29.室町文化   

 京都の銀閣寺に行ったときの話です。

 庭というものは座敷に座って見るように設計されていて、立って見るもんじゃないんです。 ( 中略 ) 座ると、軒先の高さに応じて借景をどう計算しているか、というのが見えるわけで、座ってはじめて、軒先と鴨居・敷居に区切られて浮かび上がる構図の見事さがわかる。 ( 中略 )

 そうしたら、その庭師さん、
「最近座って見てくれる方がいないんです。あなた、そこお座りになっているところに、足利将軍さんが座っていたんです」
 銀閣寺だから、そうでしょうね。でも、つぎの言葉にびっくりしました。

足利将軍さんがご覧になったままの庭を、永さん、いまあなたがご覧になっているわけです

 そりゃ、いくら何でも嘘だと思いますよね。
 五百年以上も前と同じわけはない。

「いいえ、そうなんです。ここは、昔、将軍が見たままになっています。悔しいけど、借景はそうじゃない。借景はそうじゃないけど、でもこの庭はそのときのまんま」
「そのまんまって言ったって、木が生えてきて何百年もたっているんだから、同じはずはないでしょう?」
「永さんはお若い。盆栽のことがわかってない。盆栽という芸はここから生まれるんですよ。盆栽は育てたら盆栽じゃない。育てない、何百年たとうが育てないようにして生かしておく。だから盆栽なんだ」。 ( 中略 )

 それにしても、びっくりしました。室町時代の庭はいまでも室町時代の庭のままだというんですから。

「足利さんがご覧になったとおりの庭をいまあなたは見ているんですよ」と言われたとき、職人の仕事って怖い、と思いました。
   
(永六輔『職人』1996年、岩波新書、P.188~191)



●室町文化の特色●



① 室町文化は3つに区分


 
 室町文化はおよそ3つの時期の文化に分けることができます。

 幕府草創期から南北朝動乱期を中心とした南北朝文化(14世紀半ば)、3代将軍足利義満の時代(~15世紀前半)を中心とした北山文化、そして8代将軍足利義政の時代(~16世紀前半)を中心とした東山文化の3つです。

 これらを総称して、室町文化といいます。


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② 室町文化は融合文化


 室町文化は、武家文化と公家文化、中央文化と地方文化、大陸文化と伝統文化、それぞれの融合の上に形成された文化です。

 武家が政治的・経済的に圧倒的な力を持つようになると、公家文化の優位性が崩れて、武家が文化の担い手となりました。幕府が京都に置かれていたこともあって、公家文化との融合がおおいに進んだのです。

 また、幕府を支えた守護大名は在京が原則でしたので、京都で中央文化に馴れ親しんだ守護大名やその家来たちが、中央文化を地方にもちこむ役割を担いました。戦国時代には、戦乱を避けた文化人たちが地方に下向し、都の文化を地方に伝える、ということもありました。経済力の向上に伴って、街道を往来する商人や庶民たちも増え、それぞれの地方どうしの文化交流も見られるようになりました。

 さらには、足利義満が日明貿易を推進したこともあって、唐物(からもの)・唐絵(からえ)とよばれる多くの品々が遣明船によってわが国にもたらされ、伝統文化と大陸文化との融合も進みました。

 こうした中から、能・狂言・茶の湯・生け花など、日本固有の文化が形成されていきました。


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●南北朝文化●



 
南北朝時代には、動乱期を反映して、多くの歴史書・軍記物が書かれました。

 また、新興武士たちの「バサラ」の精神が顕著だったのもこの時期でした。「バサラ」とは、贅沢で新奇なものを好む風潮を表現した言葉です。連歌や能楽・茶寄合・闘茶などが新興武士たちの間で流行しましたが、羽目をはずした派手な振る舞いに、幕府はしばしば禁止を命じるほどでした。


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① 歴史書


 歴史書としては、『増鏡(ますかがみ)』・『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』・『梅松論(ばいしょうろん)』などが書かれました。


《 増鏡(ますかがみ) 》


 『増鏡』(作者未詳)は仮名文・編年体で書かれた、四鏡の最後を飾る歴史物語です。後鳥羽天皇から後醍醐天皇までの約150年間(1180~1333)の歴史を公家の立場から記し、南朝に対して同情的な立場をとっています。


《 神皇正統記(じんのうしょうとうき) 》


 『神皇正統記』は、北畠親房(きたばたけちかふさ)が常陸国(現茨城県)小田城で執筆したものです。伊勢神道の理論を援用し、大義名分論にもとづいて南朝の正統性を主張する目的のもとに書かれました。冒頭に「大日本は神国なり」の一文を置き、神代から後村上天皇まで歴史を簡潔に叙述しています。江戸時代、水戸学に大きな影響を与えたことが知られています。

 慈円の『愚管抄』、新井白石の『読史余論』とともに、「三大史論」の一つに数えられています。


《 梅松論(ばいしょうろん) 》


 『梅松論』(作者未詳)は、足利政権の成立過程を北朝の立場に立って、細川氏の活躍を折り込みつつ叙述しています。書名は、足利政権の継続を梅や松のめでたさにあやかって言祝(ことほ)ぐ意味合いから名づけられました。建武の新政にかける後醍醐天皇の意気込みや、建武新政権の迷走ぶりを描いた場面が有名です。


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② 軍記物語


 軍記物としては、『太平記(たいへいき)』・『難太平記(なんたいへいき)』・『曽我物語(そがものがたり)』などが成立しました。


《 太平記(たいへいき) 》


 『太平記』は、鎌倉時代の『平家物語』と併称される軍記物の代表です。作者は未詳ですが、恵鎮(えちん)上人とその事業を継承したと推測される小島法師(こじまほうし)ら、複数の僧侶の手を経て成立したもののようです。

 全体的に儒教的な政道思想に立ち、南朝贔屓(びいき)の叙述が目立ちます。軍記物特有の誇張や曲筆等も多く、「太平記は史学に益(えき)なし」(久米邦武)と断じた歴史学者もいました。したがって史料として利用する場合には、厳密な史料批判が必要です。

 『平家物語』が琵琶法師による平曲として語られたのに対し、『太平記』は講釈という形で民間に広がりました。江戸時代には「太平記読み」と称する講釈師が現れました。


《 難太平記(なんたいへいき) 》


 『難太平記』は九州探題をつとめた今川了俊(いまがわりょうしゅん。貞世)の著作です。足利尊氏挙兵以来の今川氏の功績を、子孫のために書き残す目的で作られました。本書は『太平記』に関する著作ではありませんが、『太平記』の内容に反駁(はんばく)・訂正する記事が見えることから、後世『難太平記(太平記を批判するの意)』と名づけられました。


