●キリスト教禁止に向かう幕府● |
●せばまる対外交流● |
◆略年表 1612(慶長17)年 幕府直轄領に禁教令を出す。翌年、禁教令を全国に及ぼす。 1616(元和2)年 外国船の入港地を平戸・長崎2港に制限。 1622(元和8)年 元和大殉教(長崎で55名が火刑に処せられる)。 1623(元和9)年 イギリスが国外へ退去。 1624(寛永元)年 スペイン船の来航を禁止。 1633(寛永10)年 朱印状のほかに老中が発行する「老中奉書」を所持する奉書船のみ 海外渡航を許可。 1634(寛永11)年 海外との往来や通商を制限する。 1635(寛永12)年 日本人の海外渡航と帰国を全面禁止する。 1636(寛永13)年 ポルトガル人の子孫を海外へ追放する。 1637(寛永14)年 島原・天草一揆が起こる。翌年、鎮圧。 1639(寛永16)年 ポルトガル船の来航を禁止。 1641(寛永18)年 オランダ商館を、平戸から長崎の出島に移転させる。 |
●長崎貿易● |
◆ポルトガル人にとって代わったオランダ人 島原・天草一揆の鎮圧に、幕府は多大な犠牲を払いました。一揆勢のなかにキリスト教徒が多数参加していた事実を重く見た幕府は、ポルトガル人の追放を模索し始めました。 しかし、ポルトガル人を追放すれば、生糸・絹織物をはじめとする生活必需品の輸入が途絶えてしまいます。これらは中国産でしたが、中国からの輸入量は少なく、その大部分をポルトガル人による中継貿易に依存していたからです。ポルトガル人の追放は「国内における生活必需品の不足→価格高騰→流通市場の混乱」を意味しました。 すでに1635(寛永12)年、幕府は、日本人の海外渡航・帰国を全面禁止していました。しかし、ポルトガル人追放によって予想される経済混乱に対処するため、幕府は日本船の海外派遣を考え始めます。そこで、この件をオランダ人に相談すると、彼らは否定的な回答をしました。「もし日本船が東アジア海域に進出すれば、追放されたポルトガル人とその同盟国のスペイン人が攻撃をしかけてくるに違いありません」と。そして、続けて次のように確約したのです。「われわれオランダ人なら、これまでポルトガル人が持ってきた以上の品物を持ってくることができます」と。 ついに幕府は、ポルトガル人の追放を決断しました。こうしてオランダ人は、まんまと商売がたきのポルトガル人にとって代わることに成功したのです。 【参考】 ・山本博文『江戸に学ぶ日本のかたち』2009年、日本放送協会、P.36〜37 |
すべては憐(あわ)れな農民の血と汗を代償として、殿(注、領主)の収入を増すために行われたので、納められない人々は迫害を加えられ、その妻を取上げられた。たとえ妊婦でも容赦(ようしゃ)なく凍った水中に投ぜられ、そのために生命を失う者も少なくなかった。 (
中略 )
長門殿(注、松倉勝家)の奉行や役人たちが、このような傲慢(ごうまん)、暴虐(ぼうぎゃく)によって農民に圧制を加えたことが原因となって、その領主に対する蜂起、叛乱となったのであって、キリスト教徒によるものではない。ところが、殿の重臣たちは、これをキリスト教徒が蜂起したものと言明して、その虐政(ぎゃくせい)を蔽(おお)い隠(かく)し、日本国中の領主たちと皇帝(注、将軍)に対して面目を失わないように図ったのであった。 (
中略 )
島原の叛徒は、日野江城と原城の二城を占領し、総勢がたてこもった。城の固めは厳重だったが兵糧(ひょうろう)の用意が足りなかった。そのことが落城の原因のすべてであった。婦女子を除いて三万五千以上の大軍を擁(よう)していたからである。叛徒は殿の米倉と軍船を焼き払い、島原の城は殆(ほと)んど陥落(かんらく)するばかりになった。一揆の全軍を指揮した司令官は益田四郎という少年で、十八歳をこえていないということである。
(ドアルテ=コレアの島原一揆報告書−笹山晴生他編『詳説日本史史料集 増補改訂版』2003年(増補改訂版8刷)、山川出版社、P.183〜184−)