31.織豊政権(しょくほうせいけん)(1)
− 信長の統一事業 −

 天正10(1582)年4月、東国平定を祝う勅使を勤めた勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)は、所司代村井貞勝に信長を太政大臣か関白か将軍に推任したいとの天皇の意向を伝える。( 中略 ) 晴豊は、

「関東打(うち)はたされ珍重に候間、将軍になさるべきよし」

と伝えたところ、信長は天皇の「御書」を受け取る。しかし信長は改めて返事すると任官については明確な返事はしなかったようである。 ( 中略 )

信長が天皇との関係をどのようなものと考えていたのかを象徴的に示すものとして、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの1584年12月の書翰の一節を紹介しよう。

 信長に対し、天皇に謁見できるようにと助力を求めたが、信長は「汝等(なんじら)は他人の寵(ちょう)を得る必要はない。何故(なぜなら)なら予(よ)が王であり、内裏(だいり)である」と私に語った。

 この言をそのまま信じれば、信長は、「天皇」であると公言していたことになる。宣教師の記録や発言にはしばしば誇張がみられ、ここでの発言も宣教師が天皇に会えない理由に対する方便とすることもできようが、これまで述べてきた信長の態度からすれば、信長自身が天皇の上位に自らを置いていた可能性も十分想定し得るのではなかろうか。

(藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ・シリーズ日本近世史@』2015年、岩波新書、P.51〜53)


 


●統一の過程●



@ 天下布武(てんかふぶ)−桶狭間の戦い(1560)〜美濃攻略(1567)−


 室町幕府が滅亡した1573(天正元)年から江戸幕府が開かれた1603(慶長8)年までの約30年間、織田信長と豊臣秀吉が政権をとりました。この時期の政権を、二人の姓から頭文字を一つずつとって「織豊政権(しょくほうせいけん)」といいます。織豊政権によって天下統一事業が完成し、近世封建制の基礎が確立しました。

 まずは、信長の統一事業から見ていきましょう。

  戦国大名の中で、全国統一事業に最初に着手したのは織田信長(おだのぶなが。1534〜1582)でした。信長は尾張守護代斯波氏の家臣織田信秀(おだのぶひで。1511〜1552?)の子として生まれました。その後、守護代を滅ぼしてその居城清洲城(きよすじょう)を奪い、尾張を統一しました。

 1560(永禄3)年、上洛(じょうらく)するため尾張に侵入してきた今川義元(いまがわよしもと。1519〜1560。駿河・遠江・三河を支配)を、桶狭間(おけはざま)の戦いで倒しました。この戦いの勝利により、今川氏のもとで人質生活を送っていた徳川家康(とくがわいえやす。1542〜1616)は解放されて本拠地の三河に戻り、信長と同盟関係を結ぶことになります。この同盟によって信長は、尾張の東側に「三河の家康」という防衛戦を確保したのです。こうして信長は、後顧の憂いを断ち、西に向かって侵攻を開始することが可能になりました。

 1567(永禄10)年、信長は美濃(現在の岐阜県南部)に侵攻しました。信長は斎藤竜興(さいとうたつおき。1548〜1573)の居城稲葉山城(いなばやまじょう)を攻略し、肥沃な濃尾平野を手中にします。この時信長は、周の文王が岐山(きざん)から起こって中国統一を成し遂げた故事にちなんで、斎藤氏の城下井ノ口を「岐阜(阜は岡の意。また孔子の出身地曲阜にちなんだといわれます)」と改名しました。そして「天下布武(てんかふぶ。天下に武を布(し)く)」の印文を使用し始めます。武力による「天下」平定を宣言したのです。
(注)


(注)「天下布武」にいう「天下」は「天子が支配する全世界」を意味し、信長が武力によって京都の政権を握り、各地の戦国大名を制圧して統一政権を打ち立てることを宣言したものと解せられています(五味文彦・野呂肖生『ちょっとまじめな日本史Q&A(下)近世・近代』2006年、山川出版社、P.4)。しかし実際には「天下」の指し示す範囲は時代によって異なることが指摘されています。信長時代の「天下」の範囲は、日本全国という広大なものではなく、京都を核とした畿内を意味しました。したがって、「天下布武」とは「信長が畿内を武をもって制圧する意図を込めたものだ」と指摘する説もあります(藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ・シリーズ日本近世史@』前出、P.3〜4)。


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A 伝統的権威の利用


 信長は伝統的権威の利用も忘れませんでした。荒廃した内裏の修復、正親町天皇(おおぎまちてんのう。1517〜1593)から誠仁親王(さねひとしんのう)への譲位資金の援助、毎年の贈り物などで天皇への忠誠振りを人々にアピールしました。

 また1568(永禄11)年には信長を頼ってきた15代将軍足利義昭(あしかがよしあき。1537〜1597)を奉じて入京し、室町将軍家の保護者となりました。

 しかし、右大臣には就任したものの、天皇からの参内要請に対してはこれを拒否し、将軍からの副将軍・管領就任についてもこれを辞退するなど、常に伝統的権威から一定距離を保ち続けました。

