39.平和と秩序の時代

「 総じて武士の殉死(じゅんし)するに様々有り。義腹(ぎばら)・論腹(ろんばら)・商腹(あきないばら)あり。

 君は礼を以(もっ)てし、臣は忠を以てす。君の為(ため)に而巳(のみ)心を尽(つく)し、軍陣(ぐんじん)にては君(きみ)の危(あやう)きを救ひ、太平の時には賞禄(しょうろく)を目に掛(かけ)ず無二の奉公を致し、若(もし)主人死去有(あら)ば二世の供を致す。是(これ)義腹也(なり)。 ( 中略 )

 又同格の傍輩(ほうばい)の殉死するを見て、我もおとるまじとて切るを論腹と云(い)ふ。

 又さしたる恩も無くして死せずとも済(すむ)べきものなれども、我(わ)れ命を捨(すて)なば子孫の後栄(こうえい)にも成(な)らんとて切るを商腹と云(いう)。

 常には、君万一の事有らば一番に命を捨(すて)んと罵(ののし)りて、其期(そのご)に臨みては兎(と)や角(かく)と云(い)ひて其場(そのば)をはづす者も有り。是は論ずるにたらず。」


(武士の殉死には、義腹・論腹・商腹がある。主君は礼をもって家臣を処遇し、家臣は忠義をもって主君に仕えるものだ。主君のためだけに心を尽くし、戦時には主人の危難を救い、平時には賞禄などには目をくれずに忠義を尽くし、もし主人が死去すればあの世へのお供をするのが「義腹」。同僚が殉死するのを見て「あいつが死ぬなら俺も死のう」と理屈で腹を切るのは「論腹」。主君からは生前、これといった恩寵も被らなかったので殉死せずとも済むのに、「自分が命を捨てれば(殉死した忠義の家来ということで)子孫の後日の繁栄にもつながろう」と計算ずくで腹を切るのを「商腹」というのだ。日頃は「主君に万一のことあらば、俺が一番に命を捨てよう」などと広言しつつ、その期に及んでは何の彼のと言い訳をして、その場を外す者もいる。これは論外だ)

(真田増誉(さなだぞうよ)『明良洪範(めいりょうこうはん)』1912年、国書刊行会、P.37。漢字は現行のものに改め、適宜句読点を付した)


●文治政治へ転換する家綱政権●  



@ いきづまった武断政治


 幕藩体制の成立過程において、幕府はキリスト教禁止・武家諸法度・一国一城令などの強力な政策を次々に打ち出し、逆らう者を力でねじ伏せていきました。これを武断政治(ぶだんせいじ)といいます。そのため、些細(ささい)な過失を咎(とが)められて多くの大名が改易処分になりました。その結果、大量の失業者=牢人(ろうにん)(注)を発生させることになったのです。

 牢人の大量発生は江戸の治安を悪化させました。参勤交代で諸国の大名が集まる江戸は、一見すると就職の機会が多い、またとない好地のように思えます。しかし、実際には武士の再就職は容易でなく、中には優秀な人材が流出することを防ぐために「武士奉公構(ぶしぼうこうがまえ)」といって、他藩での再就職を拒否する申し合わせもありました。再就職がままならない牢人達の間に、幕府の武断政治に対する不満が高まっていきました。

 こうしたなか、1651(慶安4)年に3代将軍家光が48歳で亡くなり、新将軍に11歳の徳川家綱(とくがわいえつな。1641〜1680)が就任しました。

 家光の死を契機に、牢人たちの不満が噴出しました。家光が死んだ1651(慶安4)年、由井正雪(ゆいしょうせつ。1605〜1651)・丸橋忠弥(まるばしちゅうや。?〜1651)らが幕府転覆の陰謀を企てたとされる慶安事件(由井正雪の乱)が、翌1652(承応元)年には戸次(別木)庄左衛門(べつきしょうざえもん。?〜1652)らが江戸の町に放火して登城する老中たちの暗殺を企てたとする承応事件(じょうおうじけん)が、相次いで発覚したのです。

