天正10(1582)年4月、東国平定を祝う勅使を勤めた勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)は、所司代村井貞勝に信長を太政大臣か関白か将軍に推任したいとの天皇の意向を伝える。( 中略 ) 晴豊は、
「関東打(うち)はたされ珍重に候間、将軍になさるべきよし」
と伝えたところ、信長は天皇の「御書」を受け取る。しかし信長は改めて返事すると任官については明確な返事はしなかったようである。 ( 中略 )
信長が天皇との関係をどのようなものと考えていたのかを象徴的に示すものとして、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの1584年12月の書翰の一節を紹介しよう。
信長に対し、天皇に謁見できるようにと助力を求めたが、信長は「汝等(なんじら)は他人の寵(ちょう)を得る必要はない。何故(なぜなら)なら予(よ)が王であり、内裏(だいり)である」と私に語った。
この言をそのまま信じれば、信長は、「天皇」であると公言していたことになる。宣教師の記録や発言にはしばしば誇張がみられ、ここでの発言も宣教師が天皇に会えない理由に対する方便とすることもできようが、これまで述べてきた信長の態度からすれば、信長自身が天皇の上位に自らを置いていた可能性も十分想定し得るのではなかろうか。
(藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ・シリーズ日本近世史@』2015年、岩波新書、P.51〜53)
●統一の過程● |
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◆ルイス=フロイスが見た信長 若い頃の信長は、異様な風体を好む「かぶき者」でした。父信秀の葬儀に信長は、茶筅まげの髪に袴も着けず、帯代わりのしめ縄に長束の太刀・脇差を差した異様な姿で登場しました。そして大勢の親戚・家臣らの居並ぶ中、抹香をかっとつかむや仏前に投げつけ、さっさと帰ってしまったというのです(大田牛一『信長公記』)。 こうした常識はずれの行動をする一方、信長は天下統一の覇業を遂行するのに十分な資質や行動力を兼ね備えていました。 宣教師のルイス=フロイスは、信長の印象を次のようにスケッチしています。 「信長は痩せて背が高く、甲高い声をしている。非常に武技を好み、粗野である。正義や慈悲の行いを楽しみ、傲慢で、名誉を重んじる。決断を秘し、戦術に巧みで、ほとんど規律に服さない。部下の進言に耳を貸すことはまれだ。日本の王侯をことごとく軽蔑し、まるで下僚に対するかのように肩の上から語りかける。明晢な理解力・判断力を持ち、神仏等の偶像を軽視し、占いのたぐいを一切信じない。宇宙に造物主(神)なく、霊魂の不滅ということもなく、死後には何物も存在しないと明白に説いたのである」 |