34.大名と旗本・御家人

(死の前日、家康は、秘蔵の刀で罪人を試し切りさせた。その血のついた刀を二、三度振るや、「この剣で永く子々孫々の代まで守ろう」といい、それを枕元においたまま息を引き取った。以下はその場面である)

(元和2(1616)年4月16日)

 納戸番(なんどばん)都築九大夫景忠(つづききゅうだゆうかげただ)をめし、常に御秘愛ありし、三池の御刀(刀工三池典太(みいけのりひろ)が製作した刀)をとり出さしめ、町奉行彦坂九兵衛光正(ひこさかきゅうべえみつまさ)に授けられ、
「死刑に定まりしものあらば此(この)刀にて試みよ。もしさるものなくば試みるに及ばず」
と命ぜらる。光正、九大夫と共に刑場にゆき、やがてかへりきて、
「仰(おおせ)のごとく罪人をためしつるに、心地よく土壇(どだん)まで切込(きりこみ)し」
と申上(もうしあぐ)れば、
「枕刀(まくらがたな)にかへ置(おく)」
とのたまひ、二振(ふたふり)三振(みふり)打(うち)ふり給(たま)ひ、
「剣威もて子孫の末までも鎮護せん」
と宣(のたま)ひ、榊原内記清久(さかきばらないききよひさ)に
「のちに久能山(くのうざん。静岡県にある家康の墓所)に収むべし」
と仰付(おおせつけ)らる。

(元和2(1616)年4月17日。この日家康は死去した)

 すでに大漸(たいぜん)に及ばれんとせしとき(「大漸に及ぶ」は身分ある人が亡くなることをいう語。臨終にあたっての意)、 (中 略) 

「東国の方はおほかた譜第(ふだい。譜代大名のこと)のものなれば異図(いと)あるべしとも覚えず。西国のかたは心許(こころもと)なく思へば、我像(わがぞう。家康の神像)をば西向(にしむき)に立置(たてお)くべし」

と仰置(おおせおか)れ、かの三池の刀も鋒(きっさき)を西へむけて立置(たておか)れしとなり。

(『東照宮御実紀附録』巻16−新訂増補国史大系・徳川実紀・第一篇、P.285−。読みやすくするため、表記を一部改めた)


●大名とは何か



@ 大名の種類


 将軍直属の臣下で、石高1万石以上のもの大名(だいみょう)といい、大名の支配する領国を(はん)といいます。

 「藩」という呼称は、江戸時代の儒学者が使い始めた言い方(たとえば新井白石の『藩翰譜(はんかんふ)』は大名の系譜を記したものです)で、中国で天子を守る諸侯を「藩屏(はんぺい。垣根や囲いのこと)」にたとえたことに由来します。当時は、単に「国」とか「国元」とかよんでいたようです。増減はありますが、江戸時代通じて約270藩ありました。

 朝廷から獲得した官位の高低、領地の大小、江戸城内での席次、将軍との親疎関係などにより、大名の格式やその上下関係はほぼ定まっていました。
 
 官位の高低というのは、貴族とは別に大名に与えられた受領名(ずりょうめい。伊勢守(いせのかみ)、上総介(かずさのすけ)など)や一位、二位とかいった位階のことです。

 領地の大小というのは、支配領域の大小のほか城郭を所有しているか否かということです。順に国主(国持)、準国主、城主(城持)、城主格、領主(無城)などというランクがありました。

 江戸城内での席次というのは、大名が登城した際、江戸城内に控えている場所のことです。順に大廊下(おおろうか。御三家)、溜間(たまりのま)、大広間(おおひろま。国主・準国主・御家門・4位の外様)、帝鑑間(ていかんのま。譜代)、柳間(やなぎのま。5位の外様)、雁間(かりのま。譜代・詰衆)、菊間(きくのま。無城の譜代)などというランクがありました。

 将軍との親疎関係というのは、親藩(しんぱん)・譜代(ふだい)・外様(とざま)のことです。次にこれを説明しましょう。


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A 親 藩 −将軍の親戚−


  親藩は家康の子孫を封(ほう)じた家で、いわば将軍の親戚です。御家門(ごかもん)とも呼ばれました。


《 御三家(ごさんけ) 》


 もっとも重要なのは、御三家(または三家)です。

 御三家は、徳川家康の第九子義直(よしなお)を祖とする尾張徳川家、第十子頼宣(よりのぶ)を祖とする紀伊徳川家、第十一子頼房(よりふさ)を祖とする水戸徳川家の三家を指します。御三家は、将軍家に後継者がいない場合に、将軍を出す家柄です。

