13.天平文化

「日本が文化の師と仰いだ唐は、広大な版図をもつばかりでなく、中国歴代王朝の中でももっとも異国文化を好んでとり入れた国家であって、唐の文化にはエキゾチックな要素がみちあふれていたようである。したがって遣唐使を送ってその文化を熱心に学んだ日本に、唐の文化にふくまれていた世界的要素が間接にもちこまれる結果となったのにふしぎはない。そして、日本の宮廷にも、唐人や新羅人ばかりでなく、インド僧婆羅門(ばらもん)菩提(ぼだい)・ペルシア人李密翳(りみつえい)などという西方の人までが出入りしていたのであって、この時代の支配階級は、あるいは南蛮貿易の時代や明治維新後の時代の人々と相比せらるべきコスモポリタン的な雰囲気を呼吸していたのかもしれない。」

(家永三郎『日本文化史(第二版)』1982年、岩波新書、P.68〜69)

                         

 

●天平文化の特色●



 平城京に都をおいた時代、平城京を中心として高度な貴族文化が花開きました。この時代の文化を、聖武天皇の時の元号をとり、天平文化(てんぴょうぶんか)といいます。

 天平文化は盛唐文化の影響を強く受けた、国際色豊かな文化でした。遣唐使たちがおもむいた唐の都長安(ちょうあん)は、世界各地から人や文化・モノが集まる文明の十字路でもあったので、彼らが日本に将来した知識・文物は、期せずして世界性を持つことになりました。この点から見れば、シルク=ロードの終着駅は長安でなく、わが国の正倉院宝庫であると評価することもできます。

 この時代はまた、聖武天皇の仏教政策の影響を受け、国家仏教色が濃いことも特徴の一つです。



●国史の編纂と地誌●



@ 国史の編纂


  律令国家が形成されるにともなって、国家というものが強く意識されるようになりました。こうした国家意識の高まりを反映して、国の成り立ちやその発展・経過を示すために、国史の編纂がおこなわれました。

 天武天皇の時代に開始された国史編纂事業は、奈良時代に『古事記(こじき)』・『日本書紀(にほんしょき)として完成しました。両者をあわせて「記紀(きき)といいます。


《 古事記 》


 712(和銅5)年、元明天皇の時代に成立した『古事記』(3巻)は、宮廷に伝わる「帝紀(ていぎ。帝王本紀の意で、天皇の皇位継承を中心とした伝承・歴史)」「旧辞(きゅうじ。神話・伝承・歌謡など)」をもとに天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ。654?〜?)によみならわせたものを、太安万侶(太安麻呂。おおのやすまろ。?〜723)が筆録したものです。

 稗田阿礼は記憶力にすぐれた語部(かたりべ)でした。稗田阿礼を女性とする説(柳田国男『妹の力』)がありますが、「舎人(とねり)」だったといいますから、男性だったと思われます。

 筆録者の太安万侶は、『日本書紀』の撰進にも参加しました。1979(昭和54)年、奈良市此瀬(このせ)町の茶畑から太安万侶の銅製墓誌
(注)が見つかり、話題になりました。

 『古事記』の内容は、神話・伝承から推古天皇にいたるまでの物語であり、口頭の日本語を漢字の音・訓を用いて表記しています。『日本書紀』が客観的な描写であるのに対し、『古事記』はまるで当事者としてその場にいるかのようなドラマチックな記述スタイルをとっています。文学としても、面白い読み物です。


(注)銅製墓誌:全文は次の通りです。

 「左京四條四坊従四位下勲(くん)五等 太朝臣安萬侶以癸亥(みずのとい)年七月六日卒(しゅっす)之  養老七年十二月十五日乙巳(きのとみ)」
(「左京四条四坊に居住する太安万侶が養老7(723)年7月6日に没した」と書かれてあります。死去に関する表記は、三位以上は「薨(こう)」、四位・五位は「卒(しゅつ)」、六位以下は「死」とするように律令で決められていました。安万侶は従四位下(じゅしいのげ)なので「卒」と記載されたのです。)


《 日本書紀 》


 720(養老4)年、元正天皇の時代に成立した『日本書紀』(30巻)は、総裁の舎人親王(とねりしんのう)が中心になって編纂したものです。記述のスタイルは中国の歴史書の体裁にならい、漢文の編年体(年代を追ってできごとを記述する体裁)で書かれています。内容は、神話・伝承から持統天皇にいたるまでの歴史です。古代の歴史を知る重要な基本文献ですが、中国の古典や編纂時点の法令などによって文章を潤色した部分もあるので、その利用には十分な検討(史料批判)が必要です。

  『日本書紀』以降、政府による歴史編纂事業は10世紀まで継続され、漢文・編年体を特徴とする六つの正史が編纂されました。これらを総称して「六国史(りっこくし)といいます。


   六国史 巻数   対象とする時代  成立年代 天皇 編者 
 1  日本書紀
(にほんしょき)
 30  神代〜持統  720
(養老 4)
元正   舎人親王
 2 続日本紀
(しょくにほんぎ) 
 40  文武〜桓武
(697〜791)
797
(延暦16) 
桓武  藤原継縄
(つぐただ)
 3  日本後紀
(にほんこうき)
 40  桓武〜淳和
(792〜833)
 840
(承和 7)
仁明   藤原緒嗣
(おつぐ)
 4  続日本後紀
(しょくにほんこうき)
 20  仁明一代
(833〜850)
 869
(貞観11)
清和   藤原良房
(よしふさ)
 5  日本文徳天皇実録
(にほんもんとくてんのうじつろく)
 10  文徳一代
(850〜858)
 879
(元慶 3)
陽成   藤原基経
(もとつね)
 6  日本三代実録
(にほんさんだいじつろく)
 50  清和・陽成・光孝
(858〜887)
 901
(延喜元)
醍醐   藤原時平
(ときひら)


