●室町文化の特色● |
●南北朝文化● |
◆筑波の道 連歌の雅名を「筑波の道」といいます。それは、次の『古事記』の話に由来します。 (倭健命(やまとたけるのみこと)が)甲斐(かい)に出でて、酒折の宮(さかおれのみや。山梨県西山梨郡)にまします時に歌よみしたまひしく、 新治(にいはり)筑波を過ぎて幾夜(いくよ)か宿(ね)つる ここにその御火焼(みひたき)の老人(おきな)、御歌に続(つ)ぎて歌よみして曰(い)ひしく、 かがなべて(日を並べて)夜には九夜日には十日を と歌ひき。(武田祐吉訳注『古事記』1956年、角川文庫、P.112) 倭健命と御火焼(みひたき)の翁とのこれらの問答が、連歌の起源だというのです。『莵玖波集』・『新撰莵玖波集』・『犬筑波集』など、連歌関係の書物に「つくば」の名前が付されているのはそのためです。 |
●北山文化● |
●東山文化● |
●庶民文芸の流行● |
●文化の地方普及● |
◆「かなふり松」の伝説 足利学校では、自学自習が基本でした。多くの学生は儒学や易学を学びましたが、その際、漢籍を書写するという手段がとられました。 漢籍というのは、すべてが中国語で書かれた本のことです。外国語で書かれた難解な書物を、自学自習だけで、学生たちは本当に理解できたのでしょうか。たとえば、読み方さえわからない未知の文字や語句などの意味を、学生たちはどのようにして調べたのでしょう。 これには伝説があります。第7代庠主(しょうしゅ。校長)九華(きゅうか)の頃の話と伝わります。わからない文字や言葉があると、学生たちはそれらを紙に書き付けて、校内に植えられていた松の枝に結んでおきました。翌日には、読みがなや注釈がついていたというのです。この松は「かなふり松」とよばれました。 ちなみに、自学自習が基本の足利学校には、卒業試験がありませんでした。自分自身が納得するまで学んだら、その時点で卒業でした。そのため、10年以上学ぶ者がいた一方で、最短では1日のみの学習者もいたということです。 【参考】 ・足利学校参観案内パンフレット(足利学校事務所発行)2016年4月30日参照。 |
●新仏教の発展● |
◆蓮如は子だくさん
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