32.織豊政権(しょくほうせいけん)(2)
− 秀吉の統一事業 −


●統一の過程●



@ 山崎の戦い(1582)〜大坂城の築城


 信長の後継者として統一事業を完成したのは豊臣秀吉(とよとみひでよし。1537〜1598)でした。尾張の地侍の子として生まれた秀吉は、信長に出仕してのちその頭角をあらわし、信長の有力武将の一人に出世しました。秀吉は最初は木下(きのした)姓を、のちに羽柴(はしば)姓を名乗りました。

 1582(天正10)年、本能寺の変で信長の死を知った秀吉は、対戦中の毛利氏と和睦すると急ぎ畿内にとって返し(中国大返し)、山城の天王山(てんのうざん)で明智光秀の軍を打ち破りました(山崎の戦い)。主君信長の敵を討ったことで、秀吉は有力な後継者候補に躍り出ます。そして1583(天正11)年には、対立する柴田勝家(しばたかついえ。?〜1583)を近江の
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで倒し、信長の後継者としての地位を確立することに成功します。

 ついで秀吉は1583(天正11)年、石山本願寺の跡に壮大な大坂城を築き始めました。1588(天正16)年に完成した大坂城は、5層9階から成る華麗な天守閣(うち下層3階は石垣の中にありました)を有していました。その内部の装飾も、豪華絢爛を極めたといわれます。


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A 小牧・長久手の戦い(1584)〜小田原征討(1590)


 その後も秀吉は、着々と統一事業を進めていきました。

 1584(天正12)年には、尾張の小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いで、信長の次男織田信雄(おだのぶお(のぶかつ))と結んだ徳川家康の軍と戦いました。秀吉は家康に勝利することができず、戦いは和睦という形で終結します。「東海一の弓取り」といわれた家康の実力・声望を認めざるを得なかった秀吉は、さまざな手段を講じて、ついに信長の同盟者だった家康を自らの麾下にすることに成功します。家康の臣従によって、他の大名たちも秀吉の配下に入っていきました。

 1585(天正13)年には、四国の大半を領有していた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか。1538〜1599)を降伏させ、四国を平定しました。元親には土佐一国のみが与えられました。

 同じ1585年には関白、翌年には太政大臣となり、朝廷から豊臣(とよとみ)姓を下賜されました。

 秀吉は朝廷から全国支配を委任されたと唱え、全国に平和を呼びかけ、すべての合戦・私闘を禁じました。これを惣無事令(そうぶじれい)、または豊臣平和令といいます(注)

 1587(天正15)年には、惣無事令に従わなかった島津義久(しまづよしひさ。1533〜1611)を降伏させて九州を平定しました。

 1590(天正18)年、同じく惣無事令を無視して他領に侵攻した小田原の北条氏政(ほうじょううじまさ。1538〜1590)を滅ぼしました(小田原攻め)。そして、伊達政宗(だてまさむね。1567〜1636)ら東北諸大名を服属させ(奥州平定)、全国統一を完成させたのです。
 


(注)近年、「惣無事令」の存在に関しては、多くの疑問点が提出されています。秀吉が「惣無事」という言葉を最初に使用したのが1583(天正11)年。関白任官の2年前であり、「朝廷から全国支配を委任された」という法的根拠がまずは成立しません。また「惣無事」は講和を意味する言葉として、戦国時代には一般的に使用されていました。秀吉の使用例を見ると、新たな領主たちを支配下に置くために「戦闘停止」を 呼びかける際に用いています。しかも、領主たちの知人を介して、個別的に伝達していたに過ぎません。つまり、領主たちへの単なる個別的働きかけの一つとして「惣無事」という言葉を使っているに過ぎず、秀吉政権が全国の諸大名を対象として一方的・強圧的に命じた「法令」ではなかった、というのです。



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●豊臣政権の基礎●



@ 伝統的権威の利用


 
 秀吉は軍事力・経済力に頼るばかりでなく、関白・太政大臣への就任・豊臣賜姓などを通じ、朝廷の伝統的権威も利用して支配の確立に努めました。1588(天正16)年、後陽成天皇(在位1586〜1611)を聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)に迎えた際には、諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせるという演出をしています。

 秀吉は間もなく、関白職と聚楽第を甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ。秀吉の姉の子。1568〜1595)に譲りました。しかし、秀吉に実子の秀頼(1593〜1615)が誕生すると、両者の関係は悪化します。ついに秀吉は、秀次を高野山に追放して自殺に追いやってしまいます。

