38.制限される対外交流 
     −いわゆる「鎖国」−


●キリスト教禁止に向かう幕府●



@ キリスト教を警戒する幕府


 貿易の利潤が大きかったことから、当初、幕府はキリスト教を黙認していました。しかし、キリスト教の布教がスペイン・ポルトガルの侵略をまねく恐れがあること、一向一揆と同じように信者の団結力が強固であること、信者が神社仏閣を破壊するなど他の宗教の存在に対して不寛容であること、などを次第に危惧するようになりました。

 幕府が態度を硬化させるきっかけになったのは、岡本大八事件(おかもとだいはちじけん。1609〜1612)でした。



《 岡本大八事件 》



 岡本大八(?〜1612)は、家康の有力な側近であった本多正純(ほんだまさずみ。1565〜1612)の与力でした。

 有馬晴信(ありまはるのぶ)が家康の許可を得た上で、長崎港外においてポルトガル船を撃沈(ノッサ=セニョーラ=ダ=グラッサ号事件。マードレ=デ=デウス号事件とも。1609)した際、大八はその功績を幕府に上申すると称し、恩賞として晴信に旧領回復の斡旋をもちかけました。そして、晴信から賄賂をせしめたのです。

 しかし、晴信のもとには、待てど暮らせど幕府から何の音沙汰もありませんでした。しびれをきらした晴信が本多正純に問い合わせたことにより、大八の収賄が発覚してしまったのです。事件追及の過程で大八は、晴信が長崎奉行長谷川藤広(はせがわふじひろ。1568〜1617)を暗殺しようとした旧悪を暴露しました。その結果、大八は火刑、晴信は領地没収の上切腹になりました。

 両者ともにキリシタン(晴信は洗礼名「プロタジオ」、のち「ジョアン」。大八は洗礼名「パウロ」と称するキリシタンでした)だったことから、事態を重く見た家康は1612(慶長17)年、直轄領に禁教令を出し、翌年これを全国に及ぼしました。

 これ以降、幕府や諸藩は、宣教師やキリシタンに対して激しい迫害を加えるようになりました。


《 強まる禁教の流れ 》 


 
1614(慶長14)年には、改宗を拒否した高山右近(たかやまうこん。洗礼名「ジュスト」。1552〜1615)ら300人余りを、マニラ・マカオに追放しました。高山右近はマニラに到着し、スペインのマニラ総督から歓迎を受けましたが、まもなく病死してしまいました。

 1622(元和8)年には長崎でフランシスコ会の宣教師・信徒ら55名が処刑されました、これを元和大殉教(げんなだいじゅんきょう)といいます。

 1624(寛永元)年、幕府はスペイン船の来航を禁止します。

 制限が厳しくなるのは、1630年代です。

 1633(寛永10)年には、朱印状のほかに老中が発行する「老中奉書(ろうじゅうほうしょ)」を所持しなければならなくなります。これを奉書船(ほうしょせん)といいます。

 1634(寛永11)年には海外との往来・通商が制限され、1635(寛永12)年にはついに日本人の海外渡航・帰国が全面禁止になりました。

 翌1636(寛永13)年には、ポルトガル人の子孫を海外に追放しました。



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A 島原・天草一揆


《 一揆の原因 》


 
1637(寛永14)年、島原・天草一揆(1637〜1638)がおこりました。うち続く飢饉の中で、肥前島原藩主松倉重政(まつくらしげまさ。?〜1630)・勝家(かついえ。1597〜1638)父子と肥前唐津藩主(肥後天草諸島は飛地)寺沢堅高(てらさわかたたか。1609〜1647)が領民に苛酷な年貢を課したことが発端でした。

 租税の過酷な取り立てに関しては、さまざまな逸話が伝わっています。

 租税が支払えない人々は縛り上げられた上で蓑(みの。藁で作ったレインコート)を着せられ、これに火を付けて焼死させられました。この見せしめは「蓑踊り」と呼ばれました。

