26.室町幕府の成立    

 千劔破の城(ちはやのしろ。楠木正成が河内の金剛山に築いた千早城のこと)の寄手(よせて)は、前の勢八十万騎に、又赤坂の勢吉野の勢馳(はせ)加(くわえ)て、百万騎に余りければ、 ( 中略 )  此(こ)の勢にも恐ずして、纔(わずか)に千人に足(たら)ぬ小勢(こぜい)にて、誰を憑(たの)み何(いつ)をか待共なきに、城中にこらへて、防ぎ戦(たたかい)ける楠(くすのき。楠木正成)が心の程こそ不敵なれ。 ( 中略 )

 正成、「いでさらば、又寄手をたばかりて居眠(いねぶり)さまさん」とて、芥(あくた。ゴミのこと)を以て人長(ひとだけ。人の身長)に、人形を二三十作(つくり)て、甲冑(かっちゅう)をきせ、兵杖(ひょうじょう。武器)を持せて、夜中に城の麓(ふもと)に立置(たておき)、前に畳楯(じょうだて。楯)をつき雙(なら)べ、其(その)後ろにすぐりたる兵五百人を交へて、夜のほのぼのと明ける霧の下より、同時に時(鬨(とき)の声)をどつと作る。四方の寄手時の声を聞て、「すはや城の中より打出たるは、是こそ敵の運の尽(つく)る処(ところ)の死狂(しにぐるい)よ」とて、我先にとぞ攻(せめ)合せける。城の兵兼(かね)て巧(たくみ)たる事なれば、矢軍(やいくさ)ちとする様にして、大勢相近づけて、人形計(ばかり)を木がくれに残し置て、兵は皆次第次第に城の上へ引上る。寄手人形を実(まこと)の兵ぞと心得て、是を打(うた)んと相集(あいあつま)る。正成所存の如く、敵をたばかり寄せて(考えていた通りに敵をだましおびきよせて)、大石を四五十、一度にばつと発(はな)す。一所に集りたる敵三百余人、矢庭(やにわ。即座)に被討殺(うちころ)され、半死半生の者五百余人に及(およべ)り。軍(いくさ)はてて是を見れば、哀(あわれ)大剛の者哉と覚て、一足も引ざりつる兵、皆人にはあらで、藁にて作れる人形也。
 
(『太平記』巻第7,「千劔破城軍(いくさ)の事」
  −岡見正雄校注『太平記(1)』1975年、角川文庫、P.236〜237、P.242〜243−)

●鎌倉幕府の滅亡●



@ 持明院統と大覚寺統



 後嵯峨(ごさが)天皇(1220〜1272)には二人の皇子がいましたが、第二皇子を偏愛した天皇は弟に譲位したいという意向がありました。しかし、幕府は当時の慣習に従い、第一皇子を即位させました。後深草(ごふかくさ)天皇(1243〜1304)です。あきらめきれない後嵯峨上皇は、後深草天皇が病気になると、第二皇子に天皇の地位を譲らせました。こうして新たに即位したのが亀山(かめやま)天皇(1249〜1305)です。この時、後深草上皇は17歳、亀山天皇は11歳という少年でした。

 後嵯峨上皇が亡くなると、皇室は後深草上皇の流れをくむ持明院統(じみょういんとう)と亀山天皇の流れをくむ大覚寺統(だいかくじとう)に分裂しました(両統の名称は、それぞれが院御所とした寺院に由来します)。両統は、皇位の継承や院政をおこなう権利、皇室領荘園の相続などをめぐって争い、ともに鎌倉幕府に働きかけて有利な地位を得ようとしていました。

 そこで幕府はたびたび調停をおこない、その結果、両統が代わる代わる皇位につく方式がとられるようになりました。これを両統迭立(りょうとうてつりつ)といいます。1317(文保元)年、幕府は両統迭立の原則の実施をめぐって両統に協議を提案します(文保の和談)。この結果、翌年に花園天皇(持明院統)から後醍醐天皇(大覚寺統)への譲位が実施されました。


