18.国風文化(藤原文化)


●文化の国風化●



 
9世紀後半から10世紀にかけて日本と大陸との関係が大きく変化し、遣唐使が停止されました。

 10世紀から11世紀の頃になると、従来の大陸重視の文化から、徐々にわが国の風土や日本人の心情や嗜好(しこう)にかなった日本的な文化へ変化してきました。その特色は、貴族社会を中心に醸成された繊細・優美な洗練された文化でした。そこで、平安中期の文化を、国風文化(こくふうぶんか)といいます。

 またこの時期は、藤原氏の摂関政治の最盛期に当たります。藤原氏やその周辺の人びとを中心に宮廷で繰り広げられた文化でしたから、藤原文化ともいいます。


●国文学の発達●



 
文化の国風化を象徴するのは、かな文字の発達・和様書道・寝殿造・服装などです。

 特に、かな文字の発達は重要です。かな文字は国文学の発達に大きく寄与するとともに、この方面への女性の進出を促しました。その背景には、かな文字がもっぱら女性が使用する文字だったこと、藤原氏が自分の娘である后妃(こうひ)たちの侍女(じじょ)に才媛(さいえん)を求めたこと、などがありました。

 この時代にはまた、末法思想(まっぽうしそう)を背景として浄土教(じょうどきょう)が流行しました。人びとは来世での救いを求めて、極楽浄土(ごくらくじょうど)の教主である阿弥陀仏(あみだぶつ)や、それらを安置する阿弥陀堂建築、また阿弥陀仏の来迎(らいごう)を描いた来迎図(らいごうず)が大量につくられました。



直線上に配置


@
 かな文字の発達



 国文学の発達に大きく寄与したのは、かな文字の登場です。わが国には独自の文字がありませんでしたから、中国の漢字の音を借りて、1字1音節にあてました。楷書(かいしょ)や行書(ぎょうしょ)の漢字で書いたものを、「万葉がな」といいます。「万葉がな」の書き方がさらに崩れて草書体になったものを、「草がな」といいます。

 9世紀になると、仏教経典の読み方の難しい漢字に、漢字の一部(偏(へん)・旁(つくり)・冠(かんむり)など)を省略して作った文字で、ルビを振るようになりました。これが片かなです。一方、草がなをさらに簡略化したのが平がなです。これらの平がなや片かなの字形は、11世紀の初めにはほぼ一定して、広く使用されるようになったようです。

 字画の多い漢字を書くのは、ひどく骨が折れることでした。書くのに時間がかかりますし、何よりもまず、漢字を覚えることがたいへんでした。たとえば、諸橋轍次(もろはしてつじ)氏らがつくった『大漢和辞典』(大修館発行)には、約5万字もの親字が収録されています。これに対し、変体がなを除いた現行の平がなならば、覚える数は50字もありません。単純に比較しても、漢字の千分の一の量を覚えれば、とりあえずは自由自在に日本語を表現できるのです。

 片かなや平がなの発明は、そうした膨大な労力の軛(くびき)から、われわれを解放しました。早く楽に書くことができる1字1音の表音文字は、わが国の文化発展に大きく寄与したのです。

 かな文字が生まれた結果、日本人特有の感情や感覚が生き生きと表現できるようになりました。和歌や物語・随筆・日記など、かなで書かれた国文学がおおいに発達したのが、この時代の特徴の一つです。


◆漢字・漢文は男の教養

 かな文字は、女性が日常生活の中で使用したので、女手(おんなで)と呼ばれました。平安時代の貴族社会では、かな文字は仮名(仮の文字の意。「かりな」の音便形「かんな」がつまって「かな」になりました)であって、漢字こそが正式の文字である、という意識があったからです。だから、仮名・女手に対して、漢字は真名(まな)とか男手(おとこで)などと呼ばれたのです。

 こうした貴族たちの意識を物語るエピソードが、『紫式部日記』の中にあります。ある時、紫式部(?〜?)が、亡き夫(藤原宣孝(ふじわらののぶたか))が残した漢文の本を、一冊、二冊と手にとって眺めていました。すると、召使いの女たちの「奥様はあんなだからお幸せになれないのよ。どうして女が漢字なんぞ読むんでしょう。昔はお経をよむことさえ、しなかったものなのに」という陰口(かげぐち)が聞こえてきたというのです。

