●朝廷の統制



@ 江戸幕府の朝廷政策


 家康は、後陽成天皇を譲位させ、後水尾天皇(ごみずのおてんのう。1596〜1680)を擁立しました。武家の意向によって、天皇の譲位・即位が左右されたのです。こうして、朝廷権威をしのぐ幕府権力の強大さが天下に示されました。

 そして、1615(元和元)年には禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定して、朝廷運営の基準を示しました。

 また幕府は、京都所司代に朝廷監視の役割を担わせ、公家を利用して朝廷をコントロールしようとしました。関白・三公(太政大臣・左大臣・右大臣)を輩出する摂家に朝廷内の主導権をもたせ、また公家の中から武家伝奏(ぶけてんそう)2名を選んで、朝廷と幕府をつなぐ窓口としました。こうして幕府・朝廷間のやりとりは、京都所司代や摂家・武家伝奏らを通じて行われることになりました。

 さらに1620(元和6)年、秀忠の娘和子(まさこ)が後水尾天皇に入内(じゅだい)したのを機に、朝廷内に武家を送り込んだのです。朝廷が決定していた改元・改暦等に関しても、これ以降、幕府の承諾が必要となりました。

 こうした中1629(寛永6)年、幕府の同意を得ないで、後水尾天皇が突然譲位するという事件がおこりました。幕府の意向を無視した突然の譲位は、紫衣事件(しえじけん。後述)に対する天皇の不満がきっかけだったといわれています。幕府は2度とこうした不祥事が生じないように摂家と武家伝奏を叱責し、彼らに厳重な朝廷統制を命じました。

 このようにして整えられていった朝廷統制の基本的な枠組みは、幕末まで維持されました。

 次に、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)と紫衣事件を取り上げ、幕府の朝廷統制の実際を見てみましょう。


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A 禁中並公家諸法度の制定(1615)


 1615(元和元)年、金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草し、前将軍家康・2代将軍秀忠、五摂家の長老二条昭実(にじょうあきざね。のち関白に復帰)を連判者とする禁中並公家諸法度が出されました。

 禁中並公家諸法度は「徳川幕府が武家の価値観を一方的に天皇・公家たちに押しつけたもの」と従来は評価されてきました。しかし、連判者の顔ぶれを見ると、武家と朝廷が共同で制定・発布するという体裁をとっていたことがわかります。形の上では双方が同意していたのです。

 武家諸法度が少しずつ改訂を繰り返しながら、将軍の代替わりごとに発布されたのと異なり、禁中並公家諸法度は幕末まで一度も改訂されることがありませんでした。

 なお、従来は「禁中並公家諸法度」と呼び習わされてきましたが、近年の研究で「禁中並公家中諸法度」が正しい名称であると指摘されています。


《 内 容 》


 全17条からなる法度は漢文で書かれ、朝廷運営の基準が示されていました。

 その内容は、


   (1) 天皇の学問奨励
   (2) 親王・大臣らの席次
   (3) 器量による三公(太政大臣・左大臣・右大臣)・摂関への任免
   (4) 武家・公家の同一官職への任官許容及び武家官位の公家官位からの切り離し
   (5) 改元の選定法
   (6) 紫衣(しえ)・上人(しょうにん)号の勅許の条件


などでした。

 特に第一条の


  「天子諸芸能の事、第一御学問也
(天皇が修得すべき諸芸能の第一は学問である)


という規定は、武家が初めて天皇の行動を規定した条文として有名です。

 この条文は「天皇を学問に専念させて政治から遠ざけるための規定」と従来は考えられてきました。しかし近年では「朝廷が政治に関わらないことはすでに伝統となっている。ここでいう学問とは「有職」の一種としての学問であって、武家中心の政治体制を補完する役割を朝廷に期待したものだ
(注)」という解釈が出されています。


(注)第一条は、順徳天皇(在位1210〜21)がその皇子のために天皇としての日常の作法や教養のあり方を説いた『禁秘抄』の一節を引写したものであり、この条でいう「学問」とは、『禁秘抄』のような書物や記録をよく読んで古くからの天皇のあり方を知る、いわゆる「有職」の一種だといいます。鎌倉幕府開設以来、朝廷が政治に関与しないことは伝統として確立していました。そして、天皇・公家は武家(将軍)を中心とする政治体制の中で国家支配を補完する役割を果してきました。高木昭作氏は「家康は天皇・公家がひきつづきそうした役割を担うことを要求したのであった。そしてそれには、天皇・公家がそれぞれの家に伝来した「学問」を学ぶことが不可欠だったのである」と述べています。(井上光貞他編『日本歴史大系3・近世』1988年、山川出版社、P.178〜179による)