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A 後醍醐天皇の討幕の動き


 大覚寺統から即位した後醍醐(ごだいご)天皇(1288〜1339)は、皇位の安定をはかるために、院政を排して天皇親政を進め、天皇の権限強化をはかろうとしました。

 一方、当時の幕府では、執権北条高時(1303〜1333)のもとで内管領(北条氏の家来である御内人の代表者)長崎高資(ながさきたかすけ。?〜1333)が権勢をふるっていました。『太平記』によると、高時は政務そっちのけで闘犬と田楽にうつつを抜かし、そのため人心が離反していたといいます。軍記物語特有の誇張はあるでしょうが、得宗専制政治に対する御家人の反発が高まっていたのは、確かでした。

 後醍醐天皇は、こうした情勢を幕府を討つ好機ととらえ、密かに計画を進めました。後醍醐天皇の行動は「主上(=天皇)御謀反」と呼ばれました。謀反とはそもそも臣下が天皇に対して起こすものですね。それが、臣下の幕府に対し「天皇が謀反を起こす」というのですから、本来の意味からは逆転した発想です。「君臣関係を正すべし」とする大義名分論を朱子学から学んだ後醍醐天皇が、「臣下の顔色をうかがいながら、あれこれせざるを得ない」本末転倒した自らの境遇に対し、大きな不満を持っていたことは間違いありません。

 しかし、密告により1324(正中元)年の天皇の幕府転覆の企ては失敗に終わりました。これを正中の変といいます。その7年後、1331(元弘元)年に挙兵するも、これまた失敗に終わりました。元弘の変(元弘の乱)です。この結果、幕府が支持する持明院統の光厳(こうごん)天皇(1313〜1364)が即位し、翌1332(元弘2)年、後醍醐天皇は隠岐に流されてしまいました。

 後醍醐天皇の企ては失敗に終わりましたが、これが一つの呼び水となって、皇子の護良(もりよし)親王(1308〜1335)や河内の武士楠木正成(くすのきまさしげ。?〜1336)らは悪党などの反幕府勢力を結集して、各地で蜂起しました。やがて天皇も隠岐を脱出すると、討幕に立ちあがる者もしだいに多くなりました。

 幕府軍の指揮官として畿内に派遣された足利高氏(あしかがたかうじ。のち尊氏。「尊」は後醍醐天皇の名前「尊治(たかはる)」から一字賜ったものです。1305〜1358)は、幕府を裏切って六波羅探題を攻略しました。新田義貞(にったよしさだ。?〜1338)は鎌倉を攻め、北条高時らを滅ぼしました。ここに1333(元弘3)年、鎌倉幕府は滅亡したのです。


 ◆鎌倉材木座遺跡の発見

 
1953(昭和28)年、由比ガ浜の鎌倉簡易裁判所用地で、古い時代の人骨が大量に発見されました。その後の調査で、発見された人骨は鎌倉時代のもので、その数は900体以上にものぼることがわかりました。しかも、そのほとんどは男性で、人骨には刀傷や刺傷等が多く見られました。これだけ多人数の戦死者がいることから、新田義貞による鎌倉攻めの際の戦死者と推定されました。

 長い間野ざらしにされていた遺骨も多いらしく、犬のかじった痕跡のある骨が大量に出土しました。また、頭蓋骨の中には、薄くなって判読が困難になっているものの、経文が墨書されていた骨もあったということです。

【参考】
・鈴木尚『日本人の骨』1963年、岩波書店(岩波新書)
   

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●建武の新政●



@ 新政の内容


 京都に戻った後醍醐天皇は、持明院統の光厳天皇を廃し、新政を開始しました。翌1334年、年号を建武と改めたので、この政治を「建武の新政」といいます。

 「建武」という元号は中国にその由来があります。漢王朝(前漢)が外戚の王莽(おうもう)に一旦滅ぼされたあと、劉秀(光武帝)によって再興されました(後漢)。この時、光武帝が採用した元号が「建武」でした。後醍醐天皇がこの元号を使用したのは、武家政権を倒して天皇親政を復活したことを、光武帝の故事になぞらえたものでしょう。

