16.摂関政治

「時は移って、10月16日がきた。この日、宮中で威子立后の儀が行われた。式のあと、恒例の管絃の遊びに移り、祝宴の座が賑わい、その席上で、道長は、実資に声をかけて自分はいま和歌を披露するから必ず和せといい、いくらか照れながら詠んだのが、

  この世をばわが世とぞおもふ望月の欠けたる事もなしと
  おもへば


の著名な一首である。( 中略 )

 しかし、これが大殿の本音でなくて何であろう。酔余の即興をよそおって、諸卿のまえで、この日のおさえきれぬ満悦の思いをきかせたかったのだ。」

(北山茂夫『藤原道長』1970年、岩波新書、P.168~P.169) 


 

藤原北家の発展と他氏排斥



 平安時代の初期、桓武天皇(位781~806)や嵯峨天皇(位809~823)が貴族たちをおさえて強い権力をにぎり、国政を指導しました。この間、藤原氏は藤原種継の暗殺(785)・平城太上天皇の変(810)などによって式家(しきけ)が没落し、代わって、天皇家との結びつきを強めた北家(ほっけ)が、しだいに勢力をのばしていきました。

 平城太上天皇の変に際し、北家の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ。775~826)は嵯峨天皇の厚い信任を得て蔵人頭(くろうどのとう)になり、娘の順子(じゅんし。809~871)は正良親王(まさらしんのう。のちの仁明天皇(にんみょうてんのう)。810~850)の妃になりました。藤原北家は、皇室と姻戚関係を結びつつ、対抗する他氏勢力を中央政界から排斥して、その政治的地位を不動のものとしていきました。

 藤原氏による一連の他氏排斥事件(承和の変、応天門の変、阿衡の紛議、昌泰の変、安和の変)を、順次見ていきましょう。


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① 承和(じょうわ)の変(842、承和9)


 嵯峨上皇が亡くなると、伴健岑(とものこわみね。?~?)・橘逸勢(たちばなのはやなり。唐風書道の名手「三筆」の一人。?~842)が、皇太子の恒貞親王(つねさだしんのう。825~884)を立てて謀反を計画したという理由で、流罪に処せられました(健岑は最初隠岐、のちに出雲に移されました。逸勢は伊豆へ移送される途上で病死、のちに無罪だったとされました。そのため怨霊になったと考えられ、六所御霊の一人に数えられました)。累は60名余りに及び、恒貞親王(つねさだしんのう。825~884)は皇太子を廃され、代わって道康親王(みちやすしんのう。827~858)が皇太子に立てられました。この事件を、「承和の変」(842)といいます。

 恒貞親王は、淳和天皇(じゅんなてんのう)と正子内親王(せいしないしんのう)との間に生まれた男子で、藤原氏と姻戚関係がありませんでした。

 一方の道康親王は、仁明天皇(にんみょうてんのう。位833~850)と大納言藤原良房(ふじわらのよしふさ。804~872)の妹順子(じゅんし。809~871)との間に生まれました。のちの文徳天皇(もんとくてんのう。位850~858)です。

 承和の変は、藤原良房が甥の立太子をはかるために仕組んだ陰謀と見られていますが、この事件を機に、伴健岑・橘逸勢ら他氏族の勢力が退けられ、北家の優位が確立しました。


《 最初の摂政・良房 》


 858(天安2)年、清和天皇(位858~876)がわずか9歳で即位しました。清和天皇は、文徳天皇と良房の娘明子(めいし。正しくは「あきらけいこ」です。828~900)との間に生まれた男子です。天皇とはいえ、あまりにも幼少で政務をみることができませんでしたから、天皇の外祖父である良房が実質的に摂政の役割を果たしました。

 それまで皇族以外の者が摂政をつとめた例はありませんでした。良房が、「人臣摂政」の最初の例となりました。なお、良房が正式に摂政に就任したのは、応天門の変(866)の時です。


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② 応天門の変(866、貞観8)


 応天門(おうてんもん)は宮城十二門の一つで、朝堂院の正門にあたります。かつてここは、守衛していた大伴氏の名を付し、大伴門(おおとももん)といいました。なお、大伴氏は、淳和天皇(じゅんなてんのう)の諱(いみな)の大伴を避け、823(弘仁14)年に伴氏(ともし)と改称しました。

