●家康の統一過程と江戸幕府の成立●



@ 家康の統一過程


 
《 桶狭間の戦い(1560)〜秀吉の死去(1598) 》


 徳川家康は1542(天文11)年、松平広忠(まつだいらひろただ)の子として出生しました。弱小領主の悲しさ、すぐに織田氏、次いで今川氏のもとで、長い人質生活を送ることになりました。

 そんな家康に転機が訪れたのが、1560(永禄3)年のことでした。桶狭間(おけはざま)の戦いで、今川義元が信長に討たれ、人質生活から解放されたのです。

 領国経営に乗り出した家康は、三河の一向一揆を鎮圧し、1563(文禄6)年、三河を平定しました。

 1566(永禄9)年には従五位下・三河守に任命され、「松平」を「徳川」と改姓しました。

 1570(元亀元)年には姉川の戦いで信長とともに戦い、勝利しました。

 1572(元亀3)年に、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで武田信玄に大敗したものの、3年後の1575(天正3)年、信玄の後継者武田勝頼の軍勢を、信長軍と連合して打ち破りました(長篠合戦)。その後信長の武田氏討滅戦に参加して、駿河国を手に入れました。

 1582(天正10)年、信長が本能寺の変に倒れると、その後継者に名乗りをあげた秀吉と対立しました。1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いでは、信長の子織田信雄(おだのぶお、おだのぶかつ)と結んで秀吉と争いましたが、和睦ののち秀吉の麾下(きか)に入りました。

 1589(天正17)年から、領国の五カ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)総検地を開始しますが、その翌年、小田原征討(全国統一)の論功行賞を名目に、秀吉から関東への国替えを命じられます。

 1590(天正18)年の八朔の日(8月1日)、家康は江戸に移動します。これを「関東御打入り(かんとうおんうちいり)」といいます。北条氏の旧領(伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野)240万2,000石に在京賄領(ざいきょうまかないりょう。京都での滞在費用)の名目で11万石を加えられ、総石高251万2,000石の大大名となりました。

 1596(慶長元)年には内大臣に任命されました。

 1598(慶長3)年に秀吉が没すると、五大老筆頭の家康に対抗し得る勢力がなくなりました。


《 関ヶ原の戦い(1600) 》 


 
秀吉子飼いの大名で五奉行の一人石田三成(いしだみつなり)は、秀吉の遺児秀頼をさておき、秀吉に代わって諸大名の指導権を握ろうとする家康と鋭く対立しました。三成は五大老の一人毛利輝元(もうりてるもと)を盟主に立て、西国諸大名を味方につけて挙兵しました(西軍)。

 一方、家康は東国諸大名や三成と対立する福島正則(ふくしままさのり)ら豊臣系諸大名を味方につけ(東軍)、これに対抗しました。

 両軍は1600(慶長5)年、美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原で激突。東軍10万4,000名、西軍8万5,000名(人数については異説があります)を動員した大規模な戦いは「天下分け目の戦い」と称されました。当初は西軍優位に戦いが展開しましたが、東軍への内通者が出るなどして西軍は総崩れになり、結局は東軍の勝利に終わりました。これを関ヶ原の戦いといいます。

 戦後、家康は石田三成らを捕らえて処刑するなどし、西軍に加担した諸大名を処罰しました。改易(かいえき。領地没収)された大名は90家、石高は約440万石に及びました。また、毛利輝元、上杉景勝ら4家の大名が減封(げんぽう。領地削減)されました。こうして手にした石高は、東軍の大名たちの論功行賞に使われたのです。



◆関ヶ原の戦いが始まり、家康が最初に命じたこと

 
1614(慶長19)年10月、大坂冬の陣が始まりました。その際、家康が部下に命じたのは、六国史をはじめとする日本古典の書写でした。所蔵者から多くの書物が借り出され、南禅寺(京都)において大規模な複製作業が始まりました。写本は三部ずつ作成され、一部は天皇へ献上、残る二部は駿府・江戸両城に置くことが命じられました。作成された写本は、のち江戸城内の図書館「紅葉山(もみじやま)文庫」に保管され、その大部分が国立公文書館内閣文庫に現存します。

 開戦という緊急時にあたり、家康はなぜ古典の複製など命じたのでしょうか。

 実は、大坂冬の陣が始まる半年前(1614(慶長19)年4月5日)、すでに家康は、京都五山の禅僧に対して、日・中両国の古典から抜き書きを作るよう命じていました。その目的は、武家諸法度をはじめとする法典作成の参考にするためだったのです。

