比較すれば、まさしく雲泥の差である。)


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●水産業の発達



① 上方漁法の伝播


  漁業は、網漁(あみりょう)を中心とする漁法の改良と、沿岸部漁場の開発によって発展しました。網漁は、中世以来、上方漁民(摂津・和泉・紀伊などの出身者)によって日本各地に広がっていきました。九十九里浜(くじゅうくりはま)の鰯(いわし)漁、肥前五島の鮪(まぐろ)漁、松前の鰊(にしん)漁などが代表例です。このうち、重要なのは、九十九里浜の鰯漁です。


《 九十九里浜の地曳網漁 》


 江戸時代、地曳網(じびきあみ)を持って、東国に向かった上方漁民たちがいました。目的は鰯の捕獲です。上方では、木綿などの商品作物栽培に、金肥である干鰯(ほしか)の需要が高まっていました。

 鰯は腐りやすい魚です。鰯を魚へんに弱と書くのも、この魚を「いわし」というのも、腐りやすい「よわし」に由来するからといわれます。魚の保存が難しかった時代のことですから、産地でそのまま加工して干鰯にされました。

 房総半島の九十九里浜には、豊富な漁場とともに広い砂浜があり、地曳網でとった鰯をそのまま天日干しできました。しかもこの地域では製塩業が中心で、地元民の漁業占有権が未確立だったため、上方漁民の進出を許したのです。

 こうして九十九里浜は、またたく間に干鰯の一大生産地になりました。上方漁民たちは現地で加工した大量の干鰯(ほしか)を俵につめて、上方へと持ち帰りました。


 ◆地曳網漁でにぎわう銚子

 地曳網漁では多くの人手が必要です。鰯が大量に入った重たい地曳網を、人力で陸上に引きあげなければならなかったからです。そこで、糊口(ここう)をしのぐ場として、あぶれ者から親から勘当(かんどう。親子の縁を切ること)された放蕩(ほうとう)息子まで、多くの人びとがひとまず目指す場所が銚子でした。たとえば、次のような川柳があります。


  銚子言葉で「御(ご)すいりょうなされまし」


 勘当された放蕩息子が銚子で過ごしている間に父親が重病となり、「勘当を許す」という手紙を受け取りました。懐かしい江戸の生家に飛ぶように戻った息子が、危篤状態の父親の枕元で口にした言葉が、上の「御すいりょうなされまし(これからは真面目に行動しますから、私の決心を思いやって信用して下さい)」です。

 前非を悔いた詫び言(わびごと)を銚子訛(なま)りで告げるところに、苦労を経験した息子の実直さが表れています。荒くれ者たちにまじって地曳網を引くという過酷な生活に身を置くことによって、放蕩息子の腐った性根はすっかりたたき直されました。そしてそのころには、言葉もすっかり銚子訛りになっていたというのです。

【参考】
・渡辺信一郎『江戸のおしゃべり』2000年、平凡社新書、P.67~70 


《 上方漁民の定住 》



 やがて、地元民が製塩業から鰯漁へ転換し、また廻船業が発達すると、上方漁民による出稼ぎ漁業は衰退していきました。地元民が生産した干鰯を、江戸や浦賀の干鰯問屋に送り、そこから廻船業者に委託して上方に送るようになったからです。

 上方の出稼ぎ漁民は、現地に定着するか、故郷に帰るかの選択を迫られました。紀伊半島と伊豆半島・房総半島に共通の地名(勝浦・白浜・網代など)が見られるのは、このころ東国に定着した上方漁民の歴史を物語っているのです。


《 銚子の発展 》


 江戸時代の銚子は、漁港であるばかりでなく商業都市・交通都市として発展していきました。

 東北地方で生産・集荷された米は大型船に積み込まれ、たとえば太平洋側から千島海流にのって南下し、大消費地である江戸へと向かいました。しかし、房総半島を迂回して直接江戸にはいろうとしても、北上する黒潮に阻まれてしまい、なかなか江戸にたどり着けません。

 そこで、銚子から利根川に入って佐原(さわら。千葉県)までさかのぼり、ここでいったん積み荷を下ろして川船に積みかえ、さらに利根川をさかのぼって途中から江戸川にはいり、そのまま川を下って江戸に入るというコースをとっていたのです。銚子は海上交通と河川交通の中継地点として、また東廻り航路が整備されるとその寄港地として、水上交通上の重要な地位を占めていたのでした。

 上方からの移住者に、浜口儀兵衛(はまぐちぎへえ)家があります。浜口家は紀州広村(ひろむら。現広川町。醤油発祥の地湯浅(ゆあさ)の隣村)からの移住者で、醤油醸造の技術を関東に伝えて1645(正保2)年、現在のヤマサ醤油を創業しました。当主は11代目まで「浜口儀兵衛」を襲名していました。

