4.弥生文化

●弥生文化の成立●



@ 中国で農耕社会が成立した


  紀元前6500年〜5500年頃、中国で農耕社会が成立しました。北は黄河中流域でアワやキビなどの栽培が、南は長江下流域で稲作がそれぞれ始まりました。畑作地帯・稲作地帯に二分されるのは、北に行くほど雨が少なく、南に行くほど雨が多くなるという降水量の多寡と、気温の変化によるものです。この頃、日本ではまだ縄文文化が続いていました。

  ついで、紀元前6世紀頃には、中国で鉄器の使用が始まりました。春秋・戦国時代を通じて、鉄製農具の使用は農業生産を著しく高め、やがて紀元前3世紀には(しん)・(かん)という強力な統一国家が形成されました。やがて、その影響力は朝鮮半島を経て、日本にも波及しました。


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A 日本の稲作りは北九州から


  縄文晩期、朝鮮半島に近い九州北部で水稲耕作が開始されました。菜畑遺跡(なばたけいせき。佐賀)の縄文晩期の地層から最古の水田跡が検出されていますので、水稲耕作の開始時期は紀元前5世紀までさかのぼることとなりました。


◆プラント・オパール(plant opal)

  野原で遊んでいて、知らない間に手の甲などに切り傷がついていて、びっくりした経験はありませんか。真空状態の中に手を突っ込んで皮膚が裂けたんだとか、妖怪カマイタチの仕業だとか、大人たちは勝手なことを言ってました。でも、大人たちだって、本当の理由はわからなかったのかも知れません。

  実は、植物の葉で切ったのです。犯人は、イネ科植物の中に含まれているガラス質の珪酸体です。たとえば、顕微鏡でイネの葉の縁を見てみましょう。0.2mmほどの鋭く尖ったガラス状のものがたくさん見えるはずです。この珪酸体の粒子は化学組織が宝石のオパールに似ているため、プラント・オパールと呼ばれます。

  プラント・オパールには面白い性質があります。植物の種によってその形状が異なる上、植物が枯死したのちも分解することなく土中にとどまるのです。ですから、ある地層からプラント・オパールが見つかれば、その地層の堆積当時の植生を知る手がかりの一つとなるのです。

 わが国では、朝寝鼻(あさねばな)貝塚(岡山、縄文前期)から、扇形をしたイネのプラント・オパールが検出されました。これが正しいとするならば、約6000年前の日本に、すでにイネが存在していたことになります。


 稲の伝播ルートには諸説ありますが、おそらくは長江下流域から北上し、山東半島から朝鮮半島を経て、北九州へ伝わったのではないかと考えられています。

 西日本に水稲耕作を特色とする弥生文化が成立し、その文化の波は次第に東日本へと広まっていきました。そして、日本列島のほとんどは、弥生文化におおわれます。しかし、北海道と南西諸島(奄美・沖縄など)には、ついに弥生文化は及びませんでした。


◆弥生文化が及ばなかった地域 

  本州は、青森県まで水稲耕作が及びました。弥生時代の水田跡がこの地でも発見されています(砂沢遺跡・垂柳遺跡など)。しかし、水稲耕作は、津軽海峡を渡ることはありませんでした。北海道では、続縄文文化・擦文文化(さつもんぶんか。擦文土器をともなう文化)・オホーツク文化(オホーツク式土器をともなう文化)が次々と成立しますが、これらの文化はいずれも狩猟・漁労に基礎をおく文化でした。

  一方、南西諸島にも、水稲耕作は伝わりませんでした。海の幸に恵まれたこの地域では、漁労活動を中心とする貝塚文化が続いたのです。この地域はまた、豊富に採取できるゴホウラ・イモガイなどの貝を、北九州の米などと交易していたようです。これらの貝は、加工されてブレスレットになりました。福岡県の立岩遺跡からは、ゴホウラ製貝輪を14個も腕にはめた男性の遺体が発見されています。


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B 弥生文化の特徴-水稲耕作、金属器と弥生土器の使用-



  弥生時代は、通常、紀元前4世紀から紀元後3世紀の期間に及んだ、と考えられています。これを前期・中期・後期の三期に分けています。

  弥生文化は水稲耕作の開始金属器の使用弥生土器の使用によって特徴づけられます。一つずつ見ていくことにしましょう。


《 水稲耕作の開始は北九州から 》


  まず、水稲耕作ですが、前述したように九州北部で開始されました。その後、西日本から東日本に向かって伝播していきました。これにより、私たちの祖先は、食料生産経済の段階に入ったのです。