 つまり家康は、豊臣氏との戦端を開く前から戦後をみすえ、法制整備を視野に入れての準備作業に入っていたのです。

【参考】
・遠藤慶太『六国史−日本書紀に始まる古代の「正史」』2016年、中公新書、P.203〜208
 


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A 江戸幕府の成立


 
1603(慶長8)年、全国の大名を指揮する正当性を得るため家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開きました。征夷大将軍に就任するためには源氏でなければならない、というジンクスがあったため、家康は源氏に属する新田氏の子孫であると称し、兼ねてから準備をしていたのです。これから幕府が終焉を迎える1867(慶応3)年までの約260年間を、「江戸時代」といいます。

 しかし、将軍就任わずか2年で家康は将軍職を子の秀忠(ひでただ。1579〜1632)に譲り、駿府城(すんぷじょう)に移って「大御所(おおごしょ。前将軍のこと)」と称し実権を握り続けました。将軍職を徳川氏が世襲する意思を表明するとともに、豊臣氏への政権譲渡や「天下は回り持ち」(下剋上)への諸大名の期待を否定したのです。

 将軍職就任・江戸幕府創設という既成事実をつくった家康は、諸大名に江戸城と市街地造成の普請(ふしん)を命じ、1604(慶長9)年には国絵図(くにえず。国ごとの絵地図)と郷帳(ごうちょう。国ごとの各村の石高を記した土地台帳)の作成・提出を求めました。こうした作業を通じて、全国の支配者が家康であることを諸大名に確認させていったのです。なお国絵図と郷帳は、江戸幕府の命令で慶長・正保・元禄・天保の計4回作成されました。

 そのほかにも、東海道をはじめとする主要交通網の整備、長崎・堺・京都など重要都市・重要港湾の直轄地化、佐渡金山・石見銀山など主要鉱山の直轄地化等をはかり、全国統一を着々と進めていきました。
 
 そして、方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)を口実に1614(慶長19)年に大坂冬の陣、1615(元和元)年には夏の陣を起こしました。全国統一最後の障害であった豊臣氏排除へと動いたのです。淀君(よどぎみ。1567〜1615)・秀頼母子は自殺に追い込まれ、豊臣氏は滅亡。豊臣氏滅亡によってもたらされた平和を「元和偃武(げんなえんぶ)」といいます。偃武(えんぶ)は「武器をおさめる」という意味です。

 豊臣氏の滅亡を見届けた家康は翌1516(元和2)年、太政大臣に就任しました。そして幕府の行く末を案じつつ、75歳でその生涯を閉じたのです。



◆江戸幕府が作らせた国絵図

 
江戸幕府は、慶長(1604)・正保(1644)・元禄(1697)・天保(1831)の4回にわたり、全国規模で山城国・大和国…といった国ごとの絵図の作成を命令しました。当初の国絵図は、国ごとに縮尺等がまちまちでしたが、正保国絵図からは、縮尺(1里を6寸に縮めました。およそ21,600分の1の縮尺になります)や描法(山・川・道・一里塚等の描き方や色づかいなど)を統一しました。ですから、それぞれの国絵図を国境で切り取って、パズルのようにすべてうまくつなぎ合わせることができれば、巨大な日本総絵図が完成することになります。

 なお、国絵図は国立公文書館のホームページ(国立公文書館デジタルアーカイブ)で見ることができます。


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B 幕藩体制とは


 将軍を頂点とする幕府・藩による政治体制を幕藩体制といいます。

 幕藩体制の基礎は、農村の本百姓体制にありました。本百姓が生産した米が価値基準となって、江戸時代の政治や経済等を動かしていたのです。

 たとえば、将軍と大名・旗本・御家人、大名と家臣の御恩と奉公の主従関係は、石高の多寡によって表現されました。石高10万石を将軍から拝領した大大名は、石高1万石の小大名の10倍の御恩を受けていることになり、それに見合った奉公として、1万石大名の10倍もの軍役を果たすことが求められました。また、当時最も多く流通する商品が米であり、諸物価は米価に連動して高下していました(これを「米遣いの経済(こめづかいのけいざい)」といいます)。

 ですから、幕府・諸藩とも、政治の重点を村落支配に置いたのは当然のことでした。年貢米生産者である本百姓の人数と米の作付け面積がともに減少しないようにするため、土地・人民の完全支配を目指して、武士−農民を基本とした身分制度(いわゆる「士農工商」)をつくりあげました。

