23.武士の社会    

 夜に入って鶴岡八幡宮に対する奉幣が終わり、実朝は神前の石段を下って、つき従う公卿が整列して立っている前を会釈しながら、下襲(したがさね)の裾を引きずり、笏(しゃく。文武官が束帯を着用した時に手に持つ長さ30センチくらいの板)を持って通り過ぎていきかけた。その時実朝に、修行のいでたちで兜巾(ときん。山伏がかぶっている頭巾)というものをつけた法師が走りかかり、下襲の裾の上にのって、一の刀で首を斬り、倒れた実朝の首を打ち落としてしまったのである。  ( 中略 ) 

 鳥居の外にいた数万の武士は事件を知らなかったのである。この実朝を討った法師(公暁)は、鶴岡八幡宮の別当となっていた頼家の子であったが、日ごろ思いつづけていたとおりにこの日に念願を達したのである。一の刀を振り下ろす時、「親のかたきをこうして討ってやるぞ」といったが、公卿どもはみなそれをはっきり聞いた。公暁はこのようなことをしてから、一の郎等と思われる義村三浦左衛門という者のもとへ、「おれはこうして親のかたきを討った。今やわれこそは大将軍であるぞ。そこへ行くであろう」といってきたので、義村はこのことを義時に伝え、まもなく公暁が一人で、実朝の首を持っていたのであろうか、大雪が降り積もっている中を岡や山を越えて、義村のもとへやってくる道に人をつかわして討ち取ってしまった。公暁はすぐには討たれず、切りちらし切りちらし逃げて、義村の家の板塀のもとまで来て、板塀をのり越えて入ろうとするところで討ちとられたのである。  ( 中略 ) 

 実朝の首は岡の雪の中から探し出された。公暁は日ごろ若宮と呼びならわしていた鶴岡若宮の社のあたりに房をつくって住んでいたが、義時はそこへ攻め寄せ、公暁と共謀して事を行なった者どもをみな討ち取ってしまい、僧坊を焼き払ったのであった。
 
(大隅和雄『愚管抄を読む』1986年、平凡社、P.36〜38)



●北条氏の台頭●



@ 将軍独裁から合議制へ



  九条兼実(くじょうかねざね。1149〜1207)は源頼朝(1149〜1199)を「威勢厳粛(いせいげんしゅく)、其性強烈(そのせいきょうれつ)、成敗分明(せいばいぶんめい)、理非断決(りひだんけつ)」(『玉葉』寿永2年10月9日条)と評しています。こうした評価は、頼朝が「清和源氏の棟梁」という貴種と名声の上にあぐらをかいていたのではなく、御家人たちを心服させるだけの威厳・個性・公明公正さ・決断力等を兼ね備えていたすぐれた指導者だったことを示しています。

 鎌倉幕府は、頼朝という強烈な個性をもった将軍による独裁体制によって運営されていたわけですが、1199年に突然死去します。原因は落馬という、武士の棟梁にはおよそ似つかわしくない死に様でした。こうして、幕府草創の英雄は53歳でその生を終えたのでした。

 頼朝が亡くなると、大江広元(おおえのひろもと。1148〜1225)・三善康信(みよしのやすのぶ。1140〜1221)らの頼朝側近と、北条時政(1138〜1215)・梶原景時(?〜1220)ら有力御家人からなる13名の合議制で政治がおこなわれました。これは、頼朝の後継者となる頼家(1182〜1204)が当時18歳とまだ若かったためもあります。頼家は、3年後(1202年)、2代将軍に就任しますが、頼朝ほどのカリスマ性も統率力もありませんでした。頼朝とともに幕府草創に尽力してきた御家人たちの目には、お気に入りの側近たちの意見にばかり耳を傾けるこの若い将軍の政治手法は、非常に危ういものと映りました。


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A 執権政治 − 北条時政から北条義時へ −


 頼朝が亡くなった後、御家人たちの間には、御家人中心の政治を求める動きが強まりました。この動きは、有力御家人の間に主導権争いとなって、御家人同士の争いを引き起こしました。その結果、梶原景時(1200年。梶原景時の乱)はじめ、多くの御家人が排除されていきました。そうした中で着実に勢力をのばしてきたのが、北条時政(ほうじょうときまさ)でした。

 北条氏はもともと伊豆の小土豪に過ぎませんでした。しかし、源頼朝の挙兵が成功すると、頼朝の妻政子(まさこ。1157〜1225)の実家という関係から権力に急接近します。

 ただ、そうした立場は北条氏ばかりではありませんでした。2代将軍頼家の妻の実家である比企氏(ひきし)が、将軍の外戚という立場を利用して台頭してきました。放置しておけば、比企氏腹の将軍が出現し、権力は北条氏から比企氏方へ移ってしまうに違いありません。

 1203(建仁3)年、時政は比企能員(ひきよしかず。?〜1203)を謀殺し、比企氏一族を滅ぼしました。頼家は伊豆修禅寺に幽閉され、弟の実朝(さねとも。1192〜1219)が3代将軍に立てられると、翌1204(元久元)年に頼家は暗殺されました。23歳でした。時政は政所別当に就任し、幕府の実権をにぎりました。