 866(貞観8)年、応天門が放火されるという事件が起こりました。はじめ左大臣源信(みなもとのまこと)に嫌疑がかけられましたが、のち大納言伴善男(とものよしお。809~868)とその子伴中庸(とものなかつね)、紀豊城(きのとよき)らが真犯人と告発されました。伴善男・伴中庸らは遠流となりましたが、清廉潔白な能吏として知られた紀夏井(きのなつい。?~?)までもが、異母弟豊城に縁坐して流罪となりました。

 事件の真相は不明ですが、その背後には当時台頭してきた伴善男と、太政大臣藤原良房・左大臣源信ら嵯峨源氏との政治的対立があったといわれます。この事件を契機に伴・紀両氏は没落し、良房は清和天皇の摂政に正式就任し、その権力基盤を固めることになりました。

 なお、平安時代末に、説話化されたこの事件を絵巻物にしたのが、『伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)です。


《 最初の関白・基経 》


 良房のあとを継いだのが、基経(もとつね。836~891)です。基経は、良房の兄長良(ながら)の子で、良房の猶子(ゆうし。「猶(な)お子のごとし」という、養子より緩い親子関係を意味します)としてその後継者になりました。

 基経は、若い陽成天皇(ようぜいてんのう。位876~884)と対立しました。陽成天皇といえば、百人一首に採られた「筑波嶺(つくばね)の峰より落つる男女川(みなのがわ)恋ぞつもりて淵となりぬる」の和歌で有名ですね。しかし、陽成天皇は乱行が絶えず、宮中で殺人事件まで起こしてしまったといわれています。そのため、「とても天皇の器ではない」と判断した基経によって、退位させられてしまいました。

 代わって即位したのが光孝天皇(こうこうてんのう。位884~887)でした。光孝天皇は、即位当時55歳という高齢でした。基経の強い支持があった上での即位でしたので、天皇は基経に対して遠慮がありました。884(元慶8)年、光孝天皇は、基経をはじめて関白に任じると、皇子たちを臣籍降下(しんせきこうか)させました。自らの子どもたちを、天皇後継者にしない意志を表明したのです。

 しかし、基経は、光孝天皇が病になると、その子・源定省(みなもとのさだみ)を、次期天皇として支持しました。宇多天皇(うだてんのう。位887~897)です。ひとたび臣籍降下した皇子が、即位したのは前代未聞です。基経が宇多天皇に恩を売った形になりました。


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③ 阿衡(あこう)の紛議(阿衡事件) -基経の出仕拒否で国政がストップ-


 宇多天皇は光孝天皇を父とし、班子(はんし)女王を母としました。すなわち、藤原氏を外戚としない天皇だったのです(ちなみに、藤原氏を外戚としない天皇はこのあと、171年後の後三条天皇の登場まで待たなければなりません)。そこで、その即位にあたっては、藤原氏から天皇に対しての牽制がありました。「阿衡の紛議(あこうのふんぎ。887~888)」という事件です。そのあらましは、次のようなものでした。

 宇多天皇は即位にあたり、基経を関白に任命する詔書を出しました。これは「関白」の語の初見です。当時の慣例に従い、基経がその就任を一度辞退したので、宇多天皇は再度、関白就任を要請する詔を出しました。その中に「阿衡(あこう)の任を以(もっ)て卿(けい)の任となせ」という文章があったのです。この文言に対し、藤原佐世(ふじわらのすけよ)という学者が「中国古典にみえる阿衡という官職は、名ばかりの名誉職である」と難癖をつけました。

 佐世の意見を聞いた基経は、半年もの間、出仕を拒否するという実力行使に出ました。太政官の最高権力者が政務を放棄してしまったわけですから、国政はまったく滞ってしまいました。基経の嫌がらせに困り果てた天皇は詔書を撤回し、起草者の橘広相(たちばなのひろみ)を処罰することによって事件の決着をはかりました。

 この事件の背景には、藤原佐世と橘広相との対立があったと言われています。臣下の示威行動に天皇が膝を屈する形で決着を見たこの事件によって、基経は関白の政治的地位を確立したのです。


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④ 昌泰
(しょうたい)の変(901、昌泰4) -菅原道真の左遷-