 伝統的権威を利用しつつも、伝統的権威に取り込まれるのを嫌ったのでしょう。


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B 敵対勢力の排除
 −姉川の戦い(1570)〜室町幕府の滅亡(1573)−


 
信長は、自らの前に立ちふさがる反対勢力を、次々と排除していきました。

 1570(元亀元)年には、浅井長政(あざいながまさ。1545〜1573。近江を根拠)・朝倉義景(あさくらよしかげ。1533〜1573。越前を根拠)の連合軍を、近江の姉川の戦い(あねがわのたたかい)で破りました。

 同年には、石山戦争(いしやませんそう。1570〜1580)も開始されました。石山本願寺が淀川河口という要衝の地にあったため、信長はその退去を第11代門主顕如(けんにょ。1543〜1592)に要求しました。しかし顕如がこれを拒み、戦端が開かれました。全国の一向宗門徒に信長への反抗を呼びかけ、また毛利氏の支援もあったため、石山戦争は11年間も続きました。

 この間信長は、1574(天正2)年には伊勢長島の一向一揆を、1575(天正3)年には越前の一向一揆をそれぞれ弾圧しました。

 そして1580(天正8)、正親町天皇(おおぎまち)の介入による和議という形式をとっているものの、ついに本願寺側を屈服させ、顕如を石山から退去させたのです。石山戦争の終焉とともに、加賀の一向一揆が約100年間に及ぶ自治に終止符を打ったのもこの時です。

 1571(元亀2)年には、浅井・朝倉と結んで信長と敵対した比叡山延暦寺を焼き討ちにしました。全山を焼き討ちし、僧侶ら1,600人余りを殺戮したと伝えられています。

 1573(天正元)年には、足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼしました。これは、信長と不和になった義昭が、武田信玄(1521〜1573)や浅井・朝倉氏らと結び、将軍権威の回復を目指したことが原因でした。しかし、武田信玄の急死や姉川の戦いにおける浅井・朝倉両氏の敗北によって、義昭の希望はついに実現することはありませんでした。
(注)


(注)出家して昌山(しょうざん)と名乗った義昭は、晩年腫物(しゅもつ)を病み、1597(慶長2)年、61歳でその生涯を閉じます。葬儀の戒師を勤めた臨済僧西笑承兌(さいしょうしょうたい。1548〜1608)は、昌山の棺と火葬場を作るため、京都所司代に大工2名の使用を申請しますが、1名しか認められませんでした。これに対し承兌は「世が世なら京都内外の大工をすべて集めることができたであろうに、たった二人の大工すら許されないのか」と嘆いたといいます(『日本史探訪10・信長と秀吉をめぐる人々』1983年、角川文庫、P.55〜56)。



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C 統一事業の頓挫
 −長篠合戦(1575)〜本能寺の変(1582)−


 
1575(天正3)年の長篠合戦(ながしのかっせん)では、織田・徳川連合軍の鉄砲足軽隊を駆使し、武田勝頼(たけだかつより。1546〜1582)の率いる騎馬隊に勝利しました。

 翌1576 (天正4)年、天下人のシンボルである天主天守閣)を持つ初めての城、壮麗な安土城を築城しました。天主の高さは約37mで、5層7階構造でした。最上階は内外金色に輝き、内部には中国古代の三皇五帝や聖賢たちの姿が描かれていたと言われます。

 1582(天正10)年には
天目山(てんもくざん)の戦い(注)で武田勝頼を滅ぼすなど、信長の統一事業は着々と進められていきました。しかし、明智光秀(あけちみつひで。1528?〜1582)にそむかれて突然生涯を終えたため(本能寺の変)、その事業は完成には至りませんでした。頓挫した信長の統一事業は、その後秀吉・家康らによって継承・発展させられていくことになるのです。


(注)本来「天目山」は棲雲寺(せいうんじ)という寺院の山号であり、天目山という名の山があるわけではありません。木賊峠(とくさとうげ)の辺りを天目山と称するようになった、という説もありますが、誤解を避けるには実際の地名から「田野(たの)の戦い」と呼んだ方がよいかも知れません。


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●信長の諸政策●



@ 信長の革新性



 信長が天下取りの魁(さきがけ)となったのは、その強烈な気性と果敢な行動力、新兵器の鉄砲採用等に見る先取性という個人的資質に加え、出身地の地理的優位性・経済的先進性に負うところが大きいと考えられます。

 信長の領地である尾張や、のちに領地に組み込まれる美濃(岐阜県の南部地方)は政治・文化・経済の中心地である畿内に近く(特に近江の琵琶湖を介すれば、京都までは目と鼻の先でした)、穀倉地帯の濃尾平野を擁していたなど、他の戦国大名よりも信長は優位的な立場にいました。