《 曽我物語(そがものがたり) 》


 『曽我物語』(作者未詳)は、曾我祐成(そがすけなり)・時致(ときむね)兄弟が、父のかたき工藤祐経(くどうすけつね)を討つ物語です。曽我物(そがもの)として後世の文学や芸能等に多大な影響を及ぼしました。


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③ 有職故実(ゆうそくこじつ)


 有職故実書には『建武年中行事(けんむねんじゅうぎょうじ)』・『職原抄(しょくげんしょう)』などがあります。

 『建武年中行事』は後醍醐天皇が撰しました。宮中の年中行事を月を追って、和文で記述したものです。

 『職原抄』は北畠親房が後村上天皇のために書いた有職故実書です。わが国の官職制度の由来・職員・官位などについて記しています。


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④ 連 歌(れんが)


 連歌は、和歌の上の句(5・7・5)と下の句(7・7)に分け、それぞれを別人が次々に句を継いでいく共同文芸です。和歌がまったく個人的な創作活動であるのに対し、連歌は「座の文芸」として発展しました。最初は2句の唱和にとどまっていましたが、次第に36句(36句で区切りをつけるのを「歌仙」といいます。三十六歌仙にちなみます)、100句と長く詠み連ねるようになりました。

 連歌は一座に集った人びとによる遊興として行われたり、賭博(とばく。かけごと)として行われる場合もありました。賭連歌(かけれんが)は、『徒然草』(第89段)や『二条河原落書』・『建武式目』等にも記載されるほど盛行しましたが、反則や勝敗を判定するには審判員が必要です。これを点者(てんじゃ)といいました。また、連歌を指導する連歌師(れんがし)も現れました。

 連歌はこの時代、身分を問わず流行しました。高貴な人びとの連歌会を堂上連歌(どうしょうれんが)、庶民の連歌会を地下連歌(じげれんが)・花下連歌(はなのもとれんが)などとよびました。

 南北朝期には、二条良基(にじょうよしもと)が『莵玖波集(つくばしゅう)』(1357)を撰集し、連歌の規則書『応安新式(おうあんしんしき)(1372)を著しました。『莵玖波集』が準勅撰(勅撰に準ずるもの)と見なされてからは、和歌と同格の地位を築くに至りました。



 ◆筑波の道

 連歌の雅名を「筑波の道」といいます。それは、次の『古事記』の話に由来します。

 
(倭健命(やまとたけるのみこと)が)甲斐(かい)に出でて、酒折の宮(さかおれのみや。山梨県西山梨郡)にまします時に歌よみしたまひしく、

   新治
(にいはり)筑波を過ぎて幾夜(いくよ)か宿(ね)つる

 ここにその御火焼
(みひたき)の老人(おきな)、御歌に続(つ)ぎて歌よみして曰(い)ひしく、

   かがなべて
(日を並べて)夜には九夜日には十日を

 と歌ひき。
(武田祐吉訳注『古事記』1956年、角川文庫、P.112)

 倭健命と御火焼(みひたき)の翁とのこれらの問答が、連歌の起源だというのです。『莵玖波集』・『新撰莵玖波集』・『犬筑波集』など、連歌関係の書物に「つくば」の名前が付されているのはそのためです。


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⑤ 芸 能


 この時代、闘茶(とうちゃ)・茶寄合(ちゃよりあい)が盛んに行われました。


《 闘 茶(とうちゃ) 》


 喫茶の習慣が普及していくと、茶の生産地が拡大し、茶は薬ではなく嗜好品としての地位を獲得するに至りました。その結果、茶を飲むために人びとが集まる茶会(ちゃかい)が成立することになります。

 茶会では、茶を飲んでその産地や等級を当てる遊びが生まれました。この遊びを闘茶(とうちゃ)といいます。基本的には栂尾茶(とがのおちゃ。のち宇治茶)を「本茶(ほんちゃ)」、それ他の産地の茶を「非茶(ひちゃ)」と称し、その違いを当てました。ただその際、勝者には金品が与えられました。一種の賭け事です。


《 茶寄合(ちゃよりあい) 》


 闘茶ののち歌舞管弦をともなう酒宴となることもありました。こうしたバサラ精神に通じる茶会を茶寄合(ちゃよりあい)といいます。珍奇で豪華な唐物(からもの。輸入された茶道具)などを、茶会所に所狭しと飾り立てました(会所飾り)。贅(ぜい)を尽くした派手好みの「群飲逸遊(ぐんいんいつゆう)」行為は「婆娑羅(ばさら)の振る舞い」と見なされ、建武式目では制限の対象となりました。


《 一服一銭(いっぷくいっせん) 》


 一方、人が多く集まる社寺の門前では、その場で茶を飲ませる新商売も始まりました。これを当時「一服一銭(いっぷくいっせん)」と称しました。その名称は、「茶一杯を一銭で売ったから」とも、「銭の匙(さじ)ですくった分量の抹茶を点(た)てて売ったから」とも言われています。茶店(ちゃみせ)のさきがけと言っていいでしょう。

 やがて、茶は嗜好品の時代から、独自の思想・様式をもった「茶の湯」の時代へと変化していきます。


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⑥ 建 築


 現在の岐阜県に建つ永保寺(えいほうじ)は、夢窓疎石が開いた寺院です。このうち開山堂が、この時代の建築遺構です。

 開山堂は祠堂(しどう。内陣)と礼堂(らいどう。外陣)、および二つをつなぐ相(あい)の間からなります。入母屋造(いりもやづくり)・檜皮葺(ひわだぶき)・強い軒反(のきぞ)り・桟唐戸(さんからど)など、禅宗様の特徴をよく示す建物です。


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⑦ 庭 園


《 天竜寺庭園
(てんりゅうじていえん) 》


 天竜寺庭園は、天竜寺を開山した夢窓疎石(むそうそせき)の手にかかるものです。嵐山を借景とした池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の庭園です。

 夢窓疎石は足利尊氏・直義兄弟ばかりでなく、後醍醐天皇からも帰依を受けた高僧でした。天竜寺は後醍醐天皇の冥福を祈るために、夢窓疎石の勧めで足利尊氏・直義兄弟が建立した寺院です。その造営費用を捻出するため、尊氏は天竜寺船を元に派遣しました。