 ここにおいて、幕府は従来の政治路線の変更を迫られることになりました。



(注)牢人は牢籠人(ろうろうにん)を省略したものです。牢籠は困窮するの意です。また浪人とも書かれました。


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A 文治政治への転換 −家綱政権は、戦国時代の遺風の一掃をめざした−


 家綱が身体の弱い少年将軍だったため、叔父(3代将軍家光の異母弟)であり後見を託された保科正之(ほしなまさゆき。会津藩。1611〜1672)や大老酒井忠勝(さかいただかつ。1587〜1662)、老中松平信綱(まつだいらのぶつな。1596〜1662)・阿部忠秋(あべただあき。1602〜1675)ら有能な人材が補佐役として新将軍の脇をしっかりと固めました。

 家綱政権は、1651年、牢人を大量発生させないために、大名改易の主要原因となっていた末期養子(まつごようし。急養子)の禁を緩和しました。

 実子が生まれない大名がお家騒動が起こるのを懸念(けねん)して跡継ぎを決めかねているうち、亡くなってしまうことがあります。ところが幕府は「大名が死に際(末期)に急に跡継ぎを指名するなどとはもってのほか」と、大名の末期養子を認めませんでした。跡継ぎを日頃から指名しておかないのは、家を存続させる気がないからだ、というのがその理由でした。

 それを、当主が50歳未満の大名であれば、末期(死に際)に養子をとることを認めることにしたのです。ちなみに当時の大名が何歳で死亡したのかは、わかっています。『寛政重修諸家譜』に404名の没年齢のデータが残っているからです。それによると、平均49.1歳で亡くなっています(市川寛明編『一目でわかる江戸時代』2004年、小学館、P.35)。「50歳」という目安は、当時としては妥当だったのです。

 すでに発生した牢人問題を解決するには、大名家・旗本家への再就職が必要でした。しかし、仕官先が少なかったため、幕府は武士から百姓・商人・僧侶・寺子屋師匠などに身分をかえることを奨励しました。


《 寛文の二大美事 》−殉死の禁止と大名証人制の廃止−


 文治政治への転換を目指した家綱政権は、戦国時代の遺風の払拭(ふっしょく)に努めました。なかでも、家綱政権がおこなった殉死の禁止(1663年)と大名証人制の廃止(1665年)は、そうした文治政治への転換を示す象徴的な政策として「寛文の二大美事」と称されました。

 大名が亡くなると、主人から恩顧を被った家臣たちが殉死しました。たとえば島津義久(薩摩。1533〜1611)・伊達政宗(仙台。1567〜1636)が死去した際にはそれぞれ15名、細川忠利(ほそかわただとし。熊本。1586〜1641)の時は19名、鍋島勝茂(なべしまかつしげ。佐賀。1580〜1657)の時は26名の家臣が殉死しました。殉死を美風として称揚し、大名間では殉死者の数の多さを競い合うような風潮さえありました。

 幕府は、殉死を無益のこととして武家諸法度で禁止し、大名の家臣たちには旧主人同様、後継者への奉公を義務づけました。それでも殉死者が出れば、厳罰で臨みました。主君「個人」に対する忠義から、主君の「家」に対する忠義へと、家臣たちに価値転換を求めたのです。このため、家臣の家は代々主人の家に奉公し続けることになり、実力のある家臣がその主人にとって代わるという戦国時代の遺風(下剋上)が否定されて、大名・家臣間の主従関係が大名優位に安定しました。
 
 また、1665(寛文5)年に家康の50年法会がおこなわれたの契機として、幕府は大名証人制を廃止しました。証人制というのは、大名が重臣の子弟らを人質として幕府に差し出すことです。参勤交代制の一環として、大名妻子も江戸居住を強制されていますが、大名証人制とは別のものです。なお、大名妻子の帰国が許されるのは、幕末の文久改革の時です。