 また、納税できない農民は、人質として妻や娘を取り上げられました。人質は裸にされて焼けた薪を押しつけられたり、妊婦であろうと容赦なく、凍った水中に投げ込まれたりしました。こうした拷問によって命を失う者も少なくなかったといわれます。

 島原半島や天草諸島は、キリシタン大名の有馬晴信と小西行長の旧領でした。両大名の改易後、牢人となった人びとが大勢いました。

 またこの地域では、宣教師による布教が活発に行われたこともあり、信徒になった領民が数多くいました。新領主の松倉氏らは、幕府の禁教政策に従って、キリスト教徒を処刑するなど厳しい弾圧をおこなっていたのです。

 したがって「島原・天草一揆」は、領主の苛政やキリスト教徒の迫害に対する抵抗として起こった一揆だったといえるでしょう。

 従来この一揆は「島原の乱」とよばれていました。しかし、一揆は島原半島南部と天草諸島で勃発したのですから、一揆が起こった地理的範囲を「島原」に限定するような表現は不適切です。また「島原の乱」には「有馬氏・小西氏の牢人が中心になって起こした暴力的な反乱」というイメージがあります。しかし、当時の人々はこの事件を「宗門一揆」「吉利支丹(きりしたん)一揆」などと表現しています。つまり、一味同心して蜂起した「一揆」と理解していたわけです。

 以上の理由から、現在では「島原・天草一揆」という呼称に変わりつつあります。

 
《 一揆の経過 》


 キリスト教徒へのしい迫害、度重なる重税の厳しい取り立て、それにともなう理不尽な拷問などに堪忍袋の緒が切れた農民たちは、ついに蜂起を決意しました。1637年10月下旬、島原の農民が代官を殺害して蜂起すると、天草でも農民が蜂起しました。

 一揆の規模は日を追ってふくらみ、その数は2万7,000人余りに及びました。彼らは、益田(天草四郎)時貞(ますだときさだ。1623?〜1638)という16歳の少年を首領にたてて結束し、廃城になっていた原城跡(はらじょうあと)に立てこもりました。益田時貞は小西氏の遺臣益田甚兵衛の子で、洗礼名を「ジェロニモ」と称する敬虔なキリスト教徒でした。

 幕府は九州の諸大名らに命じて、一揆鎮圧のための兵力を動員しました。その数は12万7,000人にものぼりました。

 しかし、一揆勢の固い団結力と戦闘力はすさまじく、幕府軍は苦戦を強いられました。城の石垣をよじ登ろうとすると、兵士たちの頭上には火のついたむしろや苫(とま)、丸太や小岩・石臼、熱湯・熱灰はおろか糞尿まで降ってくるのです。また鉄砲の弾や矢・石礫(いしつぶて)などが雨霰(あめあられ)のように襲ってきました。

 1638(寛永15)年元旦、幕府軍は原城総攻撃を決行しました。しかし、一揆勢の激しい戦闘の中で、上使(幕府の指令官)板倉重昌(いたくらしげまさ。1588〜1638)が戦死してしまうという痛手を負いました。

 重昌の後任、松平信綱(まつだいらのぶつな。1596〜1662)は、兵糧攻めに作戦を転じました。その間、オランダ船による砲撃、築山の上からの鉄砲攻撃、地下に穴を掘っての火薬攻撃、時貞の近親者を使っての投降勧告など、あらゆる手段が講じられました。

 そして、原城内の兵糧が尽きて、人々が飢え弱った頃を見計らって総攻撃をしかけ、一揆勢を全滅させたのです。しかし、この一揆の鎮圧に、幕府側も死者2千余、負傷者1万余という甚大な犠牲を払わなければなりませんでした。

 「松倉勝家の苛政が一揆の原因」という幕府目付の報告により、勝家は改易ののち斬罪となりました。寺沢堅高も一揆勃発の罪を問われて天草領を没収され、のち自害しました。その結果、両家ともに断絶しました。