 この時、聚楽第も破却され、これにより秀吉の政庁は伏見城に移りました。なお、伏見城の跡地が後世「桃山」とよばれるようになり、「桃山時代」・「桃山文化」の名称の由来となりました。


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A 経済基盤


 豊臣政権は、220万石をこえる蔵入地(くらいりち。直轄領)を経済基盤にしていました。蔵入地の7割は畿内とその周辺地域に集中していました。佐渡金山・大森銀山・生野銀山などの主要鉱山を直轄にして、金銀産出に伴う利益を独占しました。

 秀吉は、掘り出された金銀をもとに、彫金家の後藤徳乗(ごとうとくじょう。1550〜1631)に命じて貨幣を鋳造させました。1588(天正16)年に鋳造させた天正大判(てんしょうおおばん。別名「菱大判(ひしおおばん)」ともいいます)は表面に「拾両、後藤」の文字と後藤徳乗の花押(かおう。サイン)が墨書され、大判の上下左右に桐模様の極印(ごくいん)が打たれています。大判1枚の重さは165gもあり、金が70%以上含まれていました。天正大判は、世界最大の金貨として有名です。一般に流通した貨幣でなく、贈答用に使われたようです。

 また、京都・大坂・堺・伏見・長崎など重要都市を直轄地にしました。そして、各都市の豪商を配下におき、その経済力を利用しました。堺の千利休(せんのりきゅう。1522〜1591)、博多の島井宗室(しまいそうしつ。1539?〜1615)・神谷宗湛(かみやそうたん。1553〜1635)らが知られています。


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B 五奉行と五大老


 豊臣政権は秀吉の独裁色が強く、中央政府の組織が十分に整備されたものとは言えませんでした。実際の行政処理は、五奉行と称する秀吉子飼いの武将たちに任されました。

 五奉行は、浅野長政(あさのながまさ。1547〜1600)、増田長盛(ましたながもり。1545〜1615)、石田三成(いしだみつなり。1560〜1600)、前田玄以(まえだげんい。1539〜1602)、長束正家(なつかまさいえ。?〜1600)の5人です。五奉行筆頭が浅野長政で、浅野・石田・増田が検地を、長束が財政を、そして前田が公家・寺社・京都の庶政をそれぞれ担当しました。

 重要政務は、大老と称する有力大名の合議で決定されました。徳川家康、前田利家(まえだとしいえ。1538〜1599)、毛利輝元(もうりてるもと。1553〜1625)、宇喜多秀家(うきたひでいえ。1572〜1655)、小早川隆景(こばやかわたかかげ。1533〜1597)の5人です。隆景没後は上杉景勝(うえすぎかげかつ。1555〜1623)を加え、五大老と呼ばれました。


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●秀吉の諸政策●



@ 太閤検地(天正の石直し)


 信長は旧勢力打倒のため、征服地の領主から土地台帳(指出)を提出させました。これに対し秀吉は、武士による農民の直接支配体制を作り上げるため、統一基準による全国的な検地を断行しました。これを太閤検地(太閤は前に関白だった人の尊称)とか、貫高制から石高制への移行というので「天正の石直し(てんしょうのこくなおし)」と称しました。検地の実施に当たって秀吉は「反対者は皆殺しにしても構わぬ、場合によっては秀吉が自ら出向いて指揮する」まで言い切るほどの強硬な態度を示しました。


《 度量衡(どりょうこう)の統一 》


 秀吉は検地奉行を派遣し、実施規則である検地条目に従い、統一基準のもとで検地を実施しました。

 土地の面積は、新しい基準のもとに定めた町(ちょう)・段(たん)・畝(せ)・歩(ぶ)に統一しました。6尺3寸(約191cm)平方を1歩、30歩を1畝、300歩(10畝)を1段、10段を1町とする新しい単位を採用しました。

 また、地方によって異なる容量だった枡も、京都付近で使用されていた京枡(きょうます)に統一し、石(こく)・斗(と)・升(しょう)・合(ごう)・勺(しゃく)を基本単位としました。

  近世の度量衡を次にまとめておきます。


   度(長さ)  1丈=10尺=100寸(≒3.03m)
   量
(容量)  1石=10斗=100升=1,000合=10,000勺(≒180 l)
   衡
(重さ)  1貫=1,000匁(もんめ)(≒3.75s)
   面積     
1町=10反=100畝=3,000歩(≒1ha)1歩=1間(けん)×1間(≒3.3u)