《 領知宛行状(りょうちあてがいじょう)の発給 》 −将軍優位がより制度的に確立−


 将軍と大名の主従関係を確認し、大名の領知支配権を安堵する文書を領知宛行状(りょうちあてがいじょう)といいます。従来領知宛行状は、個々の大名と主従関係を確認しながら、まちまちに将軍から大名に交付されていました。それを1664(寛文4)年4月5日付けで、家綱は219家の諸大名に一斉に発給したのです。これを「寛文印知(かんぶんいんち)」といいます。このことは、将軍権力のより体制的な確立と見ることができ、将軍と大名の関係が将軍優位に安定したことを意味します。

 領知宛行状の例をあげておきます。小浜藩主酒井氏が受領した領知宛行状は、朱印の代わりに、将軍家綱の花押(かおう)が書き入れられています。これを判物(はんもつ)といいます。10万石以上の大名には判物(はんもつ)が、10万石未満の大名には朱印状が交付されました。


  「若狭国
(わかさのくに)一圓(いちえん)八万五千四百六拾石餘(よ)
   越前国
(えちぜんのくに)敦賀郡(つるがぐん)弐万千九拾六石餘、
   近江国
(おうみのくに)高嶋郡之内(たかしまぐんのうち)七千壱石餘、
   下野国
(しもつけのくに)阿蘇郡(あそぐん)之内五千四百八拾弐石餘、
   安房国
(あわのくに)平群郡(へぐりぐん)之内四千五百拾七石餘、
   都合
(つごう。合計)拾弐万三千五百五拾八石餘
    (割注)「目録在別紙(もくろく、べっしあり。別に村名を記した領知目録が添えられていた)」事、

   如前之宛行之訖
(まえのごとくこれをあてがいおわんぬ)
   全可令領知者也
(すべてりょうちせしむべきものなり)、
   仍如件
(よってくだんのごとし。よって以上の通りである)

   寛文四年四月五日 (花押)
     酒井修理大夫
(さかいしゅりたいゆ。小浜藩主酒井忠直)とのへ


(参考)・「徳川家綱領知判物写」1664(寛文4)年、酒井家文庫、小浜市立図書館蔵
       (http://www.archives.pref/fukui.jp/fukui/08/030201exhb4.html。2017年2月27日閲覧)



《 好学の大名たち 》



 藩政が安定すると、諸藩には好学の大名たちがあらわれました。彼らは儒学者を顧問に招き、藩政の刷新をはかりました。

 会津藩の保科正之(ほしなまさゆき。1611〜1672)は、朱子学者の山崎闇斎(やまざきあんさい。1618〜1682)を招き、闇斎から朱子学や垂加神道(すいかしんとう)を学びました。殉死禁止などの家法を制定したり、漆(うるし)・蝋(ろう)の生産を奨励したり、飢饉対策のために社倉(しゃそう)を設立したりしました。

 岡山藩の池田光政(いけだみつまさ。1609〜1682)は、陽明学者の熊沢蕃山(くまざわばんざん。1619〜1691)を招きました。郷学の閑谷学校(しずたにがっこう)を設立したり、治水事業や新田開発を行ったりしました。

 水戸藩の徳川光圀(とくがわみつくに。1628〜1700)は、明の儒者朱舜水(しゅしゅんすい。1600〜1682)を賓師(ひんし。自分の師として待遇すること)に迎えました。そして、江戸小石川の水戸藩邸内に史局(のちの彰考館)をおき、『大日本史』の編纂を開始しました。また、和紙(西之内紙)を専売制にしました。

 加賀藩の前田綱紀(まえだつなのり。1643〜1724)は、朱子学者の木下順庵(きのしたじゅんあん。1621〜1698)を招きました。隠田(おんでん。検地帳に記載されない田地)の摘発・定免法(じょうめんほう。税率を一定に固定すること)の採用等の農政改革(改作法)を実施したり、古典の収集・保存・編纂事業を行いました。


