19.荘園と武士

「高層ビルの林立する東京のビジネス街大手町の中心地、1丁目1番地1号の主はだれかと問えば、いずれ大手の銀行か不動産会社だろうという答えがかえってきそうだが、じつは今を去ること一千年前の人物なのである。 ( 中略 )

 明治時代、ここは大蔵省の裏門から玄関に至る道路の左手にあたり、大きな池の端に古い碑があったという。天慶3年(940)、平貞盛らの軍勢に敗れた将門の首が、遺臣たちによってこの場所に葬られたのである。その後、将門の霊は神田明神にまつられたが、首塚に怨念はのこった。当時大蔵省は木造の二階建であったが、改築をしようとするたびごとに落雷や火災に見舞われ、関東大震災直後の仮庁舎には病人が続出し、大臣をはじめ14人の高官がつぎつぎに死亡した。まるで平安時代の怨霊さわぎである。

 この仮庁舎は落雷で全焼、戦後は大蔵省も嫌気がさしたか、いまの霞ヶ関に移転してしまった。首塚にはマッカーサーもおそれをなして近寄らず、ようやく政府が国税局を含む合同庁舎を建てたときも、建築現場で大きな陥没事故があり、隣接の銀行でも首塚に背を向けて仕事をしていた部長が病気になり、部員一同あわてて机の向きを変えるということがあった。 ( 中略 )

 いま、この首塚は東京都の旧跡となり、有力企業が保存会をつくって、毎年9月にものものしい慰霊祭を行っている。大蔵省も、なにしろ付近に東京国税局があるので、国家予算で供養をしている。ことほど左様な次第で、今後革命でもない限り、いや革命でもあればなおのこと、大手町1丁目1番地1号の主は、平安中期の逆臣平将門であることに変りはないのである。」

(紀田順一郎『日本の書物』1979年、新潮文庫、P.62〜63)


●国司の地方支配●



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 「延喜・天暦の治」の実態



 
醍醐・村上両天皇による親政が行われた10世紀は、後世、貴族たちによって理想的な時代と見なされ、「延喜・天暦の治」とたたえられました。しかし、この時代は、律令体制の衰退が誰の目にも明らかになった時代でもあり、政府の改革によってもそれを押しとどめることはできませんでした。

 たとえば、政府は 902(延喜2)年に、延喜の荘園整理令を出して違法な荘園を整理しようとしました。同年にはまた、班田を励行して律令制再建に努めました。しかし、律令政府が行う班田は、これを最後に二度と実施されることはありませんでした。

 律令制の衰退は、914(延喜14)年に三善清行(みよしのきよゆき。847〜918)が醍醐天皇に提出した「意見封事(いけんふうじ)十二箇条」からもうかがえます。この史料によると、白村江の戦い(663年)の頃に2万人の勝兵(すぐれた兵士)を召集できた邇摩郷(にまごう。現在の岡山県)には、1人の課丁(納税負担者)も存在しなくなっていたと書かれています。2万人の兵士を出したということは、この地方に正丁(成人男子)が少なくとも6万人前後はいたことになります。それが、250年後に0になってしまったというのです。こうした極端な事態は非常に考えにくいことです。他の地域でも、男子の数を極端に少なく計上している戸籍・計帳が存在しますから、調・庸を負担する男子の数を少なくした虚偽の報告をしたのでしょう
(注)

 籍帳制度がこのように形骸化していましたから、班田収授を実施することはもはや不可能でした。したがって、成人男子(正丁)を主な徴税対象として、彼らから調・庸等を取り立てるという従来の徴税方法では、国家財政を維持することはできなくなっていたのです。


(注)たとえば、902(延喜2)年の阿波国田上郷の戸籍を見ると、5戸435人の内訳が男59人、女 376人となってい ます。男子はわずか13.6%しかいないことになっているのです。