◆京枡のからくり

 小学生向けの本にのっていた話題を一つ。

 従来、税の取り立てに用いられていた古枡(こます)に代えて、秀吉は京枡の使用を命じました。古枡は内法(うちのり)の縦・横の長さが5寸(約15cm)で深さが2寸5分(約7.5cm)、京枡は縦・横の長さが4寸9分)で深さが2寸7分(約8.2cm)でした。京枡に変更する際、秀吉は次のような説明をしたといいます。


 「古枡の縦・横を1分ずつ短くし、深さを2分深くしたのが京枡だ。2分減らして、2分増やしたのだから、全体の容量は変わらないのだ


 本当に、古枡と京枡では容量に変化はなかったのでしょうか。試しに電卓をたたいてみると、両者には次のように、容量の差があったことがわかります。


   古枡:5×5×2.5=62.5(立法寸)
   京枡:4.9×4.9×2.7=64.827(立法寸)
   ゆえに(64.827-62.5)/62.5×100≒3.7(%)



 古枡と京枡をくらべると、京枡の方が3.7%ほど容量が多いのです。「容量は変わらない」と言っておきながら、秀吉はこっそりと3.7%の増税を行っていたことになります。100杯につき約4杯分、従来より多く税をとられることになった農民たちは、京枡のからくりを計算上説明はできなかったものの、経験の上から、「何かおかしい」と気づいていたそうです。

【参考】
仲田紀夫『目からうろこ小学生の「さんすう」大疑問100』1999年、講談社、P.152〜153


《 検地のやり方 》

 
 太閤検地では、村ごとに田畑や屋敷地等の等級や面積を調査して、石高(玄米生産力)を決定しました。次に、石高の算出方法を確認しておきましょう。

 たとえば、1反の田んぼから3石の籾米(もみまい)が生産されたとします。この籾米を玄米にするために五合摺り(ごごうずり)にして籾殻を取り除くと量は1/2になり、1石5斗(15斗)の玄米が得られます。この1反当たりから得られた玄米15斗を「石盛(こくもり)15」と表現し、石盛15の土地を上田(じょうでん)と名づけました。石盛は、1反当たりの玄米平均収穫量を斗で表現したものなので、別名「斗代(とだい)」ともいいます。

 田んぼの種類は上田(じょうでん)・中田(ちゅうでん)・下田(げでん)・下々田(げげでん)を基準としました。上田を石盛15とし、中田を石盛13、下田を石盛12、下々田を石盛9としました。石盛が2つずつ順に下がっていくので、これを「二つ下がり(二つ劣り)」といいます。本来は米を生産しない畑や屋敷地も、米を生産すると見なされて田んぼの等級に準じて石盛がなされました。

 等級ごとの石盛(1反当たりの玄米平均収穫量)に土地面積を乗じ、その総和が石高(こくだか)です。一村全体で集計したものが村高(むらだか)、一国全体で集計したものが国高(くにだか)となります。

 租税は石高に応じて課せられました。税率は二公一民(にこういちみん)でした。3石を生産したとすると、2石は領主に租税として納め、残り1石が生産者の手元に残ることになります。


《 検地の意義 》


 太閤検地の結果、小作料を徴収することが禁止され(これを作合否定(つくりあいひてい)の原則といいます)、中世の荘園内における複雑な土地支配関係(本家-領家-荘官-名主-作人-下人・所従)は、領主−農民という単純な形に再編成されました。

 直接耕作者である農民(本百姓(ほんびゃくしょう)といいます)は、土地一筆(ひとふで)ごとに検地帳という帳簿に登録されました(これを一地一作人の原則といいます)。本百姓は、領主から耕作権が保証される一方で、年貢負担者としての義務を負い、耕作地からの移動が禁止されることになりました。

 太閤検地によって確立した石高制を基礎に、秀吉・大名間の御恩と奉公が、石高の数値によってやり取りされるようになりました。たとえば、大名Aには50万石を与え、大名Bには10万石を与えたとすると、大名Aは大名Bの5倍の軍役を果たさなければならないわけです。石高の数値によって可視化されるようになった主従関係のもと、近世の大名知行制が成立することになったのです。