 銚子が醤油業の一大生産地に成長したのは、銚子の湿気の多い穏やかな気候が麹菌(こうじきん)の繁殖に最適だったこと、大豆(霞ケ浦周辺)・小麦(筑波)などの原料生産地に近かったこと、原料・商品の輸送に水上交通の便がよかったこと、小麦を多用した香り高い「濃い口醤油」が「江戸前」などの魚介調理と相性がよく需要が高かったこと、などがあげられます。

【参考】・「ヤマサの歴史」(http://www.yamasa.com/enjoy/history/)


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② 特色ある各地の漁業



 このほか、釣り漁としては土佐の鰹(かつお)や瀬戸内海の鯛(たい)、紀伊熊野・土佐室戸・肥前平戸などでは、銛(もり)と網を駆使する鯨(くじら)漁が行われました。

 鯨漁は、捕獲できれば「鯨一頭で七浦栄える」といわれるほどの経済効果をもたらしました。身・骨・皮等まで捨てる部位がないほど徹底的に利用されましたが、一番の目的は鯨油の採取にありました。鯨油は、水田における害虫駆除に使用されました。

 また、蝦夷地では鰊(にしん)漁や、昆布・「俵物(たわらもの)」の生産が行われました。俵物は干しアワビ、いりこ(海鼠(なまこ)を煮て干したもの)、ふかのひれを俵につめたものです。いずれも高級中国料理の材料です。俵物は、長崎貿易で銅に代わる清国への主要な輸出品となり、蝦夷地以外でも生産されました。


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③ 製塩業の発達


 高度な土木技術と多額の資金を要する入浜塩田(いりはまえんでん)が、瀬戸内海沿岸部を中心に造られるようになりました。

 入浜塩田は遠浅の海を堤防で仕切り、1カ所に樋門(ひもん)を設け、地場(じば)の一部に溝(みぞ)を掘った塩田です。潮が満ちると樋門から導かれた海水が溝に入ってきます。溝に入った海水は毛細管現象で地場全体に広がり、地場表面にまいてある砂のところまで昇ってきます。太陽熱と風力にさらされて水分が蒸発すると、砂の表面には塩の結晶が付着します。この砂をかき集めて海水をかけて濃い塩水をとり、大釜で煮詰めて塩をつくるのです。

 主要な塩生産地が瀬戸内海沿岸部に集中しているのは、1年間を通じて雨が少なく晴天が多い気候(瀬戸内式気候)だからです。18世紀初めに、播磨(はりま)・備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)・安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)・阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ)の10カ国の、いわゆる「十州塩田(じっしゅうえんでん)」で生産された塩は、約450万石にものぼりました。これは、全国生産量の9割に相当します。

 こうして入浜塩田によって塩が量産され、全国に流通するようになるにつれ、揚浜塩田(あげはまえんでん)による小規模塩業は衰退していきました。


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●林業の発達●



① 採取する林業から育成する林業へ



 林業は、都市を中心とする木材需要の増大によって、急速に発達しました。近世の初期には城下町が各地に建設され、また火災や水害等の災害復旧工事のために大量の材木が必要になったからです。

 江戸初期の豪商河村瑞賢(かわむらずいけん。 1618~1699)が巨万の富を築いたきっかけは、明暦の大火(1657)後の江戸の復興需要を見込んで木曽の材木を買い占めたことにある、と伝えられています。河村瑞賢ばかりでなく、この時期に巨富を築いた商人には、紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)や奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん)など、材木商が多く見られます。

 当初の林業は、森林を育成せずに山野から必要な木材を伐採するだけの、採取林業でした。しかし、材木需要の急激な増大によって、採取林業はすぐに限界に達してしまいます。あちこちに「はげ山」が出現するようになりました。熊沢蕃山は「天下の山林、十に八尽(つ)き候(そうろう)」(『宇佐問答』)と嘆きました。国内山林の8割までがはげ山だ、というのです。

 こうした濫伐に、幕府はストップをかけました。1666(寛文6)年に「諸国山川掟(しょこくさんせんおきて)を出して、これ以後、林野保全に力を注ぐようになったのです
(注)

 諸藩も山野に植林し、有用材を産出する重要森林を直轄化しました。藩では直轄森林を「御林(おはやし)」「御立山(おたてやま)」などと称して管理を徹底しますが、とりわけ尾張藩の森林監視は厳しく、「木一本、首一つ」といわれました。「木曽五木(きそごぼく。木曽で伐採が禁止された5種類の樹木。ヒノキ・ヒバ・サワラ・ネズコ・コウヤマキ)」を一本でも伐ると、盗伐者の首が飛ぶ、という意味です。