 稲作のため人びとは平低な土地に定住するようになりました。稲という穀物は、肉や魚と違って長期貯蔵が可能なため、飢えの恐怖を減少させました。

 その一方、一年を通じての生産活動の中で、その折々における技術の指導や共同作業が必要だったため、それまで貧富差・身分差のなかった社会は変化せざるを得なくなりました。


《 金属器の使用(1)−青銅器は祭器に使われた− 》


 青銅器鉄器が同時に日本にもたらされました。

 青銅器というのは銅と錫(すず)の合金です。新品の青銅器は金色(錫の含有量が多くなると銀色)に輝きますが、酸化すると緑青(ろくしょう)と呼ばれる錆(さ)びに覆われるため、青銅器と呼ばれるのです。

 青銅器は、わが国では実用をすぐ離れて祭器(さいき)として使用されました。日常の実用品ではなかったので、弥生時代は青銅器時代ではありません。

 島根県の荒神谷(こうじんだに)遺跡には、大量の青銅器がその種類に応じて整然と並べられた状態で土の中に埋納されていました。日常は土中に埋めておいて、祭の時だけ掘り出して使用したようです。遺跡の名称に含まれる「神」という文字から、その命名が後世のものであったとしても、青銅器が埋納(まいのう)されていた場所が神域だったことが推測されますね。同様の地名には、神領(じんりょう、愛知)・神倉山(かみくらやま、和歌山)・神於(こうの、大阪)・神岡(かみおか、兵庫)などがあります。

 青銅器の代表的なものとしては、本来は武器であった銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)・銅剣(どうけん)、楽器であった銅鐸(どうたく)があります。銅矛・銅戈は九州北部に、平形銅剣は瀬戸内地方に、そして銅鐸は畿内に、それぞれまとまって分布しています。このことから、共通の青銅器祭器を使用する文化圏が、各地にいくつか生まれていたことがわかります。

 なお、青銅製のも各地から出土しています。特徴的な文様や、中国の元号が記載されているものもあって、貴重な資料になっています。銅鏡には、大陸から伝来した舶載鏡(はくさいきょう)と、わが国でそれを模倣・製作した倣製鏡(ほうせいきょう)があります。


◆青銅器に含まれた鉛からわかること

 鉛には206Pb、207Pb、208Pbの安定した同位体があり、各地の鉛鉱で産出される鉛はそれぞれ異なる同位体比をもっています。ですから、この同位体比を調べれば、鉛の産地がわかるのです。

 青銅器には鉛が含まれています。弥生時代の青銅器に含まれる鉛の同位体比を調べたところ、中国北部・南部双方の鉛が見つかりました。当時すでに二つ以上の流通ルートがあったと考えられます。また、弥生時代から平安時代までの関西以西で出土する青銅器の鉛を調べると、弥生時代は中国産ばかりでしたが、7世紀以降は日本産になるそうです。この頃からわが国で採鉛が始まったのでしょう。

【参考】
・東京理科大学編『大問題!』2004年、ぺんぎん書房、P.133〜136


《 金属器の使用(2)−鉄器は実用の道具だった− 》


 実用の利器として使用されたのは鉄器の方でした。ですから、考古学上の分類では、弥生時代は鉄器時代に分類されます。

 だからといって、それまでの石器がまったく使用されなくなったわけではありません。鉄自体がまだまだ貴重品だったため、従来の石器使用を一掃してしまうほど、鉄器が人々の間に広く行き渡ったわけではなかったのです。

 鉄器とともに、従来の石器も相変わらず使用されました。たとえば、稲の収穫時には、石包丁を使うのが一般的でした。石包丁は、朝鮮半島から稲作とともに伝来した磨製石器です。このように、弥生時代には金属器と石器の双方が使われていたので、この時代を「金石併用時代(きんせきへいようじだい)」ともいっています。

 なお、鉄は腐食しやすいため、弥生時代の鉄製品の遺物は青銅器ほど多くはありません。


《 弥生土器は進歩した土器 》


 弥生土器は縄文土器よりも高温で焼成された、薄手・硬質・赤褐色の土器です。これらの諸特徴から、技術の進歩がわかりますね。

 その一方、縄文土器に見られた文様の多様性はなくなります。弥生土器では幾何学文(きかがくもん)が描かれるか、文様自体描かれなくなってしまいます。

 また、深鉢形(ふかばちがた)が多かった縄文土器に対し、弥生土器は機能分化が進み、用途別に(つぼ。貯蔵用)・甕(かめ。煮炊き用)・高杯(たかつき。供膳用)が作られました。穀物の蒸し器である(こしき)も出現しますが、当時の米の食べ方は蒸すより、甕で煮る方が一般的だったようです。