 ◆延喜・天暦期の実相

 鎌倉時代の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』の中に、次のような話があります。

 村上天皇が紫宸殿(ししんでん)に出御されたおり、南面の階段辺りに諸司で雑用に使われていた年寄がいたのでお召しになって、「世間では現在の政治をどのように評価しているか」とお尋ねになられました。「すばらしいとの評価です」という言葉に継いで、その者が「ただし、主殿寮(とのもりょう。役所の名)では松明(たいまつ)を入れ、率分堂(そつぶんどう)には草が生い茂っております」と奏上したところ、天皇はたいへん恥じ入ったというのです。

 「松明を入れる」というのは、たいした儀式でもないのに、儀式が夜までかかっているということを意味します。また、「率分堂に草が生い茂っている」というのは、諸国からの調庸が納入されていないということを意味します。

 中央財源が窮乏する中、村上天皇は952(天暦6)年、重要な用途にあてる財源を確保するために、調庸のうち1割(のち2割)を別納させることにしました(これを正蔵率分(しょうぞうりつぶん)といいます)。この税物を収納する建物が率分堂(率分所)です。特別に設置された率分堂さえ、税物が納入されずにその周囲は草ぼうぼうという有様。財源窮乏の深刻さは、推して知るべしでしょう。


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A 課税対象が人から土地に代わる


 
従来の徴税方法の原則がくずれていくと、公田に課す地税中心の支配体制が成立していきます。土地なら、人間のように逃げてしまうことがありませんから。こうして、課税対象が個人から土地へシフトしていきました。

 課税対象となった土地は、(みょう)という徴税単位に分けられました。そして、それぞれの名の徴税請負人は、負名(ふみょう)とよばれました。こうした土地支配の仕組みを「負名体制」とよびます
(注)。 
 負名となった人々は「富豪の輩(ともがら)」と呼ばれた裕福な農民や、国内の人民を従えた国司や官人等の有力者たちでした。

 負名は農業経営者の側面から田堵(たと)と呼ばれ、1年契約で土地を請け負いました。堵というのは耕作地にめぐらす垣根のことで、田地を区画して経営する人を田堵といったのです。彼らの経営規模はまちまちでした。数十町規模の大経営をおこなう田堵は大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれ、数町程度の小経営をおこなう田堵は小名田堵(しょうみょうたと)と呼ばれました。
 田堵は、かつての租・調・庸・公出挙利稲・雑徭などの額に相当する負担を、官物(かんもつ。年貢)や臨時雑役(りんじぞうやく。公事・夫役)の名目で国衙に納入しました。


(注)負名体制によって支えられていたこの時期は、律令的中央集権体制が大幅に後退した時期でもありました。こうした状況を、律令国家から中世国家への過渡期と見なして、当時の国家体制を「王朝国家」と呼ぶことがあります。該当する時期については、10世紀初頭を始まりとし、その下限を11世紀半ば(院政の開始)までとする説と、12世紀末(鎌倉幕府の成立)までとする説の二説があります。


 ◆大名田堵の農業経営

 11世紀に成立した『新猿楽記(しんさるがくき)』(藤原明衡著)の中には、都で猿楽見物する右衛門尉(うえもんのじょう)一族に託して、様々な職業が列挙されています。その中に、大名田堵の農業経営の有様が描かれています。

 大名田堵の名は、右衛門尉の三女の夫で「出羽権介(ごんのすけ)田中豊益(とよます)」。「出羽権介」というのですから、出羽国の国司という設定です。豊益は数町の土地をもつ地主であり、広大な土地の徴税を請け負う大名田堵でした。自力で農具や種子などを準備し、水利施設を整備して、中小農民を支配下に組み込んで使役していました。

 田堵を、現在の小規模経営の農民と同じようにイメージしては、その実態の理解を誤る可能性があります。

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B 徴税請負人となった国司、衰える郡家


 従来は、中央政府の監督のもとで国司が行政を担当し、租税の徴収・運搬などの実務はその土地の有力者であった郡司が担当してきました。しかし、国庫収入の確保という喫緊の課題に直面した政府は、一国の統治を国司に丸投げし、一定額の租税納入を国司の最重要任務としました。こうして国司は、徴税請負人と化したのです。

