10.律令体制のしくみ

「律令とは、7世紀以来、中国の隋・唐の時代に整えられた法典の体系である。「律」は、刑罰法規であり、「令」は官制など一般に行政についての規定を含む。

 わが大宝律令は、唐の律令を手本にしたと言われているが、両者の間には、いくつかの相違がある。たとえば、政治の中枢機関である太政官は、日本独自のもので、これに相当するものは、唐制にはない。唐制では、これが、中書・尚書・門下の三省に分かれている。また、太政官と併立する神祇官も、日本だけに独自のものである。」

(角川書店編『日本史探訪3』1984年、角川文庫、P.300〜301)



●国家法典の完成●



@ 大宝律令(たいほうりつりょう)


 律令体制の根本は律令(りつりょう)です。(りつ)は刑法、(りょう)は行政法をそれぞれ意味します。わが国では近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)など令は編纂されましたが、律と令がともに整ったことがありませんでした。それが701(大宝1)年、大宝律令の完成によって初めて国家法典が完備したのです。

 唐の永徽律令(えいきりつりょう)を手本にして、律6巻、令11巻がつくられました。律は702年に、令は701年にそれぞれ施行されました。編纂の中心になったのは刑部親王(おさかべしんのう。総裁)と藤原不比等(ふじわらのふひと)でした。

 ただし、大宝律令は今日残存してはいません。『令集解(りょうのしゅうげ)』・『続日本紀(しょくにほんぎ)』等によって断片的に復元されるだけです。


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A 養老律令(ようろうりつりょう)


 大宝律令には不備があったのでしょうか、藤原不比等らがつくっていた養老律令が718(養老2)年に完成します。藤原不比等の個人的な事業だったとも、首皇子(おびとのみこ。のちの聖武天皇)が天皇になった時に施行してその権威を高めるためだったとも、いろいろな推測がありますが、実のところよくわかりません。

 ともかく、律10巻、令10巻が作られました。律は一部だけが伝存しています。令は『令集解(りょうのしゅうげ)』・『令義解(りょうのぎげ)』などから大部分が復元されました。

 内容的には、大宝律令とほとんど同じです。完成から約40年後の757(天平宝字1)年、不比等の孫藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)によって施行されました。宮中における藤原氏の律令貴族としての優位性を、広く印象づけるために施行されたようです。


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●統治組織●



@ 中央の組織


 中央の役所は「二官八省一台五衛府(にかんはっしょういちだいごえふ)」と総称されます。


《 二 官 》


 まず、二官とは、祭祀を司る神祇官(じんぎかん)と、政務を担当する太政官(だいじょうかん)のことです。祭祀を司る祭(まつりごと)と政務を行う政(まつりごと)が同格に扱われています(祭政一致)。

 中国では皇帝の独裁権が強く、唐制の中書(ちゅうしょ)・尚書(しょうしょ)・門下(もんか)三省は、あくまでも皇帝が行う政治の補助機関に過ぎません。わが国の太政官は、これら三省を一本にまとめたものであり、天皇の政治をほぼ代行できる機関です。その代わり、天皇は「現人神(あらひとがみ)」として現実の政治に対しては責任を負いません。

 天皇の「現人神」としての性格から、神々の祭祀を司る神祇官が必然的に出てきます。唐制でわが国の神祇官に相当するのは、尚書省の下部機関の礼部に過ぎません。

 太政官は太政大臣(だいじょうだいじん)・左大臣(さだいじん)・右大臣(うだいじん)・大納言(だいなごん)・少納言(しょうなごん)などからなります。国政の中心を担う重職である太政大臣・左大臣・右大臣を「三公(さんこう)」と称しました。

 特に太政大臣は極官(最高職)であり、適任者がいなければ置かれることがありませんでした。そこで、これを「則闕の官(そっけつのかん)」(適任者がいなければ「則(すなわ)ち闕(か)く(欠員にする)」の意)といいます。そのため、一般的には、左大臣が最高職でした。


《 八 省 》


 八省は、政務を分担する八つの役所のことです。左弁官のもとに中務(なかつかさ。天皇の国事・行事に関する事務)・式部(しきぶ。文官人事)・治部(じぶ。儀式・仏教・外交)・民部(みんぶ。民政一般)の各省が、右弁官のもとに兵部(ひょうぶ。武官人事・軍政一般)・刑部(ぎょうぶ。裁判)・大蔵(おおくら。財政)・宮内(くない。宮中の一般庶務)の各省が置かれました。