 また夢窓疎石は、元弘の乱以降の戦没者の冥福(めいふく)を祈るため、尊氏・直義兄弟に勧めて、諸国に安国寺(あんこくじ。国土安穏を祈るの意)・利生塔(りしょうとう。仏舎利を納めた塔)と称する一寺・一塔をも建立させています。


 西芳寺庭園(さいほうじていえん) 》


 西芳寺庭園も夢窓疎石の手にかかるものです。上下二段の庭園で構成されており、上段が枯山水庭園、下段が池泉回遊式庭園になっています。池泉回遊式庭園には100種類以上の苔が敷き詰められ、西芳寺の異称「苔寺(こけでら)」の由来となっています。


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⑧ 絵 画


《 水墨画 》


 わが国の水墨画草創期の画僧に、黙庵(もくあん。?~1345?)と可翁(かおう。?~?)がいます。

 黙庵は中国に渡り、中国で没しました。そのため近世まで、中国人画家に間違われていました。代表作に、唐僧豊干(ぶかん)・寒山(かんざん)・拾得(じっとく)と虎が仲良く眠る様を描いた『四睡図(しすいず)』があります。

 可翁は作品は残るもののその人物像は不明です。可翁宗然(かおうそうねん)なる人物と同一ではないか、とする説が有力です。代表作に『寒山図』があります。


《 絵巻物 》


 絵巻物には、本願寺3代覚如(かくにょ)の生涯を描いた『慕帰絵詞(ぼきえことば)(10巻)があります。絵は藤原隆章(たかあき)・隆昌(たかまさ)、詞書(ことばがき)は三条公忠(きんただ)らの筆になります。


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●北山文化●



 
3代将軍義満の時代の文化です。北山文化という名称は、義満が営んだ北山山荘に由来します。その北山山荘の舎利殿として建立されたのが金閣です。義満の死後、その法号鹿苑院(ろくおんいん)にちなんで、鹿苑寺となりました。

 金閣は三層から成る殿閣建築(でんかくけんちく)です。下層(法水院(ほうすいいん))が寝殿造、中層(潮音洞(ちょうおんどう))が和様、上層(究竟頂(くっきょうちょう))が禅宗様となっています。各種文化の融合という、この時代の特色を象徴的に表現する建物といっていいでしょう。

 また北山文化は、禅宗文化の普及、明の文化の普及という点にも特色があります。幕府が臨済宗を保護して臨済僧の文筆能力を政治・経済・外交等各方面に幅広く活用したり、日明貿易を推進したりしたためです。


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① 建 築


 北山文化の代表的建築には、鹿苑寺金閣、興福寺東金堂・五重塔などがあります。

 鹿苑寺金閣はこの時代の代表的遺構でしたが、残念なことに放火によって焼失してしまいました。現在の金閣は再建されたものです。

 興福寺東金堂・五重塔は和様の建築物です。ともに奈良時代に創建されましたが、たびたび火災に遭い、東金堂は1415年、五重塔は1426年にそれぞれ再建されたものです。奈良時代創建時の姿をうかがうことができます。


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② 臨済宗の発展


 
臨済宗は権力と結びついたことから、幕府の保護を受け発展しました。そのため、将軍からの政治上の諮問(しもん)に答えたり、各種文書を作成したり、外交使節として遣明船に乗船して日明間を往来したりしました。


《 五山十刹(ござんじっさつ)の制 》


 
南宋の官寺の制にならい、臨済宗寺院を「五山-十刹-諸山(しょざん。また甲刹(かっさつ)とも称しました)」と序列化したしくみを「五山十刹の制」といいます。このしくみは、義満の時代に完成しました(1386)。

 京都には寺格の高い順に、天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の五つの寺院が置かれました。これを京都五山といいます。京都五山の上には、別格として南禅寺が置かれました。

 一方、鎌倉にも寺格の高い順に、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の五つの寺院が置かれました。これを鎌倉五山といいます。

 官寺を管理し住職などを任命する職を僧録(そうろく)といい、初代僧録には春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が任ぜられました。僧録の事務所を僧録司(そうろくし)といい、相国寺に置かれました。のち僧録は相国寺の鹿苑院主(ろくおんいんしゅ)が兼任したので、鹿苑僧録(ろくおんそうろく)と呼ばれるようになりました。


《 五山文化 》


 
禅僧の往来により、禅宗寺院は新しい中国文化受容の中心となりました。漢詩文や儒学(宋学)の研究から五山文学がおこり、義堂周信(ぎどうしゅうしん。『空華集(くうげしゅう)』など)と絶海中津(ぜっかいちゅうしん。『蕉堅藁(しょうけんこう)』など)が「五山文学の双璧(そうへき)」と呼ばれました。

 また、仏典・禅僧語録・詩文集など五山文学の出版活動も活発で、これらの書物を「五山版(ござんばん)」と称します。


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③ 水墨画


 水墨画は墨の濃淡を利用して描かれました。鎌倉時代中期以降、禅の精神を表現した絵画として宋・元から盛んに輸入されるようになり、禅宗寺院を中心に珍重されました。やがて禅宗僧侶を中心に水墨画を描くようになり、その中から傑出した画僧が現れるようになりました。『五百羅漢図(ごひゃくらかんず)』を描いた明兆(みんちょう。兆殿司(ちょうでんす)と呼ばれました。1352~1431)、『瓢鮎図(ひょうねんず)を描いた如拙(じょせつ。?~?)、『寒山拾得図』・『水色巒光図(すいしょくらんこうず)』を描いた周文(しゅうぶん。?~?)など、著名な画僧はみな五山に属する禅僧でした。

 水墨画と禅宗の結びつきがよくわかるのが、如拙の描いた『瓢鮎図(ひょうねんず)』(妙心寺退蔵院蔵)です。『瓢鮎図』は「瓢箪でぬるぬるしたナマズを捕まえるにはどうしたらよいか」という禅の公案を描いたものです。こうした絵画を禅機画(ぜんきが)と称します。この絵の上部には、31名の五山僧たちが思い思いに賛(さん)を書いています。


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④ 能


 
田楽と猿楽(さるがく。曲芸・物真似などの民間娯楽)を母体として成立した能が、同業者の組織を結成しました。近江三座(おうみさんざ)と大和猿楽四座(やまとさるがくしざ)が有名です。

