24.蒙古襲来と幕府の衰退    

●蒙古襲来●



① 東アジアの情勢



  鎌倉幕府のもとでも日宋間に正式な国交は開かれませんでしたが、私的な貿易や僧侶・商人の往来など、両国の通交は盛んに行われていました。その結果、宋を中心とする東アジア通商圏のなかに、日本も組み入れられていきました。

 この間13世紀初め、モンゴル(蒙古)高原にチンギス=ハーン(成吉思汗。ハーンは遊牧民の支配者の称号。1167頃~1227)があらわれ、モンゴル民族を統一(1206)して、中央アジアから北西インド・南ロシアまでにまたがる大帝国をつくりあげました。

 チンギスの子で第2代皇帝のオゴタイ(太宗。1186~1241)は、カラコルムに都を定めました。そして1234年に金を滅ぼし、ヨーロッパに遠征軍を派遣してロシア諸侯国を支配下に入れ、ドイツ・ポーランド連合軍を撃破させました(ワールシュタットの戦い。1241)。

 チンギスの孫で5代目のフビライ(忽必烈。世祖。1215~1294)は、都を大都(だいと。北京)に移し、1271年に国号を(大元)と改めました。

 フビライは中国大陸の支配を目指し、南宋の討滅を進めました。そして、南宋と朝貢関係・通商関係をもつ周辺地域に出兵を繰り返し、次々と征服していきました。南宋と提携する恐れのある勢力が、こうして排除されていきました。

 1259年、高麗を服属させて属国とすると、フビライは日本へたびたび招諭使(しょうゆし)を派遣し、朝貢を要求してきました。招諭使とは、諸国・諸民族に朝貢を促すために派遣される使者のことで、宣諭使(せんゆし)ともいいいます。モンゴルは、まず招諭使を派遣して諸国・諸民族に朝貢を呼びかけ、それが拒否されると征討するという外交方針をとっていました。日本への招諭使派遣も、南宋攻略作戦の一環でした。

 直線上に配置


② モンゴルの国書


  1268(文永5)年正月、日本にもたらされたモンゴルの国書(蒙古国牒状(もうここくちょうじょう))は、次のようなものでした。


 上天眷命
(じょうてんけんめい。「天の慈しみ受けている」の意)、大蒙古国の皇帝、書(国書)を日本国王に奉(たてまつ)る。朕(ちん。フビライの一人称)(おも)ふに古(いにしえ)より小国の君境土相接するは、尚(な)ほ講信修睦(こうしんしゅうぼく。音信を交わし合い、仲良くする)に務(つと)む。況(いわ)んや我が祖宗(そそう)、天の明命(皇帝となるべき天の命令)を受け、区夏(くか)を奄有(えんゆう)(天下をおおい保っている)。遐方(かほう)異域(遠い地方)、威を畏(おそ)れ徳を懐(なつか)しむ者、数を悉(つく)すべからず。 (中 略) 
高麗は朕の東藩
(とうはん。東方の守り)なり。日本は高麗に密邇(みつじ。近接している)し、開国以来、亦(ま)た時に中国に通ず。朕の躬(み)に至って、一乗の使(一人の使者)も以(もっ)て和好を通ずること無し。尚ほ恐る、王の国これを知ること未(いま)だ審(つまびらか)ならざらん。故に特に使を遣はし、書を持して朕の志を布告せしむ。冀(こいねがわく)は今より以往、通問結好し、以て相親睦(しんぼく)せん。且(か)つ聖人は四海(しかい)を以て家と為(な)す。相通好せざるは、豈(あ)に一家の理(ことわり)ならん哉(や)。兵を用ふるに至るは、夫(そ)れ孰(いずれ)か好む所ならん。王其(そ)れ之(これ)を図(はか)れ。不宣(ふせん。「すべてを述べ尽くしていない」という意味の止め句)
   至元三年
(1268年)八月 日    


 国書の最後に見える「兵を用いるようなことは、どうして好むだろうか」という文言は、服属拒否の場合の武力行使をほのめかした、脅しともとれる表現です。

 時の執権は北条政村(ほうじょうまさむら。1205~1273)でした。この難局にあたり政村は、連署北条時宗(ほうじょうときむね。1251~1284)に執権の地位を譲り、自らは連署となりました。幕府は返書を送らず、フビライの要求を断固拒否する態度を示しました。18歳の少壮気鋭の執権のもとに結束し、元軍の侵攻にあたることを決意したのです。