 役所の名前を見るとおおよその仕事内容が類推できますが、管轄が紛らわしい省が一部あります。たとえば、大学を管轄するのは式部省(そもそも当時、文部科学省という役所はありませんでした)、租税を扱うのは民部省 (大蔵省ではありません)ですので、注意が必要です。


《 一 台 》



 一台というのは弾正台(だんじょうだい)を指します。弾正台は、風俗を取り締まったり、官吏を監察する機関です。


《 五衛府 》


 五衛府は、左兵衛府(さひょうえふ)、右兵衛府(うひょうえふ)、左衛士府(さえじふ)、右衛士府(うえじふ)、衛門府(えもんふ)の五つです。「衛」というのは「まもる」という意味です。 兵衛府というのは、中央の下級官人(6〜8位)の嫡子や郡司の子弟から選抜された兵衛(ひょうえ)という兵士が所属する役所のことです。内裏宿直や内門守衛など天皇近辺を警衛しました。

 兵衛に対し、諸国の軍団から上京した兵士を衛士(えじ)といいます。後述しますが、農民の成人男子から徴発された兵士です。衛士は、衛士府と衛門府に配属されました。

 衛士府は衛士を率いて宮城の警護や巡検、天皇行幸(ぎょうこう)の護衛などにあたりました。衛門府は、衛士を率いて宮門の警衛・開閉・出入の許可などの仕事に従事しました。


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A 地方の組織


 
諸国は五畿七道(ごきしちどう)に分けられます。


《 五 畿 》


 都の周辺地域を畿内(きない。きだい)といいます。中国で、天子の居所を「王畿(おうき)」と呼んだことにならったものです。最初は、大和(やまと)・山背(やましろ。のち山城と表記)・河内(かわち)・摂津(せっつ)の4カ国でした。のち、河内国から和泉(いずみ)が分立して5カ国になると、五畿(ごき)とも呼ばれるようになりました。


《 七 道 》



 地方は、という七つの地方行政区画に分けられました。東山道・北陸道・東海道・南海道・西海道(さいかいどう)・山陽道・山陰道の七つです。七道は畿内に接して、中央の命令が地方に伝わる配置になっていました。唯一、西海道だけが畿内に接していません。そこで、この地には「遠の朝廷(とおのみかど)」として大宰府(だざいふ)が置かれました。


《 国・郡・里 》


 道の下にはが置かれ、国の下には(701年に「評」を「郡」に改称)、郡の下には(のち「」と改称)が置かれました。国・郡・里(郷)にはそれぞれ国司・郡司・里長(郷長)が置かれました。

 国司は中央貴族が任命され、地方の国府(庁舎を国衙(こくが)といいます)に赴任しました。任期は最初6年でしたが、のち4年になりました。

 郡司は、在地豪族が任命されました。もと国造(くにのみやつこ)だった人々です。終身官で世襲でした。郡の庁舎である郡家(ぐうけ。また郡衙(ぐんが)ともいいます)で執務しました。

 里長(郷長)は、有力農民を国司が任命したものです。里長は村の長ですが、官人ではありません。


 ◆国名につく近遠・上中下・前中後

 分離・併合を繰り返したため、古代の国数は一定していません。712(和銅5)年には58国でしたが、823(弘仁14)年には66国となりました。

 遠近、上中下、前中後のついた国名は、都から放射状に延びた七道に沿って近遠、上中下、前中後の順に並んでいます。たとえば、都に近い湖(近つうみ)である琵琶湖があるので近江(おうみ)、都から遠い湖(遠つうみ)である浜名湖があるので遠江(とおとうみ)。吉備(きび)国を三分して、都に近い方から備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)というように。

 ところで、上総(かずさ)・下総(しもうさ)は、一見すると、この原則が当てはまらないように思われます。実は、関東平野の東京湾近辺は大小の河川が乱流していて低湿地が多く、交通の障害となっていたため、当初の東海道は、相模(さがみ)の三浦半島から海を渡って上総に延びていたのです。つまり、最初の時点では、上総・下総の配列も、この原則にしっかりと従っていたのです。

 しかし、次第に河川の通過もできるようになったので、武蔵(むさし)を通過して下総に至るようになりました。これ以後は、武蔵は東山道ではなく、東海道に属することになりました。

【参考】
・宮内正勝・阿部泉『手に取る日本史教材』1988年、地歴社、P.47を参照


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B 要地の組織


《 京 職 》



 都には左・右の京職(きょうしき。けいしき)が置かれ、朱雀大路を境に西京(にしのきょう)と東京(ひがしのきょう)の行政をそれぞれ担当しました。その下にあった市司(いちのつかさ)は、西市(にしのいち)と東市(ひがしのいち)の監督にあたりました。