 漢字・漢文は男の教養であって、女性がその読み書きをすることは、貴族社会ではあり得なかったのです。ですから、式部はふだんは「一」という漢字さえ知らないふりをし、主人の彰子から漢詩について尋ねられても、人目をはばかって物陰(ものかげ)で教えたと言っています。

 こんな式部にとって、漢詩・漢文の知識をひけらかす清少納言は、たいへんはしたない女性として、その目には映ったことでしょう。同じ『紫式部日記』の中で、式部は散々なまでに彼女をこき下ろしているのですから。


直線上に配置


A 文 学


 《 詩 歌 》



 醍醐天皇の命により、紀貫之(きのつらゆき。?〜945)・紀友則(きのとものり)・壬生忠岑(みぶのただみね)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)らが編纂した最初の勅撰和歌集が『古今和歌集(こきんわかしゅう)です。『古今和歌集』(全20巻、所載和歌数1110首)は、905(延喜5)年に完成しました。

 繊細・繊細・技巧的・三句切れ・七五調を特徴とするその歌風は、古今調(こきんちょう)とよばれます。また、『万葉集』の率直で力強い歌いぶりを「ますらおぶり」というのに対して、『古今和歌集』の優美で女性的な歌いぶりは「たおやめぶり」と称されます。

 作者は時代順に、おおまかに分類することができます。「読み人知らず(作者不詳)」の時代→六歌仙(ろっかせん)の時代→撰者(せんじゃ。紀貫之ら)時代」の三期です。

 このうち六歌仙というのは「近き世にその名聞こえたる人」(仮名序)で、大伴黒主(おおとものくろぬし。?〜?)・小野小町(おののこまち。?〜?)・喜撰法師(きせんほうし。?〜?)・文屋康秀(ふんやのやすひで。?〜879)・在原業平(ありわらのなりひら。825〜880)・僧正遍昭(そうじょうへんじょう。816〜890)ら6人の和歌の上手をいいます。正確かどうか定かでありませんが、入集している和歌をざっと数えてみると、在原業平が30首、小野小町と僧正遍昭がそれぞれ18首で、残りの3人は合わせても10首に及びません。恋多き美男・美女として知られる人びとが上位にあるということは、『古今和歌集』の性格を考える上で、一つの参考となるでしょう。

 さて、『古今和歌集』は、その後長く和歌の模範とされました。こののち、後撰(ごせん。961)・拾遺(しゅうい。996?)・後拾遺(ごしゅうい。1086)・金葉(きんよう。1126)・詞華(しか。1141)・千載(せんざい。1187)・新古今(1205)と、鎌倉時代の初めまでに全部で8つの勅撰和歌集が編纂されました。これらを総称して「八代集(はちだいしゅう)といいます。

 ただし、かな文字は、和歌を除いて公式には用いられませんでした。かな文学であるはずの『古今和歌集』に、かなの序文(仮名序)とともに漢文の序文(真名序)がついていることは象徴的です。

 しかし、かな文字は日常生活では広く用いられるようになり、それに応じてすぐれたかな文学作品がつぎつぎに生まれました。


《 日記文学 》


 貴族は、公式の場では従来通り、漢字だけで文章をしるしました。しかしその文章は純粋な漢文とは言い難い、和風漢文ともいうべきものでした。

 10世紀以降、朝廷での儀式・行事の比重が増したこともあって、貴族はそれらの様子を漢字を用いて、日記に事細かに記録しました。個人的な感想などを書きとめた現在の日記とは異なり、行事や儀式の作法や手順などを間違えて恥をかくことがないよう、日記は子孫のために書き残されました。最初から公開されることを前提で、貴族たちは日記を書いていたのです。

 藤原道長『御堂関白記(みどうかんぱくき)藤原行成『権記(ごんき。行成が権大納言だったので)藤原実資(ふじわらのさねすけ)の『小右記(しょうゆうき)などが残っています。特に、具注暦(ぐちゅうれき。日の吉凶を細かく記載した暦)の余白に記録された『御堂関白記』は、権力者道長の動向をうかがう日記として、また現存する最古の自筆日記としても有名です。2013(平成25)年6月18日、ユネスコの「世界の記憶」(俗に「世界記憶遺産」と称しています)に指定されました。

 しかし、国風文化の特色をよく示すものといえば、むしろ宮廷に仕える女性たちによって書かれた「かな日記」の方でしょう。

 かな日記は、紀貫之の『土佐日記』を嚆矢(こうし)とします。男性である貫之が女性のふりをして書くという形式をとっている意味は、


  男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり
  
(男もするという日記というものを、女の私もしてみようと思い書くのです)