 後醍醐天皇は、10世紀の「延喜・天暦の治」を理想としました。後醍醐天皇の後継者は後村上天皇です。ともに、親政を行った醍醐・村上両天皇にちなんだ名前です。

 幕府も摂政・関白も否定して、権力集中をはかった天皇は、親政を開始しました。

 中央には最高機関として一般政務を担当する記録所(きろくしょ)、訴訟を担当する雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)、恩賞事務にあたる恩賞方(おんしょうがた)、軍事担当の武者所(むしゃどころ。頭人に新田義貞)などの機関を設置しました。

 地方には国司と守護を併置しました。国司は貴族から、守護は武士から、それぞれ任命されますから、公武併存ですね。また鎌倉には鎌倉将軍府、陸奥に陸奥将軍府をおき、それぞれに皇子の成良(なりよし)親王と足利直義(あしかがただよし。尊氏の弟。1306〜1352)、義良(のりよし)親王(のちの後村上天皇)と北畠顕家(きたばたけあきいえ。北畠親房の長子。1318〜1338)を派遣しました。

 後醍醐天皇は、天皇権威を示すために大内裏(皇居)の造営を計画しました。しかし、財源がありません。そこで、大内裏の造営費用を調達するために、銅銭・紙幣を発行しようとしました。前者を乾坤通宝(けんこんつうほう)、後者を楮幣(ちょへい)といいますが、現物がみつかっていないので、実際に発行されたのかどうかはわかりません。

 また、すべての土地所有権は、その一つ一つについて天皇の綸旨(りんじ。天皇の意志を承けて蔵人が伝える文書)によってのみ確認する、というルールを打ち出しました。このルールのことを個別安堵法(こべつあんどほう)といいます。こんなとんでもないことを言い出したため、本領安堵を願う人々や土地訴訟問題を抱える人々が、綸旨を求めて全国から京都に殺到します。とうてい、天皇一人で処理できる数ではありませんでした。


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A 新政の混乱


 「朕(ちん。天皇の一人称)が新儀は未来の先例たるべし」とは,『梅松論』が伝える後醍醐天皇の言葉です。「私が始めた新政策は,後世の人びとの先例とされるだろう」という意味です。非常に自信に満ちた言葉ですが,後醍醐天皇の新政策は、武士社会の慣習を無視していたり、恩賞の分配が貴族に厚くて武士に薄いという不公平だったりしたため、多くの武士は新政に失望しました。さらに、急ごしらえの政治機構と内部の複雑な人間的対立は、政務の停滞や社会の混乱を招きました。

 1334(建武元)年、後醍醐天皇の御所がある二条富小路に近い鴨川の河原に、建武の新政の混乱ぶり皮肉った落書がかかげられました。「二条河原落書」(『建武年間記』)です。リズミカルな文体で、混乱の諸相を列挙してるのですが、それとて京童(きょうわらべ。当時の京都の市民)たちの口ずさみの「十分の一」の内容を記すに過ぎない、というのです。


 此比
(このごろ)都ニハヤル物、夜討(ようち)強盗(ごうとう)謀綸旨(にせりんじ)、召人(めしうど)早馬(はやうま)虚騒動(そらさわぎ)、生頸(なまくび)還俗(げんぞく)自由出家、俄大名(にわかだいみょう)迷者(まよいもの)安堵恩賞虚軍(そらいくさ)、本領ハナルゝ訴訟人、文書入タル細葛籠(ほそつづら)、追従(ついしょう)讒人(ざんにん)禅律僧、下克上スル成出者(なりでもの)( 中 略 ) 天下一統メツラシヤ、御代ニ生テサマサマノ、事ヲミキクソ不思議トモ、京童ノ口スサミ、十分一ヲモラスナリ。(「二条河原落書」)