 以後、幕府は、政治方針を大名統制から農民統制へと転換しました。そして大規模な百姓一揆が起きるたびに、「島原以来」という言葉とともに島原・天草一揆の記憶が想起されることになります。島原・天草一揆の与えた衝撃が、いかに大きなものだったかを物語るものでしょう。


《 島原・天草一揆後 》


 1639(寛永16)年、幕府はポルトガル船の来航禁止に踏み切ります。

 そして、島原・天草一揆に加わった人々の中にキリシタンが多数含まれていたことから、幕府はキリスト教徒の根絶に乗り出しました。

 とくに信者の多い九州北部などでは、以前から実施されていた絵踏(えぶみ)を強化しました。絵踏は、キリスト像やマリア像(これらの像を表面に彫った真鍮製の聖画像を「踏絵(ふみえ)」といいます)を踏ませることによって、キリスト教信者でないことを確認するための行為です。

 また、キリシタンの密告者には多額の褒美を与えたり、宗門改めを徹底するなど、さまざまな手段を講じてキリスト教を弾圧しました。

 多くの信者は棄教しました。棄教することを当時「転び」といいました。棄教を「転び」という由来は、次のようなものだと言われています。

 諸藩ではキリシタンたちを捕まえると、一人ずつ米俵の中に押し込み、首だけ出させました。そして、それらの米俵をピラミッドのように積み重ね、水をかけたり叩いたりなどの拷問をしました。拷問の際、信者らにかける棄教を促す囃し言葉が、「転べ、転べ」だったというのです。拷問に耐えかねた信者は、ピラミッドの山から自ら転がり落ちて、棄教の意思表示をしました。

 しかし、いったん棄教してもまたキリスト教徒に戻る「立ち帰り者」もいたり、迫害に屈せず、殉教する信者もいました。また、表面上は仏教徒をよそおいながら、ひそかに信仰を維持した人々(潜伏キリシタン)もいました。


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●せばまる対外交流●



@ 「鎖国(さこく)」という言葉


 幕府が恐れたのは、キリスト教だけではありませんでした。外様の多い西南諸大名が、貿易の利潤によって富強化するを警戒したのです。そこで貿易は、幕府の厳重な統制下に置かれました。

 幕府による禁教と貿易統制の結果、わが国は、自然と国際的な孤立状態に陥ったというのです。こうした孤立状態を表現する言葉が「鎖国」です。しかし現在、こうした歴史認識は変更が迫られています。

 なぜなら、江戸時代前半期には、「鎖国」という言葉自体が存在しませんでした。また、「鎖国」というと「海外との完全な絶縁」をイメージしてしまいます。しかし、江戸時代の人々の間には、わが国が海外との絶縁状態にあったという意識がありませんでした。それは、後述するように、制限つきではあったものの、海外との四つの窓口が常に確保されていたからです。

 そもそも「鎖国」という言葉は、ケンペル『日本誌』の一節を、1801(享和元)年に志筑忠雄(しづきただお)が「鎖国論」と訳出したことが最初です。「鎖国」は19世紀に生まれた言葉でした。

 また「鎖国」意識が生まれたのも、江戸時代後期以降のことでした。19世紀に、外国船の接近などにより対外的な危機意識が高まった際に、「幕府の祖法は『鎖国』である」と主張することによって、外国との交渉を拒否したり、無用の軋轢(あつれき)を回避しようとしたのです。


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A 海外に開かれた「四つの窓口」


 日本人自身が海外との往来を完全に禁止されていた上、海外との交流にも厳しい制限があったのは事実です。その意味では、「江戸時代のわが国は鎖国政策をとっていた」と言ってもよいでしょう。

 しかし、海外へのとびらは閉じられていても、四つの窓口が海外に向けて常に開かれていました。長崎口(幕府直轄)を通じてオランダ・中国と、対馬口(対馬藩)を通じて朝鮮と、薩摩口(薩摩藩)を通じて琉球と、そして松前口(松前藩)を通じて蝦夷地との交流がありました。これを四口(よんくち)といいます。