 891(寛平3)年に基経が亡くなると、阿衡の紛議に懲りたのか、宇多天皇は摂政・関白をおきませんでした。そして、学者出身の菅原道真(すがわらのみちざね。845~903)を重く用いて、若い藤原時平(ふじわらのときひら。871~909)に対抗させました。

 しかし、宇多天皇が引退し、醍醐天皇(だいごてんのう。位897~930)が即位すると、藤原氏は策謀を用いて政界からの道真追い落としをはかります。「道真が娘婿(むすめむこ)の斉世(ときよ)親王を天皇に据えようと画策している」と時平が醍醐天皇に讒言(ざんげん)したことにより、右大臣だった道真は大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されてしまいます。大宰府に追放された道真は、失意のうちにほどなく亡くなってしまいました。

 その後、左大臣藤原時平が39歳で亡くなりました(909)。ついで、醍醐天皇の皇太子保明(やすあきら)親王が21歳の若さで亡くなり(923)、その子で新たに皇太子となった慶頼王(よしよりおう)も5歳で亡くなってしまいました(925)。さらには、清涼殿に落雷があり、貴族たちが即死・負傷するという大事件がおこりました(930)。これをきっかけに醍醐天皇までも病の床に伏し、その年のうちに、34歳で亡くなってしまったのでした(930)。

 世間の人びとは、一連の不吉な事件の原因を、道真の怨霊の祟りに求めました。道真の怨霊をなぐさめるため、京都に北野神社が創建されました(『北野天神縁起絵巻』)。道真は天神としてだけでなく、のちには学問の神として人びとの信仰を集めるようになりました。


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⑤ 安和
(あんな)の変(969、安和2)-他氏排斥の最後の事件-


 村上天皇(位946~967)の死後の 969(安和2)年、左大臣の源高明(みなもとのたかあきら。914~982)が大宰府に左遷されるという事件が起こりました。これを「安和の変」といいます。

 藤原氏に侍として仕えていた源満仲(みなもとのみつなか。913~997)らが、橘繁延(たちばなのしげのぶ)・源連(みなもとのつらぬ)の謀反を密告したのが発端でした。ただちに橘繁延・藤原千晴(ふじわらのちはる)ら一味の者たちが逮捕・尋問され、累は源高明にまで及びました。高明は出家して京にとどまることを願いましたが許されず、天皇を廃しようとした罪で、大宰権帥として流されてしまいました。


《 源高明という人物 》


 源高明は醍醐天皇の皇子でしたが、母の身分が低かったため、源姓を賜って臣籍に降下した人です。官人としての道を歩むなか、順調に出世して、村上天皇の時代には左大臣にまでのぼりつめ、「西宮左大臣」と呼ばれました。高明は政務にも明るく、『西宮記(せいきゅうき、さいきゅうき、さいぐうき)』という有職故実書を著作するほどの学識もありました。


《 なぜ、安和の変が起こったのか 》


 967(康保4)年、冷泉天皇(れいぜいてんのう。位967~969)が即位しました。冷泉天皇は、即位前からしばしば奇行が見られた人です。梁(はり)の上にのせようと鞠(まり)を一日中蹴り続け、足が負傷してもやめなかったり、番小屋の屋根に登ってうずくまっていたりするなどということがありました。また、天皇即位後も、神璽(しんじ。三種の神器のひとつ、まが玉)の入った箱を開けようとしたり、宮中に伝わる名笛を刀で削ってしまったり、宮中で大声で歌ったりするなど、常軌を逸した行動が続きました。当時の人びとは、天皇には物怪(もののけ)が取り憑いているのだと噂し合いました。

 冷泉天皇には皇子がいないこともあって、即位するや、後継者を決めておくことにしました。天皇の弟の為平親王(ためひらしんのう。16歳)と守平親王(もりひらしんのう。9歳。のちの円融天皇)が候補になりました。年齢からすれば、兄の為平親王が皇太弟になるのが順当でした。しかし為平親王の妃は、高明の娘でした。為平親王が天皇になり、皇子が生まれでもしたら、高明が外戚になる恐れがあったのです。そこで藤原氏は、年長の為平親王ではなく、年下の守平親王を擁立しました。さらには、不安の芽を完全に摘み取るために、高明を都から追放してしまったのです。


