30.鉄砲とキリスト教の伝来

 ポルトガル王はヤソ會を先鋒にアジアへ進出した。34年ヤソ會が結成されるとポルトガル國王ジョアン三世(21〜57年)はすぐ自分の國に布教させ、さらにそのアジア傳道を獎勵保護した。それはローマ法王も望むところで40年ヤソ會を公認した。ポルトガル國王・ローマ法王・ヤソ會ははじめからアジア進出でひとつに結ばれていた。國王を代表するゴア駐在のインド總督(インド副王)、マラッカ長官およびマカオ長官で日本航海の指揮官をかねるカピタン・モール、ポルトガル商人、ヤソ會士は一體となって活動した。「胡椒と靈魂のために」といみじくも彼らはうそぶいた。 ( 中略 )

(注:イエズス会(ヤソ会)創立者のひとりフランシスコ=ザビエルはマラッカ長官にあて、次のような意見を述べた)堺が日本で一番富裕な町であること、そこに商館を立てれば莫大な利益をえられることを強調し「もし私を當地へお送りになるすべての商品の管理人に任命されるなら、こう斷言します。すなわち今日までのマラッカ長官が誰も用いようとされなかったあるたしかな方法(貧民に惠みをたれて信者にすること)によって商品を『一』から『百』以上にすることができる、と。」

(鈴木良一『豊臣秀吉』1954年、岩波新書、P.126〜127)


●15・6世紀頃の世界情勢●



@ 大航海時代


  15〜6世紀、日本が戦国時代の争乱に明け暮れていた頃、ヨーロッパでは絶対主義国家イスパニア(スペイン)とポルトガルが繁栄を誇っていました。

 アジアの富への幻想(東方に黄金に満ちた国ジパングがあるという伝説がありました。このジパングは日本のことといわれます)、香辛料の獲得(生肉の保存や食欲増進のため需要があり、香辛料1gが金1gと等価で交換されたといわれます。当時の香辛料売買はイスラム商人の独占であり、アジアの生産地がヨーロッパ人によって探索されていました)、伝説のキリスト教国聖ヨハネの国探索(アフリカの南方に存在すると信じられていたキリスト教国を探しだし、イスラム勢力を挟撃しようとしたのです)、カトリック布教(後述)等の経済的・宗教的動機により、彼らは世界に乗り出していきました。

 これを「大航海時代」といいます。


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A 南蛮人の日本「発見」


 しかし、15世紀中ごろ小アジア地方に勃興したイスラム教国オスマン=トルコによって、東西交通路が遮断されてしまいました。新航路の開拓に迫られたイスパニア・ポルトガル両国は、トルデシリャス条約を結んで地球を二分割し(これをデマルカシオン(世界分割)といいました)、相互に縄張りを認めあいました。そして、条約にしたがってイスパニアは西回り、ポルトガルは東回りに針路をとり、東洋への接近を試みたのです。

 西回りに針路をとったイスパニアは南北アメリカに植民地を広げると、太平洋を横断し、1571年にはフィリピンを占領してマニラを建設しました。

 一方、東回りに針路をとったポルトガルは1510年にインドのゴアを、翌1511年にはマレー半島のマラッカを手に入れ、さらに明から割譲されたマカオを根拠地に、東洋貿易に乗り出していきました。

 当時、明が海禁政策をとっていたため、明とは朝貢貿易以外の私貿易が禁止されていました。しかし、周辺アジアの人々は中継貿易を広く行っており、そこに南蛮人たちも参入してきたことになりました。

 このような情勢を背景に、彼ら南蛮人(カトリック国のイスパニア人・ポルトガル人)が日本を「発見」することになるのです。


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●鉄砲伝来●



@ 種子島に倭寇の船が漂着



 1543(天文12)年、種子島に漂着した中国船(この船の持ち主で、五峰と名乗る中国人は、実は倭寇の頭目の王直でした)の中に、異様な風体をした外国人が乗船していました。彼らはポルトガル人で、エスピンガルダと呼ばれる細長い棒状の筒を手にしていました。これが鉄砲(火縄式長銃)でした。

 ポルトガル人が島で鉄砲射撃の実演を行うと、島主種子島時堯(たねがしまときたか。1528〜1579)は早速興味を示しました。好奇心旺盛な16歳の少年島主は、二千金という大金もいとわずに2挺の鉄砲を買い取りました。そして、家臣に火薬の製法を学ばせ、刀鍛冶に鉄砲製造方法を研究させたというのです(南浦文之(なんぽぶんし)『鉄炮記』).。