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●綱吉政権の諸政策●



@ 忠孝・礼儀の重視


  5代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし。1646〜1709)は、内外とも安定期にはいり平和な時代を迎えたことを背景に、文治政治の徹底をはかりました。そこで、代がわりの武家諸法度(天和令(てんなれい)。1683)の第一条で、「文武弓馬の道」の文言を削り、「忠孝」「礼儀」を重視するよう宣言したのです。この支配思想は儒教に裏づけられていました。

 綱吉が湯島聖堂を建てて林鳳岡(はやしほうこう。1644〜1732)を大学頭(だいがくのかみ)に任じたのも、儒学重視の姿勢を示したものです。

 綱吉自身、病中で床に伏せっていても書物を手放さないというほどの勉強家でした。江戸城内で、家臣たち相手に自ら儒学を講じることを楽しみにしました。一方諸藩でも、優秀な儒学者を召し抱える好学の大名たちが、続々とこの頃に登場しました。

 もはや、戦場において命がけで武功をたて、出世をはかる時代ではありませんでした。平和と秩序を維持するために、学問や行政能力等が重視される時代になっていたのです。


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A かぶき者の取締り


 しかしまだ、戦国時代以来の価値観の枠組みにとらわれ、平和な社会秩序に対応できない人々も多く見られました。彼らは辻斬(つじぎ)りなどの違法行為をしたり、大ひげを生やして示威行動をしたり、野犬を殺して食べる「犬食い」などの野蛮な行動をしたりするなど、刹那(せつなてき)なうさばらしを繰り返して、町人たちから恐れられていました。綱吉は、彼ら社会秩序を乱す旗本奴(はたもとやっこ。無頼の旗本)・町奴(まちやっこ。無頼の町人)らの「かぶき者」を、厳しい態度で取り締まりました。


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B 文治政治の推進


 綱吉は軍事訓練を兼ねた日光社参を中止しました。また、死や血の穢(けが)れを嫌って物忌(ものいみ)の日数や忌引きの制度を定めた服忌令(ぶっきれい。1684年に発令され、以後綱吉政権下で5回の追加・補充がありました)を定めました。さらには、一切の生あるものを慈(いつく)しむよう人びとに要求する生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい。1685年頃から発令され、以後50数回出されました)を出しました。戦場で敵将の首を分捕(ぶんど)ったり、大量殺戮(たいりょうさつりく)したりすることが価値とされ、殉死を美徳としてきた戦国以来の武士の論理が、綱吉政権の諸政策によって完全否定されたのです。

 行きすぎた取締りによって多くの人びとが迷惑を被ったため、「天下の悪法」として糾弾(きゅうだん)されることの多い生類憐みの令ですが、この法令によって捨子が野犬に食い殺されたり、病人や病馬が路上にうち捨てられたり、町中の犬を斬(き)り殺して食べる「犬食い」などの殺伐とした光景がなくなりました。綱吉政権は、殺生禁断と死や血を穢れとして排除する新たな価値観を社会に浸透させたのです。

 綱吉は、壮大な護国寺(ごこくじ)・護持院(ごじいん)を建立したり、東大寺大仏殿を再建するなど数多くの神社仏閣の修築を行いました。綱吉政権によって修築・保護されて、現在まで伝えられた文化財は少なくありません。また、貞享暦(じょうきょうれき)をつくった渋川春海(しぶかわしゅんかい。1639〜1715)を天文方(てんもんがた)に、古典研究家の北村季吟(きたむらきぎん。1624〜1705)を歌学方(かがくかた)に任命するなど、学問・文化重視の姿勢を明確に打ち出しました。


 ◆生類憐みの令

 「綱吉が跡継ぎに恵まれないのは、前世における殺生がその原因である。だから動物を愛護すれば、世子(せし)を授かるであろう」。生類憐みの令は、こうした護持院(ごじいん)隆光(りゅうこう)の妄説(もうせつ)を綱吉が信じて発令された、と言われてきました。根拠のない俗説です。すでに隆光と綱吉が出会う以前から、生類憐みの令は出されているのですから。