という冒頭の文章から明らかです。貴族社会では、「日記は男が書くもの」という社会通念があったので、細やかな感情を表現できる女手(かな文字)で日記を書くには、筆者を女性だとするフィクションによる隠れ蓑(みの)が必要だったのです。

 しかしながら、その内容を見てみると、女性作者による「かな日記」は「何月何日に何があった」という、男が書くような日次記(ひなみき)ではありません。「日記」という名前がついているものの、彼女たちの作品は、人生の後半になって自らの過去を振り返った人生省察の文学であり、それぞれに明確な主題がありました。

 たとえば、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは。藤原兼家妻)が書いた『蜻蛉日記(かげろうにっき)は、貴族男性が複数の妻のもとに通うという当時の婚姻形態の下で、不安定な愛情を強いられた貴族女性(作者)の家庭生活での不幸を描くことが主題になっています。この他、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の『更級日記(さらしなにっき)(40年間にわたる回想)や紫式部『紫式部日記』(彰子の出産と処世論・芸術論など)、和泉式部(いずみしきぶ)の『和泉式部日記』(敦道(あつみち)親王との2年間にわたる恋愛告白)などの「かな日記」があります。

 これらの作品が、千年の時を経ながらも、現在の我々の心情に強く訴えかけてくる力をもっているのは、時代を超えた人間の真実をこれらの「かな日記」が描写しているからに他なりません。


《 物語文学 》


 「物語のいできはじめの祖(おや)」と見なされているのが、『竹取物語(たけとりものがたり)です。竹取の翁(おきな)によって光る竹の中から発見されたかぐや姫が、異常な成長を遂げたのち、名だたる貴族や天皇から求婚されるの拒否し、ついには月に帰ってしまうというお馴染みの伝奇物語です。

 『伊勢物語(いせものがたり)は、在原業平の恋愛談を中心とする125段からなる歌物語(うたものがたり)の短編集です。歌物語というのは、話の主題に関わる和歌が、物語の中に必ず含まれています。伊勢という女性が作ったという伝承があるので、このような表題で呼ばれるという説がありますが、作者は未詳です。 

 しかし、何よりも最高傑作との評価が高いのは、紫式部によって書かれた『源氏物語(げんじものがたり)全54帖(じょう)です。『源氏物語』は、光源氏(ひかるげんじ)とその子薫(かおる)を主人公する宮廷貴族の生活を題材にした大作ですが、後世の文学に及ぼした影響の大きさにははかりしれないものがあります。たとえば、江戸時代の『好色一代男』(井原西鶴)や『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』(柳亭種彦)が『源氏物語』のパロディであることはよく知られています。

 『源氏物語』に魅了されたのは、わが国の人びとばかりではありませんでした。アーサー=ウィリーをはじめとする人びとによって諸外国に広く紹介され、「レディー・ムラサキ」の名前は、世界的にも知られるようになりました。

 なお、宮廷生活の体験を随筆風に記した作品に、清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)があります。『枕草子』は、作者の機知が随所に光る作品です。簡潔な文章で、「春はあけぼの(がいい)」「秋は夕暮れ(がいい)」など様々な事柄に対して、作者の判断が加えられています。その際、「をかし(興趣がある)」という言葉が多様されているので、「をかし」の文学と評されます。

 これに対し、先述した『源氏物語』は「あはれ」(ある事柄に動かされて起こる強い感情を表現する言葉)の文学と評されています。小西甚一(こにしじんいち)氏によれば、『源氏物語』の中には「あはれ、あはれなり、あはれげなり」の名詞、形容詞、形容動詞の形で、「あわれ」という言葉が949回も出てくるとのことです(小西甚一『古文の読解』2010年、ちくま学芸文庫、P.87)。


 ◆『枕草子』の影響力

 清少納言が「秋は夕暮れがよい」(『枕草子』第一段)と評したことから、秋の和歌を詠むなら「夕暮れ」の情趣を詠むことが定番になりました。秋の夕暮れを、三人の歌人が競い合うかのように詠んだ「三夕(さんせき)の和歌」は、そうした例の代表。