 それにしても、推古(古事記)・持統(日本書紀)という女帝の記述で終わっている二つの歴史書が、元明(古事記)・元正(日本書紀)という、ともに女帝の時代に完成したのは、何か縁のようなものがあって、面白いですね。


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A 風土記(ふどき)の撰進

 
 歴史書とともに、 713(和銅6)年には諸国に、郷土の物産・土地の生産力の高低・山川原野の名づけの由来・古老が伝える旧聞異事などを報告するよう、地誌の撰進が命じられました。当時は「解(げ)」と呼ばれる報告書の形で中央官庁(太政官か民部省)に提出されましたが、いつしか『風土記』の名称で呼ばれるようになりました。この名称が定着したのは、平安初期から鎌倉時代にかけての時期だったと考えられています。

 その多くは散逸してしまいましたが、まとまったものとしては、常陸(ひたち)・出雲(いずも)・播磨(はりま)・豊後(ぶんご)・肥前(ひぜん)五カ国の『風土記』が現在に伝えられています(五風土記)。このうち、首尾完備した唯一の完本は、『出雲国風土記』だけです。

 なお、これら五カ国以外で、諸書に部分的に引用されたため断片的に残った『風土記』の文章があります。これを『風土記逸文(いつぶん)といいます。『風土記逸文』には興味深い記述が少なくありません。たとえば、『丹後(たんご)国風土記逸文』には、浦島太郎の昔話のもとになった「浦島子(うらしまこ)伝説」が記載されています。


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●文 学●



@
 
漢詩文 −『懐風藻(かいふうそう)』と二人の文人−


《 懐風藻
(かいふうそう) 》


 貴族や官人には漢詩文の教養が必要とされ、 751(天平勝宝3)年には現存最古の漢詩集『懐風藻』(1巻)が編まれました。「先人の遺風を懐(おも)う詩集(「藻」は美しい詩文の意)」の意です。編者は不明ですが、大友皇子、大津皇子、長屋王ら64人の漢詩120編がおさめられています。


《 文人の首(はじめ) 》


 8世紀半ばの著名な文人として、淡海三船(おうみのみふね。722〜785)と石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ。729〜781)が知られています。二人は「文人の首(はじめ)」と称せられました。

 淡海三船は大友皇子の曾孫(そうそん。ひまご)で、大学頭(だいがくのかみ)と文章博士(もんじょうはかせ)を兼任したほどの学識がありました。出家して元開(げんかい)と名乗り、のち還俗(げんぞく)して淡海姓を賜りました。鑑真の伝記『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)の著者で、神武〜光仁天皇の漢風諡号(かんぷうしごう。死後に生前の功績をたたえて漢字二文字で贈る名号のこと)の撰者といわれます。

 石上宅嗣は、平城宮近くにあった旧宅を阿○寺(あしゅくじ。しゅくは門に人を三つ)とし、そこに「外典(げてん。仏典以外の書物)の院」を設けて学問する人びとに開放したといいます。わが国最古の私設図書館です。宅嗣は、これを「芸亭(うんてい)と名づけました。


 ◆藝と芸は別の字

 わが国では芸を藝の略字として使いますが、もともとは別の漢字です。芸は本来「うん」と音読みし、中国では植物の一種を指す漢字でした。日本では、本来の意味での「芸」がほとんど使われない漢字だったので、芸を藝の略字として使っても支障がありませんでした。

 しかし、わが国でも、二つの漢字を区別して使った時代がありました。石上宅嗣がつくった私設図書館「芸亭」がそれです。これは「げいてい」でなく「うんてい」と読みます。

 芸(うん)というのは香りのよい草の名前で、その発散する香りは虫除けに効果がありました。そこで、古くは書物を保存する際に、この草を置いて虫除けとしたのです。宅嗣の図書館に「芸」の字が使われているのはそのためです。中国の宮中蔵書機関を「芸閣(うんかく)」、防虫のためにこの草をいれた書帙(しょちつ。書物の保護カバー)を「芸帙(うんちつ)」というのもその例です。

 さて、一方の藝は、本来は下の「云」の部分がない漢字でした。藝はその異体字(標準字体でない漢字)です。この字はもともと樹木など植えることを意味し、それから派生して、人間の精神に何かを芽生えさせることをも意味するようになりました。心の中に豊かに稔り、やがて大きな収穫を得させてくれるものが藝であり、その代表は何といっても学問でしょう。古代中国の学校で教えられた学問は、「六藝(りくげい)」といわれるものでした。

【参考】
・阿辻哲次『漢字の字源』1994年、講談社現代新書、P.146〜148を参照


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A 和 歌 −『万葉集』と代表的歌人−


 幅広い身分・階層の人びとによってよまれた和歌を収録した歌集が『万葉集』(20巻)です。上は天皇・貴族から、下は農民までが作者として名を連ねています(東国の民衆がよんだ東歌(あずまうた)や九州へ防人の任に赴く農民たちがよんだ防人歌など)。まだ平仮名・片仮名が生まれる以前ですので、漢字の音・訓を巧みに用いて日本語を表現しています。こうした表記法を、万葉仮名または真仮名(まがな)といいます。

