17.国際関係の変化

「しかし、この方針は、二ヶ月ばかりのうちに変化する。すでに遣唐大使に任じられていた菅原道真は、九月になって派遣を再考するするよう、使節を代表して公卿達の審議を要請した。そこで派遣中止を諮(はか)る根拠とされたのは、中かんが伝えていた唐の国情である。中かんは「大唐凋弊(ちょうへい)」の様を縷々(るる)述べて、朱褒(しゅほう)の要請は伝達するものの、遣唐使を派遣すること自体には反対する意見を添えていた。それが道真はじめ、任命された遣唐使人たちを動かしたらしい。」

 (東野治之『遣唐使』2007年、岩波新書、P.55) 


 

遣唐使派遣の中止



① 遣唐使の派遣計画


  894(寛平6)年、長らく中断していた遣唐使の派遣計画が、突然、持ち上がりました。唐の商人王訥(おうとつ)が日本にもたらした中かん(かんは「王」に「灌」の右側。ちゅうかん。当時、唐に滞在していた日本僧)の手紙の中に、次のような派遣要請の文面があったからです。「長らく日本から唐朝への朝貢がない。ついては一度遣唐使を出して欲しい」と。

 その要請は、江南に勢力をもつ朱褒(しゅほう)なる人物によるものでした。おそらく朱褒は、久しぶりの遣唐使派遣を、唐帝の徳治を慕った朝貢使の来航と見なして、皇帝を褒めちぎる心積もりだったのでしょう。点数稼ぎをして、自らの権力基盤を強固にしようと考えたのかもしれません。

 聞けば、朱褒は唐帝から寵愛されているということですし、日本としては、そうした有力者の申し出を無下に断ることもできなかったのでしょう。この時の遣唐使派遣計画は、もともと日本側の受け身の形で始まったものでした。
 

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② 派遣の中止


 ところが、遣唐大使に任じられた菅原道真(845~903)は、程なく遣唐使派遣の中止を建議しました。すでに唐は、8世紀に起こった安禄山・史思明の乱(あんろくざん・ししめいのらん。安史の乱。755~763)以降、衰退を続けており、多くの危険をおかしてまで公的な交渉を続ける必要がないというのが、その主な理由でした。道真の意見が入れられ、この時の遣唐使の派遣は「中止」と決まりました
(注)

 結局、遣唐使は派遣されることは、二度とありませんでした。なぜなら、黄巣の乱(こうそうのらん。875~884)によってひどく衰えた唐は、907(延喜7)年、ついに滅んでしまったからです。

 なお、「894年に遣唐使が廃止された」という表現されることがよくあります。これは「廃止」ではなく「中止(または停止)」と表現した方が適切でしょう。894年に提案されたのは、遣唐使の制度自体の廃止ではありませんでした。894年の段階で遣唐使が「廃止」されていないことは、894年以降も菅原道真が遣唐大使の役職名を名乗っていることや、10世紀前半に編纂された『延喜式』に遣唐使に関する条文が多いことなどからも裏付けられます。


(注)遣唐使派遣の中止決定は、従来「寛平6(894)年9月30日」とされてきました。しかし、それが疑わしいことは明らかになっています。中止について、いつ、どのような判断が示されたのかは不明です。


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国際関係の変化



① 宋との交流 
 

  中国では唐の滅亡後、華北の中原(ちゅうげん)で後梁(こうりょう)・後唐(こうとう)・後晋(こうしん)・後漢(こうかん)・後周(こうしゅう)の五つの王朝が興亡しました。これらの王朝を五代(ごだい)と称します。他の地方には十の国々が興亡したので、これら諸王朝を総称して五代十国(ごだいじっこく)といいます。

