天皇は、紫衣・上人号勅許が無効とされた直後に譲位の意向を示すが、中宮和子の子である高仁(たかひと)親王の死を機に天皇は女一宮(おんないちのみや)への譲位を幕府に伝えるが、秀忠から「いまたをそからぬ御事」と譲位延期が伝えられる。さらに同6年(寛永6年、1629年)天皇は持病の痔の治療を理由に譲位の意向を三たび表明する。痔の治療には灸が効果があるとされていたが、天皇の体を傷付ける治療はタブーとされていた。相談を受けた摂家衆も譲位やむなしとするが、女一宮の即位に反対の幕府は返答を遅らせる。
こうしたなか寛永6年上洛した家光の乳母(めのと)の福が天皇への拝謁を望む。天皇にとっては無位無官のものの拝謁は受け入れがたかったが、福が武家伝奏三条西実条(さんじょうにしさねえだ)の妹分となり、拝謁を実現させる。この時天皇は「春日(かすが)」の局(つぼね)号を福に与える。
この一件の直後、天皇は女一宮興子(おきこ)の内親王宣下を決め、11月8日「俄(にわか)の譲位」を決行する。これに驚いた所司代板倉重宗(いたくらしげむね)は「俄の御譲位」「言語道断の事」と怒りをあらわにするが、もはや如何ともしがたく、中宮付の天野長信(あまのながのぶ)が顛末(てんまつ)を知らせるために江戸に向け京都を発(た)つ。
(藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ』2015年、岩波新書、P.169〜170)