《 摂津職 》


 難波は、難波津・難波宮・客館等がおかれた政治・外交の要地だったので、この地には摂津職(せっつしき)が置かれました。摂津職は、摂津国全体の行政や難波津関係の事務を司りましたが、793(延暦12)年に廃止されました。


《 大宰府 》


 北九州には大宰府(だざいふ)が置かれ、外交・軍事を司りました。「遠の朝廷(とおのみかど)」として西海道(さいかいどう)を統括しました。


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●交 通●



@ 官 道


 官道(駅路・伝路)には、駅馬(えきば、はゆま)・伝馬(てんま、つたわりうま)の制が定められました。


《 駅 路 》


 駅路(中央政府と国府を結ぶ道)に置かれたのが駅馬です。駅路には諸道30里(約16q)毎に駅家(うまや)が置かれ、駅馬を配置しました。馬の数は、駅路の等級によって異なりました(大路20匹・中路10匹・小路5匹)。駅使(えきし。公用の旅行者)は駅鈴(えきれい)を馬の首に下げ、鳴らしながら公用の旅をしました。駅馬は一区間ごとに乗り継ぐのが原則で、乗り越すことはできませんでした。

 駅家に属する戸を駅戸(えきこ)といい、その職務に従事する者を駅子(えきし)といいました。駅子は、駅馬の飼養、駅田(えきでん。駅家の経費をまかなうために置かれた不輸租田で、大路で4町、中路で3町、小路で2町設定されました)の耕作などに従事しました。駅家の責任者が駅長(えきちょう)で、終身その任にあたりました。


《 伝 路 》


 伝路(国衙と郡家を結ぶ道)に置かれたのが伝馬です。伝馬は郡家(郡衙)に5匹ずつ置かれました。伝使(でんし。公用の旅行者)が伝馬を利用する場合には、伝符(でんぷ)という木契を必要としました。伝馬長(てんまちょう)・伝子(でんし)が置かれました。

(注)駅路としての七道の等級 大路:山陽道
                    中路:東海道・東山道
                    小路:北陸道・山陰道・南海道・西海道



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A 関 所



 謀反人(むほんにん)が東国へ逃亡することを防止し、外敵の都への侵入を阻止するために設けられました。国家の大事に際して使者(固関使(こげんし))を派遣し、関所を閉鎖して警護させることを固関(こげん)といいます。

 設置されたのは、越前国愛発関(あらちのせき。後に近江国逢坂関(おうさかのせき)に変更)、美濃国不破関(ふわのせき。現在の関ケ原)、伊勢国鈴鹿関(すずかのせき。現在の鈴鹿峠) の三つの関所です。これを三関(さんせき。さんげん)といいます。各関所は、畿内と北陸道・東山道・東海道と間に設けられました。

 当時は、三関以東を「関東(「関の東」という意味です)」と称しました。「関東」の意味する範囲は時代によって変化しますが、最初に置かれた三関がすべて中央から見て東側に対して設けられていることには注意が必要です。

 なお、三関は789(延暦8)年に廃止されました。


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●官 制●



@ 四等官制
(しとうかんせい)


 
役人は4つの職名にわかれており、これを四等官制といいます。上から順に「長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)」といいます。長官は事案を統括的に決裁し、次官は長官の補佐、判官は文書の審査、主典は文書の作成などを行いました。役所によって定員や構成が異なり、用いる文字も異なりますが、読み方や役割は同じです。

 たとえば、国司の四等官は、「守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)」と書きました。しかし、すべての国に四等官が揃っていたわけでも、同じ定員だったわけでもありません。国は大・上・中・下国の4等級に分かれ、官人も多少の違いがありました。大国では掾・目は2人ずつ、上国では守・介・掾・目は1人ずついましたが、中国では介がなく、下国では介・掾がありませんでした。

 おもな官司の四等官を、次にあげておきます。

   神祇官 太政官  省  衛府  大宰府  郡 
長官  太政大臣
左大臣
右大臣
 卿  督 帥(そつ、そち)  大領
次官 大副
少副
大納言 大輔
少輔
大弐
少弐 
 少領
判官  大祐
少祐
左・右大弁
左・右中弁・
左・右少弁
少納言
大丞
少丞
大尉
少尉
大監
少監
 主政
主典 大史
少史
左・右弁大史
左・右弁少史
大・少外記
大録
少録
大志
少志
大典
少典
 主帳