 この五代十国時代の混乱を収拾して、中国の再統一を果たしたのは、趙匡胤(ちょうきょういん)が建国した北宋。960~1127)でした。

 日本と宋との間には正式な国交はありませんでした。しかし、両者間の私的な交流は活発におこなわれました。 宋の商人は、九州の博多に書籍・陶磁器(青磁・白磁)・薬品などをたずさえてやってきて、かわりに金・水銀・真珠などを持ち帰りました。

 また、朝廷の許可を得て宋にわたる僧たちもいました。奝然(ちょうねん。938~1016。東大寺学僧)、寂照(じゃくしょう。?~1034。天台僧。日宋文化交流に寄与)、成尋(じょうじん。1011~1081。天台僧。聖地を巡礼し、『参天台五台山記』を著す)らが有名です。なかでも奝然が持ち帰った釈迦如来像は、京都嵯峨にある清涼寺(せいりょうじ)に安置されて人びとの篤い信仰を獲得しました。奝然は無事帰国しましたが、寂照と成尋はともに故国の地を踏むことはありませんでした。


 ◆清涼寺式釈迦如来(せいりょうじしきしゃかにょらいぞう)

 京都の清涼寺(せいりょうじ。嵯峨釈迦堂)の本尊は、入宋した奝然(ちょうねん)が台州開元寺にあったインド伝来の釈迦像を、中国人仏師に模刻させてわが国に持ち帰ったもの。像高は160cm。「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」とも称されますが、彫刻に使われた用材は栴檀ではなく、「魏氏桜桃(ぎしおうとう)」とよばれる中国産のサクラ材ということがわかりました。

 どことなくガンダーラ仏を彷彿(ほうふつ)とさせる像容です。頭髪は渦巻形(うずまきがた)、目は切れ長で、着衣は両肩にまとっており、見慣れたわが国の仏像とは趣を異にしているからでしょう。

 仏像の胎内からは、造像の由来を示す資料をはじめ、26品目250点もの納入品が発見されました。とりわけ注目されたのは、絹製の五臓六腑(ごぞうろっぷ。内臓)が納められていたことでした。世界最古の内臓模型といわれます。本像が「生身仏(しょうじんぶつ。生身の釈迦像)」と見なされたことを示す証拠です。

 本像(清涼寺の本尊)を模刻した仏像を、清涼寺式釈迦如来像といいます。オリジナル(開元寺)の模刻(清涼寺)から模刻した、ということになります。清涼寺式釈迦如来像は現在、日本各地に百体ほど存在することが知られています。ただし、清涼寺の本尊を「直接模刻したと確認されるのは奈良西大寺の本尊のみ」(『平凡社大百科事典・第8巻』(1985年)、「清涼寺式釈迦(光森正士氏執筆)」の項目)だそうです。


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② 遼(りょう)と高麗(こうらい)


  中国東北部では、耶律阿保機(やりつあぼき。872~926)が率いる契丹(キタイ)族が、(契丹(きったん)。916~1125)を建国しました。遼は926年、奈良時代以来わが国と親交のあった渤海(ぼっかい)を滅ぼしました。

 朝鮮半島では、新羅(しらぎ)の内乱状態が続きました。935年、王建(おうけん。877~943)が建国した高麗(こうらい。918~1392)が新羅を滅ぼし、半島を統一しました。

 しかし、日本はこれらの諸国とも、正式に国交を結ぶことはありませんでした。

 ただ、1019(寛仁3)年、刀伊(とい。異民族の意)と呼ばれた沿海州地方の女真族(じょしんぞく)が、北九州を襲うという事件が起こりました(刀伊の来襲、刀伊の入寇)。大宰権帥(だざいのごんのそち)藤原隆家(ふじわらのたかいえ)や地元武士たちの奮戦によってその来襲を撃退しはしたものの、この時、多くの日本人が刀伊によって連れ去られてしまいました。しかし、これら捕虜を、高麗が刀伊から奪い返し、日本に送還してくれたのです。正式な国交はなかったものの、高麗とわが国との間には友好的な関係が続きました。


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