「高層ビルの林立する東京のビジネス街大手町の中心地、1丁目1番地1号の主はだれかと問えば、いずれ大手の銀行か不動産会社だろうという答えがかえってきそうだが、じつは今を去ること一千年前の人物なのである。 ( 中略 )
明治時代、ここは大蔵省の裏門から玄関に至る道路の左手にあたり、大きな池の端に古い碑があったという。天慶3年(940)、平貞盛らの軍勢に敗れた将門の首が、遺臣たちによってこの場所に葬られたのである。その後、将門の霊は神田明神にまつられたが、首塚に怨念はのこった。当時大蔵省は木造の二階建であったが、改築をしようとするたびごとに落雷や火災に見舞われ、関東大震災直後の仮庁舎には病人が続出し、大臣をはじめ14人の高官がつぎつぎに死亡した。まるで平安時代の怨霊さわぎである。
この仮庁舎は落雷で全焼、戦後は大蔵省も嫌気がさしたか、いまの霞ヶ関に移転してしまった。首塚にはマッカーサーもおそれをなして近寄らず、ようやく政府が国税局を含む合同庁舎を建てたときも、建築現場で大きな陥没事故があり、隣接の銀行でも首塚に背を向けて仕事をしていた部長が病気になり、部員一同あわてて机の向きを変えるということがあった。 ( 中略 )
いま、この首塚は東京都の旧跡となり、有力企業が保存会をつくって、毎年9月にものものしい慰霊祭を行っている。大蔵省も、なにしろ付近に東京国税局があるので、国家予算で供養をしている。ことほど左様な次第で、今後革命でもない限り、いや革命でもあればなおのこと、大手町1丁目1番地1号の主は、平安中期の逆臣平将門であることに変りはないのである。」
(紀田順一郎『日本の書物』1979年、新潮文庫、P.62〜63)
●国司の地方支配● |
◆延喜・天暦期の実相 鎌倉時代の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』の中に、次のような話があります。 村上天皇が紫宸殿(ししんでん)に出御されたおり、南面の階段辺りに諸司で雑用に使われていた年寄がいたのでお召しになって、「世間では現在の政治をどのように評価しているか」とお尋ねになられました。「すばらしいとの評価です」という言葉に継いで、その者が「ただし、主殿寮(とのもりょう。役所の名)では松明(たいまつ)を入れ、率分堂(そつぶんどう)には草が生い茂っております」と奏上したところ、天皇はたいへん恥じ入ったというのです。 「松明を入れる」というのは、たいした儀式でもないのに、儀式が夜までかかっているということを意味します。また、「率分堂に草が生い茂っている」というのは、諸国からの調庸が納入されていないということを意味します。 中央財源が窮乏する中、村上天皇は952(天暦6)年、重要な用途にあてる財源を確保するために、調庸のうち1割(のち2割)を別納させることにしました(これを正蔵率分(しょうぞうりつぶん)といいます)。この税物を収納する建物が率分堂(率分所)です。特別に設置された率分堂さえ、税物が納入されずにその周囲は草ぼうぼうという有様。財源窮乏の深刻さは、推して知るべしでしょう。 |
◆大名田堵の農業経営 11世紀に成立した『新猿楽記(しんさるがくき)』(藤原明衡著)の中には、都で猿楽見物する右衛門尉(うえもんのじょう)一族に託して、様々な職業が列挙されています。その中に、大名田堵の農業経営の有様が描かれています。 大名田堵の名は、右衛門尉の三女の夫で「出羽権介(ごんのすけ)田中豊益(とよます)」。「出羽権介」というのですから、出羽国の国司という設定です。豊益は数町の土地をもつ地主であり、広大な土地の徴税を請け負う大名田堵でした。自力で農具や種子などを準備し、水利施設を整備して、中小農民を支配下に組み込んで使役していました。 田堵を、現在の小規模経営の農民と同じようにイメージしては、その実態の理解を誤る可能性があります。 |
◆息子は強欲、父は怨霊 強欲な受領の例として、高校日本史の教科書に名を載せる藤原陳忠。しかし、世が世なら摂関にのぼりつめていたかも知れない人物でした。 陳忠の父は元方(もとかた)といい、その娘(陳忠の妹)は村上天皇の更衣となって、第一皇子の守平(もりひら)親王を生んでいました。もし守平親王が天皇になっていれば、陳忠も天皇の外伯父として、政界の頂点にのぼりつめる可能性があったのです。 しかし、実際にはそうはなりませんでした。右大臣藤原師輔(もろすけ)の娘が生んだ皇子が天皇になったからです(冷泉(れいぜい)天皇)。 失意の元方は死後怨霊となり、以後師輔ら一族を悩ます存在となりました。 【参考】 ・佐々木恵介『受領と地方社会』2004年、山川出版社(日本史リブレット)、P.1〜2による |
●荘園の発達● |
●地方の反乱と武士の成長● |
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