 種子島以前にも、わが国において鉄砲が使用されたとする記録は散見されます。また、日本に伝わった鉄砲は東南アジアで使用されていた鉄砲と酷似しています。東南アジアは倭寇の交易圏でしたので、わが国に鉄砲を伝えたのはポルトガル人という通説に対して、「鉄砲伝来の主人公は倭寇とする方が歴史の事実に近い」という意見もあります(宇田川武久『鉄炮伝来』1990年、中公新書、P.2〜15)。

 ともかくこうして、わが国における本格的な鉄砲生産が始まりました。その後、鉄砲生産の技術は種子島から(和泉)・国友(くにとも。近江)・根来(ねごろ。紀伊)など各地に伝わり、量産されていくようになりました。


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A 鉄砲が築城法と戦術を変え、兵農分離を促した


 戦国動乱の波に乗って急速に普及した鉄砲は、従来の築城法と戦術に大きな変革をもたらしました。

 鉄砲の破壊力に抗するため、城郭は高い石垣・幅広い堀などを必要とし、城壁には鉄砲狭間(てっぽうさま。銃眼)が設けられようになりました。もはや鉄砲の威力の前に、山城は有効ではなくなりました。

 戦国大名たちは、城下町に家臣団を集住させて、鉄砲足軽隊・長槍足軽隊などの集団歩兵部隊を組織するようになりました。個人戦から集団戦への戦術移行を象徴的に示した戦いが、長篠合戦(1575年)でした。1,000挺(一説に3,000挺)の鉄砲を擁した鉄砲足軽隊が、従来の騎馬戦本位の個人戦法を徹底的に打倒して、鉄砲の大量使用による集団戦法の優越性を証明することになったのです。

 鉄砲足軽隊は、いわばアマチュアたちの軍団でした。銃身に火薬と弾を装填し、火縄に点火したのち、指揮者の号令のもとに引き金を引くだけの集団だったのです。短期間で育成したそんなアマチュア軍団が、長年月の訓練を経て刀・槍・騎馬等の個人技に習熟した、いわばプロフェッショナル軍団をうち破ったのでした。こうした事態は、戦闘要員を農村に散在させておくのではなく、集団戦のために常時城下町に集住させておく必要性を、戦国大名たちにますます痛感させたに違いありません。

 しかし、家臣団を城下町に集住させるためには、身分制を確立する必要がありました。農村から切り離されて城下町に強制移住させられた戦闘員たちは、もはや単なる消費者集団に過ぎません。彼らを維持するためには、彼らに食糧を供給する生産身分を確保する必要があります。こうして武士身分と農民身分の分離(兵農分離)が促され、城下町の消費者人口とその繁栄を支えるために、商工業の振興がはかられることになりました。


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●南蛮貿易とキリスト教●



@ 南蛮貿易
(なんばんぼうえき)
−中国産の生糸と日本産の銀をやりとりした−


 鉄砲伝来を契機に、ポルトガル人が九州の諸港に来航するようになり、日本との貿易が始まりました。ついでイスパニア(スペイン)人も来航するようになりました。

 イスパニア人・ポルトガル人を当時の日本人は、南蛮人とよびました。南方からやってきた彼らに、中華思想の「北狄(ほくてき)・東夷(とうい)・南蛮(なんばん)・西戎(せいじゅう)」の「南蛮」の文字を当てたのです。彼らの乗った船が南蛮船で、彼らとの貿易は南蛮貿易と呼ばれました。

 南蛮貿易は基本的には中継貿易でした。明の海禁政策によって日明間の直接交易が不可能だったので、アジア諸地域の人々とともに南蛮人が両者の仲介者の役割を担ったのです。

 ポルトガル船は、根拠地のマカオ(明)と長崎の間を往来しました。日本へは、当時需要が高かった中国産生糸や絹織物を持ち込み、日本からは大量のを持ち去りました。

 一方、イスパニアは、ポルトガルに遅れて中継貿易に参入してきました。イスパニア船は根拠地のマニラ(フィリピン)から、これまた中国産生糸と絹織物を日本に持ち込み、日本からは大量の銀を持ち去ったのです。

 日本は当時、大量の銀を産出しました。世界に流通した銀の3分の1が日本産だったと推測されています。しかも、日本銀のほとんどが、石見銀山(いわみぎんざん)産の灰吹銀(はいふきぎん)が占めていたと考えられています。