 ◆二度目の国書

  近年、日本にもたらされた二度目の「蒙古国牒状」(1269年)の内容が明らかになりました。江戸時代に編纂された外交文例集『異国出契(いこくしゅっけい)』(国立公文書館所蔵)の中に、国書の写しがあることがわかったのです。

 その内容は最初の国書(1268年)にくらべ、かなり過激な表現になっています。そこには「翌春までに『元に服属する』という返事をよこせ」とあり、もしも返事がなかった場合には、


  将
(まさ)に戦舸(せんか)萬艘(ばんそう)を出師(すいし。出兵する)し、王城を往圧せん。
  則
(すなわ)ち将に臍(ほぞ)を噛(か)むも及ぶ無きの悔(く)いあらん。
   
 (1万隻の艦隊を派遣して京都を制圧してくれよう。きっと後悔することになるぞ)


と書かれてありました。

【参考】
・『週間新発見!日本の歴史20・鎌倉時代3』2013年、朝日新聞出版、P.5~6

   直線上に配置


③ 蒙古襲来


 《 文永の役(1274) 》


 1274(文永11)年、元兵2万、高麗兵1万から成るモンゴル軍は、900隻の艦船(大船300隻、軽疾舟300隻、他は給水用小舟等300隻)に分乗して朝鮮半島南端の合浦(がっぽ。馬山浦)を出発(10月3日)し、対馬・壱岐を襲った後、北九州の博多湾に上陸しました(10月10日)。

 かねてより北九州で警戒していた幕府は、九州地方の御家人を動員して、モンゴル軍を迎撃しました。しかし、モンゴル軍の集団戦やすぐれた兵器に対し、一騎打ち戦を主とする日本軍は苦戦におちいりました。名乗りをあげて一騎打ちを挑む日本の武士を、モンゴル兵が集団で取り囲んで倒してしまうのです。また、日本の弓に比べ元軍のものは短弓でしたが、その矢は遠くまで飛び、鏃(やじり)には毒が塗ってありました。石火矢(いしびや)、投石器(とうせきき)、「てつはう」などの新兵器に日本軍は苦戦しました。「てつはう」は半球状の入れ物に火薬と鉄片を詰めたものを合わせて球体にし、点火し敵に投げつけました。破裂させると轟音とともに鉄片が飛び散るという火器だったようです。『蒙古襲来絵巻(竹崎季長絵詞)』には、「てつはう」が破裂して飛び散る場面が描かれています。

 モンゴル軍は日没とともに船に引き上げましたが、一夜明けるとその姿はどこにもありませんでした。10月20日の夜に大風雨があって、モンゴル軍の船の多くが沈没し、夜中のうちに撤退したのだ、と伝えられています。

 モンゴルの艦船があっけなく沈没したのは、高麗様式(竜骨という船内の骨組みを使用しない)という構造的に脆弱な船だったからだといわれています。嫌がる高麗人たちを動員して突貫工事で造らせたのですから、なおさらだったでしょう。ただしこの時、大風雨は起こらなかった、とする有力な意見があります。気象学的にいえば、旧暦10月20日は太陽暦の11月4日にあたりますから、台風の発生などは考えにくいというのです。

 なお、モンゴル軍が速やかに撤退したのは、今回の出兵の目的が偵察または脅しにあったからではないか、ともいわれています。

 最初の蒙古襲来を、文永の役といいます。


《 幕府の対応 》


 モンゴル軍が早々に撤退したことで、日本は危機を脱しました。しかし文永の役は、日本軍にとっては惨敗とも言うべき結果でした。モンゴルはその後も、わが国にたびたび降伏を勧める使者を送ってきました。しかし、幕府はその使者たちを次々と処刑し、徹底抗戦の姿勢を明らかにしました。

 モンゴルの再来に備えて、幕府は次のような臨戦体制をとりました。


(1)モンゴル軍の攻撃対象と想定される九州北部から中国・北陸地方にかけての地域(周防・
  長門・石見・伯耆・越前・能登など)の守護を北条氏一門と交替させました。

(2)九州北部の沿岸地域の警備を御家人に命じて強化しました。これを異国警固番役(いこく
 けいごばんやく)といいます。異国警固番役は、すでに文永の役以前からはじまっていたもの
 でした。