 そのため幕府や藩は、本田畑の自由処分や細分化を禁止したり、本田畑へ米以外の商品作物作付けを禁止したりするなどの法令を出したり、生産性の向上を目指した勧農政策を展開したりしました。こうした諸政策を通じて、農村を自給自足経済の中に閉じ込めて、本百姓体制の維持を図ろうとしたのです。

 また幕府は、キリスト教や西国大名の貿易による蓄財が、その支配を維持する上で大きな障害になると考えました。そこで、キリスト教を禁止するとともに、貿易に極端な統制を加えたのです。こうした幕府の外交政策(いわゆる「鎖国」政策)も、幕藩体制を維持するための手段の一つでした。


《 不安定な幕府財政 》


 幕府歳入の主体は、基本的に年貢=米でした。そのため凶作にでもなれば、たちまち歳入不足に陥ってしまうという危険性が常につきまとっていました。

 一方、物価上昇や自然災害の頻発等によって歳出は増加し、次第に幕府は財政難になっていきました。

 この後、財政再建のために、支出を削減する行財政改革とともに、さまざまな歳入増加策が試みられていくことになります。

 たとえば8代将軍吉宗は、新田開発による米の増産や年貢率の引き上げなどによって、歳入の増加をはかろうとしました(享保の改革)。また、田沼意次は、商工業の振興によってそこから税収(運上・冥加など)を得ようとしたり、専売制を導入して利益をあげようとしました(田沼時代)。

 なお、江戸時代を通じて、全国の総石高は約3,000万石ありました。この内訳は次の通りです。


           総石高   3,000万石(100.0%)

     (内訳)  幕府領      400万石(13.4%)
            旗本知行地   300万石(10.0%)
            大名領     2,250万石(75.0%)
            寺社領      40万石( 1.3%)
            禁裏御料     3万石( 0.1%)
            公家領       7万石( 0.2%)

  
(以上、竹内誠監修・市川寛明編『一目でわかる江戸時代』2004年、小学館、P.106による)


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●幕府の組織●



@ 職制の特色


 幕府草創期の職制はたいへん簡単なものでした。湯浅常山(ゆあさじょうざん)が書いた『文会雑記(ぶんかいざっき)』には、大庄屋・名主・年寄の三役程度しかなく、いわゆる「庄屋仕立て」であったと書かれてあります。徳川氏が三河の一戦国大名であった頃の簡単なしくみを継承した程度のものだったのです。それが必要に応じて、徐々に新しい役職が追加・整備され、職務内容が決まっていきました。3代将軍家光の時代になると、幕府職制はほぼ固まりました。

 幕府の職制には、次のような特色があります。


(あ) 役職は、直臣(じきしん。将軍直属の家来)である譜代大名(ふだいだいみょう)や旗本(はたもと)・御家人(ごけにん)から任命されました。御三家や外様大名(とざまだいみょう)は役職から除かれたのです(大名と旗本・御家人については後述。「34.大名と旗本・御家人」参照)。

(い) 権力集中を防止する工夫がなされました。重要な役職には複数人を任命したり、1カ月交代で仕事を持ち回り(月番交代制)にしたり、合議制を採用したりするなどして、一部の役人による専権を抑止しました。

(う) 老中以下の役人たちは、行政権と裁判権を持っていました。行政と司法が区別されていなかったのです。老中(ろうじゅう)・若年寄(わかどしより)・三奉行などで構成される評定所(ひょうじょうしょ)が最高合議決定機関として、行政・司法等の最終意志を決定しました。

(え) 平時編成がそのまま軍事編成になっていました。初期の頃の軍陣組織をそのまま平常政務に振り向けて政治組織を整備したからです。戦時には、老中が指揮をとることになっていました。

(お) 監察機関が発達しており、大目付(おおめつけ)・目付(めつけ)などが置かれました。
 
    
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A 中央の組織


 江戸幕府の組織表を見ると、現代の大臣に相当する大老・老中・若年寄には「老」や「年寄」という文字が入っています。これは「江戸時代のリーダーが老人ばかりだったから」という意味ではありません。

 15世紀頃、村や町に自治組織が形成されると、その代表者をオトナとかトシヨリなどと呼びました。このオトナの当て字が「老」、トシヨリの当て字が「年寄」で、大老・老中・若年寄というのもオトナという意味なのです。

 もともとは武士も村や町の住人であり、身分が別れて武士になったわけですから、その形跡が職制上の名称に残っているのです(尾藤正英『日本文化の歴史』2000年、岩波新書、P.145、井上光貞他『日本歴史大系3・近世』1988年、山川出版社、P.241〜241参照)。