 『万葉集』には短歌(たんか。5・7・5・7・7の句形)・長歌(ちょうか。5・7調を反復し、最後を5・7・7で締めくくる句形。反歌(はんか)を伴うのが普通)など、多様な詩形の和歌が約4500首収録されています。その9割(約4200首)は短歌です。恋愛を詠んだ相聞歌(そうもんか)、死者を哀悼する挽歌(ばんか)など、内容は多岐にわたります。率直に心情を吐露する、素朴で力強い歌いぶりは、「万葉調」とか「ますらおぶり」と呼ばれます。

 編者は大伴家持(おおとものやかもち。718?〜785)が有力視されていますが、実際のところはよくわかりません。ただ、家持は479首という、万葉歌人中最多の歌を残しています。これは『万葉集』収録歌数全体の1割強を占める多さです。

 収録された和歌は、次の4期に分かれます。各時期の代表的歌人は、次のような人びとです。


   第1期
(〜壬申の乱)   有間皇子、天武天皇、額田王
   第2期
(〜平城遷都)   持統天皇、柿本人麻呂
   第3期
(〜天平初め)   山上憶良、山部赤人、大伴旅人
   第4期
(〜淳仁天皇時代) 大伴家持、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)


 和歌の道を「山柿(さんし)の門」と表現する慣用句があります。代表的歌人である山部赤人(やまべのあかひと。?〜?)と柿本人麻呂から一文字ずつとった言い方です(一説に「山」は山上憶良)。二人は後世、「歌聖(かせい)」と称揚されました。

 特に人麻呂(平安時代頃から「人丸」と表記されることが多くなりました)は民衆の人気が高く、 柿本(かきのもと)神社や人丸神社など、人麻呂を主祭神としてまつる神社は全国各所に見られます。ただ、和歌から連想して学問の神として崇拝されているかというと、「人丸」を「火止まる」の語呂から防火の神、また「人、生まる」の語呂からで安産の神として信仰している場合が多いようです。


暗号のような万葉仮名

  『万葉集』は万葉仮名で書かれています。万葉仮名は難解で、誰もが解読できたわけではありませんでした。そのため、表音文字のひらがな・カタカナが発明されると、万葉仮名はたちまちに廃れてしまいました。その結果、万葉仮名は、正しく読める者が誰一人としていない暗号になってしまったのでした。

 そうした事情は、『万葉集』の専門家にとっても同じです。佐竹昭広氏は、「かりに十人の万葉学者に全四千五百余首の読み下しを作らせれば、十人の間におそらく何百箇所という相違が出てくること必定(ひつじょう)である。(中略)意地悪く言うなら、結局どの本に拠(よ)ってみたところで全面的な信用はおけない」(佐竹昭広『古語雑談』1986年、岩波新書、P.186)と述べています。

 たとえば、教科書に必ず載っている柿本人麻呂の次の和歌は、このように読むという保証はどこにもありません。

  
(ひむがし)の野(の)にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ

 原文はわずか14文字です。

(原文)東野炎立所見而反見為者月西渡

 この原文を、上記のように読み下したのは江戸時代の国学者賀茂真淵(かものまぶち)でした。あまりにも見事な読み下しなので、以後数百年間に渡って人麻呂の和歌はこのように読むのだ、と私たちは思い込んできました。しかし、真淵以前は、

  あづま野
(の)のけぶりの立てる所(ところ)見てかへり見すれば月傾きぬ

と読み下していました。現在でも、たとえば「月西渡」は「月西渡る」とそのまま読み下した方が、東の日の出と西の月入りを対照させて歌意がしっくり通る、などと異論は多いのです。

 つまるところ、タイムマシンでも発明されて、作者に直接会って質(ただ)してみないことには、正しい読み下しはわからないのです。


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●教育機関●



@ 大学と国学


 教育機関としては、官吏養成のために中央には大学(だいがく)、地方(国)には国学(こくがく)がおかれました。


《 大学 》


 大学は式部省(しきぶしょう)が管轄しました。

 入学資格は、5位以上の貴族の子弟や朝廷に文筆で仕えてきた東史部(やまとのふひとべ)・西史部(かわちのふひとべ)の子弟、位子(いし。8位以上の官人の子)で志願する者で、13〜16歳の者たちでした。しかし、5位以上の貴族の子弟には蔭位制(おんいのせい)の特典があったので、実際の入学者は下級官人層出身者ばかりでした。

 定員は400名で、入学すると学生(がくしょう)と呼ばれました。在学の最長年数は9年で、10日ごとに旬試(じゅんし)、1年に1度年終試(ねんしゅうし)とよばれる試験がありました。最終試験の寮試(りょうし)に及第し、式部省の秀才(しゅうさい)・明経(みょうぎょう)・進士(しんし)・明法(みょうほう)のいずれかの試験に合格すれば、位階が授与され官人になれました。


《 国学 》


 国学は国司が管轄しました。

 入学資格は、郡司の子弟らを優先しましたが、定員に欠員がある場合には、庶民の子弟の入学も許可されました。入学年齢は13〜16歳です。定員は国の大きさによって異なりましたが、だいたい20〜50名くらいでした。学生は国学生と呼ばれ、大学に準じて試験を受けました。彼らは郡司の要員となりましたが、中には推薦されて中央の大学に入る者もいました。