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A 刀狩令


 太閤検地の強行は1587(天正15)年、肥後国に大規模な一揆を誘発しました。そこで翌年、農民を武装解除して従順な年貢負担者とする目的で、刀狩令が発せられました。


一、諸国百姓、刀、脇指
(わきざし)、弓、やり、てつはう、其外(そのほか)武具のたぐひ所持候事、固く御停止候(ごちょうじにそうろう)。其子細(そのしさい)は、入らざる道具をあひたくはへ、年貢・所当を難渋せしめ、自然(じねん)、一揆を企て、給人(きゅうにん)にたいし非儀の動(はたらき)をなすやから、勿論(もちろん)御成敗有るべし。


 刀狩りの断行によって、農民から刀剣類が没収されました。下記の史料は、加賀国江沼郡で実施された刀狩りにおいて、農民から没収した武器類のうちわけです。なお、「かうかい」は笄のことで、一般には女性が髪にさすかんざしの一種のことです。また、刀の鍔(つば)の所にさす小刀(手裏剣や髪のなでつけ用として使用)も笄と呼ばれました。


  一、千七十三腰      刀
  一、千五百四十腰     脇差
(わきざし。腰に差す短い刀)
  一、百六十本        鑓身
(やりみ)
  一、五百本          かうかい
  一、七百 小刀
     已上
(いじょう) 五ヶ条也
  天正十六(1588)年八月十八日
(『溝口文書』)


 秀吉は、没収した刀剣類は方広寺(ほうこうじ)の木造大仏を造営する際の釘・鎹(かすがい)の材料にする、と称しました。そうすれば


  今生
(こんじょう)の儀は申すに及ばず、来世までも百姓たすかる儀に候事
   
(大仏の釘・鎹にすることによって現世はいうに及ばず、来世までも百姓は助かるのだ)


と述べています。しかし、秀吉がいかにその言辞を弄しようとも、興福寺多聞院の日記にも


  内証
(ないしょう)ハ一揆停止(ちょうじ)ノ為(ため)ナリ(真意は土一揆根絶のためである)


と記されたように、刀狩令の実施意図は当時すでに見抜かれていたのです。

 刀狩令による兵農分離政策の結果、農民身分の固定化が進みました。


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B 人掃令(ひとばらいれい。身分統制令)


 秀吉・秀次が相次いで人掃令(ひとばらいれい)を出しました。人掃令とは、規則違反者は人掃(追放)にする、という厳しい処置で臨んだことに由来する名称です。

 二つの人掃令により、結果的に人々の身分が固定されることになりました。そこで、これらの人掃令を身分統制令(みぶんとうせいれい)とも称します。
 

《 人掃令1(秀吉令) 》


 全国統一が完成した翌年の1591(天正19)年、秀吉は身分の入れかえを禁止する3カ条からなる法令を出しました。その内容は、次の通りです。

  第1条:武家奉公人(侍(この場合は若党のこと)・中間・小者等)が町人・百姓になることを禁止。
  第2条:百姓が町人になることを禁止。
  第3条:武家奉公人が主人をかえることを禁止。


《 人掃令2(秀次令) 》

 
 1592(天正20)年、全国の大名に対して、関白豊臣秀次(とよとみひでつぐ)も人掃令を出しました。秀次令は、村ごとに家族・人数・性別・年齢を書きださせ、武家奉公人・町人・百姓別にまとめさせるという全国的な人改(ひとあらため。戸口調査)でした。

 朝鮮出兵の準備という時期柄、人夫徴発のための資料を得るために行ったものではないか、と考えられています。


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C 秀吉の諸政策の意義


 太閤検地は、公地公民制・地租改正・農地改革と並ぶ土地制度史上の大改革です。太閤検地によって成立した本百姓体制が、豊臣政権・江戸幕府の権力基盤となりました。さらに刀狩令・身分統制令などの諸政策と相まって、近世の身分制度の基礎が固まりました。



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●秀吉の外交政策●



@ バテレン追放令(1587)−キリスト教は禁止、貿易は奨励−


 秀吉は1587(天正15)年、九州征討の帰途、博多において突然宣教師の国外追放を命じました。 これをバテレン追放令といいます。その動機については、南蛮人の領土的野心への危惧(当時長崎が教会領となっていることを知り、秀吉は驚愕したといいます)、キリスト教の教義と封建道徳との矛盾(当時武士社会では切腹の習慣がありましたが、キリスト教では自殺は禁止されています。また、世継ぎを得るための一夫多妻制に対しても、キリスト教は認めてはいませんでした)、キリシタンによる神社仏閣の破壊、日本人の人身売買等の理由があげられます。