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A 官位相当制(かんいそうとうのせい) 


 
官職に就くには、その前提条件として位階をもっていなければなりません。

 位階は大宝令以降、親王は1品(いっぽん)から4品までの4階、諸臣は正1位(しょういちい)から少初位下(しょうそいのげ)までの30階に分かれていました。

 令制では位階に相当する官職が規定されており、これを官位相当制(かんいそうとうのせい)といいます。

 たとえば、太政大臣になるには正1位か従1位(じゅいちい)、左・右大臣になるには正2位か従2位、大納言になるには正3位(しょうさんみ)の位階をそれぞれ持っていることが前提でした。官人は位階によって序列化され、その位階に応じて官職を与えられ、統制されました。



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B 貴 族


 
5位以上の位階を持っている官人の一族を、貴族といいます。さらに3位以上を「(き)」、4〜5位を「通貴(つうき)」といいました。

 「貴」は貴族中の貴族です。官位相当制により、国政の中枢を担う官職を独占しました。奈良時代には、5位以上の官人を「公卿(くぎょう)」といいましたが、平安時代になると太政大臣・摂政・関白・左大臣・右大臣・内大臣を「公(こう)」、大納言・中納言・参議・3位以上の非参議官人を「卿(きょう)」といい、これらを総称して「公卿」と呼ぶようになりました。

 貴族には収入面での優遇や、免税・減刑措置など、さまざまな特権がありました。そうした特権の一つに、蔭位制(おんいのせい)という制度がありました。

 蔭位制は、5位以上の有位者の子や3位以上の有位者の孫は、21歳になると祖父・父の位階に応じて一定の位階を与えられる、という制度です。蔭位による叙位は、国家試験に合格して叙位されるよりも格段に有利だったため、結局は、貴族になるのは貴族の子孫ばかりでした。蔭位制は、貴族層を再生産する仕組みだったのです。


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●司法制度●



@ 刑 罰



  律の刑罰(正刑)を五刑といいます。(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の五つです。五刑は、全部で5種20等に分かれていました。

 笞(ち)・杖(じょう)は細い棒や太い棒で尻を叩く身体刑です。笞は10・20・30・40・50回までの5階級、杖は60・70・80・90・100回までの5階級ありました。

 徒(ず)は懲役刑です。1年・1年半・2年・2年半・3年の5階級ありました。

 流(る)は都から遠隔地に移して課す服役刑で、距離に従い近流(きんる)・中流(ちゅうる)・遠流(おんる)の3階級がありました。

 死(し)は死刑で、絞(こう)と斬(ざん)の2段階ありました。

 なお、特定身分者を対象にした刑罰(閏刑)には、たとえば僧尼に加えられた苦使(くし。労役)・外配(がいはい。畿内の外へ配置転換)・還俗(げんぞく。僧尼の身分を剥奪)などがあります。

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A 八 虐(はちぎゃく)


  六議(りくぎ)と呼ばれる人々には、刑法上、減刑される特権がありました。議親(ぎしん)・議故(ぎこ)・議賢(ぎけん)・議能(ぎのう)・議功(ぎこう)・議貴(ぎき)の6種の人々です。議親・議故は天皇の親戚や側近、議賢・議能・議功は徳行・才能・勲功のある人、そして議貴は3位以上の官人のことです。

 しかし、八虐(はちぎゃく)とよばれる八つの重罪を犯した場合には、六議であっても減刑の特権を受けられず、恩赦(おんしゃ)の対象からもはずされました。

 八虐というのは、具体的には、謀反(むへん)・謀大逆(ぼうたいぎゃく)・謀叛(むほん)・悪逆(あくぎゃく)・不道(ふどう)・大不敬(だいふきょう)・不孝(ふきょう)・不義(ふぎ)の八つの大罪を指します。これらは、天皇・国家・神社・尊属等に対する罪で、支配秩序を揺るがす重罪と考えられました。


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●民衆支配のしくみ●



@ 
籍帳制度


 律令制は、農民の負担する租税と労役によって支えられていました。そのため、租税負担者を掌握するための戸籍(こせき)と、租税の賦課台帳である計帳(けいちょう)が作成されました。