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A 大学の教科


 
大学の教科は、『論語』『孝経(こうきょう)』などの儒教の経典を学ぶ明経道(みょうぎょうどう)、律令などの法律を学ぶ明法道(みょうほうどう)や、音・書・算などの諸道がありました。9世紀には漢文・歴史をふくむ紀伝道(きでんどう)が生まれ、重視されました。これらのほかに、陰陽・暦・天文・医などの諸学が各官司で教授されました。


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●国家仏教の展開●

 

 
奈良時代の仏教は、国家の保護を受けて発展しました。この時代の仏教は、仏教の力によって国家の安定をはかろうとする「鎮護国家(ちんごこっか)という四文字に、その特色が集約されています。


@ 南都七大寺
(なんとしちだいじ)


 政府は官営の寺院(官寺)を整備しました。薬師寺、東大寺、元興寺、西大寺、興福寺、大安寺の六寺に法隆寺を加えた七つの寺院を「南都七大寺(平安遷都後、平安京の南方に位置する平城京を「南都」と称するようになりました)と総称します。

 しかし、法隆寺は飛鳥にあって、「南都」にはありません。代わりに唐招提寺を入れる場合がありますが、唐招提寺は鑑真の私寺であって官寺ではありません。


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A 南都六宗(なんとろくしゅう)

 
 奈良の大寺院では、インドや中国で生まれたさまざまな仏教理論の研究が進められ、三論(さんろん)・成実(じょうじつ)・法相(ほっそう)・倶舎(くしゃ)・華厳(けごん)・律(りつ)の「南都六宗」とよばれる学系が形成されました。後世の宗派のような信仰を異にする教団ではありません。仏教教学を研究する学派というべきものです。そのため、一つの寺院に数派が共存することもよくありました。各宗に通じていることを「六宗兼学(ろくしゅうけんがく)(のち真言・天台両宗が伝来すると「八宗兼学」)といいました。各宗の概要は次のようなものです。

 なお、南都六宗の中で、法相宗は興福寺・薬師寺、華厳宗は東大寺、律宗は唐招提寺という形で現在まで存続していますが、三論・成実・倶舎の三宗はすでに廃絶しました。


三論宗  竜樹(りゅうじゅ)の『中論』『十二門論』、提婆(だいば)の『百論』の三論にもとづくのでこの名があります。飛鳥時代に伝来し、大安寺の道慈(どうじ)が深めました。 
成実宗 訶梨跋摩(はりばるまん)の『成実論』を研究しました。わが国には、三論宗に付属して伝来しました。
法相宗  人間の心識の働きを離れてはいかなる実在もないとする立場で、唯識宗(ゆいしきしゅう)ともいいます。義淵(ぎえん)や玄ム(げんぼう)らが出て、奈良時代には大いに栄えました。
倶舎宗 世親(せしん)の『阿毘達磨倶舎論(あびだるまくしゃろん)』を教義とします。法相宗に付属して学ばれました。
華厳宗   『華厳経』によって立宗したものです。全世界は一即一切、一切即一の無限の関係において成立し、円融無礙(えんゆうむげ)を説きます。東大寺初代別当の良弁(ろうべん)が唱え、東大寺が華厳宗の中心となりました。東大寺大仏殿の盧舎那大仏は華厳経の教主です。
 律 宗 戒律(僧尼が守るべき一定の規範。止持戒(してはいけない規則)と作持戒(しなければならない規則)に大別)の実践躬行(じっせんきゅうこう。自ら実行すること)を成仏の因とする教えです。天武天皇の時代に伝来しましたが、鑑真の渡来によって盛んになりました。


 当時の僧侶は仏の教えを説くばかりでなく、一流の知識人でもありました。そのため、聖武天皇の信頼を得、政界で活躍した玄ム(げんぼう)のような僧もいました。また、わが国に戒律を伝えた唐僧鑑真らの活動も、当時の仏教の発展に大きく寄与しました。


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B 本朝(天下)三戒壇(ほんちょう(てんか)さんかいだん)


 当時、正式な僧侶となるには、得度(とくど)して修行した後、さらに戒律を授かること(授戒)が必要とされました。

 授戒の儀式を行う場所は、土を盛り上げて築きました。これを戒壇(かいだん)といいます。初めての戒壇は754年、鑑真が東大寺大仏殿前に築いたものです。そこで、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇らが鑑真から授戒を受けました。

 翌755年から、常設の戒壇を建立しました。これを東大寺戒壇院といいます。

 しかし、交通の不便な当時にあっては、遠方の受戒者が東大寺までやって来るのはたいへんなことでした。そこで、東国の下野(しもつけ)薬師寺(やくしじ)、九州の筑紫(つくし)観世音寺(かんぜおんじ)にも戒壇が設けられました。これらをあわせて「本朝(天下)三戒壇」と称します。


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C 社会事業


 仏教は政府の保護を受ける一方、僧尼令(そうにりょう)によってきびしい統制を受けました。「僧尼を浮遊せしむるかなかれ」(『続日本紀』、718年)と令せられたように民間伝道は禁止され、僧侶の活動は一般的に寺院内に限られていました。

 しかし、なかには民衆への布教活動をおこない、架橋(かきょう)や用水施設の造成、布施屋(ふせや。運脚・労役に服する人びとの宿泊施設)設置などの社会事業をおこない、国家から取締りを受けつつも、多くの民衆に支持された行基(ぎょうき)のような僧もいました。