(3)従来不介入とされてきた公家・寺社支配下の荘園・公領にも力を及ぼし、幕府と主従関係
 を結んでいない非御家人をも、動員できる権限を得ました。

(4)博多湾沿いに筑前筥崎(はこざき)から今津(いまづ)にかけて約20kmに及ぶ防塁(石塁)を
 築きました。この防塁は当時「石築地(いしついじ)」とよばれました。防塁を築造する負担を
 「石築地役(いしついじやく)」といい、御家人ばかりでなく九州地方の所領所有者たちもこの
 負担を分担し、高さ約2mの防塁を延々とした構築したのです。この防塁は、弘安の役の際、
 モンゴル軍の博多上陸を阻止するのに威力を発揮しました。


 貴族や寺社は戦闘に参加しませんでしたが、挙国一致で未曾有の国難に対応しようとしました。筥崎宮には亀山天皇の宸筆(しんぴつ)になる「敵国降伏」の扁額が掲げられ、八幡神の神通力によって元軍を降参させようとしました。筥崎宮には、夜中八幡神が矢を放って海上のモンゴル軍を撃退したという伝承があります。また律宗の叡尊は、石清水八幡宮で敵国調伏の修法(ずほう)を行いました(1281年)。その効験によって、モンゴル再来襲(弘安の役)の折りに「神風」が吹いてモンゴル軍を壊滅させた、と当時の人々は信じました。まだ、神仏の力を信じる人々が多かった時代です。これをきっかけに、「日本は神々に守護された国」という神国思想がおこりました。


《 弘安の役(1281) 》


 文永の役後も、元は日本征服をあきらめませんでした。1279年に南宋を滅ぼした元は、1281(弘安4)年、ふたたび日本へ侵攻しました。この時には、前回の4倍以上もの大軍で日本に攻め寄せてきました。

 2度目の日本侵攻では、東路軍・江南軍二つに分かれた軍船が北九州を目指し、集結した上で一挙に攻め入ろうとする作戦でした。東路軍は元・高麗・華北の兵4万から成り、900隻の艦船に分乗しました。江南軍は降伏した江南兵10万から成る軍で、3,500隻の艦船に分乗しました。合わせると兵14万、艦船4,400隻にも及ぶ大軍勢でした。5月3日に朝鮮半島の合浦を出発した東路軍と、6月18日に中国の寧波を出発した江南軍は7月27日に肥前鷹島に集結し、九州北部にせまりました。

 しかし、再征軍は指揮官が途中で交替したり、海に慣れないモンゴル兵を長期間海上に停泊させるなど、内部の足並みに乱れがありました。一方日本軍は、文永の役の教訓を生かして防戦に努めました。

 日本側の奮戦により博多湾岸への上陸を阻止されている間、大型の台風に襲われてモンゴルの船団は大損害を受けました(閏7月1日)。艦船の大半が沈没し、多くの兵たちが溺死しました。海は溺死者と粉砕した艦船の破片でおおわれ、その上を歩くことができたと伝えられています。この時、無事に本国に帰ることができた異国の人々は、3万人に満たなかったともいわれています。

 2度目の蒙古襲来を、弘安の役といいます。


直線上に配置


④ モンゴルの襲来を撃退できた理由


  「なぜ蒙古襲来を日本軍が撃退できたのか」については、さまざまな理由を挙げることができるでしょう。たとえば、文永の役における苦戦の教訓を生かして、防塁構築などモンゴル再来に備えて入念な準備をしていたとか、大風雨という偶発的な自然現象に助けられたとか。しかし、もっとも大きな要因として、次の二つのことは挙げられるでしょう。

 一つには、日本軍の戦意の高かったこと。

 日本側の徹底抗戦の意志は固く、1276(建治元)年と1281(弘安4)年には、日本側から敵国へ攻め入る計画まで立てられました。この時幕府は、九州地方の武士たちに「異国征伐」への従軍可能兵員の調査を命じました。その報告書が何通か現存しています(「北山室(きたやまむろ。熊本県)地頭尼真阿請文(あましんあうけぶみ)」建治2年閏3月3日付け。石清水八幡宮蔵)。しかし、「異国征伐」は結局は実行に移されず、北九州から中国地方にかけて防戦体制の徹底がはかられたのでした。