《 安和の変の意義 》


 源高明の失脚によって、藤原氏の他氏排斥は終了しました。藤原北家の勢力は不動のものとなり、その後は、ほとんど摂政・関白が常置されるようになりました。そして、摂関の地位には、藤原忠平(ふじわらのただひら。880~949)の子孫がつくのが慣例となりました。

 なお、この時、源高明に連坐して、藤原千晴が流されました。千晴は平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷(ふじわらひでさと。?~?)の子で、源高明と主従関係を結んでいました。源満仲は、密告によって藤原氏との主従関係を強化したばかりでなく、対抗する藤原秀郷流の武士団を葬り去ったのです。こうして清和源氏が桓武平氏とともに、武士の棟梁として発展していくことになるのです。


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延喜・天暦の治 -理想とされた天皇親政の時代-



 10世紀の前半は、醍醐・村上天皇が親政をおこないました。天皇親政が行われたこの時代は、後世理想化されて、「延喜・天暦の治」とたたえられました。

 醍醐天皇の時代には、班田を励行し、延喜の荘園整理令(902。荘園整理令の最初)を出すなど、律令政治の復興に努力がはらわれ、また『日本三代実録』(901。六国史の最後)や『古今和歌集』(905。八代集の最初)・『延喜格式』(格907、式927にそれぞれ完成。三代格式の最後)の編纂などの文化事業もおこなわれました。

 村上天皇も父醍醐天皇の方針を受け継いで、乾元大宝(けんげんたいほう。958。本朝十二銭の最後)を発行するなどしました。

 しかし、やがて都や地方の治安が乱れ、律令にもとづく政治はほとんどおこなわれなくなりました。三善清行(みよしきよゆき。847~918)が地方政治の衰退を嘆いて『意見封事十二箇条』(914)を醍醐天皇に呈上したのがこの時期でしたし、三代格式・六国史・本朝十二銭など一連の国家事業がすべて途絶したのもこの時期でした。

 こうした天皇親政の時期の狭間(はざま)に、朱雀天皇(すざくてんのう。位930~946)の時代がありました。この時期、摂政・関白をつとめ、太政官の頂点に立って権力をにぎっていたのが、時平の弟藤原忠平でした。

 また、この時期は、地方で天慶の乱(てんぎょうのらん)という大規模な武士の反乱が起こった時期でもありました。社会の変化は地方でも確実に進行していたのです。


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●摂関政治●



 摂政は天皇に代わって「万機(ばんき)を摂行(せっこう)する」職です。天皇が幼少の期間、その政務を代行しました。関白は天皇の成人後に、その後見役として政治を補佐する地位であり、摂政のように政務を代行するものではありません。

 摂政・関白が引き続いて任命され、政権の最高の座にあった10世紀後半から11世紀ごろの政治を摂関政治とよび、摂政・関白を出す家柄を摂関家と称しました。摂政・関白は藤原氏のなかで最高の官位を持つものとして、藤原氏の「氏長者(うじのちょうじゃ)」を兼ね、氏全体を統率し、絶大な権力をにぎりました。


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① 摂政・関白を独占した家柄(北家→九条流→御堂流) 


 初代の良房が北家出身で、その猶子基経、さらにその子忠平(ただひら)が摂政及び関白に任命されたことから、「良房の子孫が摂政や関白に任命されるものだ」という観念が生じました。そのため当初、摂政・関白に任命されるには、藤原北家の出身者、天皇の外戚、そして現職大臣であることが、その必要条件となりました。

 忠平の子の一人、藤原師輔(ふじわらのもろすけ)は、自らは摂政・関白に就任することはなかったものの、その子孫が相次いで摂政・関白に就任しました。師輔を祖とする系統を九条流(くじょうりゅう)といいます。

 安和の変後、藤原氏の他氏排斥が完了すると、師輔の子孫たち(九条流)の間で、摂政・関白の地位をめぐって骨肉の争いが起こるようになりました。たとえば、藤原兼通・兼家の兄弟の争い、藤原道長・伊周の叔父・甥の争いは有名です。こうした藤原氏の内部抗争も、10世紀末の藤原道長(966~1027)の時代になるとようやくおさまりました。