 これら人工林から伐り出された材木は、尾張藩の「木曽檜(きそひのき)、秋田藩の「秋田杉(あきたすぎ)として商品化されていきました。


(注)大石慎三郎氏は「諸国山川掟」の発令目的を「幕府による全国的な開発行為に対する抑制策」と見なしています。しかし大石氏の意見に対しては、塚本学氏による有力な反論があります。この法令は「畿内周辺所領に触れ出された限定的なもので、その第一の目的は淀川などの治水対策にあった」というのです。(太田尚宏「『諸国山川掟』の評価をめぐってhttp://www.tokugawa.or.jp/institute/018.0001-rinseishi-part01.htm、2017年2月16日閲覧)


② 薪炭材の需要



 都市では、古くから燃料用として薪炭材に大きな需要がありました。そこで、都市近郊の山野では燃料用としての薪・炭が大量に生産されました。


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●鉱工業の発達●



① 鉱 業



 近世初期には金銀が増産されましたが、17世紀後半には産出量が減少しました。17世紀後半からは、代わって銅が増産されるようになりました。銅は、銀に代わる長崎貿易の支払い用にあてられたり、銭貨製造の材料となったりしました。おもな金山には佐渡・伊豆、銀山には石見・生野(但馬)・院内(いんない。出羽)、銅山には足尾(あしお。下野。幕領)・別子(べっし。伊予。住友家)・尾去沢(おさりざわ。陸奥。南部藩)などがありました。

 このほか、中国・東北地方を中心に、砂鉄を原料とした「たたら精錬(足踏み式の送風装置のある炉での精錬)」が行われました。砂鉄を溶かした良質の鋼は「玉鋼(たまはがね)と呼ばれ、刀剣ばかりでなく農具や工具に加工され、全国に普及しました。

 鉄鉱石による製鉄は、江戸時代後期になって釜石(かまいし)で初めて行われました。木炭を使用した高炉(こうろ)による製鉄です。

 石炭は九州の筑豊地方で採掘され、石油は越後で産出されました。石油の産出地には「くそうず」という地名が多く、「草水」とか「草生水」などと表記されます。石油独特の臭気から「臭水(くさみず)」と呼んだことに由来します。


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② 手工業



 手工業は都市に住む職人によって行われました。しかし、人口増加による手工業品への需要の高まり、農業生産性の高まりにともなう農村労働力のゆとり、貨幣経済の進展などが手工業の発展を促しました。

 農村では、農閑期や雨天時・夜などに、家内労働によって手工業製品が作られました。それらはもともと自給自足のための生活用品が中心でしたが、農業の副業として行われるようにもなりました。こうした農村で行われる手工業を、農村家内工業といいます。農村家内工業の展開は、全国各地に名産品を生み出す原動力になりました。

 農村家内工業は、そのうち問屋制家内工業(といやせいかないこうぎょう)へとかわりました。問屋制家内工業とは、問屋が原料・道具を生産者の農民に提供し、生産者の各戸をまわって製品を回収するというシステムです。

 しかし、酒や醤油を製造する醸造業などでは、一カ所の作業場に大勢の労働者が集まって、作業を分担して製品を製造しなければなりません。労働者が工場に集まり、分業と協業による手工業製品を生産する方式を、工場制手工業(こうじょうせいしゅこうぎょう)といいます。

 工場制手工業は、英語ではマニュファクチュア(manufacture)といいます。英和辞典を引くと、原義は「手で(manu)作ること(facture)」とあります(『ジーニアス英和辞典』)。マニュはマニュアル(manual。手動の。手引き書。)のマニュと同じで「手」のことです。ファクチュアは「作る」の名詞形で「作ること」を意味します。「物が作られる場所」がファクトリー(factory。工場)です。

 マニュファクチュアは「資本家が工場を建て、賃金労働者を雇って、分業と協業によって手工業製品を大量生産する生産様式」と定義されます。そして、この仕組みは「近代の資本主義生産様式の初期段階で登場する」とされています。換言すれば、マニュファクチュアの登場は、経済構造の面でそろそろ近代がはじまりつつある、という指標であるわけです。

 産業革命によって、この「手」の部分が「機械」にかわれば、現在の工場制機械工業になります。


《 醸造業 》


 酒造業は伏見(ふしみ)・伊丹 (いたみ)・灘(なだ)など上方中心でした。

 とりわけ、灘地方(兵庫県)で酒造業が盛んになったのには理由があります。第一に「宮水(みやみず)」と呼ばれる酒造向きの水が大量に得られたこと、第二に良質の酒米生産地だったこと、第三に六甲山の急流を利用した精米技術が発達していたこと、第四に冬に吹く寒風(六甲おろし)が雑菌の繁殖をおさえたこと(酒は「寒造り」といって、極寒の時期につくられます)、第五に丹波杜氏(たんばとうじ)・丹後杜氏(たんごとうじ)など優秀な酒造職人の出身地だったこと、第六に瀬戸内海沿岸に良港を有し江戸への大量輸送が可能だったこと、などがあります。

