5.古墳とヤマト政権

「(古墳時代まで人びとは花を表現しなかった。花が登場するのは6世紀末で、仏教の影響による。本格的な花の絵が盛んになるのは世界的に見てもわずか100年前からである)
花の造形の歴史がひじょうに新しいという事実の解釈として、知的な発達で人間は花を愛するようになったという解釈もあります。しかし私はむしろ、人間は自然をこわせばこわすほど花を愛するようになったのではないかと考えているのです。」

(佐原真『遺跡が語る日本人のくらし』1994年、岩波ジュニア新書、P.161〜162)


 

●古墳の出現とヤマト政権●



@ 古墳が西日本に発生した


  弥生時代には土盛りした墳丘墓(ふんきゅうぼ)が各地に出現しましたが、3世紀後半になると、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)をはじめとするより大規模な古墳が、西日本を中心に出現します。

  出現期の古墳は、その内部に竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)・木棺(もっかん)という埋葬施設を持ち、多数の銅鏡・勾玉(まがたま)・管玉(くだだま)など呪術的な副葬品をともなうといった共通の特徴を持っています。


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A 共通の墓制が意味するもの


  このような、墓制の共通性(形状・埋葬施設・副葬品の画一性)は何を意味するのでしょう。

  それは当時、大和地方(やまとちほう。現在の奈良県を中心とした地方)を中心に広域的政治連合が形成されており、その勢力の広がりを意味するものと理解できます。

 出現期の古墳は大和地方に集中しています。その中で、最大のものは箸墓古墳(はしはかこふん。奈良)です。箸墓古墳は墳丘の長さが280mに及ぶ前方後円墳で、出現期の他地域の前方後円墳(岡山県浦間茶臼山古墳140m、福岡県石塚山古墳120m)と比較しても、その大きさは群を抜いています。したがって、この時期の政治連合は、大和地方を中心とする勢力によって形成されたと考えられます。この政治連合をヤマト政権とよびます。

 前方後円墳のような独特の形状をもった古墳は、そう簡単に真似できるものではありません。おそらくは設計図のようなものがあって、それがヤマト政権下に組み込まれた各地の首長たちに配付され、従来あった首長たちの多様な墓制は前方後円墳という共通の墓制に変化・統一されていったのでしょう。

 古墳は、4世紀中頃までに東方地方の中部まで波及しました。これは同時に、4世紀中頃までに、西日本から東北地方中部までの範囲に及ぶ各地の首長たち(=各地に分立していた小国家の王たち)が、ヤマト政権という豪族連合に組み込まれたことを意味します。


◆「ヤマト政権」の表記

 かつては「大和朝廷」と呼ばれました。なぜ、表記が「ヤマト政権」にかわったのでしょうか。それは、4〜5世紀の政治勢力を示す歴史用語として、「大和」と「朝廷」の二つの表記がともに不適切だという意見が強くなったからです。

 古墳時代の政治勢力の根拠は奈良県東南部であって、その後の大和国全体ではありません。そもその「大和」の文字が使用されるのが8世紀後半以降であり、それ以前には「倭」「大倭」が用いられました。

 一方、「朝廷」というのは、大王のもとに官僚集団が形成され、全国的に支配を及ぼす体制ができてからの呼称です。4〜5世紀頃の政治連合を示す語としては不適切といえます。

 そのようなわけで、「大和」ではなくて「ヤマト」、「朝廷」でなくて「政権」とするのが適切だというので、「ヤマト政権」という表記にかわったのです。

【参考】
・五味文彦・野呂肖生編著『ちょっとまじめな日本史Q&A 上 原始古代・中世』2006年、山川出版社


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●前・中期の古墳●



@ 古墳の種類



 古墳には、前方後円墳・前方後方墳・上円下方墳・双方中円墳・円墳・方墳など様々な形状が見られます。数が多いのは、方墳や円墳です。しかし、大規模な古墳は前方後円墳であり、わが国の古墳を墳丘規模の大きなものから順に並べると、44位までが前方後円墳で占められています。前方後円墳が最も重視されたことがわかります。