 こうした意味合いをもつ御三家に対して、家康は最も信頼する老臣を家老として送り込みました。これを付家老(つけがろう)といいます。尾張徳川家の成瀬家(なるせけ)と竹越家(たけのこしけ)、紀伊徳川家の安藤家(あんどうけ)と水野家(みずのけ)、水戸徳川家の中山家(なかやまけ)です。

 御三家のほかには結城秀康(ゆうきひでやす。家康の子)を祖とする越前松平家と保科正之(ほしなまさゆき。徳川秀忠の子)を祖とする会津松平家の二松平家、御三家の子孫である美濃高須の松平家・伊予西条の松平家の連枝(れんし。8代将軍吉宗の時代に譜代大名になりました)、池田(因幡(いなば)鳥取)・久松(ひさまつ。伊予松山)・久松(伊勢桑名)・奥平(おくだいら。武蔵(むさし)忍(おし))・松平(石見(いわみ)浜田)各家の準家門(じゅんかもん)などがありました。


《 御三卿(ごさんきょう) 》


 大名には数えませんが江戸城内に居住して、10万石以上の給与(現米支給)を受ける御三卿(または三卿)も重要です。

 田安(たやす。吉宗の第三子宗武(むねたけ)を祖)・一橋(ひとつばし。吉宗の第四子宗尹(むねただ)を祖)・清水(しみず。9代将軍家重の第二子重好(しげよし)を祖)の三家です。

 田安・一橋・清水というのは、江戸城内の門の名前です。各門内に屋敷があったので、田安家・一橋家・清水家と通称されますが、正式には「徳川」を名乗りました。

 御三卿の「卿」は三位以上の者に付される敬称です。宗武の官位が従三位(じゅさんみ)右衛門督(うえもんのかみ)、宗尹が従三位刑部卿(ぎょうぶきょう)、重好が従三位宮内卿(くないきょう)だったので、御三卿と呼ばれたのです。

 御三卿を創設した当時は幕府草創から100年以上も時が経ち、御三家の子孫も将軍家との血縁が遠くなっていました。御三卿は御三家に次ぐ格式でしたが、御三家より将軍家に近い存在として、非常の際には将軍後継者を出す家とみなされました。11代将軍家斉(いえなり。一橋家)、15代将軍慶喜(よしのぶ。水戸徳川家出身で一橋家に養子に入りました)は、御三卿出身の将軍です。


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A 譜代大名−関ヶ原以前から徳川氏に臣従した大名たち−


 譜代(または譜代大名)というのは、関ヶ原の戦い以前から徳川氏に臣従してきた大名のことですが、関ヶ原の戦い以降に取り立てられた大名も少なからず見られます。

 徳川氏と臣従した時期によって、グループ化された呼称があります。古い方から、安祥譜代(あんじょうふだい。酒井、阿部、本多など)、岡崎譜代(おかざきふだい。井伊、榊原、水野など)、駿河譜代(するがふだい。板倉、堀田、牧野など)とよばれます。


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B 外様大名−関ヶ原以後に徳川氏に臣従した大名たち−


 外様(または外様大名)は、表大名(おもてだいみょう)・上方衆(かみがたしゅう)・国衆(くにしゅう)などとも呼ばれました。関ヶ原の戦い以後に徳川氏に臣従した大名です。国持大名(くにもちだいみょう。1国以上を領する大名)の大部分がこれにあたります。前田(加賀)、島津(薩摩)、毛利(長門)、伊達(仙台)、細川(肥後)などが外様大名です。

 石高は大きいものの、江戸から見て僻遠(へきえん)の地に配置されました。島津・毛利などの諸大名は、関ヶ原の戦いでは、家康の敵方である西軍にくみしました。江戸幕府からみると、信用があまりなかったのです。


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●大名統制



@ 大名配置
−お互いを監視(かんし)・牽制(けんせい)−


 大名の配置は、相互に監視・牽制するように考慮されました。たとえば、関東・東海・畿内といった地域には親藩・譜代大名や幕領(いわゆる「天領」)を配置しました。幕府がもっとも信頼をおく者たちで、要地を固めたのです。一方、遠隔地には外様大名を配置しました。 

 家康は死ぬ間際に「久能山(くのうざん)のわが墓所に、わが像を造って西向きに安置せよ」と遺言しましたが、それは特に西南地域の諸大名の中に、関ヶ原の戦いで家康と敵対した薩摩藩(鹿児島藩)や長州藩(山口藩)などの外様大名が多く配置されていたからです。

 幕府も家康の遺志に従って、西南地方に配置された外様大名にとりわけ目を光らせました。そのひとり、広島城主福島正則(ふくしままさのり)はかつては豊臣秀吉子飼いの大名でしたが、武家諸法度の居城無断修補の罪を問われて、49万8千石を改易(かいえき。取り潰し)されています。


