15.弘仁・貞観文化

「真言宗は、空海が恵果の正当な流れを汲んでいたため、完成された形態として伝来した。したがって、以後、空海と比肩しうる僧侶は輩出しなかった。

 一方、天台宗は、最澄自身が空海から灌頂を受け、また空海に経典の貸し出しを求めたことからもわかるようにいまだ未完成の域にあった。だからこそ、後の時代になって、円仁・円珍のような入唐求法僧が現れたし、鎌倉新仏教の担い手たちの多くも、天台を出発点としながら、新たな宗派を興したとも言える。」

(川尻秋生『平安京遷都 シリーズ日本古代史⑤』2011年、岩波新書、P.77)                         



●文化の特色●



 平安遷都から9世紀末ごろまで(794年頃~894年頃)の文化を、弘仁(こうにん)・貞観(じょうがん)文化とよびます。弘仁・貞観というのは、嵯峨・清和両天皇の時の年号です。

 この時代は、平安京において貴族を中心とした唐風文化が発展しました。文芸を中心とした国家の隆盛をめざす文章経国(もんじょうけいこく)(注)の思想が広まり、宮廷では漢文学が発展しました。

 仏教では新たに伝えられた天台宗・真言宗が広まり密教がさかんになりました。


(注)文章経国 梁(りょう)の昭明太子(501~531)が編纂した『文選(もんぜん)』の中に、魏の文帝(曹丕、そうひ)の「文章は経国の大業、不朽の盛事」という言葉があります。文帝がいう「文章」とは、一家言(いっかげん)をなすような著作を意味しました。しかし、わが国では「文章」というと漢詩文を指し、「漢詩・漢文学は文化国家として経国の基礎である」という意味合いで、しばしば文帝のこの言葉を引用しました。勅撰漢詩文集の『経国集』は「文章経国」をそのまま書名にしています。


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●唐風文化の発展●



 中国風を重んじたこの時代、平安京の殿舎や宮城諸門の名前を唐風に改めたほか、朝廷での儀式・礼法、衣服など、すべて唐風に改めました。

 たとえば、宮を囲む大垣に開かれた宮城十二門には、それまで大伴(おおとも)門、建部(たけるべ)門、佐伯(さえき)門、伊福部(いふきべ)門など、武力で奉仕してきた氏族の名称が付けられていました。それらがすべて、応天(おうてん)門、待賢(たいけん)門、藻壁(そうへき)門、殷富(いんぷ)門などと、発音が似た、美しい漢字で表記された唐風の名称に改められました。

 また、この時期の官人には、漢詩文をつくり、それを中国風の書体で巧みに記すことが必要不可欠の能力とみなされました。たとえば、当時の法令の中には、しばしば中国古典からの引用がみられます。そこで政府は、文学に長じた貴族を政治に登用するなど、文人を国家経営に参加させる方針をとりました。


① 勅撰漢詩文集

 
 貴族の教養として漢詩文をつくることが重視されたため、漢文学がさかんになりました。最初はたどたどしい物真似だったものの、この時代には漢詩文に習熟して、自由に使いこなすようになりました。

 平安初期には『凌雲集(りょううんしゅう)』
(注)、『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』、『経国集(けいこくしゅう)』といった三つの勅撰漢詩文集があいついで編纂されました。それぞれの漢詩文集の特徴は次のようなものです。


(注)凌雲集 浮世離れしていて、遠く世俗を超越した心を「凌雲之志」といいます。「飄飄(ひょう)として凌雲の志あり」(『漢書』揚雄伝)が語源です。


   書 名  成立年     撰 者
          内  容
 『凌雲集』1巻  814
(弘仁5)
 小野岑守(おののみねもり)  序文によれば、782(延暦元)年から814(弘仁5)年までの作者23名の漢詩90首(現存本では24名91首)を作者の爵次によって配列したものです。
『文華秀麗集』3巻  818
(弘仁9) 
 菅原清公(すがわらのきよとも)・滋野貞主(しげののさだぬし)ら  序文によれば、148首を収録(現存本では143首)。遊覧・宴集・餞別・贈答など、整然と部類分けされています。
 『経国集』20巻  827
(天長4)
 菅原清公・滋野貞主ら  奈良時代から当代までの漢文学の集大成を目指して編纂されましたが、現存本は6巻のみです。序文によれば、作者178名、賦17首、詩917首、序51首、対策38首が収録されていたといいます。