◆森本六爾(もりもとろくじ)が考えたこと

  弥生時代の生活の様子がほとんどわかっていなかった頃、「弥生時代に農村があった」と考えた研究者がいます。奈良県出身の考古学者、森本六爾です。

  銅鐸になぜ高床倉庫が描かれたか、平野になぜ大きな壺形土器が発達したのか、籾痕のついた土器が低い土地の遺跡からでるのはなぜか、等に対する答えを考えた末の結論です。しかし、彼の主張に耳を貸す人は誰もいませんでした。失意のうち、病気と貧困の中、森本は1936(昭和11)年1月、32歳の生涯を閉じます。

  森本の亡くなったその年の末、国道新設工事にともない、土盛り用に唐古池(からこいけ。奈良)の池底から土取りがされました。すると池底から、竪穴・土杭とともに、弥生時代の木製農具が大量に見つかったのです。「弥生時代に農村があった」という森本の主張を裏づける証拠でした。唐古遺跡の発掘を指揮した末永雅雄(すえながまさお)氏は、「それまで他の地域で農具が出土したことは聞いたことがなく、初めは中世に作られたものがまぎれこんだのではないかと思ったほどです」(朝日新聞、1986年3月29日付け)と、当時を振り返っています。

 森本の故郷で発見された唐古遺跡は、その後の発掘で、弥生時代600年間に及ぶ大環濠集落であることがわかり、現在唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡と呼ばれています。

【参考】
・黒羽清隆『歴史教育ことはじめ』1985年、地歴社
・松本清張「断碑」
(森本六爾をモデルにした小説、同氏『或る「小倉日記伝」』 1965年、新潮文庫所収)


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C 弥生時代のおもな遺跡


《 砂沢
(すなざわ)遺跡(青森) 》


 弥生前期の小さく区画された水田跡が検出されました。東日本最古。石包丁や木製農具類が出土しなかったため、水稲耕作は定着しなかったと見られます。


《 垂柳(たれやなぎ)遺跡(青森) 》


  弥生中期の水田跡。畦で小さく区画された656面に及ぶ水田跡や水路などが検出されました。水路・水田面・畦などから弥生人の多数の足跡が見つかり、話題になりました。


《 弥生町遺跡(弥生2丁目遺跡、東京) 》


  1884年、弥生町の向ヶ岡貝塚(むこうがおかかいづか。東京大学構内)から、口の欠けた壺形土器が発見されました。これが「弥生土器(当初は「弥生式土器」)」の名称の由来となりました。


《 登呂遺跡(静岡) 》 


  1943年、軍需工場の建設中に発見されました。日本で初の大型水田跡(約8ha)や住居跡・倉庫跡のほか大量の木製農具が出土しました。


《 唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡(奈良) 》


  弥生時代600年間にわたる、面積約42haの大規模環濠集落(かんごうしゅうらく)遺跡。唐古池の底から大量の木製農具が出土し、弥生時代が農耕社会であったことを裏付けるとともに、水稲耕作法が判明しました。

 その他、大形のひすい製勾玉(まがたま)をおさめた褐鉄鉱容器(かってっこうようき)が発見されたり、楼閣(ろうかく)が描かれた土器片が出土したことが話題となりました。


《 加茂岩倉(かもいわくら)遺跡(島根) 》


  銅鐸39口が一括して埋納(まいのう)されていました。1カ所から出土した銅鐸の個数としては国内最多です。39口の銅鐸のうち、13組26口は中型銅鐸の中に小型銅鐸が納められた「入れ子」状態で出土しました。


《 荒神谷(こうじんだに)遺跡(島根) 》


  358本という大量の銅剣が出土しました。この本数は、それまでにわが国で出土した銅剣の総本数を上回ります。銅剣は、山の斜面に刃を立てて接する状態で4列に分けて、整然と土中に並べられていました。

 また、その近くから、銅鐸と銅矛が一緒に発見されました。それまで銅鐸と銅矛が同じ場所から出土した例はなかったので、大きな話題となりました。16本の銅矛がそれぞれ互い違いになるよう並べられ、6個の銅鐸は鰭(ひれ)を立てて3個ずつ向かい合わせに置かれた状態で、一緒に埋納されていました。