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A 一国一城令(1615)


 関ヶ原の戦いから大坂の陣の頃にかけて、西国地方を中心に城郭の建設ラッシュが続きました。

 こうした状況に対し、「元和偃武(げんなえんぶ)」のなった1615(元和元)年、幕府は一国一城令を出しました。西国地方を対象に、一領国一城を原則として、居城以外の城郭破却を命じました。居城以外の軍事拠点を撤去させることによって、大名の軍事力削減を狙ったのです。

 一方、一国一城令は、領内各所にあった有力家臣たちの居城を破却することにもなりました。有力家臣たちの軍事拠点が一掃され、大名の領内支配はかえって強化されることになったのでした。


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B 武家諸法度(ぶけしょはっと)


《 元和令(げんなれい) 》


 諸大名を法的に統制するために、1615(元和元)年、2代将軍秀忠は武家諸法度13か条(元和令)を令しました。起草したのは金地院崇伝(こんちいんすうでん)です。僧侶ながら政治に参画したので、「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」と呼ばれました。

 文武の奨励、新規築城の禁止、居城の無断修補の禁止、大名間の私婚の禁止等を定めました。


《 寛永令(かんえいれい) 》


 1635(寛永12)年、3代将軍家光は、武家諸法度19か条(寛永令)を定めました。起草したのは林羅山です。寛永令には、参勤交代の制度化と、500石以上の大船建造の禁止が新たな項目として付け加わりました。


一、大名・小名在江戸交替相
(あい)定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。
 従者ノ員数
(いんずう)近来(ちかごろ)(はなは)ダ多シ、且(かつ)ハ国郡ノ費(ついえ)
 且
(かつ)ハ人民ノ労(つかれ)ナリ。向後(きょうこう。今後)ソノ相応(そうおう)ヲ以(もっ)
 コレヲ減少スベシ。但
(ただ)シ上洛(じょうらく)ノ節(せつ)ハ、教令ニ任セ、公役ハ
 分限ニ随フベキ事。

一、五百石以上ノ船、停止
(ちょうじ)ノ事。


 参勤交代制は、将軍へ忠誠を表明する朝勤行為を、大名の奉公義務として制度化したものです。大名に隔年ごとの江戸奉公を求め
(注)、大名妻子の江戸住まいを義務化しました。大名の反乱防止のために、妻子を人質にとったのです。参勤交代が制度化された結果、大名は隔年での在府生活(江戸住まい)と、江戸・国元間の往復義務を負うことになり、多大な出費に藩財政が苦しめられることにもなりました。

 また、大船建造を禁止した1635年は、日本人の海外渡航・帰国を全面禁止した年でもありました。そのため、「大船建造禁止は、いわゆる「鎖国」政策に対応したもの」と説明されることがあります。しかし、大船建造禁止の本来の意図は、大名(特に西国大名)の軍事用大型船の保有を警戒したところにありました。

 その後、武家諸法度は将軍の代替りごとに出されましたが、内容上、大きな変更はありませんでした。


(注)役付大名や関東大名は半年ごと、遠方に位置する対馬の宗氏は3年1勤、水戸藩は定府(じょうふ)といって基本的には江戸に住み、参勤交代の義務はありませんでした。


◆参勤交代の制度化は、大名の経済力削減が目的ではなかった

 参勤交代の目的は、将軍への奉公義務を視角化にすることにありました。よく言われるような「大名の経済力削減」は結果であって、目的ではありません。その証拠に、幕府は1617(元和3)年の武家諸法度以来、「行列の従者を減らし、浪費はするな」と諸大名に繰り返し繰り返し自制を求めてきました。

 しかし、大名同士の見栄(みえ)の張り合いから、行列の華美の競い合いは止みませんでした。たとえば、加賀100万石の大名行列は5代藩主前田綱紀(つなのり)の頃が4,000人、12代斉広(なりひろ)の頃は3,500人の大編成だったといいます。宿場の通過には数日を要しました。次の俳句(一茶)は、越後柏原宿(かしわばらしゅく)を通過する加賀藩大名行列の延々たる長さを詠んだものです。


  跡共
(あとども)は 霞(かす)みひきけり 加賀の守(かみ) 


 参勤交代は、各藩の財政をひどく圧迫しました。国元が遠方の大名ほど旅費が嵩(かさ)むわけですし、江戸在府の費用は片道旅費の同額から倍額かかったといわれます。


  半分は江戸へこぼれる雀
(すずめ)の餌(えさ)