《 戸 籍 》


 戸籍は人民登録台帳です。6年毎に作成(6年1造)し、30年間保存することが決められました。ただし、天智天皇の時代に作成された庚午年籍(こうごねんじゃく。670年)だけは、わが国初の戸籍として永久保存することになっていました(現存しません)。なお、持統天皇時代の庚寅年籍(こういんねんじゃく。690年)は、前年施行された飛鳥浄御原令を受けて作成された6年1造規定に基づく最初の戸籍でした。

 戸籍には、郷戸(ごうこ)の構成員が記載されています。現在のわれわれが考える家族に近いものは、当時、房戸(ぼうこ)と呼ばれました。郷戸は、多数の房戸からなります。たとえば、お兄さんの家族、弟の家族、叔父さんの家族などそれぞれを「房戸」といい、行政上の都合でそれらを一括りにしたのが「郷戸」です。そのため、当時の戸籍には、現在では考えられないような「大家族」が見られます。たとえば、702年の筑前国嶋郡川辺里(ちくぜんのくにしまのこおりかわべのさと)の大領(郡司の長官)肥君猪手(ひのきみのいて)の戸籍には、124人(うち37人が奴婢)もの人々が一つの戸として計上されています(現存最大の戸籍)。

 郷戸が50戸集まると、それを1里といいます。「国−郡−里」という行政区画の「里」であり、里を統括するのが里長(さとおさ)です。


《 計 帳 》


 計帳は、都に納入する調庸の賦課台帳です。一国全体の戸籍・口数・調庸物数を書き上げた統計文書です。計帳は、毎年作成されました。

 計帳は「手実(しゅじつ。郷戸単位)→歴名(れきみょう。里(郷)単位)→計帳(けいちょう。国単位)」という作成手順を経ました。

 手実(しゅじつ、てふみ)というのは、各戸主が作成した申告書です。戸(郷戸)内の人名・年齢・容貌・調庸負担の可・不可を記し、毎年6月30日以前に国司に提出しました。写真などなかった時代ですから、「右目の下に黒子(ほくろ)がある」などというような税負担者の身体的特徴まで細々申告させていることには、どこまでも追跡して税を取り立てようとする為政者の強い意志を感じます。事実、税の過重さから、奈良時代には税負担者の浮浪・逃亡等が相次ぎました。

 歴名(れきみょう)というのは、手実の内容を戸(郷戸)ごとに集計し、里(郷)単位にまとめたものです。

 計帳(国帳・目録・大帳ともいいます)は、歴名を一国単位で集計したものです。計帳は毎年8月30日までに太政官に上申しました。そのために国司が派遣する使者を大帳使(計帳使)といいます。

 なお、国司は毎年4種類の公文(くもん。律令下の公文書のこと)を持参するため、4種類の使者を中央に派遣しました。これを四度使(しどのつかい、よどのつかい、しどし)といいます。大帳使、正税使(しょうぜいし)、貢調使(こうちょうし。調庸使・調帳使とも)、朝集使(ちょうしゅうし)の4種です。


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A 班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)


 農民から租税を徴収するためには、その最低生活を保障し、租税を生産させなければなりません。そのために、農民に土地を支給しました。公地公民が原則で土地は国有地でしたから、建前上は国が農民に一生涯、土地を貸し出すという形をとりました。支給される土地を、口分田(くぶんでん)といいます。戸籍を作成し、口分田を支給する者と、口分田を回収する者をチェックします。口分田の支給は戸籍作成の翌年、すなわち6年ごとに行われました(6年1班)。対象者は6歳以上の男女です。1代限りの所有を認められ、死去すると班田が行われる年に収公されました。ただし、宅地(家屋の建築にあてる土地)と園地(宅地に付属した果樹・野菜などを栽培する土地)の売買は可能でした。

 支給される口分田の面積には、男女・身分で差がありました。一般の農民ならば、男は2段、女は1段120歩の口分田の支給をうけました(1段は360歩)。「五色の賤」のうち、陵戸・官戸・公奴婢も、良民と同じ面積の口分田支給を受けました。ただし、家人・私奴婢は、良民の1/3の口分田支給を受けました。すなわち、男は240歩、女は160歩です。

 賤民への口分田は、賤民の所有者に班給されました。家人・奴婢には納税義務がありませんでしたから、賤民を多く所有する者ほど、経済的には有利でした。


《 土地の種類 》


 口分田のほかに、位田(いでん。5位以上に与えた土地)、功田(こうでん。功績があった者に与えた土地)、賜田(しでん。特別の恩勅によって与えた土地)、職田(しきでん。官職に応じて与えた土地)、神田(しんでん。神社の用に与えた土地)、寺田(じでん。寺院の用に与えた土地)などの種類の土地がありました。口分田、位田、功田、賜田、職田の一部(郡司に与えた土地)などは租を納入しなければならない輸租田(ゆそでん)です。職田の一部(郡司以外の官人に与えた土地)、神田、寺田などは、租の納入を免除された不輸租田(ふゆそでん)です。

