37.江戸時代初期の外交


●紅毛人の登場●



@ リーフデ号の漂着


 1600(慶長5)年、オランダ船のリーフデ号が、豊後国(ぶんごのくに。大分県)臼杵湾(うすきわん)佐志生(さしう)に漂着しました。当時、ヨーロッパではスペインから独立したオランダ(1581年に独立を宣言)と、イギリスが台頭してきていました。両国は東インド会社を設立して、競うようにアジアへの貿易進出をはかっていました。

 リーフデ号には、航海士でオランダ人のヤン=ヨーステン(耶揚子(やようす))と水先案内人でイギリス人のウィリアム=アダムズ(三浦按針(みうらあんじん))が乗船していました。徳川家康は、二人を江戸に招き、幕府の外交・貿易の顧問にしました。

 これをきっかけに、オランダは1609(慶長14)年に、イギリスは1613(慶長18)年にそれぞれ幕府から貿易許可の朱印状を獲得し、肥前(佐賀県)平戸に商館を開き、アジア貿易の拠点としたのです。


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A 南蛮人と紅毛人の違い


 先に来日していたスペイン人・ポルトガル人の南蛮人に対して、新参者であるオランダ人・イギリス人は、紅毛人と呼ばれました。カトリック布教と貿易を一体のものとして活動する南蛮人とは異なり、プロテスタントだった紅毛人は布教は行わず、貿易の利益のみを追求していました。

 1623(元和9)年にアンボイナ事件(モルッカ諸島との貿易をめぐって英蘭が衝突。イギリスが撃退された事件)が起こると、イギリスは平戸の商館を閉鎖して日本貿易から撤退しました。

 1624(元和10)年にスペイン船の来航が禁止されると、ヨーロッパ人の貿易相手国はオランダとポルトガルだけが残りました。以後オランダは、あらゆる手段を用いて、ポルトガルの追い落としをはかっていきました。


◆八重洲口と按針町

 
ヤン=ヨーステン(耶揚子)が居住した屋敷地は海に近かったので、耶揚子河岸(やようすがし)とよばれました。この地名はのちに八代洲(やよす)、八重洲(やえす)と転訛(てんか)しました。これを記念し、東京駅八重洲口には現在、ヤン=ヨーステン記念碑(左側にヤン=ヨーステン像、右側にリーフデ号を描いたもの)が掲げられています。

 一方、ウィリアム=アダムズが居住した日本橋の屋敷地は、按針町(あんじんちょう)と呼ばれました。水先案内人を意味する「按針(磁石で船の針路を決める)」に由来します。アダムズは三浦半島(逸見村)に知行地を賜ったので、「三浦按針(みうらあんじん)」の日本名で呼ばれました。


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●南蛮人との関係●



@ スペイン



 スペインとの通交は、サン=フェリペ号事件(1596)以来絶えていました。

 1609(慶長14)年、たまたまルソンの前臨時総督ドン=ロドリゴ(ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルッサ)が上総国岩和田村(現、千葉県夷隅郡(いすみぐん)御宿町(おんじゅくまち))に漂着し、翌1610(慶長15)年家康が船を与えて彼らをノヴィスパン(ノヴァ=イスパニア(新スペイン)の意で、スペイン領メキシコのこと)に送ったのを機に復活しました。

 この時、京都商人の田中勝介(たなかしょうすけ。?〜?)らを派遣しました。同行した田中勝介らは、太平洋を横断しアメリカ大陸に渡った最初の日本人とされています。

 翌1611(慶長16)年には、謝礼使としてビスカイノ使節団が来日しました。田中勝介はこの時、ビスカイノとともに帰国しました。

 しかし、ビスカイノは帰国の船を調達できず、また幕府は岡本大八事件(後述)をきっかけに禁教政策が強化されつつあり、カトリック国スペインとの貿易をすすめることはきびしい状況となっていました。


《 慶長遣欧使節 》


 こうした中、自領へスペイン船を招来してノヴィスパン(メキシコ)との直接貿易を考えていた仙台藩主伊達政宗(だてまさむね。1567〜1636)は、幕府の許可を受けた上でビスカイノの帰国船を建造し、自分の使者をスペインに派遣することにしました。

 こうして、フランシスコ会修道士ルイス=ソテロを航海の責任者とし、支倉常長(はせくらつねなが。1571〜1622)を使者とする一行が、1613(慶長18)年、陸奥の月浦(つきのうら)から出航しました。一行はノヴィスパン・スペイン・イタリアへと赴き、ローマ教皇パウルス5世にも謁見し、政宗の書状を届けました。これを慶長遣欧使節とよびます。しかし、日本国内での禁教問題もあり、ノヴィスパンとの貿易交渉は不調に終わり、使節は所期の目的を達成することができませんでした。