 政府のこうした方針転換によって、国司の地方政治に果たす役割が大きくなると、国衙(こくが。国司の政庁)の重要性が、従来より増していきました。その一方で、それまで地方支配を直接担当してきた郡家(ぐうけ。郡衙(ぐんが))は、国衙にその役割を奪われ、次第に衰退していったのです。



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C 強欲な受領たち
− 藤原元命(もとなが)と藤原陳忠(のぶただ)


 
現地に赴任する国司の最上席者(ふつうは守)は、受領(ずりょう)とよばれるようになりました(注)。任期を終えて都に帰った受領は、公卿たちによって在任中の勤務成績を審査されました(これを「受領功過定(ずりょうこうかさだめ)といいます)。租税を間違いなく国庫に納入した受領は勧賞の対象になり、加階や給官の栄に浴しました。

 受領の中には、租税を確保したり、私服を肥やしたりするために、地方在任中にかなり強引な徴税手段に訴える者がいました。そのため、任国の農民たちから、その苛政をしばしば訴えられました。諸国の百姓たちが中央政府に上訴した19例が、現在知られています。しかし、訴状の内容まで詳細にわかるのは「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくせいらのげぶみ)のみです。

 「尾張国郡司百姓等解文」は、尾張国の受領だった藤原元命(ふじわらのもとなが)の解任を、988(永延2)年に、尾張国の郡司や百姓らが中央政府に訴えたものです。31箇条にもわたる悪政の内容が列挙されていますが、その大半がさまざまな口実による不法な収奪でした。さすがに朝廷も、この訴えを無視できなかったのでしょう。翌989(永祚元)年、陣定(じんのさだめ)を開いて審議し、元命の尾張守を解任しています。

 また、『今昔物語集』には、信濃守だった藤原陳忠(のぶただ)に関する話が伝えられています。国司の任果てて都に帰る途中、三坂峠で、馬があしを踏み外し、陳忠は馬もろとも谷底に落ちて
しまいました。奇跡的に助かった陳忠は、そうしたさし迫った状況であっても、周囲に生えていた平茸を手当たり次第採っていたというのです。「受領は倒るるところに土をもつかめ(受領は転んでもただでは起きない)」という言葉とともに、受領の強欲さを示すエピソードの一つとして知られています。


(注)受領とは本来、新任者が前任者から事務引き継ぎをしたことを意味した言葉です。前任者からすれば、  これを分付(ぶんぷ、ぶんづけ)といいました。受領の多くは国の守(かみ)でしたが、親王任国(しんのうにんごく)とされた上総・上野・常陸三国では介(すけ)、大宰府では帥(そち)か大弐(だいに)でした。なお、受領以外の介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)などの国司を任用(にんよう。任用国司)といいます。


 ◆息子は強欲、父は怨霊

 強欲な受領の例として、高校日本史の教科書に名を載せる藤原陳忠。しかし、世が世なら摂関にのぼりつめていたかも知れない人物でした。

 陳忠の父は元方(もとかた)といい、その娘(陳忠の妹)は村上天皇の更衣となって、第一皇子の守平(もりひら)親王を生んでいました。もし守平親王が天皇になっていれば、陳忠も天皇の外伯父として、政界の頂点にのぼりつめる可能性があったのです。

 しかし、実際にはそうはなりませんでした。右大臣藤原師輔(もろすけ)の娘が生んだ皇子が天皇になったからです(冷泉(れいぜい)天皇)。

 失意の元方は死後怨霊となり、以後師輔ら一族を悩ます存在となりました。

【参考】
・佐々木恵介『受領と地方社会』2004年、山川出版社(日本史リブレット)、P.1〜2による


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D 利権視される国司の地位


 
政府が財政難に陥っていたこの頃、売位売官の風潮が盛んになってきました。私財を投じて朝廷の儀式や寺社の造営などを請け負い、その代償として官職に任じてもらうのです。これを成功(じょうごう)といいます。成功によって、官職に再任してもらう場合は、重任(ちょうにん)といいました。

 国司という官職は一種の利権とみなされ、成功や重任で任じられることが多くなりました。なかには任国に赴任せず、国司としての収入のみを受け取る遙任(ようにん)もおこなわれるようになりました。