 しかし、朝廷の専権事項である人事にまで介入し、摂家や武家伝奏を通じて公家たちを直接統制しようとしていたのですから、従来とは異なる幕府からの圧力を公家たちはひしひしと感じていたに違いありません。

 特に幕府が朝廷に強く要求したことの一つに、紫衣(しえ)・上人(しょうにん)号の勅許に慎重を期すことがありました。

 紫衣というのは高僧が賜る紫色の袈裟のことです。上人号というのも高僧に与えられる称号です。朝廷はこれらを勅許する見返りに、一定の収入を得ていました。紫衣勅許が乱発されている状況を苦々しく見ていた幕府は、禁中並公家諸法度の発令に先立つ1613(慶長18)年に勅許紫衣法度(ちょっきょしえはっと)を出して、


   (1) みだりに紫衣を勅許しないこと
   (2) 紫衣を勅許する場合には幕府に連絡すること


などを朝廷に伝えていました。


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B 紫衣事件(1627)


  禁中並公家諸法度は、先行する公家衆御条目や勅許紫衣法度を踏まえて発布されたものでした。ですから1615(元和元)年になって突然、紫衣規制が行われたわけではありません。

 しかし、後水尾天皇が幕府に連絡することもなく、紫衣勅許を続けました。これに対し幕府は「1615(元和元)年以降に勅許された紫衣と上人号は無効である」と宣言したのです。

 この宣言に驚いた大徳寺や妙心寺の僧たちは、幕府の処置に激しく抗議しました。しかし、幕府は、抗議を続ける沢庵宗彭(たくあんそうほう。1573〜1645)らを配流に処すという厳しい態度で臨みました
(注)。1627(寛永4)年に起こったこの一連の事件を、紫衣事件といいます。

 幕府の処置に激怒した天皇は、体調が思わしくなかったこともあって、譲位を考えていました。「玉体(天皇の体)を傷付ける」のはタブーでしたので、天皇のままだと鍼灸(しんきゅう)等の治療が受けられなかったためです。

 最初は中宮和子(まさこ。2代将軍秀忠の娘。東福門院)が産んだ親王へ譲位しようと考えていました。しかし翌年、親王は急逝してしまいました。そこで、わずか7歳の興子内親王(おきこないしんのう)への譲位を決意します。これを明正天皇(めいしょうてんのう。奈良時代の女帝元明天皇・元正天皇それぞれの諡号(しごう)の2文字目を合わせた命名です)といいます。女帝の誕生は、奈良時代の称徳天皇没後、859年ぶりのできごとでした。

 突然の譲位でしたが、明正天皇が秀忠の孫だったこともあり、幕府は譲位を追認しました。しかし、この時幕府は、今後このような失態がないよう、摂家と武家伝奏に厳重な朝廷統制を命じました。

 なお、紫衣勅許の制限は1641(寛永18)年には緩和され、京都所司代の承認を得ればよいことになりました。


(注)幕府は大徳寺住職の沢庵宗彭を出羽上山(かみのやま)へ、同寺前住職玉室宗珀(ぎょくしつとうはく)を陸奧棚倉(たなぐら)へ、妙心寺単伝士印(たんでんしいん)を出羽由利へ、同寺東源慧等(とうげんえとう)を陸奧津軽へ、それぞれ配流に処しました。なお、沢庵は上山隠棲中に保存食の沢庵漬(たくわんづけ)を作ったといわれます。


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C 朝廷の経済


  朝廷の収入は、禁裏御料(きんりごりょう)、仙洞(せんとう。上皇)・女院(にょいん)・東宮(とうぐう)などの御料、宮家・公家・門跡領などからの年貢米収入が中心でした。禁裏御料が約3万石、その他が約7万石で、すべて合わせると10万石程度ありました。

 これら以外の収入源としては、将軍家・諸大名などからの献上金品(けんじょうきんぴん)、幕府からの無利子の貸付金である御取替金(おとりかえきん)
(注)などがありました。