 最初のうちは行基のことを「小僧行基」と罵(ののし)り、取り締まり対象としていた政府も、行基の民衆結集力を無視することができなくなります。のち行基は大僧正に任ぜられ、民衆を率いて大仏造営に協力しました。

 社会事業は、積善の行為が福徳を生むとする仏教思想にもとづいています。光明皇后悲田院(ひでんいん)を設けて孤児や貧窮者を救済し、施薬院(せやくいん)を設けて病人の医療にあたらせたり、和気広虫(わけのひろむし。法均尼(ほうきんに)。和気清麻呂の姉)が恵美押勝(えみのおしかつ)の乱後の孤児たちを養育したのも、仏教信仰と関係しています。


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D 神仏習合思想(しんぶつしゅうごうしそう)


 仏教思想が浸透してくると、在来の神祇思想と混合融和する神仏習合思想がおこりました。たとえば、日本の神々は仏法を聞くことを喜び、そして仏教の守護神になった、とする考え方が広まって行きました。

 実は、神々もわれわれ人間と同じく、煩悩(ぼんのう)をもつ衆生(しゅじょう)の一員であると考えられたのです。若狭(わかさ。福井県)国の比古神(ひこしん)は「吾(われ)、神身を受けて苦悩はなはだ深し。仏法に帰依して神道をまぬがれんことを思ふ」(『類聚国史』)という「神身離脱(じんしんりだつ)」を望む神託を下したといいます。「神様なんかに生まれてしまったから、悩みが多くて大変。仏法に帰依して、神様なんかやめたい」というのです。

 そして、仏の教えの素晴らしさに触れた神々は、仏法を守護するガードマンになることを決意します。これを「護法善神(ごほうぜんしん))」といいます。。『続日本紀』765年の条に見られる「仏の御法(みのり)を守り祭り、貴(とうと)み祭るは諸々(もろもろ)の神」というのがこれです。

 こうして、神宮寺(じんぐうじ。神社に付属した寺)が建立されたり、神前読経(しんぜんどきょう。神前で祝詞(のりと)でなく経を読むこと)がおこなわれたりして、仏と神が同一視されることになります


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E 問題点


 仏教の鎮護国家の思想を受けて、聖武天皇による国分寺建立・大仏造立などの大事業が次々進められていきました。しかし、国家による大々的な仏教保護政策は、国家財政の大きな負担になったばかりか、仏教の政治化・政治との癒着(ゆちゃく)という弊害をも生むことにもなりました。

 こうした仏教の堕落を嫌った僧たちの中には、平城京の大寺院を離れて山林にこもる者が現れ始めました。山林修行に身を投じた僧たちの行動が、やがて次の時代の平安新仏教を形成していくことになります。

 また、政府は僧侶の民間伝道を禁止しましたが、次第に民間の仏教受容は進みました。

 仏教とは本来、人間がさまざまな苦悩から解き放されるためにはどうすればよいのか、という人生の命題を思索するものでした。宗教というよりは哲学というべきものです。しかし、民衆が仏教に期待したのは、もとよりこうした高尚なものではなく、もっと現実的なものでした。現世利益(げんぜりやく)や祖先の供養といった役割を期待したのです。こうした意味合いのもとで、民間でも、仏像造立や経典書写などが盛んにおこなわれるようになっていきました。


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●天平美術●



 この時代に、律令体制が完成しました。平城京の貴族や寺院には、各地から莫大な富が集まりました。国家による仏教保護政策を背景にして、多くの美術作品がつくられました。技法的にも、古典的完成の域に達した優品が数多いのも特徴です。


@ 建 築


 建築では、寺院や宮殿に礎石・瓦を用いた壮大な建物が建てられました。もと貴族の邸宅であった法隆寺伝法堂(ほうりゅうじでんぽうどう)、もと平城宮の宮殿建築であった唐招提寺講堂のほか、東大寺法華堂・唐招提寺金堂・正倉院宝庫などが代表的なもので、いずれも均整がとれた堂々とした建物です。

 この時代の寺院建築は、中国をお手本にしたので、靴を履いたまま参観するものがほとんどです。靴を脱いで中に入るようになるのは、文化の国風化が進んでからです。


《 法隆寺伝法堂(ほうりゅうじでんぽうどう) 


 法隆寺伝法堂は、床板張りの建造物としては現存最古のものです。当時の貴族邸宅を移築したもので、聖武天皇の夫人(ぶにん)橘古那可智(たちばなのこなかち)邸宅(一説に光明皇后の生母橘三千代の邸宅)だといわれています。現在は瓦葺(かわらぶき)ですが、移築前は檜皮葺(ひわだぶき)だったと推定されています。


 法隆寺夢殿(ほうりゅうじゆめどの) 》


 法隆寺夢殿は、花崗岩の二重基壇の上に立つ八角円堂です。厩戸王(うまやとおう。聖徳太子)の斑鳩宮(いかるがのみや)跡に、僧行信(ぎょうしん)が739(天平11)年に創建しました。堂内には、秘仏である救世観音像(くせかんのんぞう)が安置され、明治期にアメリカ人の美術研究家フェノロサ・岡倉天心(おかくらてんしん)らに発見されたという話は有名です。