 古墳の墳丘上には埴輪(はにわ)が並べられ、斜面は葺石(ふきいし)でふかれました。

 埴輪は特殊(種)器台(とくしゅきだい)から発達したと考えられています。特殊(種)器台というのは、弥生時代中期、吉備(きび)地方で見られる土器をのせる円筒状器台のことです。これが古墳時代の円筒埴輪に発展したというのです。

 古墳時代前期には円筒埴輪(えんとうはにわ)や、家形埴輪(いえがたはにわ)、盾(たて)・靫(ゆき)・蓋(きぬがさ)などの器財埴輪(きざいはにわ)が用いられました。この円筒埴輪に対し、前期後半にあらわれる家形埴輪・器財埴輪、後期にあらわれる人物埴輪・動物埴輪などをひっくるめて形象埴輪(けいしょうはにわ)とよびます。

 また、墳丘のまわりには、濠(ほり)をめぐらしたものが少なくありません。


◆前方後円墳とは

 朝鮮半島でも発見例がありますが、わが国独特の古墳の形状と考えられています。

 この特異な古墳の形を初めて「前方後円」と呼んだのは、江戸時代の尊王思想家、蒲生君平(がもうくんぺい)でした。彼は、墳丘を宮車に見立て、前方部を轅(ながえ)、後円部を座席の上をおおう蓋(かさ)、造り出し部分を車輪と見たのでした(『山陵志』)。

 前方後円墳の成立については諸説あります。最近では、弥生時代の墳丘墓を母体として成立したとする説が有力です。周溝をもつ墳丘墓には、周溝の外部から中央の墳丘にいたる通路として陸橋部分がありました。この陸橋部分が変化してできた突出部をもつ墳丘墓が、弥生時代後期には多く出現します。つまり、この突出部をもつ円形の墳丘墓が、前方後円墳に発達していったというのです。

【参考】
五味文彦・野呂肖生編著『ちょっとまじめな日本史Q&A 上 原始古代・中世』2006年、山川出版社


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A 埋葬施設


 前期・中期には竪穴式石室が、中・後期になると横穴式石室が多くなります。

 竪穴式石室は木棺や石棺をその中に納めたり、棺を粘土でおおった粘土槨(ねんどかく)のものが営まれました。

 横穴式石室は朝鮮半島と共通の埋葬施設で、墓室である玄室(げんしつ)と、墳丘外部と玄室を結ぶ羨道(せんどう、えんどう。「羨」は「墓道」の意)からなります。

 竪穴式石室と大きく異なるのは、追葬が可能な点です。竪穴式石室が個人墓とするなら、横穴式石室は家族墓といえます。

 『古事記』には横穴式石室を反映したと思われる神話が記載されています。亡き妻イザナミノミコトに会うため、夫のイザナギノミコトはまっ暗い洞窟を通り、黄泉の国(よみのくに、死者の国)へ行きました。小さな雷が体中からわき出ている妻の恐ろしい姿をのぞき見したイザナギノミコトは、これまたまっ暗い洞窟を通り、一目散に黄泉国から逃げ帰ります。「この世」と「あの世(黄泉国)」が暗いトンネルでつながっているという考えは、まさしく横穴式石室と同じですね。

 ちなみに、「黄泉から帰る」ことが「よみがえる」、すなわち「蘇る(蘇生する)」です。


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B 副葬品


 前期の副葬品は、銅鏡や勾玉・管玉、腕輪形(うでわがた)石製品、鉄製の武器や農工具類など、呪術的・宗教的色彩の強いものが多く見られます。そのことから、前期古墳の被葬者は、司祭者的な性格を持っていたことがうかがわれます。

 中期になると、鉄製武器や武具・馬具などが多くなり、中期古墳の被葬者が、軍事指導者的な性格を強めていることがわかります。

 なお、前期から中期にかけて、副葬品の特徴がこのように大きく変化したことを文化的な断絶と見なし、これを大陸北部から侵入した騎馬民族の征服した結果とする「騎馬民族征服王朝説」が、江上波夫(えがみなみお)氏によって唱えられました。