という川柳は、米所仙台藩(「竹に雀」紋は仙台藩主伊達氏の家紋)の収入の半分が、参勤交代や在府費用として消費されてしまうと言っています。ですから大名達は経費を節約するために宿泊数を切り詰めたり、食費等を抑えたりするなど、さまざまな工夫・努力を重ねました。

 しかし、そんな涙ぐましい奮闘ぶりも、庶民にとっては権力者をからかうネタの一つでしかなかったのです。


  人の悪いは鍋島
(なべしま)・薩摩、暮れ六つ泊まりの七つ立ち
  
  (旅行費用を節約するために、午後6時頃着、午前4時頃発の強行軍で移動距離をかせごうとした)

  お国は大和の郡山
(こおりやま)、お高は十と五万石、茶代がたった二百文
   
(大和郡山の柳沢甲斐守は15万石の大名のくせに茶代200文しか金を使わない)

  松本丹波
(たんば)のくそ丹波、くそといわれても銭出さぬ
   (信州松本藩6万石の戸田丹波守(とだたんばのかみ)に至っては、1文も宿場に金を落とさない)


【参考】
・渡邊容子「参勤交代について」
  
(華頂短期大学博物館が学芸員課程『華頂博物館学研究』第5号、1998年12月所収)
・早川明夫「参勤交代のねらいは?−「参勤交代」の授業における留意点−」
   (文教大学『教育研究所紀要』2007年12月所収)


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●旗本・御家人とは何か



@ 旗本と御家人の相違


 大名以外の将軍直属の部下に、旗本(はたもと)と御家人(ごけにん)がいます。封禄が1万石未満の直臣のうち、お目見え以上(将軍に謁見できる、の意)の上級家臣を旗本、お目見え以下(将軍に謁見ができない、の意)を下級家臣を御家人といいます。

 俗に「旗本八万騎」といいますが、旗本の実人数は5,000人程度でした。また、御家人は1万7,000人程度だったとされます
(注)

 ところで、旗本知行地は約300万石でしたから、旗本1人当たりの知行高は約600石になります。


   300万石
(旗本知行地)/5,000人(旗本の総数)=600石(旗本1人当たりの知行高)


 また、1633(寛永10)年に幕府が決めた軍役規定によると、知行1,000石の旗本は総勢23人で出陣することになっていました。ですから、旗本の出陣総数は、約6万9,000人になります。


   23人×600石/1000石×5,000人=69,000人


 旗本だけでは「旗本八万騎」に若干足りませんが、これに御家人約1万7,000人を加えれば8万6,000人の大軍になります。関ヶ原の戦いの時、東軍が10万4,000人、西軍が8万5,000人だったといいます(人数については異説があります)から、旗本・御家人の軍役動員数だけで、西軍に匹敵する強大な軍事力を幕府は有していたことになります。

 なお、旗本の多くは知行取(ちぎょうどり。領地を支給)でしたが、御家人はほとんどが蔵米取(くらいまいどり)で、浅草にあった幕府の倉庫から蔵米(くらまい)を支給されました。


(注)1722(享保7)年の調査で旗本は5,205人、御家人は1万7,399人だったといいます。


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A 役方(やくかた)と番方(ばんかた)


 旗本・御家人の勤務は、大きく分けて役方番方の二つがありました。組織内では旗本が上司で御家人が部下、旗本が奥向きで御家人が外廻りという形をとりました。

 また、無役の旗本や御家人は小普請組(こぶしんぐみ。大工仕事等を行う)に配属されました。


《 役方 》


 役方は今日の行政職に相当します。

 たとえば、旗本は勘定奉行、町奉行、大目付、目付、代官などの重職に就任しました。

 一方御家人は、たとえば町奉行の配下となって、与力、同心などをつとめました。


《 番方 》


 番方は軍事・警察を担当する部署です。

 たとえば、旗本は小姓組番(こしょうぐみばん)や書院番などの番士に任命されました。

 小姓組番というのは1組50人編制で8組(古くは6組)あり、江戸城紅葉の間に交代で詰めて将軍警護に当たった仕事です。

 また、書院番というのは1組50人編制で10組あり、江戸城虎の間に交代で詰めて将軍警護に当たった仕事です。

 ともに江戸城内に詰めて将軍警護に当たる重要な部署でしたので、小姓組番・書院番だけで900人もの旗本が配属されていました。この二つの組織は「両番」とよばれ、ここに配属される番士は現在のキャリア官僚に相当したといいます(山本博文『江戸に学ぶ日本のかたち』2009年、日本放送出版協会、P.62)。「両番」のほかには大番、新番などがありました。

 一方、御家人は徒士組(かちぐみ。歩兵の集団)、鉄砲百人組(てっぽうひゃくにんぐみ。鉄砲隊)などに配属されました。野外における実戦部隊です。


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