 国司の遥任にともない、国司が任国に赴任しなくなると、代わりに国司の私的な代理人である目代(もくだい)を任国に派遣するようになりました。目代というのは、国司の四等官である「目(さかん)の代わり」の意味です。目代には、事務能力に長けた官人が任命されました。

 国衙には留守所(るすどころ)が置かれ、目代が管轄しました。留守所では、地方豪族の中で実務能力に長けた人物を役人に任命して、行政事務をおこなうようになりました。この役人を在庁官人(ざいちょうかんじん)といい、その地位は世襲されていきました。



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●荘園の発達●



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 初期荘園
(墾田地系荘園)


 743年に出された墾田永年私財法をきっかけに、貴族や寺社がみずから開墾したり、買収したりして、荘園とよばれる私有地が成立しました。荘園(荘)というのは、本来、開墾者が現地に設置した倉庫・別宅などの建物と、その周辺の開墾地とをあわせたものをよぶ言葉でした。こうして8〜9世紀に成立した荘園を、初期荘園といいます。

 初期荘園は、律令国家の地方支配機構である国郡制に依存して経営されていたため、律令国家の衰退とともに、その多くが10世紀までに衰退していきました。

 なお、開発によって成立した荘園を墾田地系荘園と一括(ひとくく)りにし、さらに自ら開墾した場合を自墾地系荘園(じこんちけいしょうえん)、買収・兼併により成立した場合には既墾地系荘園(きこんちけいしょうえん)と区別することがあります。


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A 寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)の登場


 10世紀後半、各地で有力者がさかんに開発をおこなうようになりました。

 11世紀になると、彼らは開発領主(かいはつりょうしゅ、かいほつりょうしゅ)とよばれて一定の地域を支配するまでになっていきました。彼らの多くは在庁官人となって国衙の行政に進出しました。なかには所領にかかる税負担を免れようとして、土地を権門勢家(中央の権力者)に寄進し、権力者を領主とあおぐ荘園があらわれました。

 寄進を受けた荘園の領主は領家(りょうけ)とよばれました。この荘園がさらに上級の貴族や有力な皇族に重ねて寄進された時、上級の領主は本家(ほんけ)とよばれました。なお、領家・本家のうち、実質的な支配権を持つものを本所(ほんじょ)といいます。

 荘園を寄進した開発領主は、下司(げし)や公文(くもん)などの現地の荘官(しょうかん)となり、土地の私的支配をさらに推進しました。

 こうした荘園は寄進地系荘園とよばれます。11世紀半ばから各地に広がり、12世紀には一般的に見られるようになりました。また畿内およびその周辺では、農民が有力寺社に寄進して成立した小規模の寺社領荘園が数多く生まれました。


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B 不輸(ふゆ)・不入(ふにゅう)の権の拡大


 荘園の中には、皇族や貴族・有力寺社の権威を背景にして、政府から租税免除(不輸)の特権を承認してもらうものが次第に増加していきました。のちには国司によって不輸の特権を認められた荘園も登場しました。中央政府から太政官符・民部省符によって不輸を認められた荘園を官省符荘(かんしょうふしょう)とよび、国司から国司在任中に限り国司免判によって不輸を認められた荘園を国免荘(こくめんのしょう)とよびます。

 やがて、荘園領主の権威を利用して、検田使(けんでんし。国内の耕作状況を調査し、税額を定めるために国司が派遣した役人)など国司の使者の立ち入りを認めない不入の特権を得る荘園も増えていきました。不輸・不入の権を獲得することによって国家権力を排除した荘園の中では、荘園領主による土地・人民の私的支配がますます強まっていきました。

 公領が減少し、荘園が増加するという情勢に直面した国司は、国務の妨げとなる荘園を整理しようとして、荘園領主と激しく対立するようになりました。


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●地方の反乱と武士の成長●



@ 武士の成長



  9世紀末から10世紀にかけて地方政治が大きく変化していくなかで、地方豪族や有力農民は、勢力を維持・拡大するために弓矢や刀をもち馬に乗るなど武装するようになりました。こうして、各地で紛争が発生するようになりました。

