●家康の統一過程と江戸幕府の成立● |
◆関ヶ原の戦いが始まり、家康が最初に命じたこと 1614(慶長19)年10月、大坂冬の陣が始まりました。その際、家康が部下に命じたのは、六国史をはじめとする日本古典の書写でした。所蔵者から多くの書物が借り出され、南禅寺(京都)において大規模な複製作業が始まりました。写本は三部ずつ作成され、一部は天皇へ献上、残る二部は駿府・江戸両城に置くことが命じられました。作成された写本は、のち江戸城内の図書館「紅葉山(もみじやま)文庫」に保管され、その大部分が国立公文書館内閣文庫に現存します。 開戦という緊急時にあたり、家康はなぜ古典の複製など命じたのでしょうか。 実は、大坂冬の陣が始まる半年前(1614(慶長19)年4月5日)、すでに家康は、京都五山の禅僧に対して、日・中両国の古典から抜き書きを作るよう命じていました。その目的は、武家諸法度をはじめとする法典作成の参考にするためだったのです。 つまり家康は、豊臣氏との戦端を開く前から戦後をみすえ、法制整備を視野に入れての準備作業に入っていたのです。 【参考】 ・遠藤慶太『六国史−日本書紀に始まる古代の「正史」』2016年、中公新書、P.203〜208 |
◆江戸幕府が作らせた国絵図 江戸幕府は、慶長(1604)・正保(1644)・元禄(1697)・天保(1831)の4回にわたり、全国規模で山城国・大和国…といった国ごとの絵図の作成を命令しました。当初の国絵図は、国ごとに縮尺等がまちまちでしたが、正保国絵図からは、縮尺(1里を6寸に縮めました。およそ21,600分の1の縮尺になります)や描法(山・川・道・一里塚等の描き方や色づかいなど)を統一しました。ですから、それぞれの国絵図を国境で切り取って、パズルのようにすべてうまくつなぎ合わせることができれば、巨大な日本総絵図が完成することになります。 なお、国絵図は国立公文書館のホームページ(国立公文書館デジタルアーカイブ)で見ることができます。 |
●幕府の組織● |
◆大老の権威は絶大 江戸時代に延べ10人いた大老を、「氏名・官名・城地と石高・大老在職期間」の順に記載したものが次です。 1)土井利勝・大炊頭・下総古河16万石余 ・寛永15〜正保元(1638〜1644) 2)酒井忠勝・讃岐守・若狭小浜11万3,500石・寛永15〜明暦3(1638〜1657) 3)酒井忠清・雅楽頭・上野厩橋13万石 ・寛文6〜延宝8(1666〜1680) 4)堀田正俊・筑前守・下総古河 9万石 ・天和元〜貞享元(1681〜1684) 5)井伊直興・掃部頭・近江彦根30万石 ・元禄10〜元禄13(1697〜1700) 6)井伊直該(なおもり)・ 同上 ・同 上 ・正徳元〜正徳5(1711〜1715) 7)井伊直幸・ 同上 ・ 同 上 ・天明4〜天明7(1784〜1787) 8)井伊直亮・ 同上 ・ 同 上 ・天保6〜天保12(1835〜1841) 9)井伊直弼・ 同上 ・ 同 上 ・安政5〜万延元(1858〜1860) 10)酒井忠績(ただしげ)・雅楽頭・播磨姫路15万石・慶応元(1865) (注)井伊直該(なおもり)は直興(なおおき)の再任 (以上『国史大辞典第8巻』P.920。松尾美恵子氏作成の「大老一覧」から抜き書き) 大老の権威は絶大でした。 大老が出仕すると、城内・門内の番士(ばんし)は残らず総下座(そうげざ)の礼をとりました。御用部屋では最上座を占め、大老が着座すると老中は一同揃って居並び、平伏して挨拶しました。大老が老中を呼ぶ時は、たとえば間部下総守詮勝(まなべしもふさのかみあきかつ。安政年間)であったなら、「下総」と官名を呼び捨てにしました。 一方、老中が大老を呼ぶ時は「御前様(ごぜんさま)」と敬称しました。大老と同道する場合には、老中は大老の数歩後ろを歩いて並行を避けました。 大老の決済は将軍であってもこれを覆すことはできなかったといいますし、大老が役目上で大名に命令する場合は将軍と同じでした。大老に行き会うと諸大名は城中でも路上でも道を譲り、御三家・御三卿といえども大老には会釈したといいます。 【参考】 ・笹間良彦『江戸幕府役職集成(増補版)』1965年、雄山閣、P.101〜104 ・『国史大辞典第8巻』1978年、吉川弘文館の「大老」(美和信夫氏執筆)の項 ・松平太郎著・進士慶幹校訂『校訂江戸時代制度の研究』1971年、柏書房、P.361〜365 |
1600年(慶長5)会津の上杉景勝が三成と通じて挙兵したといううわさをとらえ、それを討つために大阪をたって伏見城に入った家康は、千畳敷の大広間に立ってひとりにこにこと自信にみちた会心の笑みをもらしていたという。かれは留守中にかならず三成が行動をおこすだろうと計算していた。はたして7月19日、三成は家康の家臣鳥居元忠の守る伏見城に攻げきをかけた。江戸でこれをきいた家康はあくまで慎重で、味方の大名の頭数をつかむまでは腰をあげず、9月1日、やっと江戸を出発した。このとき鹿島神宮・浅草観音に、かつて頼朝が平家追討のおりにおこなわせたと同じ祈祷を命じているのは、家康がこの出陣を、頼朝にならって武家政治を確立するための門途(かどで)とみていたことがわかる。
こうして大阪の陣とともにはじめて名実ともに天皇をかつがなかった戦争である関ヶ原の戦いがはじまる。「日本国二つに分けて、ここを詮度(せんど)ときびしく戦」(『慶長期』)われて、まさに天下分け目の決戦となった。家康がこれに勝利を占めたことは、かれの「天下取」の地位を決定した。こうなっては大名ももう「天下は廻り持ち」などといってはおられない。鍋島直茂(なおしげ)が
「天下之望抔(など)と云事は、夢にも見たら勿体なし。然ば仮初(かりそめ)にも口外無用之事也」(『鍋島直茂譜考補』)
といましめたように、その野望をすてて保身につとめなければならなくなった。
(北島正元『江戸時代』1958年、岩波新書、P.11〜12)