 近江三座には、北近江の上三座(日吉(ひえ)神社を本所とする山階座(やましなざ)・下坂座(しもさかざ)・比叡座(ひえざ))と南近江の下三座(多賀神社を本所とする敏満寺座(みまじざ)・大森座・酒人座(さかうどざ))があります。室町末期に衰微しました。

 大和猿楽四座興福寺を本所とし、観世座(かんぜざ)・宝生座(ほうしょうざ)・金春座(こんぱるざ)・金剛座の四座がありました。このうち観世座からは、観阿弥(清次)・世阿弥(元清)父子があらわれました。彼らは将軍義満の保護のもと能を完成させました。

 能の脚本を謡曲(ようきょく)といいます。高砂(たかさご)、実盛(さねもり)、頼政(よりまさ)、敦盛(あつもり)、井筒(いづつ)など、世阿弥が創作した謡曲の数多くが現在にまで伝わっています。

 世阿弥はまた、能の理論書である『風姿花伝(ふうしかでん)や秘伝書の『花鏡(かきょう)を著しました。

 「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」
(『風姿花伝』)

とか

 「初心忘るべからず」
(注
(『花鏡』)

という世阿弥の言葉は、一度は耳にしたことがあるでしょう。


(注)『花鏡』には次のようにあります。「しかれば、当流に万能一徳(まんのういっとく)の一句あり。初心不可忘(しょしんわするべからず)。この句、三箇条の口伝(くでん)あり。是非(ぜひの)初心不可忘。時々(じじの)初心不可忘。老後(ろうごの)初心不可忘」。現代で使われる意味とは異なり、若い時の初心、人生その時々の初心、そして老後の初心を忘れてはならない、という意味合いで使われています。


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●東山文化●



 
足利義政は応仁の乱後、京都の東山に山荘(東山殿)をつくり、そこに観音殿を建てました。この観音殿が銀閣(慈照寺銀閣。下層は書院造の心空殿(しんくうでん)・上層は禅宗様の潮音閣(ちょうおんかく))です。この時期(15~16世紀前半)の文化は、東山山荘に象徴されるところから東山文化と呼ばれます。

 東山文化は「禅の精神に基づく簡素さをもっている」、「幽玄(ゆうげん)・侘(わび)などの精神性を基調としている」、「芸術性が生活文化の中に浸透している」、「現代の日本文化の基調となっている」などと評されています。

 つつましいながらも懐(ふところ)が深い、生活に根ざした文化ということでしょうか。床の間に飾る掛け物や生け花、喫茶の習慣、畳座敷でくつろぐ生活などがこの時代に始まりました。東山文化は現在のわれわれにとって、非常に身近な文化と言えるでしょう。


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① 建 築


 古代の貴族住宅である寝殿造に代わり、書院造(しょいんづくり)が生れました。書院造は、雨戸・襖(ふすま)・障子・間仕切り・畳・押板(おしいた。床の間)・違い棚・付書院(つけしょいん。作り付けの机)などをおもな構成要素とし、近代和風住宅様式の源流となりました。

 寝殿造では、蔀戸(しとみど)といって戸を外側に向かって上に開き、天井も部屋の間仕切りもありませんでした。広い板敷きの屋内は採光が不十分だったため昼間でも薄暗く、人物の顔もよく判別できませんでした。

 これに対し、書院造では天井を張り、蔀戸は引戸(ひきど)となり、雨戸や明障子(あかりしょうじ)を用いるようになりました。庭に敷いた白河砂(しらかわすな)に反射した外光が、明障子の和紙を透過したのち天井に反射して屋内を明るくしました。こうした間接照明の工夫によって、薄暗かった室内がやわらかな光に包まれるようになりました。建物内は襖によって小部屋に分けられ、一人一人のプライバシーが守られるとともに、襖を取り払うと大部屋として利用できるようになりました。板敷きの床一面に畳を敷きつめるようになったのも、この時代からはじまりました。

 寝殿造の室内は板敷きだったため、直接座ったり寝たりするには床がかたく、畳が座布団代わり・マットレス代わりに使用されました。一方、書院造では、そうした「座」具としての畳を部屋一面に「敷」きつめました。すなわち「座敷」です。座敷の成立は、茶の湯・生け花など、その上で営まれる生活を文化を発展させることになりました。

 書院造の起源は禅僧の書斎にあるといわれます。慈照寺の東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)にその初期の様式がうかがえます。東求堂(とうぐどう)は義政の持仏堂で、「東方の人が西方の極楽浄土に生まれかわることを求める」に由来します。同仁斎(どうじんさい)は義政の書斎で、その名は「聖人は一視にして同仁(聖人は差別することなくすべての人を見て愛する)」(韓愈「原人」)に由来します。東求堂同仁斎は、現存する最古の「四畳半」といわれています。


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② 庭 園(枯山水)


 枯山水(かれさんすい、からさんすい、かれせんずい、など)は唐山水(からせんずい)が語源といわれます。池水を用いず、岩石・砂利・草木などで山水を表現したものです。禅宗の精神世界を表現している点では水墨画と共通ですから、「枯山水は三次元の水墨画である」といってよいかも知れません。西芳寺庭園、大徳寺大仙院庭園、竜安寺石庭などが代表例です。

 作庭には、山水河原者(せんずいかわらもの)と呼ばれた身分の低い人びとが多く従事しました。作庭師としては、東山山荘の庭をつくった善阿弥(ぜんあみ)がよく知られています。


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③ 絵 画


《 水墨画 》



 雪舟
(せっしゅう)は相国寺で周文(しゅうぶん)に師事しました。1467年に入明し、帰国後は写生に基づく日本水墨画を完成させました。代表作に「天橋立図(あまのはしだてず)」・「四季山水図(別名「山水長巻」などがあります。特に「四季山水図」は別名「山水長巻」といい、雪舟晩年の作にもかかわらず縦40.0cm、横の長さは15m68cmにも及び、その迫力は見る者を圧倒します。


《 大和絵 》


 大和絵では、土佐派(とさは)と狩野派(かのうは)がいます。

 土佐派は、土佐光信(とさみつのぶ)が朝廷の絵所預(えどころあずかり)をつとめて確立しました。

 狩野派は、狩野正信(かのうまさのぶ)・元信(もとのぶ)父子が水墨画と大和絵の融合をはかりました。


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④ 彫刻等


 禅宗が隆盛したこの時代は、仏像彫刻は発展しませんでした。禅宗が仏像より坐禅を重視したからです。

 代わって、能の流行を背景に能面制作、武士の文化を反映して金工(後藤祐乗(ごとうゆうじょう)作の刀剣の目抜(めぬき)・笄(こうがい)・小柄(こづか)などが珍重されました)、茶の湯の盛行を背景に陶器の制作(尾張の瀬戸焼、近江の信楽焼など)、また日本的な蒔絵の制作が盛行しました。