 次いで1205年、時政は、幕府草創の功臣の一人畠山重忠(はたけやましげただ。1164〜1205)を滅ぼしました。重忠は、頼家の遺児を担ぐ陰謀の嫌疑をかけられ、武蔵二俣川(ふたまたがわ)で戦死しました。ただし、重忠の冤罪は明らかでした。同年時政は、後妻牧の方(まきし)と計画した女婿(じょせい。娘の婿)平賀朝雅(ひらがともまさ)の将軍擁立の陰謀が露見(牧氏の乱、1205)して、伊豆に引退させられてしまいました。

 時政失脚後、執権(しっけん)とよばれたその地位は、子の北条義時(ほうじょうよしとき。1163〜1224)が継承しました。さらに義時は、1213年に侍所の別当だった和田義盛(わだよしもり。1147〜1213)を滅ぼして(和田合戦)、政所・侍所双方の別当を兼任することになりました。幕府の主要三機関のうち二つの実権を握り、執権の地位を強固なものとしたのです。

 これ以降、執権は北条氏の一族のあいだで、世襲されるようになっていきました。


◆鎌倉時代に「北条政子」はいなかった?

 源頼朝の妻は、「北条政子」ではありませんでした。頼朝の妻にして、頼家・実朝の母親である女性は、夫の頼朝や父親の北条時政からさえ、「北条政子」の名前で呼ばれたことは一度もありません。

 そもそも「○子」という名前は、位を有している特別な女性のみが名乗ることを許されたものです。「政子」という名前がつけられたのは、1218(建保6)年、従三位(じゅさんみ)を朝廷から授与されるに際して、位記(いき。位階を授ける時に作成する公文書)などの文書に名前を記す必要があったからでした。しかも、その名前でさえ父時政の一字を便宜的につけものに過ぎません。

 すでに出家していた彼女は「尼御台所(あまみだいどころ)」と呼ばれていました。少なくとも19年前に死んだ夫頼朝や15年前に死んだ息子頼家、3年前に死んだ父時政から「政子」と呼ばれたことはなかったはずです。

 次に、北条を冠した「北条政子」という名前ですが、高橋秀樹氏によると、少なくとも大正時代までは「政子」「平政子」と記す書物はあっても、「北条政子」と記した書物は見あたらないといいます。なぜ、頼朝の妻が「北条政子」と呼ばれるようになったのかは不明ですが、「北条政子」の名前が一般化したのは昭和になってからのことだというのです。


【参考】
・高橋秀樹『日本史リブレット20・中世の家と性』2004年、山川出版社、P.1〜5
 
  
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●承久の乱●



@ 実朝暗殺


  鎌倉幕府の成立と勢力拡大と状況に直面した京都の朝廷では、後鳥羽上皇(1180〜1239)を中心に、朝廷勢力の立て直しが図られました。後鳥羽上皇は、朝廷の伝統的権威と広大な皇室領荘園群という経済基盤を背景に、後鳥羽院政(1198〜1221)を強化しました。そして、新たに西面の武士(さいめんのぶし)をおいて軍事力の増強をはかるなど、幕府との対決姿勢を強めていきました。

 こうした中、1219(建保7、承久元)年1月、3代将軍実朝が暗殺されるという事件が起こりました。石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)における右大臣拝賀の式で、実朝が神前を退出して石段を下っていた時のことです。突如、兜巾(ときん。山伏のかぶる頭巾)をかぶった法師が太刀を振りかざして現れ、実朝に襲いかかるや、その首を打ち落としてしまったのです。この時、実朝28歳。

 犯人は、頼家の遺児公暁(こうぎょう)でした。『愚管抄』によると、「親のかたきはこうして討ってやるぞ」という公暁の声を、多くの人々が聞いた、とあります。公暁にしてみれば、実朝も、父親の頼家や母親の比企氏一族を滅ぼした憎き北条氏一族の一人ということになるのでしょう。

 公暁は「おれはこうして親のかたきを討った。今やわれこそは大将軍であるぞ」といって意気揚々でしたが、間もなく三浦義村や北条義時らによって、暗殺者の一党ことごとくが討ち取られてしまいました。

 3代にわたった源家将軍は、実朝暗殺によって、わずか27年間で絶えてしまったのです。


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A 不安定になる朝幕関係


  実朝の死後、朝幕関係は次第にギクシャクしたものとなっていきました。

 後鳥羽上皇は、1219年閏2月、実朝の死を弔う使者を鎌倉に派遣する一方、上皇の寵姫伊賀局(いがのつぼね。白拍子の亀菊)の所領である摂津国長江・倉橋(ながえ・くらはし)両荘(現在の大阪府豊中市)の地頭の罷免を要求しました。しかし、当時の長江荘の地頭は北条義時でした。幕府側はこれを断固拒否しました。このできごとが、承久の乱の発火点になったと言われています。

 これに対し、幕府側は源氏将軍の後継として、後鳥羽上皇の皇子雅成(まさなり)親王を皇族将軍として招きたいという交渉をしました。しかし今度は、後鳥羽上皇の拒否にあい、幕府の要求は退けられました。