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C 最大規模の古墳は大王の墓


 前期、大和地方に営まれた大規模古墳は、中期になると河内地方(大阪)に移り、さらに大規模化します。古墳時代を通じて最大規模の古墳が、この時期に集中しています。

 最大のものが、大阪府堺市東部に展開する百舌古墳群(もずこふんぐん)の盟主的位置を占める大仙陵古墳(だいせんりょうこふん。現、仁徳天皇陵)です。墳丘の長さが486mあり、周囲には2〜3重の濠をめぐらしています。周辺の陪冢(ばいちょう、従属的な小型の古墳)の区域を含めると、その墓域は80haにも及びます。2位の規模を持つ誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(現、応神天皇陵)などとともに、5世紀のヤマト政権のリーダーである大王(おおきみ)の墓であると考えられています。


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D 地方の巨大古墳は豪族の墓


 中期の大規模な前方後円墳は近畿地方中央部ばかりでなく、群馬県(上毛野、かみつけの)・岡山県(吉備、きび)・宮崎県(日向、ひゅうが)などにも見られます。たとえば、岡山県の造山(つくりやま)古墳は、墳丘の長さが360mもあります。これは、わが国の古墳の中では、第4位の規模です。

 この事実は、近畿地方を中心とするヤマト政権の中で、これら地域の豪族が重要な位置を占めていたことを表しています。


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●東アジア諸国との交渉●



@ 中国の分裂と国家の形成



 中国では三国時代のあと、260年にいったん西晋(せいしん)が国内を統一したものの316年に滅亡、華北地方は匈奴(きょうど)をはじめとする諸民族の侵入を受けて、五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代と呼ばれる混乱状態に陥りました(北朝)。

 一方、漢民族を中心とする人々は、江南地域に東晋(とうしん)を再建しましたが、420年、宋(そう)にとって代わられました(南朝)。

 かくて、南の漢民族支配地域、北の異民族支配地域のそれぞれ二つに分裂した中国は、次々と国家の興亡を繰り返す南北朝時代をむかえました。

 勢い、周辺諸民族に対する中国の支配力は弱まり、東アジア諸地域では次々と国家形成が進みました。

 中国北部からおこった高句麗(こうくり)は、朝鮮半島北部に領土を広げ、楽浪郡・帯方郡を滅ぼしました(313年)。

 一方、朝鮮半島南部には馬韓(ばかん)・弁韓(べんかん)・辰韓(しんかん)というそれぞれ小国家連合が形成されていましたが、4世紀になると馬韓から百済(くだら、ひゃくさい)が、辰韓から新羅(しらぎ、しんら)がおこり、それぞれ国家を形成しました。しかし、弁韓地域では、4〜6世紀になっても小国の分立状態が続きました。


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A ヤマト政権の対外交渉(1)−高句麗との交戦−


 4世紀後半になると、高句麗は南下政策を進め、百済・新羅が圧迫されるようになりました。百済・新羅は南に向かわざるを得ません。朝鮮半島は行き場を失った玉突き状態のようになり、かつての弁韓の地の加耶(かや)諸国(加羅)も圧迫を受けることになります。このような状況下、早くから加耶諸国と密接な関係をもっていた倭国(ヤマト政権)は、百済・新羅などとともに高句麗と争うことになりました。高句麗の好太王(こうたいおう。広開土王ともいう)碑文には、391年、倭が朝鮮半島に出兵し、高句麗と交戦したことが記されています。

 当時、倭人たちには乗馬の風習がありませんでした。高句麗の騎馬軍団との戦いで、倭人たちは否応なしに騎馬技術を学ぶことになりました。5世紀になると日本列島の古墳の副葬品に馬具があらわれるのは、こうした事情を反映していると考えられます。

 また、戦乱を避けて、多くの渡来人が日本に渡り、さまざまな技術や文化を日本に伝えました。


◆好太王碑文

 鴨緑江(おうりょくこう)の中流北岸、高句麗の古都国内城(丸都城(がんとじょう)、現在の中国吉林省集安市)に近い場所に、414年、長寿王が父好太王(広開土王)の事績を顕彰するために建立した自然石の角柱碑です。高さ6.34m、幅ほぼ1.6mに1775文字が刻まれています。

 1880(明治13)年に発見され、1883(明治16)年、参謀本部の軍人の酒匂景信(さこうかげのぶ)がその拓本を日本に持ち帰りました。中国側から「碑文に石灰を塗り込んで、日本軍部が文字を改竄(かいざん)したのではないか」という疑惑が出されましたが、現在その考えは否定されています。