 生類憐みの令は仏教思想から発せられたものです。あらゆる生き物を慈しむことを人びとに要求し、病馬の遺棄、食犬の風俗、捨子などの非人道的な行為を一切禁止しました。一説によると、農村内に所有される鉄砲などの武器把握をも目的にしていたといわれます。しかし、法令が行き過ぎて「悪法」化してしまいました。

 たとえば、綱吉が戌(いぬ)年生まれだったこともあり、特に犬の保護が厳重に行われました。犬の戸籍が作成され、犬目付(いぬめつけ)という役人が犬の虐待に目を光らせました。四谷大木戸・大久保・中野には、野犬を収容する犬小屋が設置されました。そこでは犬1匹につき、1日に米2合と銀2分の費用がかかりました。費用は、江戸市民と付近の農民に負担させました。犬小屋に収容された野犬は数万匹にのぼったといいますから、庶民の負担の大きさが想像できましょう。また「ささいな行為に難癖をつけられ、処罰されてはたまらない」と神経質になった町人たちはドブ掃除をしなくなりました。これは、往来する人びとがボウフラ(蚊の幼虫)を踏みつぶすことを恐れたためです(戸田茂睡『御当代記』)。

 はた迷惑なこの「悪法」は、1685(貞享2)年から「犬公方」綱吉の没する1709(宝永6)年まで続きました。


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C 朝廷権威の利用



 幕府は、天皇即位の儀式である大嘗会(だいじょうえ)を221年ぶりに再興(東山天皇の即位時)したり、192年ぶりに賀茂の葵祭(あおいまつり)を復活したりしました。天皇や朝廷の権威を、平和と秩序の維持に利用しようとしたのです。このほか、幕府は天皇陵を修理したり、禁裏御料(きんりごりょう)の増加を行ったりして、朝廷との融和をはかりました。


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D 幕府財政の破綻


 江戸時代初期から比較的豊かだった鉱山収入も、この時期には減少していきました。鉱山が枯渇しつつあったのです。金銀産出量の低下は、幕府財政の収入減に直結します。そうしたなか、明暦の大火(1657)後の江戸市街の復興費用や引き続く元禄期の寺社造営費用などが、大きな負担となって幕府財政に重くのしかかってきました。幕府財政はもはや破綻に瀕していました。

 そこで勘定吟味役の荻原重秀(おぎわらしげひで。のちに勘定奉行に就任。1658〜1713)は、貨幣改鋳によって収入増をはかるという案を上申しました。

 それは慶長金銀を鋳つぶして品位の劣った新たな金銀をつくって発行枚数を増やし、その差額を幕府の収益とする、というものでした。この差益金を出目(でめ)といいます。そこで1695(元禄8)年、金含有率86.79%の慶長小判を鋳つぶして、金含有率を57.37%に落とした元禄小判を新たにつくりました。金貨・銀貨の品位を落としてその発行枚数を増やすという手法によって、幕府は約500万両の利益を得ました。

 鉱山が枯渇して貨幣材料としての金銀産出が望めないなか、人口が増加し貨幣経済はますます進展していました。社会は大量の貨幣を必要としていたのです。貨幣改鋳はこうした社会の要請に応えたわけです。しかも、金という素材価値に関係なく、指定した額面で貨幣を通用させようという名目貨幣化をはかった点で、幕府の貨幣政策は画期的な意味をもつものでした。

 しかし、金の含有率をあまりにも減らしたため、貨幣価値は下落して物価騰貴を招き、人びとの生活を苦しめました。また、新貨幣の材料となる慶長金銀は良質だったため人びとが退蔵し、新貨幣との交換がなかなか進みませんでした。さらに、新貨幣の質があまりにも低かったため、偽造貨幣の横行を招きました。元禄金銀の発行は、世上に大きな混乱を招いてしまったのです。