 銅鐸が大量に出土した加茂岩倉遺跡とは3.5kmしか離れていません。

 なお、大字(おおあざ)名を冠して「神庭(かんば)荒神谷遺跡」と呼ばれますが、正式名称は「荒神谷遺跡」です。


《 吉野ヶ里(よしのがり)遺跡(佐賀) 》

  弥生時代最大級の環濠集落で、その広さは120haにも及びます。『魏志』倭人伝に描かれた邪馬台国を思わせる大規模な集落跡が展開していました。墳丘墓(ふんきゅうぼ。細形銅剣と約80個のガラス製管玉が副葬されていました。首長墓と見られます)、甕棺墓群(かめかんぼぐん。約2500基以上の甕棺が2列、600mにもわたって整然と並んでいました)、望楼跡(ぼうろうあと)、高床倉庫跡、竪穴住居跡などが残っていました。


《 板付(いたづけ)遺跡(福岡) 》


  縄文晩期〜弥生前期の集落遺跡。縄文晩期の土器のみが出土する土層から水田跡・水路・木製農具・石包丁・炭化籾(たんかもみ)など出土しました。縄文晩期末における水稲耕作の存在を証明しました。


《 菜畑(なばたけ)遺跡(佐賀) 》


 縄文晩期〜弥生前期の水稲耕作開始期の遺跡。縄文晩期後半の土層から水田跡・木製農具が出土しました。板付遺跡よりも古い、紀元前5世紀にさかのぼる最古の水田跡であることがわかりました。


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●弥生人の生活●



@ 弥生時代の水田



  水稲耕作は、川に近い低湿地から始まりました。弥生時代前期は湿田(しつでん)が中心でしたが、中・後期になると西日本から乾田(かんでん)が普及します。

  湿田は地下水位が高く、生産性の低いものでした。一方、生産性は高いものの、乾田は灌漑(かんがい)と排水を繰り返すため、灌漑施設と排水施設が必要でした。

  用水路やため池を掘ったり、それらを管理・維持したりすることは、とても個人の労力のみでできることではありません。多人数による共同作業がどうしても必要となります。その結果、みんなをまとめ指導するリーダー(首長)が出現します。

  また、穀物という食料が長期保存を可能としたため、社会に貧富の差が生じました。


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A 農作業


  農作業はおもに木製農具を使用しました。イチイガシ・クリなどの堅(かた)い木を、朝鮮半島系の磨製石器を使って加工しました。のちには、鉄斧(てつおの)や刀子(とうす)などの鉄製工具を使って加工するようになりました。


《 浅 耕(せんこう) 》

 
 湿田は木鍬(きくわ)・木鋤(きすき)を使って浅耕されました。湿田の土はやわらかく、木製農具で十分作業が可能でした(のち、乾田が普及すると、土が固いため、木製農具に鉄製の刃先をとりつけないと、耕作は困難になってきます)。


《 代掻き(しろかき) 》


  代掻きは、えぶりを使って水田の表面を平らにならしました。足が湿田にのめり込むのを防ぐため、田下駄(たげた)を履(は)いて作業する場合もありました。

  この田下駄に似た農具に大足(おおあし)があります。大足は、堆肥(たいひ)や青草などを田に踏み込む道具です。


《 播 種(はしゅ)・田植え、収 穫 》


  稲は、種籾を湿田に直播(じかまき、じきまき)しました。成長がバラバラで、一斉には結実しないので、収穫の際には、石包丁(いしぼうちょう)で一本一本稲穂の部分を穂首刈り(ほくびがり)しました。石包丁での収穫作業は、「刈り取る」というよりは、「摘み取る」と言った方がいいかも知れません。

 のちになると、田植えが始まりました。百間川(ひゃっけんがわ)遺跡(岡山)や内里八丁(うちさとはっちょう)遺跡(京都)などでは、苗代(なわしろ)で苗を育て、田植えをしていた痕跡(こんせき)が見られます。

 田植えが始まると、苗代で成長の同じ苗を選別できるようになり、同時期に一斉に結実させることも可能になります。

 深田での収穫の場合には、農具や刈った穂束を運搬するのに田舟(たぶね)という小舟を用いました。稲を濡らさないようにするのでは、なかなか作業が進みません。乾田ならば、鉄鎌(てつがま)を使って、ザクザクと一挙に根刈(ねがり)することができます。農作業の効率化が一段と進むとともに、藁(わら)の部分が利用できるようになりました。たとえば、住居内の直土の上に藁を広げて寝床(ねどこ)などに利用したことが、わかっています。


