(死の前日、家康は、秘蔵の刀で罪人を試し切りさせた。その血のついた刀を二、三度振るや、「この剣で永く子々孫々の代まで守ろう」といい、それを枕元においたまま息を引き取った。以下はその場面である)
(元和2(1616)年4月16日)
納戸番(なんどばん)都築九大夫景忠(つづききゅうだゆうかげただ)をめし、常に御秘愛ありし、三池の御刀(刀工三池典太(みいけのりひろ)が製作した刀)をとり出さしめ、町奉行彦坂九兵衛光正(ひこさかきゅうべえみつまさ)に授けられ、
「死刑に定まりしものあらば此(この)刀にて試みよ。もしさるものなくば試みるに及ばず」
と命ぜらる。光正、九大夫と共に刑場にゆき、やがてかへりきて、
「仰(おおせ)のごとく罪人をためしつるに、心地よく土壇(どだん)まで切込(きりこみ)し」
と申上(もうしあぐ)れば、
「枕刀(まくらがたな)にかへ置(おく)」
とのたまひ、二振(ふたふり)三振(みふり)打(うち)ふり給(たま)ひ、
「剣威もて子孫の末までも鎮護せん」
と宣(のたま)ひ、榊原内記清久(さかきばらないききよひさ)に、
「のちに久能山(くのうざん。静岡県にある家康の墓所)に収むべし」
と仰付(おおせつけ)らる。
(元和2(1616)年4月17日。この日家康は死去した)
すでに大漸(たいぜん)に及ばれんとせしとき(「大漸に及ぶ」は身分ある人が亡くなることをいう語。臨終にあたっての意)、 (中 略)
「東国の方はおほかた譜第(ふだい。譜代大名のこと)のものなれば異図(いと)あるべしとも覚えず。西国のかたは心許(こころもと)なく思へば、我像(わがぞう。家康の神像)をば西向(にしむき)に立置(たてお)くべし」
と仰置(おおせおか)れ、かの三池の刀も鋒(きっさき)を西へむけて立置(たておか)れしとなり。
(『東照宮御実紀附録』巻16−新訂増補国史大系・徳川実紀・第一篇、P.285−。読みやすくするため、表記を一部改めた)
●大名とは何か |
●大名統制 |
◆参勤交代の制度化は、大名の経済力削減が目的ではなかった 参勤交代の目的は、将軍への奉公義務を視角化にすることにありました。よく言われるような「大名の経済力削減」は結果であって、目的ではありません。その証拠に、幕府は1617(元和3)年の武家諸法度以来、「行列の従者を減らし、浪費はするな」と諸大名に繰り返し繰り返し自制を求めてきました。 しかし、大名同士の見栄(みえ)の張り合いから、行列の華美の競い合いは止みませんでした。たとえば、加賀100万石の大名行列は5代藩主前田綱紀(つなのり)の頃が4,000人、12代斉広(なりひろ)の頃は3,500人の大編成だったといいます。宿場の通過には数日を要しました。次の俳句(一茶)は、越後柏原宿(かしわばらしゅく)を通過する加賀藩大名行列の延々たる長さを詠んだものです。 跡共(あとども)は 霞(かす)みひきけり 加賀の守(かみ) 参勤交代は、各藩の財政をひどく圧迫しました。国元が遠方の大名ほど旅費が嵩(かさ)むわけですし、江戸在府の費用は片道旅費の同額から倍額かかったといわれます。 半分は江戸へこぼれる雀(すずめ)の餌(えさ) という川柳は、米所仙台藩(「竹に雀」紋は仙台藩主伊達氏の家紋)の収入の半分が、参勤交代や在府費用として消費されてしまうと言っています。ですから大名達は経費を節約するために宿泊数を切り詰めたり、食費等を抑えたりするなど、さまざまな工夫・努力を重ねました。 しかし、そんな涙ぐましい奮闘ぶりも、庶民にとっては権力者をからかうネタの一つでしかなかったのです。 人の悪いは鍋島(なべしま)・薩摩、暮れ六つ泊まりの七つ立ち (旅行費用を節約するために、午後6時頃着、午前4時頃発の強行軍で移動距離をかせごうとした) お国は大和の郡山(こおりやま)、お高は十と五万石、茶代がたった二百文 (大和郡山の柳沢甲斐守は15万石の大名のくせに茶代200文しか金を使わない) 松本丹波(たんば)のくそ丹波、くそといわれても銭出さぬ (信州松本藩6万石の戸田丹波守(とだたんばのかみ)に至っては、1文も宿場に金を落とさない) 【参考】 ・渡邊容子「参勤交代について」 (華頂短期大学博物館が学芸員課程『華頂博物館学研究』第5号、1998年12月所収) ・早川明夫「参勤交代のねらいは?−「参勤交代」の授業における留意点−」 (文教大学『教育研究所紀要』2007年12月所収) |
●旗本・御家人とは何か |