 碑文には倭関係の記事が9カ所見られ、特に391年の朝鮮半島進出の記事が有名です。


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B ヤマト政権の対外交渉(2)−南朝への朝貢−


 5世紀初めから約1世紀の間、倭王(ヤマト政権の大王)たちが、相次いで中国の南朝に朝貢しました。中国の歴史書(晋書、宋書、南斉書、梁書)に残る記録では、413年から502年の間に13回にわたって使者を派遣したとのことです。『宋書』倭国伝(そうじょわこくでん)は、彼らの名を讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・(ぶ)としるしています。このうち、済は允恭(いんぎょう)天皇、興は安康(あんこう)天皇、武は雄略(ゆうりゃく)天皇をそれぞれさすと考えられています。

 彼らを総称して「倭の五王」といいますが、弥生時代の邪馬台国とは異なり、男系による王位世襲の確立していたことがわかります。


《 倭王武の上表文 》 


 倭王武が478年、宋の皇帝(順帝)に奉ったとされる上表文が、宋書に記載されています。そこで武は、祖先以来の征服事業について述べ、中国皇帝からの冊封(さくほう)と称号の認可を求めています。

 称号は「使持節都督(しじせつととく)・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)七国諸軍事安東大将軍・倭国王」と自称しましたが、実際に得た称号は「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭王」でした。宋とすでに朝貢関係にあった百済を除いて、七国が六国になっています。もちろん、この称号は形式的なものに過ぎません。


◆朝貢(ちょうこう)と冊封(さくほう)

 朝貢は、中国皇帝に貢ぎ物を持参して挨拶に行くことをいいます。往々にして中国皇帝から回賜(かいし。お返しに物品を賜ること)が行われます。

 冊封は、中国皇帝が周辺地域の支配者に対し、その支配を認め称号を与えることをいいます。冊封をうけた場合、中国皇帝に服属する形式をとります。


《 なぜ、倭王たちは中国に朝貢したのか 》 


 第一に、中国皇帝の権威を借りて朝鮮半島南部の軍事的指揮権を得ようとしているところから、朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために、南下政策を進める高句麗を牽制(けんせい)する意図があったと考えられます。ヤマト政権が国内統一を進める上でも、鉄製の武器・農具は必要不可欠の資源でした。

 第二に、国内におけるヤマト政権の地位安定を図る意図があったと考えられます。倭王武の治世中(5世紀)、必ずしもヤマト政権が突出した勢力だったわけではありませんでした。地方にも、ヤマト政権の地位を脅かす、巨大な勢力をもった諸豪族が存在していたのです。それはこの時期、巨大な前方後円墳が近畿地方だけでなく、中国地方などにも分布することからも推測できます。


◆朝鮮半島の鉄

 古墳時代、日本は朝鮮半島南部と緊密な関係にありました。それは朝鮮半島に当時貴重品だった鉄資源があったからでした。古墳の中から見つかる鉄てい(「てい」はあらがねの意で、金へんに廷)と呼ばれる短冊形の鉄板は、朝鮮半島南部にあった加耶諸国から搬入されたと考えられています。鉄ていは、鉄製品の素材としてばかりでなく、貨幣的な役割をもっていた可能性が指摘されています。


《 なぜ、南朝を選んだのか 》

 

 倭王たちはなぜ、北朝ではなく南朝に朝貢したのでしょうか。それには、いくつかの理由が考えられます。

 南朝が漢民族の国家だったため(異民族国家では都合が悪いと考えたのでしょう)、高句麗が北朝と結んでいたのでその対抗上、など。また、当時の未熟な航海術では、長い海岸線を持つ南朝の方が魅力的に見えたのかも知れません。


