中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年経(た)っても一寸(ちょい)とも動かぬという有様、家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟(はさ)まっている者も同様、何年経っても一寸(ちょい)とも変化というものがない。 ( 中略 )
こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。また初生児の行末を謀り、これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深き、私は毎度このことを思い出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私のために門閥制度は親の敵(かたき)で御座る。
(福沢諭吉著・富田正文校訂『新訂 福翁自伝』1978年、岩波文庫、P.11〜12)
●身分と社会● |
●村と百姓● |
◆白川郷での屋根の葺き替え 「白川郷(しらかわごう。岐阜県)・五箇山(ごかやま。富山県)の合掌造り集落」(1995年に世界遺産に登録)は、日本有数の豪雪地帯にあり、かつては周辺地域と隔絶していました。浄土真宗の信者が多く隣人同士の結束力が強かったこともあって、この地域では「結(ゆい)」による協力体制が発展しました。「結」というのは、田植え・稲刈り・屋根の葺き替え等、一時に大量の人手が必要な時に、労働力を貸し借りすることをいいます。労働力の貸借は、等量交換が原則でした。 白川郷の家屋は3〜5階建てで、一般の日本家屋と比べて巨大です。農耕地が少ない当地域では、生計を立てるための養蚕・紙漉き作業用に、広い屋内空間が必要でした。また、明治時代まで大家族制が維持されてきたことも、家屋が大きかった理由の一つです。 「家屋が巨大」ということは、茅葺き屋根もまた巨大ということです。屋根は30〜40年に1度、茅を葺き替える必要がありますが、家族のみではとうてい人手が足りません。しかし、「結」の慣行があった白川郷では、村民100〜200人が総出で、屋根の葺き替えにはたった1日しかかからなかったそうです。 【参考】 ・世界遺産検定事務局『くわしく学ぶ世界遺産300』2015年第6刷(2013年初版)、P.48〜49 |
◆「田畑永代売買の禁令」と「田畑勝手作の禁令」という単独法令はなかった 「田畑永代売買の禁令」と称する独立した法令はありません。寛永の飢饉対策のために出された二つの郷村仕置定(ごうそんしおきさだめ)にあるそれぞれ一か条を、総称して「田畑永代売買の禁令」と呼んでいるのにすぎません。その一つは「田畑永代の売買仕るまじき事」という条文。もう一つは「一、身上(しんじょう)よき百姓は田地を買取り、いよいよ宜(よろ)しくなり、身体(しんだい)ならざる者は田畠を沽却(こきゃく。売却)せしめ、なおなお身上なるべからず候あいだ、向後(きょうこう。今後)、田畠売買停止(ちょうじ)たるべき事」という条文。しかも、これらの「田畑永代売買の禁令」は、全国を対象としたものではありませんでした。前者は関東の幕府領・旗本領を、後者は関東の幕府領を対象としたものに過ぎません(藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ シリーズ日本近世史@』2015年、岩波新書、P.217〜218参照)。 同じく「田畑勝手作の禁令」も、単独法令の形で出されたのではありません。農村に出した法令の中に、「煙草を作ってはいけない」などの条文を書き加えたものです。こうした条文で、現在確認されているものはわずかに3例。しかも「勝手作」という言葉さえ使用されていないのです(本城正徳「田畑勝手作の禁」の再検証-近世前期幕府商品作物政策の実像-、『歴史と地理690・日本史の研究251』2015年12月、山川出版社所収による)。 |
◆慶安の触書」は出されたか? 「米を食いつぶさないようにしろ」「美人でスタイルがよくても、大茶を飲み物見遊山(ものみゆさん)好きな女房なら離縁してしまえ」「年貢さえ済ましてしまえば百姓ほど気楽なものはない」など、とんでもないアドバイス(?)がつらつら書かれていることで有名な「慶安の触書」。 しかし1649(慶安2)年に幕府法として「慶安の触書」なる法令が出されたという事実は、今日、ほぼ否定されています。たとえば、江戸幕府が編纂した『御触書寛保集成』(1615〜1743年の触書を採録)のどこを探しても、「慶安の触書」は載っていないのです。 近年の研究に寄れば、甲斐(かい。山梨県)から信濃(しなの。長野県)にかけて流布していた地域的教諭書「百姓身持之事(ひゃくしょうみもちのこと)」をもとに、1697(元禄10)年に甲府徳川藩領において改訂された「百姓身持之覚書(ひゃくしょうみもちのおぼえがき)」が発令されました。この「百姓身持覚書」が、19世紀半ばに幕府学問所総裁林述斎(はやしじゅつさい)の手によって、「1649年発令の幕府法『慶安の触書』」として美濃(みの。岐阜県)岩村藩で木版印刷され、全国に広まったとされています。 林述斎は、岩村藩主松平乗薀(まつだいのりもり)の実子で、1793年に幕府学問所総裁大学頭(だいがくのかみ)林信敬(はやしのぶたか)の養子となりました。そもその岩村藩とは縁の深い人物なのです。 さらに、明治時代になって活字印刷の『徳川禁令考』(司法省編纂)に収録されたことが、「慶安の触書」の知名度を高め、「全国的な幕府法」という認識の定着を促したと考えられているのです。 【参考】 ・山本英二『慶安の触書は出されたか』2002年、山川出版社(日本史リブレット38) |
●町と町人● |
◆江戸の人口は2億4千万人? 「18世紀前半、江戸の人口は100万人前後に達したと推定される」。日本史の教科書にはそう書いてありますが、果たして本当でしょうか。 江戸の人口については、300万人説、140万人説など、かつてはさまざまな説が飛び交っていました。その原因は、江戸の人口に関する史料の不備に起因します。 たとえば、1724(享保9)年と1815(文化12)の人口データを下に示しました。江戸の人口は江戸時代前期に急増し、中期から幕末までほぼ停滞していたといわれます。もしも「人口の停滞」が事実なら、@とAの人口データはほぼ一致するはずです。 @ 1724年の江戸人口(出典:『柳烟随筆(りゅうえんずいひつ)』) 町 方 588,325人 武 家 53,865人 合 計 642,190人 A 1815年の江戸人口(出典:『甲子夜話(かっしやわ)』) 町 方 532,710人 出 家 26,090人 山 伏 3,081人 新吉原 8,480人 武 家 236,580,390人 合 計 237,150,751人 Aの史料では、江戸の中に、何と2億4千万人の人々が住んでいたことになっています。現在の日本の総人口が約1億3千万人ですから、およそ2倍ですね。 @・Aそれぞれの合計が異なる最大の原因は、武家人口の差にあります。参勤交代で武家の出入りの激しい江戸では、武家人口の把握が困難だったのでしょう。 ちなみに町方の人口は、他の史料を見ても55万〜60万人前後です。ですから、町方人口は少なくとも50万人はいたはずです。そこで、武家人口も同数くらいだったろうと考え、50万人+50万人=100万人ということになったのです。 【参考】 ・大石慎三カ『江戸時代』1977年、中公新書、P.113〜117 |