 しかも、これら四口を通じての海外との交流は、それぞれとわが国との単なる2国間・地域間交流にとどまりませんでした。琉球を通じて東南アジアや中国の物品がわが国にもたらされたり、蝦夷地を通じて沿海州から中国やロシアともつながっていたのです。

 また、わが国の物品も遠く各地に運ばれていきました。たとえば、蝦夷地の産物である昆布は、北前船を通じて日本の各地に運ばれました。その結果、蝦夷地から遠く離れた西日本で、昆布出汁(こんぶだし)が料理の基本となりました。さらに薩摩から琉球、大陸にわたった蝦夷地の昆布は、中国宮廷料理の材料として用いられることにもなったのです。
 

◆略年表

1612(慶長17)年  幕府直轄領に禁教令を出す。翌年、禁教令を全国に及ぼす。
1616(元和2)年  外国船の入港地を平戸・長崎2港に制限。
1622(元和8)年  元和大殉教(長崎で55名が火刑に処せられる)。
1623(元和9)年 イギリスが国外へ退去。
1624(寛永元)年 スペイン船の来航を禁止。
1633(寛永10)年 朱印状のほかに老中が発行する「老中奉書」を所持する奉書船のみ
           海外渡航を許可。
1634(寛永11)年 海外との往来や通商を制限する。
1635(寛永12)年 日本人の海外渡航と帰国を全面禁止する。
1636(寛永13)年 ポルトガル人の子孫を海外へ追放する。
1637(寛永14)年 島原・天草一揆が起こる。翌年、鎮圧。
1639(寛永16)年 ポルトガル船の来航を禁止。
1641(寛永18)年 オランダ商館を、平戸から長崎の出島に移転させる。


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B 蝦夷地との交流


 アイヌ民族は、蝦夷地(北海道)・樺太・千島・カムチャツカ半島南端・本州北端に居住していました。このうち蝦夷地に居住するアイヌ(「人間」の意)は、河川流域を単位にコタン(集落)を形成していました。川を遡上するサケ・マスなどの捕獲や、周辺の山林での狩猟・採集などによって生活を営んでいたのです。

 中世、蝦夷ヶ島(えぞがしま)と呼ばれた北海道の和人地(渡島半島南部。「和人」は、江戸中期以降用いられた蝦夷人(アイヌ)に対する本州に住む日本人の自称)に勢力を有していたのが蠣崎氏(かきざきし)でした。近世になると蠣崎氏は、松前氏(まつまえし)と改称しました。

 そもそも蝦夷地は亜寒帯湿潤気候のため稲作には適さず、石高制でいうと「無高」の地でした。そこで、江戸幕府は松前氏と主従関係を結ぶのに、アイヌとの交易権を与えました。松前氏もまた、家臣にアイヌとの交易権を分与して、主従関係を結びました。

 交易を行う地域を商場(あきないば)、または場所(ばしょ)といったので、家臣に商場での交易権を認めて結んだ主従関係を「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」といいます。のち、家臣たちは、自分たちの商場における交易を、和人商人たちに請け負わせて、商人たちからは毎年一定額の運上金を受けとるようになりました。これを「場所請負制度(ばしょうけおいせいど)」といいます。

 アイヌはニシン・サケ・毛皮・昆布などを、和人の持ってきた米・酒・塩・鉄類などと交換しました。しかし、和人との交易は、アイヌにとってひどく不公平なものでした。たとえば最初、干鮭5束と米2斗を交換していたところ、のちに半分以下の7〜8升に減らされたりしました。また、和人たちが勝手にアイヌの川に侵入して、大網を投げ込んで大量に魚を持ち去ったりもしました(高埜利彦『天下泰平の時代・シリーズ日本近世史B』2015年、岩波新書、P.22)。