 やむを得ず幕府は、皇族将軍のプランをあきらめ、頼朝の遠縁にあたる九条道家の子三寅(みとら。九条頼経(くじょうよりつね)、藤原頼経。1218〜1256)を鎌倉に迎えました。三寅はこの時、わずか2歳の幼児。承久の乱後の1226年、正式に将軍宣下をうけて4代将軍に就任しますが、それでも9歳の少年でした。頼経が形ばかりの将軍だったことは明らかでしょう。将軍の実務は、故頼朝夫人の政子が代行したとされています。

 摂関家出身の将軍は、4代頼経・5代頼嗣(よりつぐ。 1239〜1256)と2代続きました。これを藤原将軍または摂家将軍(せっけしょうぐん)とよびます。


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B 承久の乱(1221年)


  有力御家人の度重なる滅亡や3代将軍暗殺という混乱の中で、幕府は後継将軍をなかなか見つけることができずに右往左往していました。

 こうした幕府内の有様を見て、討幕の絶好の機会が到来した、と後鳥羽上皇は判断しました。この機に、北条義時追討院宣をひとたび発すれば、北条氏の勢力強化に不満を持つ御家人・非御家人の武士たちが、ウンカのごとく上皇の伝統的権威のもとに参集するに違いない。そう考えた後鳥羽上皇は、畿内以西の武士や大寺院の僧兵、北条氏に反発する東国武士の一部等を味方につける工作をしました。そして、1221(承久3)年5月14日、「流鏑馬揃え(やぶさめぞろえ)」を口実に諸国の兵を集めました。上皇の呼びかけに応じ、まずは1700余の武士が集まりました。

 そして1221(承久3)年5月15日、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発して、ついに討幕の兵を挙げたのです。

 院宣が発せられると、鎌倉幕府内では、御家人たちの間で上皇方につくか、幕府方にとどまるか、動揺が生じました。しかし「尼将軍」政子による説得で、御家人たちの動揺は収拾されました。政子は次のように言ったとされています(『承久記』では政子自らが御家人の前で演説したとありますが、『吾妻鏡』では政子は御簾(みす)の中にいて、安達景盛(あだちかげもり)が政子の声明文を代読したことになっています)。


 皆心を一にして奉
(たてまつ)るべし。是れ最後の詞(ことば)なり。故右大将軍(源頼朝のこと)朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云い、俸禄と云い、その恩既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ。深い海)よりも深し。報謝の志浅からんや。しかるに今逆臣の讒(そしり)に依りて非義(理不尽。道理に合わない)の綸旨(りんじ。ここでは後鳥羽上皇の院宣)を下さる。名を惜しむ族(やから)は、早く秀康(ひでやす。藤原秀康は上皇方の武士)・胤義(たねよし。三浦胤義は上皇方の武士)等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全(まっと)うすべし。但し、院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。(『吾妻鏡』承久3年5月19日条)


 三代将軍の御恩の深さを再認識した御家人たちは感涙にむせび、「命を軽んじて恩に報い」ようと、一致団結して上皇軍と戦おうと誓ったのです。

 鎌倉武士団の分裂を期待した後鳥羽上皇の思惑は裏切られました。政子の呼びかけによって、御家人たちの多くは幕府に踏みとどまり、北条氏のもとに結集したのでした。

 幕府内には慎重論もありましたが、大江広元の意見によって、京都進軍が決定しました。院宣が発せられた7日後の5月22日、幕府軍は鎌倉を出発し、西に向かって移動を開始しました。

 幕府軍は三隊に編成されていました。東海道からは北条義時の子泰時(やすとき。1183〜1242)と弟時房(ときふさ。1175〜1240)に率いられた主力部隊が10万、東山道からは武田信光ら5万、北陸道からは北条朝時ら4万、総勢19万の兵力が京へと向かいました。

 これに対し、上皇側に集まった兵力は1万7千余。上皇側の劣勢は、火を見るより明らかでした。

 怒濤の勢いで進む幕府軍は、6月5日に美濃・尾張の国境である尾張川(木曽川)を突破し(尾張川の戦い)、14日には上皇軍を潰走させ(宇治・勢多の戦い)、翌15日に入京を果たしました。後鳥羽上皇が院宣を発してからわずか1カ月で、承久の乱は幕府方の圧倒的勝利という形で決着したのでした。


《 三上皇配流 》


 後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇(1197〜1242)は佐渡へ、それぞれ流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇(つちみかどじょうこう。1195〜1231)は自ら望んで土佐(のち阿波)へと移りました。仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう。後鳥羽上皇の孫にあたります。1218〜1234)は廃され、代わって後堀河天皇(ごほりかわてんのう。後鳥羽上皇の兄、後高倉上皇の子です。1212〜1234)が即位しました
(注)

 幕府による三上皇配流と皇位継承への介入という現実は、この乱を機に公武の二元支配の勢力状況がくずれ、幕府が優位に立ったことをまざまざと世の中に見せつける結果となりました。

 これ以降、幕府は、皇位の継承や朝廷の政治にも干渉するようになりました。


(注)仲恭天皇(1218〜1234。在位1221)は、討幕計画に加わる父(順徳天皇)から譲位され、わずか4歳で即位。即位の礼も行われないまま78日間在位(歴代天皇中最短の在位期間)し、上皇方の敗北によってその地位を追われました。廃位後は母方の実家九条邸で余生を送り、17歳で夭逝。摂家将軍九条頼経(藤原頼経は従兄弟(いとこ)にあたります。 「九条廃帝(くじょうはいてい)」と呼ばれ、仲恭天皇として天皇の代数に加えられたのは明治時代になってからです。