 しかし、貿易は従来通り奨励したため、禁教は不徹底に終わりました。

 1596(慶長元)年、土佐浦戸沖にスペイン船サンフェリペ号が漂着しました。その際、乗組員が「スペインは領土を奪う際、最初に宣教師を派遣して住民を手なづけ、その後軍隊を派遣して征服するのだ」と失言したといわれます。この失言がきっかけになって、長崎郊外でフランシスコ会系宣教師・信徒が処刑されるという26聖人殉教事件が起こりました(1597年)。フランシスコ会による過激な伝道が、日本の植民地化につながると疑われたことが原因でした。

 なお、秀吉は海賊取締令(1588年)を出し、貿易の障害だった倭寇を禁圧しています。


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A 二度にわたる朝鮮出兵


 豊臣政権の支配体制はいまだ脆弱でした。後世の江戸幕府のような確固とした組織が整っていたわけではありませんでしたし、支配の方針をめぐっても石田三成らの中央集権確立派、徳川家康らの領国支配優先派、加藤清正らの武将派が対立していました。

 こうした内部矛盾を対外戦争によって克服しようとしたこと。また全国統一によってもたらされた国内平和によって満たされなくなった諸大名の領土欲を満足させようとしたこと。また大陸制覇を夢想した秀吉の名誉欲を満足させるなどのため、朝鮮出兵が実行に移されたと考えられています。

 朝鮮出兵とはいいますが、本来の目的は「唐入り(からいり)」すなわち、明への侵入にありました。そのためには、朝鮮半島に侵入路を確保する必要があります。これを「仮道入明(かどうにゅうみん。朝鮮に道をかり、明に侵入する)」と称しました。

 しかし朝鮮は、秀吉への入貢要求と明への先導役を拒否します。これに端を発して、日本と朝鮮は泥沼の戦闘状態に突入しました。

 秀吉は肥前名護屋(なごや)に本陣を構え、ここから大軍を朝鮮半島へと向かわせました。1回目の派兵を文禄の役(1592〜96)、2回目の派兵を慶長の役(1597〜98)といいます。朝鮮では2度の戦いを、壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱とよんでいます。


《 文禄の役(1592〜96) 》


 1592(文禄元)年、秀吉は15万余の大軍を朝鮮に派兵しました。釜山に上陸した日本軍は、まもなく漢城・平壌を占領しました。しかし、李舜臣(りしゅんしん、イスンシン。1545〜1598)率いる朝鮮水軍の活躍や義兵(抗日の私兵集団)の蜂起、明からの援軍などのために、次第に戦局は不利になっていきました。この時、李舜臣は鉄板で装甲した亀甲船(きっこうせん)を駆使して日本軍を苦しめた、といわれています。

 戦局が膠着状態にはいりましたが、碧蹄館(へきていかん)の戦い(1593)で明軍が敗北すると、明軍の中にも厭戦気分が漂い始めました。この戦いを機に日明間で停戦が取り決められました。そして、日明和平交渉の道が探られたのですが、明側と秀吉側との講和条件には大きな隔たりがありました。何とか講和に持ち込もうと、明使沈惟敬(しんいけい、チェンウェイジン)と小西行長が画策するのですが成功しませんでした。そして、秀吉は再度の朝鮮出兵を決意したのでした。


《 慶長の役(1597〜98) 》


 1597(慶長2)年に14万余が派兵されました。今回は朝鮮南部の制圧が目的でした。陸上では日本軍が優勢で全羅道を征圧しさらに軍を進めましたが、海上戦で朝鮮水軍に大敗を喫します。

 先の見えない激しい戦闘や兵粮不足・厳寒等によって、戦局は悲惨さを増していきました。この時、朝鮮民衆に対する残虐行為も目立っていきました。略奪・殺人・人身売買等が行われ、戦功を示すため首級代わりに削ぎ取られた鼻が大量に日本へ送られました。のち、その鼻を供養したのが京都方広寺近くに現在も残る耳塚です。

 秀吉は戦闘の継続とさらなる大規模派兵を命じましたが、新たな軍事行動を許す状況にはもはやありませんでした。

 1598(慶長3)年、病を得た秀吉は徳川家康等の有力大名達に遺書を認(したた)め、子の秀頼の後事を託しました。その遺書には次のようにありました。


 秀より
(頼)事なりたち候(そうろう)やうに、此(この)かきつけ(書付)候しゆ(衆)を、しん(真)たのみ申、なに事も此ほかにわ、おもひ(思)のこす事なく候


 そして、8月18日に波乱に満ちた63歳の生涯を閉じます。残された秀頼は6歳でした。


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B 朝鮮出兵のもたらしたもの


 秀吉の死(1598)によって、朝鮮侵略の軍は撤兵しました。朝鮮出兵は朝鮮の人々に多大な被害を与え、また日本側も膨大な戦費と犠牲を強いられました。その結果、明・朝鮮との関係は断交したばかりではなく、豊臣政権は衰退・崩壊への途をたどることになりました。