 こうしたことが重なって、アイヌのなかに、次第に和人に対する不満が募っていきました。そうした不満の蓄積が、シャクシャインの戦い(1669〜1671)となって爆発したのです。

 1669(寛文9)年、シブチャリ(現、静内町)の総首長シャクシャインが全蝦夷地のアイヌに和人との戦いを呼びかけて、一斉に蜂起したのです。大勢の和人が殺害され、商船が襲われました。近世としては最大規模のアイヌ蜂起でした。

 松前藩はアイヌ側に講和を申し入れて首長たちを誘い出し、その席上でだまし討ちにしました。リーダーたちを失ったアイヌたちは、降伏を余儀なくされました。こうしてシャクシャインの戦いは鎮圧されたのです。

 戦後、アイヌの人々は蝦夷地・本州間の自由な往来を禁止され、蝦夷地に閉じ込められるとともに、自立性を奪われて和人への従属度を強めていくことになりました。



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●長崎貿易●



@ オランダとの貿易


 幕府は、長崎港内に約4,000坪の広さの人工島を築きました。扇形のこの人工島を出島(でじま)といいます。長崎と出島は橋一本でつながれていました。一般人との接触を厳しく監視するためです。

 出島築造のもともとの目的は、ポルトガル人の収容にありました。しかし、ポルトガル人を追放してしまったので、平戸にあったオランダ東インド会社の商館をここに移動させて、長崎奉行の監視下に置くことにしたのです。オランダとはこの出島で交易を行いました。

 オランダ船は、毎年2隻、バタビア(現、ジャカルタ。オランダ東インド会社が東洋貿易の拠点としていました)から長崎に来航して、長崎奉行の管理下で貿易をしました。オランダ人がわが国もたらした品目は、中国産の生糸・絹織物をはじめ、ヨーロッパ産の綿織物・毛織物・薬品・書籍・砂糖(長崎にカステラなどのお菓子が多く、食事が甘い味付けなのはこれに由来します)などでした。

 ガラス容器などこわれやすい商品は、木箱の中に干したクローバーを詰め物として運ばれてきました。クローバーをシロツメクサというのは、これに由来します。クローバーとともにビールやビリヤードなども伝わりました。

 出島のオランダ商館には15人前後の職員が勤務し、オランダ商館長は甲比丹(カピタン)と呼ばれました。甲比丹は1年交代で任に当たりました。甲比丹らは貿易を許可されたお礼のため、江戸で将軍に謁見するならわしでした。この時、海外情報をまとめた「オランダ風説書(ふうせつがき)」を提出することになっていました。

 19世紀初めにオランダの日本商館長を務めたヘルマン・メイランは、「オランダ風説書」が作成される有様を次のように記しています。


 オランダ船の船長やその他の乗客が上陸してから2、3時間後、ヨーロッパ及び東インドの情報を聞くために、出島の乙名、出島町人、目付らにともなわれて通詞仲間が商館長のもとへやってくる。この時、戦争や講和、戦闘や勝利、王の即位や死など一般的な情報が提供され、通詞らがそれを書き留める。その情報は日本文字で美しく書かれ、商館長による署名がなされた後、臨時の飛脚を立てて江戸に送られる。
(松方冬子『オランダ風説書』2010年、中公新書、はしがきから引用)


 オランダを通じてもたらされる世界情報は、ピリピリと張り詰めた緊張感のもとで「日本文字で美しく書かれ」たに違いありません。江戸の老中や、ことによると将軍の目に触れるかも知れないからです。上の記述に続けてメイランは、


 このような情報の提供は日本人には最重要案件と見なされている。日本人の言うことを信じるならば、主にこの理由によって、オランダ人は日本に受け入れてもよい友人だと見なされているのである。
(松方冬子『オランダ風説書』同上)