 これに反旗を翻し、「夕暮れの情趣があるのは秋ばかりではない」と、『枕草子』以来の美意識の伝統を打ち破ったのが後鳥羽上皇(1180〜1239)の次の作品。


 見わたせば山もと霞む水無瀬川
(みなせがわ)夕べは秋と何思ひけむ
                       
(『新古今和歌集』・春上)
(周囲を見わたしてみると、山の麓には霞がかかり、その中を水無瀬川(水無瀬には後鳥羽上皇の離宮があった)が流れていく。今までどうして「夕暮れが最もよいのは秋」と思いこんでいたのだろうか。夕暮れは春も素晴らしいものだ。)


 『枕草子』からこの和歌の登場まで、約200年もの時が流れていました。

【参考】
・鈴木健一『知っている古文の知らない魅力』2006年、講談社現代新書    


直線上に配置


●浄土の信仰●



@ 本地垂迹説
(ほんじすいじゃくせつ)


 摂関時代の仏教は、天台・真言の2宗が圧倒的な勢力を持ち、加持祈祷(かじきとう)を通じて現世利益(げんぜりやく)を求める貴族と強く結びつきまいした。

 その一方で神仏習合も進み、仏と日本の神々を結びつける本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)も生まれました。本地垂迹説というのは、日本の神々は仏が権(か)りに形を変えてこの世にあらわれたもの(垂迹)とする思想です。のちには天照大神の本地を大日如来に、八幡神の本地を阿弥陀如来に、春日大明神の本地を不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)にあてるなど、それぞれの神について特定の本地仏(本体)を定めることが盛んになりました。


直線上に配置


A 御霊信仰(ごりょうしんこう) 


 また、怨霊(おんりょう)や疫神(えきしん)を祭ることで疫病や飢饉などの災厄から逃れようとする御霊信仰(ごりょうしんこう)が広まり、御霊会(ごりょうえ)が盛んに催されました。

 御霊会は、はじめ早良親王(さわらしんのう)ら政治的敗者をなぐさめる行事として、9世紀半ばに始まりました
(注)が、やがて疫病の流行を防ぐ祭礼となりました。北野神社(菅原道真を天神として祀ります)、祗園社(牛頭(ごず)天王を祀ります。1868年の神仏分離によって八坂神社と改称しました)の祭りなどは、元来は御霊信仰から生まれたものです。


(注)最も恐れられた怨霊を六所御霊といいます。崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、 文室宮田麻呂の6人です。貞観5(863)年、政府は神泉苑(しんせんえん。左京3条1坊にあった庭園)において御霊会を催しました。その理由は、「近代以来、疫病頻発し、死亡甚(はなは)だ衆(おほ)し。天下以為(おも)へらく、此(こ)の災いは御霊の生ずる所なり」(『日本三代実録』貞観5年5月20日)と考えたからです。


直線上に配置


B 浄土教の流行



 現世利益を求めるさまざまな信仰と並んで、来世での幸福を説いて現世の不安から逃れようとする浄土教も流行してきました。

 浄土というのは、仏や菩薩のすむ清らかな世界のことです。弥勒菩薩(みろくぼさつ)がすむ兜率天浄土(とそつてんじょうど)、薬師如来のすむ浄瑠璃世界(じょうるりせかい)など様々な浄土がありますが、ここでいう浄土教は阿弥陀仏を信仰し、来世において阿弥陀如来のすむ極楽浄土に往生することを願う教えです。極楽浄土は、西方のはるか彼方にあると考えられました。

 極楽に往生するには、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と唱えたり(称名念仏(しょうみょうねんぶつ))、極楽の有様を思い描いたり(観想念仏(かんそうねんぶつ))、また造像・起塔などの行法(ぎょうほう)が必要とされました。


《 空也と源信 》


 10世紀半ばに空也(くうや)が京の市で浄土の教えを説き、「市聖(いちのひじり)とか「阿弥陀聖(あみだひじり)」とか呼ばれました。「聖」というのは半僧半俗の宗教者のことです。空也は人びとに念仏を勧める一方、架橋や井戸の掘削などさまざまな社会事業を行いました。

 空也についであらわれたのが、源信(げんしん。恵心僧都(えしんぞうづ)とも呼ばれました)でした。源信は『往生要集(おうじょうようしゅう)を著して、極楽往生の方法を人々に示しました。汚れた現世を厭い、極楽に往生することを求める「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)の考えが、貴族・庶民を問わずに広まっていき、人々の浄土への憧れを強くしていきました。


