●弥生文化の成立● |
◆プラント・オパール(plant opal) 野原で遊んでいて、知らない間に手の甲などに切り傷がついていて、びっくりした経験はありませんか。真空状態の中に手を突っ込んで皮膚が裂けたんだとか、妖怪カマイタチの仕業だとか、大人たちは勝手なことを言ってました。でも、大人たちだって、本当の理由はわからなかったのかも知れません。 実は、植物の葉で切ったのです。犯人は、イネ科植物の中に含まれているガラス質の珪酸体です。たとえば、顕微鏡でイネの葉の縁を見てみましょう。0.2mmほどの鋭く尖ったガラス状のものがたくさん見えるはずです。この珪酸体の粒子は化学組織が宝石のオパールに似ているため、プラント・オパールと呼ばれます。 プラント・オパールには面白い性質があります。植物の種によってその形状が異なる上、植物が枯死したのちも分解することなく土中にとどまるのです。ですから、ある地層からプラント・オパールが見つかれば、その地層の堆積当時の植生を知る手がかりの一つとなるのです。 わが国では、朝寝鼻(あさねばな)貝塚(岡山、縄文前期)から、扇形をしたイネのプラント・オパールが検出されました。これが正しいとするならば、約6000年前の日本に、すでにイネが存在していたことになります。 |
◆弥生文化が及ばなかった地域 本州は、青森県まで水稲耕作が及びました。弥生時代の水田跡がこの地でも発見されています(砂沢遺跡・垂柳遺跡など)。しかし、水稲耕作は、津軽海峡を渡ることはありませんでした。北海道では、続縄文文化・擦文文化(さつもんぶんか。擦文土器をともなう文化)・オホーツク文化(オホーツク式土器をともなう文化)が次々と成立しますが、これらの文化はいずれも狩猟・漁労に基礎をおく文化でした。 一方、南西諸島にも、水稲耕作は伝わりませんでした。海の幸に恵まれたこの地域では、漁労活動を中心とする貝塚文化が続いたのです。この地域はまた、豊富に採取できるゴホウラ・イモガイなどの貝を、北九州の米などと交易していたようです。これらの貝は、加工されてブレスレットになりました。福岡県の立岩遺跡からは、ゴホウラ製貝輪を14個も腕にはめた男性の遺体が発見されています。 |
◆青銅器に含まれた鉛からわかること 鉛には206Pb、207Pb、208Pbの安定した同位体があり、各地の鉛鉱で産出される鉛はそれぞれ異なる同位体比をもっています。ですから、この同位体比を調べれば、鉛の産地がわかるのです。 青銅器には鉛が含まれています。弥生時代の青銅器に含まれる鉛の同位体比を調べたところ、中国北部・南部双方の鉛が見つかりました。当時すでに二つ以上の流通ルートがあったと考えられます。また、弥生時代から平安時代までの関西以西で出土する青銅器の鉛を調べると、弥生時代は中国産ばかりでしたが、7世紀以降は日本産になるそうです。この頃からわが国で採鉛が始まったのでしょう。 【参考】 ・東京理科大学編『大問題!』2004年、ぺんぎん書房、P.133〜136 |
◆森本六爾(もりもとろくじ)が考えたこと 弥生時代の生活の様子がほとんどわかっていなかった頃、「弥生時代に農村があった」と考えた研究者がいます。奈良県出身の考古学者、森本六爾です。 銅鐸になぜ高床倉庫が描かれたか、平野になぜ大きな壺形土器が発達したのか、籾痕のついた土器が低い土地の遺跡からでるのはなぜか、等に対する答えを考えた末の結論です。しかし、彼の主張に耳を貸す人は誰もいませんでした。失意のうち、病気と貧困の中、森本は1936(昭和11)年1月、32歳の生涯を閉じます。 森本の亡くなったその年の末、国道新設工事にともない、土盛り用に唐古池(からこいけ。奈良)の池底から土取りがされました。すると池底から、竪穴・土杭とともに、弥生時代の木製農具が大量に見つかったのです。「弥生時代に農村があった」という森本の主張を裏づける証拠でした。唐古遺跡の発掘を指揮した末永雅雄(すえながまさお)氏は、「それまで他の地域で農具が出土したことは聞いたことがなく、初めは中世に作られたものがまぎれこんだのではないかと思ったほどです」(朝日新聞、1986年3月29日付け)と、当時を振り返っています。 森本の故郷で発見された唐古遺跡は、その後の発掘で、弥生時代600年間に及ぶ大環濠集落であることがわかり、現在唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡と呼ばれています。 【参考】 ・黒羽清隆『歴史教育ことはじめ』1985年、地歴社 ・松本清張「断碑」(森本六爾をモデルにした小説、同氏『或る「小倉日記伝」』 1965年、新潮文庫所収) |