《 大老(たいろう) 》


 臨時に置かれる最高職です。10万石以上の譜代大名の中から選ばれました。将軍を補佐し、幕政全般を統括した重職中の重職です。大老の定員は1名で、適任者がいなければ任命しませんでした。そのため、江戸時代を通じて大老職就任者はわずか10名(延べ人数。1名は再任なので、実人数は9名)に過ぎません。

 大老に就任したのは土井・酒井・堀田・井伊の4家でしたが、10名の大老就任者のうち5名までが井伊家出身者でした。また、30万石を領する井伊家は、石高の面でも2位(土井利勝の16万石余)以下を大きく引き離していました。土井・酒井・堀田各氏は老中にも就任しましたが、井伊家は大老職にしか就任しませんでした。


《 老中(ろうじゅう) 》


 老中の「中」は複数を示す敬称です。政務を統括する常置の最高職で、2万5,000石以上の城主格譜代大名の中から4〜5名の者が選任されました。老中の筆頭者を老中首座(ろうじゅうしゅざ)といいます。


《 若年寄(わかどしより) 》


 2〜6名。譜代大名から選任され、老中のもとで旗本・御家人の監察にあたりました。


《 大目付(おおめつけ) 》


 4〜5名。旗本から選任され、老中のもとで大名の監察にあたりました。


《 目付(めつけ) 》


 はじめ10名でしたがのち増員されました。旗本から選任され、若年寄のもとで旗本・御家人の監察にあたりました。

 幕臣の監察にあたる役職だったため、将軍に直接言上する権限を持っていました。間違った行為があれば、老中のことであっても将軍に報告するようにと言われていました(山本博文『江戸に学ぶ日本のかたち』2009年、日本放送出版協会、P.66)。


《 三奉行 》


 三奉行は、寺社奉行(じしゃぶぎょう)・勘定奉行(かんじょうぶぎょう)・町奉行(まちぶぎょう。江戸町奉行)の総称です。

 寺社奉行は将軍直属で、三奉行中もっとも格上でした。定員4〜5名で、譜代大名から選任されました。寺社・寺社領の司法・行政、僧侶・神職の監督などを職務とし、関八州以外の訴訟を司りました。

 勘定奉行は定員4名で、旗本から選任されました。幕領(いわゆる「天領」)の監督・財政および関八州の訴訟を司りました。

 町奉行は定員2名で、旗本から選任されました。江戸の市政・警察・裁判を司りました。


◆大老の権威は絶大
 
 江戸時代に延べ10人いた大老を、「氏名・官名・城地と石高・大老在職期間」の順に記載したものが次です。


 1)土井利勝・大炊頭・下総古河16万石余  ・寛永15〜正保元(1638〜1644)
 2)酒井忠勝・讃岐守・若狭小浜11万3,500石・寛永15〜明暦3(1638〜1657)
 3)酒井忠清・雅楽頭・上野厩橋13万石   ・寛文6〜延宝8(1666〜1680)
 4)堀田正俊・筑前守・下総古河 9万石   ・天和元〜貞享元(1681〜1684)
 5)井伊直興・掃部頭・近江彦根30万石   ・元禄10〜元禄13(1697〜1700)
 6)井伊直該
(なおもり)・ 同上 ・同 上     ・正徳元〜正徳5(1711〜1715)
 7)井伊直幸・ 同上 ・    同 上      ・天明4〜天明7(1784〜1787)
 8)井伊直亮・ 同上 ・    同 上      ・天保6〜天保12(1835〜1841)
 9)井伊直弼・ 同上 ・    同 上      ・安政5〜万延元(1858〜1860)
10)酒井忠績
(ただしげ)・雅楽頭・播磨姫路15万石・慶応元(1865)
 
(注)
井伊直該(なおもり)は直興(なおおき)の再任
  
(以上『国史大辞典第8巻』P.920。松尾美恵子氏作成の「大老一覧」から抜き書き)


 大老の権威は絶大でした。

 大老が出仕すると、城内・門内の番士(ばんし)は残らず総下座(そうげざ)の礼をとりました。御用部屋では最上座を占め、大老が着座すると老中は一同揃って居並び、平伏して挨拶しました。大老が老中を呼ぶ時は、たとえば間部下総守詮勝(まなべしもふさのかみあきかつ。安政年間)であったなら、「下総」と官名を呼び捨てにしました。