《 乱後の処理 》



 幕府は、京を守護するとともに朝廷を監視し、西国(尾張以西。のちに三河以西)の庶政をも司らせるために、京都に新たに六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置しました。当初は北方(北殿)に北条泰時、南方(南殿)に北条時房を任命しました。

 また、後鳥羽上皇方に加担した公家・武士らの所領を没収しました。その数は、3000余カ所にのぼったとされます。それぞれの土地には、戦功のあった御家人を新たな地頭として設置しました。これを新補地頭(しんぽじとう)といいます。

 新補地頭を置く際に、これまで給与が少なかった土地には、新補率法(しんぽりっぽう)という新たな給与基準によって、その給与を保障しました。

 新補率法によると、


  (ア)11町につき1町の土地を免田とする(11町のうち10町は領家(荘園領主)分だが、
     1町は地頭分として給付する、という意味です)
  (イ)田地1段ごとに5升の加徴米(かちょうまい)を給付
  (ウ)山野河海からの収益の半分を付与


などが、新補地頭の得分として定められていました。

 この結果、畿内や西国の荘園・公領にも、幕府の力が広く及ぶようになりました。


 文字が読めたのは、たったの0.02%?
 
 武家政権として成立した鎌倉幕府。しかし、頼朝は、侍所別当に和田義盛を任命したものの、公文所・問注所両長官には鎌倉武士ではなく、貴族出身の大江広元や三善康信を登用しました。それは、当時の武士の教養が低くて、自分の名前すら書けない者たちがいたからでした。 そんな説明を補強するのによく引用されるのが、次のエピソードです。

 承久の乱で、鎌倉軍に敗れた上皇方が、降伏の院宣を出しました。ところが、鎌倉武士たちの中に院宣を読める者がいません。そこで、その場にいた鎌倉武士5,000人の中から読解できる者を探し求めたところ、藤田三郎(能国、よしくに)という御家人だけが院宣を読解できたというのです。

 つまり、鎌倉武士の識字率はたったの0.02%ということになります。インターネット上で引用されている史料文を検索してみると、なるほど、院宣を読み得た者は「五千」人のうちわずかに一人だけ、となっています。ところが、手元にあった岩波文庫版『吾妻鏡』を開いてみると、こちらでは数字が違っていました。「五千」ではなく「五十」となっていたのです。


(承久3年6月15日)國宗(くにむね)院宣を捧(ささ)げ、樋口河原に於(おい)て、武州(ぶしゅう。武蔵守(むさしのかみ)で北条泰時のこと)に相逢(あいあ)ひて子細を述ぶ、武州院宣を拜(はい)す可(べ)しと稱(しょう)して、馬より下(お)り訖(おわ)んぬ、共(とも)の勇士、五十餘輩(ごじゅうよはい)有り、此中(このなか)に院宣を讀(よ)む可きの者候(そうろう)かの由(よし)、岡村(異本では「崎」)次郎兵衛尉(じろうひょうえのじょう)を以(もっ)て相尋(あいたず)ねるの處(ところ)、勅使(ちょくし)河原小三郎云(いわく)、武藏國(むさしのくに)の住人藤田三郎は、文博士の者なりと、之(これ)を召し出す、藤田院宣を讀む。(龍肅訳注『吾妻鏡(四)』1941年、岩波文庫、P.205)


 
「五千」と「五十」。コピー機がなく、文書を手書きでコピーしていた時代ですから、こうした相違も珍しくはありません。しかし、どちらの数字が真実に近いのでしょうか。「50余人に1人が院宣を読めた(識字率2%)」と、「5千人に1人しか院宣が読めなかった(識字率0.02%)」では、鎌倉武士に対する印象がまるで違ってきますから。


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●執権政治●



@ 北条泰時の政治
−連署・評定衆の任命、『御成敗式目』の制定−

 
 承久の乱後の幕府は、3代執権北条泰時の指導のもとに発展の時期をむかえました。

 泰時は1222年、叔父の北条時房を、執権の補佐役としました。当初、泰時と時房は「両執権」と呼ばれましたが、下文(くだしぶみ)など書く際に「執権が署名した隣に署名する」ということで、時房の職名を「連署(れんしょ)」と呼ぶようになります。

 泰時は、有力御家人や政務に優れた能力を持つ者たち11人を評定衆(ひょうじょうしゅう)に選んで、執権・連署とともに政務の処理や裁判にあたらせました。評定衆ら13名による合議制によって、幕府の最終決定がなされたのです。

 また1232(貞永元)年には、最初の体系的な武家法である『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』を制定しました。