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●大陸文化の受容●



@ 渡来人の波



 渡来人が日本にやってきた大きな波が2度ありました。

 第1波は4〜5世紀で、漢人が中心でした。背景には、楽浪郡・帯方郡の滅亡(313年)がありました。

 第2波は6〜7世紀で、韓人が中心でした。背景には加耶諸国(562年)、百済(660年)・高句麗(668年)それぞれの滅亡がありました。


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A 渡来伝説


 記紀によると、応神天皇の時、王仁(わに)・弓月君(ゆづきのきみ)・阿知使主(あちのおみ)らがわが国に渡来したといいます。

 王仁は百済から論語や千字文(せんじもん)を日本に伝え、西文氏(かわちのふみうじ)の祖になったといいます。

 弓月君は百済から養蚕・機織りの技術を日本に伝え、秦氏(はたうじ)の祖になったといいます。

 阿知使主は、文書記録を仕事とする史部(ふひとべ)を管理したといい、東漢氏(やまとのあやうじ)の祖となったとされます。


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B 渡来人は技術者のプロ集団


 ヤマト政権は、渡来人たちを品部(しなべ、ともべ)という技術者の専門集団に編成し、政権に奉仕させました。

 たとえば、韓鍛冶部(からかぬちべ)は鍛冶集団として鉄器を生産しました。陶作部(すえつくりべ)は須恵器(すえき)という硬質で灰色の焼き物を生産しました(従来の弥生土器系の土器を土師器(はじき)といいました)。錦織部(にしごりべ)は機織りを専門とし、鞍作部(くらつくりべ)は馬具など生産しました。


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C 渡来人が伝えた文化


 渡来人が伝えた文化としてわが国に大きな影響を及ぼしたものに、漢字、仏教、儒教などがあります。


《 漢 字 》


 漢字の使用例としては、熊本県江田船山古墳出土鉄刀銘文(5世紀)と埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘文(471年か531年)があります。鉄刀と鉄剣の違いですが、片刃の直刀を刀、両刃のものを剣といいます。ともに、ワカタケルノオオキミ、すなわち雄略天皇の名前が刻まれていることで有名です。これらの漢字資料から、雄略天皇の勢力が、5世紀後半から6世紀の頃、少なくとも九州中部から関東地方にまで及んでいたことがわかります。

 また、和歌山県隅田八幡蔵(すだはちまんぞう)人物画像鏡銘文には、漢字を使って国音を表記している例が見られます(銘文にある「意柴沙加宮」は大和の「忍坂宮」で、「オシサカ」を漢字の音をあてて記している)。これは漢字(中国語)という外国語を使って、わが国の言葉を表現した古い例です。


《 仏 教 》


 522年、司馬達等(しばたつと。法隆寺金堂釈迦三尊像を造った鞍作鳥は孫)が大和国高市郡に建てた草堂で、仏像を礼拝していたと『扶桑略記(ふそうりゃくき)』に記されています。渡来人達の中には、私的に仏教を信仰していた者も多かったと考えられます。

 一方、正式な伝来(公伝)は欽明天皇(きんめいてんのう)の治世で、百済の聖明王(せいめいおう)が仏像・経論等を贈ったとされます。公伝の年代には2説あり、『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』や『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』は538年(戊午説、ぼごせつ)、『日本書紀』は552年(壬申説、じんしんせつ)と伝えています。現在、538年説が有力です。

 仏教の受容をめぐっては、崇仏派(蘇我稲目そがのいなめ)と排仏派(物部尾輿もののべのおこし)との間で対立がありました。この確執は、のちの蘇我氏による物部氏滅亡へとつながっていきます。


《 その他 》


 百済から五経博士が渡来して儒教を伝えました。医学、易学、暦法なども伝来したといわれます。

 またこの頃、『古事記』・『日本書紀』の材料になった帝紀(ていき、大王の系譜)や旧辞(きゅうじ、伝承・説話)がまとめられはじめたと考えられています。


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●古墳文化の変化−後期の古墳文化−●



@ 埋葬施設と埴輪が変化する



 古墳時代後期になると、古墳自体に大きな変化が見られるようになりました。横穴式石室が一般化し、多量の土器・金属製の武器や馬具・日用品が副葬されるようになりました。 また、墓室を丘陵や山の斜面に彫り込む横穴が各地に出現します。たとえば、吉見百穴(よしみひゃくあな、埼玉)は凝灰岩(ぎょうかいがん)質の岩山の斜面に掘られた横穴墓群で、現在219個の横穴が確認できます。

 埴輪も、それまでの円筒埴輪・器財埴輪等に加え、形象埴輪(人物埴輪・動物埴輪)が増加します。古墳の周囲や墳丘上に並べられた人物埴輪群・動物埴輪群は、葬送儀礼または生前の首長が儀式をとりおこなう様子であると考えられています。