《 末法思想 》


 浄土への憧れは、末法思想(まっぽうしそう)によっていっそう強められました。

 末法思想というのは、釈迦の死後、正法(しょうぼう。釈迦の教え・修行・証としての悟りという、教・行・証の三つが揃っている)・像法(ぞうぼう。教・行・証のうち証が得られない)の世をへて末法の世(教のみしかない)が到来するという仏教独特の歴史観にもとづく説です。さらには、正法・像法・末法の三時を経た後、仏教自体が失われてしまう法滅期に至ると説かれました。

 いつ末法の世に入るのかについては諸説ありました
(注)が、当時の人びとの多くは、1052(永承7)年から末法の世に入ると信じ込んでいました。

 前年の1051年には東北地方で前九年合戦が始まり、1052年には都の貴族たちに信仰が篤かった奈良の長谷寺が全焼しました。盗賊や争いごと、災厄等が頻発した世情が、仏教の説く末法の世の姿によくあてはまると考えられ、来世で救われたいという願望を一層高めたのです。


 (注)末法初年がいつかについては、565年説(『日本霊異記(にほんりょういき)』)、892年説(『末法燈明記』)、1052年説(『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』)、1392年説(『法相燈明記(まっぽうとうみょうき)』)など、諸説ありました。


《 往生伝 》


 『往生要集』は極楽往生の手段を書いた一種のハウツー本でした。それなら次は、めでたく極楽往生を果たした人々による成功談が必要だと考えられました。そこで、極楽往生を遂げたと信じられた人びとの伝記集がつくられました。これを往生伝(おうじょうでn)といいます。

 往生伝には、慶滋保胤(よししげのやすたね。?〜1002)の『日本往生極楽記(にほんおうじょうごくらくき)をはじめ、大江匡房(おおえのまさふさ)の『続本朝往生伝(ぞくほんちょうおうじょうでん)』、三善為康(みよしのためやす)の『後拾遺往生伝(ごしゅういおうじょうでん)』などがあります。


直線上に配置


●国風美術●



@ 建 築



 建築では貴族の住宅が、日本風のものになりました。檜皮葺(ひわだぶき)・白木造・板床の建物で、寝殿造(しんでんづくり)とよばれます。

 1町(約108m)四方もある広大な敷地に、寝殿造の邸宅は建てられました。敷地の周囲には築地塀(ついじべい)がめぐらされ、内外の出入りのために四つ足門がいくつか設けられました。寝殿(正殿)を中心に北・東・西に建物が建てられました。それぞれ、北の対(たい)・東の対・西の対といいます。これらの建物や釣殿(つりどの。池で釣りをするための建物)・泉殿(いずみどの。井戸がある建物)などの建物を、渡殿(わたどの)などで接続しました。

 寝殿の南側には、池や築山(つきやま)などが設けられました。池には舟を浮かべ、管弦(かんげん)の遊びに興じることもありました。 


直線上に配置


A 大和絵 


 建物内部の襖(障子)や屏風には、唐絵(からえ)にかわって日本の風物を題材とし、なだらかな線と上品な彩色とを持つ大和絵(やまとえ)が描かれました。

 初期の大和絵の画家としては、百済河成(くだらのかわなり。782〜853)や巨勢金岡(こせのかなおか。?〜?)が知られています。巨勢金岡は、後世「大和絵の祖」と称されました。作品は現存していません。


B 工 芸


 日本独自に発達をとげた工芸技法に蒔絵(まきえ)があります。蒔絵というのは、漆で文様を描き、そこに金・銀などの金属粉を蒔(ま)いて接着させ、模様とする漆芸技法です。平安時代以降とくに発達し、海外でも名高いものとなりました
(注)

 また、この頃には、夜光貝(やこうがい)や鮑貝(あわびがい)などの貝殻の真珠光の部分を磨いて様々な形に切り取り、それを器物に埋め込むという螺鈿(らでん)の技法が発達しました。

 蒔絵と螺鈿は合流して、独特の美しさをもった工芸品として発達していきました。


(注)後世のことにはなりますが、フランス王妃のマリ=アントワネットが蒔絵の調度品を愛用していたことは有名です。 蒔絵は、イエズス会宣教師の祭儀具として、近世初頭にヨーロッパにもたらされ、その美しさによって異国の人々をも魅了しました。ちなみに、小文字のjapanを英和辞典で引くと、「漆器・蒔絵」という訳が出てきます。