《 脱 穀(だっこく) 》


 脱穀は、木臼(きうす)に入れた稲の穂を竪杵(たてぎね)で搗(つ)き、米と籾殻(もみがら)に分離しました。


《 貯 蔵 》


 収穫された稲は、穂束のまま、高床倉庫(たかゆかそうこ)に貯蔵されました。高床倉庫は、長い柱で床を地表から持ち上げた建物で、湿気を防ぎ、また洪水を避けるのに有効でした。はしご・柱と建物の床の間には「ネズミ返し」という板が取り付けられ、ネズミなどの害獣から稲を守る工夫がしてあります。


《 その他 》

  水稲耕作が始まったとはいえ、まだまだ十分な食料生産はできませんでした。したがって、農作業と並行して、狩猟・漁労・採取も引き続き行われました。

 機織り(はたおり)の技術が大陸から伝わったのもこの時代です。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に浮き沈みさせる平織り(ひらおり)という織り方でした。糸は、石製・土製の紡錘車(ぼうすいしゃ)を使って、苧(からむし。イラクサ科の多年草)や麻などの繊維に撚(よ)りをかけて紡(つむ)ぎました。


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C 集落立地の変化


 水稲耕作を行うため、人びとは日当たりのよい台地から、川の近くの低湿地に移り住み、集落を営むようになりました。じめじめして蚊も多かったでしょうから、あまり快適な住環境ではなかったでしょう。

 住居は竪穴住居(たてあなじゅうきょ)が一般的でしたが、地面を掘り下げない平地式住居(ひらちしきじゅうきょ)も建てられるようになりました。高床倉庫には余剰の稲が貯えられ、畦(あぜ)で区画された水田には用水路や排水路も整えられました。

 こうして低平な土地に集落が営まれていた頃、特異な2種類の集落が出現します。環濠集落(かんごうしゅうらく)と高地性集落(こうちせいしゅうらく)です。


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D 環濠集落と高地性集落


 弥生時代は「戦争が始まった時代」(佐原眞氏の言葉)です。『後漢書』東夷伝にも、2世紀後半の「倭国」が「大乱」状態であったと記されています。

 それでは、なぜ、弥生時代に戦争が始まったのでしょうか。

 農耕社会が成立して余剰生産物(よじょうせいさんぶつ)が生じると、ムラの内外に貧富差や身分差が生じました。首長が率いた集団同士が、余剰生産物や耕地・水などを奪い合うようになったのです。

 この戦争を反映した集落遺跡が、環濠集落(かんごうしゅうらく)と高地性集落(こうちせいしゅうらく)です。


《 環濠集落 》


 環濠集落とは、周囲に濠や土塁をめぐらした防御的な集落です。なかでも吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき。佐賀)は、V字形の断面をもつ深い濠を周囲にめぐらした大環濠集落として知られます。外敵の侵入を撃退するために、物見櫓(ものみやぐら)や防護柵(ぼうごさく)を設けるなど、さまざまな工夫が施されていました。


《 高地性集落 》 


 高地性集落は西日本の瀬戸内海沿岸に多く見られます。低湿地に多くの人びとが移り住んだ時代に、標高100m以上の高台に集落が作られました。たとえば、紫雲出山遺跡(しうでやまいせき。香川、弥生後期)は、標高352mの山上に営まれ、そこから石鏃・石槍などの武器類が大量に出土しました。おそらく、外敵を見張ったり、逃げ城的な性格をもつ集落だったのでしょう。


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E 墓 制


 人が亡くなると、遺体は集落近くの共同墓地に葬られました。土壙(どこう、墓穴)に直接遺体を埋葬する土壙墓(どこうぼ)、木製の棺(ひつぎ)に遺体を納める木棺墓(もっかんぼ)、墓穴内に板石などで箱状の棺を作って遺体を納める箱式石棺墓(はこしきせきかんぼ)などさまざまな墓に、両脚を伸ばした状態で埋葬されました。弥生時代以降、死者はこうした伸展葬(しんてんそう)で埋葬されるのが一般的になります。

 注目すべきは、この時代、集団墓から分離した特定個人の墓が出現したことです。

 たとえば、九州北部に多く見られる支石墓(しせきぼ)がそれです。支石墓は朝鮮半島の影響を受けた墓制です。土壙を掘り、遺体はその中に納められた甕棺(かめかん)の中に葬られます。土を埋め戻していくつかの支石を置き、その上に大きな主石をのせて墓としたものです。甕棺の中には、被葬者が有力者たることを示す豪華な副葬品(ふくそうひん)を伴う場合がありました。