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A 古墳の地域色が強まる


 古墳時代後期になると、古墳の地域色が強まりました。

 九州北部の古墳には、石人(せきじん)・石馬(せきば)や器財を模した石製造形物が建てられました。たとえば、岩戸山古墳(いわとやまこふん。、福岡)は全長135mに及ぶ九州最大級の前方後円墳ですが、この古墳とその周囲からは100点以上の石人・石馬・石製造形物が出土しました。

 また、九州や茨城県・福島県などの古墳や横穴の墓室には、彩色されたり線刻された壁画をもつ古墳が見られます。これを装飾古墳(そうしょくこふん)といいます。たとえば、虎塚古墳(とらづかこふん。茨城)には、白色粘土で下塗りされた石室の壁面に、赤色のベンガラ(酸化第二鉄)で三角文・環状文などの幾何学文様と大刀や盾などの武器・武具類が描かれています。


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B 小さくなる古墳、激増する古墳


 近畿地方では相変わらず巨大な前方後円墳が営まれるのに対し、それまで巨大な前方後円墳を営んでいた地方(たとえば吉備地方)では、大きな古墳が姿を消していきます。これは、各地の豪族が連合して政権をつくる形から、近畿地方の大王を中心とする勢力に各地豪族が服属するという形へ、ヤマト政権の性格が大きく変わったことを意味します。

 この時期、小型古墳の爆発的な増加がありました。山間や小島にまで、群集墳(ぐんしゅうふん)とよばれる小円墳が数多く営まれるようになったのです。これは、有力農民層まで古墳を造るようになったことの表れと考えられています。新沢(にいざわ)千塚古墳群(奈良)・岩橋(いわせ)千塚古墳群(和歌山)などに含まれる「千塚」という言葉は、古墳の群集の有様をよく示しています。


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●古墳時代の人びとの生活●



@ 住居と集落



 この時代、豪族と民衆の居住地が分離しました。

 豪族の住む居館は、村落から離れた場所に営まれ、環濠・柵列がめぐらされていました。居館は豪族がまつりごとを行うとともに、生活する場でもありました。その中に倉庫群をともなっているのは、余剰生産物が個人の所有になったことを示しています。群馬県の三ツ寺T遺跡は、5世紀後半から6世紀初頭にかけての豪族居館跡ですが、濠と柵列で囲まれた内部には大規模な掘立柱建物、井戸や祭祀の場と見られる石敷き、竪穴住居、金属精錬を行った工房などがありました。

 民衆の集落は、竪穴住居、地面を掘り下げない平地住宅、高床倉庫などで構成されていました。イロリではなく、くくりつけのカマドをともなう竪穴住居が見られるようになりました。


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A 服 装


 人物埴輪などを見ると、上下に分かれた衣服が多くなったようです。男性の服装は衣に乗馬ズボン風の袴(はかま)を、女性の服装は衣にスカート風の裳(も)をつけました。


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B 信 仰


《 農耕に関する祭り 》



 この時代も、農耕に関する祭祀が重視されました。祈年(としごい)の祭り新嘗(にいなめ)の祭りがあります。「年」は古くは「みのり」と読む字であり、豊作を意味しました。ですから、祈年の祭りとは、春に豊作を祈念する祭りのことです。これに対し、秋に収穫を感謝するのが新嘗の祭りです。


《 産土神(うぶすなのかみ)や氏神に対する信仰 》


 土地の神(産土神うぶすなのかみ)や先祖(氏神うじがみ)をまつる信仰は、神社を造らせることになります。

 奈良県にある標高467mの三輪山(みわやま)は、山自体がご神体です。ですから、三輪山をまつる大神(おおみわ)神社には現在もご神体を祀る本殿がなく、拝殿だけしかありません。拝殿のみがある古代の神社の形態をよくとどめています。また、福岡県の宗像(むなかた)大社(沖津宮・中津宮・辺(へ)津宮三社の総称)沖津宮は、沖ノ島全体がご神体です。玄界灘に浮かぶ周囲4kmほどの孤島で、祭祀遺跡からは銅鏡や勾玉などが出土し「海の正倉院」とも呼ばれています。