 著名な文人としては嵯峨天皇・空海・菅原道真らが知られています。

 空海には、漢詩文作成についての評論集『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん』6巻や、弟子が編纂した漢詩文集『性霊集(しょうりょうしゅう)』(『遍照発揮性霊集(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)』)10巻などの著作があり、漢詩・漢文の方面に優れた文才を示しました。

 また菅原道真は、自作の漢詩・漢文を自ら撰した『菅家文草(かんけぶんそう)』12巻をつくり、醍醐天皇に献上しました。漢詩468首、散文169編がおさめられています。


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② 歴史書の編纂


《 菅原道真の『類聚国史』 》


 菅原道真は、六国史(『日本三代実録』を除く)を部門別に分類して『類聚国史(るいじゅうこくし)』200巻(現存は62巻)を、892(寛平4)年に完成させました。

 六国史の記述法は、私たちが日記を書くのと同じように、事柄を古いものから新しいものへと順番に配列した編年体でした。これでは、ある出来事を調べようとした際、本のページを一枚一枚めくって、目的の箇所を探し出さなければなりません。道真は、中国の『芸文類聚(げいぶんるいじゅう)』などの類書(事項別にそれに関する書籍を引用したもの)を手本に、それまでに完成していた五国史(『日本書紀』~『日本文徳天皇実録』)から原文を紙片(今でいうカード)に抜き書きし、それらを神祇・帝王・人・歳時など部門別に編集し直しました。こうして完成したのが『類聚国史(るいじゅうこくし)』です。

 『類聚国史』という検索しやすい便利な史料集が出現したため、官撰国史の利用は廃れてしまいました。その便利さゆえ、原典にあたって確認するという学問的良心がないがしろにされ、六国史の利用はもっぱら『類聚国史』の孫引きという形で行われるようになったのでした。


《 万多親王の『新撰姓氏録』 》


 万多親王(まんだしんのう。788~830)らが、京・畿内の古代氏族1182氏の系譜を集成したのが『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(30巻。目録1巻)です。

 『新撰姓氏録』は、氏族を皇別(天皇・皇子の子孫と称する335氏族。古くはおもに臣の姓を名のりました)・神別(天津神・国津神から別れたと称する404氏族。古くはおもに連の姓を名のりました)・諸蕃(渡来人系の326氏族)の三つに分類しました。氏族秩序の混乱を収拾するのが編纂目的だったといわれます。


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③ 教 育(大学別曹と綜芸種智院)


《 大学別曹 》



 大学での学問もさかんとなり、儒教を学ぶ明経道や、中国の歴史・文学を学ぶ紀伝道(文章道)が重んじられました。有力貴族は、一族子弟の教育を奨励するために、寄宿舎を設けました。学生たちは学費の支給を受けつつ、一族が設けた寄宿舎で書籍閲覧やその他の便宜を与えられ、大学に通って試験や講義を受けました。やがて、これらの寄宿舎は、大学の公認寄宿施設となり、大学別曹(だいがくべっそう)と呼ばれました。

 おもな大学別曹には、和気氏の弘文院(和気広世が設立)、藤原氏の勧学院(藤原冬嗣が設立)、在原氏の奨学院(在原行平が設立)、橘氏の学館院(檀林皇后橘嘉智子が設立)、菅原氏の文章院(菅原清公が設立)などがあります。

 なかでも藤原氏の勧学院がもっとも盛んで、「勧学院の雀は蒙求(もうぎゅう)をさえずる」という諺さえ生まれました。『蒙求』は初級教科書の一つで、諺の意味は「門前の小僧、習わぬ経をよむ」と同じです。


《 綜芸種智院 》


 空海が創設した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)は、初めて庶民に教育の門戸を開いたことで有名です。ここでは、三教(仏教・儒教・道教)一致の総合学習(綜芸)によって、最高仏智(種智)への到達を目指しました。しかし、空海の死後、廃絶してしまいました。



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●平安仏教●



 奈良時代後半には、仏教が政治に深く介入して、政治が混乱するという弊害がありました。桓武天皇は、南都の大寺院が長岡京・平安京に移転することを認めませんでした。


① 最澄の天台宗


 最澄(762~822。伝教大師(でんぎょうだいし)と諡(おくりな)されました)は、804(延暦23)年、遣唐使に従って入唐(にっとう)し、天台の教えを受けて翌年帰国し、天台宗を開きました。天台宗は、法華経を根本経典とする教えです。比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を建て、この地を拠点としました。