《 御成敗式目(貞永式目) 》


 『御成敗式目』とは、「成敗(裁判)ための式目(式は法式、目は条目)」という意味です。貞永元年に制定した武家法なので、『貞永式目』とも言い慣わしています。

 当初幕府は成文法を持たず、武士の実践道徳である「道理」や源頼朝以来の先例に基づいて裁判を行っていました。しかし、承久の乱後、御家人と荘園領主・農民等との間で紛争が絶えず、紛争を公平に裁くための基準を明確にする必要性が高まっていました。『御成敗式目』は全文51カ条から成りますが、そのうち1/3が所領に関する規定なのは、法典制定の動機の一つが、所領紛争の解決にあったことを示しています。

 51カ条という条数については、当時流行していた聖徳太子信仰の影響によるものと言われています。「法の初めは憲法十七条」という考え方があり、これを天地人の三才に配し、3倍して51カ条にしたと言われています。条文は「一、○○の事(ひとつ、○○のこと)」という見出しのあとに、細かな内容を記しています。こうした文書の書き方を、「一つ書き(ひとつがき)」とか「事書き(ことがき)」と言います。

 有名な条文には、次のようなものがあります。


一、諸国守護人奉行の事
  右、右大将家
(源頼朝)の御時定め置かるる所は、大番催促・謀叛・殺害人 付(つけ)たり夜討・強盗・山賊・海賊 等の事なり。

一、諸国地頭、年貢所当を抑留せしむる事
 右、年貢を抑留するの由、本所
(荘園領主)の訴訟有らば、即ち結解(けちげ。決算)を遂げ勘定を請くべし(監査を受けよ)

一、御下文
(幕府の出した本領安堵等の下文)を帯ぶると雖(いえど)も知行(支配)せしめず、年序(相当期間の年数)を経る所領の事
 右、当知行の後、廿
(20)ケ年を過ぐれば、大将家の例に任せて理非を論ぜず改替に能(あた)はず。

一、女人養子の事
 右、法意の如くば
(律令の規定に従えば)これを許さずと雖も、大将家御時以来当世に至るまで、其の子無きの女人等、所領を養子に譲り与ふる事、不易の法(変わらない法)勝計すべからず(数え切れない)。 


 内容としては、守護の職務(大犯三カ条)や地頭の不法行為の禁止、女性でも養子をとって所領を譲渡できること(律令では認められていませんが、武家社会では当たり前のことでした)などが重要です。式目第8条(上記の「一、御下文を帯ぶると雖も知行せしめず…」の条文)にある「20年間実質支配した土地は、自分のものになる」という考え方は、現在も民法第162条(所有権の取得時効)「20年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する」)と基本的な考え方は同じです。少なくとも、この点に関してのみ言えば、『御成敗式目』は約800年間も命脈を保っている法律だと言えるでしょう。

 『御成敗式目』は幕府の勢力範囲のみを対象としていました。鎌倉幕府と主従関係を結んでいない非御家人の武士たちや、貴族などの人々は対象外でした。ですから、北条泰時が六波羅探題として在京中の弟重時(しげとき。当時は六波羅探題として在京中でした)に宛てた消息(しょうそく。手紙のこと)には、


 これ
(『御成敗式目』の制定)によりて、京都の御沙汰、律令のおきて、聊(いささか)もあらたまるべきにあらず候也。(1232(貞永元)年9月11日付)


とはっきり書いてあります。貴族社会では相変わらず、律令の系統を引く公家法(くげほう)や、荘園領主のもとでの本所法(ほんじょほう)が効力を持っていたのです。

 しかし、幕府の勢力が伸長するにつれ、公平な裁判の基準としての『御成敗式目』の影響力は、幕府の支配領域を越えて広がっていきました。その結果、所領紛争の裁定を、貴族たちも鎌倉幕府の裁定に委ねるようになっていきました。

 その後、時代や状況の変化など、必要に応じて式目を改廃補訂する個別の法令が発布されました(『御成敗式目追加』、『貞応弘安式目(じょうおうこうあんしきもく)』など)。それらは『式目追加』と総称されました。室町幕府の法令も、「建武(けんむ)年間以後の式目追加」という意味で『建武以来追加』とよばれました。室町幕府のもとでも『御成敗式目』が、武家の基本法典としての生命を持ち続けていたのです。


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A 北条時頼の政治−廻国伝説と引付の設置、皇族将軍の実現−


 5代執権の北条時頼(ほうじょうときより。1227〜1263)は、下情に通じた名執権として知られます。そのため、時頼には、諸国をめぐって下情を視察していたとする廻国伝説が生まれ、鎌倉時代から室町時代にかけて流布しました。この時頼の廻国伝説をもとにした作られた謡曲(室町時代に作られた能の台本)が、「鉢木(はちのき)」です。そのあらすじは、次のようなものです。

 ある雪深い夜、佐野(現在の栃木県佐野市)に住む佐野常世(さのつねよ)の家に、一夜の宿を乞う僧の姿がありました。貧しい常世は、秘蔵の鉢木を打ち割って薪とし、精一杯旅僧をもてなしたのでした。常世は、一族に所領を横領されてかように落ちぶれてはいるものの、鎌倉に一大事があれば「いざ鎌倉」と真っ先に駆けつける心意気があることを話します。ほどなく、鎌倉から御家人たちに動員令がかかります。馳せ参じた御家人の中には、あの佐野常世がいました。常世はそこで、あの夜の旅僧が、前執権北条時頼であることを知ります。時頼は常世の忠義を誉め、囲炉裏にくべた鉢木に因む土地(加賀国梅田荘・越中国桜井荘・上野国松井田荘)を恩賞として与えたのでした。

