●文化の国風化● |
●国文学の発達● |
◆漢字・漢文は男の教養 かな文字は、女性が日常生活の中で使用したので、女手(おんなで)と呼ばれました。平安時代の貴族社会では、かな文字は仮名(仮の文字の意。「かりな」の音便形「かんな」がつまって「かな」になりました)であって、漢字こそが正式の文字である、という意識があったからです。だから、仮名・女手に対して、漢字は真名(まな)とか男手(おとこで)などと呼ばれたのです。 こうした貴族たちの意識を物語るエピソードが、『紫式部日記』の中にあります。ある時、紫式部(?〜?)が、亡き夫(藤原宣孝(ふじわらののぶたか))が残した漢文の本を、一冊、二冊と手にとって眺めていました。すると、召使いの女たちの「奥様はあんなだからお幸せになれないのよ。どうして女が漢字なんぞ読むんでしょう。昔はお経をよむことさえ、しなかったものなのに」という陰口(かげぐち)が聞こえてきたというのです。 漢字・漢文は男の教養であって、女性がその読み書きをすることは、貴族社会ではあり得なかったのです。ですから、式部はふだんは「一」という漢字さえ知らないふりをし、主人の彰子から漢詩について尋ねられても、人目をはばかって物陰(ものかげ)で教えたと言っています。 こんな式部にとって、漢詩・漢文の知識をひけらかす清少納言は、たいへんはしたない女性として、その目には映ったことでしょう。同じ『紫式部日記』の中で、式部は散々なまでに彼女をこき下ろしているのですから。 |
◆『枕草子』の影響力 清少納言が「秋は夕暮れがよい」(『枕草子』第一段)と評したことから、秋の和歌を詠むなら「夕暮れ」の情趣を詠むことが定番になりました。秋の夕暮れを、三人の歌人が競い合うかのように詠んだ「三夕(さんせき)の和歌」は、そうした例の代表。 これに反旗を翻し、「夕暮れの情趣があるのは秋ばかりではない」と、『枕草子』以来の美意識の伝統を打ち破ったのが後鳥羽上皇(1180〜1239)の次の作品。 見わたせば山もと霞む水無瀬川(みなせがわ)夕べは秋と何思ひけむ (『新古今和歌集』・春上) (周囲を見わたしてみると、山の麓には霞がかかり、その中を水無瀬川(水無瀬には後鳥羽上皇の離宮があった)が流れていく。今までどうして「夕暮れが最もよいのは秋」と思いこんでいたのだろうか。夕暮れは春も素晴らしいものだ。) 『枕草子』からこの和歌の登場まで、約200年もの時が流れていました。 【参考】 ・鈴木健一『知っている古文の知らない魅力』2006年、講談社現代新書 |
●浄土の信仰● |
●国風美術● |
●貴族の生活● |
◆平安時代の成人式 平安時代、貴族の子どもたちは12歳前後で成人式を行いました。成人式を迎える前の少年少女たちは、みんな振り分け髪というヘアースタイルでした。頭の真ん中で両側に髪を垂らし、伸ばしていたのです。少年は、髪をみずらに結う場合がありました。 男子の場合、成人式を元服といいました。元服を現在は「げんぷく」と読みますが、当時は「げんぶく」と読んだようです。元服の時に髪を結って、冠を初めてかぶります。そこで、男子の元服を冠(こうぶり)といったり、初冠(ういこうぶり。初め冠をかぶる、の意)ともいいました。以後、男子は宮中に出仕するのです。 女子の場合、髪の毛を後方で束ね(髪上げ)、着物の上に裳(も)を着けるので、女子の成人式を裳着(もぎ)といいました。裳は、成人した女性の証明でした。 女性の正装を女房装束(にょうぼうしょうぞく)といいますが、その際、着物の一番上に豪華な唐衣(からぎぬ)を着ました(唐衣を脱ぐと略装になります)。唐衣を着る時には、腰から後方に装飾用の布を垂らしました。これが、裳です。 成人した女性は、化粧をすることになります。本文中に述べたように、当時の寝殿造の建物は広く暗かったため、コントラストがはっきりした顔が好まれました。そこで、白粉(おしろい)で顔を白く塗りたくり、毛抜きで眉を引き抜いて、黛(まゆずみ)で眉を描き直しました(引き眉)。唇には紅をつけ、歯を黒く染めました。 成人式は、現代同様、平安時代も女性の方がたいへんだったのです。 |
「栄花物語の記すところによれば、道長は立てまわした屏風の西側をあけて、九体の阿弥陀仏に面し、西向き北枕に臥した。これは釈尊入滅の姿勢である。そして手には阿弥陀仏から引いた糸を取り、ひたすら仏をあおぎ、念仏をとなえるのみであった。堂の内外では不断念仏がおこなわれ、瞬時も休まず念仏の声がひびく。
( 中略 )
こうして、入道前摂政太政大臣従一位藤原朝臣道長は、その62年の生涯を終えた。」
(道長は万寿4(1027)年12月4日に逝去した。土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』1973年、中公文庫、P.438)