 唐招提寺金堂 》


 唐招提寺の塀の軒瓦(のきがわら)には「唐律招提(とうりつしょうだい)」の4文字が刻まれています。「唐律」は、鑑真が唐からもたらした戒律(律宗)をあらわしています。「招提」は「招闘提奢(しょうとうだいしゃ)」の略で、もともとは衆僧の住む客房をあらわしましたが、のち寺院や道場の意味になりました。ですから、唐招提寺は「唐から伝わった律宗の寺院」というほどの意味になります。「招提(寺)」と「寺」が重なっていますが、同様の例は他にも見られます。

 さて、唐招提寺金堂は、天平期金堂の唯一の遺構です。寄棟造の屋根の両端には、防火のまじないで、鴟尾(しび)が飾られています。鎌倉時代、屋根の勾配をやや急にするなどの改修が行われました。近年では、2009(平成21)年まで解体修理が行われました。

 前面の1間通りには壁がなく、吹き放しの柱廊(ちゅうろう)になっています。円柱は胴部にわずかにふくらみ(エンタシス)が見られます。8本の円柱の間隔は中央が最も広く、両端にいくにつれ狭くなっています。安定感を感じさせるとともに、ギリシア建築のようなおもむきをもった空間を演出しています。


 おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ
                                會津八一
(あいづやいち)


《 唐招提寺講堂 》


 講堂は、平城宮の宮殿建築の唯一の遺構です。平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築したもので、移築の際に各部材に付けた番号が現在も残っています。朝集殿は儀式の際に高級官人が待機する建物で、平城宮には東西二棟の朝集殿がありました。

 現在は入母屋造(いりもやづくり)ですが、もともとは切妻造(きりづまづくり)でした。13世紀の改築によって、当時の外観は失われています。


《 東大寺法華堂(三月堂) 》


 東大寺建築のなかでは最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鐘寺(こんしゅじ)の遺構とされます。奈良時代の史料(東大寺山堺四至図、752年)には「羂索堂(けんざくどう)」とあるので、不空羂索観音をまつるための建物だったことがわかります。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになったため、法華堂、また三月堂とよばれるようになりました。

 本来は、諸仏を安置する正堂(しょうどう)と安置した仏像を礼拝する礼堂(らいどう)が軒を接し、別々に建っていましたが、鎌倉時代の改築で1棟につなぎました。このように、二つの堂が一つにつながって大きな空間を形づくっている建物を、双堂(ならびどう)といいます。寄棟造の正堂(和様)は天平初期のもの、切妻造の礼堂(大仏様)は鎌倉期の再建です。時代を隔てた2棟が合体しているわけですが、違和感を感じさせません。均整がとれた美しい建物です。


《 東大寺転害門(とうだいじてがいもん) 》


 転害門は八脚門(やつあしもん)の形式をもつ、東大寺創建当時の門としては唯一のものです。源平争乱、戦国時代の戦火をくぐって、現在にまで残りました。鎌倉時代の修理による改変はありますが、基本的には天平時代の建造物です。


《 正倉院宝庫 》


 正倉院宝庫は、聖武天皇の遺品を納めた檜造(ひのきづくり)・単層・寄棟造(よせむねづくり)の高床式倉庫です。間口が約33m、奥行約9.4m、総高約14mの巨大倉庫です。床下の高さが約2.7mもあり、大人でも立って歩くことができます。

 倉は北倉・中倉・南倉の三倉に仕切られ、北倉と南倉は三角形の断面の木材(校木(あぜぎ))を井桁(いげた)に重ねた校倉造(あぜくらづくり)という建築技法で造られています(中倉は板倉造)。正倉院宝庫は、現存する最大・最古の校倉造です。

 普段は厳重に施錠され、天皇が派遣する勅使(ちょくし)によって開閉される勅封蔵(ちょくふうぞう)として管理されてきました。現在は宮内庁の所管に属し、正倉院宝物は、空調設備を供えた鉄骨鉄筋コンクリート造の西宝庫(1962年建造)・東宝庫(1953年建造)に分納・保存されています。西宝庫は整理済みの宝物を収蔵し、東宝庫には整理中の宝物が収蔵されています。


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A 彫 刻(1)− 塑 像(そぞう) −


 彫刻では、表情豊かで調和のとれた仏像が多く、以前からの金銅像や木像のほかに、塑像(そぞう)や乾漆像(かんしつぞう)の技法が発達しました。

 塑像は、木を心としてそこに縄を巻き、粘土をつきやすくした上で、粗い土からだんだん細かな土に代えて成形していく技法でつくった仏像です。粘土なので扱いやすく、失敗しても作り直すことができますし、値段も安くできます。ただし、粘土のためたいへん重く、水や振動に弱いので、雨漏りや地震が大敵でした。

 塑像の作例には、東大寺法華堂の日光・月光菩薩像(にっこう・がっこうぼさつぞう)、同執金剛神像(しつ(しゅう)こんごうしんぞう)、東大寺戒壇院四天王像などがあります。


《 東大寺法華堂日光・月光菩薩像(にっこう・がっこうぼさつぞう) 》


 本尊の不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)の向かって右に立つのが日光菩薩、左が月光菩薩です。本来は梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)である、という説もあります。不空羂索観音像の脇侍(わきじ。きょうじ)としては、本尊が乾漆像に対してこちらは塑像、本尊が巨大であるのにこちらは小さすぎる、と何となくバランスの悪さが印象づけられます。おそらくは、この三尊の組み合わせは本来のものではなく、日光・月光菩薩像は別の場所からもってきた客仏(きゃくぶつ)だろうと考えられてきました。ただ、最近の研究では、日光・月光両菩薩像、戒壇院の四天王像、法華堂の執金剛神像とワンセットで、不空羂索観音像の護法神だったのではないか、という意見が出されています。