 道長は4人の娘を皇后や皇太子妃とし、30年にわたって朝廷で大きな権勢をふるいました。摂政・関白の地位は道長の子孫に継承されることになりますが、この系統の人びとを御堂流(みどうりゅう)といいます。


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② 摂関政治の最盛期は道長・頼通の時代


 寛仁2(1018)年10月16日、藤原道長は、一家から3后を出すという前代未聞の慶事に喜びを隠せませんでした。道長が得意の絶頂にあった様子は、藤原実資
(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記』(注の記事によって知られます。そこには、


 
(こ)の世をば我が世とぞ思ふ望月(もちづき)の かけたることも無しと思へば


という、道長が自ら栄耀栄華を誇って詠んだ和歌が記録されているのです。

 道長は、摂関政治の権化(ごんげ)のように評価されます。道長が建立した壮麗な法成寺(ほうじょうじ。焼失して現存せず)にちなみ、道長を「御堂関白(みどうかんぱく)」、その日記を『御堂関白記』と称します。しかし、道長は摂政や内覧(ないらん)の地位にあったことはありますが、意外にも関白になったことはありません。しかも、道長が摂政の任にあったのでさえ、後一条天皇即位後のわずか1年間に過ぎないのです。

 長年にわたり、道長は左大臣でした。一上(いちのかみ。太政官の政務や儀式を主催する公卿を上卿(しょうけい)といい、「一上」は「第一の上卿(上卿の筆頭)」の意。通常は左大臣)として政務を取り仕切るとともに、内覧を兼帯しました。内覧とは関白に準じた職務で、太政官から天皇に奏上される文書や天皇から太政官に下す文書を事前に内見し、天皇を補佐する役目です。内覧の役割は関白の権能とほとんど変わりませんが、摂政・関白になると公卿議定に関与できなくなるという慣行がありました。道長は、関白という名誉よりも、太政官の政務や儀式を主催するという実質的な権力の方を選んだのでした。

 道長のあとを継いだ藤原頼通(よりみち。992~1074)は、道長の外孫にあたる後一条(位1016~1036)・後朱雀(位1036~1045)・後冷泉(位1045~1068)3天皇に仕え、50年の長きにわたって摂政・関白をつとめました。宇治にあった頼通の別荘(のち寺として「平等院」と号しました)にちなみ、「宇治殿(うじどの)」とよばれました。


(注)『小右記』を残した実資は藤原実頼(忠平の子の一人)の子孫で、この系統を小野宮流(おののみやりゅう)といいます。同じ忠平の子孫でも、摂政・関白を独占した九条流とは異なり、小野宮流は朝廷の故実典礼に通じた人物を輩出しました。たとえば、実資は『小野宮年中行事』という朝廷の儀式書や、小野宮家の作法を記した有職(ゆうそく)書を残しています。「三舟(さんしゅう)の才」で有名な藤原公任(きんとう)も、小野宮流です。なお、『小右記』という書名は、「小」野宮家の「右」大臣である藤原実資の日「記」、の意です。


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③  摂関政治を支えた婚姻の仕組み


 摂関政治が成り立つ背景には、当時の貴族社会の婚姻の仕組みがありました。その仕組みを婿入婚(むこいりこん)、または招婿婚(しょうせいこん)といいます。

 男女の出会いの場が限られていた当時は、未婚女性の優美な噂を聞きつけた未婚男性が、垣根の合間などからそっとのぞき見し(これを垣根の間から見るので、垣間見(かいまみ)といいます)、和歌の贈答からおつきあいが始まります。その後三日間、男性が女性宅に夜通います。女性の母親は、男性が滞りなく通ってくることを願い、その沓(くつ)を抱いて寝ます。朝になって帰宅した男子は女性に歌を送り、女性は返歌をします(後朝(きぬぎぬ)の別れ)。こうして三日間が過ぎると、男性は女性の家で食事(三日夜餅(みかよのもち)の儀)をし、露見(ところあらわし)の儀式(現在の披露宴)を経て婚姻が成立しました。結婚した男女は妻側の両親と同居するか、新居を構えて住むのが一般的でした。夫は妻の父の庇護を受け、また子どもが生まれると、母方の手で養育されました。

 摂政・関白は、もっとも身近な外戚(がいせき。母方の親戚)として天皇に近づき、伝統的な天皇の高い権威を利用して、大きな権力をにぎったのです。

 なお、外戚は当時「げじゃく」と呼ばれ、その指し示す範囲は自分の生母の父、または兄弟というのが慣例でした。つまり、外祖父および母方の伯叔父が外戚であって、これ以外は外戚には含まれませんでした(『日本歴史大系1、原始・古代』1984年、山川出版社、P.817~818)。


 ◆平安時代の天皇はマザコン?