 天台宗の教えは、従来の南都六宗の教えと大きな隔たりがありました。

 たとえば、法相宗を主流とした南都仏教は、成仏できるかできないかは人間の素質や能力によって決まる、と考えました。これを「五性各別(ごしょうかくべつ)」といいます。個人の素質・能力の優劣によって成仏の可否が決まるとした「五性各別」の教えは、大寺院の僧侶たちや高級貴族たちのエリート意識をくすぐる教えだったでしょう。官寺の僧侶になること自体がエリートの道でしたし、仏道修行には経典を入手する財力、難解な経文を読解する学力などが必要でした。すべての人びとに教育の道が開かれていた時代ではありませんでしたから、貧しい一般の人びとが、本格的な仏道修行を続けることは困難だったはずです。

 こうした「五性各別」の考えを、最澄は真っ向から否定しました。個人の素質・能力に関係なく、すべての人びとが成仏できる(これを「一切皆成仏(いっさいかいじょうぶつ)」といいます)と説いたのです。天台宗のこの考え方を、「(法華)一乗主義」と言います。

 従来、僧侶の授戒は東大寺の戒壇で行われていました。最澄は独自の大乗戒壇が必要だと考え、天台僧養成の規定(『山家学生式(さんげがくしょうしき))を朝廷に提出し、大乗戒壇の創設を懇請しました。しかし、これを認めることは東大寺戒壇の存在を揺るがすものでしたから、南都の僧綱(そうごう。仏教界を統轄する僧官)の猛反対にあい、朝廷の許可はおりませんでした。最澄は『顕戒論(けんかいろん)を著して反駁(はんばく)しましたが、その願いは最澄の生前にはついにかなわなかったのです。嵯峨天皇が大乗戒壇設立を勅許したのは、最澄の死後7日目のことでした。

 その後、延暦寺は仏教教学の中心となるとともに、平安京の鬼門(艮(うしとら)=東北の方角)を守る王城鎮護の役割が期待されるようになりました。

 また、後世の仏教指導者たちにも大きな影響を与えました。浄土教の源信(恵心僧都)や、法然や親鸞といった鎌倉新仏教の開祖たちの多くも、比叡山で学んでいます。


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② 空海の真言宗


 空海(774~835。弘法大師(こうぼうだいし)と諡されました)は、儒教・仏教・道教のなかで仏教の優位を論じた『三教指帰(さんごうしいき)を著して仏教に身を投じました。のち 804(延暦23)年に入唐し、長安で青竜寺の恵果(けいか)に師事して真言密教をきわめました。その2年後に帰国し、高野山(こうやさん)金剛峰寺(こうごうぶじ)を建て、真言宗を開きました。

 真言宗の教えは、南都六宗の教えとさまざまな共通点がありました。真言宗で至上の仏とされる大日如来は、盧舎那仏と同一のものです。

 真言宗は当初から密教として日本にもたらされました。真言というのは「大日如来の真実の言葉」の意です。

 なお、空海が嵯峨天皇からたまわった平安京の教王護国寺(東寺)も密教の根本道場となりました。


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③ 密教とはどのようなものか 


 仏教は、顕教(けんぎょう)と密教の二つに分けることができます。大ざっぱに言うと、両者を分けるのは、公開性・非公開性という点においてです。

 釈迦の教えや修行法などは、すべて経典や師の教えによって公開されています。公開されているので、顕教といいます。しかし、同じ経典を読み、同じ修行をしているのに、悟りを開いて成仏(じょうぶつ)できる人とそうでない人がいるのはなぜでしょう。

 これは、たとえば子どもが初めて自転車に乗ることに似ています。ペダルを交互に踏めば自転車が進むのはわかっているのに、自転車はすぐに倒れてしまいます。それでも練習していると、自転車に乗れる子どもが出てくる一方、何回練習をしてもうまく乗れない子どももいます。同じ努力をしているのに、この違いが生まれるのはなぜでしょう。それは、自転車に乗れるようになった子どもは、コツをつかんだのです。コツには、言葉や文字では伝えきれない部分、すなわち非公開性の部分があるのです。これを伝えようとしたものが密教です。

 密教は、秘密の呪法の伝授・習得によって悟りを開こうとしたものですが、文字や言葉によっては真理のすべてを伝えきれないとすれば、真理を伝える手段は、究極のところ「以心伝心」以外にありません。ゆえに空海は経典を重視しませんでした。経典に書かれた文字や言葉は、極言してしまえば、「瓦礫(がれき)」や「糟粕(そうはく)」に過ぎないというのです。