 なお、「慶長遣欧使節関係資料」(国宝)が2013(平成25)年、世界記憶遺産に登録されました。
 

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A ポルトガル


 ポルトガル商人は明のマカオを根拠地にして、「白糸(しろいと)」と呼ばれた中国産生糸を長崎に持ち込み、巨利を得ていました。そこで幕府は1604(慶長9)年、特定の商人ら(糸割符仲間)に輸入生糸を一括購入させることによって、ポルトガル商人らの利益独占を排除しました。ポルトガル人がパンカダ(パンカド)制と呼ぶこの仕組みを、糸割符(いとわっぷ)制度といいます。

 当初糸割符仲間に参加したのは、長崎・堺・京都三カ所の商人でした。毎年春に輸入生糸の価格を決定し、その価格で輸入生糸を一括購入して、仲間構成員に分配しました。のち大坂・江戸の商人が加わり、五カ所商人と呼ばれました。

 1609(慶長14)年のマードレ=デ=デウス号事件(近年では、ノッサ=セニョーラ=ダ=グラッサ号事件と呼んでいます。有馬晴信によるポルトガル船焼き討ち事件)で一時交渉は中断しましたが、1611(慶長16)年から通商は再開されました。


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●アジア諸国との関係●



@ 中 国 
−正式の国交はなく、貿易は実施する「通商国」−


 秀吉の朝鮮出兵以降、明とは断交状態でした。明との国交回復を目指した家康は、朝鮮や琉球王国を介して交渉したものの、明から拒否され失敗に終わりました。そのため、日明両国間には正式な国交がなく、台湾・ルソン・シャムなどにおいて両国商人が商取引きをするにとどまりました。このように、国交のない国同士の商船が第三国で出会って実施する貿易を、「出会貿易(であいぼうえき)」と称します。

 1644(正保元)年には漢民族国家の明朝が滅び、異民族国家である清朝が中国を支配しました。中華を自称していた明朝が、夷狄(いてき)とさげすんでいた清朝にとって代わられたのです。日本では、この王朝交替を「華夷変態(かいへんたい)」と呼びました。

 清とも正式な国交は開かれませんでした。清は、貿易のみ実施する「通商国」でした。


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A 朝 鮮 
−正式の国交を開いた「通信国」−


 朝鮮と対馬の宗氏との間に1609(慶長14)年、己酉約条(きゆうやくじょう。慶長条約)が結ばれました。この取り決めにより、対馬から釜山へ送られる歳遣船(さいけんせん。1年間に派遣する船)の船数が20隻と決められました。

 また、朝鮮出兵の際に捕虜となった朝鮮人を連れ戻すために、朝鮮から回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)が3回、来日しました。回答は「国書への回答」を意味し、刷還は「捕虜の連れ戻し」を意味します。

 これらの使節には、朝鮮侵略を行った豊臣政権が滅び、徳川氏による新政権がどのような外交方針を採るのかを、探る意味合いがありました。また、朝鮮には日本と友好関係を深め、軍事的対立を避けたいという思惑もありました。それは、北方から侵入する女真族(後金。1636年に国号を清と改名)の脅威に備えるために、朝鮮半島南方の日本に対する警戒を解いて、その兵力を北方に振り向けたかったからです。

 朝鮮とは正式に国交を開いたため、4回目以降は通信使が日本に派遣されました。通信使とは「信(よしみ)を通じる使節」という意味です。なお、第4回目の通信使がその役割を果たして帰国した時、すでに都は女真族(清朝)の大軍のために陥落し、朝鮮王は清朝に臣従させられたあとでした。

 さて、3回の回答兼刷還使を含め、江戸時代通じて全部で12回の通信使が来日しました。江戸往復の途上、各地で盛大な接待・交流会が行われ、両国の友好を深めました。しかし、500人前後の使節団を迎え入れるのには、莫大な費用がかかりました。


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B 琉球王国 −日中両属の「通信国」−


 琉球王国は1609(慶長14)年、島津家久(1576〜1638。薩摩)によって征服され、以後薩摩藩の統治下に入りました。国王の尚寧(しょうねい。1564〜1620)は江戸へ連行されて将軍徳川秀忠に謁見したのち、琉球にもどされました。

 以後、琉球王国は、日中両属という特殊な状態におかれます。薩摩藩の支配を受けながら、明朝(明朝滅亡後は清朝)の冊封をも受けるという二元的な外交体制をとりつつ、独自の政治体制・風俗を維持していくことになったのです。

 琉球王国は、外交上は正式な国交がある「通信国」として扱われました。琉球からは、琉球王の代替わりごとに謝恩使(しゃおんし)が、将軍の代替わりごとに慶賀使(けいがし)が江戸に派遣されました。江戸時代に、合わせて18回の謝恩使・慶賀使が派遣されました。

 琉球使節が江戸上りする際には、異国情緒を強調する清国風の衣装で行列を仕立てました。江戸幕府は、盛大な行列を庶民に見物させることにより、「将軍様のもとには、はるばる異国からの使者もご機嫌伺いに参府するのだ」という日本的中華思想を演出して、将軍権威の大きさを世間に印象づけようとしたのです。


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C 東南アジアの国々 −日本人の海外進出と日本町の成立−