 その鎮圧のために政府は、押領使(おうりょうし)や追捕使(ついぶし)を任命して各地に派遣しました。押領使・追捕使というのは、ともに盗賊の追捕や内乱の鎮圧のために派遣されるものです。いずれも令外官で、はじめは臨時に任命されていましたが、承平・天慶の乱後は諸国に常置されるようになりました
(注)

 押領使・追捕使に任じられた中・下級貴族(軍事貴族)のなかには、そのまま在庁官人などになって現地に残り、有力な武士となるものがあらわれました。武士とは、もともとは朝廷に武芸をもって仕える武官をさした言葉です。

 武士はまた(つわもの)ともよばれました。彼らは、武芸を家業とする「兵の家」を形成し、家子(いえのこ)などの一族(一族の首長である惣領の分家・庶子)や郎党(郎等・郎従)などの従者を率いました。彼らは相互に闘争をくり返し、時には国司に反抗することもありました。

 やがてこれらの地方武士たちは、次第に一つにまとまり、大きな連合体をつくるようになりました。特に辺境の地方では、国司の任期が終了した後も都に帰らず、そのまま任地に残った土着受領の子孫などを棟梁(とうりょう)とあおぎ、彼らを中心として大きな武士団を形成するようになりました。土着受領は、都では中・下級貴族に過ぎませんでした。しかし、地方の人びとの目から見れば、地位や名声を兼ね備えたそれこそ高貴な都人、すなわち貴種だったのです。


(注)押領使は、当初は兵員移送を行う臨時官でしたが、9世紀後半以降、諸国に置かれて治安を乱す凶賊等追捕にあたるようになりました。追捕使は、当初は山陽道など各道対象に置かれた臨時官で、凶賊等の追捕にあたりましたが、後にはこれも諸国に常置されるようになりました。


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A 
天慶(てんぎょう)の乱(939〜941)


《 平将門の乱(939〜940) 》



 武士団の成長が著しかったのは、良馬を産した東国(関東地方)でした。彼らはその機動力を駆使して、お互いの勢力を競いあっていました。

 この地に、いちはやく根をおろした武士団が、桓武平氏でした。桓武平氏は、桓武天皇の曾孫の高望王(たかもちおう。?〜?)が平姓を賜ることによって始まりました。

 桓武平氏の一人、平将門(たいらのまさかど。?〜940)は、下総を根拠地にして一族と争いをくり返していました。そして、所領争いに果てに叔父の平国香(たいらのくにか。?〜935)を殺害し、また常陸国司と対立していた藤原玄明(ふじわらのはるあき。?〜?)をかくまって、939(天慶2)年に反乱をおこしました。これを平将門の乱(939〜940)といいます。将門は常陸・下野・上野の国府を攻め落とし、東国の大半を占領しました。そして「新皇(新たな天皇)」と自称し、下総の猿島(さしま)を内裏としたのです。

 将門は、国香の子平貞盛(たいらのさだもり。?〜?)や下野の豪族藤原秀郷(ふじわらのひでさと。?〜?)らによって討たれました。貞盛の子孫が、のちに平氏政権をつくりあげる平清盛です。また、その武勇をうたわれた秀郷は、室町時代の御伽草子の中で、巨大なムカデを退治した英雄「俵藤太(たわらのとうた。秀郷の俗称)」として活躍することになります。



《 藤原純友の乱(939〜941) 》



 関東で将門が乱を起こした同じ頃、西国でも武士の反乱が起こりました。もと伊予の国司であった藤原純友(ふじわらのすみとも。?~941)が、瀬戸内海の日振島(ひぶりじま)を根拠にし、海賊たちを率いて蜂起したのです。これを藤原純友の乱(939〜941)といいます。純友は伊予の国府を攻め落とし、大宰府を焼き討ちにするなどの乱暴を働きました。しかし、やがて武蔵介(むさしのすけ)の源経基(みなもとのつねもと。?〜961)や山陽道追捕使の小野好古(おののよしふる。884〜968)らによって討たれました。