 こうした話が創作されるというからには、時頼がよほど有能だったからに違いありません。時頼の業績として特筆すべきは、皇族将軍の実現と引付(ひきつけ)の設置です。

 時頼が執権に就任した直後の1246(寛元4)年、前将軍藤原頼経の側近だった名越光時(なごえみつとき)が、頼経を奉じて反北条氏の蜂起を企てました。時頼は、その鎮圧をはかるとともに反北条氏勢力を一掃し、頼経を京都に強制送還し、幼い頼嗣(よりつぐ)を将軍としました。この事件を「名越光時の乱」、または「宮騒動(みやそうどう)」といいます。この事件の結果、時頼の執権の地位は確固たるものとなりました。

 時頼は、この宮騒動に一族の者が加担していたとして有力御家人の三浦氏を挑発しました。そして1247(宝治元)年、安達氏と協力して三浦泰村(みうらやすむら。?〜1247)一族を滅ぼしてしまいました。これを「宝治合戦(ほうじがっせん)」といいます。この結果、北条氏に対抗する御家人勢力が排除され、北条氏の地位は不動のものとなりました。

 時頼は、朝廷との関係も強化しました。時頼は朝廷に政治の刷新と制度の改革を求めました。これを受けて後嵯峨上皇(ごさがじょうこう。1220〜1272)は、幕府にならい、評定衆をおきました。

 また、1252(建長4)年には、将軍の藤原頼嗣を京都に送還し、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王(むねたかしんのう)を新たな将軍としました。これが皇族(親王、宮)将軍のはじめとなり、以後皇族将軍は幕府滅亡まで4代続くことになります。ただ藤原将軍同様、皇族将軍も「将軍」とはいっても名ばかりで、実権がなかったことは言うまでもありません。

 こうして、執権政治は時頼のもとで一層強化されるとともに、北条氏による独裁色が次第に濃厚になっていきました。

 北条氏による独裁傾向に対しては、いずれは御家人たちから不満や反発が出ることになるでしょう。これを避けるため、時頼は、京都大番役の期間短縮(6カ月を3カ月に短縮)などの御家人融和策を実施しました。裁判の迅速かつ公平をはかるために設置した引付も、そうした融和政策の一環と見なすことができます。

 引付は、評定(評定衆の会議)の下部機関として、所領訴訟を専門に担当しました。設置当初は3番編成で、評定衆のなかからそれぞれ頭人(とうにん)が選ばれ、そのもとに数名の引付衆を配置しました。引付衆が作成した判決原案は評定に送られて、そこで裁決されました。
 

 ◆藤原将軍・皇族将軍はすべて少年

 将軍の就任年齢を見ると、46歳で就任した源頼朝以外はすべて少年でした。頼朝の死から3年後に就任した2代将軍(18歳)や、その失脚によって将軍となった弟(3代将軍、12歳)の就任年齢が若いのはともかく、4代目以降の将軍もすべて少年が就任しているのです。そして、成人すると新しい将軍と交替させています。

 ちなみに、歴代将軍の在職年齢は、次のようになっています。 
 

  将軍名   生没年  在職年  在職年齢
初代
2代
3代
源頼朝
源頼家
源実朝 
1147〜1199年
1182〜1204年
1192〜1219年
1192〜1199年
1202〜1203年
1203〜1219年
 46〜53歳
18〜19歳
12〜28歳
4代
5代
九条頼経(よりつね)
九条頼嗣(よりつぐ)
1218〜1256年
1239〜1256年 
1226〜1244年
1244〜1252年
  9〜27歳
6〜14歳
6代
7代
8代
9代
宗尊(むねたか)親王
惟康(これやす)親王
久明(ひさあきら)親王
守邦(もりくに)親王
1242〜1274年
1264〜1326年
1276〜1328年
1301〜1333年 
1252〜1266年
1266〜1289年
1289〜1308年
1308〜1333年
11〜25歳
5〜26歳
14〜33歳
7〜32歳 


 4代目以降の鎌倉殿(将軍)は、京都生まれの藤原氏(九条頼経、九条頼嗣)や皇族の子どもたちでした。前者を摂家(藤原)将軍、後者を皇族(宮)将軍とよびます。

 貴種で政治能力のない人物を選定したのは、将軍が形式に過ぎなかったからです。政治が理解できる年齢になると、飾り物の将軍であることに不満を持ったり、反北条氏勢力に利用されてしまう恐れがあります。事実、4代将軍の九条頼経は政治権力の伸長をはかろうとして北条氏と対立し、政治的混乱を引き起こしています(宮騒動、1246年)。

 ですから、ある程度の年齢に達するとさっさと将軍を辞めさせ、京都に送還してしまいました。そして、また少年の将軍を就任させたのです。


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●武士の生活●



@ 武士のすまい


 
 このころまでの武士は開発領主の系譜を引き、先祖伝来の地(本領)に住み着いて、所領を拡大してきました。平時は農業経営や武芸訓練に勤しみ、戦時は一族を率いて戦闘に参加しました。