 口分田などを班給して余った土地を乗田(じょうでん)といいます。「乗」は「余剰(よじょう。余りのこと)」の意味です。乗田は公田(こうでん)ともいいました。乗田を遊ばせておくのはもったいないので、1年を限度として農民に貸して耕作させ、地子(賃料)をとりました。地子をとる乗田のような土地を輸地子田(ゆじしでん)といいます。土地を借りた農民は、収穫高の1/5を地子として納めました。このように、地子をとって期限付きで貸すことを「賃租(ちんそ)」といいました。地子を春の耕作前に支払うことを「賃」、秋の収穫後に支払うことを「租」といったことに由来します。


《 条里制 》


 律令制下の土地区画を条里制(じょうりせい)といいます。6町(654m)四方の正方形(1)が縦・横に隙間なく並んでいる形を想像して下さい。6町ごとのブロックには、横に1、2条、3条、4条…、縦に1、2里、3里、4里…というように、条・里をつけて番号を振っていきます。

 6町(654m)四方の正方形(1里)は、さらに縦6×横6の計36の正方形のブロックに分けます。1町(109m)四方のこの正方形をといいます。36の坪にも1の坪、2の坪、3の坪…というように番号を振ります(これを坪並(つぼなみ)といいます)。1列目を1・2・3・4・5・6の坪、2列目を7・8・9・10・11・12の坪、3列目を13・14・15…と振っていくやり方を平行式(並行式)坪並といいます。1列目を1・2・3・4・5・6の坪、2列目を12・11・10・9・8・7の坪、3列目を13・14・15…とジグザグに振っていくやり方を千鳥式(蛇行式)坪並といいます。

 1坪はさらに10等分されます。10等分された1枚分の面積は1段(=360)です。


     6町(654m。この場合の町は長さの単位)四方=1里=36坪
         1坪=  1町(この場合の町は面積の単位)=10段
      1/10坪=1/10町 = 1段=360歩


 1坪を10等分する方法には2種類あります。1坪を縦方向に細長い短冊状に10等分する土地分割法を長地型(ながちがた、なげちがた)といいます。すなわち、縦60歩(1町=109m)×横6歩(10.9m)の土地が10枚分になるわけです。1坪を縦に5等分、横に2等分にする土地分割法を半折型(はおりがた)といいます。すなわち、縦30歩(50.4m)×横12歩(21.8m)の土地が10枚分とれます。

 どちらの土地分割法がすぐれているのか、一概には言えませんが、牛馬を使用して農具を引かせる場合には、なるべくターン回数の少ない長地型の方がよいかも知れません。事実、長地型の方が優勢であったようです。ただし、牛馬耕が普及するのは鎌倉時代まで待たねばなりません。

 さて、条里制によって分割された土地の中に、あなたの口分田があったとしましょう。そうすると、条と里の座標軸によって、その口分田の位置が即座にわかるのです。たとえば、「3条5里1坪」というように。

 条里制はたいへん合理的で、為政者にとっては管理しやすい土地区画制度でだったのです。


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●民衆の負担●



@ 
租税負担


 租は男女ともに負担しましたが、それ以外はおもに正丁(21〜60歳の男子)が負担する人頭税が中心でした。そのため、税負担が成年男子に集中し、浮浪・逃亡等を誘発する原因になりました。

 一方、女子・貴族・奴婢などは調・庸・雑徭を負担しない不課口(ふかこう)でした。

 以下、具体的に律令制下の民衆の負担を見ていきましょう。


《 租(そ) 》


 男女ともに1段につき2束(そく)2把(わ)の頴稲(えいとう。穂付きの籾)を、9月中旬から11月末までに諸国の郡家(ぐうけ。郡衙)に置かれた正倉(しょうそう)に納めました。1段から72束が収穫されましたから、2束2把は収穫高の約3%(3.06%)に当たります。

 706(慶雲3)年から、2束2把は1束5把に改められましたが、これは減税ではありません。この数字の変更は、異なる度量衡による計算によったからです。稲の束を大きくしたため、見かけ上、束の数が減ったのです。度量衡を変えたので、1段からの平均収穫高は50束になりました。1束5把は50束の3%(3.00%)ですから、納入する租の実量は変更前とほとんど変わらなかったのです。なお、1束5把の稲は脱穀後、当時と同じ半搗米(はんつきまい)にすると、およそ4〜4.3kgほどになります。