 幕府の指揮のもと、おもに九州地方の武士たちが命がけで奮戦したのが、蒙古襲来を撃退できた大きな要因の一つでした。

 二つには、元に征服された高麗や旧南宋の人びとの抵抗があったこと。

 元に投降した南宋の人々から成る江南軍は、戦意があまり高くありませんでした。高麗の人々は30年余りモンゴル軍に抵抗したのちに服属しましたが、服属後も三別抄(さんべっしょう)の乱(高麗王朝のもとで、3隊に編成されていた特別編成の選抜部隊(別抄)を三別抄といいます。元の侵入に頑強に抵抗しましたが、1273年に平定されました)などさまざまな抵抗を続けました。また大越(ベトナム)の人びとの間にも元への抵抗の動きがおこりました。

 こうした中、元の日本遠征はその後も計画されたものの、結局はフビライの死によって断念させられることになったのです。


 ◆ムクリコクリ

  モンゴルが日本に侵攻した文永・弘安の役を総称して、蒙古襲来と呼びます。元寇(寇は賊とか暴という意味)という呼び方は後世のものです。

 当時の人々はモンゴル軍を「ムクリ・コクリ(モンゴル・高句麗(高麗)の転か)」と呼び、その恐ろしさを深く胸に刻みました。その恐怖の記憶から、ムクリコクリという名前の妖怪が生み出されたといいます。現在でも、泣きやまぬ子どもに対して「泣いてばかりいる悪い子のところには、ムクリコクリがやって来るぞ」と脅かす地方があるそうです。

 また、井伏鱒二は小説『黒い雨』の中で、放射能雨を降らせる不気味な雲のことを「ムクリコクリの雲」と表現しました。


直線上に配置


●蒙古襲来後の政治●



① 得宗の専制化

 

 弘安の役後も幕府も警戒態勢をゆるめず、九州地方の御家人を引き続き異国警固番役に動員しました。これは御家人たちにとって、大きな負担となりました。

 しかし、蒙古襲来を通じて幕府は、全国の荘園・公領の非御家人の武士まで動員できる権利を朝廷から獲得したので、従来幕府の力の及びにくかった西国一帯にまで、幕府の力を浸透させていく結果になりました。とくに博多に設置した鎮西探題(ちんぜいたんだい)には北条氏一門を送り込み、九州地方の政務・裁判をつかさどらせました。

 幕府の支配権が全国的に強化されていくと、幕府の中における北条氏の権力はさらに強化されていきました。その結果、北条氏の中でも家督をつぐ得宗(とくそう)の力がとりわけ強大となりました。得宗とは、北条氏嫡流の当主のことです。その名の由来は、2代執権北条義時が徳宗と号したことによるといわれます。

 蒙古襲来の際には非常事態に迅速に対応するため、北条時宗は私邸において御内人(みうちびと。得宗の家臣)・内管領(ないかんれい。御内人の代表)らによる寄合(よりあい)を開き、そこで政務を決裁しました。こうして得宗が主催する寄合が大きな力をもち、御家人の合議制(評定衆)はないがしろにされていきました。そのため、得宗が権力を増すにつれて、御内人(みうちびと)と外様(とざま)御家人との対立はますます激しくなっていきました。

 こうした中、蒙古襲来という未曾有の国難に対処した心労からか、北条時宗が34歳の若さで没してしまいました。弘安の役後3年のことです。その跡を継いだ時宗の子北条貞時(ほうじょうさだとき。1271~1311)は、この時わずか14歳の少年でした。


直線上に配置


② 得宗専制政治の確立-霜月騒動(1285)と平禅門の乱(1293)-


 貞時が若年だったため、幕府の実権は貞時の外祖父で、有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり。1231~1285)が握りました。泰盛は、蒙古襲来の戦後処理をはじめ、多くの課題に取り組みました。『蒙古襲来絵巻』の主人公竹崎季長(たけさきすえなが。1246~?)が、恩賞を獲得するためにはるばる肥後国(熊本県)から鎌倉までやってきて、交渉した相手が御恩奉行の安達泰盛でした。泰盛は季長を労(ねぎら)い、恩賞(肥後国海東郷の地頭職)と馬を与えて帰したのでした。

 御家人の信望も厚かった泰盛でしたが、執権の外戚としてその勢力が大きくなるにつれ、御内人の代表である内管領の平頼綱(たいらのよりつな。?~1293)と対立するようになりました。ついに1285(弘安8)年、泰盛の強大化を恐れた平頼綱によって、安達泰盛一族は滅ぼされてしまいました。この時、二階堂行景・足利満氏ら外様の有力御家人たちも一緒に滅ぼされました。これを事件の起こった11月(別名「霜月」)にちなんで、霜月騒動(しもつきそうどう)といいます。