 日本銀の名声は、16世紀半ばには、ヨーロッパ中に鳴り響いていました。あるイタリア人の記録には、インドから中国に向かう貿易船は日本銀を積むのが主目的だったため、銀船(ナス・ダス・プラタス)と呼ばれていたと書かれてあります。またザビエルは、日本が「プラタレアス(銀)群島」と呼ばれていたと述べ、あるイギリス人はその航海記に「(ポルトガル人は日本貿易において)日本より銀以外に何ものも搬出しない」と書きつけました(村井章介『世界史のなかの戦国日本』2012年、ちくま学芸文庫、P.183〜185)。


◆日本は銀の国

 15世紀後半以降、明が銭経済から銀経済へと移行する中で、膨大な銀需要が生まれました。そのため、中国では金の対銀相場が大幅に下落してしまいました。

 たとえば1600(慶長5)年頃、日本での金銀比価は1対12でしたが、中国では1対5でした。金1gを銀に替えると日本では12gになるのに、中国ではわずか5gにしかならなかったのです。

 当時の日本は、石見銀山などで銀が豊富に産出していました。そこで、中国から生糸・絹織物などを輸入する場合、代金の支払いを金ではなく銀で決算していたのです。

 中国にとって、気前よく銀を支払ってくれる日本は、貿易相手として魅力的でした。一方日本も、高級衣料の原料である中国産生糸の獲得を熱望していました。こうした両者の思惑が合致して、中国産生糸と日本銀の取り引きは莫大な量にのぼったのです。こうした事情を背景として、イスパニア・ポルトガルの商人たちは日本に中国産生糸を持ち込み、日本から大量の銀を運び出したのでした。

 当時、1年間に日本から海外流出した銀は200トンといわれています。世界全体での銀産出量は年間420トンだったといいますから、流出した日本銀がいかに巨額なものだったかがわかるでしょう。

 この時代、石見銀山をはじめとする日本の銀山は、世界経済に大きな影響を与える存在でした。この意味において、わがジパングは「黄金の国」ではなく、「銀の国」だったのです。

【参考】
・荒木信義『黄金島・ジパング〜謎解き・金の日本史』
  −『NHK知るを楽しむ 歴史に好奇心2006年8月〜9月テキスト』P.150〜151−


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A ザビエルが来日し、カトリックが伝わった


  日本人アンジロー(またはヤジロー)の案内で、イエズス会(ヤソ会)宣教師フランシスコ=ザビエル(1506〜1552)が鹿児島に上陸し、わが国にキリスト教を伝えたのは1549(天文18)年のことでした。

 当時、ヨーロッパでは宗教改革によってプロテスタント勢力の動きが活発で、これに対抗してカトリック側は勢力挽回をはかっていました(反宗教改革)。イエズス会もそうしたカトリック教団の一つで、カトリック勢力の拡大・プロテスタントの撲滅を目指し、アジアでの積極的な布教活動に乗り出していったのでした。


◆イエズス会士は陰険?

  宗教改革の嵐が吹く中、カトリック側も自らの腐敗を認め、教会改革に乗り出しました。

 これに応じ、ローマ教皇の公認を得る形で、男子修道会のイエズス(ヤソ)会が組織されました。イエズス(ヤソ)とは、イエス=キリストのイエスのことです。わが国に初めてキリスト教を伝えたスペイン人フランシスコ=ザビエルも、イエズス会宣教師のひとりでした。

 イエズス会には、「教皇の命令は絶対」とする軍隊的規律がありました。教皇が「黒!」と言えば、白いものでも黒になりました。相互監視も厳しくおこなわれました。また、敵対するプロテスタントに対しては、「その肉体を抹殺しない限り、魂は救済できない」とし、暗殺や虐殺・拷問が繰り返されました。

 英和辞典で「Jesuit(ジェスイット)」を引くと、「n.イエズス会士;《通例 j-》《軽べつ的》策謀[詭弁]家.−adj.イエズス会士の;陰険な」(『プログレッシブ英和中辞典(第2版)』1987年、小学館)と書かれてあります。それは、イエズス会活動の歴史に、こうした暗黒の一面があったからです。

【参考】
・綿引弘『世界史の散歩道』1989年、聖文社、P.213〜214


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B  「胡椒と霊魂のために」−貿易とカトリック布教は不可分−


 織田信長は南蛮人宣教師たちに、彼らが東洋まで進出してきた理由を尋ねたことがありました。宣教師が持参した地球儀上で見ると、日本はヨーロッパから遥かかなたに位置します。幾多の危険をかえりみず、縹渺(ひょうびょう)たる大海原を乗り越えてまでやってくる彼らの目的が何なのか、素朴に疑問を持ったのです。「盗賊であって何かを奪おうとするのか、あるいは教えの大切なためか」という信長の問いに対し、イエズス会宣教師ロレンソ(1526〜1592)は次のように答えました。


