「開墾期の(注、八ヶ岳蓼科(やつがたけたてしな)山麓)高原の遺跡からは、土壌の色のかわるほどに土器が堀りだされたもので、農夫は土半分土器半分といって、その耕地に不適当なことを歎(なげ)いたものである。一枚の畑から少くも十個や二十個の完形の土器がかならず出土した。農夫はこれを「菅(本ノママ)狐(くだぎつね)」の巣と称して、狐に憑かれることをおそれ、畑の一隅にだし、礫(こいし)で打ちこわすのが常であった。そうしてできた土器塚はどこの開墾地にも大きな山を築いていたものだったという。」
(藤森栄一「山の先住民とその子たち」1934年−同氏『かもしかみち』1967年、学生社、所収−から)
●縄文文化の成立● |
考古学の時代区分 | 日本史の文化区分 | ||
旧石器時代 | 獲得経済 | 旧石器文化(旧石器時代) | 獲得経済 |
新石器時代 | 生産経済 | 縄文文化(新石器時代) | |
青銅器時代 | (日本には青銅器時代なし) | 生産経済 | |
鉄器時代 | 弥生文化(鉄器時代) |
◆「縄文原体」の発見 従来の定説では、縄文土器の表面にある縄目のような文様は、織物や編み物を器面におしつけて作られたと考えられていました。この定説は、山内清男(やまのうちすがお)さんの何気ない行動と一瞬のひらめきによって、いとも簡単にくつがえされました。 1931(昭和6)年、東北帝国大学に勤めていた山内さんは、ある時綿棒の軸を何気なくゴム粘土の上で転がしていたそうです。その際、軸の端にあった刻みが、粘土上に不思議な文様を作ることに気づきました。何かがひらめいた山内さんは、近くにぶら下がっていたカーテンの房を使い、同じように粘土の上に転がしてみたそうです。すると、なんと縄文土器にそっくりな文様が現れたではありませんか。そこで山内さんは、いろいろと紐(ひも)の撚(よ)り方を変えてみて、同じ作業を何度も粘土上で試みたのでした。そして、縄文土器の文様が、器面に撚紐(よりひも)やそれを巻いた軸を回転させて作られたものであることを証明したのです。 山内さんはこの撚紐を「縄文(山内さん自身は「縄紋」と表記)原体」と呼びました。 【参考】 ・笠原一男他編『日本史こぼれ話(古代・中世)』1993年、山川出版社 |
14C年代 | 時期区分 | 土器の特徴 |
1万3,000年前 〜 1万年前 | 草創期 | 方形の平底か円形の丸底の深鉢形土器が多い。貝殻などで爪形(つめがた)の文様を連ねた爪形文や、粘土の紐を貼りつけた隆起線文(りゅうきせんもん)が多い。 |
1万年前 〜6,000年前 |
早期 | 炉のそばの土にさして使用する尖底土器(せんていどき)が中心。 |
6,000年前 〜5,000年前 |
前期 | 平底の深鉢が普及。 |
5,000年前 〜 4,000年前 |
中期 | 装飾が立体的な火焔型土器(かえんがたどき)が出現。 |
4,000年前 〜3,000年前 |
後期 | 多様な器形。急須のような注口(ちゅうこう)土器(酒などを注ぐ)が普及。 |
3,000年前 〜 |
晩期 | 東日本で精巧な亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)が出現。 |
◆ 放射性炭素14C年代測定法(Radiocarbon dating) 放射性炭素14C年代測定法によると、縄文時代の開始期は約1万2,000年前とされてきました。大気や大気中に生存する生物には14Cが含まれていますが、生物が死ぬと14Cが一定割合で減少します。この原理を応用して生物遺体中の14Cの残存量を測定し、死後経過した年代を算出するのです。 ところが、過去から現代にいたる大気中の14Cの濃度は常に一定とは限らないので、この測定法ではどうしても誤差が生じてしまいます。最近では1979年に提案されたAMS法(Accelerater Mas Spectrometry、加速器質量分析法)の採用で高精度化した14C年代を、さらに年輪年代測定法などの確実な方法によって補正する研究が進んでいます。こうした方法によると、縄文時代の開始期は約1万6,500年前に遡るといいます。しかし、従来の定説からかけはなれ た古い年代なので、この補正年代を認めない研究者もいます。 なお、○○年前というのは、1950年を起点としてB.P.(Before Present)という記号を用いて示しています。 |
●縄文人の生活と信仰● |
◆ 星 石 『採薬使記(さいやくしき)』は享保頃(1716〜1736年)の内容を記載したものとされます。阿部照任(あべてるとう)と松井重康(まついしげやす)という二人の人物が、幕命を拝して諸国の薬効ある動植鉱物等の探索にあたりました。彼らを採薬使といいました。彼らからの聞き書きを、地方別に配列したものが本書です。 本書には、和田峠で産する「星石(=黒曜石)」についての記載があります。 「○信州之部 照任曰(いわく)、信州和田峠ト云(い)フ所ニ、星石ト云フ物アリ、其(その)色黒ク シテ、水晶ノ 如(ごと)ク、透(す)キ、其中ニ白キ星ノ形アリ 光生(こうせい。後藤光生)按(あん)スルニ是レ西国ニテ、黒水晶ト云フ石アリ、 此(この)類ナルヘシ」 本書によると、「星石」の名称は、その中に「星ノ形」が透けて見えるからだといいます。おそらく、鉱物の結晶などの、内包物のことをいっているのでしょうね。 なお、和田峠の黒曜石は、建築用・園芸用のパーライトに加工されて、現在でも利用されています。 【参考】 ・早稲田大学収蔵本『採薬使記』による。次のHPを参照してください。 〔http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ni01/ni01_00790/ni01_00790.pdf〕 |
◆貝 塚 貝塚は人びとが食べた貝の貝殻などの捨てたものがたい積して、層をなしている遺跡です。土器・石器・骨角器などが出土するほか、貝殻にふくまれるカルシウム分によって保護された人骨や獣・魚などの骨が出土し、その時代の人びとの生活や自然環境を知るうえで重要な資料となっています。 なお、日本の近代科学としての考古学は1877(明治10)年にアメリカ人動物学者エドワード=シルベスター=モースが、東京 にある大森貝塚を発掘調査したことにはじまりました。 【参考】 ・E・S・モース著、近藤義郎・佐原真編訳『大森貝塚』1983年・岩波文庫 |