直線上に配置


C 書 道



 書道も、前代の唐様(からよう)に対し、かな及び草体を優美な線であらわす和様(わよう。上代様(じょうだいよう)ともいいます)が発達しました。

 この時代、小野道風(おののとうふう。894〜966)・藤原佐理(ふじわらのさり。944〜998)・藤原行成(ふじわらのこうぜい。972〜1027)ら和様書道の名手があらわれました。これを三蹟(さんせき)と称します。

 小野道風は花札の絵柄(柳に跳びつく蛙の姿を見て、あきらめずに努力し続けることの大切さを知ったという故事)でも有名です。その書跡は野蹟(やせき)と称され、生前から高く評価されていました。絶妙な能書は、中国東晋(とうしん)時代の「書聖」王羲之(おうぎし)の再生であるとされていました。代表作に『屏風土台(びょうぶどだい。醍醐天皇のための屏風の下書き)があります。鎌倉時代の青蓮院流(しょうれんいんりゅう)に影響を及ぼしました。

 藤原佐理は自由奔放な筆遣いをする人で、その書は佐蹟(させき)と呼ばれて珍重されました。代表作に『離洛帖(りらくじょう)があります。もっとも、佐理は仕事上の失敗が多い人でもありました。有名な『離洛帖』も、大宰大弐として九州への赴任に際して、関白藤原道隆(みちたか)への挨拶を怠ったので、取りなしを京都の親戚宛てに書いた手紙です。気の毒なことに、能書家であったがゆえに不名誉な詫び状までもが珍重され、後世に残ることになりました。後々、教科書をはじめとする書籍の中で、写真入りで衆目に晒されることになろうとは、本人は想像だにしなかったでしょう。

 藤原行成は、美しい流麗な文字を書く人です。その筆跡は権蹟(ごんせき)とか行蹟(こうせき)と称されました。和様書道の完成者です。その書風は、行成の子孫が代々継承しました。これを世尊寺流(せそんじりゅう)とよびます
(注)。行成の代表作に、『白氏詩巻(はくししかん。中国唐代の代表的詩人の一人、白居易の8つの詩篇を書写したもの)があります。

 彼らの書は、そのまま鑑賞されるばかりでなく、大和絵屏風などにも書かれ、調度品としても尊重されました。


(注)世尊寺とは、藤原行成が建てた寺の名前です。鎌倉時代の第8代当主が世尊寺行能(ゆきよし)と名乗ったことから、世尊寺家と呼ばれるようになりました。行成の子孫は代々能書として有名でした。こうして行成を祖とする和様の一大書流を世尊寺流と称するようになったのです。


直線上に配置


D 浄土教美術


《 建 築 》



 浄土教の流行にともない、これに関係した建築・美術作品が数多くつくられました。藤原道長が建立してその壮麗さをうたわれた法成寺(ほうじょうじ)は、阿弥陀堂を中心とした大寺でしたが、現存していません。その子藤原頼通の建立した平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう。末法開始の翌年の1053年に完成しました)や、日野資業が自分の山荘を寺に改めた日野法界寺(末法開始の前年、1051年の創建と伝えられています)の阿弥陀堂が、阿弥陀堂建築の代表的遺構です。


《 彫 刻 》


 平等院鳳凰堂の本尊である阿弥陀如来像をつくった仏師が定朝(じょうちょう)です。定朝は、従来の一木造にかわる寄木造(よせぎづくり)の手法を完成し、仏像の大量需要にこたえました。

 一木造は一木から一体の仏像を彫りおこすものですが、寄木造は仏像の身体をいくつかの部分に分けて仏師たちが別々に分担して彫り、これを寄せ合わせてつくる能率的な手法でした。もっとも、平安京内では山中と違って大木が得にくいうえ、一木ではひび割れがしやすいという事情もありましたから、寄木造は時代の要請に合致していたのです。

 こうして、丸みを帯びたお姿に穏やかなお顔をした定朝様式の阿弥陀仏が、大量生産されていったのです。


《 絵 画 》


 また、往生しようとする人をむかえるために、阿弥陀仏が来臨する場面を示した来迎図(らいごうず)も盛んに描かれ、人びとの信仰を助けました。


直線上に配置


●貴族の生活●



@ 衣生活 


 服装も、それまでの唐風のものを大はばに日本人向きにつくり変えました。

 男性の正装には、束帯(そくたい。革製の帯で上から腰を束ねたのでこの名があります)やそれを簡略にした衣冠(いかん)がありました。束帯は公卿の礼服・参内服で、衣冠は五位以上の人びとの参内服です。通常服は、これらを簡略化した直衣(のうし)・狩衣(かりぎぬ)でした。