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⑤ 茶の湯


《 村田珠光
(むらたじゅこう) -侘茶(わびちゃ)の創始- 》


 村田珠光(むらたじゅこう。1423~1502)は少年の時、奈良称名寺(しょうみょうじ)に入って僧になりました。しかし、出家を厭い寺役を怠ったために寺から追放され、闘茶の判者や連歌師などしながら諸国を流浪したといわれています。のち京都に上り、臨済宗大徳寺の一休宗純のもとに参禅して「茶禅一味(仏法も茶湯の中にあり)」を体得し、わびを理念とする茶の湯を創始しました。これを侘茶(わびちゃ)といいます。

 従来は、書院造を会所として茶会を行いました。これを「殿中茶の湯(書院の茶)」といいます。殿中茶の湯では、主人が用意した豪華な唐物(からもの)の座敷飾りを鑑賞しながら、一堂に会した客人たちが、喫茶するというものでした。

 珠光は主人と客人の心の触れ合いを何より重視し、四畳半の茶室を創出しました。狭くすることで装飾を制限し、主客の物理的距離を縮めようとしたのです。こうした工夫によって、茶室を簡素で、少人数出席者の心が通い合う場としたのです。

 『山上宗二記(やまのうえのそうじき)』には


「珠光の云
(い)われしは、藁屋(わらや)に名馬を繋(つな)ぎたるがよしと也(なり)。然(しか)れば則(すなわ)ち、麁相(そそう)なる座敷に名物(めいぶつ)置きたるが好(よ)し」


とあります。珠光は、簡素なものと名品との対比の中に美を見出そうとしたのです。


《 武野紹鷗(たけのじょうおう) -侘茶を改良- 》


 珠光が創始した侘茶を深化・改良したのが、戦国期にあらわれた武野紹鷗(たけのじょうおう。1502~1555)でした。紹鷗は堺の富商で、茶の湯を珠光の門人から学びました。

 紹鷗は名物といわれる豪華な茶道具を所有する一方、侘茶のさらなる簡素化に努めました。四畳半をさらに小さくした三畳・二畳半の小座敷を工夫し、竹の茶杓(従来、茶杓は象牙や唐木を用いました)・土風呂(どぶろ。従来、風呂は鉄器か銅器を用いました)・青竹製の蓋置(ふたおき。従来蓋置は陶器や磁器・金属製)等日常雑器を茶の湯に取り入れるという発案をしました。

 紹鷗のいう侘びは「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕くれ」(藤原定家)という和歌の心であるといい、「正直で慎み深くおごらない様子」のことであるといい、「1年の季節の中でも神無月(かんなづき。旧暦の10月)の心」であるといいます。桑田忠親氏は「紹鷗の侘びは、要するに、秋の心であった」(桑田忠親『本朝茶人伝』1980年、中公文庫、P.98)と評しています。


《 千利休 -侘茶を大成-


 紹鷗の茶の湯の精神を継承し、草庵茶室と侘茶(草庵の茶)を完成させたのが、桃山時代に登場した千利休(宗易。1522~1591)でした。

 利休の祖先は清和源氏で、利休の祖父田中千阿弥は、里見義俊の次男田中五郎の末孫にあたります。千阿弥は応仁の乱を避けて堺に身を寄せました。その子与兵衛(よへえ)は、千阿弥から千の一文字をとり、田中に代えて姓としました。千与兵衛は屋号を魚屋(ととや)といい、倉庫業(納屋衆(なやしゅう))を営んでいました。その子が千与四郎(せんのよしろう)、すなわち利休です。

 利休は、草庵の小座敷における侘茶に没頭しました。名物と呼ばれる茶道具を尊ぶ既成の価値観を否定し、簡素で自然な美を追求しました。その証拠に、利休が用いた茶道具に高価なものはなく、それらは装飾性を極力排したものばかりです。茶杓(ちゃしゃく)も自ら竹を削って、節(ふし)を残したものを製作しました。

 また、色彩も華やかなものは避け、自然なものを心がけました。たとえば、利休は長次郎(ちょうじろう)に楽焼(らくやき)の抹茶茶碗を焼かせましたが、茶碗の色は赤と黒を選びました。抹茶の緑色が映えるようにとの配慮です。利休は、それぞれの茶道具にしっくり似合った色合いのものならそれをよしとしました。その結果、黒塗りの器物や鼠色(これを利休鼠(りきゅうねずみ)といいます)の袋など、渋い色合いのものが多く採用されました。これらは「利休好み」と言われました。

 利休は茶道具以外に、茶室の普請にも大きな変革を持ち込みました。妙喜庵待庵(みょうきあんたいあん)がその例です。この二畳隅炉の草庵風茶室は、利休の侘茶の精神を凝集しているといわれています(「特講1.桃山文化」を参照)。


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⑥ 生 花


 仏前に花を供える供花(くげ)から、座敷の床の間を飾る立花(たてはな。りっか)へと発展しました。

 室町中期、京都頂法寺(ちょうほうじ。通称六角堂(ろっかくどう))の池坊専慶(いけのぼうせんけい。?~?)が立花の名手として知られ、池坊花道の祖とされます。池坊とは、もともとは境内にある僧坊の名でした。頂法寺は聖徳太子(厩戸王)が創建したと伝えられ、太子が沐浴した池の端に僧坊があったことから、池坊とよぶようになったと伝えられています。

 専慶の後、戦国時代の専応(せんのう。せんおう。1482~1543)を経て、江戸初期の専好(せんこう。1536~1621)によって池坊が発展しました。


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⑦ 学問・研究


《 有職故実
(ゆうそくこじつ) 》


 一条兼良(いちじょうかねよし(かねら)。1402~1481)が『公事根原(くじこんげん)』を書きました。公事は、「宮中の年中行事」の意です。公事の起源や沿革を月を追って解説してあります。