 なお、源経基(六孫王)は清和天皇の孫で、源姓を賜って臣籍降下し、清和源氏の祖となった人です。


《 乱の衝撃 》


 こうして鎮圧されたものの、武士による二つの反乱は、中央政府に大きな衝撃を与えました。『大鏡』には、比叡山に登った将門と純友がはるか平安京を望み、「(桓武天皇の子孫である将門は)天皇になろう」「(藤原氏である純友は)関白になろう」という野望を語り合い、東西相呼応しての蜂起を約束したという話を載せています。こうした憶測を呼ぶほどの衝撃が、これらの乱にはあったのでした。

 これらの乱を通じて、朝廷の軍事力の低下と、地方武士の反乱を鎮圧するには地方武士の力を借りなければならないことが明白になりました。こうして、地方武士の組織は一層強化されました。たとえば、1019(寛仁3)年、沿海州に住む女真族が九州北部に来襲した刀伊の入寇(といのにゅうこう)の折り、これを短期間で撃退できたのも、大宰権帥の藤原隆家(ふじわらのたかいえ。979〜1044)の指揮下で、よく組織された九州の武士たちが大いに奮戦したからでした。

 平将門の乱、藤原純友の乱というこの二つの乱は、当時の年号からかつて「承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱」ともよばれました。しかし現在では、「将門の乱勃発を一族内紛があった承平年間の935年とするのは適切ではない。将門が反乱を起こした939年ととらえるのが妥当だ」という意見が強くなり、「天慶の乱」と総称するようになっています。


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B 武士の登用


 地方武士の実力を知った朝廷や貴族たちは、彼らを積極的に侍(さむらい)として奉仕させるようになりました。侍というのは、貴人に近侍し、身辺警護にあたる人々の総称です。ただ、社会的地位はたいへん低いものでした。9世紀末、宇多天皇は
滝口(たきぐち)の武士(注1)を置き、武士を宮中警備に用いました。都の治安維持にも武士をあたらせるようになりました。

 また地方武士を「国の兵(くにのつわもの)」
(注2)として国司のもとに組織するとともに、追捕使や押領使などの軍事官に任命して、地方の治安維持にあたらせるようにもなりました。


(注1)滝口の武士は、蔵人所に所属して宮中警備の任にあたりました。定員は、はじめは10名、のち20名(一時30名)。清涼殿の東庭北方に御溝水(みかわみず)の落ち口(=滝口)に武士たちの詰所(つめしょ)があったので、この名があります。

(注2)国の兵(国侍)は国衙に登録されて、代々にわたり国司に奉仕した武士のことです。国司の館の警護、 軍事活動、狩猟、神事(相撲・武芸など)等の奉仕にあたりました。


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●源氏の進出●



 11世紀になると、開発領主たちは私領の拡大と保護を求めて、土着した貴族に従属したり、在庁官人になったりして勢力をのばし、地方武士団として成長していきました。さらに天皇の血筋を引く清和源氏や桓武平氏ら軍事貴族は、地方武士団をまとめる棟梁となりました。そして、地方武士団を広く組織して、大きな勢力をきずくようになりました。

 なかでも摂津に土着していた清和源氏の源満仲(みなもとのみつなか。912〜997)は、安和の変での密告を契機に、藤原摂関家に接近してその保護を得ることに成功します。その子の頼光(よりみつ。948〜1021)・頼信(よりのぶ。968〜1048)兄弟は、さらに摂関家との関係を強化し、武家の棟梁としての勢威を高めていきました。

 こうした中で起きたのが、平忠常の乱(たいらのただつねのらん。別名「長元の乱」。967〜1031)です。


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@ 平忠常の乱(1028〜1031)


 常陸・上総・下総に広大な領地をもって威勢を誇っていた平忠常は、国衙への納税の義務を果たさず、傍若無人な振る舞いをしていました。反乱の動機は不明ですが、1028(長元元)年に安房の国司を殺したことが発端となりました。ついで上総の国衙を襲い、兵火は房総三カ国(安房・上総・下総)に広がりました。