 文化面では朝鮮系木活字印刷術・製陶術の伝来がありました。朝鮮系木活字印刷術は、一枚板を彫って版木とする経済性・効率性に対抗できず、普及しませんでした。製陶術の伝来は、日本における茶の湯の流行を背景としていました。ただし、朝鮮人陶工を強制連行するという手段で行われた文化の略奪行為だったため、朝鮮本国における白磁の伝統は中断を余儀なくされたのでした(「特講1.桃山文化」参照)。その他、農民・学者なども強制連行させられています。



◆豊臣氏と方広寺

 秀吉が創建した方広寺(天台宗。京都東山区)の歴史は、豊臣氏の興亡の歴史に重なります。

 かつて堂内には、刀狩で没収した刀剣類を釘(くぎ)・鎹(かすがい)にして建立された6丈(約18m)ばかりの木造大仏があったのですが、地震で大破してしまいました。そこで秀吉の死後、今度は頑丈な金銅像に造り替えられました。しかし、豊臣氏が滅んでしまうと、江戸幕府は金銅像をさっさと鋳潰し、197万貫文の寛永通宝を作って世上に出回らせました。人々はこの銭を「大仏銭」と呼んだといいます。

 同寺の門前には「耳塚」と呼ばれる五輪塔が残ります。この塔は、朝鮮侵略時の残虐行為を今日に伝えます。恩賞を得ようとした日本人将兵たちは、朝鮮の人々の耳や鼻をそいで日本に送りました。それらを埋葬・供養したのが「耳塚」です。埋葬された鼻や耳の数は数万に及ぶといわれます。

 また同寺の鐘の銘文は、大坂冬の陣のきっかけをつくったことで有名です。この鐘の銘文にある「国家安康」の4文字は家康の名前を分断する呪詛であり、「右僕射(うぼくや。右大臣の意)源朝臣家康公」には「源朝臣家康公を射る」、「君臣豊楽、子孫殷昌」には「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味がそれぞれ込められている等、徳川氏は思いの外の難癖をつけてきたのです(方広寺鐘銘事件)。挑発に乗った豊臣氏は徳川氏との戦端を開き(大坂冬の陣)、1615(慶長20)年、ついに滅亡させられてしまったのでした(大坂夏の陣)。


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 城普請(しろぶしん)というものは、いうまでもないことであるが莫大な労力と資金と資材を必要とする。秀吉が大坂築城以来、聚楽第・淀城・名護屋城・大仏殿・伏見城とほとんど休む間もないほど、大土木事業を起こしていることは、生来の土木狂によることもあったであろうが、宣教師オルガンチーノ・ソルデイが、

「工事のために彼等(大名)がいかにひどく窮乏しても、これを関白に話すことも、救助を求めることもできぬが、それは関白が、彼らは絶え間ない労苦と繁忙とに掣肘されるならば、反逆をおこす機もなかろうと思惟して、彼らに両城(大坂城と聚楽第)の建設工事の労苦と出費を課したからであることは、だれにも明白である」

と指摘しているように、大きな政治的意図が働いていたからである。

 大名たちもこのような秀吉の意図を知りすぎるほど知っていながら、なおかつ一身一家の保全のために、あえて能力以上の働きをして忠誠心を認めてもらおうと、躍起になって普請に精を出した。 ( 中 略 ) しかし大名がどれほど苦労したにせよ、封建社会であるかぎり、その苦しみはいつの場合も、最終的には農民を主とする一般庶民にしわ寄せされることになる。 ( 中 略 )

 天正19(1591)年2月というから、秀吉が小田原征伐から帰って半年ばかりたったころのことである。京都の町に時世を批判する痛烈な落書きがなされた。落書きは10首の歌から成っていたが、その第一首は

   いしふしん(石普請)城こしらへもいらぬもの
         あつちお田原(安土・小田原)見るにつけても


というものであった。城普請に対する偽らぬ民衆の声というべきものであろう。

(岡本良一『大坂城』1970年、岩波新書、P.88〜92)