●蒙古襲来● |
◆二度目の国書 近年、日本にもたらされた二度目の「蒙古国牒状」(1269年)の内容が明らかになりました。江戸時代に編纂された外交文例集『異国出契(いこくしゅっけい)』(国立公文書館所蔵)の中に、国書の写しがあることがわかったのです。 その内容は最初の国書(1268年)にくらべ、かなり過激な表現になっています。そこには「翌春までに『元に服属する』という返事をよこせ」とあり、もしも返事がなかった場合には、 将(まさ)に戦舸(せんか)萬艘(ばんそう)を出師(すいし。出兵する)し、王城を往圧せん。 則(すなわ)ち将に臍(ほぞ)を噛(か)むも及ぶ無きの悔(く)いあらん。 (1万隻の艦隊を派遣して京都を制圧してくれよう。きっと後悔することになるぞ) と書かれてありました。 【参考】 ・『週間新発見!日本の歴史20・鎌倉時代3』2013年、朝日新聞出版、P.5~6 |
◆ムクリコクリ モンゴルが日本に侵攻した文永・弘安の役を総称して、蒙古襲来と呼びます。元寇(寇は賊とか暴という意味)という呼び方は後世のものです。 当時の人々はモンゴル軍を「ムクリ・コクリ(モンゴル・高句麗(高麗)の転か)」と呼び、その恐ろしさを深く胸に刻みました。その恐怖の記憶から、ムクリコクリという名前の妖怪が生み出されたといいます。現在でも、泣きやまぬ子どもに対して「泣いてばかりいる悪い子のところには、ムクリコクリがやって来るぞ」と脅かす地方があるそうです。 また、井伏鱒二は小説『黒い雨』の中で、放射能雨を降らせる不気味な雲のことを「ムクリコクリの雲」と表現しました。 |
●蒙古襲来後の政治● |
●社会の変動● |
●幕府の滅亡● |
◆永仁の徳政令を出したきっかけは? 永仁の徳政令発令のきっかけは、彗星(すいせい)の出現だったといわれます。 中世、彗星の出現は、飢饉や戦乱などの凶兆と考えられました。科学的知識が乏しかった時代でしたから、そう考えたとしても無理はありません。では、そうした凶兆にはどう対応したらよいのでしょうか。当時の為政者たちは、験(げん)直しをはかるか徳政を行えばよいと考えました。 1210(承元4)年に彗星が出現した際には、後鳥羽上皇は土御門天皇から順徳天皇へ譲位させることにより、災厄から逃れようとしました。永仁の徳政令は、1297(永仁5)年2月に長く尾をひく彗星が出現したため、幕府が災厄を避けるために出した、といわれています。 【参考】 ・笠松宏至『徳政』1983年、岩波新書、P.191~P.192 |