《 古今伝授(こきんでんじゅ) 》


 この時代、和歌には見るべき発展がありませんでした。

 その一方で、歌人たちの間では『古今和歌集』が和歌の聖典として、早くから重んじられていました。和歌の解釈などが秘事口伝の風潮のもとで神聖化され、特定の人にのみ相承されるようになりました。これを「古今伝授」といいます。古今伝授は東常縁(とうのつねより)によって整えられ、宗祇によってまとめられました
(注)。古今伝授は秘伝とされたため閉鎖的でしたが、近世の和学(国学)の基礎となりました。


(注)古今伝授の系譜は以下のとおり。
   
  東常縁(とうのつねより)
       └宗祇┬ [堺伝授]肖柏(しょうはく)-林宗二(饅頭屋宗二)┌ 松永貞徳
            └ [御所伝授]三条西実隆-○-○-細川幽斎─┴烏丸光広(からすまみつひろ)



《 古典研究 》



 一条兼良は『源氏物語』の注釈『花鳥余情(かちょうよせい)、『日本書紀』神代巻の注釈『日本書紀纂疏(にほんしょきさんそ)などを残しました。

 三条西実隆(さんじょうにしさねたか。1455~1537)は歌学に優れ、宗祇とも交流がありました。多くの古典の書写・注釈を行いました。


《 その他 》


 一条兼良は日野富子の求めに応じ、9代将軍足利義尚のために政道意見書『樵談治要(しょうだんちよう)を著しました。書名は「山の樵夫も王道を談ずる」という義からの命名です。「神を敬ふべきこと」、「仏法をたふとぶべきこと」、「諸国の守護たる人廉直(れんちょく)を先とすべきこと」、「訴訟の奉行人その仁を選ばるべきこと」、「近習者をえらばるべきこと」、「足軽といふ者長く停止(ちょうじ)せらるべきこと」、「簾中(れんちゅう)より政務を行はるること」、「天下主領の人必ず威勢あるべきこと」の全8か条から成ります。

 この中で有名なのは、足軽(あしがる)の取り締まりを訴えている記述です。足軽は集団戦を担う軽装歩兵として、この頃から広く活躍することになりますが、兼良は足軽を「超過したる悪党」・「昼強盗(ひるごうとう)」などと罵り、これを「長く停止(ちょうじ)せらるべき」としています。足軽が、武士・公家(くげ)階級を脅かす存在であったことがわかります。

 また、一条兼良は義尚の求めに応じ、政道の戒めである『文明一統記(ぶんめいいっとうき)も著しています。

 瑞溪周鳳(ずいけいしゅうほう)は『善隣国宝記(ぜんりんこくほうき)を著しました。勘合貿易の詳細が記録されている書として有名です。


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⑧ 神 道


 京都吉田神社の神職吉田兼倶(よしだかねとも)が唯一神道(ゆいいつしんとう)を大成しました。反本地垂迹説の立場から神道を中心に儒・仏・道教を統合しました。この考えを「根葉花実論(こんようかじつろん)」と言います。


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●庶民文芸の流行●



① 能と狂言


 祭礼の手猿楽や勧進能など庶民が参加・見物するものもありました。は基本的には悲劇が中心です。そのため、能の幕間に滑稽な会話劇が演じられました。これを狂言といいます。狂言には風刺性を備えるものが多く見られます。


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② 民衆芸能


《 幸若舞
(こうわかまい) 

 
 室町時代には、語り物を朗唱しながら鼓の伴奏で舞う曲舞(くせまい)が盛行しました。この曲舞を発展させたのが、室町幕府の武将桃井幸若丸(直詮(なおあきら))がはじめた幸若舞(こうわかまい)です。足利義政の保護を受けて盛んになり、各地に幸若太夫(こうわかだゆう)という芸能者が並立しました。織田信長が幸若舞を好んだことは有名です。


《 小 歌(こうた) 》


 宮廷儀礼で歌われた大歌に対し、民間で歌われた流行歌や俚謡・宴曲・童謡などを小歌といいます。『閑吟集(かんぎんしゅう)(1518)には、小歌311編が収録されており、当時の庶民生活を知る資料となっています。


  たが袖ふれし梅が香ぞ、春に問はばや、物云
(い)ふ月に会ひたやなう
 
  柳の蔭
(かげ)にお待ちあれ、人問はばなう、楊枝(ようじ)木切るとおしあれ

  人買舟は沖をこぐ、とても売らるる身を、ただ静かにこげよ、船頭殿
 (『閑吟集』)


《 盆踊り 》


 風流(ふりゅう)とは正月・盆・祭礼等での華美な飾りをいいます。そこから、民衆が仮装したり異様な風体になって踊ることを風流踊りといいました。

 念仏踊りは念仏や和讃を唱えながら、鉦・太鼓を叩いて踊るものです。

 風流と念仏踊りが結びついて生まれたのが盆踊りです。盆踊りは盂蘭盆会の頃、精霊(しょうりょう)を慰めるために、歌や音頭に合わせて踊るものです。櫓を組んでその周りを集団で踊りながら廻る輪踊りや、阿波踊りのように大通りを縦隊になって踊り歩く行列踊りがあります。


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③ 御伽草子(おとぎぞうし)


 御伽草子は、この時代に多く作られた庶民的な短編小説です。『文正草子(ぶんしょうぞうし)』・『一寸法師』・『物くさ太郎』・『浦島太郎』・『福富草子(ふくとみぞうし)』などの作品があり、現在でも馴染み深い作品が多く含まれています。これらの作品を読むと、当時の庶民生活やもの考え方、人びとの願いや夢など、さまざまなことをうかがい知ることができます。挿絵を伴なう絵巻物や冊子本(奈良絵本)の形で出版されたものも多数あります。


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④ 連 歌


 応仁の乱頃に登場した宗祇(そうぎ)は、俳諧(滑稽味)を排し、和歌的な情趣・余情美を重視する正風連歌を確立しました。


《 水無瀬三吟百韻(みなせさんぎんひゃくいん) 》


 『水無瀬三吟百韻』(1488)は後鳥羽上皇250年忌に水無瀬宮で、宗祇と弟子の肖柏(しょうはく)・宗長(そうちょう)の三人で詠んだ連歌100句(100韻)をいいます。

 後鳥羽上皇の「見渡せば山もと霞む水無瀬川(みなせがわ)夕べは秋となにおもひけむ(見渡すと山の麓に霞がかかり、水無瀬川(注::水無瀬に後鳥羽天皇の離宮がありました)がその中を流れ行く。「夕べは秋が一番美しい」となぜ思い込んでいたのか。春の夕べも、美しいではないか)」を本歌として詠まれたものです。