 しかも、江戸大地震(1703)の災害復興のために、貨幣改鋳によって得た500万両はまたたく間になくなってしまったというのです。


 ◆「夜食の少将」

 東京駒込の六義園(りくぎえん)を造園した柳沢吉保(やなぎさわよしやす。1658〜1714)。和歌をたしなみ、儒学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)を抱え、なかなかの文化人でした。しかし賄賂政治家の烙印を押され、後世の評価は必ずしも芳しくありません。

 1684(貞享元)年、大老の堀田正俊(ほったまさとし)が若年寄の稲葉正休(いなばまさやす)に刺殺されるという事件が起こります。この事件を機に、将軍に危害が及ばないよう老中の御用部屋から将軍在所を離すことになりました。その際、将軍と老中との連絡役として側用人(そばようにん)という役職を設けました。側用人は将軍のお側に仕え、老中に将軍の命令を伝達しました。定員1名で役高は1万石以上、その待遇は老中に準じました。柳沢吉保は1688(元禄元)年、この側用人に就任したのです。吉保はのちには大老格として扱われるまでに出世しました。

 また吉保は、将軍が吉保邸をしばしば訪問するほどの寵臣でもありました。そこで吉保との縁を求めた大名たちは、盛んに吉保に賄賂を贈ったといわれます。真偽のほどは定かでありませんが、次のようなエピソードがあります。ある時、吉保が江戸城の宿直を勤めました。すると豪華な弁当の差し入れが殺到しました。そこで、吉保には「夜食の少将(吉保は当時少将でした)」というありがたくないニックネームを奉(たてまつ)られた、というのです。


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●正徳の政治(家宣・家継政権の諸政策)●



@ 「短命将軍」家宣政権の諸政策



 1709(宝永6)年、5代将軍綱吉が死去したあと、徳川家宣(とくがわいえのぶ。1662〜1712)が6代将軍に就任しました。家宣は、側用人間部詮房(まなべあきふさ。1666〜1720)と儒者新井白石(あらいはくせき。1657〜1725)を用い、政治の刷新をはかりました。


《 文治政治の継承 》


 家宣は将軍に就任すると、「悪法」となっていた生類憐み令を即座に廃止し、中野などの犬小屋や付近住民の負担金も停止しました。また猪・鹿・狼などの害獣駆除のため、農村で鉄砲を打つことを許可し、酒造者に課した運上金も廃止しました。諸大名に対しては、老中・側用人らへの賄賂を厳禁しました。

 その一方、綱吉政権の「忠孝」「礼儀」の政治は継承しました。1710(宝永7)年、代始めの武家諸法度(従来は漢文体でしたが、白石は読み下しの文体に改めました)の第一条を「文武の道を修め、人倫(じんりん)を明かにし、風俗を正しくすべき事」とし、「文武の道」と「人倫」と「風俗の正しさ」を第一に求めました。「人倫」とは、父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信という五つの道徳をいいます。「風俗の正しさ」とは、上の教化が正しければ下々の「俗」も正しくなることをいいます。いずれも儒教色の強い性格をもつ言葉です。



《 閑院宮家
(かんいんのみやけ)の創設 》


 また、朝廷との融和政策も推進しました。たとえば皇室では当時、皇位継承者を除く天皇の子どもの多くが出家するという状況がありました。皇位継承が危うくなるという恐れを少しでも改善しようとして、伏見宮・桂宮・有栖川宮の3宮家(世襲親王家)に加え、新たな宮家の創設を朝廷に進言しました。その結果、御領1000石を進献して閑院宮家(かんいんのみやけ)が設立されました。

 なお閑院宮家は、祖の直仁親王(なおひとしんのう。東山天皇皇子)から典仁親王(すけひとしんのう)、光格天皇(こうかくてんのう)と続き、5代愛仁親王(なるひとしんのう)の死去後一時絶えますが1872(明治5)年に再興。1947(昭和22)年に皇籍離脱して閑院氏となるまで続きました。