 支石墓は九州北部に集中していますが、一般的に多く見られるのは盛り土をもつ墓です。これを墳丘墓(ふんきゅうぼ)とよんでいます。墳丘墓には地域的・個別的な特色を備えたものが多く見られ、古墳時代の古墳とは区別されます。墳丘墓には、次のようなものがあります。


《 楯築(たてつき)墳丘墓 》


 岡山県にある弥生後期の大墳丘墓。円形の墳丘に左右対称の突出部があります。


《 四隅突出型(よすみとっしゅつがた)墳丘墓 》


 弥生中期に中国地方山間部に出現し、後期に山陰・北陸地方に広がりました。方形の墳丘の四隅に、ヒトデ状に四方に向かった突出部をもちます。妻木晩田遺跡(むきばんだいせき。鳥取)が有名です。


《 方形台状墓(ほうけいだいじょうぼ) 》


 弥生中・後期。瀬戸内〜山陰・北陸に多く分布します。丘陵や尾根を削りだして方形台状としました。


《 方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ) 》


 弥生前期に近畿地方で出現し、九州〜東北地方にまで分布します。ごく低い方形の盛り土の周囲に幅1mほどの溝がめぐらされています。近年、方形低墳丘墓(ほうけいていふんきゅうぼ)という呼称で呼ばれつつあります。


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●小国の分立●



@ ムラからクニへ
−地域的統合が進む−


 農耕社会の成立は、余剰生産物・耕地・水などをめぐる争いを生みました。各地に防御的・戦闘的備えをした集落が生まれ、武器が作られました。首のない遺体や、全身に鏃の刺さった遺体などが、弥生時代の墓から見つかっています。

 こうした争いの結果、小さなムラは次第に大きなまとまりに統合され、クニが出現しました。大規模な墳丘墓が造られ、そこに大量の副葬品とともに埋葬された被葬者は、おそらくはこうした小国の王だったのかも知れません。

 中国の歴史書には、紀元前1世紀頃から紀元後3世紀頃にかけて、小国分立の状態から小国間の抗争を経て、小国家連合に向かうわが国の様子が描かれています。


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A 小国の分立(紀元前1世紀の日本)
   
−『漢書』地理志(後漢の班固・班昭兄妹が撰した正史)による−


 紀元前1世紀の倭(わ。中国の日本に対する呼称で、この呼び方は『隋書』の時代まで続きました)についての伝聞記事です。倭は百余りの小国に分立していました。そして、定期的に楽浪郡(らくろうぐん。前漢の武帝が朝鮮半島に設置した四郡の一つ)に使者を派遣していたといいます。

 『漢書』の記事から、紀元前1世紀頃の日本は多くの小国の分立状態にあったこと、それらが楽浪郡を通じて前漢と交渉をもっていたこと、などがわかります。


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B 小国間の抗争(紀元後1〜2世紀の日本)
    
−『後漢書』東夷伝(宋の笵曄(はんよう)と晋の司馬彪(しばひょう)が撰した正史)による−


  紀元後57年に、倭の奴国王が洛陽に使者を遣わしました。後漢の光武帝から印綬を拝領したとの記事があります。1784年、福岡県志賀島で発見された「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の印文をもつ金印が、この時のものだとされています。

  107年、倭国王帥升(すいしょう)らが生口(せいこう)160人を、後漢の安帝に献上しました。生口は奴隷(奴婢(ぬひ))です。おそらくは「倭人の小国間における戦いの捕虜を奴婢として中国に貢献した」(『国史大辞典』、「生口」の項)ものです。王や生口の存在から、当時の倭人社会に階級差・身分差のあったことがわかります。

  2世紀後半、倭国内は大乱状態になりました。後漢では黄巾の乱が起こり、東アジアに対する後漢の支配力が弱体化していた頃です。小国同士が相争い、より大きな政治的統合体に向かっていきました。

 弥生中・後期に、瀬戸内海沿岸地域で高地性集落が出現し、石器の消滅期であるにもかかわらず、この地方で実戦向きの鋭い石製武器が大量に発見されるのは、「倭国大乱」という軍事的緊張の高まりを反映しているものと理解されます。


