●文化の特色● |
●唐風文化の発展● |
書 名 | 成立年 | 撰 者 |
内 容 |
『凌雲集』1巻 | 814 (弘仁5) |
小野岑守(おののみねもり) | 序文によれば、782(延暦元)年から814(弘仁5)年までの作者23名の漢詩90首(現存本では24名91首)を作者の爵次によって配列したものです。 |
『文華秀麗集』3巻 | 818 (弘仁9) |
菅原清公(すがわらのきよとも)・滋野貞主(しげののさだぬし)ら | 序文によれば、148首を収録(現存本では143首)。遊覧・宴集・餞別・贈答など、整然と部類分けされています。 |
『経国集』20巻 | 827 (天長4) |
菅原清公・滋野貞主ら | 奈良時代から当代までの漢文学の集大成を目指して編纂されましたが、現存本は6巻のみです。序文によれば、作者178名、賦17首、詩917首、序51首、対策38首が収録されていたといいます。 |
●平安仏教● |
●密教芸術● |
◆仏像の高さ 仏像の高さを像高(ぞうこう)といいます。地面から頭のてっぺんまでの高さです。 ただ、同じ像高の仏像を造っても、頭上に化仏(けぶつ)がのっている十一面観音像と、坊主頭の地蔵菩薩像では、前者は顔が小さく、後者は顔が大きくなってしまいます。 そこで、像高で揃えるのではなく、からだの大きさで揃える工夫が考え出されました。地面から髪の生え際までの高さを基準にして、仏像をつくるのです。これを髪際高(はっさいこう)といいます。平安時代後半からは、髪際高で造像することが普通になりました。 ところで、聖武天皇は国分寺を造る際、堂内に1丈6尺の釈迦如来像(「丈六(じょうろく)」仏)を安置するよう命じました。1丈6尺というのは、約4.8mです。お釈迦様の身長は普通の人間の2倍あったといわれ、これが実物大とされています。これが事実なら、お釈迦様はとんでもない巨人です。しかし、普通の人間が8尺(約2.4m)あるというのも、実際の平均身長からかけ離れていて、とうてい納得できませんね(そこで、実際の人間の身長を基準にした仏像も造られました)。 こんな大きな仏像ばかり造っていたのでは、お金も時間もかかって仕方ありません。そこで「丈六」を基準にして、1/2(半丈六)とか1/10とかに縮小した仏像が造られるようになりました。 |
◆「五筆和尚(ごひつおしょう)」-書にまつわる空海の伝説- 空海といえば、「弘法は筆を選ばず」・「弘法も筆の誤り」などの諺があるように、能書家として知られます。同じ能書家の嵯峨天皇とともに「二聖」と称せられました。これに橘逸勢(たちばなのはやなり)を加えたのが「三筆」です。 能書家ゆえ空海には、書にまつわるとんでもない伝説が豊富に残されています。たとえば、『水鏡』には次のような話が書きとめられています。 唐(もろこし)にても、御殿の壁の二間(ふたま)侍(はべ)るなかに、羲之といひし手かきの物を書きたるが、年久しくなりて崩れにければ、又改められて後、大師にかき給へと唐の帝申し給(たま)ひければ、五つの筆を、御口、左、右の御足、手にとりて、壁にとびつきて、一度に五行になん書き給ひける。この國に帰り給ひて、南門の額は書き給ひしぞかし。さて又応天門の額をかかせ給ひしに、上のまろなる点を忘れ給ひて、門にうちて後、見つけ給ひて、驚きて、筆をぬらして投げあげ給ひしかば、その所につきにき。見る人手をうち、あざむこと限(かぎり)なく侍りき。只空を仰ぎて文字を書き給ひしかば、其(その)文字現はれき。(和田英松校訂『水鏡』1930年、岩波文庫、P.101。旧漢字は現行のものに改めた) (唐の皇帝から求められ、宮殿の壁に文字を書くことになった。口・両手・両足で五本の筆を持って飛びつき、一挙に五行を書いた。帰国後、応天門の額の字を書いた時、あとになって「応」の字の上の点の書き忘れに気づいた。そこで、筆を投げあげてその点を加えた。空に文字を書く真似をすると、その文字が空に現れた。) 1本の筆を口にくわえて、両手・両足にそれぞれ2本ずつ筆を持ち、壁に飛びついて文字を書いたとする伝説から、空海は「五筆和尚」と呼ばれています。 |