●弥生人の生活● |
●小国の分立● |
◆「漢委奴国王」の読み方 江戸時代中期、百姓甚兵衛なる者が志賀島(現、福岡県福岡市東区)にある自分の田んぼから掘り出したという金印は、黒田藩に提出され、学者たちによってさまざまに検討されました。その結果、方7分6厘(2.3cm弱)、高さ2分8厘(約0.85cm)、鈕(ちゅう。紐を通すつまみ)を含めた総高7分4厘(2.25cm弱)、重量は28.9866匁(約108.7g)のこの金印は、奴国王が後漢の光武帝から拝領した金印であろうと判断されました。 しかし、「漢委奴国王」を素直に読めば「かんの『いと』のこくおう」であり、金印は伊都国王が拝領したものではないのでしょうか。なぜ、「かんの『わのな』のこくおう」と読むのでしょう。 委は倭の省画であり、「委奴国」は『後漢書』の「倭奴国」であり、儺(な)地方(博多付近)の国を指します。また、「奴」の音からしても、志賀島の位置が伊都国(糸島半島付近)よりは儺の地に近いことからしても、このように考えるのが合理的だといいます(三宅米吉説)。 しかし、現在でも、金印を偽印と疑う見方は完全には払拭されていません。また真印だとしても、「かんの『わのな』のこくおう」という印文の読み方が絶対的に正しいとは言い切れないでしょう。 【参考】 ・三上次男「『漢委奴国王』金印をめぐる問題点」(岩波講座日本歴史月報1、1962年) ・直木孝次郎「国家の発生」(岩波講座日本1、1962年、P.200) ・藤間生大『埋もれた金印(第2版)』1970年、岩波書店(岩波新書)、P.45 ・三浦佑之『金印偽造事件』2006年、幻冬舎(幻冬舎新書) |
●邪馬台国連合● |
◆三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう) 卑弥呼が魏から拝領した銅鏡が、三角縁神獣鏡(縁の断面が三角形で、神獣の文様をもつ鏡)だと言われています。卑弥呼が遣使した239年は魏の元号で「景初三年」に当たります。この「景初三年」の銘をもつ三角縁神獣鏡が神原神社古墳(島根県加茂町)などから出土しています。でも、中国本土からは1枚も出土していないのです。ただし、だからといって、三角縁神獣鏡が中国産の鏡ではない、と即断することはできません。中国全土で発掘されていない遺跡がどのくらいあるのかを考えてみれば、それはわかるでしょう。 しかし、三角縁神獣鏡を「卑弥呼の鏡」と考えるには、分の悪い証拠もまたたくさん出ています。100枚しかないはずの鏡が、全国から約600枚も出土しているのです。また、あり得ない中国の年号が刻まれている鏡があったり、貴重品だったはずなのに1箇所の遺跡に大量に副葬してあったり、など。また、「景初三年」の銘をもつ鏡は三角縁神獣鏡に限りません。黄金塚古墳(大阪府和泉市)出土の画文帯神獣鏡という鏡にも、「景初三年」の銘があるのです。 最近では、ホケノ山古墳(奈良)から出土した画文帯神獣鏡(文様分析で卑弥呼が遣使した頃のものと推定)こそが卑弥呼の拝領した鏡ではないか、という意見も出ています。 |
「宮室(きゅうしつ)・楼観(ろうかん)・城柵(じょうさく)、厳(おごそ)かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」
(邪馬台国には宮室・楼閣(たかどの・ものみ)・城柵をおごそかに設け、いつも人がおり、兵器を持って守衛する)
(沈寿『魏志倭人伝』−原文は石原道博編訳『新訂魏志倭人伝他三篇』1985年、岩波文庫、P.49−)