1.文化のはじまり


●日本列島と日本人●



@ 人類が登場したのは700万年前?


 地球上に人類が登場したのは、今から約 700万年前といわれています。昔の日本史の教科書には、100万年前と載っていました。それが、200万年前、300万年前、400万年前…と、どんどんさかのぼって、現在では約700万年前となっているのです。科学の発展にしたがって、この数値も将来まだまだ変わる可能性があります。


◆さかのぼる人類の起源

 最古の人類は猿人と呼ばれます。猿人の化石はアフリカでしか発見されていませんから、人類はまずアフリカで誕生したと考えられています。相次ぐ新しい発見により、人類の登場時期は次第にさかのぼっています。

 1924年に南アフリカで約100万年前の猿人の化石人骨が発見され、アウストラロピテクス・アフリカヌスと名づけられました。1992年にはエチオピアで、約500万年前とされる猿人の化石が発見されアルディピテクス・ラミダス(ラミダス猿人)と名づけられました。2002年にはチャドで、なんと約700万年前とされる猿人の化石が発見されました(サヘラントロプス・チャデンシス)。でも、「本当に人類 なの?」と疑う意見もあります。


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A 「人類の時代」−人類は更新世と完新世に発展−


 さて、人類が登場した700万年前というのは、地質学や古生物学の時期区分でいうと、新第三紀の中新世(ちゅうしんせい)後期という時期にあたります。

 人類は新第三紀の終り近くから第四紀を通じて発展しました。そこで第四紀のことを「人類の時代」とも、「人類紀」とも呼んでいるのです。

 第四紀は、約1万年前を境に、さらに「更新世(こうしんせい)」と「完新世(かんしんせい)」という二つの時期に区分されます。更新世はかつては「洪積世(こうせきせい)」、完新世は「沖積世(ちゅうせきせい)」と呼ばれていました。

 洪積世というのは、「洪水による堆積物があった時代」という意味です。これを聞くと、神様が堕落した人間を滅ぼすために洪水を起こしたという、あの「ノアの箱船」(『旧約聖書』創世記)のお話を思い出しますね。正直者のノアの一家と、ノアたちによって箱船に避難した動物たち以外の生きとし生けるものは、いったん地球上から滅んでしまったといいます。数百qも離れた遠い地域から運ばれたモレーン(氷堆石(ひょうたいせき))や、山腹をスプーン状の形にざっくりとえぐったカール(圏谷(けんこく))などを見た昔の人たちは、この時の洪水によって大地に刻み込まれた名残りの地形だと考えたのでしょう。

 ところが洪積世の地形は、洪水がつくった地形ではないことがわかり、時代区分の名称としてふさわしくない、ということになりました。そのため、「洪積世」(と「沖積世」)という表現は、欧米ではすでに使用されていません。ただ、ドイツでは20世紀半ばまで使われ、明治の初めにドイツの地質学を受け入れた日本では、これらの用語を長らく使っていたのです。

 ちなみに、沖積世の方は「川が土砂を運搬・堆積して地形をつくった時代」という意味です。氷河期末期の沖積層も存在するので、時期の呼び方として「沖積世」を使うのは誤解のもとにもなりかねません。「洪積世」「沖積世」の二用語は、学術用語としては不適切だ、と学者たちは考えました。そのため、現在、この二つの用語は、地質学の時期区分としては使われなくなりました。ただし、「洪積台地」「沖積平野」という形で、地理用語の中には現在でも残っています。


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B 更新世は氷河の時代


 更新世の地形は、実は氷河によってつくられたものでした。氷河が移動する際に、大地に刻みつけた地形だったのです。そこで、更新世のことを、「氷河時代」ともいうのです。 「氷河時代」は、約10回にわたる寒冷な時期(氷期)とその間の寒さの緩んだ時期(間氷期)の繰り返しからなりますが、海面は現在にくらべると100m以上、下降していたと考えられています。そのため、更新世の時期には、日本列島はアジア大陸と陸続きになっていました。この陸続きの部分を「陸橋(りくきょう)」といいます。この陸橋を渡って、北からはマンモスヘラジカ、南からはナウマンゾウオオツノジカなどがやってきました。マンモスに長い体毛が生え、耳がアフリカゾウの1/10の大きさしかないのは、熱を逃がさないための工夫です。寒い地方の動物の特徴がよくわかりますね。こうした大型動物を追って、人類も何回かにわたって、日本列島にやってきたものと考えられています。

 人類がこれらの動物を狩るためにやってきたという証拠の一つとして、たとえば長野県の野尻湖底遺跡(のじりこていいせき)があります。野尻湖底遺跡では、約2万年前の地層から、人類の使用した旧石器(打製石器)と、ナウマンゾウの骨が一緒に出てきます。このナウマンゾウの名前は、フォッサマグナ(大地溝帯。「大きな割れ目」という意味)の発見者であるドイツ人地質学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(1854〜1927。明治政府の「御雇い外国人」の一人として1875年来日、1885年帰国)にちなんで命名されました。


◆マンモスの名前の由来

 ナウマンゾウがナウマンに由来するなら、マンモスは何に由来するのでしょうか。

 これには諸説あってはっきりとはわかりません。一説によると、『聖書』にある カバを意味する「ベヘモス」という言葉がもとになっている言われています。 ベヘモスはアラブ語で「メヘモス」と言います。アラブ商人は10〜11世紀頃シベリアでマンモスの牙を買い、アラル海近辺までこれを運んでは装飾品に加工し、大もうけしていました。17世紀にモスクワを訪れた外国人は、これを「マモウト」と記しているそうです。18世紀になると、この象に「エレファス・マンモス」という学名 がつけられました。この学名はその後「エレファス・マンモンチウス」に改められ、現在は「エレファス・プリミゲニウス(「最初に生まれた象」の意)」という学名が使われています。