《 経済政策 》

 経済政策では、元禄小判を改鋳して乾字金(けんじきん)を発行しました。乾字金は、金の含有率を慶長小判に戻した小判です。しかし、量目は半分しかなく、元禄小判から新貨への交換はあまり進まず失敗に終わりました。


《 朝鮮通信使の待遇簡素化 》


 1711(正徳元)年、家宣の将軍宣下を慶賀する朝鮮通信使が来日しました。この時、白石は将軍あて国書の「日本国大君」を、「日本国王」に改めさせました。「大君」が「国王」より低い地位だったのを嫌ったからです(ただし、8代将軍吉宗は「日本国大君」に戻しました)。また、朝鮮通信使の扱いが厚遇に過ぎ、重い財政負担になっていたというので、待遇を簡素化しました。

 しかし、家宣は1712(正徳2)年に病死し、家宣政権は3年9カ月の短命政権に終わってしまいました。


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A 「幼児将軍」家宣政権の諸政策


 後継者の7代将軍徳川家継(とくがわいえつぐ。1709〜1716)は、数え4歳(満3歳)の幼児将軍でした。1715(正徳5)年、白石らは幼児将軍の権威づけのために皇女八十宮(やそのみや。霊元天皇の第12皇女)との婚約を発表しました。家継は7歳(満6歳)と八十宮は3歳(満2歳)でした。しかし、婚姻は行われませんでした。翌年に家継が夭逝(ようせい)してしまったからです。

 なお、幼くして「後家」となった八十宮(のち内親王宣下を受け吉子(よしこ)内親王を称しました)に、幕府は終身500石を進献。彼女は不婚のまま1758(宝暦8)年、45歳で亡くなりました。


《 儀式・典礼の重視 》


 白石らは儀式・典礼を重視し、将軍個人の人格・年齢等に関係なく、将軍の地位そのものが格式と権威をもつようにしました。身分の上下・家格が一目瞭然に判別できるよう、服制を整えたのもその一例です。儀式の際の武家装束を、三位(さんみ)以上は直垂(ひたたれ)、四位は狩衣(かりぎぬ)、五位以上は大紋(だいもん)というように官位に応じて着用するよう規定したのです。


《 経済政策 》


 白石は、勘定奉行の荻原重秀を罷免させたあと、1714(正徳4)年に正徳小判を発行しました。慶長小判と同じ金含有率・同じ量目の小判に戻したのです。良貨に戻すことによって、元禄小判・乾字金で混乱した貨幣流通の回復をはかりましたが、混乱の収拾には至りませんでした。

 白石は、貨幣の品位回復にこだわって、貨幣経済の発展により社会が大量の貨幣を欲しているという現実を無視しました。しかし、前述した通り、国内の金・銀鉱山はすでに枯渇しつつあったわけですから、幕府が鋳造する金銀貨はその後品位ばかりか量目そのものまで縮小せざるを得なくなっていきました。

 また金銀の海外流出を阻止するため、1715(正徳5)年に長崎貿易の規模を縮小する海舶互市新例(かいはくごししんれい。長崎新令、正徳新令とも称しました)を出しました。これにより、1年間に清船は30隻・銀高6,000貫目、オランダ船は2隻・銀高3,000貫目に貿易額を制限しました。その支払いの一部は銅にかえ、金銀の海外流出を少しでも減らそうとしました(注)


(注)白石は「五穀の類は、毛髪の生じ出る事、やむ時なきがごとし、五金の類は、骨骼のふたゝび生ずる事なきに似たり」(新井白石『折りたく柴の記』1939年、岩波文庫、P.174)と、農作物を毛髪に、金銀等の鉱産物を骨格にたとえました。農作物は毛髪と同じで、いくらでもあとからあとから生えてくるもの。しかし、金銀の類いは人間でいうなら骨と同じ。ひとたび失えば再生はできない。再生産がきく生糸のようなものを、再生産がきかない金銀で買うのは良策ではない。輸入は制限し、買うのは薬材に限るべきだ。以上が白石の主張でした。


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