 庶民は、狩衣を変化させた水干(すいかん)や直垂(ひたたれ)を用いました。

 女性の正装は、唐衣(からぎぬ)や裳(も)をつけた女房装束(にょうぼうしょうぞく。俗に「十二単(じゅうにひとえ)」といいました)でした。通常服は、小袿(こうちぎ)に袴(はかま)をつけました。

 女房装束は、華麗な文様や調和のとれた配色など、日本風の意匠をこらした優雅なものでした。しかし、当時は洗濯機やクリーニング店もなく、毎日入浴するようなこともできない時代でしたから、垢で襟が汚れたり、着物の中にダニなどの虫が発生することもありました。たとえば、『枕草子』に、次のような記述があります。


 
(のみ)もいとにくし。衣(きぬ)のしたにをどりありきてもたぐるようにする
 
(ノミもたいへん憎らしい。着物の下をぴょんぴょん踊り歩いて、着物を持ち上げるようにする)


 あの女房装束ではノミを捕まえることも、かゆいところを掻(か)くことも、清少納言ならずとも、おそらくままならなかったに違いありません。


直線上に配置


A 住生活


 寝殿造(しんでんづくり)は板床で、そこに畳や円座(わろうだ)をおいてすわる生活でした。畳を床に敷き詰めるようになるのは、室町時代になってからです。

 寝殿造は、京都盆地の夏の蒸し暑さに対処するように造作されていたため、天井板がなく、部屋には間仕切りがありませんでした。風がよく通り抜けるような、開放的な家屋でした。冬の寒さよりも夏の暑さの方が、よほど貴族たちにはこたえたのです。

 だからといって、京都の冬が、凌ぎやすいものだったわけではありませんでした。間仕切りがない広い室内は、天井板もなかったので、火桶(ひおけ)や炭櫃(すびつ)などで火を起こしても暖房の熱は屋根裏へと上昇してしまい、部屋全体が暖かくなることはありませんでした。勢い、重ね着をして対処することになります。十二単とも呼ばれる女房装束を、20枚も重ね着していた、という記録もあります。

 採光が不十分で照明も未発達な時代でしたから、昼でも屋内は薄暗いものでした。

 そのため、薄暗い中でもよく見える色白の顔が、平安美人の条件とされました。女性たちは顔を白く見せるために、有毒な水銀や鉛など原料とした白粉(おしろい)を、厚く顔に塗りました。白と黒とのコントラストが際だつ化粧法が重視されたため、毛抜きで眉(まゆ)を抜き、唇(くちびる)を白粉で消し、長い黒髪で顔の白さを強調しました。村上天皇の女御(にょうご)だった芳子(ほうし)の髪の毛は、5メートル以上あったと言われています。


直線上に配置


B 食生活


 食生活は比較的簡素で、日に2回を基準としました。食事には様々なタブーや制約があり、貴族は思いの外不自由な食生活を強いられていました。たとえば、仏教による殺生禁戒の教えの影響もあって、食事に獣肉は用いられず、調理に油を使うこともありませんでした。偏った食事は栄養のバランスを欠き、健康に影響を及ぼすこともありました。

 たとえば、当時の最高権力者だった藤原道長でさえ、栄養失調で夜盲症になりました。その様子を道長は「月は見えないし、二、三尺(60〜90cmほど)離れた人の顔も見えない。見えるのは手に取るものだけだ」と、その日記に書いています。陰陽師(おんみょうじ)や医者のアドバイスによれば、「魚肉を食べれば治る」ということでしたので、明らかに栄養不足によるものです。魚肉食はタブー視されていたのです。道長は「これただ仏法のためであり、我が身のためにするのではない」と言い訳をしながら肉食し、その間に法華経一巻を書き写すことにしました(『御堂関白記』寛仁3(1019)年2月6日)。ちなみに、この年の3月、道長は出家して、晩年の情熱を法成寺の建立に傾けます。

 貴族が残した史料に食事に関する記述が少ないこと、記述があったとしても味についての評価が書かれていないこと(たとえば『枕草子』には「金属の碗(わん)に削り氷を盛って甘葛(あまづら)の汁をかけたものは美しい」という記述はありますが、「おいしい」とは言っていません)などから、樋口清之(ひぐちきよゆき)氏は、平安時代を「食欲不在の時代」と評しています(『図説日本文化の歴史』1979年、小学館)。