◆「漢委奴国王」の読み方

  江戸時代中期、百姓甚兵衛なる者が志賀島(現、福岡県福岡市東区)にある自分の田んぼから掘り出したという金印は、黒田藩に提出され、学者たちによってさまざまに検討されました。その結果、方7分6厘(2.3cm弱)、高さ2分8厘(約0.85cm)、鈕(ちゅう。紐を通すつまみ)を含めた総高7分4厘(2.25cm弱)、重量は28.9866匁(約108.7g)のこの金印は、奴国王が後漢の光武帝から拝領した金印であろうと判断されました。

  しかし、「漢委奴国王」を素直に読めば「かんの『いと』のこくおう」であり、金印は伊都国王が拝領したものではないのでしょうか。なぜ、「かんの『わのな』のこくおう」と読むのでしょう。
 委は倭の省画であり、「委奴国」は『後漢書』の「倭奴国」であり、儺(な)地方(博多付近)の国を指します。また、「奴」の音からしても、志賀島の位置が伊都国(糸島半島付近)よりは儺の地に近いことからしても、このように考えるのが合理的だといいます(三宅米吉説)。

 しかし、現在でも、金印を偽印と疑う見方は完全には払拭されていません。また真印だとしても、「かんの『わのな』のこくおう」という印文の読み方が絶対的に正しいとは言い切れないでしょう。

【参考】
・三上次男「『漢委奴国王』金印をめぐる問題点」
(岩波講座日本歴史月報1、1962年)
・直木孝次郎「国家の発生」
(岩波講座日本1、1962年、P.200)
・藤間生大『埋もれた金印(第2版)』1970年、岩波書店(岩波新書)、P.45
・三浦佑之『金印偽造事件』2006年、幻冬舎(幻冬舎新書)


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●邪馬台国連合●



@ 小国家連合
(邪馬台国連合)の出現(3世紀の日本)
       
−『魏志』倭人伝(晋の陳寿の著)による−


《 卑弥呼
(ひみこ)と邪馬台国(やまたいこく)連合 》

 邪馬台国は30余りの小国を服属させ、連合体をつくっていました。これを、邪馬台国連合と呼んでいます。

 邪馬台国の指導者は、卑弥呼と呼ばれる女王でした。『魏志』倭人伝には「鬼道(きどう)を事とし、能(よ)く衆を惑(まど)は」した、とあります。「呪術を行い、多くの人びとに自分の占いを信じさせていた」という意味です。このような、宗教的権威者をシャーマンと呼びます。卑弥呼はシャーマン的女王であり、その呪術的な才能のゆえをもって共立された指導者であった、と考えられています。

 卑弥呼には夫がなく、弟が国の政治を補佐しました。ただ、王位に就いてからの卑弥呼を見た者はほとんどいなかったといいます。俗的な社会と全く遮断された場で、政治を行っていたのですね。1000人に及ぶ婢を近侍させてはいたものの、食事を給するのも、卑弥呼の言葉を伝達するのも、居所に出入りを許された一人の男子を通じてのみでした。


《 卑弥呼の外交 》


 3世紀は東アジアにとって激動期でした。後漢が滅んで、魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)が鼎立(ていりつ)する三国時代に突入したのです。

 238年、魏は朝鮮半島の遼東地域を支配していた公孫淵(こうそんえん)を滅ぼし、楽浪・帯方(たいほう)二郡を接収しました。卑弥呼の遣使は、この海外情勢の変化に対応したものといえます。

 239年、邪馬台国の女王卑弥呼は、大夫(たいふ)難升米(なしめ)らを帯方郡(たいほうぐん)に派遣し、魏への奉献を願い出ました。帯方郡の太守(たいしゅ、長官)劉夏(りゅうか)は、難升米らを魏の都洛陽(らくよう)に送ります。明帝(めいてい)は詔(みことのり)して卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおうお)」の称号と金印紫綬(きんいんしじゅ、紫の組紐(くみひも)をつまみに通した金印)を授け、銅鏡100枚・高級な絹織物などを与えました。

 魏が卑弥呼を厚遇したのは、なぜでしょうか。その理由として、当時対立していた呉を牽制したり、台頭しつつあった高句麗に対して朝鮮半島支配の背後を固めたりするため、邪馬台国連合の利用をはかろうとしたのでしょう。つまり、魏の「近攻遠交策」に基づく対応だったわけです。

 一方、卑弥呼は魏の権威を借りることにより、邪馬台国における自分の立場や、邪馬台国連合における邪馬台国の立場を強化しました。狗奴国(くなこく)との抗争の際にも、魏の権威を利用しました。卑弥呼の外交目的もそこにあったのでしょう。


◆三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)