 当初は濁り酒でしたが、元禄以降、清酒(澄んだ酒)が普及しました。清酒に関しては、次のような伝承があります。鴻池を辞めさせられることになった従業員が、その腹いせに店の酒樽の中に木灰をぶちまけて逃げ去りました。ところが、木灰を加えることによって濁り酒が沈殿し、清酒ができたというのです。今日でいう活性炭濾過法により、飛躍的に清酒が一般化したといわれます。

 上方では新酒ができると急いで廻船に積み込み、すぐさま江戸に向かわせました。急いだ理由は、江戸の人びとが新酒を心待ちにしていただけでなく、防腐剤を使用しない時代だったので、長らく放置しておくと酢になってしまい風味をそこねてしまうからです。

 なお、大坂から江戸に向かう廻船の中でゆられた酒は、杉樽の杉の香が移るばかりでなく、味もまろやかになり、同じ銘柄でも上方で飲むより江戸で飲む方がうまい、といわれました。そこで、上方の酒飲みたちは、静岡沖の富士山が見えるあたりで廻船をUターンさせ、大坂に戻してしまいました。そして、味わい深くなった新酒を「富士見酒(ふじみざけ)」といって賞味したというのです。

 醤油業も竜野(たつの)など上方が中心でした。酒も醤油も上方から地方に輸送される「下り物(くだりもの)は高級品として扱われました。


 ◆「下らない」の語源

 天皇が居住する都への尊称として、「上方(かみがた)」という言葉が使われました。「上の方角」という意味です。

 上方の範囲は一定していません。三河以西全域を指したり、畿内5カ国に近江・丹波・播磨を加えた8カ国を指したりしていました。しかし、一般的には京・大坂方面を指して「上方」とよんでいました。

 したがって、地方から上方に向かうのを「上(のぼ)り」、上方から地方に向かうのを「下(くだ)り」といいました。京都に向かうのを「上京」といったり、上方の人たちが地方から訪れた人を「お上りさん(田舎者)」といって揶揄(やゆ)したりするのは、これに由来します。

 江戸前期は、京・大坂が文化的にも経済的にも、江戸よりも優位に立っていました。上方から江戸に入ってくる商品は「下(くだ)り物」と呼ばれ、高級品の代名詞でした。したがって、「下らぬ物」は粗悪品という意味になりました。ちなみに、江戸周辺の地方から江戸に入る商品は「地廻(じまわ)り物」とよばれました。


《 陶磁器 》

 
 陶磁器は、肥前佐賀藩の有田焼(伊万里焼)・鍋島焼などの磁器がつくられ、オランダ東インド会社によってヨーロッパにも輸出されました。尾張の瀬戸、美濃の多治見など、各地で陶磁器が量産されました。


 織物業 》


 織物業では、木綿が庶民衣料として普及しました。綿織物は、女性による地機(じばた。いざり機(ばた))によって生産されました。綿織物の生産地としては河内や三河が有名です。

 絹織物は高級衣料として、京都西陣の高機(たかばた)で独占的に織られました。のち、桐生(きりゅう。上野)・結城(ゆうき。下総)をはじめ、各地で生産されるようになりました。


《 和 紙 》


 和紙は楮皮(ちょひ)を原料に、流漉(ながしすき)という技法が普及しました。楮は大量生産が可能だったため、楮紙(ちょし)の生産が増加しました。越前の奉書紙(ほうしょがみ)や播磨の杉原紙(すいばらがみ)、常陸の西之内紙(にしのうちがみ)などがあります。和紙生産地の藩の多くは専売制をしき、紙の生産を奨励しました。大量生産によって紙の価格が低下すると、広く庶民まで普及するようになり、学問・教育・文化等の発達に大きく寄与しました。


 ◆西之内紙の使われ方

 水戸藩の和紙は、西野内(にしのうち。茨城県山方町)・鳥子(とりのこ。同美和村)などで生産されました(『新編常陸国誌』)。なかでも西野内産のものは、極上品質として、その名声を江戸にまでとどろかせました。西之内紙(または西之内)は楮皮(ちょひ)だけを原料とした、丈夫で紙魚(しみ)がつかない、保存に最適な紙だったのです。それゆえ、水戸藩の『大日本史』の用紙や証文類などに使用されました。


   西の内おくんなさいと泣いて来る
(『誹風柳多留』)


という川柳がありますが、娘の身売証文を書くために親が泣く泣く西之内紙を買いに来る、という意味です。

 また、火災が多かった江戸では、大福帳(商家の売買を記録した元帳)は西之内紙で作るのが習慣だったといわれています。万一火事になった時、商家では井戸の中へ大福帳を投げ入れました。鎮火した後、引き上げて乾かせば、十分判読に耐えたというのです。 


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