直線上に配置


C 日常生活


 10〜15歳くらいで男性は元服(げんぷく)、女性は裳着(もぎ)の式をあげて、成人として扱われるようになりました。男性の場合、官職を得て朝廷に仕えました。

 しかし、偏った食生活をし、運動する機会も余りなかった平安時代の貴族は、現在よりもかなりの短命でした。何しろ、40歳になると、その歳まで生存できたことを祝う「四十(よそじ)の賀」を催すのが習わしでした。ちなみに「初老」という言葉を『広辞苑』で引くと「40歳の異称」とあります。その後は10年ごとにお祝いをしました。これを算賀(さんが。または年賀)といいました。

 さて、右京は、平安京成立期の早い時期から衰退が始まり、人があまり住まなくなっていました(慶滋保胤『池亭記(ちていのき)』)。そこで、貴族の多くは左京に住みました。上級貴族の邸宅は宮城の付近に集中し、摂関家などはいくつもの大邸宅を持っていました。それに対し、中・下級の貴族は、通勤に不便な遠い場所に住居を構えました。

 貴族たちが京を離れることはあまりありませんでした。せいぜい大和の長谷寺(はせでら)など、近郊の寺社に参詣するぐらいの小旅行に限られていました。

 貴族は、運命や吉凶などの迷信を気にかけました。加持祈祷によって災厄を避けようとしたり、吉凶にもとづいて行動したりしました。なかでも中国から伝来した陰陽五行説にもとづく陰陽道の影響が大きく、天体現象や暦法もすべて吉凶に関連するものとして解釈され、日常の行動がいろいろと制限されました。少しでも変わったことがあるとその吉凶を占い、物忌(ものいみ)と称して家の中に引きこもってつつしんだり、方違(かたたがえ)といって金神(こんじん)がいる凶の方角を避けて行動したりしました。ただし、貴族たちの中にはこれらを口実に、別荘に遊びに行って息抜きをしたり、公卿会議を欠席するための方便として利用することもあったようです。


 ◆平安時代の成人式

 平安時代、貴族の子どもたちは12歳前後で成人式を行いました。成人式を迎える前の少年少女たちは、みんな振り分け髪というヘアースタイルでした。頭の真ん中で両側に髪を垂らし、伸ばしていたのです。少年は、髪をみずらに結う場合がありました。

 男子の場合、成人式を元服といいました。元服を現在は「げんぷく」と読みますが、当時は「げんぶく」と読んだようです。元服の時に髪を結って、冠を初めてかぶります。そこで、男子の元服を冠(こうぶり)といったり、初冠(ういこうぶり。初め冠をかぶる、の意)ともいいました。以後、男子は宮中に出仕するのです。

 女子の場合、髪の毛を後方で束ね(髪上げ)、着物の上に裳(も)を着けるので、女子の成人式を裳着(もぎ)といいました。裳は、成人した女性の証明でした。
 女性の正装を女房装束(にょうぼうしょうぞく)といいますが、その際、着物の一番上に豪華な唐衣(からぎぬ)を着ました(唐衣を脱ぐと略装になります)。唐衣を着る時には、腰から後方に装飾用の布を垂らしました。これが、裳です。

 成人した女性は、化粧をすることになります。本文中に述べたように、当時の寝殿造の建物は広く暗かったため、コントラストがはっきりした顔が好まれました。そこで、白粉(おしろい)で顔を白く塗りたくり、毛抜きで眉を引き抜いて、黛(まゆずみ)で眉を描き直しました(引き眉)。唇には紅をつけ、歯を黒く染めました。

 成人式は、現代同様、平安時代も女性の方がたいへんだったのです。
   
 
 

直線上に配置


「栄花物語の記すところによれば、道長は立てまわした屏風の西側をあけて、九体の阿弥陀仏に面し、西向き北枕に臥した。これは釈尊入滅の姿勢である。そして手には阿弥陀仏から引いた糸を取り、ひたすら仏をあおぎ、念仏をとなえるのみであった。堂の内外では不断念仏がおこなわれ、瞬時も休まず念仏の声がひびく。

( 中略 )

 こうして、入道前摂政太政大臣従一位藤原朝臣道長は、その62年の生涯を終えた。」

(道長は万寿4(1027)年12月4日に逝去した。土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』1973年、中公文庫、P.438)