《 新撰莵玖波集(しんせんつくばしゅう) 》


 『新撰莵玖波集』(1495)は、宗祇が撰した連歌集です。正風連歌約2,000句から成ります。


《 犬筑波集(いぬつくばしゅう) 》

 一方、宗鑑(そうかん)は自由な気風をもつ俳諧連歌を創り出し、滑稽味あふれる『犬筑波集(いぬつくばしゅう)』(1530頃)を撰しました。たとえば、「切りたくもあり切りたくもなし」につける前句(5・7・5)として、次のような作品があります。

 
   盗人をとらへて見れば我が子なり

   さやかなる月を隠せる花の枝



 こうして「盗人をとらへて見れば我が子なり 切りたくもあり切りたくもなし」、「さやかなる月を隠せる花の枝 切りたくもあり切りたくもなし(花の枝を切らなければ月を見ることができない。さりとて美しく咲き誇る花の枝を切るのもためらわれる)」というそれぞれの連歌が完成するわけです。


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⑤ 同朋衆(どうぼうしゅう)の活躍


 身分は低いものの「一芸の上手」として東山文化の担ったのが、同朋衆です。同朋衆は法体で時宗の信仰者(時衆)が多く、相阿弥(そうあみ)・善阿弥(ぜんあみ)などとと名乗りました。こうした「○阿弥」(または「○阿」)という名乗りを阿弥号といいます。

 同朋衆が法体(ほったい)で阿弥号を称するのは、本来彼らが戦死者の菩提(ぼだい)を弔う従軍僧だったからと言われています。それが室町幕府の職制に組み込まれ、雑事から唐物奉行(からものぶぎょう)まで多岐にわたる職掌を分担することになりました。3代将軍義満の頃から同朋衆は増えはじめ、8代将軍義政の頃には質量ともにピークとなります。将軍が開催する和歌や連歌の会において、立花を飾ったり、唐物を見立てたり、またメンバーとして加わったりするなど、当時の文化活動には多くの同朋衆が関わっていました(村井康彦『日本の文化』2002年、岩波ジュニア新書、P.193~194)。


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●文化の地方普及●



① 背 景 


 守護は在京が原則だったため、領国に下向した折りに、京都の華やかな文化が地方に持ち込まれました。また、諸国を遍歴する禅僧や、能楽師・連歌師などの芸能者らによっても、京の文化・情報等が地方にもたらされました。特に応仁の乱後は、戦火を避けるために地方に下った人びとによって、こうした動きがさらに顕著になりました。一方、地方の権力者たちも、こうした公家・僧侶・芸能者を領国に受け入れて保護し、熱心に京の文化の移植にはかりました。

 たとえば、日明貿易で富勢を誇った大内氏の城下町山口には、連歌師の宗祇や画僧の雪舟、宣教師のフランシスコ=ザビエルら多くの人びとが集まりました。戸数2万を数える繁栄を誇り、「西の小京都」とよばれました。

 薩摩(島津氏)では桂庵玄樹(けいあんげんじゅ。1427~1508)を招いて、儒学を講義させました。桂庵玄樹は薩摩に桂樹院を開いて、朱子新注による講義を行いました。この学党はのちに薩南学派を形成します。また、薩摩では『大学章句』(『大学』の注釈書)等の出版事業が行われました。

 土佐(吉良氏) では南村梅軒(みなみむらばいけん。?~?)を招きました。当地では、儒学の南学派(海南学派)興隆の土台が築かれました。

 漢詩人として有名な万里集九(ばんりしゅうく。1428~?)は関東に下り、太田道灌(おおたどうかん。軍事・和歌に秀でた武将で江戸城を築城しました。1432~1486)らと交流しました。著作に漢詩文集の『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』があります。


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② 教育の普及


《 足利学校
(あしかががっこう) 》


 足利学校は下野国足利(現栃木県足利市)にあった高等教育機関です。創建に関しては奈良時代説(国学の遺制)、平安時代説(小野篁(おののたかむら)が創建)、鎌倉時代説(足利義兼が創建)等諸説あります。はっきりしているのは、関東管領上杉憲実が書籍を寄進し、1439(永享11)年頃に鎌倉円覚寺から僧快元(かいげん)を庠主(しょうしゅ。学校を庠序、校長を庠主といいます)に迎えて再興した、ということです。

 本校では、おもに僧侶が漢籍を中心に学んでいました。最盛期には「学徒三千」と称し、事実上日本の最高学府でした。フランシスコ=ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学」であると、足利学校を西洋に紹介しています。


【参考】足利学校ホームページ。
     http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/rekishi.htm
l(2015年2月24日閲覧)。


 ◆「かなふり松」の伝説

 足利学校では、自学自習が基本でした。多くの学生は儒学や易学を学びましたが、その際、漢籍を書写するという手段がとられました。

 漢籍というのは、すべてが中国語で書かれた本のことです。外国語で書かれた難解な書物を、自学自習だけで、学生たちは本当に理解できたのでしょうか。たとえば、読み方さえわからない未知の文字や語句などの意味を、学生たちはどのようにして調べたのでしょう。

 これには伝説があります。第7代庠主(しょうしゅ。校長)九華(きゅうか)の頃の話と伝わります。わからない文字や言葉があると、学生たちはそれらを紙に書き付けて、校内に植えられていた松の枝に結んでおきました。翌日には、読みがなや注釈がついていたというのです。この松は「かなふり松」とよばれました。

 ちなみに、自学自習が基本の足利学校には、卒業試験がありませんでした。自分自身が納得するまで学んだら、その時点で卒業でした。そのため、10年以上学ぶ者がいた一方で、最短では1日のみの学習者もいたということです。

【参考】
・足利学校参観案内パンフレット(足利学校事務所発行)2016年4月30日参照


《 寺院での教育 》
 


 武士や都市の有力な商工業者、農村の指導者らは教育の必要性を感じ、各地の寺院などで読み・書き・計算等を学ぶとともに、寺院に子弟を預け教育しました。教材には『庭訓往来(ていきんおうらい)』
(注)などの往来物や『御成敗式目』・『伊呂波歌(いろはうた)』・『童子教(どうじきょう)』・『実語教(じつごきょう)』など、実用的な書物が使用されました。