「私たちはまったくの盗賊であって、日本人の魂と心を悪魔の手から奪いとって、その造主にわたすために来たのです」
(鈴木良一『豊臣秀吉』1954年、岩波新書、P.56)


 信長はロレンソの答えに単純に感心してしまいましたが、カトリック布教のみが南蛮人たちの来航目的ではありませんでした。

 彼らは「胡椒と霊魂のために」やってきたのでした。カトリックの布教とともに、「胡椒を獲得すること(=貿易)」が彼らの目的でした。そして、貿易とカトリック布教という彼らの2大目的は、本来不可分の関係にあったのです。


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C キリシタン大名

 
 キリスト教が伝わると、戦国大名たちの中にもキリスト教に改宗する者が現れました。大友義鎮(おおともよししげ、洗礼名フランシスコ。1530〜1587)、大村純忠(おおむらすみただ、洗礼名バルトロメオ。1533〜1587)、有馬晴信(ありまはるのぶ、洗礼名プロタジオのちジョアン。1567〜1612)、小西行長(こにしゆきなが。1558〜1600)、高山右近(たかやまうこん、洗礼名ジュスト。1552〜1615)らの人々です。彼らをキリシタン大名とよびます。

 キリシタン大名たちは、宣教師に領内布教を認めたり、南蛮寺(教会)の建立を許可したりするなど、積極的なキリスト教保護政策を講じました。九州のキリシタン大名達(大友義鎮(豊後)、大村純忠(肥前)、有馬晴信(肥前))は、ヴァリニャーニ(1539〜1606。イエズス会宣教師で日本巡察使として来日しました)の勧めによって使節をローマにまで派遣するほどの熱心さでした(天正遣欧使節)。

 確かに、キリシタン大名の中には、高山右近らのように純粋に信仰に生きた人々もいました。しかし、キリシタン大名たちの改宗目的が、信仰のみにあったのではありませんでした。彼らが改宗した思惑に、南蛮船を領内の港に招く、という実利的な側面があったことは見逃せません。なにしろ、貿易とカトリック布教は表裏一体の関係にあったのですから。


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D カトリック信者の急増


 このようなキリシタン大名の保護や、宣教師たちの熱心な布教活動等により、九州地方を中心に、キリシタン信者は急速にその数を増大させていくことになりました。

 巡察師ヴァリニャーニは、日本を下(しも。九州のこと)、豊後(ぶんご)、都(尾張・美濃以西の本州)の3布教区に分けて、宣教師たちに布教活動を推進させました。1582年の宣教師の報告によると、日本におけるカトリック信者の総数は15万人に及んだといいます。その内訳は、下が11万5,000人、豊後が1万人、都2万5,000人というものでした。

 なお、日本ではキリスト教信者をキリシタン(切支丹)、宣教師をバテレン(伴天連)と呼びました。教会堂は南蛮寺、宣教師の養成学校はコレジオ、神学校はセミナリオと称しました。


◆天正遣欧使節

 1582(天正10)年、伊東マンショ(主席正使)・千々石(ちぢわ)ミゲル(正使)・原マルチノ(副使)・中浦ジュリアン(副使)の4人の少年達が、九州のキリシタン大名たちの名代としてヨーロッパに派遣されました(天正遣欧使節)。4人の正確な生年は不明ですが、派遣当時は13、4歳だったようです。わざわざ少年を選んだのは、引率者の指示に素直に従うこと、旅行が長期に及ぶので新たな環境に順応しやすいこと、などの理由によるものと思われます。

 少年たちは、東洋のかなたからやってきた王子たちとして、ヨーロッパ各地で熱烈な歓迎を受けました。ローマ教皇グレゴリオ13世に謁見したばかりでなく、新教皇シクストゥス5世の即位式にも貴族として参列する栄に浴したのです。

 しかし8年半に及ぶ長途の旅を終え、1590(天正18)年に長崎の地を再び踏みしめた時には、祖国での情勢はまったく違ったものになっていました。帰国前の1587(天正15)年にはバテレン追放令がすでに発令されており、これ以降はキリスト教受難の時代へと向かっていきました。その後、千々石は棄教し、他の3人は隠れキリシタンになりました。

 江戸幕府が禁教を強化しつつあった1633(寛永10)年 、長崎でキリスト教徒の大迫害がありました。その時、穴吊しの刑(穴の中に逆さにぶら下げて殺す残虐な処刑法)によって殉教したひとりの男が、次のような言葉を叫んで死んだというのです。

 「私はローマを見てきた中浦ジュリアンだ」

 中浦らのヨーロッパ体験は、当時の日本において生かされることはなかったのです。


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