 摂政・関白となる藤原氏は、娘を入内させて皇子を生ませ、将来の天皇の外祖父となって影響力を行使しました。しかし、それにも増して、天皇の母親の影響力が大きかった事実も見逃せません。

 天皇は譲位すると、内裏から宮城外に出ることになっていました。これは嵯峨天皇以来の慣例で、平城太上天皇の変(810)における「二所朝廷(にしょのみかど)」のような混乱を避けるための措置でした。ですから、譲位すると上皇は、息子である天皇と別居したのです。

 しかし、天皇の母親は、子の天皇が即位すると天皇とともに内裏に住みました。即位の儀に際しては天皇とともに高御座(たかみくら)にのぼり、天皇が幼い時には後見し、政務は母親の御前において行われました。

 こんな有様でしたから、摂関任命に際しても、天皇の判断は母親の意向に左右されることが間々ありました。円融天皇が藤原兼通を関白に任じたのは母親安子(兼通の妹)の遺命によるものでしたし、一条天皇が藤原道長を内覧に任命したのは母親詮子(道長の姉)の命令に逆らえなかったからでした。

 当時の天皇にとって、母親の呪縛から解き放たれて自立することは、現代のマザコン青年よりもたいへんなことだったでしょう。

【参考】
古瀬奈津子『摂関政治 シリーズ日本古代史⑥』2011年、岩波新書、P.25~26


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④  受領を目指す中・下級の貴族たち


 摂政・関白は、役人を任命・罷免する人事権に深く関与していました。そこで、中・下級の貴族たちは、県召除目(あがためしのじもく。春、地方官を任命する儀式)や司召除目(つかさめしのじもく。秋、中央官を任命する儀式)で実入りのよい官職に就けるように、摂関家に取り入るという任官運動を行いました。

 藤原氏の一族によって高位高官が独占されて、中央政界での立身出世はもはや望めませんでしたから、中・下級の貴族たちは、地方で国司になることを求めました。任地に赴任する国司を受領(ずりょう)といい、経済的に有利な赴任国のことを「温国(おんごく)」といいました。

 では、温国の受領を射止めるには、どのようにすればよいのでしょう。そのための手段の一つが成功(じょうごう)と呼ばれる手段でした。たとえば、寛弘年代(1004~1012)には2度も内裏が焼亡しました。この頃、国家財政は底をついていたものですから、その造営については、多くを受領の分担に頼らざるを得ませんでした。そこで、造営を引き受けた褒美として、受領に望む官職(温国の受領)を与えたわけです。

 成功は、政府にとって自らの財布をいためることのない都合のよい方法でした。しかし、受領は任官運動のために費やした資材・労力を赴任地で取りもどそうとするわけですから、それらの負担は、結局は地方民に転嫁(てんか)されることになりました。地方の疲弊は、ますますひどくなったのです。


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⑤  摂関政治期の政治運営はどのようにしたか


 かつては、摂関政治期の政治運営は、摂関家が自らの私的家政処理機関である政所で、国政までも牛耳っていたと説明されました。しかし、実際にはそのようなことはなく、摂関政治のもとであっても、天皇が太政官を通じて中央・地方の諸役人を指揮して、全国を統一的に支配するという形をとっていたのです。

 政務は太政官における公卿会議での審議を経て、天皇または摂政の決裁を受け、太政官符や宣旨などによって命令・伝達されました。重要事項の審議については、内裏の左近衛(さこのえ)の陣という場所でおこなわれる陣定(じんのさだめ)という会議で、公卿各自に意見を求めて決済されました。

 しかし、朝廷の政治はしだいに先例や儀式を重視する形式的なものとなり、年中行事が発達しました。反面、地方政治は国司に丸投げされ、中央政府が積極的な政策をおこなうことはみられなくなっていきました。


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