 女性も納入する税は、この租だけです。


《 調(ちょう) 》


 郷土の特産品のうちから1種類を、中央(都)の大蔵省に納めました。たとえば、絹・あしぎぬなら8尺5寸(約2.6m)、布(麻布)なら2丈6尺(約7.9m)、綿(絹綿)1斤(きん)を納めました。 

 納入するのは正丁で、次丁(老丁、61〜65歳の男子)は正丁の1/2、中男(少丁、17〜20歳の男子)は正丁の1/4の量を納入しました。

 なお、『万葉集』には「たらちねの母が養(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まゆごも)り…」という慣用句が見られます。自分たちは決して身につけることのない絹布を、調として納入するために、多くの女性たちが桑を植え、養蚕に携わったのでしょう。女性には租以外の税負担はありませんでしたが、結局は家族が手分けして税を負担したのです。


《 庸(よう) 》


 本来は正丁が中央(都)で、年間10日を限度につとめる歳役です。歳役につかない場合には、代わりに幅2尺4寸(約72.7cm)、長さ2丈6尺(約7.9m)の麻布を民部省に納めました。

 次丁(老丁、61〜65歳の男子)は正丁の1/2の量を納入しましたが、中男(少丁、17〜20歳の男子)には負担がありませんでした。

 なお、調と庸は中央政府の税収となりましたから、中央政府は律令農民を「調庸の民」の別称で呼ぶことがありました。調・庸は官人の給与や事業費となりました。


《 雑 徭(ぞうよう) 》


 雑徭は、正丁が年間60日を限度に地方(国衙)で歳役に従事するものです。次丁(老丁、61〜65歳の男子)は正丁の1/2の期間(30日)、中男(少丁、17〜20歳の男子)は正丁の1/4の期間(15日)、をそれぞれ限度に歳役に従事しました。

 なお、調・庸・雑徭の3種を総称して課役(かえき、かやく)といいます。課役負担者を課口(かこう)といい、課口のいる戸を課戸(かこ)、いない戸を不課戸(ふかこ)といいました。


《 運 脚(うんきゃく) 》


 運脚脚夫(きゃくふ)・担夫(たんぷ)ともいいます。調・庸などの貢納物をかついで、中央(都)まで徒歩で運搬する労役です。往復の食料は自弁でした。往復の期間は農作業などの生産活動ができませんでしたから、主要な働き手を徴発されて残された家族には、重い負担がかかりました。

 途中、食料がなくなり、行き倒れになる農民もいました。奈良時代の行基は、そうした農民を助けるために布施屋(ふせや)をつくりました。


《 義 倉 》


 備荒貯穀を義倉といいます。凶作に備えて毎年、粟などを農民から強制的に供出させ、貯蔵しました。貧富の差によって農民の戸を9等級に分け、等級ごとに粟の負担額を変えるようにしました。上上戸の負担が最も重く、ついで上中戸・上下戸・中上戸・中中戸・中下戸・下上戸・下中戸・下下戸と、順に負担が軽くなっていくのです。ただし、等外戸(負担できない貧しい戸)が大多数を占めました。


 出 挙(すいこ) 》


 春、農民に稲を貸し付けて、秋に利息とともに回収する仕組みを出挙といいます。最初は、勧農や凶作時の農民救済から始まったものです。しかし、のちには強制になりました。これでは、税と代わるところがありません。これを公出挙(くすいこ)といい、年利は3〜5割に上りました。出挙の利稲は、国司の自由な処分に任せられていました。

 一方、民間が農民に貸し出す私出挙(しすいこ)もありました。年利は5〜10割にも及ぶ、とんでもなく高利のものでした。


《 雇 役(こえき) 》


 政府が賃金・食料を支給して行う雇傭労働を雇役といいます。雇役で使役される人々を役民(えきみん)といいました。

 雇役と仕丁(してい、しちょう。50戸につき2人、3年1替で食料は50戸が負担)は、造寺・造都事業等の重要な労働力源となりました。


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A 兵 役 


 正丁は3〜4人に1人の割合で、兵役に従いました。兵器は自弁です。この兵役負担は非常に重いもので、「兵士に一人が徴発されると、その家は滅んでしまう」とまで言われました。

