●藤原北家の発展と他氏排斥● |
●延喜・天暦の治 -理想とされた天皇親政の時代-● |
●摂関政治● |
◆平安時代の天皇はマザコン? 摂政・関白となる藤原氏は、娘を入内させて皇子を生ませ、将来の天皇の外祖父となって影響力を行使しました。しかし、それにも増して、天皇の母親の影響力が大きかった事実も見逃せません。 天皇は譲位すると、内裏から宮城外に出ることになっていました。これは嵯峨天皇以来の慣例で、平城太上天皇の変(810)における「二所朝廷(にしょのみかど)」のような混乱を避けるための措置でした。ですから、譲位すると上皇は、息子である天皇と別居したのです。 しかし、天皇の母親は、子の天皇が即位すると天皇とともに内裏に住みました。即位の儀に際しては天皇とともに高御座(たかみくら)にのぼり、天皇が幼い時には後見し、政務は母親の御前において行われました。 こんな有様でしたから、摂関任命に際しても、天皇の判断は母親の意向に左右されることが間々ありました。円融天皇が藤原兼通を関白に任じたのは母親安子(兼通の妹)の遺命によるものでしたし、一条天皇が藤原道長を内覧に任命したのは母親詮子(道長の姉)の命令に逆らえなかったからでした。 当時の天皇にとって、母親の呪縛から解き放たれて自立することは、現代のマザコン青年よりもたいへんなことだったでしょう。 【参考】 ・古瀬奈津子『摂関政治 シリーズ日本古代史⑥』2011年、岩波新書、P.25~26 |