 彼らは、河川の近くの微高地を選んで館をかまえ、周囲には堀・溝や塀をめぐらして住んでいました。各地に、(たち、たて)とか堀内(ほりうち、ほりのうち)・土居(どい)などという地名が残っていますが、こうした地名は、中世武士の防御的な居所に由来する場合が多いようです。

 『一遍上人絵伝』に描かれた筑前国の武士の館は、中世武士の館のたたずまいを示した一例です。周囲を堀で囲み、入り口には櫓を組んで、不審者を見張るとともに攻撃するための弓矢と盾を用意しています。竹が密集しているのは、弓や矢を作るためでしょうか。板敷きの厩舎では馬が大切に飼われ、その側には馬を守り神と信じられた猿が紐で繋がれています。鷹狩り用の鷹や、狩猟用の犬の姿も見えます。武士達は地面に直接座り込んでいます。領主の住む館は板葺き・板張りの簡素な建物です。昔の日本史教科書では、この建物を「武家造(ぶけづくり)」と称していたのですが、現在は「武家の館は寝殿造を簡素化した建物」と見なされるようになったため、「武家造」という言い方はしなくなりました。

 このように武士の館は、防御設備などを設けた一種の城砦(じょうさい)であり、また武芸訓練の場でもありました。それと同時に、農業経営の中核としての機能をも合わせ持っていました。

 館の周辺部には、年貢・公事などのかからない直営地を設けました。直営地は、(つくだ)・門田(かどた)・前田(まえだ)・正作(しょうさく)・用作(ようさく)などとよばれました。地方によっては、現在も地名として残っているところもあります。直営地の経営には、自らの配下にある下人・所従や領内の農民をあてました。

 武士みずからは地頭として、荘園の管理・治安維持等に当たり、農民からは年貢等を徴収して国衙や領家(荘園領主)に送付し、1段につき5升の加徴米などを収入として得ていました。


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A 惣領制(そうりょうせい)


 武士は、一族の強い血縁的統制のもとに、宗家(本家)を首長とあおぎ、分家はその命令に従いました。この宗家と分家との集団を、一門とか一家といいます。宗家の首長は惣領(そうりょう。または家督(かとく))、分家を庶子(しょし)とよびました。

 惣領は一門の代表として、平時には先祖の祭や一門の氏神の祭祀を司り、戦時には指揮官となって一門を率いて戦いました。鎌倉幕府への軍役も、惣領が責任者となって庶子たちに割り当て、一括して奉仕しました。こうした仕組みを、惣領制といいます。

 惣領制のもとでは、所領は一族の子弟たちの間で分け与えられました。これを分割相続といいます。当時の女性の地位は比較的高く、女性も相続の際には男性と同じく財産分配にあずかりました。時には、女性で御家人や地頭になることもありました。たとえば小山朝光(おやまともみつ)の母(小山政光の妻。寒河尼(さむかわのあま)と呼ばれました)は、下野国寒河郡と網戸(あじと)郷(どちらも栃木県小山市)の地頭に任命されています。

 ただ、当時は嫁入婚(よめいりこん)が一般的だったので、女性が財産を相続すると、婚姻によって他家にそれが移動してしまうことになります。そこで、他家に嫁いだ女性の財産権をその女性が生存している間だけ認め、亡くなると実家に返還させるようになりました。これを、一期分(いちごぶん)と称します。

 こうした工夫にもかかわらず、新たな所領が獲得されなければ、分割相続の繰り返しによって、所領が細分化されてしまうのは致し方のないことでした。『平政連諫草(たいらのまさつらかんそう)』(北条貞時への意見書。1308年)には、次のように述べられています。


 諸御家人の所領分限の事。昔は過半は千町に劣らざるか。今千町の分限は十余人に過ぎざるをや。十分にして九は四・五十町か、其れ以下二・三十町、十・二十町ばかり也。
(昔は、御家人の大半が、千町以上の所領を持っていた。しかし現在、千町もの所領を有する御家人は10人余りに過ぎない。御家人の9割方は40〜50町か、それ以下の20〜30町、10〜20町ばかりだ。)


 こうした所領の細分化は、後家人たちは窮乏につながっていきました。


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B 武芸訓練


 武士の生活は質素でした。当時の武士の質素な生活ぶりを示す逸話は、数多く伝わっています。頼朝が筑後権守俊兼(ちくごのごんのかみとしかね)の華美な衣装の袖を刀で切り取って贅沢を戒めたとか、執権北条時頼が大仏宣時(おさらぎのぶとき)と酒を飲むのに味噌を肴(さかな)にした話などが有名です。

 武士たちは、自らの地位を守るためにも武芸を身につけることを重視し、常に訓練を怠りませんでした。そうした訓練に、流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)の騎射三物(きしゃみつもの)や、巻狩(まきがり)があります。

 そして、ひとたび合戦があれば、色彩が派手で華やかな鎧・甲冑を身にまとい、戦場に身を投じました。派手な出立(いでた)ちは、戦いの活躍を味方にアピールするためです。箙(えびら)に入れた矢には、1本1本自分の名前が書き込まれていました。敵を倒したのが自分であるとの証拠にするためです。相互に自分の名前を名乗りあってから戦い、証人を立てて戦ったのもすべて恩賞を得ることが目的でした。