(注)庭訓は「庭の教え」という意味です。孔子が子の伯魚が庭を通った時に呼び止めて、詩と礼の大切さを教えたという故事に由来します(『論語』)。そこから家庭教育のことを意味するようになりました。往来は「消息(手紙)往来」の意味です。『庭訓往来』は手紙文の模範文例の形式をとって、日常生活に必要な知識を教えようとしたものです。ほかにも『商売往来』・『百姓往来』など、さまざまな往来物が作られました。


《 書物の刊行 》
 


 1528年に、堺の医師、阿佐井野宗瑞(あさいのそうずい。?~1531)が、明の『医書大全』を翻訳して刊行しました。わが国での医書刊行の最初のものです。

 15世紀中頃、奈良の町人学者、林宗二(りんそうじ。1498~1581)が国語辞書『節用集(せつようしゅう)を刊行しました。宗二は饅頭屋を業としていたので、饅頭屋宗二(まんじゅうやそうじ)ともよばれます。

 『節用集』の著者はわかっていません。日常語句をいろは順に配列し、さらに言葉の意味別に分類されています。その書名どおり「折節(おりふし)用いる」のに簡便だったため、江戸時代までに200種類もの異本が作られました。


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●新仏教の発展●



① 林下の禅(りんかのぜん)


 五山の官寺を「叢林(そうりん)」と呼ぶのに対し、より自由な活動を求めた禅宗諸派を「林下(りんか)と呼びました。叢林下の意味です。

 五山は応仁の乱後、幕府の衰退とともに次第に衰えていきましたが、林下は地方で教勢を拡大していきました。臨済宗の大徳寺(応仁の乱後に一休宗純が住持になり復興)や妙心寺、曹洞宗の永平寺・総持寺(そうじじ。永平寺に対し能登本山の)などがあります。


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② 日蓮宗


 日蓮宗は、日像(にちぞう)が京都で布教して、商工業者などを中心に信者を獲得していきました。のち近畿地方に宗勢を拡大しました。

 その後、日親(にっしん)が京都・九州などで布教しました。日親は足利義教を折伏(しゃくぶく)しようとして、かえって弾圧され、熱した鍋を頭にかぶせられるなどの拷問を受けたといわれます。ゆえに、日親を「鍋冠(なべかぶ)り上人」といいます。日親には『立正治国論』の著作があります。

 1532年、一向一揆と対決した法華一揆は細川晴元と結び、山科本願寺を焼打ちにしました。洛中では日蓮宗信者の町衆によって自治が行われました。しかし、1536年、今度は延暦寺によって京都の日蓮宗徒が焼打ちにあい、衰退を余儀なくされました。この事件を天文法華の乱といいます。


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③ 浄土真宗


 浄土真宗は親鸞没後、本願寺派・高田派・仏光派・三門派など各派に分裂しました。この中で重要なのは、本願寺派です。本願寺派からは蓮如(れんにょ)がでました。

 蓮如は、組織
(注)と教義を平易に記した書簡体の文書「御文(おふみ)(東本願寺では「御文」、西本願寺では「御文章(ごぶんしょう)」とよんでいます)によって、おもに北陸地方を中心に布教しました。

 蓮如は政治への介入には否定的でしたが、農民たちは畿内・北陸・東海各地で一向一揆を結び、権力と争うこともしばしばでした。加賀の一向一揆では守護の富樫政親を自殺に追い込み、門徒によって1世紀に及ぶ自治を行いました(加賀の一向一揆)。

 本願寺派は越前の吉崎道場、京都の山科本願寺などを拠点に、宗勢を拡大していきました。


(注)講というのは、元来仏教における経論の講義のことを言いました。それが後には、同一の信仰組織内の宗教的・経済的な共同体を意味するようになりました。蓮如は、本願寺教団を再興するため、惣を講に組み入れていきました。講寄合は毎月1回、御堂や門徒の住居を使用して行われ、そこでは門徒らの集団性と平等性が強調されました。

            本山(本願寺)- 末寺  -  道場(講寄合)
             |         |        |
            法主    -   寺坊主   -  毛坊主 - 門徒


 ◆蓮如は子だくさん

 蓮如には13男14女、計27人の子どもがいました(下表)。子だくさんだったため、長男と末っ子の年齢差は56歳もありました。

 蓮如はこの子だくさんを利用して、各地の布教拠点となる真宗寺院間の結束を、より強固なものにしようとしました。有力寺院には息子を送り込み、離間しそうな寺院には娘を送り込んだのです。
 

 なお、加賀の一向一揆を知る史料として有名な『実悟記拾遺』(じつごきしゅうい。「近年ハ百姓ノ持タル国ノヤウニ」のフレーズで有名)は、蓮如の十男実悟(兼俊)の『実悟記』に漏れたものを、浄土真宗の僧先啓が編集したものです。

  子どもの名  子どもの誕生年 蓮如の年齢   母の名          備   考
1男
1女
2男
2女
3男
3女
4男
順如
如慶
蓮乗
見玉
蓮綱
寿尊
蓮誓
嘉吉 2(1442)
文安 3(1446)

文安 5(1448)
宝徳 2(1450)
享徳 2(1453)
康正 1(1455)
28
32
32
34
36
39
41
 如了





 





蓮誓を産後、如了死亡。
 5男
4女
5女
6女
7女
6男
8女
9女
7男
10女
実如
妙宗
妙意
妙空
祐心
蓮淳
了忍
了如
蓮悟
祐心
長禄 2(1458)
長禄 3(1459)
寛正 1(1460)
寛正 3(1462)
寛正 4(1463)
寛正 5(1464)
文正 1(1466)
応仁 1(1467)
応仁 2(1468)
文明 1(1469)
44
45
46
48
49
50
52
53
54
55
 蓮祐








 蓮祐は如了の妹。実如は延徳1年(1489)本願寺法主。








11女 妙勝 文明 9(1477) 63 如勝 如勝、産後の肥立ち悪く死亡。
12女 8男 蓮周
蓮芸 
文明13(1481)
文明16(1484) 
67
70
 宗如
 
宗如、蓮芸を産後死亡。
13女
9男
10男
11男
12男
14女
13男
妙祐
実賢
実悟
実順
実孝
妙宗
実従
長享 1(1487)
延徳 2(1490)
明応 1(1492)
明応 3(1494)
明応 4(1495)
明応 6(1497)
明応 7(1498)
73
76
78
80
81
83
84
 蓮能






 妻は蓮如より50歳年少。
蓮如、延徳1年(1489)に実如に跡を譲り隠居。






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