ポルトガル王はヤソ會を先鋒にアジアへ進出した。34年ヤソ會が結成されるとポルトガル國王ジョアン三世(21〜57年)はすぐ自分の國に布教させ、さらにそのアジア傳道を獎勵保護した。それはローマ法王も望むところで40年ヤソ會を公認した。ポルトガル國王・ローマ法王・ヤソ會ははじめからアジア進出でひとつに結ばれていた。國王を代表するゴア駐在のインド總督(インド副王)、マラッカ長官およびマカオ長官で日本航海の指揮官をかねるカピタン・モール、ポルトガル商人、ヤソ會士は一體となって活動した。「胡椒と靈魂のために」といみじくも彼らはうそぶいた。 ( 中略 )
(注:イエズス会(ヤソ会)創立者のひとりフランシスコ=ザビエルはマラッカ長官にあて、次のような意見を述べた)堺が日本で一番富裕な町であること、そこに商館を立てれば莫大な利益をえられることを強調し「もし私を當地へお送りになるすべての商品の管理人に任命されるなら、こう斷言します。すなわち今日までのマラッカ長官が誰も用いようとされなかったあるたしかな方法(貧民に惠みをたれて信者にすること)によって商品を『一』から『百』以上にすることができる、と。」
(鈴木良一『豊臣秀吉』1954年、岩波新書、P.126〜127)
●15・6世紀頃の世界情勢● |
●鉄砲伝来● |
●南蛮貿易とキリスト教● |
◆日本は銀の国 15世紀後半以降、明が銭経済から銀経済へと移行する中で、膨大な銀需要が生まれました。そのため、中国では金の対銀相場が大幅に下落してしまいました。 たとえば1600(慶長5)年頃、日本での金銀比価は1対12でしたが、中国では1対5でした。金1gを銀に替えると日本では12gになるのに、中国ではわずか5gにしかならなかったのです。 当時の日本は、石見銀山などで銀が豊富に産出していました。そこで、中国から生糸・絹織物などを輸入する場合、代金の支払いを金ではなく銀で決算していたのです。 中国にとって、気前よく銀を支払ってくれる日本は、貿易相手として魅力的でした。一方日本も、高級衣料の原料である中国産生糸の獲得を熱望していました。こうした両者の思惑が合致して、中国産生糸と日本銀の取り引きは莫大な量にのぼったのです。こうした事情を背景として、イスパニア・ポルトガルの商人たちは日本に中国産生糸を持ち込み、日本から大量の銀を運び出したのでした。 当時、1年間に日本から海外流出した銀は200トンといわれています。世界全体での銀産出量は年間420トンだったといいますから、流出した日本銀がいかに巨額なものだったかがわかるでしょう。 この時代、石見銀山をはじめとする日本の銀山は、世界経済に大きな影響を与える存在でした。この意味において、わがジパングは「黄金の国」ではなく、「銀の国」だったのです。 【参考】 ・荒木信義『黄金島・ジパング〜謎解き・金の日本史』 −『NHK知るを楽しむ 歴史に好奇心2006年8月〜9月テキスト』P.150〜151− |
◆イエズス会士は陰険? 宗教改革の嵐が吹く中、カトリック側も自らの腐敗を認め、教会改革に乗り出しました。 これに応じ、ローマ教皇の公認を得る形で、男子修道会のイエズス(ヤソ)会が組織されました。イエズス(ヤソ)とは、イエス=キリストのイエスのことです。わが国に初めてキリスト教を伝えたスペイン人フランシスコ=ザビエルも、イエズス会宣教師のひとりでした。 イエズス会には、「教皇の命令は絶対」とする軍隊的規律がありました。教皇が「黒!」と言えば、白いものでも黒になりました。相互監視も厳しくおこなわれました。また、敵対するプロテスタントに対しては、「その肉体を抹殺しない限り、魂は救済できない」とし、暗殺や虐殺・拷問が繰り返されました。 英和辞典で「Jesuit(ジェスイット)」を引くと、「n.イエズス会士;《通例 j-》《軽べつ的》策謀[詭弁]家.−adj.イエズス会士の;陰険な」(『プログレッシブ英和中辞典(第2版)』1987年、小学館)と書かれてあります。それは、イエズス会活動の歴史に、こうした暗黒の一面があったからです。 【参考】 ・綿引弘『世界史の散歩道』1989年、聖文社、P.213〜214 |
◆天正遣欧使節 1582(天正10)年、伊東マンショ(主席正使)・千々石(ちぢわ)ミゲル(正使)・原マルチノ(副使)・中浦ジュリアン(副使)の4人の少年達が、九州のキリシタン大名たちの名代としてヨーロッパに派遣されました(天正遣欧使節)。4人の正確な生年は不明ですが、派遣当時は13、4歳だったようです。わざわざ少年を選んだのは、引率者の指示に素直に従うこと、旅行が長期に及ぶので新たな環境に順応しやすいこと、などの理由によるものと思われます。 少年たちは、東洋のかなたからやってきた王子たちとして、ヨーロッパ各地で熱烈な歓迎を受けました。ローマ教皇グレゴリオ13世に謁見したばかりでなく、新教皇シクストゥス5世の即位式にも貴族として参列する栄に浴したのです。 しかし8年半に及ぶ長途の旅を終え、1590(天正18)年に長崎の地を再び踏みしめた時には、祖国での情勢はまったく違ったものになっていました。帰国前の1587(天正15)年にはバテレン追放令がすでに発令されており、これ以降はキリスト教受難の時代へと向かっていきました。その後、千々石は棄教し、他の3人は隠れキリシタンになりました。 江戸幕府が禁教を強化しつつあった1633(寛永10)年 、長崎でキリスト教徒の大迫害がありました。その時、穴吊しの刑(穴の中に逆さにぶら下げて殺す残虐な処刑法)によって殉教したひとりの男が、次のような言葉を叫んで死んだというのです。 「私はローマを見てきた中浦ジュリアンだ」 中浦らのヨーロッパ体験は、当時の日本において生かされることはなかったのです。 |