●統一の過程● |
●豊臣政権の基礎● |
●秀吉の諸政策● |
◆京枡のからくり 小学生向けの本にのっていた話題を一つ。 従来、税の取り立てに用いられていた古枡(こます)に代えて、秀吉は京枡の使用を命じました。古枡は内法(うちのり)の縦・横の長さが5寸(約15cm)で深さが2寸5分(約7.5cm)、京枡は縦・横の長さが4寸9分)で深さが2寸7分(約8.2cm)でした。京枡に変更する際、秀吉は次のような説明をしたといいます。 「古枡の縦・横を1分ずつ短くし、深さを2分深くしたのが京枡だ。2分減らして、2分増やしたのだから、全体の容量は変わらないのだ」 本当に、古枡と京枡では容量に変化はなかったのでしょうか。試しに電卓をたたいてみると、両者には次のように、容量の差があったことがわかります。 古枡:5×5×2.5=62.5(立法寸) 京枡:4.9×4.9×2.7=64.827(立法寸) ゆえに(64.827-62.5)/62.5×100≒3.7(%) 古枡と京枡をくらべると、京枡の方が3.7%ほど容量が多いのです。「容量は変わらない」と言っておきながら、秀吉はこっそりと3.7%の増税を行っていたことになります。100杯につき約4杯分、従来より多く税をとられることになった農民たちは、京枡のからくりを計算上説明はできなかったものの、経験の上から、「何かおかしい」と気づいていたそうです。 【参考】 ・仲田紀夫『目からうろこ小学生の「さんすう」大疑問100』1999年、講談社、P.152〜153 |
●秀吉の外交政策● |
◆豊臣氏と方広寺 秀吉が創建した方広寺(天台宗。京都東山区)の歴史は、豊臣氏の興亡の歴史に重なります。 かつて堂内には、刀狩で没収した刀剣類を釘(くぎ)・鎹(かすがい)にして建立された6丈(約18m)ばかりの木造大仏があったのですが、地震で大破してしまいました。そこで秀吉の死後、今度は頑丈な金銅像に造り替えられました。しかし、豊臣氏が滅んでしまうと、江戸幕府は金銅像をさっさと鋳潰し、197万貫文の寛永通宝を作って世上に出回らせました。人々はこの銭を「大仏銭」と呼んだといいます。 同寺の門前には「耳塚」と呼ばれる五輪塔が残ります。この塔は、朝鮮侵略時の残虐行為を今日に伝えます。恩賞を得ようとした日本人将兵たちは、朝鮮の人々の耳や鼻をそいで日本に送りました。それらを埋葬・供養したのが「耳塚」です。埋葬された鼻や耳の数は数万に及ぶといわれます。 また同寺の鐘の銘文は、大坂冬の陣のきっかけをつくったことで有名です。この鐘の銘文にある「国家安康」の4文字は家康の名前を分断する呪詛であり、「右僕射(うぼくや。右大臣の意)源朝臣家康公」には「源朝臣家康公を射る」、「君臣豊楽、子孫殷昌」には「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味がそれぞれ込められている等、徳川氏は思いの外の難癖をつけてきたのです(方広寺鐘銘事件)。挑発に乗った豊臣氏は徳川氏との戦端を開き(大坂冬の陣)、1615(慶長20)年、ついに滅亡させられてしまったのでした(大坂夏の陣)。 |
城普請(しろぶしん)というものは、いうまでもないことであるが莫大な労力と資金と資材を必要とする。秀吉が大坂築城以来、聚楽第・淀城・名護屋城・大仏殿・伏見城とほとんど休む間もないほど、大土木事業を起こしていることは、生来の土木狂によることもあったであろうが、宣教師オルガンチーノ・ソルデイが、
「工事のために彼等(大名)がいかにひどく窮乏しても、これを関白に話すことも、救助を求めることもできぬが、それは関白が、彼らは絶え間ない労苦と繁忙とに掣肘されるならば、反逆をおこす機もなかろうと思惟して、彼らに両城(大坂城と聚楽第)の建設工事の労苦と出費を課したからであることは、だれにも明白である」
と指摘しているように、大きな政治的意図が働いていたからである。
大名たちもこのような秀吉の意図を知りすぎるほど知っていながら、なおかつ一身一家の保全のために、あえて能力以上の働きをして忠誠心を認めてもらおうと、躍起になって普請に精を出した。 (
中 略 ) しかし大名がどれほど苦労したにせよ、封建社会であるかぎり、その苦しみはいつの場合も、最終的には農民を主とする一般庶民にしわ寄せされることになる。 ( 中
略 )
天正19(1591)年2月というから、秀吉が小田原征伐から帰って半年ばかりたったころのことである。京都の町に時世を批判する痛烈な落書きがなされた。落書きは10首の歌から成っていたが、その第一首は
いしふしん(石普請)城こしらへもいらぬもの
あつちお田原(安土・小田原)見るにつけても
というものであった。城普請に対する偽らぬ民衆の声というべきものであろう。
(岡本良一『大坂城』1970年、岩波新書、P.88〜92)