 新政への不満がつのる中、1335(建武2)年に、北条高時の遺児時行(ときゆき。?〜1353)が反乱をおこし、父祖の地の鎌倉を占拠するという事件が起こりました。これを中先代(なかせんだい)の乱といいます。ひそかに幕府政治の再建をめざしていた足利尊氏は、反乱鎮圧を名目に関東に下ると、新政権に反旗をひるがえしました。


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●南北朝の動乱●



@ 南北朝の対立


 
  1336(建武3)年、京都を制圧した足利尊氏は、持明院統の光明天皇(1321〜1380)を立てました。そして、幕府をひらく目的のもとに、当面の政治方針を明らかにした建武式目17カ条を発表しました。

 これに対し後醍醐天皇は京都を逃れ、吉野の山中にこもって、自らが正統の皇位にあることを主張。ここに吉野の南朝(大覚寺統)と京都の北朝(持明院統)が対立して、以後約60年にわたる全国的な南北朝の動乱がはじました。

 南朝側では、動乱の初期に楠木正成・新田義貞が戦死(湊川の戦い・藤島の戦い)するなど形勢は不利でした。しかし、北畠親房(きたばたけちかふさ)らが中心となり、東北・関東・九州などに拠点をきずいて抗戦を続けました。


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A 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)


 北朝側では1338(暦応元)年に尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、弟の足利直義と政務を分担して政治をとりました(二頭政治)。

 しかし、幕府は一枚岩ではなく、その政治方針をめぐって、直義を支持する漸進派勢力と、尊氏の執事高師直(こうのもろなお。?〜1351)を中心とする急進派勢力との対立がありました。『太平記』には、「上皇や天皇がいなくて困る理由があるならば木像か鋳像にしてしまえばよい。生きた上皇や天皇は流し捨ててしまいたいものだ」と放言したという高師直の言葉が残されています。伝統的権威を無視し傍若無人な振舞いをする師直のような者を、当時の言葉で「婆娑羅(ばさら)といいました。

 両者の対立は次第に激化し、1350(観応元)年、ついに武力対決に突入しました。全国的な争乱に発展したこの紛争を、観応の擾乱(かんのうのじょうらん。1350〜1352)といいます。抗争は高師直の敗死・足利直義の毒殺後も続き、尊氏派(幕府)、旧直義派、南朝勢力の三者が、10年余りもそれぞれ離合集散をくり返しながら相争いました。


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B 動乱が長期化・全国化した理由


 動乱が長引いて全国化した背景には、すでに鎌倉時代後期ころからはじまっていた惣領制の解体がありました。

 このころ武家社会では本家と分家が独立し、それぞれの家のなかでは嫡子が全部の所領を相続して、庶子は嫡子に従属する単独相続が一般的になっていました。新たな所領獲得が望めない状況下で、従来の分割相続の繰り返しでは所領が細分化するばかりで、武士の没落は避け得ないものでした。こうした変化は各地の武士団の内部に分裂と対立を引きおこし、一方が北朝につけば反対派は南朝につくという形で、動乱を拡大させることになったのです。

 この変化は、惣領制の下での血縁的結合を主とした地方武士団が、地縁的結合を重視するようになっていくことでもありました。



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●守護大名と国人一揆●



@ 守護大名


 
 動乱のなかで地方武士の力が増大してくると、これらの武士を各国ごとに統轄する守護が、軍事上、大きな役割をになうようになっていきました。

 幕府は地方武士を動員するために、守護の権限を大はばに拡大しました。たとえば、鎌倉幕府の守護の職権であった大犯三カ条に加え、田地をめぐる紛争の際、自分の所有権を主張して田の稲を一方的に刈り取る実力行使(刈田狼藉(かりだろうぜき))を取り締まる権限や、幕府の裁判の判決を強制執行する権限(使節遵行(しせつじゅんぎょう))など、新しい権限を次々と守護に与えました。なかでも半済令(はんぜいれい)は、守護の権限強化に大きな役割を果たした法令として重要です。

