「 総じて武士の殉死(じゅんし)するに様々有り。義腹(ぎばら)・論腹(ろんばら)・商腹(あきないばら)あり。
君は礼を以(もっ)てし、臣は忠を以てす。君の為(ため)に而巳(のみ)心を尽(つく)し、軍陣(ぐんじん)にては君(きみ)の危(あやう)きを救ひ、太平の時には賞禄(しょうろく)を目に掛(かけ)ず無二の奉公を致し、若(もし)主人死去有(あら)ば二世の供を致す。是(これ)義腹也(なり)。 ( 中略 )
又同格の傍輩(ほうばい)の殉死するを見て、我もおとるまじとて切るを論腹と云(い)ふ。
又さしたる恩も無くして死せずとも済(すむ)べきものなれども、我(わ)れ命を捨(すて)なば子孫の後栄(こうえい)にも成(な)らんとて切るを商腹と云(いう)。
常には、君万一の事有らば一番に命を捨(すて)んと罵(ののし)りて、其期(そのご)に臨みては兎(と)や角(かく)と云(い)ひて其場(そのば)をはづす者も有り。是は論ずるにたらず。」
(武士の殉死には、義腹・論腹・商腹がある。主君は礼をもって家臣を処遇し、家臣は忠義をもって主君に仕えるものだ。主君のためだけに心を尽くし、戦時には主人の危難を救い、平時には賞禄などには目をくれずに忠義を尽くし、もし主人が死去すればあの世へのお供をするのが「義腹」。同僚が殉死するのを見て「あいつが死ぬなら俺も死のう」と理屈で腹を切るのは「論腹」。主君からは生前、これといった恩寵も被らなかったので殉死せずとも済むのに、「自分が命を捨てれば(殉死した忠義の家来ということで)子孫の後日の繁栄にもつながろう」と計算ずくで腹を切るのを「商腹」というのだ。日頃は「主君に万一のことあらば、俺が一番に命を捨てよう」などと広言しつつ、その期に及んでは何の彼のと言い訳をして、その場を外す者もいる。これは論外だ)
(真田増誉(さなだぞうよ)『明良洪範(めいりょうこうはん)』1912年、国書刊行会、P.37。漢字は現行のものに改め、適宜句読点を付した)
●文治政治へ転換する家綱政権● |
●綱吉政権の諸政策● |
◆生類憐みの令 「綱吉が跡継ぎに恵まれないのは、前世における殺生がその原因である。だから動物を愛護すれば、世子(せし)を授かるであろう」。生類憐みの令は、こうした護持院(ごじいん)隆光(りゅうこう)の妄説(もうせつ)を綱吉が信じて発令された、と言われてきました。根拠のない俗説です。すでに隆光と綱吉が出会う以前から、生類憐みの令は出されているのですから。 生類憐みの令は仏教思想から発せられたものです。あらゆる生き物を慈しむことを人びとに要求し、病馬の遺棄、食犬の風俗、捨子などの非人道的な行為を一切禁止しました。一説によると、農村内に所有される鉄砲などの武器把握をも目的にしていたといわれます。しかし、法令が行き過ぎて「悪法」化してしまいました。 たとえば、綱吉が戌(いぬ)年生まれだったこともあり、特に犬の保護が厳重に行われました。犬の戸籍が作成され、犬目付(いぬめつけ)という役人が犬の虐待に目を光らせました。四谷大木戸・大久保・中野には、野犬を収容する犬小屋が設置されました。そこでは犬1匹につき、1日に米2合と銀2分の費用がかかりました。費用は、江戸市民と付近の農民に負担させました。犬小屋に収容された野犬は数万匹にのぼったといいますから、庶民の負担の大きさが想像できましょう。また「ささいな行為に難癖をつけられ、処罰されてはたまらない」と神経質になった町人たちはドブ掃除をしなくなりました。これは、往来する人びとがボウフラ(蚊の幼虫)を踏みつぶすことを恐れたためです(戸田茂睡『御当代記』)。 はた迷惑なこの「悪法」は、1685(貞享2)年から「犬公方」綱吉の没する1709(宝永6)年まで続きました。 |
◆「夜食の少将」 東京駒込の六義園(りくぎえん)を造園した柳沢吉保(やなぎさわよしやす。1658〜1714)。和歌をたしなみ、儒学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)を抱え、なかなかの文化人でした。しかし賄賂政治家の烙印を押され、後世の評価は必ずしも芳しくありません。 1684(貞享元)年、大老の堀田正俊(ほったまさとし)が若年寄の稲葉正休(いなばまさやす)に刺殺されるという事件が起こります。この事件を機に、将軍に危害が及ばないよう老中の御用部屋から将軍在所を離すことになりました。その際、将軍と老中との連絡役として側用人(そばようにん)という役職を設けました。側用人は将軍のお側に仕え、老中に将軍の命令を伝達しました。定員1名で役高は1万石以上、その待遇は老中に準じました。柳沢吉保は1688(元禄元)年、この側用人に就任したのです。吉保はのちには大老格として扱われるまでに出世しました。 また吉保は、将軍が吉保邸をしばしば訪問するほどの寵臣でもありました。そこで吉保との縁を求めた大名たちは、盛んに吉保に賄賂を贈ったといわれます。真偽のほどは定かでありませんが、次のようなエピソードがあります。ある時、吉保が江戸城の宿直を勤めました。すると豪華な弁当の差し入れが殺到しました。そこで、吉保には「夜食の少将(吉保は当時少将でした)」というありがたくないニックネームを奉(たてまつ)られた、というのです。 |
●正徳の政治(家宣・家継政権の諸政策)● |