 政府は当初、追討使に平直方(たいらのなおかた。?〜?)を派遣しますが、鎮圧できませんでした。ついで、甲斐守源頼信を追討使として派遣したところ、頼信の威名に恐れをなした忠常は、出家して恭順の意を示し、戦わずに降伏したのです。忠常が降伏したのは、以前に頼信と主従関係を結んでいたから、ともいわれます。なお、『今昔物語集』や『古事談』などには、頼信の武勇に関する説話が見られます。

 平忠常の乱を平定したことによって、清和源氏の武名はいっそう高まり、東国進出のきっかけをつかむことになりました。


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A 前九年合戦(1051〜1062)


 陸奥では豪族安倍氏の勢力が強大で、国司と争っていました。俘囚(ふしゅう。蝦夷の帰順したもの)の長であった安倍頼時(あべのよりとき。?〜1057)は、奥六郡(陸奥北部、衣川以北の胆沢(いさわ)、江差(えさし)、和賀(わが)、稗貫(ひえぬき)、紫波(しわ)、磐井(いわい))に勢力を振るい、女婿(じょせい。むすめむこ)の藤原経清(ふじわらのつねきよ)らとともに国司に反抗していました。

 源頼信の子頼義(よりよし。988〜1075)は、陸奥守・鎮守府将軍として任地に下り、子の源義家(みなもとのよしいえ。1039〜1106)とともに東国の武士を率いて安倍氏と戦いました。安倍頼時の子貞任(さだとう)・宗任(むねとう)兄弟の抵抗に苦戦したものの、出羽の豪族清原武則(きよはらのたけのり)の助力を得て、ついには安倍氏を滅ぼしました。これを前九年合戦(1051〜62)といいます。

 この合戦は、源氏の東国における勢力確立の契機になりました。


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B 後三年合戦(1083〜1087)


 その後、陸奥・出羽両国で大きな勢力を得た清原氏一族に、内紛が起こりました。当主であった清原武貞(武則の子)が死ぬと、その相続をめぐって武貞の子真衡(さねひら)・家衡(いえひら)・清衡(きよひら。藤原経清の実子。前九年合戦で経清が処刑された後、母が清原武貞と再婚して、武貞の子となっていました)の間で争いがおこったのです。

 陸奥守として赴任した源義家はこの内紛に介入し、藤原(清原)清衡を助けて清原氏を滅ぼしました。これを後三年合戦(1083〜87)といいます。こののち奥羽地方では、平泉を中心に、清衡の子孫(基衡・秀衡・泰衡)による繁栄が続くことになります(奥州藤原氏)。

 後三年合戦は、朝廷から私戦と見なされ、義家に恩賞は出ませんでした。そこで、義家は、私財を割いて武士たちに恩賞を与え、彼らの労苦に報いたのでした。こうして東国武士たちの信望を得た義家は、武家の棟梁としての地歩を固めていきました。


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C 義家の勢威



 そもそも武士団は、闘争・殺人を生業(なりわい)とする軍事集団であり、都内外の治安維持や凶賊追捕等のための必要悪として、一般の人々にとっては忌み恐れられた存在でした。今様(平安時代の流行歌)にも


  「同じき源氏と申せども、八幡太郎
(源義家)は恐ろしや」(『梁塵秘抄』)


と歌われたほどです。しかし、その半面、「侍」としての彼らの社会的地位は、たいそう低いものでした。

 そうした武士たちの棟梁であった義家が、貴族と同じ場に立つ端緒を開きました。

 前九年・後三年両合戦を通じて、義家の勢威を慕う地方武士たちの間には、自らの所領を寄進してその保護を求める者が跡を絶ちませんでした。そのあまりの多さに、朝廷は、あわてて義家への所領寄進を禁止する法令(1091年6月12日付け。『百錬抄』)を出さざるを得ないほどでした。特定個人に対する荘園寄進を禁止した法令など、先例がありません。

 貴族たちもついにはその勢威におされ、ついに義家に、院の昇殿を認めざるを得ませんでした。

 

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