 空海の年上の友人で文献重視主義をとる最澄は、たびたび空海にその所持する経典の借覧を求めました。しかし、空海は上記のような考えをもっていましたから、ついに最澄の要請を断わることにしました。

 こうした空海の態度に対し、最澄は、真言密教を「筆授(ひつじゅ)の相法を泯(ほろ)ぼす」ものだと激しく非難し、二人はついに袂(たもと)を分かってしまいます。


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④ 密教の隆盛


 最澄の死後、天台宗にも、弟子によって密教が本格的にとり入れられました。真言宗の密教を東密(とうみつ)とよび、天台宗の密教を台密(たいみつ)とよびます。

 10世紀末以降、円仁(えんにん。794~864。慈覚大師。『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』を著しました)の門流は延暦寺によって山門派とよばれ、円珍(えんちん。814~891。智証大師)の門流は比叡山を下って大津の園城寺(三井寺)によって寺門派とよばれました。山門派と寺門派は、激しく対立しました。

 天台・真言の両宗はともに「護国仏教」を唱え国家・社会の安泰を祈ったものの、奈良時代の南都の大寺院とは異なり、山林仏教として政治から一定の距離を保ちました。また、加持祈祷(かじきとう。加持は加護、祈祷は呪文を唱えて神仏に祈ること)によって災いをさけ、幸福を追求する現世利益(げんぜりやく)の面から貴族たちの支持を得ました。こうして、国家仏教から独立した天台・真言両宗は、貴族仏教として発展していきました。


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⑤ 神仏習合の発展


 8世紀ごろからみられた神仏習合の風潮が、平安時代に入るとさらに広まりました。

 神社境内に建てられた神宮寺(じんぐうじ)、寺院境内に建てられた鎮守社(ちんじゅしゃ)、僧侶による神前読経(神前では神官が祝詞(のりと)をよむのが普通です)、僧形(そうぎょう)の八幡神像などは、こうした神仏習合の例です。


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⑥ 山岳仏教


 奈良時代、大寺院は平城京にありました。こうした南都仏教は、都会の仏教といってもよいかもしれません。

 南都の諸寺院に対し、天台・真言両宗は山中に伽藍を営み、山林を修行の場としました。そこで、在来の山岳信仰とも結びついて、修験道の源流となりました。

 修験道は、山岳修行により呪力を体得するという実践的な信仰です。修行者を山伏とか修験者とかいいました。

 出羽三山、熊野、大峰山、金峰山、白山(はくさん)、石鎚山(四国)、彦山(九州)などの山々が、修験道の舞台となりました。


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●密教芸術●


 
 天台・真言両宗がさかんになると、神秘的な密教芸術が新たに発展しました。この時代の仏教芸術は、密教と山岳仏教がキーワードです。


① 建 築


 この時代、寺院の堂塔が山間に、自由な伽藍配置で建てられました。広い平地を得ることが困難だったからです。また、山中では木材が得やすかっため、瓦でなく、木材を細長く削りとった杮板(こけらいた)
(注)や檜皮(ひわだ。檜(ひのき)の皮)で屋根を葺きました。それぞれを杮葺(こけらぶき)、檜皮葺(ひわだぶき)といいます。

 この時代の建築遺構は、室生寺(むろうじ。奈良県)の金堂・五重塔の二つしかありません。室生寺は、竜穴神(りゅうけつしん。雨の神)が鎮座する室生山の神宮寺として8世紀末に創建され、「女人高野(にょうにんこうや)」の名でも知られます。

 金堂は寄棟造の檜皮葺(現在は杮葺)の建物です。

 五重塔は「弘法大師一夜造りの塔」と呼ばれる、檜皮葺の小さな塔です。高さは16.3mで、平均的な五重塔の半分ほどしかありません。1988(昭和63)年に台風の被害を受けて大きく損壊しましたが、2000(平成12)年に修復されました。

 
(注)杮(こけら)と柿(かき)は字体が瓜二つで、見かけ上判別がつきませんが、杮(こけら)は8画で音読みはハイ、柿(かき)は9画で音読みはシです。板厚3mm程度の杉などでつくった板を杮板(こけらいた)といいます。杮板で屋根を葺くことを杮葺といいますが、板厚が5mm程度なら木賊葺(とくさぶき)、10mm以上なら○葺(とちぶき。「とち」は「木」偏に「羽」)といいます。