 日光は法衣、月光は唐服をつけ、どちらも目を半眼に開いて静かに合掌しています。現在はほとんど白色ですが、袖口や裾などに製作当時の彩色がわずかに残っています。像高は日光2.072m、月光2.048m。


《 東大寺法華堂執金剛神像(しつ(しゅう)こんごうしんぞう) 》


 革製(かわせい)の甲冑(かっちゅう)に身を固め、右手に長さ78cmの金剛杵(こんごうしょ)を振り上げ、忿怒(ふんぬ)の相で仏敵を叱咤(しった)する塑像です。目をカッと見開き、左腕には血管が浮き上がるほど拳を強く握りしめています。普段は厨子(ずし)の中に安置され、年1回しか公開されない秘仏(東大寺初代別当良弁(ろうべん)の命日12月16日だけ開扉)だったため、各所に天平時代の華麗な彩色や文様が残っています。執金剛神の発展した形が金剛力士(こんごうりきし。仁王(におう))です。像高1.73m。

 平将門の乱(939〜940)の折に、髻(もとどり)が蜂に変身して飛び立ち、将門を刺し殺したとする伝説があります。


《 東大寺戒壇院四天王像(してんのうぞう) 》


 四天王は、本来は異教の神々でしたが、仏教に帰依して護法善神(ごほうぜんしん)となったものです。それぞれ守護する方角が決まっており、東から時計回りに持国天(じこくてん。東。剣を持つ)、増長天(ぞうちょうてん。南。矛をつく)、広目天(こうもくてん。西。筆と経典を持つ)、多聞天(たもんてん。北。宝塔をささげる)と配置されています。この配置を「地蔵買うた(じ・ぞう・こう・た)」と覚える方法があります。

 いずれも表情はきわめて写実的で、革製(かわせい)の甲冑(かっちゅう)に身を固め、邪鬼(じゃき)を踏みつける立像です。像高は1.6m〜1.7m前後。


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A 彫 刻(2)− 乾漆像(かんしつぞう) 


 乾漆像には、原型の上に麻布を幾重にも巻いて漆で塗り固め、あとで原型を抜きとる脱活乾漆像(だっかつかんしつぞう)と、荒彫りした木彫を原型とした木心乾漆像(もくしんかんしつぞう)の2種類があります。脱活乾漆像は中身がない、言ってみれば張り子の人形のようなものですから、いたって軽いものです。これに対して、木心乾漆像は、中身が木ですから、それなりの重さがあります。

 高価な漆を大量に使用する上、高度な技術が必要でした。そのため、奈良時代以外に乾漆像がつくられることはほとんどありませんでした。

 乾漆像の作例として、東大寺法華堂の不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)、興福寺八部衆像(はちぶしゅうぞう。阿修羅像をふくむ)、唐招提寺鑑真像などがあります。


《 東大寺法華堂不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう) 》


 像高3.62mに及ぶ脱乾漆の巨像で、法華堂の本尊です。頭上に華麗な宝冠をのせた三目(さんもく。額に縦に第3の目である仏眼(ぶつげん)がついています)八臂(はっぴ。8本の腕)の姿で、縄の先に環(わ)をつけた「羂索(けんさく、けんじゃく。羂は獣を捕らえる網、索は釣り糸の意)」という古代インドの狩猟道具を持っています。ここでは、獲物ではなく、衆生の苦悩を救う象徴になっています。「不空」は空しくないという意味で、助けを求める人びとの願いが空しいものとならないよう、慈悲の「羂索」であまねく衆生を救済する決意を表現しています。

 しかし、もっぱら鎮護国家を祈願する仏として造立されたものらしく、一般庶民に親しまれることはなかったようです。


《 興福寺八部衆像(はちぶしゅうぞう) 》


 もと西金堂に安置されていました。八部衆というのは、仏法を守護するインド古来の8種の神々のことです。

 そのひとつが阿修羅(あしゅら)です。闘争の鬼神であるはずの阿修羅ですが、興福寺の阿修羅像は眉根を寄せ、愁いを含んだ少年のような顔つきをしています。三面六臂(さんめんろっぴ。3つの顔と6本の腕)で上半身は裸体。2本の腕が胸元で固く合掌し、残り4本の細く長い腕は空間に大きく開かれています。像高1.53m。


《 唐招提寺鑑真像 》


 日本最古の肖像彫刻です。言い伝えによれば、忍基(にんき)という弟子が、講堂の梁(はり)が折れる夢を見て、これを鑑真の死の予兆と直感し、急ぎ作らせたといわれます。それからふた月ほどして鑑真は遷化(せんげ。亡くなること)し、あとにはこの像が残りました。視力を失って閉じられた両目に、墨で丁寧に描かれたまつげの一本一本、あごの短く伸びたひげの一本一本から、鑑真の姿をこの世にとどめようとする人びとの執念のようなものを感じます。像高0.818m。

 貞享5(1688)年の青葉繁れる頃、唐招提寺の開山堂(現在の御影堂(みえいどう)ができるまで鑑真像が安置されていた小堂)を訪れて鑑真像と対面した芭蕉は、幾たびもの苦難の末に来日した鑑真の労苦を偲(しの)び、次の一句を残しています(『笈の小文』)。


 若葉して御目
(おんめ)の雫(しずく)ぬぐはばや
 
(若葉でもって和上の御目からこぼれ落ちる雫をおぬぐいしたいものだ)