 信長の事業の継承者である秀吉や家康、また有力な戦国大名が東海・近畿・中国地方に集中しているのは偶然ではありません。


◆ルイス=フロイスが見た信長

 若い頃の信長は、異様な風体を好む「かぶき者」でした。父信秀の葬儀に信長は、茶筅まげの髪に袴も着けず、帯代わりのしめ縄に長束の太刀・脇差を差した異様な姿で登場しました。そして大勢の親戚・家臣らの居並ぶ中、抹香をかっとつかむや仏前に投げつけ、さっさと帰ってしまったというのです(大田牛一『信長公記』)。

 こうした常識はずれの行動をする一方、信長は天下統一の覇業を遂行するのに十分な資質や行動力を兼ね備えていました。

 宣教師のルイス=フロイスは、信長の印象を次のようにスケッチしています。

「信長は痩せて背が高く、甲高い声をしている。非常に武技を好み、粗野である。正義や慈悲の行いを楽しみ、傲慢で、名誉を重んじる。決断を秘し、戦術に巧みで、ほとんど規律に服さない。部下の進言に耳を貸すことはまれだ。日本の王侯をことごとく軽蔑し、まるで下僚に対するかのように肩の上から語りかける。明晢な理解力・判断力を持ち、神仏等の偶像を軽視し、占いのたぐいを一切信じない。宇宙に造物主(神)なく、霊魂の不滅ということもなく、死後には何物も存在しないと明白に説いたのである」


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A 宗教政策


  信長は、全国を制覇し、中央集権体制を確立していく上での障害となる勢力を、徹底的に打倒していきました。

 中世の宗教的権威の象徴であった比叡山延暦寺を焼き打ちにし、新たな権力者の前にはいかなる伝統的権威も無力に等しいことを天下に示しました。

 また、反信長勢力のひとつである石山本願寺の呼びかけに応じて蜂起した各地の一向一揆を弾圧し、刃向かう者には徹底的な厳罰と殺戮で応えました。たとえば、伊勢長島の一向一揆(1570〜1574)に対しては、約2万人もの一向宗徒を虐殺したといわれています。

 信長は寺院の経済的基盤にも手を付けました。所領台帳の提出を大和・山城をはじめとする各地に命じ(指出検地(さしだしけんち)。次項参照)、寺領を削減してその勢力の弱体化をはかりました。

寺院の勢力を削ぐ一方、キリスト教に対しては手厚い保護を加えました。ルイス=フロイスに布教や安土・京都における南蛮寺(教会)建設を許可して、仏教勢力と対抗させたのです。


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B 経済政策


《 指出検地
(さしだしけんち) 》


 信長は、1568(永禄11)年から本能寺の変で倒れる1582(天正10)年まで、畿内及びその周辺地域で検地を行いました。その目的は、征服地の大名たちに土地を与え、軍役を課す主従関係を確立するためでした。

 信長の当初の検地方式は、征服地の寺社・村などから土地の調査報告書を提出させるという形でした。土地面積や年貢高、耕作者などを記録したこの調査報告書を「指出(さしだし)」といい、指出を提出させる検地方法を「指出検地(さしだしけんち)」といいます。

 大名たちとの主従関係の確立を急ぐあまり、十分な内容検討を経ないで実施されたこの検地には、さまざまな欠陥がありました。自己申告制だったので、提出者が年貢高をごまかすなどの虚偽報告をする可能性があったこと。のちの太閤検地のように、石高制という統一基準のもとで実施されたものではなかったこと。報告書の形式がばらばらで、それぞれの報告書の記載内容に精粗があったこと。荘園制的な複雑な土地所有関係が整理されていなかったこと、など。

 そのため、のちには検地奉行を現地に派遣する方式に切り替えました。一筆(ひとふで)ごとに土地の品等・面積・年貢高・耕作者を詳細に調べ上げるようになり、このやり方が秀吉の太閤検地に継承されていくことになるのです。


《 その他 》


 中世には関銭徴収のために関所が多数設置されていました。信長は、関銭免除の特権をもたない新興商人の便宜をはかり、交通の障害を除くために関所を廃止しました。

 1577(天正5)年には安土の城下町に、商工業者に自由な営業活動を認める楽市令(らくいちれい)を出しました。その具体的中身は、特権的な同業者組合である座の特権の否定、城下町への商人来往の奨励、当所への徳政令免除、治安維持の保障等などです。これらの内容を見ると、楽市令を発した目的が、商業振興による城下町の繁栄にあったことは明らかです。

 また他の戦国大名と同じく撰銭令(えりぜにれい)を出して、貨幣流通の円滑化をはかりました。

 堺・大津・草津などの経済的・交通的・軍事的に重要な都市は直轄にし、代官を置きました。堺は貿易の拠点であるとともに、鉄砲の生産地でもあったのです。



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