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② 彫 刻

 

 平安時代の初期には、高価な金銅像や乾漆像、あるいは重くてこわれやすい塑像はかげをひそめ、経済的で彫成しやすい木像彫刻が中心になりました。

 この時代、一木造(いちぼくづくり)で、翻波式衣文(ほんぱしきえもん)を特徴とする、豊満で神秘的な仏像が数多くつくられました。

 一木造は、頭部と胴体を丸ごと一本の木を用いてつくる技法です。この時代は、力強さとボリューム感にあふれた仏像が好まれました。その材料には、木目が美しく香り高く、また彫りやすいという特徴をもった檜(ひのき)がおもに用いられました。しかし、一木造は木心を含む場合が多いため、ひび割れしやすいという弱点がありました。そこで、背面から内ぐりして、木心を取り除く工夫をするようになりました。

 一木ですから、材の厚さに遠慮することなく、鋭く深く彫ることができます。翻波式衣文は、大波と小波がリズミカルに繰り返す表現方法です。

 代表的な作品には、神護寺薬師如来像(京都府)、元興寺薬師如来像(奈良県)、室生寺弥勒堂釈迦如来坐像(奈良県)、法華寺十一面観音像(奈良県)、観心寺如意輪観音像(大阪府)などがあります。

 また、密教と関係のある如意輪観音・不動明王などの仏像や、神仏習合を反映とした僧形(そうぎょう)八幡神像などの神像彫刻がつくられました。


《 神護寺薬師如来像 》


 神護寺は和気氏の氏寺です。正式には神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)といいます。

 薬師如来像は、両手以外は檜(ひのき)の一木造。翻波式衣文が特徴的で、両脚の太ももを覆う部分が長円形をなしています。鋭い目、大きな螺髪、堂々とした体躯などが特徴的です。像高170.6cm。


《 元興寺薬師如来像 》 


 一木造。神護寺薬師如来像の影響を受けて造られたとみられます。翻波式衣文、堂々たる体躯などが特徴的です。像高164.8cm。


《 室生寺弥勒堂釈迦如来坐像 》

 
檜の一木造で、翻波式衣文が全面に用いられています。像高106.3cm。


《 法華寺十一面観音像 》

 橘奈良麻呂の孫で、嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(檀林皇后)がモデルといわれます。香木の白檀(びゃくだん)を材料とした一木造で、左手に水瓶(すいびょう)を持った立像です。木肌の美しさを生かすため全身素木(しらき)でつくられ、彩色は髪・瞳などの墨、唇の朱など、最小限度にとどめています。翻波式衣文が特徴的です。像高100.0cm。


《 観心寺如意輪観音像 》
 

 一木造に乾漆を盛りあげて造形されています。豊満で神秘的な相貌を示す六臂(ろっぴ。6本の腕をもつ)像で、密教彫刻の代表作です。秘仏だったため、彩色がよく残っています。像高109.4cm。


《 教王護国寺講堂不動明王像 》


 講堂内に置かれた五大明王の中尊が不動明王像です。不動明王は、如来(仏)の教えに従わない者たちを威嚇・屈服させて教え導くため、激しく燃える炎を背に、恐ろしい忿怒(ふんぬ)の姿をしています。右手には降魔の利剣(ごうまのりけん。悪を懲らしめる武器)、左手には羂索(けんざく。教化しにくい衆生を救済する道具)を持っています。像高173.3cm。


《 薬師寺僧形八幡神像 》


 薬師寺の鎮守社休岡(やすみがおか)八幡宮のご神体として造られた三体(二体は神功(じんぐう)皇后像と中津姫命(なかつひめのみこと)像)のうちの一体です。像高38.8cm。


◆仏像の高さ

 仏像の高さを像高(ぞうこう)といいます。地面から頭のてっぺんまでの高さです。

 ただ、同じ像高の仏像を造っても、頭上に化仏(けぶつ)がのっている十一面観音像と、坊主頭の地蔵菩薩像では、前者は顔が小さく、後者は顔が大きくなってしまいます。

 そこで、像高で揃えるのではなく、からだの大きさで揃える工夫が考え出されました。地面から髪の生え際までの高さを基準にして、仏像をつくるのです。これを髪際高(はっさいこう)といいます。平安時代後半からは、髪際高で造像することが普通になりました。