《 朱印船貿易 》


 日本人の海外進出も盛んで、多くの商人たちの船が東南アジア各地へと渡航しました。主な渡航先は、ルソン・トンキン・アンナン・カンボジア・タイなどでした。

 幕府は彼らに海外渡航を許可する朱印状を与えました。将軍だけが朱印を押すことができたので、将軍が発行する渡航許可状を朱印状といいます。この朱印状をたずさえた貿易船が朱印船です。1604(慶長9)年から1635(寛永12)年までの32年間、記録に残る朱印船の数は355隻ありました。1年間にほぼ11隻の割合で、朱印船が海外に派遣された計算になります。

 朱印状を獲得した人々は100名以上にのぼりましたが、その多くは豪商や幕府の高官、西南大名らでした。

 豪商としては、長崎の末次平蔵(すえつぐへいぞう。?〜1630。1619年に長崎代官になります)、摂津平野の末吉孫左衛門(すえよしまござえもん。1570〜1617)、京都の角倉了以(すみのくらりょうい。1554〜1614)・茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう。四郎次郎は茶屋家歴代の通称。ここでは3代清次)、堺の今井宗薫(いまいそうくん。1552〜1627。秀吉・家康に仕え茶人としても有名)、博多の島井宗室(しまいそうしつ。1539〜1615。茶人としても有名)らがよく知られています。

 また大名には、島津家久(1576〜1638。薩摩)・有馬晴信(1567?〜1612。肥前)らがいました。

 輸入品は、生糸・絹織物・砂糖・鹿皮(しかがわ)・鮫皮(さめがわ)などアジア産のものがおもで、ヨーロッパ産のものはラシャなどの織物がありました。この中でも中国産の生糸が重要な輸入品でした。

 日本からは銀・銅・鉄などの鉱産資源を輸出しました。この中では、銀が重要な輸出品でした。何しろ当時の日本の銀輸出額は世界の銀産出額の3分の1に及び、世界経済は日本銀を抜きにしては語れないほどだったのですから。


《 日本町の成立 》


 朱印船貿易が盛んになると、海外に移住する日本人も増加し、東南アジア各地に自治制をしいた日本人居住地がつくられました。これを日本町(にほんまち)といいます。フェフォ・ツーラン(コーチ)、プノンペン・ピニャルー(カンボジア)、アユタヤ(シャム)、ディラオ・サンミゲル(ルソン)、アラカン(ビルマ)などに日本町が形成されました。

 なお、東南アジアには、中国人町やポルトガル人町が形成されることもありました。

 日本町の中には、海外へ追放されたキリシタンや帰国できなくなった日本人などで、人口がふくれあがった町もありました。しかし、こうした日本町もしだいに現地の人々と同化して、しだいに消滅していきました。

 海外で活躍した日本人としては、山田長政(やまだながまさ。?〜1630)や和田理左衛門(わだりざえもん。?〜1667)が有名です。

 アユタヤにあった日本町の長であった山田長政は、アユタヤ王室に重く用いられ、リゴール(六昆)太守(長官)となりました。またトンキン王に信頼された和田理左衛門は、トンキンを拠点にマカオ・シャム・バタビアなどとの貿易に活躍しました。


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 (1598年、東洋を目指してロッテルダムを出港した5隻のオランダ船は、南アフリカ南端を回って太平洋に入るコースを目指した。しかし、嵐やスペイン・ポルトガル船の襲撃にあい、東洋にたどり着いたのはリーフデ号だけだった)

 日本に着岸せんと欲しけるに、日本人、是(これ)を海賊なりと謂(い)ひて、舶及び載貨(積んでいた荷物)を悉(ことごと)く奪ひたり。舶中の者も、捕虜となれる者の外は、生命も危(あやう)かりし。

 家康公……右の和蘭(オランダ)人中の一人を見んとて、召されたり。時に、此(この)召しに応じて按鍼役(あんじんやく。水先案内人)「ウィルリアム・アダムス」を出したり。此者ハ英吉利(イギリス)の産にて和蘭の東印度公班衛(東インド会社)に勤仕(ごんし)し、「クヮアケルトアク(リーフデ号の船長クワケルナック)」の指麾(しき)を受けて「エラスミュス(リーフデ号の前名はエラスムス号といった)」に乗れるものなり。……将軍(家康)、是に以西把尼亜(イスパニア)及び波爾杜瓦爾(ポルトガル)のことを尋問あり。此時、右の二国は和蘭の敵国なれば「アダムス」の答に此二国を称賛せざること知るべし……「アダムス」及び余の数人ハ暫(しばらく)く大坂の城中に囚(とら)ハるニ、後(のち)竟(つい)に日本に留(とどま)ることを命ぜらる。

(フィッセル著・杉田信他訳『日本風俗備考』国立国会図書館蔵(http://www.ndl.go.jp/nichiran/data/L/034/034-002l.html。2017年1月6日閲覧)。読みやすいよう漢字は現行のものに改め、適宜句読点を配した)