 貞時の外祖父一族を滅ぼした平頼綱でしたが、「頼綱がわが子を将軍に就ける陰謀を企てている」という密告があり、成人した貞時によって滅ぼされてしまいました。頼綱の専制を貞時が嫌ったためでしょう。1293(永仁元)年に起こったこの事件を、平禅門(へいぜんもん)の乱といいます。

 頼綱の死後、幕府の実権は貞時が掌握し、得宗専制政治が確立しました。得宗の絶対的な勢威のもとで、御内人が幕政を主導しました。全国の守護の半分以上は北条氏一門が独占して、各地の地頭の職もまた多くは北条氏の手に帰しました。


直線上に配置


●社会の変動●



① 農村の変化

 

  蒙古襲来の前後から、農業の発展がみられました。たとえば、先進地域である畿内や西日本一帯では、米を表作、麦を裏作とする二毛作が普及していきました。しかし、1年に2回作物を栽培すると土地がやせてしまいます。地力の回復をはかるため、田畑には肥料がすき込まれました。山野から刈り取った草を腐らせて田畑にすき込む刈敷(かりしき)や、草木を焼いて灰にした草木灰(そうもくばい、そうもくかい)、家畜小屋の厩肥(きゅうひ)などがおもに使われました。

 鉄製農具が普及し、役畜の使用も広がりました。役畜には地域的な特色があり、東国では馬、西国では牛が利用されました。『松崎天神縁起絵巻』には、牛を利用して土地をすき起こす農作業の有様が描かれています。

 農民は副業として荏胡麻(えごま。灯油の原料)・桑(生糸をとるため蚕の餌にする)・楮(和紙の原料)などを栽培し、絹布や麻布などを織りました。また農村内には鍛冶・鋳物師(いもじ)・紺屋(こうや)などの手工業者も多く、彼らは各地を歩いて仕事をしたり、また商品を売りさばいたりしました。

 生産性の向上は農民に経済的余裕をもたらし、農民の中に名田を獲得して自立する者が現れました。また、余剰生産物は商人の手に渡って商品となり、商業の発達を促しました。


 直線上に配置


② 商業の発展


  都市や交通の要地・寺社の門前など、多くの人々が集まる場所には、物資を売買する定期市が開かれました。商品の量が増えてくると、月に3回開市される三斎市(さんさいいち。三斎市は当時「三度市(さんどいち)」とよばれました。三斎市の名称は、室町時代の月6回開市される六歳市から遡って付けられた名称です)がたつこともめずらしくなくなりました。

 一方地方では、市で米や地元産の商品などが売買されました。行商人が京都・奈良・鎌倉などの中心的都市から、織物や工芸品などの高級品や珍しい商品を運んでくることもありました。

 人口が集中する中心的都市には大勢の手工業者や商人が集まり、豊富な商品が生産・売買されました。物資の量が豊かになると、定期市のほかに常設の店舗も見られるようになりました。それらの店舗では買物客の目につくように、商品を棚に並べたてました。こうした小売店舗を見世棚(みせだな)といいます。

 商工業者たちは、同業者団体である座(ざ)を結成しました。彼らは天皇家・貴族・大寺院などを保護者とし、その権威に依存して原料の仕入れ・商品製造・商品販売等について特権を認められるようになりました。その見返りに、座は座役(ざやく)と称して自分たちが作った製品や扱う商品等を、本所(ほんじょ)と称した保護者たちに提供したのです。

 遠隔地を結ぶ商業取引も盛んになりました。物資が集散する各地の港や大河川沿いの交通の要地には、商品の保管・運送・委託販売などをする問丸(といまる。問とも)が発達しました。

 売買の手段としては、もっぱら宋銭(そうせん)が使用されるようになりました。米などの現物に比べると、貨幣は鼠に食われたり、雨に濡れて変質してしまうことがありません。保管や運ぶのにも、ずっと簡便でした。しかし1枚(1文)たった3.75gほどの貨幣も、1,000枚(1貫文)集まれば3.75kgもの重さになってしまいます。そこで遠隔地間の取引には、金銭・米などの輸送の不便や危険を避けるために、手形(これを「割符(さいふ)」といいました)で代用するようになりました。これを為替(かわし)といい、金銭を送る場合の替銭、米を送る場合の替米などがありました。また、貨幣流通の浸透は、借上(かしあげ)という高利貸業者を多く登場させることになりました。