 ところで、聖武天皇は国分寺を造る際、堂内に1丈6尺の釈迦如来像(「丈六(じょうろく)」仏)を安置するよう命じました。1丈6尺というのは、約4.8mです。お釈迦様の身長は普通の人間の2倍あったといわれ、これが実物大とされています。これが事実なら、お釈迦様はとんでもない巨人です。しかし、普通の人間が8尺(約2.4m)あるというのも、実際の平均身長からかけ離れていて、とうてい納得できませんね(そこで、実際の人間の身長を基準にした仏像も造られました)。

 こんな大きな仏像ばかり造っていたのでは、お金も時間もかかって仕方ありません。そこで「丈六」を基準にして、1/2(半丈六)とか1/10とかに縮小した仏像が造られるようになりました。


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③ 絵 画


 絵画では、密教にかかわりのある不動明王像や曼荼羅(まんだら)が多くつくられました。この時代の絵師としては百済河成(くだらのかわなり)らの名が伝わっています。


《 不動明王像 》 


 園城寺(おんじょうじ)不動明王像(黄不動)が代表例です。ただし、秘仏のため、実物は公開されていません。京都の曼殊院(まんしゅいん)に模写があります。


《 曼荼羅 》 


 曼荼羅は、サンスクリット語の音を漢字に写したもので、本来は悟りの境地に達することを意味しました。わが国では、大日如来を中心に、一定の秩序で仏を配列した密教絵画を意味します。

 大日如来の智徳をあらわす金剛界と、同じく慈悲をあらわす胎蔵界の仏教世界を、整然とした構図で図化したものを両界曼荼羅(りょうかいまんだら)といいます。神護寺や教王護国寺などに伝わる両界曼荼羅が有名です。


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 書 道 - 唐風書道の名手「三筆」 -


 書道では唐風の書が広まりました。嵯峨天皇・空海・橘逸勢らの能書家が出現し、後世、この三人を特に「三筆(さんぴつ)と呼ぶようになりました。

 主な作品としては嵯峨天皇の『光定戒牒(こうじょうかいちょう)』、空海の『風信帖(ふうしんじょう)、伝橘逸勢の『伊都内親王願文(いとないしんのうがんもん)』などがあります。

 なかでも空海の『風信帖』が有名です。『風信帖』は、空海から最澄に送った3通の書状を1巻にしたものです。その書風は、中国東晋時代の王羲之(おうぎし)と唐代の顔真卿(がんしんけい)を合わせたもので、「大師流(だいしりゅう)」と呼ばれます。能書家でもあった空海には、書にまつわるさまざまな伝説が語られています。

◆「五筆和尚(ごひつおしょう)」-書にまつわる空海の伝説-
 
 空海といえば、「弘法は筆を選ばず」・「弘法も筆の誤り」などの諺があるように、能書家として知られます。同じ能書家の嵯峨天皇とともに「二聖」と称せられました。これに橘逸勢(たちばなのはやなり)を加えたのが「三筆」です。

 能書家ゆえ空海には、書にまつわるとんでもない伝説が豊富に残されています。たとえば、『水鏡』には次のような話が書きとめられています。


 唐
(もろこし)にても、御殿の壁の二間(ふたま)(はべ)るなかに、羲之といひし手かきの物を書きたるが、年久しくなりて崩れにければ、又改められて後、大師にかき給へと唐の帝申し給(たま)ひければ、五つの筆を、御口、左、右の御足、手にとりて、壁にとびつきて、一度に五行になん書き給ひける。この國に帰り給ひて、南門の額は書き給ひしぞかし。さて又応天門の額をかかせ給ひしに、上のまろなる点を忘れ給ひて、門にうちて後、見つけ給ひて、驚きて、筆をぬらして投げあげ給ひしかば、その所につきにき。見る人手をうち、あざむこと限(かぎり)なく侍りき。只空を仰ぎて文字を書き給ひしかば、其(その)文字現はれき。(和田英松校訂『水鏡』1930年、岩波文庫、P.101。旧漢字は現行のものに改めた)

(唐の皇帝から求められ、宮殿の壁に文字を書くことになった。口・両手・両足で五本の筆を持って飛びつき、一挙に五行を書いた。帰国後、応天門の額の字を書いた時、あとになって「応」の字の上の点の書き忘れに気づいた。そこで、筆を投げあげてその点を加えた。空に文字を書く真似をすると、その文字が空に現れた。)
 


 1本の筆を口にくわえて、両手・両足にそれぞれ2本ずつ筆を持ち、壁に飛びついて文字を書いたとする伝説から、空海は「五筆和尚」と呼ばれています。


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