(注)「取替」は立て替えという意味ですが、幕府は朝廷にその返済をほとんど求めませんでしたから、実質的には朝廷の収入でした。このほか、大嘗祭(だいじょうさい。天皇の即位式)や御所造営などの大規模かつ重要な案件に関しては、幕府がその費用を別途負担することになっていました(佐藤雄介「財政から考える江戸幕府と天皇」−東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく』2014年、中公新書、P.126〜130−)。


《 禁裏御料 》…1万石→3万石に加増


 禁裏御料というのは皇室領のことです。江戸幕府は山城国内を中心に禁裏御料を設定しました
(注)。1601(慶長6)年、家康は禁裏御料として1万石余を皇室に進献しました。これを本御料(ほんごりょう)と称します。その後2度の加増がありました。1623(元和9)年に秀忠が1万石(新御料(しんごりょう))、1705(宝永2)年に綱吉が1万石余(増御料(ましごりょう))を献上したので、禁裏御料はあわせて約3万石になりました。禁裏御料は次代に継承されるものでした。

 禁裏御料の管理は、勘定奉行の命をうけた京都代官が行いました。京都代官は京都郡代(のちの京都町奉行)が兼務しましたが、1680(延宝8)年以後は独立して小堀氏が代々この任に当たりました。小堀氏は京都所司代の命を受け、貢納米の管理など御料所の事務を扱いました。

 朝廷の支出は米穀・貨幣の二本立てでした。皇室の経費だけでなく、廷臣への禄米もここから支給されました。


(注)国立歴史民俗博物館(略称れきはく)が『旧高旧領取調帳』のデータベースを公開しています。
   (ホームページは「http://www.rekihaku.ac.jp/doc/t-db-index.html」を参照のこと)
  「旧国名」を「旧領名」に変え「元御料」と入力として検索をかければ、禁裏御料に含まれた具体的な村名・村高等を簡単に調べることができます。


《 仙洞(せんとう)御料・女院(にょいん)御料・東宮(とうぐう)御料 》…約1万石


 禁裏御料が代々継承されたの対し、仙洞(上皇)・女院・東宮(皇太子)などの御料は1代限りのものでした。これらの御料には、仙洞御料なら○○石、女院御料なら△△石などというように決まった石高があったわけではありませんでした。

 たとえば、仙洞御料についてみると、後陽成上皇が2,000石、後水尾上皇は1万石余というように、同じ上皇であってもその石高には大きな差がありました。しかし18世紀にはいると、おおよそ7,000石〜1万石の間に落ち着いたようです。


《 宮家領・公家領・門跡領 》…約6万石


 宮家・公家・門跡(皇族や身分の高い貴族などで出家した者)などにも幕府から知行が与えられました。その石高(江戸中期)は、四宮家(伏見宮ふしみのみや・桂宮かつらのみや・有栖川宮ありすがわのみや・閑院宮かんいんのみや)に計6,000石、102の公家に計4万石余、門跡に計1万6,000石余で、合わせて約6万石が支給されていました。


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●寺社の統制



@ 寺院統制



 寺社は寺社奉行の支配下にあり、その経済的基盤(寺社領)は約40万石ありました。

 幕府は民衆を支配するために、特に寺院を積極的に利用しました。ここでは本末制度(ほんまつせいど)・諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)と寺請制度(てらうけせいど)について説明します。


《 本末制度と諸宗寺院法度 》


 寺院は、室町時代になって、各宗派ごとに
本山(宗派の中心寺院)・末寺(一般寺院)という上下関係が形成されていくようになりました。本格的に確立するのは、江戸幕府が寺院法度(じいんはっと)を発布してからです。

 寺院法度は、当初は宗派ごとに、各本山に対して出されていました。しかし、寛文5(1665)年7月、幕府は宗派・寺院の枠を超え、仏教寺院の僧侶全体を共通に統制するために、共通の諸宗寺院法度を出しました。

 諸宗寺院法度では、本山に末寺住職の任免権を与えるとともに、末寺には本山の命令に絶対服従することを義務づけました。このようにして、檀家(だんか。寺院からみた信者の家を檀家といいます)を経営基盤にする末寺と、末寺を経営基盤にする本山という構造が成立していきました。

 また幕府は、各宗派の本山に対して本山・末寺関係を記載した「寺院本末帳(じいんほんまつちょう)の作成・提出をしばしば命じ、本末制度の維持に努めさせました。各本山から提出させた「寺院本末帳」は、幕府によって「諸宗末寺帳(しょしゅうまつじちょう)という一覧表に集約されました。このようにして構築したデータベースを、幕府は寺院統制や民衆の宗教統制・社会統制に活用していったのです
(注)