 一方、老中が大老を呼ぶ時は「御前様(ごぜんさま)」と敬称しました。大老と同道する場合には、老中は大老の数歩後ろを歩いて並行を避けました。

 大老の決済は将軍であってもこれを覆すことはできなかったといいますし、大老が役目上で大名に命令する場合は将軍と同じでした。大老に行き会うと諸大名は城中でも路上でも道を譲り、御三家・御三卿といえども大老には会釈したといいます。

【参考】
・笹間良彦『江戸幕府役職集成(増補版)』1965年、雄山閣、P.101〜104
・『国史大辞典第8巻』1978年、吉川弘文館の「大老」(美和信夫氏執筆)の項
・松平太郎著・進士慶幹校訂『校訂江戸時代制度の研究』1971年、柏書房、P.361〜365


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B 地方の組織  


《 京都所司代(きょうとしょしだい)


 1名。譜代大名から選任され、京の市政、畿内(大和・山城・和泉・河内・摂津)・丹波・近江・播磨8カ国の訴訟処理、京都・奈良・伏見各奉行の統轄、朝廷の守護・監察などに関する政務を司りました。職制上、老中につぐ格式をもっていました。


《 城代(じょうだい)


 譜代大名・上級旗本から選任されました。城代は大坂城代駿府城代の略で、大坂・駿府各城に1名ずつ置かれ、城の守備と管轄地域の訴訟を担当しました。初期には二条・久能・伏見もおかれました。特に大坂城代は、西国諸大名の監視に目を光らせました。


《 遠国奉行(おんごくぶぎょう)


 中央に在勤する奉行に対して、各地の重要直轄地に配属された奉行を総称して「遠国奉行」といいます。京・大坂・駿府の各町奉行や、伏見・奈良・堺・山田・日光・下田・浦賀・新潟・佐渡・長崎・箱館などの各奉行を指します。必要に応じて設置され、幕末には兵庫・神奈川などにも配置されました。上級旗本から1〜2名ずつ選任(伏見奉行のみは譜代大名から選任)され、権限はそれぞれの土地柄によって相違がありましたが、任地の政務全般を司りました。


《 郡代(ぐんだい)


 旗本から選任され、10万石以上の広い幕領を支配しました。関東郡代、飛騨郡代、美濃郡代、西国筋郡代(九州)の各郡代がありました。

 このうち関東郡代は、関東の幕領支配のほか、水系の整備・治水灌漑・検地などの広域行政にあたりました。1590(天正18)年、徳川氏の関東移封の際、伊奈忠次(いなただつぐ)が代官頭(だいかんがしら。関東郡代の当初の呼び方。関東郡代が正式名称になるのは元禄期からです)に任命されたのちは、関東郡代職は伊奈氏の世襲となりました。しかし、1792(寛政4)年に子孫が不祥事をおこして罷免されると、勘定奉行が関東郡代を兼職することとなりました。


《 代官(だいかん)


 旗本から選任され、郡代が支配する地以外の幕領に置かれました。全国に40〜50名ほどの代官がいました。



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33.江戸幕府の成立       

 1600年(慶長5)会津の上杉景勝が三成と通じて挙兵したといううわさをとらえ、それを討つために大阪をたって伏見城に入った家康は、千畳敷の大広間に立ってひとりにこにこと自信にみちた会心の笑みをもらしていたという。かれは留守中にかならず三成が行動をおこすだろうと計算していた。はたして7月19日、三成は家康の家臣鳥居元忠の守る伏見城に攻げきをかけた。江戸でこれをきいた家康はあくまで慎重で、味方の大名の頭数をつかむまでは腰をあげず、9月1日、やっと江戸を出発した。このとき鹿島神宮・浅草観音に、かつて頼朝が平家追討のおりにおこなわせたと同じ祈祷を命じているのは、家康がこの出陣を、頼朝にならって武家政治を確立するための門途(かどで)とみていたことがわかる。

 こうして大阪の陣とともにはじめて名実ともに天皇をかつがなかった戦争である関ヶ原の戦いがはじまる。「日本国二つに分けて、ここを詮度(せんど)ときびしく戦」(『慶長期』)われて、まさに天下分け目の決戦となった。家康がこれに勝利を占めたことは、かれの「天下取」の地位を決定した。こうなっては大名ももう「天下は廻り持ち」などといってはおられない。鍋島直茂(なおしげ)が

「天下之望抔(など)と云事は、夢にも見たら勿体なし。然ば仮初(かりそめ)にも口外無用之事也」(『鍋島直茂譜考補』)

といましめたように、その野望をすてて保身につとめなければならなくなった。

 (北島正元『江戸時代』1958年、岩波新書、P.11〜12)