 大王家の祖先とされる天照大神をまつったのが伊勢神宮(三重)です。出雲大社は大国主神をまつっており、宮司の出雲国造家(こくぞうけ。千家(せんげ)氏)は古代の出雲臣の子孫と伝えています。伊勢神宮の神社建築様式を神明造(しんめいづくり。平入り)、出雲大社のそれを大社造(たいしゃづくり。妻入り)といいます。


《 呪術的風習 》


 古墳時代にはさまざまな呪術的風習が行われました。

 身についた汚れや災いを神に祈って祓い除く(はらえ)、川・海・滝などで洗い清める(みそぎ)、鹿の肩胛骨(けんこうこつ)などを焼いて、できたひび割れの状態で吉凶を占う太占(ふとまに)の法、熱湯中に手を入れさせ火傷しないかどうかで真偽を判定する盟神探湯(くかたち)など。盟神探湯は氏姓の混乱を判別するために行われたといいます。


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●ヤマト政権と政治制度●



@ 磐井
(いわい)の乱


 527年から翌528年にかけて、筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井(いわい)が反乱を起こすという事件がありました。『日本書紀』によると、加耶諸国と結びつきのあったヤマト政権は、朝鮮半島南部の勢力後退を挽回するため、新羅出兵を計画。それを知った新羅は、北九州の豪族磐井に賄賂(わいろ)を贈り、ヤマト政権の朝鮮出兵を妨害させました。

 この磐井の反乱は、九州北部から同中部にまで波及しました。ヤマト政権は、物部麁鹿火(もののべのあらかび)を派遣して、ようやくこの反乱を鎮圧します。これ以後、北九州における反乱はありません。

 福岡県八女市にある岩戸山(いわとやま)古墳には、磐井の墓との伝承があります。この古墳の周辺からは埴輪でなく、石人・石馬が出土します。この地域は住む人びとは独自の文化をもち、また中央からの独立心が強かったのでしょう。

 ヤマト政権は地方豪族の抵抗を排除しながら彼らを服属させ、その支配体制を地方にまで及ぼしていきました。


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A 氏姓制度(しせいせいど)


 ヤマト政権によって生み出された政治組織を氏姓制度と呼びます。氏姓制度は(うじ)と(かばね)から成る制度です。


《 氏(うじ) 》


 氏は、祖先の系譜を同じくする同族・同業集団です。本拠地名を氏の名とする葛城(かずらき)・平群(へぐり)・蘇我(そが)や、職業名を氏の名とする物部(もののべ。軍事)・中臣(なかとみ。祭祀)などがこれです。

 氏の族長は氏上(うじのかみ)といい、構成員を氏人(うじびと)といいます。氏上は氏神をまつり、氏人をまとめます。庶民を部曲(かきべ)といい、家内奴隷を奴(やっこ)といいます。


《 姓(かばね) 》


 姓は、政治的地位と職掌に応じて大王から与えられた世襲の称号です。これには次のようなものがあります。


  (おみ) …中央の有力豪族。葛城・平群・蘇我
  (むらじ) …職掌を氏の名とする有力豪族。大伴・物部・中臣
  君(きみ) …地方有力豪族。筑紫・毛野
  直(あたえ) …地方豪族。那須・東漢


 なお、姓の実例で古いものは、6世紀頃の岡田山1号墳出土大刀銘の「各(額)田部臣(ぬかたべのおみ)」とされています。


《 支配の仕組み 》


 中央の政治は臣・連を姓とする豪族の中から、大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)が任じられて政務を担いました。その下に、伴造(とものみやつこ)が(とも)や(べ)と呼ばれる集団を率い、各職掌を分担しました。また、渡来人たちも伴造や伴に編成され、その下に品部(しなべ・ともべ)と呼ばれる集団を率いました。

 ヤマト政権の直轄領を屯倉(みやけ)、直轄民を名代(なしろ)・子代(こしろ)の部(べ)といいました。これらを各地に設置していくことによって、ヤマト政権は地方への勢力を浸透させていきました。

 地方豪族は国造(くにのみやつこ)に任じられ、その地方の支配権をヤマト政権から保証される一方、屯倉や名代・子代の部を管理したり、その子女を舎人(とねり)・采女(うねめ)として大王のもとに出仕させたり、ヤマト政権に奉仕するようになりました。

 有力豪族は、私有地の田荘(たどころ)、私有民の部曲(かきべ)を経済的基盤としました。


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