 半済令(観応の半済令)は1352(観応3、文和元)年、観応の擾乱に際して、守護に一国内の荘園や公領の年貢の半分を、軍費として徴収する権限を認めたものでした。期間は1年間、場所も近江・美濃・尾張三国に限定された臨時法令でした。それがいつしか永続的・全国的に行われるようになり、1368(応安元)年に発令された応安の半済令にいたっては、天皇領・殿下渡領(でんかのわたりりょう。藤原氏の氏長者が相続する所領)などを除いて、年貢米ばかりか下地(土地)自体まで分割するようになりました。こうして守護は、半済令を口実に、任国内の荘園・公領を侵略していったのです。

 一方、荘園領主側も定額の収入を確保するために、荘園や公領の年貢徴収を守護に請け負わせようになりました。こうした守護請も、さかんにおこなわれるようになりました。守護請と半済という二つの方法を通じて、守護は地方への支配を浸透させていきました。

 鎌倉幕府体制下の守護の権限は一国の軍事・警察権に限られていましたが、室町時代の守護はさまざまな権限を獲得し、なかには国衙の機能をも吸収して一国全体におよぶ支配権を確立する者も出現しました。こうした守護を従来の守護と区別して、守護大名とよぶことがあります。守護大名による支配体制を守護領国制と称します。


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A 国人一揆


 しかし、国人とよばれた地方在住の武士には、なお自立の気質が強く、守護が彼らを家臣化していくのには多くの困難がありました。

 守護の力が弱い地域では、しばしば国人たちが自主的に相互間の紛争を解決したり、力をつけてきた農民を支配するために契約を結び、地域的な一揆を結成しました。一揆とは「揆(みち)を一つにする」という意味を持つ言葉で、ある目的を実現しようとする際に、神仏に誓約して一致団結した集団をいいます。国人が中心となった一揆は、国人一揆といいます。

 こうして国人たちは、一致団結することで自主的な地域権力をつくりあげ、守護の上からの支配にもしばしば抵抗しました。


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●室町幕府●



@ 南北朝の統一(1392)


 
 南北朝の動乱も、尊氏の孫足利義満(1358〜1408)が3代将軍になるころにはしだいにおさまり、幕府はようやく安定の時をむかえました。

 1392(明徳3)年、義満の仲介によって、南朝の後亀山天皇(?〜1424)が北朝の後小松天皇(1377〜1433)に譲位するという形で南北朝の合体が実現し、内乱に終止符がうたれました。和平の条件として、両統迭立が約束されましたが実現しませんでした。もっとも、和平とはいっても、幕府は南朝の皇族を次々と出家させてその子孫を絶ちましたので、南朝方の人々はこれを恨みました。そのため、これらの人々による幕府への反乱は、その後長く、応仁の乱の頃まで続きました。


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A 室町幕府の確立


 義満は、それまで朝廷が保持していた権限を幕府の管轄下におき、全国的な統一政権としての幕府を確立しました。

 京都は政権の所在地であるとともに、全国商工業の中心でもありました。それまで朝廷は、京都の市政権を検非違使庁を通じて掌握していましたが、幕府は侍所の権限を強化することによって、京都の警察権・裁判権などを検非違使庁から奪うとともに、1393(明徳4)年には市中商人への課税権を確立しました。この他にも幕府は、諸国に課する段銭徴収権や外交権などを獲得し、朝廷が保持していた機能を奪い、全国的な統一政権としての体裁を整えていきました。

 1378(永和4)年、義満は京都の室町に壮麗な邸宅を営みました。この邸宅は「花の御所」とか「花亭(かてい)」などとよばれました。この地で政治をおこなったので、後世、足利氏の政権を室町幕府とよぶことになります。