 卑弥呼が魏から拝領した銅鏡が、三角縁神獣鏡(縁の断面が三角形で、神獣の文様をもつ鏡)だと言われています。卑弥呼が遣使した239年は魏の元号で「景初三年」に当たります。この「景初三年」の銘をもつ三角縁神獣鏡が神原神社古墳(島根県加茂町)などから出土しています。でも、中国本土からは1枚も出土していないのです。ただし、だからといって、三角縁神獣鏡が中国産の鏡ではない、と即断することはできません。中国全土で発掘されていない遺跡がどのくらいあるのかを考えてみれば、それはわかるでしょう。

 しかし、三角縁神獣鏡を「卑弥呼の鏡」と考えるには、分の悪い証拠もまたたくさん出ています。100枚しかないはずの鏡が、全国から約600枚も出土しているのです。また、あり得ない中国の年号が刻まれている鏡があったり、貴重品だったはずなのに1箇所の遺跡に大量に副葬してあったり、など。また、「景初三年」の銘をもつ鏡は三角縁神獣鏡に限りません。黄金塚古墳(大阪府和泉市)出土の画文帯神獣鏡という鏡にも、「景初三年」の銘があるのです。

 最近では、ホケノ山古墳(奈良)から出土した画文帯神獣鏡(文様分析で卑弥呼が遣使した頃のものと推定)こそが卑弥呼の拝領した鏡ではないか、という意見も出ています。


《 社会のしくみ 》

  大人(たいじん)、下戸(げこ)生口(せいこう)という身分制があり、妻子・門戸・宗族という親族組織がありました。原始的な刑法があり、大倭(だいわ。市場の管理をする役人)や一大率(いちだいそつ。伊都国に設置)などの役人がいたこと、国々には市があったこと、租税の仕組みが存在していたことが記載されています。


《 卑弥呼以後 》

  卑弥呼が死ぬと大きな塚を造り、奴婢100人余を殉葬させました。卑弥呼の後継者として、男子の王を立てましたが国中が納得せず、混乱状態になりました。殺し合いがおこり、1000人余りが死にました。そこで、卑弥呼の宗女(そうじょ。一族の女性)で13歳の壱与(いよ。または台与(とよ))を女王に立てると、国中がおさまったといいます。邪馬台国では、まだまだシャーマン的な女王が必要だったのです。

  『日本書紀』が引用する晋(しん)の起居注(ききょちゅう。中国には、皇帝の日常の言行を記録する役人(起居注官)がおり、その役人のメモ)によると、266年に倭の女王(おそらくは壱与か)が晋に遣使したとの記事があります。これは前年の魏の滅亡・西晋の樹立という対外情勢に対応したものと考えられます。

  しかしこの後、413年(『晋書』)に再び登場するまで、倭に関する記事は中国の歴史書からふっつりと消えてしまいます。この間に、わが国は、古墳時代を迎えることになります。


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A 邪馬台国の位置


 邪馬台国の位置については九州説畿内説に2説があります。それは倭人伝の方位や里程に矛盾があるためです。両説とも、奴国までの位置はほぼ一致しています。


《 九州説 》


 距離に誇張があり、方位は正しいと考える説です。九州説をとる研究者の一人榎一雄(えのきかずお)氏は、伊都国からは放射状に読むべきだと主張しました。

 邪馬台国が九州にあったとするならば、邪馬台国は3世紀の時点で北部九州を中心とした小規模なものだった、ということになります。

 ヤマト政権の統一は4世紀半ば頃までに行われた、という事実と合わせ考えるなら、その後の邪馬台国は、4世紀半ば頃までに滅んでヤマト政権に吸収されたか、または東遷して畿内地方を征服した、と考えられます。


《 畿内説 》


 方角に誤りがあり、距離は正しいと考える説です。この説では「南行は東行の誤り」と主張しています。

 邪馬台国は伊都国・奴国など九州北部の諸国を支配下に置いていたわけですから、もし邪馬台国が畿内にあったとするならば、3世紀前半にしてすでにその支配領域は九州から畿内まで、広範囲に及んでいたことになります。
 

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「宮室(きゅうしつ)・楼観(ろうかん)・城柵(じょうさく)、厳(おごそ)かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」
(邪馬台国には宮室・楼閣(たかどの・ものみ)・城柵をおごそかに設け、いつも人がおり、兵器を持って守衛する)

(沈寿『魏志倭人伝』−原文は石原道博編訳『新訂魏志倭人伝他三篇』1985年、岩波文庫、P.49−)


 
吉野ヶ里(佐賀県)