 貨幣流通が活発化してくると、荘園の一部では年貢の銭納もおこってきました。荘官・地頭は徴収した年貢米を市に持ち込み、銭に代えて荘園領主のもとに送付しました。しかし農民が納める年貢は、従来通りの現物納が普通でした。


直線上に配置


③ 紀伊国阿氐河荘(あてがわのしょう)の百姓申状(1275)


  蒙古襲来の頃から、所領の分散化・武士の在地領主化を通じて、一族・一門の中から庶子の独立傾向が生じていました。庶子である武士の中には、地頭に任ぜられたり、地方の土地を獲得したりして、在地支配の強化をはかろうとしました。しかし、生産力の向上を背景として農民たちが力をつけるようになってくると、そうした地頭らの圧迫に対して抵抗する動きも活発になりました。農民たちは、一致団結して地頭の非法を荘園領主に訴えたり、土地を捨てて集団で逃亡したりするなどの手段を通じて、領主たちの圧迫に対抗するようになりました。

 たとえば、紀伊国阿氐河荘上村(きいのくにあてがわのしょうかみむら。現和歌山県有田郡有田川町)の百姓申状(ひゃくしょうもうしじょう。およそ13~16世紀頃に見られる荘園領主宛てに出された文書です。村の農民が集団の意志を表明して出したものなので「百姓申状」といいます)は1275(建治元)年10月28日、農民が地頭湯浅宗親(ゆあさむねちか)の非法13カ条を、荘園領主である円満井院門跡(えんまんいんもんぜき)・寂楽寺(じゃくらくじ)に訴えたものです。片仮名のたどたどしい文章で書かれたこの訴状の中で、農民たちは「命令を聞かなければ妻子の耳を切り、鼻を削(そ)ぎ、髪を切って尼にするぞ」という地頭の生々しい恫喝(どうかつ)の言葉を書き付け、その非道ぶりを際だたせています。

 こうした農民たちの抵抗の動きに対して、遠方にいる惣領や一族の者たちは何の頼りにもなりません。所領細分化による惣領・庶子の共倒れを防ぐために、次第に惣領による財産独り占め(単独相続)が行われるようになっていきますから、惣領の被官にならずに独立の道を選択した庶子の場合には、身内が頼りにならないことはなおさらです。そこで、庶子たちは近辺の武士たちと地縁的結合を強めていったのです。血縁的結合によって成り立っていた惣領制(それは鎌倉幕府の根幹でもありました)は、庶子の独立傾向・地縁的結合の重視といった面からも崩れ始めていました。


直線上に配置


●幕府の滅亡●



① 窮乏する御家人


 
 蒙古襲来は御家人たちに従軍・異国警固番役・石築地役等多くの犠牲を払わせましたが、幕府は十分な恩賞を与えることができませんでした。国内の合戦と異なり、新たな所領が得られなかったからです。奉公に対する御恩としての土地が得られなかったのですから、封建制度の基本的約束が果たされなかったことになります。この違約によって、幕府は御家人たちからの信頼を失う結果になりました。

 新しく土地が増える機会がない状況のもと、御家人たちの多くは分割相続のくり返しによって所領が細分化されたうえ、貨幣経済の発展にまき込まれて窮乏していきました。この動きにともなって、女性の相続分がまず削られました。女性に与えられる財産は少なくなり、本人一代限りの相続を認め死後は惣領に返却する一期分(いちごぶん)も多くなりました。兄弟の共倒れを防ぐために、すべて惣領に相続させる単独相続へと移行していきました。


直線上に配置


 永仁の徳政令(1297)


 御家人体制は鎌倉幕府の根幹でした。幕府は窮乏する御家人を救う必要がありました。そこで1297(永仁5)年、御家人所領に適用を限定した徳政令を発布しました。これを永仁の徳政令といいます。

 その内容は、以下のようなものでした。


 (1) 御家人所領の売却・質入れを禁止する。
 (2) 地頭・御家人に売却した土地で売却後20年未満の土地と、非御家人・一般庶民に
   売却した土地のすべてを、売り主の御家人のもとに無償で返却させる。


 永仁の徳政令によって「凡下の輩(ぼんげのともがら)」と呼ばれた一般庶民、特に金融業者の借上(かしあげ)が打撃を受けました。御家人に融通した資金は返ってこず、御家人から買った土地は取り上げられてしまうのですから、「凡下の輩」は御家人への金融を拒否するようになり、幕府に対して不信感や不満を持つようになっていきました。このため、徳政令は一時しのぎで、御家人もやがて生計を立てることに苦しむこととなりました。