【参考】
・亀井節夫『日本に象がいたころ』1967年、岩波書店(岩波新書)


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C 日本列島は1万年前にできた


 最後の氷期がすぎて気候が温暖になると、氷河から融けだした水が川や海に流れ込み、海面が上昇しました。およそ1万年余り前には最終的に大陸から切り離され、ほぼ現在に近い日本列島が成立しました。この1万年前から現在にいたる時代を完新世(かんしんせい)といいます。


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D 人類は「猿人→原人→旧人→新人」と進化?


 人類は、アフリカで最初に誕生したと考えられています。そして、猿人から原人・旧人・新人の順に、直線的に進化したと考えられていました。

 しかし、この考え方は現在では大幅に見直されています。それは、相次ぐ化石人骨の発見と、それにともなう研究の進展によるものです。過去には多様な人類が存在していたということが判明しました。しかしそれらのほとんどの系統は絶滅し、一つの系統だけが現代人に進化したらしいということがわかってきたのです。


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E 日本の化石人骨は新人ばかり −化石人骨の存在は人類がいた証明−


 骨は日本の酸性土壌の中では数十年〜数百年以内には溶けてしまいますから、古い時代の人骨が見つかることはなかなかありません。しかし、人骨がカルシウム・イオン濃度の高い石灰岩地帯にたまたま残された場合には、アルカリ性または弱酸性土壌の中で骨が溶けないで保存される場合があるのです。ですから、通常の場合、数万年前の人骨が、私たちの時代に発見されるというのは、本当に奇跡的なことなのです。

 日本列島では、静岡県浜北市(現、浜松市)の浜北人(はまきたじん。1961年発見。女性の頭骨・鎖骨など)や沖縄県島尻郡具志頭村(しまぶくろぐんぐしかみそん。現、八重瀬町)の港川人(みなとがわじん。1970年発見。男女4体分の完全骨格)などが発見されています。これらの化石人骨は、いずれも新人段階のものです。


【参考】・鈴木尚『日本人の骨』1963年、岩波書店(岩波新書) 
      ・馬場悠男「港川人1号人骨」1996年、東京大学総合研究資料館HP
      〔http://www.um.u-tokyo.ac.jp/digital/volume2html/tenji_honyurui2_35.html〕



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F 日本人の原型は古モンゴロイド


 これらの人骨の特徴を見てみましょう。顔は横幅が広く、身長も低くて、ずんぐりむっくりしています。この体形は中国南部(広西壮族(こうせいそうぞく)自治区柳江県)で発見された柳江人(りゅうこうじん)などと共通すると考えられ、これらの特徴は、のちの縄文人にも受け継がれています。日本人の原型はこうしたアジア大陸南部の古モンゴロイドにあり、その後の弥生時代以降に渡来した新モンゴロイド(アジアの寒地に適応するように変化。高身長・面長を特徴とする)との混血をくり返して、現在の日本人が形成されました。

 まだよくわかってはいませんが、日本語も、語法は朝鮮語・モンゴル語等と同じアジア大陸北方のアルタイ語系に属しますし、語彙などには南方系の要素が多く見られます。こうした混血のくり返しを反映しているのかも知れません。

 また現在の日本人でも北海道に住むアイヌの人びとや沖縄など南西諸島の人びとは、より強く古モンゴロイドの形質を受け継いでいると考えられています。


◆消えゆく更新世の化石人骨

 1931(昭和6)年、兵庫県明石市の西八木海岸で、化石人骨(腰骨)が発見されました。この人骨を原人とする説があり、「明石原人」と呼ぶ学者もいました。しかし、疑問を呈する意見も多く、いつしか忘れ去られました。そのうち人骨は1945年に空襲で失われてしまったのです。幸い石膏型がとられていましたので、この人骨が本当に原人であったのかどうかについて、ことあるごとに論争が再燃し続けました。しかし、最近の研究で新人(それも完新世のものとする意見が強い)であることが判明したということです。ちなみに、作家の松本清張氏は、人骨発見者の直良信夫(なおらのぶお)氏をモデルにした『石の骨』という小説を書いています。

 そのほかにも更新世の化石人骨とされながら、研究の進展にともない、教科書から消えてしまった化石人骨に次のようなものがあります。

  葛生人(くずうじん。栃木県佐野市)   →縄文時代以降の人骨
  牛川人(うしかわじん。愛知県豊橋市) →上腕骨は動物の骨
  三ヶ日人(みっかびじん。静岡県浜松市)→縄文時代の人骨
  聖嶽人(ひじりだきじん。大分県佐伯市)→中世以降の人骨


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「第5次野尻湖発掘の1973年3月28日にナウマンゾウのキバ(切歯せっし)とオオツノジカ(掌状角しょうじょうかく)がいっしょに見つかったんだ。これらはおよそ4.4万年前の地層からでてきたよ。キバが三日月、ツノが星に見えることから『月と星』とよばれていて、野尻湖で一番有名な化石なんだ。(中略)昔の人たちが大切な意味をこめたものなのかな? ぐうぜんにできた自然のものかな? あなたはどう思いますか?」

(野尻湖ナウマンゾウ博物館の説明シートより)


 

 野尻湖近くで見つけたマンホールのふた