 彼らの日常生活のなかから生まれた道徳は、「武家のならい」「(つわもの)の道」「弓馬(きゅうば)の道」などとよばれ、後世の武士道の起源となりました。


≪ 騎射三物(きしゃみつもの) ≫


 笠懸(かさがけ)は、笠を懸けて的にしたものを馬上から射る弓技です。のちには笠でなく、皮に藁をつめた的を使用するようになりました。

 流鏑馬(やぶさめ)は現在でも、神社の神事として行われることがあります。疏(さぐり。馬場)の両脇に埒(らち。柵)を設けた走路に、方形の板的を数間おきに3つ立て、疾駆する馬上から鏑矢(かぶらや)で次々と的を射抜く弓技です。矢継ぎ早(やつぎばや。矢をつがえて射ることの繰り返しの速さ)の技を競いました。

 犬追物(いぬおうもの)は、馬場に放った犬を追いかけて射る武芸です。動く目標を追いかけながら射ることを追物射(おものい)といい、犬を追物射するので犬追物と称します。犬を傷つけないように、矢には鏃(やじり)はついていません。代わりに、矢を射ると空中でブーンと音を立てる響目(ひきめ。蟇目、引目)を付けた響目矢(ひきめや)を使用しました。


≪ 巻 狩(まきがり) ≫


 猪・鹿などが生息する広大な狩場を多人数で囲み、獲物を仕とめる大規模な狩猟を巻狩(まきがり)といいます。軍事訓練とともに遊興を兼ねました。1193(建久3)年に源頼朝が行った富士の裾野で行った「富士の巻狩」が有名です。
 

 ◆『男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろうえことば)』に見る鎌倉武士の暮らしぶり

 『男衾三郎絵詞』という説話絵巻があります。フィクションにつきものの誇張はありますが、この絵巻に登場する男衾三郎は典型的な鎌倉武士として描かれています。その姿を次に紹介しましょう。

 三郎は次のように言う。「武士の家は立派に造る必要はない。庭草は取るな、非常時の秣(まぐさ)にするのだ。庭の隅(すみ)には生首を絶やすな。門外を通りかかる乞食や修行者らは追物射(おいものい)にして、蟇目鏑(ひきめかぶら)で背後から射かけよ。武家に生まれた以上、武芸に精励すべきだ。この家に暮らすほどの者どもは、女・童女に至るまで、習うことなら好み励めよ。荒馬を手なづけて進退自由に乗り回し、大矢・強弓を愛せよ」と。
 
 また「武士が美女を娶(めと)るのは短命の相」というので、「関東八カ国の中でずば抜けた醜女(しこめ)を我が妻に」と願って、久目田(くめだ)の四郎の娘と夫婦になった。その夫人の身の丈は7尺(2.1m)余り(注:当時の「大馬」の体高でさえ1.5m)。髪はちぢみあがって元結(もとゆい)の際(きわ)で渦(うず)を巻いている(注:直毛で長い髪が美人の要件とされた)。顔で見られるのものといったら、いかつい鼻ぐらい。口はへの字で、言葉が特別ハキハキしてわけでもない。それでも男3人、女2人の子どもが生まれた。

【参考】
 ・吉田精一他監修『説話絵巻(太陽・古典と絵巻シリーズU)』1979年、平凡社、P.141〜142


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C 武士の土地支配


 武士たちは、在地における支配権拡大の機会を常にうかがっていました。そのため、荘園領主との間で、年貢の徴収や境界等をめぐって紛争をおこすことが多くなりました。特に承久の乱後、多くの東国武士たちが西国地方の新補地頭に任命されるようになると
(注)、現地の支配権をめぐって紛争はますます頻発するようになりました。

(注)新たに西国に所領を得て、東国から移住した御家人を西遷御家人(せいせんごけにん)といいます。


 荘園領主には地頭の罷免権がありませんでしたから、地頭の年貢未納などを幕府に訴えるしか方法がありませんでした。そのため、荘園領主たちから膨大な訴訟が、鎌倉に持ち込まれました。幕府が、貞永式目を制定したり引付を設置したりして公正な裁判制度の確立に努めたのも、こうして増大する訴訟事務に対応するためでした。

 しかし、問注所や引付に持ち込まれる訴訟件数が増大していった結果、判決の遅延が著しくなりました。鎌倉までの移動や煩瑣な裁判事務(三問三答といって、三回ずつ質問・陳弁を繰り返しました)に費やす労力・費用などは、思いのほか膨大でした。そこで、紛争を解決するために、荘園領主たちはやむを得ず、次のような二つの方法を取ることにしました。

 一つは、地頭請所(じとううけしょ)という方法です。荘園領主と地頭間で契約をし、地頭に荘園の管理を一任する代わりに、一定の年貢納入だけを請け負わせました。

 もう一つは、下地中分(したじちゅうぶん)という方法です。現地の土地の相当部分を地頭に分け与え、荘園領主・地頭で領主権の相互不可侵を約しました。幕府もまた、当事者間で示談(これを和与(わよ)といいます)を勧めたので、荘園などの現地の支配権は次第に地頭の手に移っていきました。


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