 この徳政令には、(1)再審請求(越訴(こしそ))の禁止、(2)所領の質入れ・売買の禁止と売却地の取り戻し、(3)金銭訴訟の不受理、という3カ条の施行細則がついていました。御家人は土地を無償で取り戻すことはできたものの、裁判の機会を奪われ、土地も勝手に質入れ・売買ができなくなりました。御家人たちの反発が強かったため、翌1298(永仁6)年、幕府は土地の無償取り戻し条項だけを残して、他を廃止しました。

 結局のところ、永仁の徳政令は、社会的混乱と幕府の権威を低下をもたらしただけでした。


 ◆永仁の徳政令を出したきっかけは?

 永仁の徳政令発令のきっかけは、彗星(すいせい)の出現だったといわれます。

 中世、彗星の出現は、飢饉や戦乱などの凶兆と考えられました。科学的知識が乏しかった時代でしたから、そう考えたとしても無理はありません。では、そうした凶兆にはどう対応したらよいのでしょうか。当時の為政者たちは、験(げん)直しをはかるか徳政を行えばよいと考えました。

 1210(承元4)年に彗星が出現した際には、後鳥羽上皇は土御門天皇から順徳天皇へ譲位させることにより、災厄から逃れようとしました。永仁の徳政令は、1297(永仁5)年2月に長く尾をひく彗星が出現したため、幕府が災厄を避けるために出した、といわれています。

【参考】
・笠松宏至『徳政』1983年、岩波新書、P.191~P.192


直線上に配置


③ 悪党の活動


 中小御家人の多くが没落していく一方で、畿内・西国方面では、勢力を拡大する武士の姿が見られるようになりました。たとえば地頭や新興武士たちの中には、武力に訴えて荘園領主への年貢納入を拒否したり、土地を横領したりする者が現れました。甚だしい場合には、城を構えて石礫を打ったり、山から材木をころがしたりして敵を倒したり、数百人・数千人規模の集団で荘園内に押し入っては年貢米・牛馬等一切の財産を根こそぎ強奪するという非法行為を働く者も現れました。

 また「神風」によって蒙古襲来を撃退したという観念が広がっていくと、武士ばかりでなく敵国調伏を祈祷した寺社も、幕府に対して恩賞を要求するようになりました。しかし恩賞の土地がありません。そこで幕府は、従前の権利回復という形をとります。そのため、所有権を否定された領主は、寺社と訴訟に及ぶことになります。

 非法行為を繰り返したり、荘園領主・寺社とトラブルを起こしたりするこうした不満分子は、当時「悪党」と呼ばれました。彼らの動きはやがて各地に広がっていき、後に討幕運動に関わってくることになります。

 このような動揺をしずめるために、北条氏得宗の専制政治は強化されました。しかし、それはかえって御家人の不満を募らせる結果となりました。こうして、幕府の支配は危機を深めていったのです


直線上に配置


      
「(1274年)守護代の宗助国(そうすけくに)は部下をひきいて防戦した。しかし衆寡敵せず、対馬は蹂躙されてしまった。

 つづいて10月14日、壱岐がおそわれた。夕刻、2艘から400人ばかりのものが上陸し、赤旗を立てて攻めてきた。守護代平景高(たいらのかげたか)は100余騎をひきいて防戦した。しかし多勢の敵におされ、ついに城内に退却し、自害して果てた。

 対馬と壱岐が攻略されたとき、百姓の男は、あるいは殺され、あるいは捕えられた。また女は駆り集められて、手に穴をあけて綱を通して船に結びつけられ、あるいは生けどりにされ、助かるものは無かった、と伝えられている。( 中略 )

 (10月20日)敵のねらいは日本軍の本拠たる太宰府の占領にあった。そのために当面の目標を博多の攻撃にむけた。( 中略 ) 戦闘は早朝から日没までつづいた。各地で激戦が展開された。両軍の死傷者はおびただしい数に上った。その間に、博多・箱崎の町は戦火に焼けた。筥崎宮(はこざきぐう)も焼けおちた。

 敵軍はついに博多・箱崎を攻略した。日本軍は太宰府で陣容を再建するために、東南さして退却した。」
 
(旗田巍(はただたかし)『元寇』1965年、中公新書、P.112~114)