●北条氏の台頭● |
◆鎌倉時代に「北条政子」はいなかった? 源頼朝の妻は、「北条政子」ではありませんでした。頼朝の妻にして、頼家・実朝の母親である女性は、夫の頼朝や父親の北条時政からさえ、「北条政子」の名前で呼ばれたことは一度もありません。 そもそも「○子」という名前は、位を有している特別な女性のみが名乗ることを許されたものです。「政子」という名前がつけられたのは、1218(建保6)年、従三位(じゅさんみ)を朝廷から授与されるに際して、位記(いき。位階を授ける時に作成する公文書)などの文書に名前を記す必要があったからでした。しかも、その名前でさえ父時政の一字を便宜的につけものに過ぎません。 すでに出家していた彼女は「尼御台所(あまみだいどころ)」と呼ばれていました。少なくとも19年前に死んだ夫頼朝や15年前に死んだ息子頼家、3年前に死んだ父時政から「政子」と呼ばれたことはなかったはずです。 次に、北条を冠した「北条政子」という名前ですが、高橋秀樹氏によると、少なくとも大正時代までは「政子」「平政子」と記す書物はあっても、「北条政子」と記した書物は見あたらないといいます。なぜ、頼朝の妻が「北条政子」と呼ばれるようになったのかは不明ですが、「北条政子」の名前が一般化したのは昭和になってからのことだというのです。 【参考】 ・高橋秀樹『日本史リブレット20・中世の家と性』2004年、山川出版社、P.1〜5 |
●承久の乱● |
◆文字が読めたのは、たったの0.02%? 武家政権として成立した鎌倉幕府。しかし、頼朝は、侍所別当に和田義盛を任命したものの、公文所・問注所両長官には鎌倉武士ではなく、貴族出身の大江広元や三善康信を登用しました。それは、当時の武士の教養が低くて、自分の名前すら書けない者たちがいたからでした。 そんな説明を補強するのによく引用されるのが、次のエピソードです。 承久の乱で、鎌倉軍に敗れた上皇方が、降伏の院宣を出しました。ところが、鎌倉武士たちの中に院宣を読める者がいません。そこで、その場にいた鎌倉武士5,000人の中から読解できる者を探し求めたところ、藤田三郎(能国、よしくに)という御家人だけが院宣を読解できたというのです。 つまり、鎌倉武士の識字率はたったの0.02%ということになります。インターネット上で引用されている史料文を検索してみると、なるほど、院宣を読み得た者は「五千」人のうちわずかに一人だけ、となっています。ところが、手元にあった岩波文庫版『吾妻鏡』を開いてみると、こちらでは数字が違っていました。「五千」ではなく「五十」となっていたのです。 (承久3年6月15日)國宗(くにむね)院宣を捧(ささ)げ、樋口河原に於(おい)て、武州(ぶしゅう。武蔵守(むさしのかみ)で北条泰時のこと)に相逢(あいあ)ひて子細を述ぶ、武州院宣を拜(はい)す可(べ)しと稱(しょう)して、馬より下(お)り訖(おわ)んぬ、共(とも)の勇士、五十餘輩(ごじゅうよはい)有り、此中(このなか)に院宣を讀(よ)む可きの者候(そうろう)かの由(よし)、岡村(異本では「崎」)次郎兵衛尉(じろうひょうえのじょう)を以(もっ)て相尋(あいたず)ねるの處(ところ)、勅使(ちょくし)河原小三郎云(いわく)、武藏國(むさしのくに)の住人藤田三郎は、文博士の者なりと、之(これ)を召し出す、藤田院宣を讀む。(龍肅訳注『吾妻鏡(四)』1941年、岩波文庫、P.205) 「五千」と「五十」。コピー機がなく、文書を手書きでコピーしていた時代ですから、こうした相違も珍しくはありません。しかし、どちらの数字が真実に近いのでしょうか。「50余人に1人が院宣を読めた(識字率2%)」と、「5千人に1人しか院宣が読めなかった(識字率0.02%)」では、鎌倉武士に対する印象がまるで違ってきますから。 |
●執権政治● |
◆藤原将軍・皇族将軍はすべて少年 将軍の就任年齢を見ると、46歳で就任した源頼朝以外はすべて少年でした。頼朝の死から3年後に就任した2代将軍(18歳)や、その失脚によって将軍となった弟(3代将軍、12歳)の就任年齢が若いのはともかく、4代目以降の将軍もすべて少年が就任しているのです。そして、成人すると新しい将軍と交替させています。 ちなみに、歴代将軍の在職年齢は、次のようになっています。
4代目以降の鎌倉殿(将軍)は、京都生まれの藤原氏(九条頼経、九条頼嗣)や皇族の子どもたちでした。前者を摂家(藤原)将軍、後者を皇族(宮)将軍とよびます。 貴種で政治能力のない人物を選定したのは、将軍が形式に過ぎなかったからです。政治が理解できる年齢になると、飾り物の将軍であることに不満を持ったり、反北条氏勢力に利用されてしまう恐れがあります。事実、4代将軍の九条頼経は政治権力の伸長をはかろうとして北条氏と対立し、政治的混乱を引き起こしています(宮騒動、1246年)。 ですから、ある程度の年齢に達するとさっさと将軍を辞めさせ、京都に送還してしまいました。そして、また少年の将軍を就任させたのです。 |
●武士の生活● |
◆『男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろうえことば)』に見る鎌倉武士の暮らしぶり 『男衾三郎絵詞』という説話絵巻があります。フィクションにつきものの誇張はありますが、この絵巻に登場する男衾三郎は典型的な鎌倉武士として描かれています。その姿を次に紹介しましょう。 三郎は次のように言う。「武士の家は立派に造る必要はない。庭草は取るな、非常時の秣(まぐさ)にするのだ。庭の隅(すみ)には生首を絶やすな。門外を通りかかる乞食や修行者らは追物射(おいものい)にして、蟇目鏑(ひきめかぶら)で背後から射かけよ。武家に生まれた以上、武芸に精励すべきだ。この家に暮らすほどの者どもは、女・童女に至るまで、習うことなら好み励めよ。荒馬を手なづけて進退自由に乗り回し、大矢・強弓を愛せよ」と。 また「武士が美女を娶(めと)るのは短命の相」というので、「関東八カ国の中でずば抜けた醜女(しこめ)を我が妻に」と願って、久目田(くめだ)の四郎の娘と夫婦になった。その夫人の身の丈は7尺(2.1m)余り(注:当時の「大馬」の体高でさえ1.5m)。髪はちぢみあがって元結(もとゆい)の際(きわ)で渦(うず)を巻いている(注:直毛で長い髪が美人の要件とされた)。顔で見られるのものといったら、いかつい鼻ぐらい。口はへの字で、言葉が特別ハキハキしてわけでもない。それでも男3人、女2人の子どもが生まれた。 【参考】 ・吉田精一他監修『説話絵巻(太陽・古典と絵巻シリーズU)』1979年、平凡社、P.141〜142 |