 さて、義満は将軍としてはじめて太政大臣にのぼりました。武士としては、平清盛に次いで二人目です。また、義満の妻は天皇の准母(じゅんぼ。名目上の母)となりました(義満の死後、朝廷は義満に天皇の名目上の父として太上天皇の称号をおくろうとしましたが、4代将軍義持はこれを辞退しました)。義満は、出家したのちも幕府や朝廷に対し実権をふるいました。

 また、動乱のなかで強大となった守護の統制をはかり、外様の有力守護を攻め滅ぼして、その勢力の削減につとめました。1390(明徳元)年には、美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる土岐氏を討伐し(土岐康行の乱(ときやすゆきのらん))、翌1391(明徳2)年には西国11カ国の守護を兼ね、六分の一衆・六分の一殿(日本六十余カ国の六分の一を持つ一族の意)などとよばれた山名氏一族の内紛に介入して、山名氏清(やまなうじきよ。1344〜1391)を滅ぼしました(明徳の乱)。さらに1399(応永6)年には、6カ国の守護を兼ね対朝鮮貿易で富強を誇った大内義弘(おおうちよしひろ。1356〜1399)を、堺で敗死させました(応永の乱)。


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B 幕府の機構


《中央の組織》



 幕府の機構も、この時代にはほぼ整いました。

 管領(かんれい)は将軍を補佐する中心的な職で、侍所・政所などの中央諸機関を統轄するとともに、諸国の守護に対する将軍の命令を伝達しました。管領には足利氏一門の細川・斯波(しば)・畠山の3氏(三管領)が交代で任命されました。

 侍所の長官(所司)は京都内外の警備や刑事裁判をつかさどり、赤松・一色(いっしき)・山名・京極(きょうごく)の4氏(四職(ししき)から任命されるのが慣例でした。

 これらの有力守護は在京して重要政務を決定し、幕政の運営にあたりました。また一般の守護も領国は守護代に統治させ、自身は在京して幕府に出仕するのが原則でした。

 奉公衆(ほうこうしゅう)は幕府の直轄軍です。古くからの足利氏の家臣、守護の一族、有力な地方武士などを集めて編成しました。奉公衆はふだん京都で将軍の護衛にあたるとともに、諸国に散在する将軍の直轄領である御料所の管理をゆだねられ、守護の動向を牽制する役割を果たしました。


《地方の組織》


 幕府の地方機関としては、鎌倉府(関東府)や九州探題(きゅうしゅうたんだい)などがありました。

 足利尊氏は鎌倉幕府の基盤であった関東をとくに重視し、その子足利基氏(あしかがもとうじ。1340〜1367)を鎌倉公方(かまくらくぼう。関東公方)として鎌倉府をひらかせ、東国(関東8カ国と伊豆・甲斐を、のちには陸奥・出羽の2カ国も支配しました)の支配をまかせました。以後、鎌倉公方は基氏の子孫が受け継ぎ、鎌倉公方を補佐する関東管領(かんとうかんれい)は上杉氏が世襲しました。鎌倉府の組織は幕府とほぼ同じで、権限も大きかったため、やがて京都の幕府としばしば衝突するようになりました。


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C 幕府の財政


 幕府の収入のほとんどは臨時税にかたよっており、恒常的な財政基盤は脆弱でした。財源の種類を見ていきましょう。

 まずは御料所(幕府の直轄領)からの収入、守護の分担金、地頭・御家人に対する賦課金などがあります。そのほか、京都で高利貸を営む土倉・酒屋が負担する土倉役(どそうやく。倉数に応じて賦課)・酒屋役(さかややく。酒壺数に応じて賦課)、交通の要所に設けた関所からの関銭(せきせん。通行税)・津料(つりょう。入港税)など。また、広く金融活動をおこなっていた京都五山の僧侶にも課税しました。さらに日明貿易による利益(貿易に従事した商人の賦課しました。これを抽分銭(ちゅうぶんせん)といいます)なども幕府の財源となりました。

 また内裏の造営など国家的行事を行う際には、守護を通して全国的に段銭(たんせん。土地税)や棟別銭(むなべつせん・むなべちせん。家屋税)を賦課することもありました。


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