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B 絵 画


 絵画の作例は少ないのですが、正倉院に伝わる鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょのびょうぶ)の樹下美人図や、薬師寺に伝わる吉祥天像(きちじょうてんぞう)などが代表的なものです。唐の影響を受けた豊満で華麗な表現が見られます。また、絵巻物の源流といわれる過去現在絵因果経(かこげんざいえいんがきょう)があります。


 鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょのびょうぶ) 》


 全6扇からなる屏風で、インド・ペルシアに源流をもつ樹下に唐風美女を描く構図(これを「樹下美人図」といいます)です。 描かれた女性は、三日月眉、切れ長の目、小さな赤い唇、ふくよかな頬、豊満な肉体が特徴的です。

 第1〜第3扇は立ち姿、第4〜6扇は岩に腰掛ける美女が描かれています。現在は落剥(らくはく)してしまっていますが、かつては髪や衣服に山鳥の羽根が貼ってありました。


《 薬師寺吉祥天像(やくしじきちじょうてんぞう) 》


 吉祥天(きちじょうてん)は毘沙門天(びしゃもんてん)の妃で、福徳豊穣の守護神として信仰されました。宮中や寺院で毎年正月におこなわれる吉祥悔過会(きちじょうけかえ)の本尊として、除災求福や五穀豊穣などが祈願されました。頭の周囲には円く見えるのは、光背の跡でしょうか。左の掌(てのひら)に、如意宝珠(にょいほうじゅ。望み通りに財宝を取り出すことができる赤い玉)をのせています。鳥毛立女屏風に見られる唐風美女とその特徴がよく似ています。0.533m×0.32m。


《 過去現在絵因果経(かこげんざいえいんがきょう) 》


 唐から輸入された原本を、奈良時代に書写したものです。過去の因(原因)が現在の果(結果)になっているという縁起の法により、釈迦の前世(過去世)での出家から、現世に誕生しての出家・弟子の教化までの仏伝を過去現在因果経といいます。これに絵を加えたものが、過去現在絵因果経です。

 下段に唐風楷書で1行8文字に経文を写し、上段には経文に対応する絵を描いています。最古の絵巻物といわれますが、こうした形式は過去現在絵因果経だけです。後世の絵巻物は、絵と詞書(ことばがき)を交互に繰り返す形式(交互並立式)が一般的です。縦0.265m、横10.95m。


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C 工 芸


 工芸品としては、正倉院宝物が有名です。聖武太上天皇の死後、光明皇太后が遺愛の品々を東大寺に寄進したものが中心です。服飾から調度品、楽器、武具など、約1万点に及ぶ多種多様な品々が含まれます。

 螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)など、きわめてよく保存された優品が多いのも特徴です。それらの中には、唐ばかりでなく西アジア・南アジアとの交流を示すものがみられ、当時の宮廷生活の文化的水準の高さと国際性をうかがい知ることができます。


《 螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ) 》


 琵琶は通常は四絃です。唐式五絃琵琶(とうしきごげんのびわ)としては、現存する世界で唯一の遺品です。紫檀材の琵琶に螺鈿(らでん。夜光貝やオウム貝などの光沢のある部分を薄く切り取ったもの)細工が施されています。捍撥面(かんばちめん。ばち受けの部分)には玳瑁(たいまい。鼈甲(べっこう))を貼り付け、熱帯樹を背景にフタコブラクダに乗って琵琶を奏でる胡人(こじん。西域の人物)が螺鈿細工で表現されています。背面には宝相華文(ほうそうげもん。8世紀に東アジアで流行した花唐草文様)と2羽の咋鳥文(さくちょうもん。嘴(くちばし)にリボンや草花をくわえる文様)が螺鈿細工で施されています。

 使われている材料(紫檀(したん)はインドシナ半島あたり、玳瑁(たいまい)はアフリカ東海岸〜東南アジア、夜光貝(やこうがい)は沖縄など中国近海でとれます)や施された文様、唐式五絃琵琶というその形態などから天平文化の国際性がわかる名品です。全長1.081m、最大胴幅0.307m。


《 白瑠璃碗(はくるりのわん) 》

 透明なカットグラス(材質はアルカリ石灰ガラス)の半球形の食器です。表面につけられた80個からなる円形切子(きりこ)は、円形が隣接しているため亀甲形(きっこうがた。正六角形)がつながっているような模様に見えます。

 カスピ海周辺で製作されたものが、シルクロードを経てわが国まで伝来したと考えられます。1,000年以上も前のガラス製品が破損することなく、当時の輝きを保ったままで現在にまで伝わったのは奇跡です。高さ8.5cm、直径12cm。


《 百万塔と陀羅尼経(だらにきょう 》


 恵美押勝(えみのおしかつ)の乱の鎮定後、戦没者を慰霊するために、称徳天皇の命令によって作られました。小さな木製三重塔(高さ約14cm、基径約11cm)が百万基作られ、十大寺
(注)に十万基ずつ分置されました。塔の相輪部分をはずすと、中が空洞になっており。陀羅尼経(だらにきょう。陀羅尼は仏前で唱える呪文のこと)が納められています。陀羅尼経の文字は木版印刷が銅版印刷かで意見が分かれていますが、製作年代(770年に完成)が判明している世界最古の印刷物とされています。


(注)十大寺:南都七大寺(法隆寺を含む)+弘福寺(大和)・崇福寺(近江)・四天王寺(摂津)


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