(注)各宗派の本山から幕府に提出された帳簿が「寺院本末帳」、それを幕府でまとめたものが「諸宗末寺帳」です。国立公文書館デジタルアーカイブによると、「諸宗末寺帳」は次のように説明されています。
「寛永9,10年(1632,33)幕府の命令で提出された全国の諸宗(天台、浄土真宗を除く)の本寺と末寺の一覧表で、末寺の所在地・寺名・寺領石高を列記しています。所収寺院数は一万二千余寺に及んでいます。 現存最古の末寺帳で、江戸時代初期の寺院の本末関係を知るための基本資料です。平成元年国の重要文化財に指定されました」
(https://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0100000000/0000001201、2016年3月1日参照)



《 檀家制度と寺請制度 》



 幕府は、人々にキリスト教や日蓮宗不受布施派(ふじゅふせは。法華を信じない者の施しを受けず、また施しをせずとする日蓮宗の一派。幕府権力よりも宗教が優越するといった信仰をもっていました)等の信仰を禁止しました。

 そして宗門改め(しゅうもんあらため)を実施し、人々に仏教への転宗を強制しました
(注)。その結果、人々はいずれかの仏教寺院に所属することとなり、「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)という帳簿に記載されました。


(注)仏教以外の宗教がすべて禁止されたわけではありません。神道や修験道・陰陽道なども、認められていました。


 幕府は、各宗ごとにつくらせたピラミッド型の寺院組織(本末制度)の末寺に、檀家として人々を所属させました。これを檀家制度(だんかせいど)といいます。

 檀家制度の下での寺院は、一般民衆の宗派や身元を証明する役割を担いました。寺院は檀家の人々を「誰々は、○○宗である私ども△△寺の信者に間違いありません」と証明する寺請証文(てらうけしょうもん)を発行する機能をもちました。こうして人々は、寺請証文がなければ旅行も婚姻も奉公もできなくなってしまいました。こうした仕組みを寺請制度(てらうけせいど)といいます。


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A 神社統制・その他


 神社・神職に対しても、1665(寛文5)年に諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)を発布しました。

 神社・神職の統制にあたったのが、公家の吉田家と白川家(神祇伯)です。特に吉田家は、諸国の神社に神位を授与して、神社・神職の序列化をはかっていきました。

 修験道(しゅげんどう)は、天台系(本山派)は聖護院(しょうごいん)門跡が、真言系(当山派)は醍醐寺三宝院(だいごじさんぽういん)門跡が本山として、それぞれ修験者(しゅげんじゃ)を支配しました。

 また陰陽道(おんみょうどう)では、公家の土御門家(つちみかどけ)が全国の陰陽師(おんみょうじ)を支配しました。


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35.朝廷と寺社

 天皇は、紫衣・上人号勅許が無効とされた直後に譲位の意向を示すが、中宮和子の子である高仁(たかひと)親王の死を機に天皇は女一宮(おんないちのみや)への譲位を幕府に伝えるが、秀忠から「いまたをそからぬ御事」と譲位延期が伝えられる。さらに同6年(寛永6年、1629年)天皇は持病の痔の治療を理由に譲位の意向を三たび表明する。痔の治療には灸が効果があるとされていたが、天皇の体を傷付ける治療はタブーとされていた。相談を受けた摂家衆も譲位やむなしとするが、女一宮の即位に反対の幕府は返答を遅らせる。

 こうしたなか寛永6年上洛した家光の乳母(めのと)の福が天皇への拝謁を望む。天皇にとっては無位無官のものの拝謁は受け入れがたかったが、福が武家伝奏三条西実条(さんじょうにしさねえだ)の妹分となり、拝謁を実現させる。この時天皇は「春日(かすが)」の局(つぼね)号を福に与える。

 この一件の直後、天皇は女一宮興子(おきこ)の内親王宣下を決め、11月8日「俄(にわか)の譲位」を決行する。これに驚いた所司代板倉重宗(いたくらしげむね)は「俄の御譲位」「言語道断の事」と怒りをあらわにするが、もはや如何ともしがたく、中宮付の天野長信(あまのながのぶ)が顛末(てんまつ)を知らせるために江戸に向け京都を発(た)つ。

 (藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ』2015年、岩波新書、P.169〜170)