と、述べています。貿易輸入品に対する旺盛な国内需要ばかりでなく、「オランダ風説書」がもたらす世界情報が、幕府にオランダ人を選択させた理由の一つだったのです。



◆ポルトガル人にとって代わったオランダ人

 島原・天草一揆の鎮圧に、幕府は多大な犠牲を払いました。一揆勢のなかにキリスト教徒が多数参加していた事実を重く見た幕府は、ポルトガル人の追放を模索し始めました。

 しかし、ポルトガル人を追放すれば、生糸・絹織物をはじめとする生活必需品の輸入が途絶えてしまいます。これらは中国産でしたが、中国からの輸入量は少なく、その大部分をポルトガル人による中継貿易に依存していたからです。ポルトガル人の追放は「国内における生活必需品の不足→価格高騰→流通市場の混乱」を意味しました。

 すでに1635(寛永12)年、幕府は、日本人の海外渡航・帰国を全面禁止していました。しかし、ポルトガル人追放によって予想される経済混乱に対処するため、幕府は日本船の海外派遣を考え始めます。そこで、この件をオランダ人に相談すると、彼らは否定的な回答をしました。「もし日本船が東アジア海域に進出すれば、追放されたポルトガル人とその同盟国のスペイン人が攻撃をしかけてくるに違いありません」と。そして、続けて次のように確約したのです。「われわれオランダ人なら、これまでポルトガル人が持ってきた以上の品物を持ってくることができます」と。

 ついに幕府は、ポルトガル人の追放を決断しました。こうしてオランダ人は、まんまと商売がたきのポルトガル人にとって代わることに成功したのです。

【参考】
・山本博文『江戸に学ぶ日本のかたち』2009年、日本放送協会、P.36〜37


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A 中国との貿易  


 オランダ人が厳しい監視下に置かれていたのに対し、キリスト教と関係のない明・清の商人たちは長崎の町に居住し、自由に貿易を行っていました。

 しかし1688(元禄元)年、長崎郊外に唐人屋敷(とうじんやしき。完成は翌年)が設置されると、中国人たちの行動も制限を受けるようになりました。唐人屋敷は広さが約1万坪あり、周囲は堀と塀で囲まれていました。出入り口には番所があったものの、出島のオランダ人にくらべると、比較的自由に出入りが許されていました。

 彼らは、生糸・絹織物・綿織物・毛織物・薬品・砂糖・蘇木・香木などをわが国にもたらしました。


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 すべては憐(あわ)れな農民の血と汗を代償として、殿(注、領主)の収入を増すために行われたので、納められない人々は迫害を加えられ、その妻を取上げられた。たとえ妊婦でも容赦(ようしゃ)なく凍った水中に投ぜられ、そのために生命を失う者も少なくなかった。 ( 中略 )

 長門殿(注、松倉勝家)の奉行や役人たちが、このような傲慢(ごうまん)、暴虐(ぼうぎゃく)によって農民に圧制を加えたことが原因となって、その領主に対する蜂起、叛乱となったのであって、キリスト教徒によるものではない。ところが、殿の重臣たちは、これをキリスト教徒が蜂起したものと言明して、その虐政(ぎゃくせい)を蔽(おお)い隠(かく)し、日本国中の領主たちと皇帝(注、将軍)に対して面目を失わないように図ったのであった。 ( 中略 )

 島原の叛徒は、日野江城と原城の二城を占領し、総勢がたてこもった。城の固めは厳重だったが兵糧(ひょうろう)の用意が足りなかった。そのことが落城の原因のすべてであった。婦女子を除いて三万五千以上の大軍を擁(よう)していたからである。叛徒は殿の米倉と軍船を焼き払い、島原の城は殆(ほと)んど陥落(かんらく)するばかりになった。一揆の全軍を指揮した司令官は益田四郎という少年で、十八歳をこえていないということである。

(ドアルテ=コレアの島原一揆報告書−笹山晴生他編『詳説日本史史料集 増補改訂版』2003年(増補改訂版8刷)、山川出版社、P.183〜184−)