 兵士は諸国の軍団で訓練を受けました(軍団兵士)。

 都に上り、衛門府や左・右衛士府に所属して防衛にあたる兵士を「衛士(えじ)」といいます。任期は1年です。

 九州に赴き、大宰府の防人司(さきもりし)に所属し、海防にあたる兵士を「防人(さきもり)」といいます。任期は3年です。中央から見た東国世界は、「鶏(とり)が鳴く」(東(あずま)にかかる枕詞)といわれるほど方言がひどい辺鄙な田舎と蔑まれていましたが、東国兵士は素朴かつ勇敢でした。そのため、防人は730年からは東国兵士に限定されました。

 『万葉集』には任地に赴く農民が詠んだ「防人歌」が数多く所載されています。


  韓衣
(からごろも)(すそ)に取りつき泣く子らを置きてぞ来ぬや母(おも)なしにして


 なお、茨城県の鹿島神宮に伝わる祭頭祭(さいとうさい)は、防人が出立するに当たり、鹿島神宮に旅の無事を祈ったことが起源であると伝承されています。


  
(あられ)降り(注)鹿島の神を祈りつつ皇軍(すめらいくさ)にわれは来にしを

   (注)「霰(あられ)降り」は鹿島にかかる枕詞。



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●身分制度●



 
律令制下の身分制度には、良民(りょうみん)・賤民(せんみん)の2種がありました。

 693年、持統天皇が良民は黄色の、賤民は黒色の衣服をそれぞれ着ることを令しました。身分制度を色分けされた衣服によって、可視化しようと意図したのです。

 官僚は位階に応じた色の制服を着しましたが、無位官人以下の良民はクチナシの実を使って染めた黄色の制服を着ました。一方、賤民は橡(つるばみ。とち)すなわちドングリを煮出して染めた黒色の制服を着ることを強制されました
(注)


(注)『万葉集』時代の「橡の衣」は紺黒雑色また黒色であるが、『延喜式』頃の「橡の衣」は黄褐色だった。色の相違は使用する媒染剤の相違に起因するという。(澤瀉久孝『萬葉集注釋・巻第七』(普及版)1983年、中央公論社、280ページによる)


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@ 良 民


 良民には貴(3位以上)・通貴(5位以上)と呼ばれる貴族(上級官人)、6位以下の下級官人、公民(班田農民・調庸の民・百姓などさまざまな呼び方があります)と呼ばれた農民、雑色人(ぞうしきにん。雑戸品部)などがありました。


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A 賤民
(五色の賤)


 奈良時代には賤民とされた人々が、全人口の1割程度いたようです。官有のものが3種、私有のものが2種の計5種類の区別があったので、「五色の賤(ごしきのせん)」といいました。

 官有の賤民には、陵戸(りょうこ)・官戸(かんこ)・公奴婢(くぬひ)の区別がありました。陵戸は皇室の陵墓を守衛するもの、官戸は官司の諸役に駆使されました。公奴婢は官有の奴隷で、戸は形成できず、売買の対象になりました。

 私有の賤民には、家人(けにん)・私奴婢(しぬひ)の区別がありました。家人は戸を形成することができ、売買されませんでした。私奴婢は私有の奴隷で、戸は形成できず、売買の対象になりました。


 ◆私は賤民になりたい

 『万葉集』に、次のような和歌が収められています。

 
    
(つるばみ)の衣(きぬ)は人皆事なしといひし時より着ほしく思ほゆ


 「ドングリを煮出して染めた黒い衣服を着ている人は煩わしいことがない、というのを聞いたときから黒い服を着たいと思った」という意味です。黒は賤民が着る服の色なので、この和歌の作者は、良民身分を捨てて「賤民になりたい」と言っているわけです。

 なぜ「賤民になりたい」のでしょうか。その理由については、「これはなまじ身分があつて物思ひの絶えぬ人が賤者を羨ましく思つた意と見るべきである」と理解されています(澤瀉久孝『萬葉集注釋・巻第七』(普及版)1983年、中央公論社、 281ページ)。

 しかし、山上憶良は「貧窮問答歌」に、税負担に追われて困窮した良民の姿を詠んでいます。こうした良民が「税負担を免除された賤民身分を羨んだ」とする解釈も可能でしょう。

 安井俊夫氏は、後者の解釈にしたがって、「橡の…」の和歌を題材に取り上げ、律令制下の農民負担の重さを中学生に考えさせる授業実践を報告しています(安井俊夫『子どもが動く社会科−歴史の授業記録−』1982年、地歴社)。
 

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